古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

糠田氷川神社

埼玉県では平成20年『水防災拠点としての「鎮守の森」に関する調査研究』の報告書を提出している。この報告書は、平成 20 年度の彩の川研究会が実施した『水防災拠点としての「鎮守の森」に関する調査研究』の結果をとりまとめたものである。
「鎮守の森」は、その土地本来の樹木によるふるさとの森であり、地域の守護神 を祀った社寺林である。埼玉県東部や荒川沿川の低平な洪水氾濫地帯では、私的な 水防災施設としての「水塚」に対して、「鎮守の森」は公的な水防災拠点としての 機能を有していたのではないか考えられる。
 戦後の高度経済成長に伴う人口集中による都市化の中で、「鎮守の森」は激減の一途を辿った。埼玉県内における過去の分布、現存地について調査し、その機能を検証して、保存と復元再生策を研究することにより、地域の水防災拠点の構築ならびに環境の整備に資することを目的に、本調査研究を実施するものであった。
 鴻巣市糠田地区の糠田氷川神社は荒川左岸の低地に鎮座している。村の鎮守として、またご先祖様の御霊を慰め、おまつり(お祭り)する社として、また同時に「鎮守の森」として地域の方々の水防拠点の位置づけを担う社としての一面も持ち合わせていた。
        
              ・所在地 埼玉県鴻巣市糠田1342
              ・ご祭神 須佐之男命 稲田姫命
              ・社 格 旧糠田村鎮守・旧村社
              ・例祭等 春の中祭 2月下旬の日曜日 風祭り4月第一日曜日
                   夏大祭 71415日 秋の中祭 11月下旬の日曜日
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0636834,139.4843825,17z?hl=ja&entry=ttu  
 糠田氷川神社は埼玉県道76号鴻巣川島線を南下し糠田橋方向に進む。陸橋手前の十字路を右折し、その後荒川左岸方面に向かうと氷川神社入口に到着する。位置的には糠田運動場多目的グランドの西側に鎮座している。
 駐車スペースは鳥居前に数台分確保されているが、舗装されていないので、足場は悪い。駐車する際には凸凹面には注意が必要だ。
        
               入り口付近にある社号標、案内板等
 
     
社号標 但し平成27年4月撮影     「鴻巣市氷川神社社叢ふるさとの森」案内板
        
            長い参道の途中・右側の社叢内にある浅間神社
             
                 長い参道先に鳥居あり
        
                     拝 殿
         
                境内に設置されている案内板
 氷川神社 御由緒   鴻巣市糠田一三四二
 □御縁起(歴史)
 鎮座地の糠田は、荒川左岸の低地に位置し、その地内には、かつて「糠田の渡し」と呼ばれる荒川の渡し場があった。対岸の比企郡須戸野谷新田(現吉見町)と結ぶこの渡し場は、糠田河岸という河岸場でもあり、熊谷の久下から下って来た船の、最初の休み場であった。
この糠田の鎮守である当社は、朝日山と呼ばれる台地上に祀られ、須佐之男命と稲田姫命の二柱を祭神とする。そのため、本殿は二間社の流造りとなっており、内陣には「氷川大明神御宝前 享保三年(一七一八)戌二月吉日」の銘のある金幣が納められている。なお、当社の境内は、昭和五十五年に県から「ふるさとの森」に選定された美しい社叢に包まれており、社殿はこの森の中央にある。
 当社の由緒については、『風土記稿』糠田村の項に「氷川社 村民の持 文禄の頃(一五九二‐九六)まで小社なりしが寛永年中(一六二四‐四四)村の鎮守として造営すと云」と記されている。この記述と、境内が地元の旧家の河野権兵衛が代々住居を構えた「権兵衛屋敷」に近い所にあることから、当社の創建には河野家が深くかかわっていたと推測できる。現在の本殿は、享保三年(一七一八)に建立されたもので、平成五年には市の有形文化財に指定された。ちなみに、この本殿の四周には精緻な彫刻が施されているが、数年前にその一部が心無い輩に盗まれてしまったことが惜しまれる(中略)
                                      案内板より引用
             
                                         本  殿
        
         鴻巣市指定文化財(建造物) 平成五年十月一日指定  氷川神社本殿一宇
 氷川神社は、かつては朝日山と呼ばれ須佐之男命・櫛稲田姫命が祀られている。創建年代は、はっきりしていないが現在でも地区の人々の崇敬を集めている。
文禄年間(一五九二~一五九六)までは社も小さかったようであるが、寛永年間(一六二四~一六四四)になって村の鎮守となり、規模も大きくなったようである。明治六年には当時の田間宮村の村社となった。
 本殿は二間社流造破風・軒唐破風付き、板葺本殿で、尾垂木に龍と鳳凰を配している。
本殿を飾る彫刻類は美術的・工芸的にも優れているうえに保存状態も良い。棟札は一八世紀はじめの享保三年である。近世の社殿としては埼玉県内でも比較的古い時期の建築であり、しかも建築年代がはっきりとわかる例として貴重である。しかし、全体の作りは一八世紀後半の社殿建築様式となっており、後世に一部改築された可能性がある。(中略)
                                      案内板より引用
 埼玉県土の東部平野部を占める低平地は、「埼玉平野」とよばれ、古代より利根川をはじめ荒川や渡良瀬川の氾濫によって形成された。徳川家康の関東への移封以降埼玉平野の開発が本格的に進むにつれ、利根川等幹川の治水・利水が施された。近世の埼玉平野は、徳川幕府や親藩の穀倉として基盤を築かれたが、現代の先進的な土木技術とは違い、数多くの洪水が沃土を侵害したことが書簡・文面からも読み取れる。
 どの時代もそうだが、洪水災害等の氾濫が居住地を襲ったとき、住民は当然水より高い場所に避難する。埼玉平野は広大な低地であり、住民が生活する集落は、自然堤防などの微高地が大部分である。その微高地の中でも僅かに高い場所に寺社が建っていることが多い。所謂神社ならば「鎮守の森」である。同じく寺院の場合も山号をもつように、山に立地しているものが多い。 微高地の集落が氾濫による浸水に襲われた時、より高い寺社の地に避難したのは、自然の成り行きと考えられる。このような大水から、鎮守の森などに避難する行動は、当時の民衆の習慣・慣例となって各地に言伝えられているのではないだろうか。
 

