古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

下村君鷲宮神社

 羽生市下村君地区には里帰りの神事が古くから伝えられている。

 羽生市下村君の鷲神社は、東国開拓の祖の天穂日命()をまつる。元は古墳の上に建てられたといひ、明治の末に横沼神社を合祀してゐる。横沼神社は、天穂日命の子孫の彦狭島(ひこさしま)王の子・御室別(みむろわけ)王の姫(娘)をまつった社で、父・彦狭島王をまつる樋遣川村の御室社へ、「お帰り」といふ里帰りの神事が行なはれてゐた。
 この村君の里に、文明十八年、京から道興准后が訪れて詠んだ歌がある。

 ○誰が世にか浮かれそめけん、朽ちはてぬその名もつらきむら君の里  道興

所在地     埼玉県羽生市下村君2227
主祭神
        天穂日命
社挌 例祭   不明

        
 鷲宮神社は久喜市鷲宮にある総本社を中心に周辺には数多くの同名の支社が存在する。羽生市下村君に鎮座する鷲宮神社も数多く存在する支社の一つである。永明寺古墳の西側で距離的にも非常に近い。また公民館が同じ敷地内にあり駐車場は非常に広い。
 社殿は南側でその正面には鳥居があるのだが、その一方東側にも朱を基調とした明神鳥居があり、その正面には永明寺古墳がある配置となっている。
             
                                                         東側にある明神鳥居
                                         左側が公民館で、正面右側に神社がある。
             
                                           拝殿 古墳の上に建てられているようだ。
                                    境内からは円筒埴輪や形象埴輪が出土している。
                             本殿覆屋              浅間社 この石祠も古墳上に鎮座しているのだろうか。

   御手洗の池の中に弁天社が祀られている。       境内の弁天社のそばには藤の古木があり、
                                           由来書が掲げてあった

鷲宮神社と古藤の由来
 鷲宮神社の御手洗の池に、市杵島姫命を祭る弁天社があります。このお宮は、七福神の一人弁才天と付会され、人々から厚く崇拝されてきました。池のほとりにある古藤は、弁天社の創建のころ植えたと伝えられ、明治十七年(1884)の記録に、数千年を経たもので風景すこぶる美観とあります。
 鷲宮神社(横沼神社を合社)は、祭神を天穂日命といい、古墳の上に建てられました。2142坪の境内地には、四個(他に一個出土している)の礎石があり、社殿がたてられていたことを物語っています。また、付近から鎌倉時代の屋根瓦の破片が出土しており、社殿の修理か造営が行われたものと思われます。横沼神社は、彦狭島王の子御室別王の姫を祭ったもので、樋遺川村の御室神社へ「お帰り」という里帰りの神事が、明治の末期まで行われてきました。由緒の深い神社です。ちなみに、村君の地名が文献に現れるのは、応永年間(1394~1427)で、文明十八年(1486)京都聖護院二十九代の住持を務めた
道興准向が村君の里を訪れ、「たか世にか 浮れそめけん 朽はてぬ 其名もつらき むら君の里」とよんでおります。荘厳な鷲宮神社や永明寺を拝し、古墳を訪ね、栄えていた村君の里をしのんで歌われたものです。現在、藤は羽生市の花として市民に親しまれています。
                                                             案内板より引用

 この道興准向は、永享2年(1430年) -大永7年(1527年))室町時代の僧侶で聖護院門跡。1465年(寛正6年)准三向宣下を受ける。道興は、左大臣近衛房嗣の子で、兄弟に近衛教基、近衛政家。京都聖護院門跡などをつとめ、その後、園城寺の長吏、熊野三山、新熊野社の検校も兼ねた後に大僧正に任じられた。
 文明18年(1486)の6月から約10か月間、聖護院末寺の掌握を目的に東国を廻国北陸路から関東へ入って武蔵国ほか関東各地をめぐり、駿河甲斐にも足をのばし、奥州松島までの旅を紀行文にまとめたのが、「廻国雑記」であり、すぐれた和歌や漢詩などを多く納めている人物だそうだ。
 そしてこの村君の地を訪れた時に詠んだ和歌が、冒頭に載せた歌である。
                      
