古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

野本利仁神社

 野本将軍塚古墳の墳頂には平安時代の武将であり貴族である藤原利仁(ふじわらのとしひと)を祀る利仁神社の社殿が建っている。
 藤原利仁は、名門貴族藤原北家(藤原北家利仁流)で、9世紀末から10世紀前半に活躍(生誕、死没共に不詳)延喜15(915)年に鎮守府将軍に就任。平安時代を代表する伝説的な武将のひとりで、平将門(桓武平氏)、源経基(清和源氏)、藤原秀郷(むかで退治の田原藤太)とともに、関東武士の始祖的存在である。鎮守府将軍民部卿時長と越前国人秦と豊国の娘の子であり、藤原北家魚名流の始祖藤原魚名の孫で、歴きとした名門の貴族の出身である。
  この古墳が将軍塚と呼ばれたのは、藤原利仁が鎮守府将軍であったことによる。古墳北側にある無量寿寺は利仁が武蔵守在任中の陣屋跡と伝えられている。

所在地  埼玉県東松山市下野本
御祭神  藤原利仁
社  挌   不明
例  祭   不明
         
 
 利仁神社は野本将軍塚古墳の後円墳部に鎮座していて、名前通り藤原利仁を祀る神社である。
 藤原利仁は911年(延喜11年)上野介となり、以後上総介・武蔵守など坂東の国司を歴任し、この間915年(延喜15年)に下野国高蔵山で貢調を略奪した群盗数千を鎮圧し、武略を天下に知らしめたということが『鞍馬蓋寺縁起』に記されている。同年に鎮守府将軍に任じられるなど平安時代の代表的な武人として伝説化され、多くの説話が残されている。『今昔物語集』の中にある、五位の者に芋粥を食べさせようと京都から敦賀の舘へ連れ帰った話は有名である。
 ちなみに芥川龍之介はこの話を題材に小説『芋粥』を執筆している。
          
 県道345号小八林久保田下青鳥線側には野本将軍塚古墳の案内板や古墳碑があり、その先に利仁山、無量寿寺の石標柱がある。寺院の参道の先右側に利仁神社の鳥居がある。ちなみに写真左側には農村環境改善センターがあり、目的地の目印にもなる。
          
           野本将軍塚古墳くびれ部にある利仁神社正面の鳥居とその先の参道
 
 利仁神社に向かうために古墳のくびれ部の参道を真っ直ぐ進み、突き当りを左側、つまり後円墳部に進む。高さ13mの古墳の為、小さな山を登っていくような感じで、周りは鬱蒼とした森林が参道の石段の周囲を包み、社殿の後円墳部頂上まで延々と続く。
          
                           利仁神社 拝殿
 藤原氏からは武家でも、天慶の乱鎮定に関与した藤原秀郷や藤原為憲、また鎮守府将軍藤原利仁などを出し、その後裔と称するものが多くに分れて全国各地で繁栄した。こうした事情で、公家のみならず武家においても藤原姓を名乗る氏が極めて多く、わが国の苗字全体の五、六割が藤原姓と称していたともいわれる。
 この野本の地も藤原利仁の末裔でもあり、野本氏の始祖とされる「野本基員(のもともとかず)」がこの地に祀ったものではないかと伝えられている。藤原利仁の後裔を称する氏族は多く、藤原秀郷と並んで藤原家の武家社会への進出を象徴する人物と言える。また木曽義仲幼少期の命の恩人で『平家物語』でもその討ち死にシーンで涙を誘う斎藤実盛(長井別当)や、歌舞伎『勧進帳』で弁慶と安宅の関で問答する富樫氏はともに利仁流藤原氏と言われている。
 
          
                   拝殿に掲げられている利仁神社の扁額

 しかし、この中には後世の仮冒も相当多くあり、他の古代氏族の後裔が藤原姓の雄族の養子、猶子となるとか、先祖の系を藤原氏に強いて接続させたという類例も、武家関係では非常に多い。地方の雄族で先祖が不詳になったものには、中央の権門勢家にかこつけ藤原姓と称したものも多々あり、地方武家の藤原氏と称する氏にはむしろ十分な注意を要する。佐藤・斎藤・伊藤・加藤・後藤・武藤・近藤・安藤・尾藤・遠藤など、一般に藤原氏後裔とみられている苗字は、各地に分布が多いので一概にはいいにくいものの、むしろその多くが本来は藤原姓ではなかったという。

