古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

川原明戸諏訪神社

 川原明戸の「明戸」は旧来、「悪戸」と記された。「アクト」は「アクタ」から出た言葉で、上流から流出した土砂(芥:アクタ)が堆積した場所、川沿いの平地の意味。この土地が荒川の水害が度々起こり、湿地が広がり、耕地に適さず、江戸時代中期には、「悪戸」と記された
 地名辞典等によると、「悪戸」は、「アク」が、アクト・アクツ・アクタ・アクバ等に同類の意味があり、低湿地・耕作に適さない土地ということから、悪い土地の意味を持つようだ。この場合の悪い土地とは、作物の稔りが良くないということであろうが、この様な所は、動植物の憩うオアシスとなり、山林は保水涵養林となる。「アク」はこのように水をも指し、そして「アク」の語自体が、「アクア」(ラテン語、またヴェネツィア語、エミリア・ロマーニャ語、ロンバルド語)から来ており、「アカ」(閼伽)も宗教こそ違え、同じ意味を持っているという。古い時代に、西側の世界から日本へ入った言葉のひとつと考えられている。
 「悪」という言語は、総じてあまり良い意味には使われていないが、決して否定的な意味しかないわけではない。「悪」は「突出した」という意味合を持ち、剽悍さや力強さを表す言葉としても使用された。例えば、源義朝の長男・義平はその勇猛さから「悪源太」と、左大臣藤原頼長はその妥協を知らない性格から「悪左府」、鎌倉時代末期における悪党もその典型例であり、力の強い勢力という意味でもある。
 地名に使用された「悪」と水を意味する「アク」の言語が同様のいい方をするとはおもしろい取り合わせであろう
 神仏や自然に対する素朴な畏れや崇拝を我々の先祖は後世に残すため地名に記したモニュメントように思えてならない。
        
             ・所在地 埼玉県熊谷市川原明戸177
             ・ご祭神 建御名方命(推定)
             ・社 格 旧村社
             ・例祭等 不明
             *社格は「大里郡神社誌」を参照。
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1466143,139.3046361,16z?entry=ttu

 川原明戸諏訪神社は、国道140号秩父往還道を深谷市花園、寄居町方向に進み、「熊谷特別支援学校」の看板がある信号を左折する。秩父鉄道が並列するように通っているため、左折する際には一時停止は忘れずにお願いしたい。そのまま道なりに進むと変則的な十字路があるので、そのまま荒川河川敷方向に進む。左側に奈良用水が流れており、そのまま進むと右側方向に浄土宗明道寺が見え、その並びに川原明戸諏訪神社が鎮座している。
 明道寺の専用駐車場を利用して、参拝を行う。
        
                       川原明戸諏訪神社 道路を隔てた場所から撮影
      江戸時代での神仏習合の名残りがこの場所にはあるのではないかと感じた。
        
                     明道寺との境界に立っている社号標柱
 境内周辺は綺麗に手入れがされていて、雨の中での訪問となったが、気持ちよく参拝が行えた。
               
                     参 道
 
 鳥居(写真左)を越えてすぐ左側に手水舎がある(写真右)。この手水舎はこの規模の社では考えられない位の精巧な彫刻が施されている。
 
 川原明戸地区には、江戸時代宮大工家として「飯田家」が住居を構えていた。飯田仙之助・岩次郎をはじめとする川原明戸で技の鍛錬を極めた飯田家は、江戸時代中期の上州・花輪村の名彫刻師である石原吟八郎の流れを汲む宮大工家であり、諏訪神社本殿を含む各所に精巧な彫刻技術の遺産を目にすることができる。
*「熊谷市立江南文化財センター・大麻生のルーツを学ぶ」を参照
        
                                拝 殿
 明治時代中期に川原明戸地区の八幡社や頭殿神社などを合祀したもので、養蚕の盛んな地であった大麻生地区での信仰文化と関わりがある。諏訪神の使いである白蛇が蚕に危害を加える鼠を除けるという信仰と、機織に関わる「女諏訪様」の信仰である。諏訪様には男女があり、荒川を挟んだ旧江南町上新田の諏訪神社は男で猟をつかさどり、当社が女で機織を守るという対比が伝承されている。
*「熊谷市立江南文化財センター・大麻生のルーツを学ぶ」を参照
 