      土手側に鎮座する八坂社          拝殿手前でやはり土手側に神楽殿 
  その他境内には社殿奥に大國社・琴平社・天神社・八幡宮・稲荷社等が祀っている。

『水防災拠点としての「鎮守の森」に関する調査研究』報告書では、この広域な埼玉平野で大水から逃れる手段として、このような実績などについて、言伝えや記録の調査を行なったもので、大水害の記録は現代も同様であるが、近世文書においても洪水の被害状況や、被災箇所の普請のほか、年貢の減免申請など関係文書は多数みることができるという。
 糠田氷川神社もその避難場所として、史料として残されている。
 ○明治43811
 ・十一日午後七時北足立郡田間宮村大字糠田堤外の家屋は床上浸水百七十八戸、同村大字登戸床上同八戸、同大間道三戸、同中野は床上浸水二十四戸に及びたるを以て、老幼婦女等は東光寺、大間の氷川神社境内に避難したり、‥‥
(概況)
 ・明治43年は、晩霜や降雹などの異常気象が相次ぎ田植時には異常乾燥とも云うべき日照 りが続き、このため水喧嘩が各地で起こったと云われる。関東地方では、7月下旬から雨が 降り続き、8月に入ると1日から前線や低気圧が停滞して連日大雨となり、また台風の接近 により暴風雨となった。この降雨は8月16日まで続いた。
(糠田地域の状況等)
 ・8月8日早朝から引続き暴風雨のため荒川の水位は上昇し続けていた。 10日夕方には水位が堤防法面半ば以上に達した。馬踏12尺の内中央より崩壊法先田面へ押 出地下より漏水が始まり土俵羽口工、竹砲工及び五徳工等施工した。 本箇所の応急工事は、崩壊長78間(約140M)におよび、土俵羽口工として空俵7200俵、 莚273枚、唐竹5550本等の資材は3日間で全て取揃えた。また、作業員は、1日平均656名が 昼夜兼行就業を続行し、7日間で竣功させた。
 ○昭和22年(1947915日 カスリーン台風
 ・本宮田間宮小学校、氷川神社々務所、放光寺の三箇所を指定して応急設備を施し、九月十五日夜半より九月廿一日まで一週間、収容延人員 1,023人を算するに及んだ。
(概況)
 ・荒川の氾濫に備え、9月15日午前8時30分消防団全員、更に各戸1名宛の奉仕員で防水班を編成、準備態勢を整えた。 その後、荒川の水位は刻々と上昇し越水の危険が迫ったので、全村民男子総動員を指令 した。また、隣町村消防団員、鴻巣町警察署員併せて103名が応援にかけつけた。 午後5時10分溢水する堤防口から徐々に決潰が始まった。出動人員1663名必死の水防も空 しく、午後5時40分頃樋管堤防(渡内)が一大音響と共 に破堤した。さらに、午後6時30 分頃他の樋管堤防(行人)も破堤した。奔流は、大海の怒濤の如く耕地に浸入、民家も次々 と水没していった。(被害者の避難所設置)
 ・田間宮小学校、氷川神社社務所、放光寺の三箇所を指定して応急設備を施し、9月15日か ら同月21日まで1週間、延べ人員1023人を収容した。 当村内非浸水地帯秋元酒造工場外五箇所に、消防団員、婦人会主体に、炊出しを開始し、 一日平均1397名に対し、16日から4日間給食に努力した。 (この間の食糧は、米25俵、コッペパン15000個であった) 

 上記の報告書では、過去の出水の際多くの「鎮守の森」が緊急の避難地、また助け合いの拠点 として大きな役割を果たしたことなどを明らかにしている。当面は、関係行政機関に寄贈し役立てていただくとともに、さらに目的に沿って研究を深め、図書館、出前講座等多くの方に役立つ方策を検討し、河川への深い関心をもっていただく契機としたいと結んでいる。
       
