古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

折原佐太彦神社

所在地  埼玉県大里郡寄居町折原615
御祭神  佐太彦大神(猿田彦大神)
社  挌  不明
例  祭  川瀬祭り 例年7月20日に近い日曜日

       
 折原佐太彦神社は折原地区内を流れる坂東川が荒川に合流する少し手前の西側に鎮座している。鉢形城から折原白髭神社に行く道路をしばらく真っ直ぐに進むと右側に常光寺が道沿いに見えてくる。佐太彦神社はその常光寺の奥の北側に静かに、そして身を潜むかのようにひっそりと鎮座している。
 専用駐車場はないが、社の手前に駐車スペースがあり、そこに車を停めて参拝を行った。
          
                         折原佐太彦神社 社号標
           
                         神社入口の明神鳥居
 よく見ると鳥居の柱には洪水対策であろうが鎖がついている。以前に何度も流されたのであろうが、自然の力はなんと凄まじいものであるかこの鳥居の現状を見てもわかる。
 
    鳥居の右側にある境内社・稲荷大明神          境内社・稲荷大明神の隣には神楽殿
                  
                                       社殿左側にある境内社3社。詳細不明
           
                              拝   殿
 この拝殿の右手側には樹齢1200年以上の樫の木の御神木が悠久の時を越えて静かに佇んでいる。
           
                              本   殿
            
                      素晴らしい彫刻の施された本殿

                         
 折原佐太彦神社では毎年7月下旬に執り行われる例祭・川瀬まつりで奉納される太々神楽が有名らしいが 、伝承によると、この神社ができた翌年神輿を担ぎ荒川の川瀬の中流で一同礼拝したところ、何処からか純白の霊鳥が一羽、神輿の間近に現れて天に舞い上がり、佐太彦神社の方向に飛んでいった。後を追っていくと境内の大樹に止まり、次に本殿の屋根に移り、しばらくして姿を隠した。このことがあってから川瀬祭りを続行している、ということらしい。


                      

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折原白髭神社

 寄居町折原地区は、その昔は「織原」と書き、戦国時代後北条氏の家臣であった丹党織原氏の屋敷が折原地区に存在していた。この丹党は武蔵七党の一党で、平安時代後期から鎌倉時代にかけて武蔵国入間郡・秩父郡・および 児玉郡西部(旧賀美郡)にわたって繁栄した 武士団で、宣化天皇の後裔と言われ、その皇子殖栗王よりでたと称されている。天皇の曾孫彦武王の産湯にたじひ(いたどり)の花が浮いていたので多治彦と称し、その子孫は多治比・多治・丹遅・丹治等を名乗った。
 殖栗王の12代孫という武信が、陽成天皇の元慶年中、武蔵国に配流され、賀美郡、秩父郡に住んだが、その子桑名峯信は丹二を称して京都と秩父の間を往来した。その子峰時は初めて石田牧の別当となり、土着して丹貫首(丹党首)と称したという。。その後、武峯の子に至って郡の内外に拡散して一大勢力を持つようになった。
 武峯の嫡男経房は秩父中村郷に住んで、その孫の時重が丹党嫡流中村氏を名乗った。また、武峯の二男長房は秩父郡両郡に分かれて薄氏を名乗り、三男基房秩父五郎と称し、四男行房は秩父皆野へ分かれて白鳥氏を名乗った。薄長房の二子泰房が大里郡折原村に住した事により織原丹五郎を称したのが始まりという。
所在地   埼玉県大里郡寄居町折原469
御祭神   猿田彦命
社  挌   旧村社
例  祭   不明


 折原白髭神社は寄居町の荒川南岸に位置し、埼玉県道30号飯能寄居線、古くは「相模街道」と呼ばれていたらしいが、寄居方面に進み、荒川に架かる正喜橋の手前の信号を左折する。
 この地域一帯は有名な鉢形城址が存在する。鉢形城は関東の中世史を語る上では欠かせない城郭であり、その歴史は古く文明8年(1476)に長尾景春により築城されたと伝わる。荒川と深沢川に挟まれた断崖絶壁の上に築かれていて、天然の要害をなしており、またこの地は、交通の要所に当たり、上州や信州方面を望む重要な地点でもあった。戦国時代の代表的な城郭跡として、昭和7年に国指定史跡となっていて指定面積は約24万㎡。一昔は古城という響きがよく似合う荒れ果てた城址だったが、城址公園化に伴う整備が施され、美しい城址となっている。