 前出の野本基員は、平安時代から鎌倉時代にかけての武士で野本氏の家祖とされる人物である。
 『新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集』(『尊卑分脈』)には、基員は藤原鎌足の末裔として記されている。中臣(藤原)鎌足 - 不比等 - 房前(藤原北家の始祖)- 魚名 - 鷲取 - 藤嗣 - 高房 - 時長 - 利仁 - (斎藤)叙用 - 吉信 - 伊博 - 為延 - 為頼 - (竹田)頼基 - (片田)基親 - (野本斎藤左衛門)基員となる。基員は鎌倉時代に御家人として源頼朝の信頼をうけ、武蔵国比企郡野本(現在の埼玉県東松山市下野本)の地に居住し野本左衛門尉を称した。『吾妻鏡』には、基員が建久4年(1193年)に頼朝の前で息子の元服式を行い祝いに宝を貰ったり、建久6年(1195年)幕府の命により相模の大山阿夫利神社へ頼朝の代参をつとめた記載がある。『曽我物語』には、「野本の人々」が建久4年(1193年)に源頼朝の北関東の狩猟の際に、武蔵国大蔵宿で頼朝の警固を行った記載がある。また同時期の建永元年(1206年)6月16日付けの後鳥羽上皇院宣によると、基員は越前国河口荘の地頭職を停止させられており、越前国にも所領を持っていたことがわかる。後に、基員の実子である範員に河口荘は継承されている。
 また、野本の地は、延喜15年(915年)、鎮守府将軍藤原利仁が館を構えたと言われており、現在も残る館跡のすぐ隣に前方後円墳があり、ここに利仁神社が建立されていることから、藤原利仁の末裔でもある基員が、この地で利仁をまつり生活していたものと推測される。しかし、この古墳の築造時期は、5世紀末~6世紀初頭と考えられており、藤原利仁の時代よりもはるかに昔のものであり、真の埋葬者は不明である。
 基員は、源義経の義兄弟である下河辺政義の子である時員を養子としている。この野本時員は、『吾妻鏡』によると六波羅探題在職中の北条時盛の内挙により能登守に就任したり、摂津国の守護(1224年 - 1230年)にも就任している。時員の弟である時基は、押垂を名乗り押垂氏の祖となった。押垂は、現在の埼玉県東松山市の野本の隣の地名である。
 野本氏は、藤原氏の末裔であり武蔵国の地名に由来するが、13世紀後半には武蔵国に関する記録からは忽然と消えてしまう。しかし、五味文彦は、『吾妻鏡』における前述の野本斎藤基員の子の元服記事(建久4年(1193年))に着目し、時の権力者北条氏以外の御家人で元服記事が『吾妻鏡』に採用されているのは、『吾妻鏡』の編纂された時期に、野本氏が鎌倉幕府の中枢にいた『吾妻鏡』の編纂者と特別な関係にあったことを推定している。
                                                    ウィキペディア引用




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野本将軍塚古墳

  東松山台地は関東平野西部中央、埼玉県東松山市の市街地から大里郡寄居町赤浜にかけて広がる関東ローム層からなる細長い台地の名称である。台地の南側は都幾川とその流域の低地になっていて、北側は比企丘陵の南端に沿って流れる市野川流域となっている。国道254号と埼玉県道296号菅谷寄居線に沿っており、嵐山町の市街地以西になると南西側に外秩父山地がはみ出してくるため、北西に向かうほど細長くなっていき、先端部は寄居町赤浜までのびて荒川まで達しているなど東西に細長く、また台地でありながら全体的に平坦な地形が多い特異な特徴がある。

 比企丘陵(男衾地域を含む)地域は、北武蔵のなかでも古墳遺跡の多いところで、北埼玉や児玉地方とともに古墳時代には北武蔵のなかでも古くから発達した地域であったと言われているが、東松山台地はその比企丘陵の稜線下に位置していている関係から比較的早くから開発された地域だったことは、都幾川を挟んだ南側の低地帯で発掘が進んでいる反町遺跡の発見、調査で解っている。(古墳時代初頭の水晶を素材とした玉を生産した工房を含む数多くの住居跡群が発見されている)