                         参道の両脇に聳え立つ巨木群(写真左・右)
               悠久の歴史を感じ、同時に参拝中も厳かな気持ちにさせて頂いた。
        
 氷川神社の社叢林はケヤキ、カシ、イチョウ、スギ、ヒノキなどで構成され神秘的な雰囲気を持つ。0.74haが埼玉県の[ふるさとの森]に指定されている。

 ほぼ解説の中心は「水害」に対しての鎮守の森の効果のみ述べてしまうことが大半であったので、ここで鎮座している「糠田」の地名に関しても考察したい。
 この「糠田」という地名の由来に関して、当初は「額田」が関係しているのではないかと考えた。日本書紀・神功皇后四十七年条に「千熊長彦を新羅に遣す。千熊長彦は、分明しく其の姓を知らざる人なり。一に云わく、武蔵国の人。今は是額田部槻本首等が始祖なりといふ」との記述がある。ここで出現している「千熊長彦」は『日本書紀』に伝わる古代日本の人物。 神功皇后(第14代仲哀天皇皇后)の時に対百済・新羅外交にあたったとされる人物で、一説に武蔵国の人物で額田部槻本首(つきもとのおびと)らの祖とされている。この額田部槻本首は摂津国西成郡槻本郷(大阪市淀川区)が根拠地であるようで、その後日本武尊に従い関東へ移ったようだ。
近江国御上神社神主三上祝系図に「天照大御神―天津彦根命(天降而居出雲国意宇郡屋代郷、後遷近江国蒲生郡彦根神社)―天御影命(又、天目一箇命)―意富伊我都命―彦伊賀都命(神武天皇世、居蒲生郡於馬見丘奉斎神社)―天夷沙比止命(和泉国川枯首祖)―川枯彦命(近江国甲賀郡川枯神社)―坂戸毘古命(孝元天皇世、奉斎三上神)―国忍富命―筑箪命(崇神天皇世、筑波国造)―忍凝見命(垂仁天皇世、為大湯坐部)―建許呂命(日本武尊東征時随従)―大布日意弥命(為須恵国造)―千熊長彦(額田部槻本首祖)」
 この系図には天照大御神から天津神系の天津彦根命〜千熊長彦までの流れを記しているが、この系図をざっくりと解説すると、天津彦根命の子である天目一箇命は製鉄・鍛冶神で、筑紫国、播磨国、伊勢国等に登場する神で、その子孫が和泉国⇒近江国と東方面に移動し、日本武尊東征時に随従し、筑波国に到着。須恵国は天平勝宝五年文書に上総国須恵郡額田部郷と記載され、和名抄に上総国周准郡額田郷・湯坐郷(千葉県君津市糠田、湯江)と見えることから、千葉県に移動していることが分かる。因みにこの系図に記されている神々は全て鍛冶に関係していることは、「湯坐部」「湯江」の地名からも明らかで、湯坐(ゆえ)とは、金属が熱に熔けた状態を湯という、鉄をドロドロに熔かす工人を湯坐部といったという。ということは須恵国も同様に火事に関連した名称で、陶(すえ)を製造する氏族の居住地だったとも考えられる。
 千熊長彦の祖先である天御影命(又、天目一箇命)は『古語拾遺』によると筑紫国・伊勢国の忌部氏の祖としており、天太玉命と同一神とも言われている。天太玉命の孫である天富命が阿波の斎部を率いて東に赴き、安房・下総・上総国の基をつくったとされている。

 また安房国長狭郡日置郷(鴨川市)に日置氏(ひき)が居住していて、安房国忌部の同族である日置一族は武蔵国比企郡に土着して、地名も日置の語韻に近い「比企」と称したという。千熊長彦は武蔵国比企・入間・高麗地方の鍛冶集団額田部一族を統率した首領だった可能性も捨てきれない。

 鴻巣市には生出塚埴輪窯跡と言われる埼玉県鴻巣市にある古墳時代後期の東日本最大級の埴輪生産遺跡があるが、同時期馬室(まむろ)埴輪窯跡も存在している。馬室埴輪窯跡は、鴻巣市南西端、荒川に臨む河岸段丘に作られた古墳時代後期の半地下式無段登窯群遺跡で、10基以上の埴輪窯跡が確認されている。糠田地区はその馬室埴輪窯跡に近い場所でもある為、糠田=額田=千熊長彦と連想してしまうわけだ。
 その一方で、「糠田」の地形を見ると、当時(現在でもそうだが)糠田村は荒川に隣接するだけでなく、地形的にも他の地域に比べ相対的に標高が低く、周辺の村々からの悪水(排水)が集まってくる地区であったようだ。そのため水害(洪水だけでなく、内水による湛水被害を蒙っていた)が多く、恒常的に湛水被害に悩まされていた為、「泥濘の多い場所」の意味で「糠(ぬかる)+田」とつけたのかもしれない。

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笠原熊野神社

熊野神社が鎮座する小川町笠原地区の「笠原」という地名は、とにかく歴史が古い。埼玉稲荷山古墳の鉄剣銘に「辛亥年七月中記、上祖名意富比垝、(中略)、其児名加差披余」とあり、「加差披余」が「笠原」という名前に比定されているという説が多い。
 また日本書紀・安閑天皇元年閏十二月条に「武蔵国造笠原直使主、同族小杵と、国造を相争ひて年を経て決し難し。小杵は性阻にして逆あり。心高うして順なし。密かに就て援を上毛野君小熊に求めて、使主を殺さんと謀る。使主覚りて走出で京に詣りて状を申す。朝廷臨断、使主を以て国造と為し、小杵を誅す。国造使主悚憙(おそれよろこび)、懐にみちて、黙し巳む事能わず謹んで国家の為に、横渟・橘花・多氷・倉樔の四処の屯倉を置き奉る」と見えるが、この「笠原直使主」と「加差披余」が同じ一族との説もある。 
 小川町にも昔から「笠原」苗字の方も多いようで、正倉院天平六年宝物に「武蔵国男衾郡カリ倉郷笠原里」と見えることから、この地と笠原氏はかなり昔から居住していたことが伺える。
        