 鉢形城跡を見ながら道なりに真っ直ぐ進み、八高線の踏切を越え、5、600m進むと右側に小さいが白髭神社の鳥居が見えてくる。但し専用駐車場はなく、適当な駐車スペースもないので路上駐車をして急ぎ参拝を行った。
 
            鳥居と社号標                       鳥居から正面を撮影
 
こんもりとした社叢林に囲まれた気持ちよい神社で、拝殿も思った以上に立派である。
 
   拝殿に掲げられた「白髭太神」の扁額       社殿の左側には巨石を祀っているのか石祠あり
 
     社殿の左側に並んでいる石祠群              境内社2社、天神社、八坂神社
 
        社殿の右側にある末社               境内社3社、若宮八幡宮、?、大神宮

                    本   殿

 折原白髭神社の祭神は猿田彦命といい、日本神話に登場する神である。『古事記』および『日本書紀』の天孫降臨の段に登場する(『日本書紀』は第一の一書)。『古事記』では猿田毘古神・猿田毘古大神・猿田毘古之男神、『日本書紀』では猿田彦命と表記されている。
  猿田彦命は天照大御神の孫にあたる瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が高天原(タカマガハラ)から葦原の中国(地上)に降臨するとき、天宇受売命も供として一行に加えられていた。
 一行が天津八街
(アマツヤチマタ)と呼ばれる、多方面に道が分かれる要所に至ると、そこに魁偉な顔をした大男が立ちはだかって、行くてを塞いでいたので、兵を出したが敗れて帰ってきた。
 そこで天宇受売命が派遣され、「天津神が地上にお降りになる道をなぜ塞いでいるのか」と問うと、(天宇受売命に一目惚れした)大男はそれまでの態度を一変して、素直に「私は国津神の猿田彦命と申す。天津神の御子が降臨されると聞いたので、道案内をしようとお出迎えにきたのだ」と答えた。瓊瓊杵尊の一行は、猿田彦命の先導で無事に筑紫の日向の高千穂の峰に到ることが出来たという。

 猿田彦命の特徴は、鼻は天狗のように長く、目は鏡のように丸く、赤ら顔で、身体は毛深かったので、ちょうど猿のようで、また国津神でありながら天孫族の降臨の道案内をしたことにより「道祖神」となり、集落のはずれや道の辻に祀られ、”道を護る神””行人を護る神”として現在に至っている為、神々の中でもある意味ユニークな存在であるといえる。


                折原白髭神社遠景

 折原白髭神社が鎮座する寄居町「折原」、この地名に関して埼玉苗字辞典には以下の記述がある。

折原 オリハラ 神功紀に意流村(漢城の地)と見え、三国史記に尉礼城(百済の王都漢城)と見ゆ。雄略天皇二十年紀に「百済記に云はく、狛の大軍来りて、大城(こにさし)を攻めること七日七夜にして、王城(漢城、今の広州)陥り、遂に尉礼国を失ふ」とあり。意流(おる)のヲル・ヲリは大の意味で、大城(古代朝鮮語のコニサシ)・ヲル村は大ノ国のことで、クダラ(大邑、大国)と同じなり。原のハラ・ハルは邑・国・城(都)の意味で、特に非農民の職業集団居住地を云う。すなわち、折原は鍛冶・木工・石工等の百済渡来人の居住地を称す。男衾郡折原村寄居町)あり、織原とも記す。

 また、近隣には「鉢形」という地名もあるがこれも不思議な地名だ。

鉢形 ハチガタ 男衾郡鉢形村(寄居町)あり。八方にて、八(あま)・海(あま、ばた)族の渡来地なり。和名抄の男衾郡幡多郷(はた)にて、後世の和田郷なり。


 この「和田」に関しても、海(ばた、はた)の転訛であり、海(あま)族居住地であるとの説もある。それに加え、「折原」、「鉢形」両地区の荒川を挟んだ対岸には「宗像神社」が鎮座している。言わずと知れた海上・交通安全の神であり、古代のある時期、海洋族が移住してきたと考えられ、その道案内役をした地元出身の人物を没後祀った神社がこの「折原白髭神社」だったのかもしれない。あくまでも推測の域ではあるが。