 社殿の右側には明治四年村君全域より合祀された、稲荷神社、熊野神社、八幡神社、天神社、八雲神社が合殿で祀られている。

 

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大蔵神社

 平安時代の末期は貴族社会から武家社会への一大変革期と言われている。この社会の変革期に活躍した木曽義仲はこの嵐山町大蔵の地で生まれ育ったと言われていて、義仲に関係する伝承や伝承地が町内に多く残されている。
 木曽義仲の父は、源氏の棟梁・源為義の次男・源義賢で、母は小枝御前。義賢は嵐山町の大蔵に館を構えて住み、そのころ義仲は駒王丸(こまおうまる)という幼名で呼ばれていた。
 源義賢は1153(仁平3年)年頃、武蔵国の名族秩父重隆の養君として上野国多胡から武蔵国大蔵へと迎え入れられ、大蔵館を構えたと言われており、当地を拠点として武威を高めたが、1155(久寿2)年、嵐山町大蔵の地で起こった「大蔵の戦い」で非業の最期をとげることになる。義賢の兄義朝の長男である悪源太義平は、この地方に勢力を伸ばすために大蔵館を攻め、義賢とその一族の大部分が討ち死にした。
 この大蔵の地は、都幾川をのぞむ台地上に位置し、荒川支流の都幾川と鎌倉街道が交差する要衝の地でもある。大蔵神社の森は周囲よりも高くなっており、今でも高い土塁に取り囲まれている。義賢の屋敷はこのあたりにあったといわれ、義賢がこの地を本拠地にして勢力をのばそうとした理由が何となく頷けた、そんな参拝となった。
所在地    埼玉県比企郡嵐山町大蔵523
御祭神    大山昨命
社  挌    旧村社
例  祭    不明

        
 大蔵神社は国道254号線を嵐山駅方面に向かい、月の輪駅交差点の次の交差点(交差点の名称はなし)を左折し、真っ直ぐ進むと埼玉県道344号高坂上唐子交差点にぶつかる。この交差点を真っ直ぐ進み(埼玉県道172号大野東松山線)、都幾川を越え約1km位進むと右側にこんもりとした大蔵神社の社叢が見える。残念ながら駐車場または駐車スペースはないようなので県道沿いに路上駐車し、急ぎ参拝を行った。
           
                  県道172号大野東松山線側から正面参道を撮影
           
                   額に「大蔵神社」と書かれた朱色の両部鳥居
           
                  鳥居の手前左側にあった「大蔵館跡」の案内板
大蔵館跡
 大蔵館は、源氏の棟梁六条判官源為義の次子、東宮帯刀先生源義賢の居館で、都幾川をのぞむ台地上にあった。現存する遺構から推定すると、館の規模は東西一七○メートル・南北二○○メートル余りであったと思われる。
 館のあった名残りか、館跡のある地名は、御所ヶ谷戸及び堀之内とよばれる。
 現存遺構としては、土塁・空堀などがありことに東面一○○メートル地点の竹林内(大澤知助氏宅)には、土塁の残存がはっきり認められる。また、かつては高見櫓の跡もあった。なお、館跡地内には、伝城山稲荷と大蔵神社がある。
 源義賢は、当地を拠点として武威を高めたが、久寿二年(一、一五五年)八月十六日、源義朝の長子である甥の悪源太義平に討たれた。
 義賢の次子で、当時二歳の駒王丸は、畠山重能に助けられ、斎藤別当実盛により木曽の中原兼遠に預けられた。これが、後の旭将軍木曽義仲である。
                                                             案内板より引用
             
                             拝    殿

 大蔵神社の手前左側には稲荷神社が鎮座し(写真左)、その奥には八坂神社の扁額が掲げてある一見神興庫兼倉庫風の社もある。また稲荷神社の側面上部には「大蔵八坂神社御神輿製作の由来」と書かれた額が飾られていた(同右)。

