古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

玉作八幡神社

           
              ・所在地 埼玉県熊谷市玉作343
              
・ご祭神 誉田別命
              ・社 格 旧村社
              ・例 祭 不明
 玉作八幡神社は大里比企広域農道・通称「みどりの道」と呼ばれているが、その農道を吹上・吉見町方向に進む。津田八幡神社の参拝後、一旦県道に合流し更に南下すると、和田吉野川の土手を下る右手方向に玉作八幡神社のこんもりとした社叢が見える。
 和田吉野川の土手を下る最初のT字路を右折すると、すぐ左手に「桜リバーサイドパーク」公園駐車場があり、そこに駐車する。玉作八幡神社はその駐車場の東側に隣接していて、特にフェンス等の遮蔽物もないので、駐車場南側から回り込むようにして参拝を行った。
        
              参道から離れた玉作八幡神社一の鳥居
 玉作八幡神社が鎮座する熊谷市玉作地区は、北は荒川水系の支流で東西方向に流れる和田吉野川が玉作水門に達する下流域の南岸周辺に位置し、東は荒川右岸に接している。南は埼玉県道307号福田鴻巣線の北側の田園地帯付近で、西はその県道と枝分かれし、北西方向の相上地域に進む道路の東側がその地区範囲となる。
 玉作地区の中央部を南北に貫通する「みどりの道」を境にして、西側が本田、東側が新田と呼ばれ、当社は、本田の集落の北端部に、荒川支流の和田吉野川の流れを背に鎮座し、その社殿は水害を避けるために水塚の上に築かれている。
        
              
「みどりの道」西側に鎮座する社
        
        水害対策の為か、朱色の鳥居基礎部分が頑丈に補強されている。
        
                                      境内の風景
 参道周辺は綺麗に手入れがされている。樹木に覆われているが、参道周辺は陽光もさすような幅設定となっている。但し参拝当日は小雨交じりの天候で、境内周辺の湿度はかなり高い。
 
    参道左側には石碑(写真左)や末社の石祠(同右)が並んでいる配置となっている。
        
                     拝 殿
 八幡神社 大里村玉作三四三(玉作字成瀬)
 船木遺跡の出土品に見られるように、古代、大里郡内では勾玉や管玉が製作されており、玉作という地名もこの地に玉造部が住んでいたことによるという。玉作の地内は、中央部を南北に貫通する大里比企広域農道を境にして、西側が本田、東側が新田と呼ばれ、当社は、本田の集落の北端部に、荒川支流の和田吉野川の流れを背に鎮座し、その社殿は水害を避けるために水塚の上に築かれている。
 『郡村誌』に「往古は玉造神社と唱へたりと云」とあるように、当社は、古くは玉造神社と呼ばれ、古代の玉造部が創祀し、奉斎した社ではないかと考えられている。この玉造神社が八幡神社になった時期や経緯については明らかではないが、地内にある玉泉寺は源頼朝の弟である範頼草創の慈眼院を再興したものであるとの伝承があることや、近くの津田には鎌倉の鶴岡八幡宮の放生会料所にかかわると思われる八幡神社があることから、源氏の台頭に伴い、源家の氏神である八幡神社が玉作に勧請された結果、旧来の玉造神社が衰徴したか、社名を改め、今日の八幡神社になったものであろうか。
 江戸時代、当社は不動寺の持ちであったが、神仏分離後はその管理を離れ、明治七年に村社になり、同四十二年には字成願にあった稲荷社と荒神社を境内に移した。なお、稲荷社は、中世当地の北西隅にあった永福寺という大きな寺の境内社であったといわれている。
                                  「埼玉の神社」より引用 

        
「玉作」とは古い地名でこの神社も嘗ては玉造神社と称したとの伝承があるそうで、古墳時代にこの地に勾玉などの製作に従事していた玉作部が住んでいたことに因むとの見解もある。
 玉作八幡神社~北西方向に直線距離にして1㎞程、荒川南部環境センターに近い場所に「下田町遺跡」が存在する。この遺跡は現在の和田川と荒川の合流点付近の自然堤防上に位置する遺跡である。弥生時代から中世にかかる内容が明らかになり、鉄剣の出土した弥生時代の土壙墓1基、方形周溝墓9基・竪穴住居跡163軒・堀立柱建物跡30棟などが 検出されている。
 遺跡の主体は古墳時代から平安時代であり、古墳時代では子持ち勾玉が出土している。