 ところで折原白髭神社の北西約300m位の場所には佐太彦神社が鎮座している。もちろん御祭神は猿田彦命だ。

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手白神社

 滑川は延長13.5㎞、流域面積40㎞2の荒川水系の一級河川で、源流(最上流)は比企郡嵐山町と小川町の溜池であり、農業排水を集めながら南東へと流れ、大里郡江南町、嵐山町、滑川町、東松山市を経て、吉見町北吉見と東松山市松山の境界で市野川に合流する。
 ところで江戸時代末期に編纂された『新編武蔵風土記稿』の比企郡吉田村に当時は滑川の起点が吉田村(現在の嵐山町吉田)の湧水だったことが記されている。
 
滑川 當村の田間所々より涌出水、村内にて落合ひ、一條の流となり、始てこの名を負へり、是滑川の水源なり
この滑川源流域で熊谷市と滑川町との境付近に手白神社は鎮座している。
  *写真は2021年12月17日に再度参拝時に撮影したものである。21年参拝時、石段の両脇に聳え立つご神木のうち、左側の杉は既に切り倒されていたが、ブログ内容は敢て変えないことにした。
        
            ・所在地 埼玉県比企郡嵐山町吉田952
            ・ご祭神 手白香姫命 大貴巳命 大山祇命 金山彦命
                 高霊神 市杵島姫命
            ・社 挌 旧村社
            ・例祭等 不明 
 手白神社は埼玉県道11号熊谷小川秩父線を小川町方向に進み、塩八幡神社の先の交差点を左折し、道なりに約1km位真っ直ぐ進むと右側に小高い山があり、その山を背にして鎮座している。
 道幅は狭く、また専用の駐車場もないので社を過ぎた場所に路上駐車し、急ぎ参拝を行った。                        
                                                                 手白神社正面
          
                    参道の間には御神木の杉が聳えている。                     
 推定樹齢約800年以上という巨木であり老木だ。右側の木が高さ36m、目通り5.03m、左側が高さ26m、目通り2.7m。昭和49年に町の天然記念物の指定となった。
                        
                  石段の参道を登りきると正面に拝殿が見えてくる。
            
                                        社殿の随所に施された彫刻が見事である。


           
                    社殿手前の左側に設置されている案内板              
 町指定有形文化財 彫刻  手白神社本殿彫刻
 手白神社は今から870年ほど前の天治元年(1124)に蘆田基氏が創建したと伝える。御祭神は手白香姫命である。大字吉田地区のほぼ中心に位置し、古くより「手の神様」として、近隣の人々からの信仰が厚かった。現在の本殿は、大正二年(1913)に峯野神社、五竜神社、六所神社が合祀された際に六所神社の建物を移築したものである。
彫刻は江戸時代の作品で、技法に勝れ保存状態も良い(以下略)
 町指定天然記念物 手白神社の大スギ
 この二本の大杉は、御神木として祀られており、神社の歴史の古さを物語っている。いずれも樹齢は八百年と推定される巨木である(以下略)
                                                             案内板より引用
                        
                                 本 殿
                                    
                         こちらも本殿、右側面から撮影
 手白神社の御祭神筆頭である手白香姫命は継体天皇の后。二十四代仁賢天皇の第五皇女であり、武烈天皇は同母弟にあたる。古事記では手白髪郎女と表記されている。
 この社の起源として嵐山町誌は次のように述べている。宝永三年(1706)に別当泉蔵院から領主折井氏に提出された伝説として、「仁賢天皇(第二十四代)の第五皇女に手白香姫命という女性がおり、武烈天皇の酷刑苛政を諫めたがきかれないので東国に下り、この吉田の里に止って里人を教化した。ところがある日、手白香姫が村内を巡回し、とある清水で手を洗おうとして懐中の鏡を水中に落してしまった。水底を探し尋ねたがついに発見することができなかった。その後、手白香姫は都に帰り継体天皇の皇后となった。
 鏡を落とした湧水は鏡浄呂(きょうしょうろ)池と名づけ、姫の命によって鏡浄呂弁財天を祀った。その後、白河天皇の御代(1080年頃)に村長の芦田基氏という人が早朝弁財天に参詣したところ、社木の樫の木に向って神気が立ち上がり、その中に姫の姿が現れて「私は先年ここで鏡をなくしたので魂はまだここに止っている。手の業を望むものや手の病気を患うものは来て頼むがよい。」というお告げがあったという。