 この反町遺跡は出土品の質・量から野本将軍塚古墳の背景となる遺跡と考えられるため、最近では前期古墳説が有力となりつつある。

所在地   埼玉県東松山市下野本612
形  状   前方後円墳  全長115m、後円部高さ13m、前方部高さ8m
時代区分  古墳時代初期から中期か(推定)
区  分   埼玉県指定史跡


       
 野本将軍塚古墳は国道254号下野本交差点を右折して国道407号に移り、下野本南交差点を左折すると、道路際までせり出した鬱蒼とした雑木林の丘が左側にある。そこが野本将軍塚古墳だ。また標識もあるので分かりやすい。北側には無量寿寺や野本小学校があり、無量寿寺の駐車場を一時お借りして散策を行った。
 この古墳は東松山台地の東方、川島町に向かって張り出した舌状台地のほぼ中央で、南面して都幾川を望む台地の縁辺に位置していて、標高差はさほどないが南側の都幾川及びその周辺の低地が一望できる場所に造られている。
          
          
 県道345号小八林久保田下青鳥線の脇に、古墳銘を刻んだ石碑が建っていて、その横のかなり薄くなって見づらくなった案内板がある。よく目をこらして見ると、野本将軍塚古墳は昭和35年(1960)3月1日に県の史跡に指定された。また全長115mの墳丘は、武蔵國でも最大規模の二子山古墳(埼玉古墳群)に匹敵する大きさだが、なんでも明治の末に、隣接する旧野本小学校の敷地を拡大するために先端部の封土が大量に削り取られてしまったことが知られているので、復元すると埼玉古墳群の二子山古墳を凌駕する可能性もあるそうである。この古墳の築造時期は最近の推定では二子山古墳よりかなり古い前期古墳と考えられていて、そうであれば、築造当時は北武蔵で最大の墳墓であったことになる。
  また昭和53年の市史編纂室による後円部墳頂のボーリング探査の結果、礫の分布が確認され、礫槨状主体部の可能性が考えられている。 
      
 鞍部から後円部を撮影。高さ13mと非常に高い墳丘で、高さだけでは埼玉古墳群の二子山古墳と同じ高さ。また墳丘の高さからその当時の高度の土木技術を感じずにはいられない。
         
                  無量寿寺、野本小学校側にある案内板

野本将軍塚古墳
 将軍塚古墳は、県内有数の大きさを誇る前方後円墳です。墳丘の大きさは、全長は115m、高さ前方部で7m・後円部で12mです。
 まだ学術調査が実施されていないので、内部主体(埋葬施設)や外部施設(ハニワなど)は明かではありません。
 将軍塚古墳を中心に、東北には柏崎・古凍古墳群、南には高坂・諏訪山古墳群、西には塚原・青島古墳群、さらに吉見丘陵西斜面には吉見百穴群が分布してます。このような古墳の分布は、古墳時代すでにこの地方が、高度の社会的発展をとげていたものでしょう。
 昭和53年3月         東松山市教育委員会
                                                      案内板より引用

 野本将軍塚古墳の埋葬者は一体誰だったのだろうか。この比企地域の100mを超す古墳はこの古墳一基のみで、近場に存在する柏崎1号墳、通称おくま山古墳が62mの前方後円墳、東松山市大谷にある雷電山古墳(76m、前方後円墳)、柏崎10号墳(天神山古墳、62,5m、前方後円墳)以外は小古墳がほとんどである。だからこそこの野本将軍塚古墳の大きさが一際目立つわけで、この古墳の埋葬者と埼玉古墳群を含めた北武蔵地域一帯との因果関係はどのようなものだったのか感じずにはいられない。
 何かと埼玉古墳群との関係に関して比べられる特別な古墳であるが、大変魅力ある古墳であることには間違いなく、今後の発掘調査を切に希望する次第だ。

 

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須影八幡神社

所在地     埼玉県羽生市須影1568
主祭神         
誉田別命・菊理姫命・伊弉諾命・伊弉冉命
社  挌     旧村社
創  建      不詳


地図リンク
 国道125号行田バイパス砂山(東)交差点付近を左折し、道なりに真っ直ぐ直進すると左側に須影八幡神社が見える。平野部に鎮座する社としては比較的境内は広く、常に整備され綺麗である。専用駐車場はないが、駐車スペースは確保されている。今回は鳥居を挟んで道路の反対側にある駐車スペースに車を停めて参拝を行った。


