古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

八斗島稲荷神社

 群馬県道・埼玉県道18号伊勢崎本庄線に架かる坂東大橋の約800m上流付近で、八斗島チビッコ広場の手前で、集落から河川敷に出て来る道と堤防が交差する付近に『八斗島河岸』があった。大正初期の築堤により集落の南半分が河川敷内になってしまい現在河岸跡は残っていない。
 八斗島河岸の確かな設立年代は明らかでないが、安永四(1775)年の「上利根川十四河岸組合船問屋規定証文」に船問屋五十嵐四郎右衛門、同境野三郎右衛門がある。この河岸仲間は元禄期から営業しているもの以外の新興勢力を抑える意味を持っていたから、八斗島河岸設立も元禄時代あたりまでたどれる。ただし元禄期の古地図に河岸という名を使っていないので元禄以前にさかのぼることはないだろう。活動は明治十年代までであった。
 八斗島は天明三年の浅間山大噴火で七分川(柴町の西で現本流と分れた)が埋まるまでは、七分川が北に、三分川、烏川が南にある中州であった。泥流が七分川筋に流れ込んだため、河筋に面した集落の人達が死人を収容し、供養した石碑などが残っている。
 八斗島から本庄市山王堂間には、かつて渡しがあった(八斗島の南の東端当たりから山王堂まで)が、昭和初期に坂東大橋の完成により廃止された。
        
            
・所在地 群馬県伊勢崎市八斗島町1406
            
・ご祭神 倉稲魂命 大宮姫命 大田命 大己貴命 保食命
            
・社 格 旧村社
            
・例祭等 例祭 (陰暦)2月初午及び929
 伊勢崎市八斗島。この地域名「八斗島」は「やつたじま」と読み、なかなかの難読地名である。八斗島稲荷神社は、柴町八幡神社から五科橋に掛かる手前の「柴町」交差点を南方向に進路変更し、利根川に沿って進む通称「上武大学通り」を暫く道なりに進む。その後、群馬県道・埼玉県道18号伊勢崎本庄線に合流する手前の十字路を右折、800m程南下すると、進行方向右手に八斗島稲荷神社が見えてくる。地形を確認すると、利根川左岸の堤防が目と鼻の距離に見える集落内に鎮座していて、現在よりも氾濫の危険性が高かったであろう利根川水害から集落、そして宿場を守って頂きたいという地元の方の神にも縋りたいという切実な思いが、この社を眺めてみても感じることができる。
        
                 
八斗島稲荷神社正面
     一の鳥居である赤色の両部鳥居のすぐ先に神明系の二の鳥居が立っている。
『日本歴史地名大系』 「八斗島村」の解説
 利根川左岸に位置し、北は下福島村・富塚村、対岸は武蔵国児玉郡山王堂村(現埼玉県本庄市)。山王堂村と当村を結ぶ渡しがあったが、昭和六年(一九三一)の坂東大橋完成により廃止となった。那波氏の浪人境野八斗兵衛が慶長年中(一五九六―一六一五)に開き、村名は八斗兵衛に由来するという(伊勢崎風土記)。寛文二年(一六六二)の大水により柴町南を抜いた利根川(のちの七分川)が当村の北を流れ、もとは中洲上の村であった。
            
            鳥居の左側手前に建つ「稲荷神社由緒」
 
 「稲荷神社由緒」前に石尊大権現と道祖神     「稲荷神社由緒」奥にある力石と石碑
 力石の由来
 一、七拾五貫目の石(約281キログラム)
 明治三十年頃当神社の秋季大祭に当所住人吉野円三が境内に於てこれを担ぎ三間位(五.四メートル)歩いたという。
 一、四拾参貫の石(約161キログラム)
 同年代当所住人で力持ちの下記の人達が交代で神社の周囲を担ぎ歩いたという。
 石川伊之吉・境野民治・黒澤安兵衛・森田太郎・境野照吉
 一、吉野円三
 明治元年埼玉県児玉郡旭村大字三友に生れ後に八斗島に移り舟大工新井団次郎(半三郎の祖父)宅に同居して舟頭として明治三十年の洪水で家屋を流出して福島へ転居したという。
 一、力石
 元倉賀野より五料に移り当時舟頭で若者が力競べにこの石を担ぎ勝つ者が持って来たという。
 昭和五十二年六月吉日
 平成九年十二月吉日再建  八斗島稲荷神社総代
        