下田町遺跡 場所 熊谷市大字津田
 下田町遺跡は和田吉野川と荒川が合流する地点に位置し、両河川によって形成された氾濫原の自然堤防上に立地しています。 これまでの調査で発見された遺構は、竪穴住居跡163軒、掘立柱建物跡30棟、方形周溝墓9基、井戸跡328基、溝跡601条、道路状遺構2条、土壙586基があります。 弥生時代から中世までの複合遺跡で、主体を占めるのは古墳時代前期から後期、平安時代にわたる集落です。 これらの集落は、低地に面した小高い地形に立地していたため、連綿と人々が生活の場にしていたものと考えられます。
 今回の調査で特筆すべきは、奈良時代の井戸から木製の壺鐙(つぼあぶみ)が発見されたことです。鐙とは馬に乗るときに足をかける道具ですが、今回発見された壺鐙は、表面に黒漆(くろうるし)が塗られた優雅な形のもので、たいへん珍しく貴重な資料と言えましょう。
 壺鐙のほかに注目される遺物としては、刻骨(こっこつ/古墳時代前期)、子持勾玉(こもちまがたま/古墳時代末)、 瓦塔(がとう/奈良時代)、合子型香炉(ごうすがたこうろ/平安時代)、 「占部豊川」と線刻のある紡錘車(ぼうすいしゃ/平安時代)、黒漆塗の鞍(くら/平安時代)、 和鏡(わきょう/中世)などがあげられます。
             「公益財団法人
埼玉県埋蔵文化財調査事業団」 ホームページより引用
        
 

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津田八幡神社

        
              ・所在地 埼玉県熊谷市津田897
              ・ご祭神 誉田別命
              ・社 格 旧村社
              ・例 祭 不明
 大里比企広域農道は通称「みどりの道」と愛称で呼ばれているようだ。国道407号を荒川大橋で南へ渡り、「村岡」交差点で東へ入ると、この農道に入り、その道を「道の駅いちごの里 よしみ」がある吉見町方向に進む。丁度荒川が南東方向に向かう流れに沿ってこの道も形成されていると想像すると良い。「JAくまがや大里ライスセンター」を越えるころに進路は南方向に変わるが500m程下り、細いT字路を右折すると、正面に津田八幡神社の社叢が見える。
 残念ながら駐車スペースは全くないため、適当な路地に停めて急ぎ参拝を行う。
        
                 津田八幡神社鳥居正面
 社殿は南向きなのだが、参道入口は北東方向の道路に面してあり、参道正面の鳥居の舗装されていない脇道を越えて進み、一旦右に曲がり、さらに右に行くように、丁度コの字の形で林の中を進むと津田八幡神社社殿に至るという変わった進行方向となる。
 
 鳥居を越えて参道を進むと、社叢の木々のトンネルをくぐると、右手に社殿が見える(写真左)。突き当たりを右に曲がり、その後以前は赤い鳥居があった場所に到達し、尚右に曲がるコの字の形となる進行方向となり、参道正面(写真右)に至る。
 
     拝殿手前左側に大黒天の石碑          拝殿手前右側には「根精様」の標柱あり
                         大里村(現熊谷市)指定有形民俗文化財
        
                     拝 殿
 八幡神社 
 大里村津田八九七(津田字前町
津田の地名は、既に南北朝時代に「津田郷」として見え、その開発の古さを物語る。津田郷には、応永二十一年(一四一四)八月二十日の足利持氏寄進状により、鶴岡八幡宮の放生会料所があったことが知られ、そこに祀られたのが当社ではないかと想像される。
 『風土記稿』津田村の項には「諏訪社福王院持、八幡社村の鎮守なり、同寺持」とあり、当社が村の鎮守とされている。また、二社の別当であった福王院は、同地内の西明寺の門徒であった。明治初年に福王院の管理下を離れた当社は村社となり、更に明治四十五年字前町の無格社諏訪神社に遷座の上、同社と字西町にあった無格社八坂神社を合祀した。
 遷座前の社地は、字八幡町の水田の中にあった金塚と呼ばれる盛り土で、今は跡形もない。
合祀に際し、無格社であった諏訪神社の社地に移された理由は、八幡神社の社地が集落から離れ、参詣などに不便を来していたことが挙げられよう。
造営は、本殿が諏訪神社本殿として明治三十三年に行われ、覆屋が、来る合祀に備え、同四十二年に「諏訪八幡神社社殿新設」の名目で建立された。社殿下の盛り土はこの時に行われたものである。
                                  「埼玉の神社」より引用