 
 川原明戸地区に在籍していた飯田家関連の人物は多数存在している。宮大工等の彫刻師に直接関与している人物のみならず、大工関連、また奉納関連の人物が、この狭い区域にこれだけの人物が幕末から明治時代前半という限られた時期に輩出していることに正直驚きを禁じ得ない。
押切村八幡社 安永七年棟札 棟梁飯田甚八清正
上州榛名神社 寛政十一年奉納 武州大里郡河原明戸村 飯田恒八
赤浜村八幡宮 文化十四年棟札 大工川原明戸村飯田和市
松山町箭弓稲荷社 天保六年棟札 棟梁大里郡河原明戸村飯田和泉藤原金軌・後見飯田和泉淀  
章・彫工飯田仙之助(此年六十七歳没)
瀬山村八幡社 天保十三年奉額 河原明戸村・飯田真次郎・飯田竹松・飯田勇吉・飯田忠吉・飯田岩次郎・飯田作兵衛
瀬山村諏訪社 安政六年水鉢 飯田作兵衛・飯田喜兵衛・飯田馬太郎・飯田善右衛門・飯田忠吉・飯田次兵衛・飯田平五郎・飯田与兵衛広鏡・飯田鷲太郎宗直・棟梁飯田和泉・彫物師飯田岩次郎
白川家門人帳 慶応元年 河原明戸村大工源太郎事・飯田和泉
長瀞宝登山神社 明治七年棟札 川原明戸村彫工飯田岩治郎
        
                             社殿左側に鎮座する天手長男神社
        
 社殿右側に鎮座する境内社。
額は二つ掛けられており、一つには「稲荷神社・八幡社・宇賀神社・天神社・御嶽神社」、もう一つには「頭殿神社」と書かれている。
      
     稲荷神社・八幡社・宇賀神社・天神社     頭殿神社と書かれている額
           御嶽神社の額

 ところで『新編武蔵風土記稿』によると、河原明戸村・小字「殿ノ内」の地名由来として、武蔵七党のひとつである私市党の一族である河原太郎が昔住んでいた所で、この河原太郎という人物は太郎高直といい、埼玉郡河原村の出身という。
【新編武蔵風土記稿】河原明戸村条
「小名殿ノ内あり、此所は往昔河原太郎が住せし所と云。河原は武蔵七党私市党の人にて、太郎高直と呼べり、此人のことは埼玉郡南河原村に出したれば彼村について見ゆべし」

【河原高直】(11541184)は、平安時代後期の武士で、通称は太郎
・系譜
 彥坐主王-(中略)-私市黑山-(中略)-則家-河原成方-成直-高直/盛直と續く私市黨庶流。
 久寿元年生まれで、源頼朝の家臣で武蔵七党のひとつ私市(きさい)党に属した。寿永3年一ノ谷の戦いに弟の河原盛直とともに源範頼に従う。兄弟で平氏の陣にせまったが, 平家方きっての強弓の使い手である備中国住人直名辺五郎の矢に射られ,同年27日兄弟共に討ち死にした。享年31歳。
        
                   社殿からの風景 
 河原氏は武蔵七党私市党の出身とされ、私市則房の子成方は北埼玉郡や大里郡を転々としたのち、北埼玉郡河原村に住むことになり河原権守を称したのが河原氏の始まりとされる。
 また南河原地区に鎮座する河原神社は嘗て勝呂大明神といった。
【増補忍名所図会】
勝呂大明神は南河原村民家の東にあり、川原太郎高直の造立と云。高直摂州より出し人にて往古明神を信仰す、此地に来りて、後川越領勝呂村の住吉を爰に移す、依て勝呂明神といふと云へり
 源平盛衰記には「武蔵国住人篠党河原太郎高直・同二郎盛直、生田庄を給ふ」と記載があり、これから推察すると、河原太郎高直・同二郎盛直兄弟の本当の故郷は、一の谷決戦場所であった摂津国の生田地区であったと思われる。
        
                               鳥居から東側の風景を眺める。

 筆者が想像するに、河原氏の先祖は摂津国・生田庄付近の出であったのだろう。神職もしくは社務に従事する社人だったかもしれない。その後東国に移住をすることになり、武蔵国勝呂郷(坂戸市)塚越村住吉神社に移ることになるが、そもそも摂津国の一之宮は旧官幣大社である住吉大社である。住吉神社は航海守護神としての信仰があり、移住する際も船を利用したとも想像できる。そして河原兄弟の祖父あたりの代(河原成方)に埼玉郡河原村へ到着し、そこの有力一族である私市党に属し、それまでの苗字から「河原氏」を名乗ったと考えられる。
 不思議なことに河原氏は
私市党に属しながら、「源姓」を称していた。本来の苗字は源姓なのだ。河原兄弟がなくなった後代にその一族が書き記した「河原氏由来記」には「居士は姓河原、其先源氏、今は今村を以て姓と為す。世々南河原村之長也、天正元年二月吉日・今村源左衛門居士」とあり、本来の苗字は今村であったと書いている。現在でも南河原地区には今村姓は数十戸存在しているが、河原姓はいない。