         鳥居から社殿まで、参道沿いには幾重の幟が立ててあり、
    すっきりと整備された境内の中で一直線に並ぶ幟はなかなか壮観な眺めである。
        
                    拝 殿
 稲荷神社由緒
 当社ハ天正年間今ヲ去ル四百余年前創立シテ当時那波城主大江顕宗奥州九戸戦争ノ際討死セシカバ其ノ民境野主水吉澄・五十嵐無兵衛知徳ノ両人遺志ヲ奉ジテ当国利根川中州〇島ト云フ所悉荒野ヲ開拓シテ田野トナシ並二五穀五柱ノ神ヲ勧請シテ祭祀ス本社即テ之也 又地名改メテ八斗島ト云ヒ吉澄ノ子八斗兵衛宗澄・知徳ノ子ト共二其ノ志ヲ継ギテ耕耘〇鋤二怠リナカリシカバ衆人其ノ徳ヲ感ジ遠近ヨリ集リテ現今ノ如キ村落トナレリ 安政二年三月十五日名主五十嵐八兵衛・組頭五十嵐善兵衛・仝境野半右エ門・仝五十嵐茂兵衛・仝黒沢弥右エ門・仝境野三郎右衛門等ノ協力二依リ上棟スルヤ 稲荷神社鎮座祭神・倉稲魂命・大宮姫命・大田命・大己貴命・保食命ノ神々ヲ祀リシモ現在ノ本殿ハ元下福島八郎神社デ間口一間奥行五尺ノ本殿ヲ明治四十三年村社指定トナルヤ豊武神社ト合併シ同四十三年八月大洪水ノ為戸数六十二戸全村床上浸水二テ県ヨリ見舞金トシテ金百圓也ヲ受ケ其ノ金ニテ当時世話人小暮幸次郎・境野誉三・境野吉之助・氏子総代境野長太郎・境野仙三・境野誉三・五十嵐弘次郎・黒沢東馬・社掌荻野美恭・仝牛久保瓶哉ノ相談ノ結果右下福島本殿ヲ金六拾圓也ニテ買求メ残金ハ雑費トシテ現在本殿二鎮座スルヤ軈テ当社ヲ稲荷神社ト尊稱シ其ノ徳ヲ表彰セリ爾来遠近相伝ヘテ豊作ノ神トナシ賽者常二絶エズ本社祭日ハ毎歳陰暦二月初午ノ日及九月二十九日両日也 本社ハ木造作リニテ桁十五尺五寸杉伐三面作リ破風造・向拝付茅葺十五坪二合二勺宅地ハ三百七十坪ノ民有地デアル
                                稲荷神社由緒石碑文より引用

 要約すると、八斗島町は利根川流域にある町で、元々は「稗島」という中洲であり、社は安土桃山時代の天正年間(15731592)の創立と伝わっている。当時、那波城主だった大江顕宗が奥州九戸戦争で討死し、その家臣である境野主水吉澄・五十嵐無兵衛知徳の両人が遺志を奉じて、当国利根川の中州の荒野を開拓、その五穀豊穣の守護神として奉斎されたのが当社の起源との事。御祭神は、倉稲魂命・大宮姫命・大田命・大己貴命・保食命の五柱。明治になり、村社に列し、明治43年(1909年)には神饌幣帛料供進社に指定されている。
 
        拝殿正面部             拝殿左側上部に奉納されている額
       
                    本 殿
 福島町八郎神社の項や、この社の由緒にも説明しているように、明治四十二年(1909)に八郎神社(伊勢崎市福島町)が豊武神社(群馬県伊勢崎市大正町)へ合祀された。その翌年に起こった大洪水の見舞金を元手に、福島町八郎神社の本殿を譲り受け、八斗島町の稲荷神社へ移築するに至ったようである。但し、本殿移転の夜に「大風が吹き荒れ雷鳴が轟いた」と伝えられている。その後福島町八郎神社は、昭和45年(1970)に現在地へ分祀され今日に至っているとのことだ。