 
                須影八幡神社拝殿
 「新編武蔵風土起稿」に「村の鎮守なり、慶安二年八月二十四日、社領十九万石石斗余を賜う」と記されており、別当(寺院が神社を管理していたこともある)として蓮華寺の名前も見える。その最後の住職であった潮元が、安政四年(1857年)から慶応元年(1865年)までの間に、現在の本殿と拝殿を造営したものだ。
 
              本殿壁面の見事な彫刻
 
               本殿 反対側より撮影

所在地       羽生市須影
彫師        3代石原常八
彫物製作年代  安政5年(1858年)
 新編武蔵風土記稿に「村の鎮守なり、慶安2年8月24日、社領19石5斗余を賜う」と記されており、別当として蓮華寺の名がある。その最後の住職だった潮元が、安政4年(1857年)から慶応元年(1865年)まで現在の本殿と拝殿を造営した。拝殿の棟札には、安政5年再造、棟梁は当所の清水仙松、三村若狭正利の名がある。三村家は市内本川俣で代々宮大工を世襲、上州雷電神社の造営にも携わった名家だ。彫刻は羽生市指定文化財になっている。
 本殿の西、北、東面羽目板には、「七福神、神功皇后縁起、大蛇退治、八幡宮地形つき」のテーマの彫物がある。八幡宮地形つきは、本殿建設工事の様子を表したもので、人々の表情がなんともいきいきとしている。テーマ的には他に類を見ないユニークなものだ。彫工は石原恒蔵主計(3代石原常八)。また拝殿棟札には市内下岩瀬の入江文治郎茂弘の名がある。
 
指定文化財 須影八幡社彫刻(彫刻 羽生市指定第26号 昭和44年3月20日)
 この八幡神社は。「新編武蔵風土記稿」に「村の鎮守なり、慶安二年八月二十四日、社領十九石五斗余を賜う、」と記されており、別当(寺院が神社を管理していたこともある)として蓮華寺の名前も見えます。その最後の住職であった潮元が、安政四年(1857年)から慶応元年(1865年)まで現在の本殿と拝殿を造営したものです。
 本殿の壁面には西、北、東の3面に彫刻が2つずつ残されています。西側は「七福神」、北側は「神功皇后縁起」、東側は「大蛇退治」と「八幡宮地形つき」を主題としています。「地形つき」は、本殿の建設工事の様子を表したもので、写実的に精巧に作られており、そこに出ている人は、本人に非常によく似ていたといわれています。
 棟札によりますと、拝殿は安政五年(1858年)に再造され、棟梁として当所の清水仙松や三村若狭正利の名前が見えます。三村家は市内本川俣で代々宮大工を世襲しており、市内常木の雷電神社や板倉町の雷電神社の造営に携わるなど著名です。彫工のなかには、市内下岩瀬の入江文治郎茂弘の名前も記されています。
 おのおのの彫刻の大きさは、縦1メートル、横2.1メートルです。
                                                    羽生市教育委員会
                                                      案内板より引用
 
   社殿奥にある境内社産泰神社と庚申塔               境内社 稲荷神社

 須影八幡神社が鎮座する羽生市須影地区は羽生市の南端に位置する。羽生市は古くから利根川の乱流の最も甚しい地帯で、自然堤防、河畔砂丘が存在し、一様な平坦でなく、高い部分を畑・宅地に使い、湿地を水田等に利用してきた。須影地区南方には利根川の旧流路の一つである会の川が流れているが、かつては相当な川幅と水量があったと思われ、しかもかなり老朽化した河川だった為に沿線には広範囲に氾濫跡の自然堤防と内陸砂丘(自然堤防の上に砂が堆積した河畔砂丘)が分布している。

 この河畔砂丘とは、利根川の土砂運搬作用と堆積作用、それと季節風によって形成された独特の地形であり、それらは羽生市と加須市の境界を流れる付近で顕著であり、特に内陸砂丘は羽生市上岩瀬、砂山、加須市志多見にかけて広範囲に分布している。とりわけ須影地区南方にある志多見砂丘は延長が3Kmにも及び大規模である。
 