             ・所在地 埼玉県比企郡小川町笠原333
             ・ご祭神 伊弉冉命 速玉男命 事解男命
             ・社 格 旧笠原村鎮守・旧無格社
             ・例祭等 不明
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0667525,139.2361419,18z?hl=ja&entry=ttu                         
 笠原熊野神社は小川町から埼玉県道30号飯能寄居線を寄居方向に進み、途中県道274号赤浜小川線の陸橋を越えて最初の信号(手押しだが)のある交差点を左折する。東武東上線や八高線に沿って県道は流れているため、踏切を越える為に設置された信号のようだ。その後5差路に分かれる交差点を左方向に進む。途中大きく右方向にカーブするがそのまま道なりに直進し、3差路以降道は細くなるが、暫く進むと、笠原熊野神社を越えて「笠原地区憩いの場公衆トイレ」のある休憩所兼駐車スペースに到着する。
 笠原熊野神社参道は駐車スペースから東側にあり、専用駐車場もないため、休憩所に車を停めて参拝を行った。
        
                    鳥居正面
 一般道から民家や畑を抜けながら鳥居方向に向かうため、細長い参道を含めた撮影は極力控え、民家等ない位置から撮影した。
        
                                 笠原熊野神社正面鳥居
 
   左側の石祠は天神社。右側は板碑か       創建時に関わりにあった行者社との事
        
                     拝  殿
        正面
鳥居をくぐり、60段余の石段を登ったところに鎮座している
 熊野神社
『笠原の熊野神社は、信州方面からやってきて笠原の地に土着した柑名桜井氏が氏神として文禄年間(159296)に創建したものといわれている。創建に当たっては、修験の行者が紀州(現和歌山県)の熊野三社から分霊を受けてきたと伝えられ、その時熊野本宮から持ち帰ったという白い石が神宝となっている。また、石段の脇にある行者社と称する小祠は、この行者を祀った社であるという。
 江戸時代には諏訪神社と共に村の鎮守とされ、明治維新後は諏訪神社が村社になったために、熊野神社は無格社ではあったが笠原に住む桜井姓の人々の氏神として厚く信仰されてきた。社殿内には、天保十三年(1842)に「宮再建」をした時の棟札があり、それに飯田村長福寺の法印春乗の名が記されていることから、江戸時代は長福寺が祭祀に関与していたことがうかがえる。
 なお、かつては熊野神社では女人禁止とされ、女性は鳥居のところから上に登ることは禁じられていた。この禁制は、明治三十年代ごろまで厳しく守られていたらしく、当時の女性は鳥居の脇あたりから社殿の方を見上げて遥拝したものであったという』
                            「小川町の歴史 別編
民俗編」より引用
   
      拝殿左側に鎮座する石柱や境内社       社殿の奥には
境内社・御嶽社
       
           社殿手前右側に聳え立つ御神木(写真左・右)

 冒頭に述べた「笠原」に関して,その後特段記載する内容もなく、中途半端で終わってしまう事をお詫びしたい。但し古代「笠原」姓の方々が、この地にいたことは事実である。また慶長年間にこの地に土着したとされる「
柑名桜井氏」も調べたが同様に何も分からなかった。

 低山とはいえ数十段の階段を上るのはややきつい。しかし斜面上をうまく利用して社殿等を送検する先人たちの努力には敬意を表したい。また参拝中もどこか厳かな雰囲気もあり、風格のある社とも感じた。


 

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勝呂白鳥神社

ヤマトタケルは、記紀などに伝わる古代日本の皇族で、『日本書紀』では主に「日本武尊」、『古事記』では主に「倭建命」と表記される。第12代景行天皇の皇子で、第14代仲哀天皇の父にあたる。熊襲征討・東国征討を行ったとされる日本古代史上の伝説的英雄である。
 16才の時、景行天皇に命じられ九州の熊襲に攻め入り、その際、女装して首長川上梟帥の宴に紛れ込み、梟帥を刺殺した。この時、梟帥に賞され、日本武皇子の名が贈られた。その後、東国の蝦夷による乱が起き、再び尊が命を受け、途中、伊勢神宮に仕えていた叔母倭姫命より草薙剣を授けられ、これが焼津で賊の放った火から逃れるのに役立った。平定後、帰途尾張で宮簀媛と結婚した。其の後五十葺山で荒れ狂った神を鎮めようとして逆に病を煩い、満身創痍の状態となりながら伊勢に入り能褒野で没したと伝わる。
 白鳥神社は、日本各地に鎮座する日本武尊を祀る神社である。大鳥信仰の神社と同様に、日本武尊の伝説に因む白鳥信仰の神社であるものが多い。宗教法人としては全国に白鳥神社が111社、白鳥神社を名称に含む神社が1社、白鳥社が6社存在する。全国の白鳥神社に共通する「ヤマトタケルと白鳥伝説」では、日本武尊が鉄器という新しい金属農具を使った灌漑技術で、稲作を振興させたという伝説が白鳥信仰にむすびつけられたという。
        