        
               社殿の右奥にある境内社と根精様

 熊谷市津田地域は熊谷市の荒川中流域南岸、和田吉野川北岸の沖積低地に位置し、標高は平均20m25m程。弥生時代の頃には、荒川中流部の流路は扇状地河川特有の乱流をしていて、和田吉野川も荒川に合流する一派川であるため、洪水による浸水被害はかなりひどかったようだ。「津田」という地名も河川由来からくる地名だったのだろう。 
        
                      社殿からの遠景を撮影。長閑な田園地帯が広がる。

 但し洪水から醸成される肥沃な土地が幸いしてか、この地域周辺にはかなりの人々が定住していたことも分かっていて、南側に位置する相上地域には縄文時代の北廓遺跡や冑山遺跡があり、とうかん山古墳(全長74mの前方後円墳)、冑山古墳(埼玉県で2番目、全国で4番目に大きい円墳)もあることから、和田吉野川の流域には古代から人々が継続して居住していたことが伺え、また津田地域南側に隣接する「玉作」地域は文字通り大里郡内では勾玉や管玉が製作されており、玉作という地名もこの地に玉造部が住んでいたことによるという。
 大里郡津田郷は古代の幡田(はんだ)の里と言われ、後世は別称に伴田(はんだ、ばんた)と称していて、伴・蕃は姓氏録に渡来人を記している。九条家延喜式裏文書の大里郡条里坪付に「幡田里」と、また津田村旗本鈴木氏知行所に大里郡伴田村と見える。津田地域も含め、周辺地域が古代から栄えていた要因の一つにはその帰化した人々の存在も無視できないだろう。

「津田」地名の文献上での初見は意外にも古く、京都鹿王院貞治五年(1366年)文書に天龍寺領武蔵国津田郷、鎌倉円覚寺永和二年(1376年)文書に津田長福寺と見える。その後、鎌倉鶴岡八幡宮応永二十一年文書に武蔵国津田郷との記載があり、そこに祀られたのが当社ではないかと想像されている。
                 
                              
 余談だが、平安末期の源平合戦時、一の谷の戦いで戦死した河原高直、盛直兄弟には河原一党という集団を率いていたが、その中に「津田」姓の人物がいる。
武蔵志・埼玉郡北河原村条
 治承四年三月、河原一家歴々・河原源五常直・稲村八郎正直・中村四郎正広・和泉田藤太正信・間宮仲太盛久・毛利三郎友直。着座面々・布施田新平次・今藤正五郎・鈴木二平治・新井弥平太・高沢七郎太・川瀬四郎三郎・大井五郎治・川島三郎太郎・加藤仲治五郎・小沼八郎次・藤田弥平太・長井弥太郎。惣侍列位・名越十五郎・大河内三郎太・吉田仲五郎・布施田新平太・高野小平太・沢田十郎太・酒井源次三郎・鈴木二平太・川島又五郎・中条八郎次・同一十郎・加藤新八郎・川島五郎太・薬師寺四平太・平井三郎次・今藤九八郎・松本七平次・同六郎太・小和泉金平太・平野大三郎・田中小惣太・太田小五郎・森武平次・金沢藤次太・馬場門太三郎・橋本八五郎・岸軍次三郎・篠塚弥太三郎・竹井仲次太・園田太四郎・正田小軍治・三枝弥市太・津田定五郎・同藤八郎・小笠吉郎太・同文治三郎・新村吉五郎。是は河原太郎家の武家法令也

 さて河原一党・惣侍列位に登場する「津田定五郎・同藤八郎」なる人物は津田地域出身者であろうか。

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上中条三幸神社


         
              ・所在地 埼玉県熊谷市上中条1283

             ・ご祭神 別雷命 大雷命 水分神
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 不明
 上中条三幸神社は熊谷スポーツ文化公園の西側に面して北西方向に流れている埼玉県道83号熊谷舘林線を、行田市北川原地区方向に進む。「上中条」交差点では県道に沿って左方向へ進み、右斜め方向に進む手前のY字路を左折すると正面左側に上中条三幸神社が鎮座する場所に到着する。道路沿い側には社号標柱が見え、その奥に舗装されていない民家へと続く道路があるが、境内と道路に特に仕切りはない様子。
 社号標柱と鳥居の間には駐車スペースが十分に確保されていて、そこに停めてから参拝を行った。
               
                        
社号標石の左側奥には殉国英霊塔あり
              
 
                           