大蔵八坂神社御神輿製作の由来
 大蔵八坂神社の御神輿の由来は、記録によると、今から一六四年前の天保七年(一八三六年)六月に氏子の皆さんから御寄付をいただき造られたと考える。<その後明治八年(一八七五年)にも氏子から御寄付をいただいた記録がある>
 当時を日本史で見ると天明三年(一七八三年)七月に浅間山の大噴火があり、その後の天変地異により天明七年までを天明の大飢饉。天保四年から十年までを天保の大飢饉といわれた年代で、相当の病人死人が出たと記録されている。まさに大飢饉の最中に五穀豊穣身体健全を願って御神輿を造られたことが想定される。また御獅子二体は明治二十年に造られた記録がある。
 以来、毎年御神輿と御獅子の渡御が盛大に行われてきた。時代の変化にともない昭和四十年代には、一時御神輿の渡御が中止されていたが、大蔵町南会が昭和五十二年に設立され本会が中心になり、翌年から渡御が復活したことは大変喜ばしいことである。そして平成元年には青少年の健全育成を願って、氏子総代の成澤勝治氏が子供神輿を御寄進され現在に至っている。
 しかし現在の御神輿は老朽化が著しく平成元年から夏祭りの残金を将来の御神輿購入資金の一部として特別積立をしてきた。
 ここで大行院大澤霊明氏の発案でミレニアム二○○○年を記念して、御神輿を新装しようということになり平成十一年の区民総会にはかり、二十八名からなる大蔵神輿製作実行委員会をつくり、毎戸月額二千円十八ヶ月の積立御寄付を賛同願って造ることに決定した。実行委員会では東京浅草、群馬県高崎市及び県内関係地まで出向き検討を重ねてきたが、高崎市内の神具専門問屋で現品を確認して完成品で購入した。なお今回の御神輿の製作にあたり大行院大澤霊明氏には、御助言と過分なる御芳志をいただき区民一同感謝申しあげるものである。
 異常大蔵八坂神社の御神輿製作の由来を記し後世に伝えるものである。
 平成十二年(二○○○年)七月吉日 大蔵神輿製作実行委員会
                                                           同掲示板より引用
           
         稲荷神社から東側正面にある鳥居。額には「大蔵稲荷大明神」と書かれている。
 

  稲荷神社に並ぶように配置された境内社。写真左側は不明。同右は仙元大日神の石碑。この石碑の両側にある石碑らしきものが何となく気になる。
                 
                        大蔵神社参道付近から撮影

 この大蔵神社には県道沿いや境内西側の「大蔵館跡」の看板付近に土塁や空堀の遺構が見られ、土塁の高さは3m以上あろうかというほど立派なものだ。但しこの土塁等は後世の改築とも考えられ、発掘調査の結果によると現存する土塁は室町時代から戦国時代にかけてのものとされている。
 大蔵地区近辺には源氏3代(義賢、義仲、義高)ゆかりの鎌形八幡神社や笛吹峠、鎌倉街道など、鎌倉武士の息吹きを伝える旧跡が数多く点在している。嵐山という雅な地名と相まって、埼玉県にもこれほど文化遺産の多い地域が存在することが正直嬉しかった。

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萩日吉神社

 比企郡は小川町、川島町、滑川町、鳩山町、吉見町、嵐山町、そしてときがわ町の7町で構成されている。このときがわ町は埼玉県中部にある人口約1万3千人の町で、2006年2月1日に比企郡玉川村と比企郡都幾川村が合併して成立した。都幾川が町を南北に二分するように東西に流れ、その流域の大半の地域は外秩父連山に囲まれた地形だが、南西部のみ岩殿丘陵の西端に位置し街並みもそこに多く存在している。町の面積は約56k㎡で、この面積のおよそ7割が山林という大きな特徴があり、建具の里としても有名で水と緑に囲まれた自然豊かな町である。
 またときがわ町には慈光寺という寺院がある。慈光寺は埼玉県比企郡ときがわ町に国宝のある開山1,300年の歴史の名刹として有名 なお寺で、山号は都幾山。院号は一乗 法華院。本尊は千手観音で、坂東三十三箇所第9番札所としても有名で、関東屈指の大寺院である。また埼玉県では数少ない国宝である「法華経一品経・阿弥陀経・般若心経 33巻」をはじめ多くの寺宝を所蔵する寺として知られている。
 このときがわ町の町中から西側に大きく離れた西平地区に萩日吉神社は静かに鎮座している。別当寺であった慈光寺の鎮護のため、日吉大神のご分霊を勧請し現在の形となったという。