           
             社殿の左側奥の突き当りに御神水か湧水か?柄杓もあるのでその類だろう。

 大和王権は第25代武烈天皇没後、一旦血統が途絶える。嫡子がいなかった為だ。その為ヤマト朝を構成していた豪族連合の意向を受け、遠い越前国に住んでいて約5代前に分家した意富富杼王が謂わば婿入りの形で手白香姫命との婚姻を条件に大王の位を引き継いだ。第26代天王継体天皇である。そしてその嫡子欽明天皇(509~571)は王家本流として敏達から舒明、そして天智・天武へと連なる大王家の礎とも云える系統を保持することができた上においてもこの手白香姫命の存在は大きかったといえる。
 
     拝殿の前を左に行くと神楽殿がある。        神楽殿前を右へと登って行くと境内社あり。
            
                             社殿からの眺め
 

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越畑八宮神社

  新編武蔵風土記稿には八宮神社が鎮座する嵐山町越畑地区について以下の記載がある。ちなみに越畑と書いて「おっぱた」と読む。なかなか馴染みのない変わった名称だ。

越畑村(おっぱたむら)(現・埼玉県比企郡村嵐山町大字越畑)
 越畑村ハ領名(りょうめい)及ビ江戸ヨリノ行程(こうてい)前村ニ同ジ:。東ハ吉田・勝田(かちだ)ノ二村ニ隣リ、南ハ杉山・中爪(なかつめ)ノ村々ニテ、西ハ下上横田村(しもよこたむら、かみよこたむら)ニ交(まじわ)リ、北ハ古里村ナリ。東西七町南北二十町余。家数九十軒。御打入(おんうちいり)ノ後、高木筑後守広正(たかぎちくごのかみひろまさ)ガ采邑(さいゆう)ニシテ其子甚左衛門ガ時慶安(けいあん)元年(1648)検地(けんち)セリ。ソノ後元祿元年(げんろく)(1688)替(かわ)リテ御料所(ごりょうしょ)及ビ酒井但馬守(たじまのかみ)ガ知行(ちぎょう)トナリシニ、同キ十一年(1698)御料所ノ内ヲ割テ山高十右衛門ニ賜リ、又享保十二年(きょうほう)(1727)残リシ御料所ノ分ヲ黒田豊前守(ぶぜんのかみ)・羽太清左衛門ノ二人ニ賜リテ、今モ高木・山高・黒田・羽太等ノ子孫四人ノ知ル所ナリ。

 この越畑村に八宮神社が村の鎮守として存在する。八宮と書いて「やみや」と読む。名前通り8柱の神様を祭っている社だ。

所在地   埼玉県比企郡嵐山町越畑1445
御祭神   応神天皇、木花開夜姫命、大雷神、天照大御神、
       倉稲魂命、大山祇命、櫛八玉神、品陀別命
社 挌   旧村社
例 祭   毎年7月25日に近い日曜日 獅子舞

                      
 越畑八宮神社は太郎丸淡州神社から埼玉県道69号深谷嵐山線を深谷方向に進み、越畑交差点の次の信号を左折すると右側に八宮神社の鳥居と社号標が見える。ちなみにこの交差点の右側には七郷小学校の横看板があり小さいが目印にすると良い。この社には専用駐車場はないが、鳥居や石碑を過ぎた場所に車を停めるスペースがあり、そこを借用して参拝を行った。

 まず最初に鳥居を挟んで右側には庚申塚群が、左側には記念碑が数多く置かれている。
   
       鳥居の左側にある記念碑群          同右側にある庚申塚や神宮参拝記念碑 

そして鳥居の左隣には「県指定 無形民俗文化財 越畑の獅子舞」の案内板がある。
          
越畑の獅子舞

毎年7月25日の前後で一番近い日曜日には、越畑地区の八宮神社で夏祭りが行われます。ここで雨乞いの行事として行われるのが「越畑の獅子舞」です。獅子舞はササラと言われ、数百年前に飢饉にみまわれた越畑の人たちが伊勢山田(現在の三重県)から習ったのが始まりと伝えられています。

獅子舞は万灯、法螺貝にはじまり、先払い、先達(神主)、氏子総代、棒司、花笠っ子、笛吹き衆、中立、獅子三頭の順番で行列をつくります。神社に到着すると、獅子が舞う場が清められ、獅子舞が行われます。(県指定無形民俗文化財)
                                             嵐山町ホームページより引用
    