鳥居。参道左手側には川南自治会館
 
   鳥居の左手前側に富士嶽大神の石碑        
川南自治会館脇に石祠群あり
               
                     拝 殿
               
                            社殿の右側にある案内板
 三幸神社由緒(歴史)
 上中条の地内は、差鍋掘という用水を境に二分されており、その北側は川北、南側は川南と呼ばれている。当社は川南の鎮守として、また上中条の総鎮守として、明治六年に常光寺持ちの千形・桜神社及び宝性院持ちの雷電神社の三社を合併し、更にそれを村のほぼ中央にあった女体神社の境内に移して設立された社である。
 なお、当社の本殿は忍城内に祀られていた八幡社の社殿をこの年に譲り受けて移築したもので、
鬼瓦には葵の紋が入っていた。また内陣には、享保元年(一七四一)に神祇官領から受けた千形・桜・雷電三社の幣帛が安置されている。
 
平成二十六年吉日
                                      案内板より引用
     
           拝殿手前に聳え立つ銀杏の木(写真左・右)         

              
紙垂はないが御神木にも見える。
 
    拝殿右わきに掲げてある奉納碑      社殿右側にある末社と
上半身が欠けた石仏       
        

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上中条川北神社

 上中条川北神社が鎮座する「上中条」。「別府」「奈良」等にも同じ趣を感じ、どことなく上古的な印象で、遥かなる歴史を感じずにはいられない地名だ。地名由来には幾つか説があり、「上中条」の本来の名称である「中条」は、条里制によっておこったものとみられ、その遺構もある。条里制とは、大化の改新後しかれたもので、土地を区画するのに、縦の方向を里(り)、横の方向を条(じょう)とし、多くは北から南へ一条、二条・・・と数えた。この条が地名となり残っている説もあったり、武蔵七党横山党、中条氏の在所名で、源頼朝に仕えた法制家・中条家長の出身地とも言われたり、河原党中条氏、私市党中条氏、児玉党中条氏等にもその由来もあり、どれが定説であるか分かっていない。地形的に見てもこの地は荒川扇状地で、古代から人々が定住して開発された地域の一つであることは確かであろう。
 なお、初めは、“中条”であったが、いつの頃からか上中条・下中条の二つに分かれた。下中条は、現在行田市に属する。                                   
        
              ・所在地 埼玉県熊谷市上中条2500
              ・ご祭神 日本武尊、蔵王権現像
              ・社 格 旧指定村社
              ・例 祭 不明 
 上中条川北神社は埼玉県道303号弥藤吾行田線を妻沼・弥藤吾方面に進み、700m程北上し、T字路を右折する。その後「熊谷上中条簡易郵便局」のあるT字路を右折し、民家と水越別方寺会館の間に上中条川北神社の鳥居が見えてくる。
 水越別方寺会館には道路沿いに車両が数台分駐車できるスペースがあり、そこに停めてから参拝を行う。
              
                    社号標柱
        
                  上中条川北神社正面
        
             60m程の参道が続き、その先の社叢林中に社殿は鎮座する。
 
  参道途中右側に鎮座する境内社。稲荷社か    稲荷社の左手並びには石祠が3基。
        
                                       拝 殿
 川北神社 熊谷市上中条二五〇
 当社は、荒川扇状地にあり、古代から開発された所で、地名の中条は古代の条里制に由来する。『風土記稿』に「蔵王権現社 社領十石五斗、前と同年に(慶安二年・一六四九)付せらる、別当実相院 是も常光院の(天台宗)門徒なり、大塚山昌福寺と号す」とある。
この蔵王権現社が当社であり、社蔵文書の明治三年十二月「吉野神社明細書」に「字川北鎮守吉野神社、社号ハ元蔵王権現ト称来リ候処明治二已年十一月吉野神社ト改正仕候。従来天台宗実相院ニテ別当仕来候処、先般神社御見分ノ節、御出役様へ御伺済ノ上同村秋葉神社神主島田清美方へ奉幣ヲ頼ミ申候」とあり、社号改称と奉仕者変更を知ることができる。なお、島田家は、字荒宿の鎮守秋葉神社の別当を務めてきた当山派修験大学院が復飾したものである。
 神仏分離に伴い、祭神は日本武尊とされたが、内陣には現在も像高七二センチメートルの蔵王権現像が安置され、氏子に権現様と呼ばれて崇敬されている。この像を納める厨子には「宝永第四丁亥暦(一七〇七)九月吉日」の墨書銘がある。
 今日の社号川北神社は、明治四十三年五月二十日の改称であり、『明細帳』に「字荒宿無各社秋葉神社、字吉野無各社八王子社ヲ合祀シ、社号ヲ川北神社ト改称ス」とある。
                                  