  社殿左側奥に祀られている御嶽山神社     本殿奥には多くの稲荷像が置かれている
    溶岩塚の上に置かれている              白狐社如き祠 
        
             「鎮守の森達成記念碑」と蚕影山の石碑
 
         境内社・大杉神社             境内社・鵜戸大権現       
        
           社の北側道路沿いにある二十二夜塔等の石碑
 二十二夜塔は、二十二日の夜に人々が集まり、勤業や飲食を共にし、月の出を待つ月待ちの行事を行った女人講中で、供養のために造立した塔である。「二十二夜」の文字を刻んだものと、「如意輪観音」の像を刻んだものがある。「如意輪観音」は、富を施し六道に迷う人々を救い、願いを成就させる観音様として、江戸時代中期以降民間信仰に広く取り入れられ、二十二夜さまの本尊として女性の盛んな信仰を受け、また女子の墓標仏としても、各地に数多く造立されている。全国的には、二十三夜塔が最も一般的に認められているようだが、二十二夜塔は、埼玉県の北西部から群馬県の中西部域に濃密に分布しているという。
        
         八斗島稲荷神社遠景。遠くに利根川の堤防が見えている。



参考資料「群馬県歴史の道調査報告書第十三集・利根川の水運」「日本歴史地名大系」
    「Wikipedia」「境内石碑文」等
 

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柴町八幡神社

 柴宿(しばしゅく)は、現在の群馬県伊勢崎市柴町にあった日光例幣使街道の宿場町。倉賀野宿から数えて3つ目で、「芝宿」と表記する場合もあった。
 現在の利根川は、川幅約500mだが、昔から流路が一定していたわけではない。旧流路と確認できるものでは、伊勢崎市街地を西から東に流れる広瀬川の川筋があり、江戸期・宝永2年(1705)以前には、柴宿南から戸谷塚・福島・富塚・長沼本郷・国領などの集落を北岸としての流路があった。
 しかし、この利根川は、たびたび洪水を起こすため新水路として、一部の水を現流路に沿い流した。この流路を三分川、前述の流路を七分川と呼んだ。しかし、天明3年(1783)の浅間山大噴火により七分川には、 水が流れぬようになり、三分川が主流となった。今でも柴宿西岸に小さな段丘崖を確認することができ、南には旧流路(七分川)であった低湿地が帯状にみられる。江戸中期項まで柴宿は、現地点より南方200300 mにあった。このため柴宿は、たびたび洪水に見舞れたのであろう。享保年間(171635)に、その地点より標高の高い今の地域に、村内の有力者たちが町割りを計画的に作りはじめ、その後の洪水で移ったという。今でもこの地域のいたるところに浅間山の溶岩と思われるものが見られ、浅間大噴火の規模の大きさが想像されよう。
        
             
・所在地 群馬県伊勢崎市柴町693
             
・ご祭神 誉田別命
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 節分祭 23日 八十八夜祭 52日(閏年では51日)
 中町雷電神社から群馬県道142号綿貫篠塚線を北西方向に800m程進み、利根川に架かる五料橋の手前にある「柴町」交差点の手前の路地を右折すると、進行方向正面に柴町八幡神社の鳥居、及び社殿が見えてくる。地図を確認すると、利根川左岸で標高58m程の低地帯にあり、旧日光例幣使街道の柴宿に位置している。社の境内に隣接するようにある「柴町農事組合協同作業所」に駐車可能なスペースがあるので、そこの一角をお借りしてから参拝を行う。
        