            
                          鳥居から参道を撮影
                       
                         鳥居を過ぎると石段があり、斜面上に社が鎮座している。
 
        斜面を登りきると左側に神楽殿(写真左側)、右側に社務所(写真右側)がある。
                      
                                          拝    殿
                        
                                本殿覆屋、鮮やかに彩られた本殿が中にある。

神社明細帳には八宮神社について以下の記載がある。

八宮神社 
  埼玉縣武蔵國比企郡七里村大字越畑字日向
  村社 昭和二一、一○、一五 法人登記済
 由緒
  勧請(かんじょう)人皇四十七代聖武天皇ノ御宇ト申ス、其後承平)年中(931-938)経基公関東征討ノ節此ニ祈願シ遂ニ八ヶ所ニ是ヲ祭ルト云フ。明治四年(1871)中村社(そんしゃ)届濟。
  明治三十二年(1899)五月二十二日八幡神社ヲ八宮神社ト訂正ス。
  明治四十年(1907)四月十日大字越畑字冨士山無格社浅間神社、字幡後谷前無格社雷電社、字柳原無格社神明社、字社宮司無格社社宮司社、字後谷無格社山神社、字下串引無格社大天獏社、字大堂無格社八大社、字清水無格社八幡社ノ八社ヲ本社ニ合祀(ごうし)ス。大正八年(1919)十二月二十二日拝殿幣殿(へいでん)改築許可。大正九年(1920)四月十五日竣工。
  大正十一年(1922)三月二十日神饌幣帛料供進神社ト指定セラル。

            
                                   拝殿前の石段から鳥居方向を撮影

 嵐山町は比企丘陵の中枢部を占めており、山あり渓谷あり、平地ありと変化に富んだ自然の宝庫で、国蝶オオムラサキが生息する地としても有名でり、歴史的には、木曽義仲や畠山重忠など、平安末期から鎌倉時代にかけて日本史に名をとどめた坂東武者ゆかりの地でもあり、埼玉県の中にあって観光資源の豊かな地域の一つである。

 越畑地区に鎮座する八宮神社は決して規模の大きい社ではないし、神社の外観もどちらかというと地味である。しかし獅子舞のような県の指定を受けている歴史的にも淵源の古い文化財あり、鮮やかに彩られた美しい本殿といい、後世に残すべき素晴らしい文化がこの地にはある。大切にしたいものだ。

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太郎丸淡州神社、勝田淡州神社


         
            ・所在地 埼玉県比企郡嵐山町太郎丸373
            ・ご祭神 速御玉姫命
            ・社 挌 旧水房村枝郷太郎丸村産神・旧村社
            ・例祭等 不明 
 太郎丸淡州神社が鎮座する太郎丸地区は嵐山町の中央部に位置し、すぐ東側は滑川町である。太郎丸淡州神社は埼玉県道69号深谷嵐山線を深谷方面に行き、武蔵嵐山病院を過ぎた次の信号のない十字路を右折すると左側に淡州神社の赤い鳥居が見えてくる。
            
                            太郎丸淡州神社正面
『日本歴史地名大系』 「太郎丸村」の解説
  志賀村・広野村の東、市野川左岸に位置し、東は水房村(現滑川町)。「風土記稿」によると古くは水房村の内であったが、寛文五年(一六六五)の検地時に分れて同村の枝郷となったという。同書にはこの検地のとき「村民太郎丸トイヘルモノ案内セシヨシ水帳ニシルシタレハ当村ハ此太郎丸カ開墾セシ地ニテ村名トハナレルニヤ」とみえるが、地形に由来する村名という説もある。松山領に属した(風土記稿)。元禄郷帳では「水房村之枝郷」と冠されて村名が載り、高一〇〇石、国立史料館本元禄郷帳では旗本内藤氏・同大久保氏の相給。
        
 
  一の鳥居のすぐ先には二の鳥居が立ち(写真左)、参道左側には「大国主大神」の石碑(同右)がある。
                
                                拝 殿
  明治時代、内務省および庁府県に備え付けられていた神社の台帳のことを神社明細帳というが、1879年(明治12年)6月28日、内務省達乙第31号により、神社及び寺院の明細帳を作成し、その副本を内務省に送付することが各府県に命じられた。各府県では、社寺取扱規則(明治11年内務省達乙第57号)の基準に合致する社寺を、届出又は職権によりそれぞれ神社明細帳及び寺院明細帳に登載した。その神社明細帳、七郷村誌には嵐山町太郎丸について以下の記載がある。