「埼玉の神社」より引用
        
                     本 殿
 
        参道右側にある竣功碑        竣功碑の隣には由来碑と思われる石碑あり
                           読み取ることが難しく断念

 上中条川北神社は嘗て「蔵王権現社」と共に「吉野神社」と号していた。中条地域周辺には「吉野」苗字が多い。苗字由来を調べると、成田氏族吉野氏に当たるらしい。
 成田氏族吉野氏は埼玉郡上中条村字吉野より起り、成田系図に「成田太郎助広―五郎助忠(寿永二年義経に従ふ)、弟六郎(彦、吉野三郎)」と見える。字吉野も吉野氏の館が嘗てあった名残として、字名に残っているという。

        

 上中条川北神社から南東方向に直線距離にして700m程に鎮座する三幸神社も上中条地域の鎮守社である。由来書によると、上中条の地内は、差鍋堀という用水を境に二分されており、その北側は、川北、南側は、川南と呼ばれていて、川北神社は文字通り川北地区に鎮守社、三幸神社は川南の鎮守社である。因みに上中条の総鎮守は川南の三幸神社である。
 三幸神社は川南の鎮守として、明治六年に常光寺持ちの千形・桜神社及び宝性寺持ちの雷電神社の三社を合併し、更にそれを村のほぼ中央にあった女体神社の境内に設立された社である。

 差鍋堀という用水という境が存在するとはいえ、上中条という狭い区域に、川北神社・三幸神社がしっかりと鎮座している。この区域が古代から如何に生産力が高く、定住していた住民も多かった所だったという事なんだろう。


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柿沼雀神社

○神徳無窮(原文)
 神代之時 天照大神隠天磐窟也天地晦冥災妖並起於是八百萬神集議天鈿女之命乃為異装舞神楽演俳優為諧謔以解頣慰大神心故再君臨于高天原四海復照明矣謹按雀神社者即祭命社而自上古鎮座此地 村民仰其霊験享保三年十月十九日神祇管領卜部兼敬以宗源宣旨奉授正一位雀宮大明神位記爾授崇敬益深矣明治戊申歳秋九月氏子相議合祀境内八坂大神天滿天神二社擴社地更増築舊社改設拝殿竝祭器庫期年而竣成矣於是乎官指定神饌幣帛料供進神社頃日氏子建石欲傅比事于後微文於余依叙其梗概云爾
神の恵みを永遠に(訳文)
 神代のとき、天照大神が天の岩戸にお隠れになり、天地が暗闇になる災いが起きた。八百万の神が集まり協議し、このためにやむを得ず天鈿女之命が変わった装いで神楽を舞い、神々が大声で笑いおどけるなど演技し、大神の心が慰み、再び君主となり 高天原や四海を照らし元のように明るくなった。雀神社の者は慎んでお願いし、祭命社として直ちに此の地に鎮座し、村民はその霊験を仰いだ。享保三年十月十九日神祇管領卜部兼敬の宗源宣旨に正一位雀宮大明神の位を奉授と記されている。その後、崇拝する心は益々深くなった。明治四十二年九月氏子が相談し、八坂神社、天満天神の二社を境内に合祀し社地を広げ、更に旧社を増築、拝殿並びに祭器庫を丸一年かけて改設した。そして、官より神饌幣帛料供進神社に指定され、その頃氏子より碑を建てて此のことを記録し後世に残すように依頼され、私はあらましを短い文にした。
        
              ・所在地 埼玉県熊谷市柿沼289
              ・ご祭神 天鈿女命
              ・社 格 旧村社
              ・例 祭 元旦祭 春・秋の日待祭 夏のお祭り(八坂神社祭り)
                   *各祭日時不明    
 柿沼雀神社は国道17号バイパスを熊谷・鴻巣方面に向かい、埼玉県道341号太田熊谷線に交差する地点で左折する。国道17号バイパスから埼玉県道341号線に乗り換える際には、17号バイパスは高架橋となっていて、その手前付近で下に降りるようにしなければいけないので、そこのところは注意が必要だ。
 埼玉県道
341号線を北上して700m程進むと、右側にコンビニエンスがあり、その先のT字路を右折するとすぐ左側に柿沼雀神社の鳥居が見えてくる。社殿、参道とも南向きで南側の道に面している。多くの神社は主要な街道筋から参道がつながる形だが、この社は街道(ここでいうと埼玉県道341号線)に直接面していないのは珍しい。
        