             ・所在地 埼玉県比企郡小川町勝呂310
             ・ご祭神 日本武尊
             ・社 格 旧勝呂・木呂子両村鎮守
             ・例 祭 不明
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0780802,139.2152652,15z?hl=ja&entry=ttu
 勝呂白鳥神社は古くは相模街道と呼ばれていた埼玉県道30号飯能寄居線を小川町から寄居町方向に進む。(途中、比企郡小川町から大里郡寄居町まで国道254号と重複している所もあり、説明することもややこしくなるため、ここでは県道30号にて統一表記する)JR竹沢駅を過ぎて、右側に津島神社を見ながら最初の手押しのT字路である交差点を左折し、左側に流れる兜川の源流である西浦川に沿って進むと勝呂白鳥神社に到着する。
 神社の鳥居手前に駐車スペースも確保されていて、そこに停めて参拝を行った。
        
                  勝呂白鳥神社正面
        
                     拝 殿
 境内碑
 当神社の御創建は、南北朝時代の初め現在の奥社が鎮まる土地に祀られたという。社伝によれば、当社の前谷津にあった「神出」という小字名を残す付近に毎夜光るものが現われ、土地の人々が恐れおののいていた。そこへ一人の旅の武士が通りかかってその話を聞き、その場所を掘ってみると、十一面観音の座像が出てきた。
 しかもその時、上空には白鳥が一羽舞い来たり、暫くすると向い側の森に舞い下りた。そこで武士は「これはあの森に祀れというお告げだ」と考え、この座像を奥社の地に安置したが、以来土地の者たちが、これを白鳥明神と崇め、日本武尊を御祭神として篤く信仰するようになった。
 御祭神は、光を発し何度も拝見すると眼を悪くするので、六十年に一度だけ開扉して御神像を拝することとなり、今回がその第十一回に当たる。
 撰文 宮司 宮澤貞夫 
 皇紀二千六百六十年 
 平成十二年十月十五日 
 埼玉県神社庁長 
 秩父神社宮司 京都大学名誉教授 薗田稔謹書
 
      拝殿に掲げている扁額           拝殿の奥の斜面上に鳥居が見える
        
          位置的に見てもどうやら白鳥神社の奥宮のように見える。
 
左から三光大神社、十一面観音、白鳥神社本殿    覆屋の左手には三峰神社が鎮座する。
             
                白鳥神社本殿からの眺め 
 ところで勝呂地区に鎮座する白鳥神社の創建には、増尾氏が関わってきたという。男衾郡竹沢勝呂村(小川町)は猿尾庄を唱えていて、その後、猿(ましら)の佳字を用いて増尾を猿尾と称したようだ。其の後その系統から木呂子村を所領として木呂子氏を称したという。
 平姓木呂子氏家譜に「畠山重忠の後裔・猿尾太郎種直(正慶二年・1333年卒)より出り候由。春栄の譜に種直の弟春栄とあり。大塚村に木呂子丹波守殿カキ上城有之」との記述があり、畠山一族の出身であることがわかる。畠山一族は重忠の名声により、とかく「坂東武者の鑑」とその一面のみ語られる事が多いが、その一族の本来の素性も語られるべきではないか、とも筆者は考察するところだ。猿尾氏に関しての資料として以下の書簡等があるのでここに紹介する。
風土記稿増尾村条
「古城蹟は村の東小名中条にあり、四方二町の地にて、から堀の蹟所々に残り、又櫓の跡なりとて小高き所あり。その辺今は杉の林となりたれど、城蹟のさま疑ふべくもあらず。土人の伝へに猿尾太郎種直が居城なりといへど、何人の枝属にて何の時代の人と云ふことは伝へざれば詳ならず」
武蔵志
「比企郡青山村(小川町)、当村下村に古城・山上にあり。猿尾太郎と云人居しと云。古城下路傍に青石塔あり、康永二年十二月日の逆修と見えたり。橋供養塔青石銘に正慶二年四月二日・猿尾太郎種直有罪縛死の筵に居刻云々とあり」
永禄十年大梅寺縁起
「大塚郷大梅寺は、仁治三壬寅年猿尾氏が霊山院初祖栄朝禅師を請して創建す」
大塚村栃本如意輪観世音縁起
「六条天皇の御宇、土豪増尾十郎兼信・斎藤六郎輝実、力を協せて殿堂の衰頽せるを再興し、荘園を寄進し、又百体観世音像を造りて、百僧を供養し給ふ。増尾氏は元弘の頃まで栄えたりしが、守邦親王に再挙を勧め事成らずして共に亡び、斎藤氏は一族と共に南朝に尽くし、一族中には名を顕はしたるあり。正徳二年正月看主」
        
                 社殿より正面鳥居を望む。
 勝呂という地名も何か曰くがありそうだ。
 冒頭「ヤマトタケルと白鳥伝説」では、日本武尊が鉄器という新しい金属農具を使った灌漑技術で、稲作を振興させたという伝説が白鳥信仰にむすびつけられた、と述べたが、「日本武尊伝説」自体が鉱山と密接な関係があるように思えてならず、そのうえ畠山一族である猿尾氏まで絡んでいる。勝呂白鳥神社近郊にある「竹沢駅」の地名竹沢も、元来秩父児玉党の出身である竹沢党から起こっている。
○靭負村の曹洞宗竹沢山雲竜寺裏に館跡あり。武蔵七党系図「有三郎別当大夫経行―保義―竹沢二郎行高―五郎行定(三郎トモ)」
○冑山本、武蔵七党系図「保義―行家―富野四郎大夫行義―□□―雅行―竹沢二郎行高―五郎行定」