                 柴町八幡神社正面鳥居
                     参道の両側には庚申塔が境内付近まで続く。
『日本歴史地名大系』 「柴町」の解説
 利根川左岸沖積低地にある。芝とも記す。北は東上之宮村・阿弥大寺(あみだいじ)村、東は中町、南は戸屋塚村、西は小泉村(現佐波郡玉村町)。もと北今井村・中町と一村。日光例幣使街道が通り、宿として賑った。「寛文朱印留」に北今井柴村とみえ、前橋藩領。寛文郷帳では北今井村・中町分も含み田方六六五石余・畑方八七五石余。天保二年(一八三一)の伊勢崎領田畑寄(上岡文書)によれば、宝永七年(一七一〇)までの新田高七二石余。天保二年の反別六三町九反余、うち田方二四町四反余・畑方四一町四反余。年貢は米七二石余・永四九貫四二一文・大豆一四石・麦一四石を納めた。家数一〇三、男二二七・女二一〇。安永四年(一七七五)の市売紛争裁許請書(関文書)によると、煙草市が立ち武蔵国方面からも買付商人が集まり、沼田・前橋周辺の商人と盛んに取引が行われ、伊勢崎町の市場と対立、訴訟に及んでいる。
        
               鳥居を過ぎた先の参道の様子
  現在でも参道から境内地に至るまで嘗ての日光例幣使街道の発展の名残をとどめている。 
        
     参道を更に進むと神橋がポツンと見え、その右手には趣のある手水舎がある。
       
            参道を挟んで手水舎の向かい側にある「日露戦没碑」。
  石碑の足元には、天明3年(1783)浅間山噴火の際の溶岩塊がここにも残されている。
        
「日露戦没碑」の先にある境内社や「伊勢崎市指定重要文化財 柴町八幡神社社殿」の案内板
 伊勢崎市指定重要文化財 柴町八幡神社社殿
 平成十六年十一月三十日指定
 柴町八幡神社は、拝殿・幣殿・本殿からなる権現造の建築様式である。
 本殿は正面九尺の一間社流造で、建築は棟札から享保十年(1725)まで遡り、虹梁の絵様や蟇股の細部意匠はさらに古式を示し、拝殿にある延宝七年(1679)の扁額まで遡る可能性がある。
 拝殿は正面三間、側面二間の入母屋造の建物で、天井画は鈴木不求・春山・松山の三代にわたる伊勢崎藩絵師が描く。
 本殿内に鎮座する内宮は、切妻造柿葺きの宮殿で保存状態は良く、享保十年の本殿修理頃の制作と考えられる。
 この神社は十八世紀初期の伊勢崎地方の近世社寺建築の優れた指標を示し、社地は参道を含め、旧日光例幣使道柴宿の歴史的景観の名残をとどめる。
                                      案内板より引用

       
                    拝 殿 
 柴町八幡神社は源賴義が奥州征伐の途中に柴村で休息された際、八旗の森という地名に因み八幡大臣へ戦勝を祈願した。その帰途に世子八幡太郎義家と共に康平6年(1063)社殿を造営し、八大臣を山城国(現京都府)男山石清水から勧請奉斎し、社領10石を寄進されたのを起源とする。翌年8月中御冷泉院御辰筆「八幡大神」の神号額を賜ったが、元亀年間(15701573)に兵火のため焼失。慶長18年(1613)前橋藩主酒井雅楽頭忠世により再建され、更にその世子忠行が大阪の陣で戦功をあげ益々修理が加えられた。その後伊勢崎藩主酒井氏により社殿の営繕がなされた。明治40年(1907)、菅原神社、琴平神社、秋葉神社、水神神社、火雷神社を合祀、柴根神社と称したが大正6年(1917)、旧に復し八幡神社とし、現在に至る。また明治4年(1871)、近隣に式台社が多く、郷社格のところ村社となっている。
 文化財指定 柴町八幡神社社殿(市重文 平成1611月) 

向拝部・木鼻部には精巧な彫刻が施されている。 由緒書きが奉納、ほとんど読み取れなかった。

 拝殿には、正面3間、側面2間の入母屋造鉄板瓦葺平入で正面に1間の向拝を建てる。三方に切目縁を廻し板脇障子を建てる。正面に千鳥破風、向拝に軒唐破風を付ける。虹梁の絵様は装飾が進み眉の彫は深く、海老虹梁は反り段差をつけて架けられている。向拝手挟、木鼻、軒唐破風の彫刻は丸彫、透し彫などで精巧に彫られている。蟇股は足が長く反らず、内部の彫刻は板よりはみ出ている。以上の特徴から建造年は本殿より後の18世紀後期の様式を表しており、その頃の棟札には安永7年(1778)と寛政9年(1797)棟札が残されている。
       