 河原太郎高直と川原明戸の接点はどこにあったのだろうか。古代氏族系譜集成に「成木権大夫直幹―熊谷兵衛太郎直季(又成木大夫、住大里郡熊谷村)―河原二郎三郎直光(一説私市大夫直常子)―河原小二郎直広(住大里郡河原村)―河原太郎大夫忠広―河原太郎高直(又有直、寿永摂州生田合戦討死)―小太郎重直(弟成木小次郎重宗、其弟河原守直)―又太郎直重―兵衛尉景直(弘安乱・城入道退治時討死。弟宮内丞長基)、高直の弟河原次郎盛直(一に忠家、摂州生田合戦討死)―忠政(一に忠教)」と見える。
 ここでは河原太郎高直の2代前の河原小二郎直広は大里郡河原村に住んでいると記されている。古文書では人物名等若干の相違は出てくるので、ある程度は仕方のないことだが、高直の2代前に大里郡河原村に住んでいる事は共通しているので、そこは重要である。
 勝手な解釈としてあらかじめお断りするが、河原太郎高直の領地は南河原村であっただろうが、その飛び地として川原明戸も含まれていたのではなかろうか。想像を逞しくして、2代前の当主が川原明戸に辿りついた時期、高直兄弟も幼少時期として同行していて、暫く滞在していたかもしれない。

 

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小八林春日神社

 熊谷市小八林地区は荒川右岸の氾濫原(沖積低地)に位置するが、南西は比企丘陵の一部となる。熊谷市の最東端であり、且つ最南端に位置する地域であり、北は鴻巣市、東は吉見町、南は東松山市と接している地区で、荒川面右岸から南西部方向にV字に形成されている。
 この地区は行政区分が幾分複雑であり、大芦橋を南下し、荒川を越えたところから埼玉県道
66号行田東松山線に沿って「中曽根」交差点を過ぎて次の信号のある交差点までが「吉見町・中曽根地区」の飛び地となっていて、尚且つその信号の東側付近が熊谷市の「箕輪地区」の飛び地になっている。小八ッ林地区はその分断された東地区と主要な西地区が北部荒川右岸でかろうじて接しているような少し歪な形となっている。 
        
             ・所在地 埼玉県熊谷市小八林55
             ・ご祭神 天児屋根命
             ・社 格 旧村社
             ・例祭等 
    地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0800121,139.4276778,16z?entry=ttu
 小八林春日神社は埼玉県道66号行田東松山線を吹上方向から東松山方向に進む。吹上町方向から大芦橋を南下し、「中曽根」交差点をそのまま道なりに進み、次の信号のある交差点を左折する。300m程進むとT字路にぶつかる為、そこを右折する。周辺は進行方向正面が丘陵地帯特有の上り坂になり、最初の横断歩道が路面に表示されている字路を右折すると、道路沿いに左手に小八林春日神社の鳥居が見える。
 社周辺には適当な駐車スペースはないようなので、県道少し東側に入った場所に「熊谷市春日文化センター」という施設があるので、そこに車を停めて徒歩にて小八林春日神社に向かい、参拝を開始した。
 
 鳥居の左側には多数の石碑や石製の灯篭等があり(写真左)、当時の氏子の方々の信仰の深さを伺う事ができる。また道沿いにある鳥居も丘陵地の端部であるため、ゆるやかな上り坂の参道と段階的に階段が設置されている(写真右)。
大鳥居改築記念碑文
 古くより、小八林村は谷林とも称し、中央台地を本村、西南台地を大明神又は原、東北を川岸と呼び、永禄の頃北条氏の所領であったが後、徳川幕府の天領となり、下って古河藩の領地として明治維新を迎える。なお、付近の丘陵地帯には。弥生時代の住居跡、円山遺跡等があり、又、平安時代には、低地においては牧場があったり民の営みがなされた地である。この由緒ある台地北谷に、村民の守護神として天児屋命を祭神とする春日大社を建立し、信仰してきた。
 この神域は面積約六百坪、周囲は広大な山林に守られ、江戸時代には日光街道に面し、八王子千人同心の往来せし重要な地であった。しかし、この付近の道は大明神坂と呼ばれ、急坂な難所であった。これを大正十一年、時の村長長島甚助氏が、巨額の私財を投じ、新しい安全な道路を完成した。
また神社の「一の鳥居」は、延享の一戊辰年の仲夏に建造された高さ一丈四尺六寸の華麗な欅造りの大鳥居であり、その後再三の天災に遭い、文政五年および安政三年と再度の修理を加え現在に至る。たまたま本年四月の突風にて倒れた大木により倒壊せり。
 これを憂いて氏子一同あい計り大鳥居の建設となり七月旧来の地に再建せしものなり。
ここに碑を建て来歴を後世に伝えるものである。(以下略)
                                 大鳥居改築記念碑より引用 
 