『埼玉の神社』では、白鳥神社に関して《当社南方一キロメートルほどにある地を小名神出(じんで)と呼んでいる。ここは古くからマンガン・黄銅鉱などを産出する所である。》と述べ、この神社の創祀伝説を記している。また、『新編武蔵風土記稿』は、西光寺持ちの虚空蔵堂を記している。西光寺は明治の神仏分離時に廃寺となっている。白鳥神社には本殿と並んで、三光社が祀られているが、これは妙見神のことらしい。ちなみに、妙見神とは、北辰神、すなわち北極星信仰のことであって、日本在来のものではなく、渡来人が持ち込んだ道教の神である。勝呂地区の南隣、木部にも三光神社が鎮座している。

 勝呂の北東端にある標高
263.4mの金勝山がある。今では低山ハイキングコースとして有名な山となっているようだが、この一帯は白亜紀に変成した三波川変成岩の上に衝上断層を介して乗っている地質で、今でも前期 三畳紀 (25000万年前, 250 Ma)の金勝山花崗閃緑岩に見られるペグマタイトが産出している。ペグマタイトはほとんど石英, 長石, 雲母から構成されるが、チタン鉱物を伴うことがあり、ある一時期マンガン等の鉱物が産出したことも否定できない。鉱物学には至って低レベルな知識しか持ち合わせていないので、科学的に立証しているわけではないが、白鳥伝説といい、地名の由来、畠山一族がこの地域一帯を治めていたことを考えると、そのような仮説が漠然と浮かび上がってくるのだ。


          

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木部三光神社

妙見信仰は北極星や北斗七星を神格化した信仰である。古代、中近東の遊牧民や漁民に信仰された北極星や北斗七星への信仰は、やがて中国に伝わり天文道や道教と混じり合い仏教に取り入れられて妙見菩薩への信仰となり、中国、朝鮮からの渡来人により日本に伝わったといわれ、秩父地方も古くから妙見信仰が伝わった地域である。
 妙見信仰は秩父地域を中心に木部三光神社も嘗ては妙見社と称していたという。
 近くの東秩父村安戸地区には安戸身形神社が鎮座し、「妙見様は三姉妹で、長女は当社、次女は安戸の身形神社、三女は秩父神社である」との伝承が残されているという。木部三光神社当社の境内に接して走る道は安戸方面に抜ける古い道筋で、安戸から更に粥新田峠・定峰峠を経て秩父に至っており、この道を伝って妙見信仰が当地に伝播したことは想像に難くないという。
        
             ・所在地 埼玉県比企郡小川町大字木部458
             ・ご祭神 大日孁貴命・月夜見命・国常立尊
             ・社 格 旧男衾郡竹澤木部村鎮守
             ・例祭等 不明
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0691396,139.230241,17z?hl=ja&entry=ttu
 木部三光神社は東武東上線竹沢駅から埼玉県道30号飯能寄居線方向に直進し、交差点をそのまま進む。しばらくすると細い道幅になるが、対向車や低山ハイキングで歩かれている方々には気を付けて進むと、低山ハイキング用に設置されたのであろう木部公衆トイレが右側に見え、その先のY字路の斜面上に木部三光神社は鎮座している。
 専用駐車場は無いが、東側の道端に退避エリアがあるのでそちらに駐めて、参拝を行った。
        
                         Y字路の角地に鎮座する木部三光神社
               
                    道路面から一段高い場所に鎮座する社     
         
               境内に設置されている案内板
 三光神社  所在地 比企郡小川町大字木部
 三光神社は、建久年間(1190)奥州大河兼任の乱に際して活躍し、その後も武蔵荘園の武士として鎌倉幕府の基礎となってきた、児玉党(武蔵七党の一つ)の一族竹沢氏の子孫が建立したと伝えられている。
 江戸時代までは、妙見社といわれ北辰妙見大菩薩を祀っていたが、明治初年の神仏分離により、日・月・星を祀る三光神社と改称している。
 古くは、うろこぶきの神明造りの神殿であったが、明治二年に再建された。また、本堂上屋並びに拝殿は、昭和二十六年に建てられたものである。
 昭和五十九年三月 
埼玉県 小川町                     案内板より引用
             
        
                     拝 殿
 ご神木の杉が拝殿に向かう参道内にもたれるように聳え立ち、正面ではこのアングルしか撮影することしかできなかった。
         
                ご神木である大杉の案内板
 三光神社の大スギ   平成8419日 町指定天然記念物
 三光神社は、一般に「妙見様」として知られていますが、元来は妙見社と称し、明治維新の神仏分離によって三光神社と改称されました。東秩父村の安戸に鎮座する身方神社も、神仏分離までは妙見社と称しており、同社には、「妙見様は三姉妹で、長女は木部の三光神社、次女は安戸の身方神社、三女は秩父神社である」との伝えがあります。
 神社本殿を囲む社叢の中でひときわ目立つ大スギは、目通り4.6m、樹高35.1mを測り、御神木として、地元の信仰を集め愛護されています。
 スギは比較的湿潤な土地を生育の好適地とし、神社の社叢は小さな沢に接する山裾にあることから、スギの生育に適した立地であるといえます。また、本殿左後方のスギ林の中にスダジイ・アラカシの高木が各一本ずつあります。
 小川町教育委員会                              
案内板より引用
 