                    本 殿
 本殿の平面は一間社流造で1間の向拝を持ち、四方切目縁に板脇障子を立て、比較的中規模である。当初は檜皮葺であったが大正10年(1921)銅板葺きに、昭和62年(1987)に鉄板瓦に改修されている。また本殿内部には小規模な宮殿が置かれている。
 建造年を直接記すものはないが、享保10年(1725)遷宮の棟札により、17世紀末~18世紀初期に建築されたものと考えられる。向拝や身舎正面の蟇股や虹梁の唐草様、海老虹梁がやや段差を付けて架けられていることからも推定できる。また、安永7年(1778)の棟札には再興とあり屋根と土台の入替を行っていて、大工棟梁の名に歓喜院聖天堂を手がけた武州の林兵庫の名が見られる。

  本殿左側奥に祀られている境内社・神明宮       神明宮の東側に祀られている末社・石祠群
       
             本殿右側に祀れている境内社・稲含神社 
 伊勢崎市柴町の街道北にある八幡宮には每年八十八夜の日に行う稲含祭りが残っている。中世この地を支配した那波氏の屋敷稲荷を、没落後放置されたままであったので泉龍寺が引きとって文久年間に稲含様として祭ったと言われている。明治元年の神仏分離令で泉龍寺から離れ、明治34年の合祠によって現在の八幡宮に祭られることになった。何年か前までは遠く県内はもとより関東一円からお札を受けにきたので足のふみ場もないほどの盛況であった。今でも境内から柴町の道路まで農器具や苗木商が立ちならび、近隣の村々からの農民でにぎわっている。ここのお札を買うと養蚕があたるとか、作物があたるとか言われている。
       
         稲含神社の右側並びには石祠群が祀られている。詳細不明。
       
                  境内にある神楽殿 
            神楽殿の左側には相撲用の土俵も確認できた。
        
                社殿から参道方向を撮影
 ところで、例幣使の派遣は幕藩的支配の安定の上で重要な役割を担っていたといえるが、この街道を本来の目的のためだけに使用するのは、季節限定された、わずか1ヶ月足らずのことであった。それでは他の期間は何のために利用されていたかといえば、当たり前の事ではあるが、沿道周辺の人々の 「生活道」であり、 商人たちの「経済道」であり、文人墨客らの通った「文化道」であったに違いない。
 そして、何よりも江戸中期以降の経済的繁栄に伴なう物資交流の活発化や庶民の遊山熱などを背景として、権力者の意図と違った意味あいの利用が目立つようになったという。


 参考資料「群馬県近世寺社総合調査報告書-歴史的建造物を中心に-神社編」「日光例弊使街道HP」
     「日本歴史地名大系」「Wikipedia」「境内案内板」等
 

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寿諏訪神社


        
             
・所在地 埼玉県本庄市寿2121
             
・ご祭神 建御名方神
             
・社 格 旧無格社
             
・例祭等 祈年祭 43日 祇園祭 715日に近い土・日曜日
                  
例祭 1017日 新嘗祭 1217
 国道17号線を本庄市街地方向に進み、「寿三丁目」交差点を右折、通称「南大通り」と称する埼玉県道23号藤岡本庄線を800m程進行し、コンビニエンスストアが右側に見える交差点を右折する。その後、すぐ先の「寿1丁目」交差点を右折し、暫く進むと進行方向左手に寿諏訪神社が見えてくる。
 社と社務所らしき建物の間には駐車可能なスペースもあり、そこの一角に車を停めてから参拝を開始する。
        
                  
寿諏訪神社正面
 氏子区域は、近世の諏訪新田の範囲を継承する地域であり、明治以降は本庄町の小字となり、昭和20年代に「諏訪町」と称するようになった。昭和45年と47年に町名変更が実施され、諏訪町は「寿」「日の出」「東台」に分散されてしまったが、諏訪町自治会の組織は、そのまま継承されており、氏子組織の基盤となっているという。
 