 須影八幡神社の祭神に菊理姫命(ククリヒメノミコト)がいることも注目に値する。この菊理姫命は別名白山権現、白山明神、白山比咩(しらやまひめ)神と呼ばれているが、日本書紀では一箇所に登場するのみ。イザナミ、イザナギが夫婦喧嘩したときに仲裁したとしか書かれていない謎に包まれた国津神である。
 菊理姫神は、加賀の霊峰白山を御神体とする白山比売神社の祭神で、古来、人々から「いのちの親神」と崇敬されてきた女神である。 一説に白山神は大山祗神ではないかともいわれるように、菊理姫神はその本源として山の神の神格を持っている。 同時に山は神霊の宿るところ。 山は水源であり、その水泊だって水田を潤し穀物を実らせる。 それ故に農業の守護神としてそのパワーを発揮する神ということになる。

 前段にて伊弉冉尊に逢いに黄泉を訪問した伊奘諾尊は、伊弉冉尊の変わり果てた姿を見て逃げ出した。しかし泉津平坂(黄泉比良坂)で追いつかれ、そこで伊弉冉尊と口論になる。そこに泉守道者が現れ、伊弉冉尊の言葉を取継いで「一緒に帰ることはできない」と言い、菊理媛神が何かを言うと、伊奘諾尊はそれを褒め、帰って行った、とある。菊理媛神が何を言ったかは書かれておらず、また、出自なども書かれていない。この説話から、菊理媛神は伊奘諾尊と伊弉冉尊を仲直りさせたとして、縁結びの神とされている。また、死者(伊弉冉尊)と生者(伊奘諾尊)の間を取り持ったことからシャーマン(巫女)の女神ではないかとも言われている。ケガレを払う神格ともされる。
 神名の「ククリ」は「括り」の意で、伊奘諾尊と伊弉冉尊の仲を取り持ったことからの神名と考えられる。他に、糸を紡ぐ(括る)ことに関係があるとする説、「潜り」の意で水神であるとする説、「聞き入れる」が転じたものとする説などがある。

 



 


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瀬山八幡神社、三ヶ尻観音山、踏鞴薬師堂

 瀬山八幡神社が鎮座する深谷市瀬山地区は、熊谷市三ヶ尻地区と隣接し、律令時代には大里郡、幡羅郡、榛沢郡との境界地域であったという。この地域は地形的には荒川北岸に位置し、荒川という名称らしく時代によって流域の位置がしばしば変わったと思われ、その結果境界域もその都度変化があったと思われる。この瀬山地区も現在は深谷市に編入されているが、古代のある時期三ヶ尻地区内に組み込まれていた期間があったことは多くの文献からわかっている。
 またこの地域は荒川の度重なる氾濫によって肥沃な土地となり、早くから稲作が行われて、また人口も多かったと言われ古代から栄えていた地域だったようだ。

 瀬山八幡神社で10月10日、11日に行われる「八幡神社屋台囃子」「八幡神社庭場の儀」は深谷市無形文化財に指定されている。

所在地   埼玉県深谷市瀬山398
御祭神   誉田別尊(ほむだわけのみこと)(御神体乗馬木彫神像)
社  挌   不明
例  祭   10月10日八幡神社庭場の儀 

       
 瀬山八幡神社は秩父鉄道明戸駅の近くで、国道140号と140号バイパスとの間に鎮座している。この地域はすぐ西側から側にかけて櫛引台地の裾野が広がる。この櫛引台地は荒川によって作られた古い扇状地が浸食されてできた沖積台地で、寄居付近を頂部としているが、構造的には武蔵野面に比定される櫛引面(櫛引段丘)と、南東側の立川面に比定される寄居面(御稜威ヶ原(みいずがはら)段丘)とで段丘状に形成されていて、櫛引面は、JR高崎線沿いの崖線で比高差5~10mをもって妻沼低地と接しているとのことだ。瀬山地区の東端は櫛引段丘との境界部の東側にあたり、荒川北岸の氾濫低地(沖積地)を形成していて、瀬山八幡神社はその沖積地の一角に鎮座している。
       