       
            ・所在地 埼玉県比企郡ときがわ町西平1198
            ・ご祭神 大山咋命 国常立尊 天忍穂耳尊 国狭槌尊  伊弉冉尊
                 瓊々杵尊 惶根尊
            ・社 挌 旧平村鎮守・旧郷社
            ・例祭等 例大祭(流鏑馬・神楽)1月第3日曜日 
                 春季大祭(太々神楽)4月
29 他      
 萩日吉神社は、埼玉県道172号大野東松山線を白石峠方面に向かい、「宿」交差点を左折して道なりに真っ直ぐ進んだ西平地区、萩ヶ丘小学校の南側にある。萩ヶ丘小学校の校門の向かい側に専用駐車場があるが、そこから萩日吉神社の鳥居が見え、説明しやすい。                  
「埼玉の神社」によれば、「都幾川上流の山間部に位置する西平は、「首都圏の奥座敷」に例えられる美しい自然環境に恵まれた場所である。その地内には、天武天皇二年(六七三)創建と伝えられる天台宗の古刹慈光寺や、八〇〇年も続く禅道場の霊山院、そして流鏑馬で名高い当社など、長い歴史を持つ社寺が集中しており、古くから聖地として知られてきた」と記載されていて、この地に来て実際に参拝すると、やはり周辺の雰囲気、なにより空気が違うと感じざるを得ない。
            
                            正面一の鳥居
 萩日吉神社      
 社記によれば、当社は人皇第二九代欽明天皇六年(544年)十一月、大臣正二位蘇我稲目宿禰によって創建されたと伝えられ、当時は萩明神と称したが、平安時代初期に天台宗関東別院となった慈光寺一山の鎮護のため、近江国(現滋賀県)比叡山から日吉(ひえ)大神を勧請合祀し、萩日吉山王宮と改称したという。
 更に、『平村弓立山蟇目の由来』と称する伝書によれば、天慶八年(945年)に武蔵国司源経基が慈光寺一山の四至境界を定め、神境龍神山にて蟇目の秘法を習得させ、以来、当山を弓立山と呼ぶようになり、当社の祭礼には蟇目の神事に倣って四方に鏑矢を放つようになったと伝える。
                                                                                                          「埼玉の神社」より引用
          
          一の鳥居の左側、裏手にある社号標    鳥居の右手先にもある木製の社号柱                                      
          
           ときがわ町指定天然記念物で御神木の児持杉(こもちすぎ。写真左・右)      
             
 児持杉 村指定天然記念物
 男杉と女杉があり男杉の根回り6.4mで三本に幹が分かれている。女杉は根回り8.89mあり24本に分かれている。
 二本とも樹高が約40mあり樹齢はおよそ800年位といわれる。なお、この杉は古来よりニ樹を祈念する時は幼児を授けられるとの伝説あり、遠近男女の信仰があつい。
  昭和56年4月1日 都幾川村教育委員会
                                                             案内板より引用
 児持杉を右手に見ながら石段を上がると一旦平らな空間が広がり、そこには二の鳥居、その左側には平忠魂社、またその参道の途中には萩日吉神社の由来を記した案内板がある。
                          
                                二の鳥居
 
       二の鳥居の左側にある平忠魂社            参道の途中に掲げてある由来を記した案内板 
萩日吉神社の由来
 「平の山王様」「萩の山王様」と親しまれるこの萩日吉神社は、社伝によると欽明天皇6年(544)12月に蘇我稲目により創建されたと伝えられます。当初は、萩明神と称されましたが、平安時代初期に慈光寺一山鎮護のため、近江国(現滋賀県)比叡山麓にある坂本の日吉大社を勧請合祀して、萩日吉山王宮に改称したといわれています。源頼朝は文治5年(1189)6月、奥州の藤原泰衛追討に際し、慈光寺に戦勝祈願しその宿願成就の後、慈光寺へ田畑1200町歩を寄進しましたが、同時に当社へも御台北条政子の名により田畑1町7畝を寄進しています。以降社殿の造営が行われて別格の社となり、元禄10年(1696)以降は牧野家の崇敬が厚く、「風土記稿」には「山王社 村の鎮守なり」と記されています。明治元年(1868)の神仏分離令により、現在の神社名「萩日吉神社」となりました。
 当社の本殿は、村内神社の中では最大規模であり、堂々とした荘厳な建物です。そのほか境内には境内社の八坂神社や神楽殿などがありますが、これらの建物を包み込むように広がる社叢は、平成3年3月に県指定天然記念物に指定されています。神社入口には御神木の児持杉もあり、この杉に祈願すれば子供が授かるといわれ、近郷近在の人々より厚く信仰されています。また、当社の使いである猿にちなみ、戦前まで流鏑馬祭りの日に「納め猿」という木彫りの猿像を神社の参道で売っていましたが、この納め猿とともに渡す縫い針も病気の治癒に効能ありと言われていました。現在、1月の例大祭の日に本殿いおいて「納め猿」のみが有償で求められます。
平成17年3月 都幾川村教育委員会
                                                             案内板より引用
 