鳥居には「諏訪大明神」と刻まれた社号額あり   鳥居の左側には案内板が設置されている。
        
                              境内にある立派な神楽殿
 当地には古くから神楽が伝わり、金鑽神楽本庄組と称する神楽師の組織を作っている。神楽の始まりは、上野台村(深谷氏上野台)の八幡神社に古くから伝わる神楽が、岡村(岡部町岡)の森田組を経由して、江戸後期に当地に伝えられたといわれている。
 文政八年(一八二五)の神祇管領長上家御役所から本庄宿の金鑽神社総代と宿役人あてに出された文書が現存し、その内容は、願いにより金鑽神社神前での太々神楽執行を許可したもので、この文書により、本庄組の起こりは文政八年まで遡ることが証明されている。
 その後、明治に入ってからは、児玉・大里地方に伝わる神楽が、大宮住吉神社(坂戸市塚越)の神楽を伝承したといわれる金鑽神楽を中心に統一され、本庄組もこの一つに加わったという。
 また本庄組は、当社の春秋の祭りに奉納するのはもちろん、本庄市内をはじめ群馬県尾島町(現太田市尾島町)の八坂神社等十二の社に頼まれて奉奏しているとのことだ。
 
           境内の真ん中付近に手水舎があり、その脇に
            立派なご神木が聳えている(写真左・右)
        
                    拝 殿
 諏訪神社  本庄市寿二— -—二一(本庄町字諏訪新田)
 当地は、本庄台地北端に位置する。 本庄は、古くは若泉庄に属しその本荘(本郷)の地であったことから、この地名が起こったという。弘治二年(一五五六)に児玉党庄氏の末裔に当たる本庄宮内少輔実忠が、現在の本庄市北堀字東本庄から館(後の本庄城)を当地内に移した。天正十八年(一五九〇)には新しい城主として徳川家康の家臣小笠原信嶺が配置され、本庄領として一万石を領した。この信嶺は、江幕府が中山道を整備する一環として本庄宿の屋敷割りを行い、以後中山道の両側には急速に人々が住み着き、町並みを形成していった。本庄宿は周辺の村々とは異なり「町内」という自治組織に近い寄り合いを作った。諏訪新田も、このころには集落を形成していたという。
 当社は、諏訪新田の北西端にある小高い丘の上に鎮座する。すぐ裏手には、「道満窪」と呼ばれる湧水池があったというが、現在は見られない。このことから、新田開発の早い時期に、田畑を潤す湧水池の傍らに耕地の守護神として諏訪神が勧請され、集落が形成されていくなかで、諏訪新田の地名が付けられたものと推測される。
『風土記稿』本庄宿の項には「諏訪社村持」と載る。
 明治に入り、社格制定に際して当社は無格社とされた。昭和四十七年には、社殿新築奉賛会が設立され、翌年には本殿外宇・幣殿・拝殿が新築された。

                                  「埼玉の神社」より引用
        
         北側にある広い空間である境内地より本殿方向を撮影
        
              社殿の左側に祀られている末社七基
           「埼玉の神社」に載せられている社は「天神社」
         「天手長男社」「琴平社」「養蚕社」「稲荷社」の五社
        
            社殿の右側に祀られている境内社・八坂神社
 当社の祭りの中で一番盛大なものは、715日に近い土・日曜日の2日間かけて行われる末社八坂神社の祭礼である「祇園祭り」である。本町・台町・朝日町にも八坂神社が鎮座し、嘗ては15日に各神社が独自に祭礼を行っていたものを、市観光協会が主導して市を挙げての祭りとして統一し、更に、より多くの人たちが参加できるように、祭日を15日に近い土・日曜日に変更したという。
        
                  社殿からの一風景



      

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栗崎金鑽神社


        
             