      拝殿に掲げている扁額           拝殿左側に鎮座した末社群
今も氏子からは妙見様の通称で呼ばれることが多い   左から稲荷神社・手長男神社・聖天社

 社伝によると、当社の創建は児玉党の竹沢氏の子孫により行われたという。竹沢氏は大字靱負を本拠とした中世の豪族で、正平十三年
(1358)に竹沢右京亮が足利基氏と謀って新田義興を矢口の渡しで謀殺したことで知られている。
 一方、同じく妙見社(現身形神社)を鎮守とする東秩父村安戸には「妙見様は三姉妹で、長女は小川町木部の三光神社、次女は安戸の身形神社、三女は秩父神社である」との伝承が残されている。この伝えは、妙見信仰の系譜を物語るものとして重要である。秩父地方の妙見信仰は、秩父神社を中心として盛んで、俗に妙見七社といわれ、秩父神社の分社を郡境の交通の要所七か所に祀り、攘災の守り神とした。そのうちの一社が東秩父村安戸の妙見社である。当社の境内に接して走る道は安戸方面に抜ける古い道筋で、安戸から更に粥新田峠・定峰峠を経て秩父に至っており、この道を伝って妙見信仰が当地に伝播したことは想像に難くない。
「風土記稿」には「妙見社 村の鎮守なり、村持」とある。
 当社は神仏分離により三光神社に改称した。その社号は「明細帳」に見える大日孁貴命・月夜見命・国常立尊の三柱の祭神にちなんでいる。しかし今も氏子からは妙見様の通称で呼ばれることが多い(中略)
 末社に手長男神社・聖天社・稲荷神社がある。手長男社は、天保八年(1837)に神主相馬播磨藤原知祇により勧請された。火防の神といわれ、十二月十日の祭事に配られる神札を家の台所に貼る。聖天社は、氏子の根岸銀蔵家(既に絶家)の氏神であったと伝え、当社の春祭り(四月第一日曜日)に合わせて祭事を行っている。稲荷社は当社の例祭に合わせて祭りを行っている。
                          「埼玉の神社 大里 北葛飾
比企」より引用
        
                 
拝殿前の石段より撮影


 

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小園壱岐天手長男神社

天手長男神社(あめのたながおじんじゃ、あまのたながおじんじゃ)は、長崎県壱岐市にある神社で、式内社(名神大社)論社、壱岐国一宮後継社でもあり旧社格は村社とされている。主祭神は天忍穂耳尊・天手力男命・天鈿女命の3柱で、天忍穂耳尊には「尊」がついている為、他の2柱より位は高いようだ。
 福岡県宗像市に鎮座する宗像大社の『宗像大菩薩御縁起』によれば、神功皇后の三韓征伐に際し、宗大臣(宗像大社の神)が「御手長」という旗竿に武内宿禰が持っていた紅白2本の旗をつけ、これを上げ下げして敵を翻弄し、最後に息御嶋(玄界灘の沖ノ島)に立てたという。天手長男(と天手長比売)の社名はこの「御手長」に由来するという。弘仁2年(811年)に「天手長雄神社」として創建、後に「天手長男神社」。『大日本国一宮記』(『一宮記』)には、天手長男神社と天手長比売神社が物部村にあり、天手長男神社を壱岐の一宮としたとあり、『一宮記』では天思兼神を祭神としている。なお、三喜の式内社の査定は地名に基づいたものが多く、現在の研究では疑問が持たれている。天手長男神社については、芦辺町湯岳興触に興神社があり、興(こう)は国府(こう)のことであると考えられ、境内社に壱岐国総社もあることから、興神社が本来の天手長男神社であり壱岐国一宮であるとする説が有力となっている。
 宮司の先祖が壱岐国石田郡(長崎県壱岐郡郷ノ浦町)よりこの地に土着した折に、壱岐の天手長男神社より勧請したものと伝えられるが、同町宗像神社同様に地形的にも遥かに遠い壱岐島と埼玉県寄居町が、神社で結びついている。 
        
             ・所在地 埼玉県大里郡寄居町小園132
             ・ご祭神 天忍穂耳尊、天手力男命、天鈿女命
             ・社 格 旧上・下小園村鎮守・旧村社
             ・例祭等 春祭り 419日、津島祭 720日前後の日曜日
                  秋祭り 1019
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1150661,139.2211803,16z?hl=ja&entry=ttu
 寄居町小園地区に鎮座する壱岐天手長男神社は、国道140号バイパスを寄居町方向に進み、玉淀大橋(北)T字路交差点を左折、国道254号にて荒川を越えて、鉢形陸橋を越える手前のY字路を左に進み、東武東上線の踏切が見える手前の十字路を左折する。道なりに進み、波羅伊門神社を左手に見ながら尚も道なりに進むと「壱岐天手長男神社」の縦看板が見えるので、その先のT字路を右折すると右方向に社叢が見えてくる。ナビで住所検索して出発したが、詳しい場所まではたどり着けなかったので、縦看板を見つけた時は感動したことを覚えている。
 駐車スぺースは鳥居前にかろうじて1台分の確保ができたので、そこに車を停めて参拝を行った。
        