  水房村(みずふさむら)枝郷(えだごう) 太郎丸村(たろうまるむら)   
 
太郎丸村ハ水房村ノ西ニ続キテ江戸ヨリノ行程(こうてい)ハ本村ニ同ジ、水房庄(みずふさしょう)松山領(まつやまりょう)ト唱(とな)フ。古ハ水房村ノ内ナリシガ、寛文五年(かんぶん)(1665)検地(けんち)アリシヨリ別レテ枝郷(えだごう)トナレリ。此(この)検地ノ時村民太郎丸トイヘルモノ案内セシヨシ『水帳(みずちょう)』ニシルシタレバ、当村ハ此太郎丸ガ開墾(かいこん)セシ地ニテ村名トハナレルニヤ。家数二十余、東ハ中尾(なかお)・水房ノ二村ニ続キ、南ハ市ノ川(いちのかわ)ヲ界(くぎり)テ広野村ノ飛地(とびち)ニ隣(とな)リ、西ハ志賀村(しかむら)及ビ杉山村ニ接(せつせ)リ、北ハ広野・伊子(いこ)ノ二村ニ及ベリ。東西二町許(ばか)リ南北五町(ごちょう)余り、水利不便ナレバ天水(てんすい)ヲ仰(あお)イデ耕(こう)ヲナセド、又水溢(すいいつ)ノ患(わずらい)アリ。爰(ここ)モ本村ト同ク古ハ岡部氏ノ知ルトコロナリシガ、安永元年(あんえい)(1772)収公(しゅうこう)セラレ、同ク九年猪子左太夫(いのこさだゆう)ニ賜(たまわ)リ、今子孫(しそん)栄太郎ガ知ル所ナリ。

 ここで注目される点はこの「太郎丸」という地名の由来だ。1665年の検地の際に、太郎丸という村民が案内をし、そしてこの村はこの太郎丸を中心に開墾した地であるためにこの地を「太郎丸」と命名した、ということのようだ。
 江戸時代初期この地は水房村の一部で、寛文五年(1665)の検地の時独立して太郎丸村となった。水房村とは本郷、枝郷の関係にあるのはその為で、それで太郎丸村の鎮守様は水房村の淡洲明神社(阿和須神社)であった。「新編武蔵風土記稿」で、太郎丸村の淡洲明神社を「村の鎮守」と書かなかった理由もここからくる。
            
                   拝殿向拝部並び木鼻部に施された精巧な彫刻
 
      社殿左側にある境内社・弁財天               社殿右側奥にある八坂社
 太郎丸淡州神社の当初の社地は、現鎮座地の裏手の山中の「御林」と称するところにあったらしい。現社地には、幕末にその山から幣束が飛来して突き立ったので、これを神の御意として村民は心を一つにして社殿を造営したという。



勝田淡州神社

所在地    埼玉県比企郡嵐山町勝田270
御祭神    保武田別尊(応神天皇)、息長足日賣命、武内宿称命、菅原道真公、武甕槌命
社  挌    旧村社
例  祭    不明
          
 勝田淡州神社は太郎丸淡州神社から埼玉県道69号深谷嵐山線に戻り、深谷市方向に北上し、玉ノ丘中北入口交差点を右折すると花見台工業団地となるので、そのまま5分弱進むと左側に勝田淡州神社が見えてくる。但し道沿いにはなく一本西側に入った道路で、しかも大変道幅は狭い。専用駐車場はなく、路肩に駐車して急いで参拝を行った。
          
 
            拝    殿                          本    殿

勝田淡州神社の由来は以下の通り。

淡州神社
由緒(ゆいしょ) 勧請(かんじょう)*1年月不詳(ふしょう)、宝永(ほうえい)年中(1704-1711)中宮(ちゅうぐう)建立、文化年中(1804-1818)上□建立、嘉永(かえい)年中(1848-1854)鳥居建立。
 元淡洲明神ト唱来(となえきたり)シ処(ところ)御維新(いしん)*2ノ際(さい)當号(とうごう)ニ改稱(かいしょう)ス。

 しかし淡州神社であれば、祭神は速御玉姫命であるはずなのに、この社は八幡神社でお馴染みの3祭神というのはどういうことだろうか。少し納得がいかない。

           
               社殿の右側に並んで鎮座する境内社、鹿島神社と天神社

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