        手水舎の先 石段の両側には                   石段の先に社殿が見える。
       狛犬ではなく狛猿の石像がある。                 石段を上るにつれて神々しさすら感じる雰囲気。
            
                                 拝 殿
            
                          萩日吉神社の祭りを記した案内板
 萩日吉神社の祭り
 萩日吉神社ではこれまで、1月15日、16日に例大祭、4月26日に春季大祭、10月17日に秋季大祭の行事が行われてきました。
 1月の例大祭には流鏑馬祭りと神楽が奉納されます。流鏑馬は馬を馳せながら弓で的を射る行事で、中世武士の間で盛んに行われましたが、県内でも現在毛呂山町出雲伊波比神社と当社の2ヶ所のみとなり、その貴重さが認められて平成17年3月に県指定無形民俗文化財に認定されました。当社の流鏑馬は、天福元年(1233)に木曾義仲の家臣七苗によって奉納されたことが始まりと伝えられています。その七苗とは、明覚郷の荻窪、馬場、市川氏、大河郷(現小川町)の横川、加藤、伊藤、小林氏です。現在は、三年に一度の1月第3日曜日、それぞれの郷から流鏑馬が奉納されています。
 神楽は、昭和52年に県指定無形民俗文化財に指定されました。1月例大祭には小神楽が、4月29日の春季大祭には太々神楽が神楽殿で舞われ、その厳かな調が神社の森に木霊します。
境内社の八坂神社の祭礼は、7月15日に近い日曜日に行われます。神輿の渡御があり、氏子各組より担ぎ番、行事、世話方が選ばれ行事を執り行います。この祭礼のとき、西平・宿地区では屋台囃子が奏でられます。
 また、西平・上サ地区氏子の行事として、10月17日に近い日曜日に、ささら獅子舞が奉納されます。屋台囃子もささら獅子舞も、それぞれ村指定無形民俗文化財に指定されています。
平成17年3月 都幾川村教育委員会
                                                             案内板より引用
 萩日吉神社を崇敬していた木曽義仲が戦死した後の天福元(1233)年、家臣七苗が明覚郷(荻窪・市川・馬場氏)と大河郷(横川・小林・加藤・伊藤氏)に移住し、義仲の霊を祀り流鏑馬を奉納したことに始まるという。鎌形八幡神社も同様だが、この比企地方には源氏3代(義賢、義仲、義高)の遺跡や伝承が数多い。
            
               社殿の右手には御井社(御神水)・釣取社・合祀社が鎮座している。
                        
      御井社(御神水)の奥に聳える御神木(写真左・右)。児持杉とはまた違う荘厳さをここでも感した。               
          社殿の左手にある神楽殿                     社務所だろうか
 