 
 長めの参道(写真左・右)。参道の途中には二の鳥居がある。参道の周囲の雰囲気はとてもよい。
 熊谷市小八林地区は荒川の右岸に隣接し、村の北側では和田吉野川が荒川へ合流する最終地点手前の地区でもある。同時に小八林地区の南西部は比企丘陵の端部であり、地形は崖状の台地となっていて、社の鳥居から東に伸びる参道は丘陵地帯だけありの坂道と階段で形成されている。調べてみるとこの地区の大部分に当たる平たん部の平均標高は18m20mにも満たない場所が多いが、春日神社付近では最も標高の高い台地の上に鎮座している。
        
              最後の階段を登り切るとようやく拝殿が鎮座する場に到着する。
        
                                         拝 殿
 
       拝殿に掲げてある扁額         向拝にはさりげないが精巧で見事な彫刻
          
                              神社再建記念碑等の石碑
 ○春日神社再建記念碑
 春日神社は天児屋根命を主祭神として延享五年(一七四八年)以前より小八林の中で最も標高の高い小八林五五番地北谷に鎮座し、氏子が長きにわたって当社に寄せられてきた信仰の厚さが感じられる社でしたが、平成十二年七月四日天災(落雷)により焼失、その後時を置かずして氏子の総意により平成十三年十月十四日再建されたものである(以下略)
                                    記念碑文章より引用

         
                                      境内社
 合祀されている社は、左から白山神社・稲地神社・金刀比羅神社・三島神社・天神社・八坂神社。その周囲にある石祠3基は不明。『風土記稿』小八ツ林村の項には、当社について「春日社村の鎮守とす 末社 天神」とあるほか、村民持ちの白山社・八幡社・第六天社及び稲荷社、大福寺持ちの雷電社、十林寺持ちの頭殿社・稲荷社についての記載があり、そのどちらかもしれない。
 因みに一の鳥居付近にも石祠が数基あり、その中には「八幡宮」と彫られた祠もあった。
         
                                  一の鳥居を社殿側から撮影
 境内には「神社再建記念碑」のほか「春日神社御神体お迎え記念碑」という比較的新しくつくられた記念碑もある。それによると、平成12年7月4日夕刻天災(落雷)による火災で社殿・ご神体全てを焼失してしまったようだ。その後氏子の方々の総意を受けて社殿を再建し、翌年7月8日に氏子の方々23名の費用自弁による協力で、奈良の春日大社から御神体の分霊を受けた。また当日夕刻には帰省し、社殿内宮に鎮座の儀式も執り行ったという。
 今を生きる我々にもそのような伝統や過去から受け継いだ文化を継承し、それを後代の人々に何かしらの形にして残す義務があるのではなかろうか。
 ふとそのような事を感じた参拝であった。
 

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美里町に鎮座する阿那志河輪神社・関浅間神社・猪俣二柱神社・関兒玉神社・下児玉金鑚神社を再編集いたしました。

美里町に鎮座する阿那志河輪神社関浅間神社猪俣二柱神社関兒玉神社下児玉金鑚神社を再編集いたしました。
 内容はほぼ変わっていませんが、新たな案内板等が設置されている場合は改めて掲示しています。また写真の画像は再編集いたしまして、アップいたしました。
 猪俣二柱神社に関しましては、名称も「猪俣」地名を入れました。また画像等の編集は猪俣二柱神社のみで、「猪俣の108燈」は以前の画像・内容で表示しています。



今後ともよろしくお願いします。

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美里町に鎮座する甕甕神社・沼上北向神社・北十条北向神社・古郡北向神社を再編集いたしました。