・所在地 埼玉県本庄市栗崎152
             
・ご祭神 天照大御神 素戔嗚尊 日本武尊
             
・社 格 旧栗崎村鎮守・旧村社
             
・例祭等 祈年祭 225  例祭 1019  新嘗祭 1215日 他
 本庄早稲田駅北口から北陸新幹線沿いに走る埼玉県道86号花園本庄線を東行し、550m程進んだ信号のある交差点を右折、「マリーゴールドの丘公園」のある緩やかな高台を過ぎたすぐ右手に栗崎金鑽神社の木製の鳥居が見えてくる。地図を確認すると、本庄早稲田駅から東側の浅見山丘陵の東端に位置している
 鳥居のすぐ右手に数台分駐車可能な専用駐車場が完備されていて大変ありがたい。
        
                  栗崎金鑽神社正面
『日本歴史地名大系』 「栗崎村」の解説
 浅見山(あざみやま・大久保山)丘陵と台地を開析する沖積低地および集落が立地する微高地にまたがる村。北東流する小山川の南岸は水田地帯、西部は丘陵となる。東は榛沢郡榛沢村(現岡部町)、南は小茂田村(現美里町)、西は下浅見村(現児玉町)、北は東から北堀村・東富田村・四方田(しほうでん)村に接し、小茂田村との境界は古代の条里線上にあたる。栃木県日光市輪王寺が所蔵する応永三年(一三九六)一〇月一八日の大般若経巻四四七奥書に、「於西本庄栗崎有勝寺書写了」とある。天正八年(一五八〇)一二月一日、鉢形はちがた城(現寄居町)城主北条氏邦は長谷部備前守に上野の武田方への塩荷を押えることを命じているが、その範囲のなかに栗崎が含まれている(「北条氏邦印判状」長谷部文書)。
 
          鳥居の左右に設置されている社の案内板 (写真左・右)
        
  浅見山丘陵地端部に位置している為、緩やかな上り斜面となり、社殿へと続いている。
「本庄の地名(本庄地域編)HP」によると、社が鎮座している「字」は「東谷」といい、大久保山(浅見山丘陵)沿いにある地名であるが、この周辺にはそのほかに「谷(やつ)」「西谷(にしやつ)」もあり、この丘陵地にある幾筋の谷が由来となっている。そして、西よりの谷を西谷、東側の谷を東谷と呼んでいるという。この中には栗崎から下浅見に通じる古い道路があり、中世においては児玉党の庄氏一族である庄氏・本庄氏・四方田氏・阿佐美氏等が行き来をしたのであろうと推測される。
        
                    拝 殿
 金鑽神社  本庄市栗崎一五二(栗崎字東谷)
 当地は浅見山丘陵の東端に位置し、地内を小山川(身馴川)が貫流している。
『風土記稿』によると、当社は真言宗宥勝寺の項に記載され、「金鑽明神社 是を村内の鎮守とす(以下略)」とあり、同寺の東北約二〇〇メートルに鎮座することから、寺の鬼門除けに二宮金鑚神社を勧請したとも想定される。同寺の開山法印良運は建仁二年(一二〇二)示寂と伝えることから、寺の創建は鎌倉初期と思われる。また、同寺は慶長元年(一六四八)に徳川家光より朱印十石を与えられている。
 金鑚神社は九郷用水沿いの村々に分布し、農耕・利水の神として祀られ、児玉党とのかかわりが深い。ちなみに、当地は児玉党庄氏の本貫地で、宥勝寺には一ノ谷合戦で戦死した庄小太郎頼家の墓 (県指定旧跡))がある。また館と思われる遺跡が当社の東約五〇〇メートルに在る。
 社伝によると、明和七年(一七七〇)に地内の御料分が川越城主松平大和守の所領となってより、特に崇敬が厚く社殿改修の折に金品の奉納があったという。また、古くから雨乞いが行われ、干ばつ時には代官を派遣して祈雨祭を実施したとされる。
 祭神は天照大御神・素盞鳴尊・日本武尊の三柱である。境内社は、天神社・琴平社・八坂社・蚕影社などである。天神社と琴平社は明治四十一年四月二日に境内神社として村内より移転されている。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                   拝殿にも社の案内板が設置されている。
神社由緒書
埼玉県児玉郡北泉村大字栗崎一五二番地鎮座
金鑽神社
祭神 天照大御神 素盞鳴尊 日本武尊
由緒 當社ハ栗崎ノ総鎮守ニシテ社格ハ村社ナリ 當社ノ創立古老ノ口碑ニ曰ク往古延喜式名神大社金鑽神社ヲ奉還セシ所ナリト 中世児玉等ノ宗家庄太郎家長當地ニ築城以来崇敬最モ深カリシト 下ッテ德川時代ニ至リ諸侯交々所領セラルヽモ能ク尊信セラレタリ 次テ明和年中ニ至リテハ松平大和守外三家ノ所領トナリシカ崇敬厚ク改造ノ都度金品ノ寄進アリ 社格ハ明治五年旧入間県ヘ申立済
大祭日 祈年祭 二月二十五日
    例 察 十月十九日
    新嘗祭 十二月十五日
 