    社殿左手に鎮座する境内社・八坂神社等                石祠、詳細不明 

 ところで、由緒等の案内板で登場する蘇我稲目という人物は、6世紀に実在した豪族、政治家(506年~570年)で、蘇我高麗の子、蘇我馬子ら4男3女の父。二人の娘(堅塩媛かたしひめ,小姉君おあねぎみ)を欽明天皇の妃(きさき)とし、天皇の外戚(がいせき)として地位を確固たるものにして、蘇我氏全盛期の礎をつくった。
 この蘇我稲目の時代は、氏姓制度の全盛期で、一族が、国家(ヤマト王権)に対する貢献度、朝廷政治上に占める地位に応じて、朝廷より氏(ウヂ)の名と姓(カバネ)の名とを授与され、その特権的地位を世襲した制度で、この時代の有力豪族は、大伴氏・物部氏・平群氏・葛城氏、そして蘇我氏が他の豪族をリードしていた。
 この豪族の中で、早くも衰退したのが、平群・葛城両氏で、その後、大伴金村が朝鮮半島の外交政策の失敗を糾弾され失脚すると、大連の物部氏(物部尾輿)と蘇我稲目の2大勢力の一巨頭となり、両氏の熾烈な権力闘争が繰り広げられた。
            
                         
 両氏の闘争で特に有名なものが、仏教受容問題で、物部氏は廃仏派、蘇我氏は崇仏派で、この争いは子の蘇我馬子、物部守屋の代まで引き継がれ、最終的には587年(用明天皇2年)の丁未の役という諸皇子を味方につけた蘇我馬子が、武力をもって物部守屋を滅亡させたことにより決着する。

 ということは、少なくとも萩日吉神社に記されている蘇我稲目という人物は、崇仏派であり、寺院を創建するならまだしも、神社の創建に関連する人物とは考えにくいと一般的には思われてきた。
 但し、近年では物部氏の本拠であった河内の居住跡から、氏寺(渋川廃寺)の遺構などが発見され、神事を公職としていた物部氏ですらも氏族内では仏教を私的に信仰していた可能性が高まっており、同氏を単純な廃仏派とする見解は見直しを迫られているようだ。逆にいうと、蘇我氏も日本古来の神々や社を敬っていた可能性も捨てきれないとおもわれるのだが。
 さて真実はいかなることだったのだろうか。
  

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今井金鑚神社

 今井氏は武蔵七党の一つ児玉党出身の武士で、「武蔵七党系図」「新編武蔵風土記稿」などによると、庄氏を名乗ったとされる四郎高家の孫にあたる太郎兵衛行助が今井の地に居館を築き今井氏を名乗ったとされている。武蔵七党系図では「児玉庄太夫家弘―庄四郎高家(一谷合戦)―三郎行家―今井太郎兵衛尉行助―四郎左衛門尉経行―藤内左衛門行経(法名善光。弟太郎資経)―六郎経高(法名蓮心)―女子。経行の弟五郎有助―五郎太郎助経―三郎太郎家経―氏家」という系図となっているという。
 武蔵七党の一つである児玉党の一族の館の近くには守護神である金鑚神社を氏神として崇敬していることが多く、市内の今井・富田や、児玉町の真下・浅見など、児玉党支族の名字のつく旧村々にある金鑽神社がそれにあたるという。この今井地域も今井太郎兵衛行助が館を築いたときに守護神として乾の方角(北西)に勧請したと伝わっていて、このことは金鑚神社の影響力の広がりを感じることができる。
所在地    埼玉県本庄市今井1124
御祭神    素戔嗚尊、天照大神、日本武尊(推定)
社  挌    旧村社
例  祭    不明

       
 今井金鑚神社は国道462号を旧児玉町から本庄方面に北上し、四方田交差点を左折して真っ直ぐ上里町へ向かう途中に左側に鎮座している。四方田交差点から約2km弱で、道路沿いに鎮座しているので、道順に苦労せずに着くことのできる社だ。
           
 道路沿いで東側にある社号標石。この標石の奥には寛正年間(1789~1801年)の庚申塔。がある。また社号標石の奥に見える道路は、北廓遺跡という今井氏の居館跡と言われ、1982年の道路工事に伴う埋蔵文化財の発掘調査によって幅3.8m、深さ0.6から1.2mの直角の3条の堀が検出され遺物も出土しているとのことだ。現在は道路や駐車場となっていて当時の面影はまったくない。
           
 
 東側に向いている一の鳥居(写真上)の手前右側には本庄市指定文化財の「今井金鑚神社の獅子舞」の案内板(同左)がある。この獅子舞は 享保9年(1724)に社殿を再建したときに奉納したのがその始まりといわれます。京より招いた神官が伝えたといわれ、京風の雅楽や蹴鞠の仕草が取り入れられているという。また参道を真っ直ぐ進むと(同右)、社務所や社殿が右手側に見えるが、それらは参道に対して横を向いている配置となっている。
            