           瀬山八幡神社入口 社殿の隣には広場があり、子供たちが遊んでいた。
  
       社殿の手前左側にある神明社               鳥居の右側にある稲荷社
   
            拝    殿                           本殿覆屋

 瀬山八幡神社に関して「大里神社誌」で気になる箇所があり、ここに紹介したい。

 以前は、例祭日は、正月11日であった。この祭のあらましは大里郡神社誌によれば次の通りである。
 10日の晩の「前夜祭」には、当番宿から神社への行列がある。当番宿とは、祭の世話をする四人の当番の頭(当番頭)の家のことで、当番酒宿ともいい、1年間、幣帛(御幣)を預る。前夜祭には氏子は皆、当番宿に集まり、神職が幣帛を捧げ持ち、前後をお伴の村(大字)の役員や氏子が、堤燈を携えて厳かに行進をする。神社の前庭には庭燎が焚かれ、殿内には燈篭が点される。  明けて11日午前10時から祭事が執行される。早朝に年番は真新しい大莚を10枚持ち寄り、神事が終ってのち、前庭にこの莚を敷く。社殿を背に中央に神職が座り、神職の左が区長(大字の長)、右に氏子惣代、以下定められた位置に着座し、祝盃を挙げる。おもむろに前年度の当番が暇乞いを告げ、既に選ばれている新年度の当番が披露される。そこで神職は、半紙を四つに切り、そのうちの一枚に鋏で穴を切抜き、それらを折畳んで籤を作り、新年番4人に抽籤をさせる。穴のあいた籤を引いたものが新しい年番頭と決定する。年番頭が年番酒宿となり、これを氏子惣代が発表する。こうして祝盃の宴は盛り上がって行く。
 宴の行事に「御供の儀」というのがあり、餅を取りあう余興の行事らしい。正月7日に氏子から餅米の寄付が集まり、9日に(当番)酒宿で、よく身を清めて餅をつく。この餅は「的り餅」ともいひ、手に入れた者は五穀も養蚕も大当りとなるといわれる。  「莚かぶせ」という行事は、
境内入口付近の池に莚を浸しておき、これを余興の座へ運んできて、皆にかぶせて廻る。餅の争奪に関連する行事らしい。珍しい行事なので、近郷からの見物人も多かったというが、「非文明の行事」という理由で近年(大正頃か)に廃止になった。餅の争奪ともども詳細な説明が欠けているのは残念である。  宴が終ると、新年度の酒宿へ幣帛帰還の式がある。記載はないが、おそらく夕刻に行なはれ、前夜祭と同じ行列が組まれるものと思われる。「酒宿」という名からも、古くはどぶろくが造られて、神社に供進されたようだ。
 今は、例祭は10月11日となり、「庭場の儀」に引き継がれている。
                                                 大里郡神社誌より引用

 ここには瀬山神社の境内入り口付近に「池」があり云々と書かれている。この池はその昔「少間池」と言われ、飯玉神社の項でふれた片目のドジョウの伝説が今でも残っている。俗にいう古代鍛冶集団伝説である。
 
 少間の池は、三尻(みかじり 熊谷市)の観音山から西南へ三○○メートル、瀬山の田圃の中にある。傍らに「少間様」という石宮が祀られている。昔は深い淵だったが、今は埋まって水もなく、ただ細長い池には葦が一面に茂っているのがみられる。
 伝えるところによると、この池に棲む魚はみな片目だったといい、瀬山の人々は「少間様」のお使いだといって、どこで捕まえても「少間様の池」に送りとどける(放つ)か、その場で逃がしてやったという。
                                                埼玉県伝説集成より引用

 瀬山八幡神社の「瀬山」も元々は少間が転じたものだという。また埼玉苗字辞典にも「狭山」について以下の記述がある。

狭山 サヤマ 入間郡勝楽寺村(所沢市)は狭山庄を唱える。同郡二本木村字狭山、木蓮寺村字元狭山、峯村字狭山、三ツ木村字狭山、高倉村字狭山(以上は入間市)あり。今の狭山湖(旧勝楽寺村)より宮寺郷(入間市)の附近一帯を狭山庄と称す。現在の狭山市は昭和二十九年の名称である。また、榛沢郡折之口村字狭山(深谷市)、瀬山村(川本町)一帯を狭山と称す。瀬山村条に「村の東に少間池あり、当国名所狭山の池は是なりと云々」見ゆ。

 
この瀬山八幡神社から国道140号バイパスに向かう道路のすぐ右側に「少間池跡」が存在している。現在は一面水田地帯となっていて石祠として残っているだけだが、元々は鉄穴流し(かんなながし、砂鉄を含む土砂を水で流し、各所に堰を設けた樋に通して、砂鉄と土砂とを選り分ける方法)をしていた際の鉱物の沈殿池だったと言われている。
            