                                     
柿沼雀神社正面
 村社以上の社格の社には通常、隣接して社務所や集会所があるが、この社にはそれがない。県道に面して食堂はあり、広い駐車場はあるが、私的な駐車場の為停めることは流石に気が引ける為、今回は路上駐車となり、急ぎ参拝を行った。
 
  鳥居の扁額には「正一位雀宮大明神」と刻印   50m程長い参道の先に拝殿が鎮座する。

 熊谷市柿沼地区に鎮座する「雀」神社。天鈿女命の「ウズメ」が「スズメ」に転じたものであると説かれているが、どちらにせよ「雀」は「スズメ」のことで、子供の頃に鳥と言われれば、ハト、カラスと並んで、やはりスズメを思い浮かべる。スズメを思い浮かべるのは、私たち人間の生活に密着した可愛い鳥だからだ。
 スズメとは、全長14-15cmスズメ目ハタオリドリ科の小鳥で、頭部は赤茶色。背は赤褐色で黒斑がある。スズメの「スズ」は、その鳴き声か、小さいものを表す「ササ(細小)」の意味で、「メ」は「群れ」の意味か、ツバメ・カモメなど「鳥」を表す接尾語であるという。
 春先は苗の害虫を食べる益鳥として扱われ、秋には稲の籾米(もみごめ)を食害する害鳥となり、古来からスズメを追い払うため、「スズメ追い」「鳥追い」などという風習が各地にあり、それに関する民謡、民話なども伝えられている。かかしもスズメ追いの道具として作られたものである。害鳥としてスズメを追い払う行為が行われる一方、スズメの恩返しなどの報恩譚では親しみを持って描かれてきた。雀はチュンチュンとよく囀るため、噂話を好む人を雀に例えることがある。
 日本人のアイデンティティがスズメによって形づくられている,なんてことは言わないが,あの茶の色,あまり主張しない姿,それらは,なんとなく日本人好みのところがあるのではないかと考えさせられる。

 すいません。「雀=スズメ」のことで、つい脱線してしまいました。
        
                                        拝 殿
○郷土こぼれ話 雀神社 (柿沼)
 雀神社は柿沼地区の神様(うぶすな神)です。神社の歴史は古く、宝暦2(1752)に記された縁起があります。これは、祭神である天鈿女命が登場する神話です。また、ウズメが転じてスズメになったと説かれています。享保3(1718)「雀之宮大明神」が正一位に叙せられた記録があり、この時の宗源宣 宗源祝詞・幣帛が今も本殿に納められているそうです。これらのことは、神社西側にある「神徳無窮」(神の恵みを永遠にの意)の碑にも残されています。
 祭神は、天鈿女命・素戔嗚尊・菅原道真です。明治42年、雀宮大明神・八坂大神・天満大神が合祀され、同年拝殿の改修が行われました。合祀に関わる改修だと考えられます。

また、ウズメには、オスメドリ(護田鳥)の意味があります。雀神社は農作物の豊作を祈る神様だといえます。天神様と言われる菅原道真の天神(雷神)も、稲作の神様、学問の神様として御利益が伝えられています。
 (中略)柿沼には、天神山という地区があります。しかし、小字ではないそうです。合祀された「天神社」があった場所が天神山となったのではないでしょうか。また、古くは「現在の熊谷市」に「雀宮神社」が3社あったと言われています。現在残っているのが雀神社(雀宮神社)であり、社は現存しないがその土地の名前として残ったのが、肥塚の雀宮だそうです。
幡羅郡柿沼村総鎮守として、古くからこの地に鎮座まします雀神社は、柿沼の地を鎮め人々の生活を、そして人々を護ってきてくださいました。私たちは、これからも雀様を大切にお祀りしていくことが肝心だと思います。
                 熊谷市ホームページ『郷土こぼれ話』 雀神社 
(柿沼)より引用
 
          本 殿               境内社3社。詳細不明。
        
                                   社殿からの風景
        
       鳥居の近郊にある大幡村道路元標(おおはたむらどうろげんぴょう)

 柿沼地内の雀神社境内に設置されている。花崗岩製で、コンクリート製の台座の上に設置されている。道路の起終点を示す標識で、明治44年に、現在の日本橋が架けられたとき、「東京市道道路元標」が設置され、大正6年の旧道路法で各市町村に一個ずつ道路元標を設置することとされた。

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