                              拝    殿

 社殿の正面右側にある開闢木喰不動尊 三笠山           拝殿上部にある社号額
          御嶽神社等の石碑群
              
                             本    殿
 社殿の左手奥には多くの合祀社が存在する。今井金鑚神社は明治初年の社格制定に際しては村社となり、明治四十年には字下郭の金鑽神社、字塔頭の飯玉神社、字下田の稲荷神社、字松島の松島神社、字川越田の天神社、字諏訪の諏訪社、字松原の天手長男神社、字雷電下の雷電神社の八社の無各社を合祀した。

           
                         参道の途中にあった社日

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蛭川駒形神社

 平重衡は平安時代末期の武将で、父は平清盛で五男。母は清盛の継室・平時子で宗盛、知盛らとは同腹。本三位中将と称され、源平合戦、正式には治承・寿永の乱で活躍する平家方の大将の一人である。兄知盛と並んで武勇の誉高く、平家の一員として各地を転戦して武功を挙げる。
 武将として重衡を一言でいうならば「不敗の将軍」といえよう。長兄重盛とは違い、重衡が誕生した保元2年(1157年)から保元・平治の乱を経た平和期に成長期を過ごした為、戦争を知らなかったはずであるのに、初陣24歳にして戦えば連戦連勝という輝かしい戦歴を誇ることは、それだけでも異彩を放つ才能の人物だったであろう。父清盛も重衡のその才能を期待してか、それまでの子供につけていた「盛」を付けずに、伊勢平氏の父祖である平維衡にあやかって「衡」とつけたものと思われる。その将才は「武勇の器量に堪ふる」(『玉葉』治承5年閏2月15日条)と評される一方、その容姿は牡丹の花に例えられたという。
 本庄市児玉町蛭川地区の駒形神社の境内には一の谷の合戦の後、捕えられた平重衡の首を蛭河庄四郎高家が持ち帰り供養した塚と伝えられる首塚がある。
所在地    埼玉県本庄市児玉町蛭川214
御祭神    駒形大神(天照大神他6神で構成、推定)
社  挌    旧指定村社
例  祭    不明 

        
 蛭川駒形神社は埼玉県道75号線を旧児玉町方向に進み、大天白交差点を右折し、国道254号バイパスを真っ直ぐ進む。しばらく進むと、国道462号と交じる吉田林交差点に着くのでそこをまた右折し、そのまま約5分位まっすぐ進むと、道路沿いで左側に駒形神社が見える。
              
                   道路沿いに鎮座する蛭川駒形神社正面参道
                
                         社殿の手前にある御神木
            
                               拝    殿
 蛭川氏は。庄氏より分派した氏族であり、児玉党の本宗家4代目庄太夫家弘の四男である庄四郎高家が、児玉郡の今井郷蛭川荘(蛭川・熊野堂・今井村から成る)の蛭川村に移住して蛭川氏の祖となった事から始まる。姓は藤原だが、本来は有道。蛭川氏の一族は、『吾妻鑑』などの資料に名が見える。
 社伝では、児玉党の本宗家2代目である児玉弘行が神田を若干寄進した事が伝えられている。弘行が社殿を修理した時期は、児玉党祖である児玉惟行の没後と考えられ、11世紀末から蛭川の地が児玉氏本宗家の所領内であったと伝えている。

        社殿の左側にある境内社群        境内社群の手前にある石祠 祠の台座は石棺か?
 