                             小間池跡の石祠
 この「少間」は「さやま」と読む。すると不思議な共通点がある場所に誘ってくれる。この瀬山地区からよく見える山、「三ヶ尻観音山」だ。
                         
                                                             三ヶ尻観音山全景
三ヶ尻観音山
  平地である市内において独立した山で、眺望もよく、特に南方は視界が開けています。標高83.3メートル、周囲約850メートルで、松・なら・くぬぎ等で被われています。
カタクリやニッコウキスゲ、つつじなど四季折々の花が楽しめます。
 南麓にある龍泉寺は真言宗の寺で、渡辺崋山ゆかりの文化財(県指定絵画の松図格天井画・紙本淡彩双雁図、県指定古文書の龍泉寺本訪へい録)を所有しています。カタクリやニッコウキスゲ、つつじなど四季折々の花が楽しめます。
 「成人の日(1月の第2月曜日)」にだるま市が開かれます。

                                                       熊谷市ホームページより引用
  観音山は龍泉寺の裏にある山で熊谷市における景観地の一つです。周囲をとりまく豊かな樹林は人々の心に安らぎを与えるとともに野鳥の絶好の生息地伴っており、貴重な緑地として、ふるさとを象徴するものとなっています。
 林相としては主にアカマツ、コナラ、クヌギ、サクラなどから構成されています。
                                                                                     熊谷市三尻観音山ふるさとの森より引用
                                                                                       
  三ヶ尻観音山は残丘と言われている。残丘とは周囲の台地面に対して一段高くなっている丘陵地のことで、深谷市の仙元山、岡部町の山崎山なども同種である。埼玉県北部のこの辺りは、大昔から利根川、荒川が入り乱れて流れていて、川の流れでまわりだけがけずられていって、観音山の場所だけなぜか残った為、現在の形状となったらしい。
 この三ヶ尻観音山はその昔は「狭山」と呼ばれていたようで、文明18年(1486年)殼恵比国紀行には「弥陀(箕田)という所に明かして武蔵野を分侍るにの径の辺名に聞こえし狭山あり。朝の霜をふみわけて行くに僅かなる山の裾に形ばかりの池あり」と記されていて、この文中にある沙山池は三尻観音山の池であると推察される。また江戸中期に記された「江戸砂子」という書に「狭山は田夫瓶尻のはげ山といい、観音堂あり、力士門の額に狭山の2文字を顕す」とあり、古くから知られていた場所だった。
 また山頂には神名を刻んだ板碑がいくつも建てられ、昔は信仰の山でもあった時期もあったと思われる。延喜式内社、田中神社や、瀬山八幡神社から見る三ヶ尻観音山はまさにランドマークであり、戦略上にも押さえたい自然の要衝だ。

 ではなぜこの三ヶ尻観音山が昔「狭山(さやま)」と呼ばれていたか。この答えを考えてみると終始古代鍛冶集団がそのルーツであったのではないかと考えてしまう。つまり狭山の「サ」が朝鮮語の鉄を意味する「ソ」であり、またある説では「砂」つまり、砂鉄が取れる山という意味ではないかと推測する。観音山において鉄穴流しをした為に少間池はできたということだ。
 不思議なことにこの観音山直下には少間山観音院龍泉寺が存在し、この寺の御本尊は不動明王だが、別に観音山の中腹にある観音堂があり、そこには千手観音が祀られている。龍泉寺の宗派は真言宗豊山派に属し、本山は奈良県桜井市にある長谷寺(はせでら)で、開山開基は1590年であると渡辺崋山は著書の『訪瓺録』の(ほうへいろく)中に記しているが、この千手観音は今から約1200年前この近くの狭山池の水中より出現したとの伝承があり、少なくとも観音堂は龍泉寺の開山開基よりも古い歴史があり、また龍泉寺正統の御本尊である不動明王とは違う歴史の系図があったと見るほうが自然だし、元々観音堂がこの地にあって、後から龍泉寺が建てられれ、この観音堂を吸収、合併したと考える。
 この観音堂に祀られている千手観音は何を意味しているのだろうか。狭山池の水中より出現したという時期が奈良時代という事は少なくともそれ以前に存在していたという事になる。「発見された」という客観的な表現ではなく「出現した」という主体的な表記に隠されたその意味は大変大きい。もしかしたら観音山の鉄穴流しと関連があるのではないか、と想像を膨らましてしまう。