                小園壱岐天手長男神社正面
        
                  鳥居周辺の様子
 壱岐天手長男神社の主祭神は「天忍穂耳尊」「天手力男命」「天鈿女命」の3柱であるが、ここで注意して頂きたいのが、この3柱のうち、何故か「天忍穂耳尊」のみお名前の最後に「尊」を用いていることだ。「尊」も「命」も「ミコト」と読み、神様や貴人の名前の下につける敬称であるが、記紀に関すると『古事記』では全て「命」に統一されているのに対して、『日本書紀』では「尊」を最も貴いものに、「命」をその他のものに対して使い分けているとの事だ。冒頭の内容文に『天忍穂耳尊には「尊」がついている為、他の2柱より位は高いようだ』と書いたその根拠はその事でもある。
        
                    神楽殿
        
                    拝殿覆道

 男衾郡上・下小薗村
 天手長男明神社
 下村にあり、社内に蔵する棟札に、明暦元年九月吉祥日、奉造立天手長男大明神とあり---
 神明社
 是も下村にあり、前社同年の棟札あり、以上二社共に上下二村の鎮守にて、折原村神主相馬播磨持。
                               『新編武蔵風土記稿』より引用 
 壱岐天手長男神社  寄居町小園一三二
 荒川右岸の段丘上に位置する小園の地は、武蔵七党の猪俣党に属した尾園氏の所領に比定されている。開発の年代は明らかではないが、石田家と松村家の先祖によって行われたとの伝えがある。
 口碑によると、当社は、石田家の先祖がこの地に土着した折、かつての在所であった壱岐国石田郡(現長崎県壱岐郡郷ノ浦町)に鎮座する壱岐国一ノ宮天手長男神社より勧請したことに始まる。「手長」の意味は『宗像大菩薩縁起』に「異国征伐ノ御旗竿也」とある。流造り見世棚の本殿には、勧請時に壱岐国から移したと伝える自然石を奉安している。
『風土記稿』には「天手長男明神社」と載り「社内に蔵する棟札に、明暦元年(一六五五)九月吉祥日、奉造立天手長男明神とあり」と記している。元治元年(一八六四)には宗源宣旨を受けている。
 明治九年に村社となり、同四十一年には字宮前の村社神明社とその末社の八幡社と春日社を合祀した。神明社は、当地の開発にかかわった松村家によって勧請されたと伝える社である。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
       
左手側に並ぶ末社等               神武天皇遥拝所
 末社長屋に関しては、左から八幡神社、春日神社、津嶋神社、稲荷大明神、雷電神社、琴平神社が鎮座しているという。
 
        
市杵嶋姫命の石碑               仙元大日神
       
             社殿奥に聳え立つ御神木(写真左・右)
 総本社は長崎県壱岐市郷ノ浦町にある壱岐天手長男神社は、「鉢形山」、または「鉢形嶺」と呼ばれる古くより神奈備山として信仰の対象になっていた山上に鎮座しているのだが、小園・折原地区近くにもその「鉢形」という地名は存在(鉢形城は特に有名)している。
 ところで、寄居町の「鉢形城」の名前の由来は幾つかあり、以下のようである。
1「円錐形の山」で文字通り鉢の形を見たてた名称とされる(『地名用語語源辞典』)。
2 ハチはハシ(端)の転で台地のヘリの意となって崖地を指すとし、形[かた]は 「方」で、すなわち、方向・場所の意となる。鉢形(本田)の西部には谷津が走り、また反対側 の東方にも、二流の浸食谷が鉢形の北東部で合流して、台地(鉢形中坪)を大きく湾曲しながら 南下し、鉢形の南突端で西流の谷津と合流するなど、谷、崖、湿地に関連する地形、流れが多数 あって鉢形はそれらに囲まれた台地上にある。
3 鉢は、仏具の応器(応量器)のこととされる。それは、僧が托鉢[たくはつ]の時に 使う鉢のことを言い、僧尼が玄関先で経文を読み、布施される米やお金を受け取る時の器をいう。
 対して壱岐天手長男神社の「鉢形山」の由来は、神功皇后が朝鮮出兵の折、兜(かぶと)を鉢(境内地)に治めて、戦勝を祈願したことからこの名がついたという。
 壱岐島という武蔵国から大変離れた場所ながら同名神社は寄居町小園地域や深谷市萱場地方にもあり、別名天手長男神社として境内社、末社まで含めると埼玉県北部には思った以上に存在している。
        
                             長閑な雰囲気の漂う社の一風景
 石田家に関して、参考資料としていくつかの文献を紹介したい。
 日本書紀垂仁天皇三十四年条に「天皇、山背苅幡戸辺を娶りて、三男を生む。五十日足彦命、是の子石田君の始祖也」と表記され、古代氏族系譜集成には「垂仁天皇―五十日足彦命―忍健別命―佐太別命(石田君祖、佐渡国雑太郡石田郷住)」と見える。
 上記の五十日足彦命は越国(現在の北陸地方)の開発に尽力したとされる皇子であり、越の国の君となり、臣を従えて穀物・農具をもたせ、民を率いて開墾し、漁猟を教えて国造りに尽くしたとの記述がある。
 また大里郡神社誌に「男衾郡小園村壹岐天手長男神社は、文久年中(1861年~1864年)の文書に、園明王壹岐石田神社と称し、往古壹岐国一の宮より勧請す」とあり、当村に昔より石田一族が多く定住し、文久年には「園明王壹岐石田神社」という名称として石田一族の氏神として鎮座しているとの事だ。更に壹岐国一の宮より勧請した年代は文久年代より遥かに昔との推測も成り立つようだ。
        

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