美里町に鎮座する甕甕神社沼上北向神社北十条北向神社古郡北向神社を再編集いたしました。

  内容はほぼ変わっていませんが、新たな案内板等掲示しています。また写真の画像を編集いたしまして、改めてアップいたしました。甕甕神社に関しましては、当初から社号の表示が難しいところもあり、今後「広木みか神社」と改名しましました。

 今後ともよろしくお願いします。

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国済寺日吉大神荒神社

 庁鼻和は「こばなわ」と読む。庁鼻和は幡羅郡国済寺村の古名であり、国済寺明徳四年縁起に幡羅郡庁鼻祖郷と見える。また武蔵七党、私市党庁鼻和氏が嘗て存在し、幡羅郡庁鼻和郷がその根拠地であったらしい。吾妻鑑卷九に「文治五年七月十九日、頼朝奥州進発随兵に高鼻和太郎」。卷四十に「建長二年三月一日、庁鼻和左衛門が跡」と記述がある。
 時代は下った南北朝時代、初代鎌倉公方となった足利基氏の執事を務めた上杉憲顕の六男蔵人大夫憲英によって庁鼻和城、又は庁鼻和館は築かれた。詳しい築城年代は不明だが、国済寺の創建が康応二年(
1389)とされるため、それ以前と推測される。
 庁鼻和上杉氏は憲英・憲光・憲信と
3代続いたが康正2年(1456)に上杉房憲が深谷城をことにより、深谷上杉を名乗るようになる。こうして庁鼻和城は深谷城の支城となったが、戦国時代まで存続したのかは不明である。遅くとも、天正18年(1590)の小田原の役を以って廃城となったものと推測される。
        
              ・所在地 埼玉県深谷市国済寺520 
              ・ご祭神 大山咋命、火産霊神
              ・社 格 旧国済寺村鎮守 旧村社
              ・例祭等 春祭 415日 秋祭 1015
  地図 https://www.google.com/maps/@36.1920056,139.3015819,18.25z?hl=ja&entry=ttu

 国済寺日吉大神荒神社は国道17号を深谷市方面に進む。「国済寺」交差点右側、国道沿いに鎮座していて、視界でも確認でき、また筆者としては比較的説明がしやすい。駐車スペースに関しても「国済寺駐車場」が道路を挟んで東側にあるため、そこに駐車してから参拝を開始した。
 
 国済寺駐車場の手前には、道祖神(写真左)・自性院六地蔵(写真右)が並んで祀られている。案内板によると自性院六地蔵は元々国済寺内の塔頭(寺内の小院)自性院に祀られていたが、昭和30年代に国道17号敷設に伴い廃寺となり、お地蔵様のみはこの場所に移動して頂き、お守り頂いているとの事。また道祖神は安全・安心の神様で、周辺に住まわれている方々に災い等悪いものが入ってこないように見張ってくださる神様という。
 道祖神の石祠の土台はかなり古そうだ。また六地蔵の横には昭和三年との門柱があり、嘗て存在していた自性院の門柱の可能性もある。
 周囲に花や植込みが整備されて小さな公園の様な佇まいがあり、周辺の方々の昔の物を大切に後代の人々に残そうとする日本人としての道徳心の賜物と感じた。
        
                        鳥居の手前で、道沿いにある社殿改築記念碑

 社殿改築記念碑 大里郡長従六位勲六等  秋葉保雄  篆額
 日吉大神荒神社は、大里郡幡羅村大字国済寺の鎮守なり。大山咋命を主神とし、相殿に火産霊命を祀る。口碑に此地元廰鼻祖郷と称いし頃、深谷城主上杉陸奥守憲英国済寺を創建するに、当里其境域に近江国日吉の社より分祀せしを、後年同所荒神社を合せ祀りきと傳う。明治七年五月村社に列す。旧殿いと狭く便よからぬふしもあれば、今年畏くも皇太子殿下御成婚記念の事業として氏子崇敬者胥謀り、同心協力多くの資金と労力とを寄進して社殿改築の工を竣へぬ。あわれ神は人の敬によりて威を増し 人は上の徳により事運を添うるといへり 人々が心を尽くし 力を極たるこの新宮殿は常盤堅盤に動きなく 此里の中心と仰ぎ待ちて 廣き厚き御恩頼に浴し奉るべく祈り このわざに勤しみ仕奉り あななひまつれる人々が芳き功蹟も 弥遠長に朽ちせざるべし(以下略)
                                      案内板より引用