    本殿の奥には合祀社(写真左)や、そこから少し離れた場所にも石祠が1基(写真右)存在する。 
              
             
                           蛭川駒形神社本殿
 拝殿もどちらかと言えば素朴な造りだが、意外と本殿は彫刻などが施されており、壮麗さとある意味妖艶さも醸し出している。

 ところで、冒頭平重衡を紹介したのだが、この平重衡は連戦連勝の「不敗の将軍」と書いたが、最後の最後に1回だけ敗戦を喫している。それが有名な「一の谷の合戦」だ。そしてそこで重衡は生田の森の副将軍であったが、敗走の途中、追われて味方の船にも乗れず、馬をも失い、自害を覚悟したところを、庄四郎高家によって生け捕りになったという。庄四朗高家はもちろん蛭川氏の先祖となる人物だ。
 この庄四朗高家は後に重衡が斬首された首を当地に持ち帰り、篤く祀ったという。それが蛭川駒形神社の隅にある「平重衡の首塚」である。
           
                    本庄市指定文化財 平重衡の首塚
この地は、一の谷の合戦の後、捕らえられた平重衡の首を児玉党の蛭河庄四郎高家がこの地へ持ち帰り供養した首塚であると伝えられている。
                                                  現地標柱案内文より引用

 平重衡は平家方の大将の一人として、兄知盛と並んで勇将として全国にその名は知られていた。その重衡にとって一大事件として起こったのが南都焼き討ちで、東大寺や興福寺を焼失させ、この合戦の顛末により重衡の評判は一変し、仏敵として憎しみの対象となってしまう。『平家物語』では、福井庄下司次郎太夫友方が明りを点ける為に民家に火をかけたところ風にあおられて延焼して大惨事になったとしているが、『延慶本平家物語』では計画的放火であった事を示唆している。放火は合戦の際の基本的な戦術として行われたものと思われるが、大仏殿や興福寺まで焼き払うような大規模な延焼は、重衡の予想を上回るものであったと考えられる。
 ただここで重衡側の弁護すれば、南都に対しては、平家は最後まで、平和的に話し合いを望んでいた。この戦いの前に平家の忠臣妹尾兼康を派遣して、和議を申し込むも、南都はこれにまったく応じず挑発的な行為で答え、清盛に決戦を挑んだことが原因である。元々当初から、南都は平家と対立し、以仁王の挙兵に際しても、反平家の立場をとっていた。こう考えると、焼き討ちは合戦の最中の不慮の事故ではあるが、南都の僧侶側が自ら破滅を招いたともいえ、重衡の罪は重くないと思われる。時代は下るが織田信長の比叡山延暦寺焼き討ち事件とほとんど詳細は同じである。いや織田信長には比叡山の壊滅を計画的に画策していたから信長のほうが遥かに重いというべきか。
 その後も重衡が参戦した墨俣川の戦いや、備中水島の戦いにも勝利し、福原まで進出し、平家軍は京の奪回をうかがうまでに回復していた。
 そして重衡唯一の敗戦である「一の谷の戦い」で名だたる公達が多く討死にするが、平家でただ一人生け捕りにされ、この勇将の戦いはここで終わる。

 重衡は梶原景時によって鎌倉へと護送され、頼朝と引見した。その後、狩野宗茂に預けられたが、頼朝は重衡の器量に感心して厚遇し、妻の北条政子などは重衡をもてなすために侍女の千手の前を差し出している。 『吾妻鏡』では頼朝との対面で「囚人の身となったからには、あれこれ言う事もない。弓馬に携わる者が、敵のために捕虜になる事は、決して恥ではない。早く斬罪にされよ」と堂々と答えて周囲を感歎させた。千手の前と工藤祐経との遊興では、朗詠を吟じて教養の高さを見せ、その様子を聞いた頼朝が、立場を憚ってその場に居合わせなかった事をしきりに残念がっている。
 そして、壇ノ浦の戦いのあった元暦2年(1185年)、重衡は東大寺に引き渡され、妻・輔子との最後の再会を果たした後、斬首された。享年29歳。 時代に翻弄されたとはいえ、太く短く駆け巡る人生で、最後はどのような気持ちでこの短い人生を締めくくったのだろうか。
 重衡の将才としての才能はもちろんだが、平時において心遣いを忘れない気を利かせる、冗談も言うユーモアを持った人物だったという。容貌は「艶かしいほど清らか」と記録が残るほどの美男。また、詩や笛など教養にも優れていた。

 蛭川地域にあるこの伝承が事実かどうかの真偽はあえてここでは問わない。ただ平安時代末期からの歴史がこの蛭川地域に確かに存在していて、それを発見できたことが自分にとってかけがえのない財産の一つとなったことはたしかだ。

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