  この三ヶ尻観音山の西側には薬師如来を本尊とするが存在する。別名踏鞴薬師堂。国道140号バイパス沿いなのでよく見える。この薬師堂は道路を隔てたすぐ西側に瀬山正福寺があり、その寺の管理下にあるが、歴史は古く、初代薬師如来は養老元年(717)春日仏師一夜の作と言われている。
           
                         田原(踏鞴)薬師堂全景
           
                        薬師堂の左側にある案内板

 この案内板には興味深い一文が掲載しており、「足でふいごを踏んで金物や和鉄をつくったところに建てた御堂」と書いてある。この一文の意味している意味は非常に重要で、この地「田原」は「踏鞴」であり、「タタラ」であり、古代鍛冶集団がかつてこの地域に活動していた何よりの証拠ではないだろうか。



                                                                                                                 
 

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玉淀水天宮

 
所在地   埼玉県大里郡寄居町寄居703
御祭神   不明
由  緒   県指定名勝玉淀の下流で発見された水神様を水天宮として改め、水難よけや安産、子育てなどを祈願して昭和6年に始められました。 寄居玉淀水天宮祭の付け祭りとして行われる花火大会と舟山車の競演は“関東一の水祭り”と呼ばれています。 平成12年実施の21世紀に伝えたい寄居景観ベスト10の第1位となっています。
                                                寄居町観光案内より引用
例  祭   水天宮祭 8月の第1土曜日

     
 玉淀水天宮は国道254号を寄居方向に向かっていき、信号機のある「露梨子」(つゆなし)の交差点十字路を右折して寄居の街中に入っていく。荒川に架かる正喜橋を越えてすぐのコンビニエンスのある十字路を右折してしばらく走ると左側に水天宮が見えてくる。但しこの道は道幅が少々狭く、また水天宮祭花火大会の規模に比べて以外に社自体は小さい。駐車場や専用駐車スペースもないので、前述のコンビニエンスに駐車し参拝を行った。
       
                                玉淀水天宮 正面
                
                           鳥居の左側に掲げてある案内板
玉淀水天宮
   昭和6年にこの地が「玉淀」(県指定名勝)と命名された後、神社の設置の話がもちだされ、探したところ川に面したところに石の宮があるのが発見されました。これは俗にいう水神様といってこの地方の漁師たちがお祭りして、水難除けの神様として信仰していることがわかり、当時の玉淀保勝会が直ちにこの水神の神体を基として水天宮を祀りました。

水天宮の縁日は毎月「五」の日であるというので、最初の大祭を昭和6年8月5日に挙行し、現在は8月の第1土曜日に盛大に行われています。祭事のあと「つけまつり」として、町内別の供奉船が花やボンボリちょうちん等で飾りたて、笛、太鼓等ではやしながら玉淀を遊覧し、多数の煙火が打ち上げられます。夏の祭りの美観は実にみごとなもので、寄居町の年中行事のもっとも大きい祭りとして、また、埼玉県内としての大祭の一つに数えられています・
現在、水天宮は、水難除けと安産の神様として広く信仰されています。
                                                玉淀水天宮案内板より引用
                
                                こじんまりとした拝殿

 玉淀水天宮はなんでも通称「本宮」といい、「奥の院」があるという。なんでも当地周辺が玉淀と命名されて埼玉県名勝に指定されたとき、神社設立の話が持ち上がり、周辺調査をしたところ、水神が発掘されたことから、水神を神体として創建したという。この水天宮の荒川に面した斜面の一角に石祠があるのだがそれが発掘された水神であり、ここが「奥の院」であろう。
(後で知ったのだが、奥の院は、その後の洪水の時流されてしまったので、現在のお宮はその後あらためて立てられたものだということ)
               
                                玉淀水天宮 奥の院

 ところで鉢形城跡の前に広がる荒川の河原は通称「玉淀河原」と言われ、秩父山地から関東平野に流れ出る荒川が作り出した特徴的な地形で、奇岩・絶景の景勝地として昭和10年に県指定の名勝となった。アユなどの釣りをはじめ、川遊びやデイキャンプなどの行楽の場として人気だ。毎年8月の第1土曜には玉淀水天宮祭を開催。数百の提灯で飾られた舟山車が出て、約5000発の花火も打ち上げられる。河岸には桜並木があり、春は花見客で賑わう観光スポットとしても有名だ。

                  
           玉淀水天宮奥ノ院の前面に広がる荒川の風景。玉淀河原はこの上流部にあたる。

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