        
          石製の社号標柱から見た国済寺日吉大神荒神社鳥居
       社号標柱には「日吉大神社 荒神社」と並列して彫り込まれている  
           参 道            参道途中左側にあった猿田彦神社の石祠
        
                                         拝 殿
 国済寺日吉大神荒神社が鎮座する地域は「庁鼻和」(こばなわ」と呼ばれていた。前出した案内板にはこの「庁鼻和」について以下の記載があるので引用する。
「廰鼻祖郷」 
 当地の鎌倉・室町時代までの古地名。廰鼻和・廰鼻・固庁鼻等とも書き、「こばなわ」と読む。 地形から荒川扇状地端に位置し、低地から見ると鼻のように小高いところ、あるいは小塙(小高い丘)の意味。
 鎌倉時代、鎌倉御家人廰鼻和太郎の居館があり、その跡に室町前期上杉憲英公が廰鼻和城を築いた。 因みに深谷の地名は上杉氏五代目の憲房公が深谷城を築いてからのことである。

 また庁鼻和は、案内板によれば、廰鼻和・廰鼻・固庁鼻等とも書き、「こばなわ」と読むようだが、風土記稿によると、「ちょうのはな」とも呼んでいたようで、その由来は当時の人々も分からなかったようだ。風土記稿には「堯恵北国紀行」という書物を引用して、参考資料としているので、追加して記載する。
・武蔵国風土記稿幡羅郡国済寺村
「ちゃうのはなと云しは此地のことにて、今国済寺境内庁鼻祖郷の名残れり。この辺元は概して庁鼻祖の唱なりしならん。されど祖の字を添しは其故を詳にせず」
・「堯恵北国紀行」

十二月のなかばに、むさしの国へうつりぬ、曙をこめて、ちゃうのはなといふ所をおき出云々」
 
        境内社八坂神社             境内社稲荷・蚕影神社
       
                    社殿の右側にある御神木

 上杉蔵人大夫憲英は山内上杉憲顕の六男として、新田氏に対抗するべく幡羅郡庁鼻祖郷に赴任し、館を築いたことが始まりとされる。
 その当時上杉氏は憲顕の6兄弟を核として、関東を中心に、鎌倉公方を越える権力を有していた。しかし調べてみるとこの兄弟でもその権力に顕著な差がある事も分かってきた。各人物の経歴、官職等をみると判明する。
上杉憲将( 1366
 憲顕の嫡子。官位・兵庫頭 武蔵守護あるいは代官として父の守護任国である武蔵守護代に在職。父に先立ち正平
21/貞治5年(1366年)に死去。
上杉能憲(13331378
 上杉重能の養子。官位・修理亮・兵部少輔 関東管領(
13681379 上野・武蔵・伊豆守護。以後関東管領の職を上杉氏世襲。
上杉憲春( 1379
 官位・左近将監 刑部大輔 関東管領(
13771379 上野・武蔵守護。
上杉憲方(13351394
 官位・
 左京亮、安房守 関東管領(13791392)上野・武蔵・伊豆・下野・安房守護。
・ 上杉憲栄(13501422
 上杉朝房の猶子。官位・左近将監 越後守護。
・ 上杉憲英( 1404
 庁鼻和上杉家
  奥州管領(1392年)
        
                        南向きに面している社殿から鳥居方向を撮影

 上杉憲将は父憲顕に先立って死去しているのは別として。上杉能憲・憲春・憲方は全て関東管領職であり、それに対して、憲栄・憲英の処遇は一段低い。但し憲栄・憲英の2人に対しても、憲栄はその時の管領である上杉朝房の猶子でもあり、その後押しもあり、越後守護に任命され、官位は左近将監であるに対して(一時的に憲栄は越後守護争うに嫌気して、出家していたとも言われている)、憲英はただの庁鼻和上杉家相続のみ。山内家の庶家という位置付けのようで、越後守護争いにも敗れている経緯は憲顕系の上杉氏一族のなかでの同家の立場をうかがわせる。官位は蔵人大夫とも陸奥守とも言うが、陸奥守は1392年奥州管領になった時点で爵位を受けた可能性もある。どう贔屓目に見ても待遇は低い。
 そういう意味において、明徳3年(1392年)鎌倉公方の分身として奥羽支配を担当した稲村公方・篠川公方の管領に、庁鼻和家憲英が就いたことは、遅まきながら庁鼻和上杉氏も、室町幕府・鎌倉府のなかで公的な地位の獲得を果たしたことを意味していると推察する。

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