                                      案内板より引用  
 
 社殿の左側に祀られている境内社・天神社    天神社の左並びに祀られている琴平社
       
         天神社・琴平社の奥で斜面上に祀られている石祠・石碑群
 一番手前で左側に見える石碑は「猿田彦大神」。その奥で、右側にある石碑は「蠶影大神」。一番奥に見える石祠二基及び石碑は、左から「諏訪神社」「石神井神社」の石祠、「摩利支天」と刻印された石碑。 
「蠶影大神」に関しては、413日の蚕影祭があり、この祭りは養蚕倍盛を祈る祭りで、各家庭に五色の祓串で蚕室を祓い、蚕の大当たりを願った。昭和60年ころから養蚕農家が皆無となり、祭典中止の意見もあったが、今までのお礼の意味を込めた祭りとして続けられている。境内の石碑の前で祭典を行う。供えた五色の祓串は、祭番の班長が戸数分ずつ各班長に渡して配布するという。

 社殿の奥で、諏訪神社・石神井神社等の石祠や石碑の右側並びに祀られている石祠等もある。

一番左側の石碑は「御嶽山三社太神」、右並びに祀られている石祠は「八幡神社」「戸隠神社」「雷電神社」(写真左)。更にその右側には「愛宕神社」「八坂神社」等の石祠が、一番右側には「富士仙元大菩薩」と読める石碑が祀られている(同右)。
 八坂神社の祭りもあり、7月15日の八坂神社祭は「お祇園」とも呼ばれる夏祭りで、子供神輿が地域内を練り歩く。昭和50年代中ごろから15日に近い土曜日に実施されている本庄市全体の神輿パレードに参加するようになったので、祭日を変更している。子供神輿の渡御は、男女の小学生を中心に保護者の子供会役員・自治会長・総代など地域の役員が参加するという。
       
            社殿奥に聳え立つ大杉のご神木(写真左・右)
        
               社殿から斜面下の鳥居を望む。




参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「本庄の地名(本庄地域編)HP
    「境内案内板」等
                
      
             
        
  

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下野堂二柱神社

 本庄市下野堂地域。この下野堂という地域名はなかなか特徴的だ。調べてみると、江戸時代以前は下野堂村と杉山村は一村であったようで、下野堂村の明治9年(1876)の『地誌取調書上帳』(市史資料編所収)には、「本村古時同郡小島村と一村タリト云」とあり、さらに「永禄之頃分村セシト云伝フ、本村地方ハ上二杉林アリ、下二堂アリ、故二杉山村ト称ス、文禄ノ頃、又二村トナル、下二堂アルヲ以テ下野堂村ト称ス」とある。また「今杉ノ根、堂場等ノ称残レリ、是杉山下野堂村名ノ因而起ル所ナリトゾ」と記している。つまり下野堂の由来は「下に堂」があったからとするが、「下」の意味は不明との事だ。
 大正3年(1914)に書かれた「下野堂村創業誌」(市史資料編所収)には、下野堂村の開発状況が記されている。「本村往昔ハ小島ノ原ト唱ヒ、一般ノ原野ナリ」とあり、『廻国雑記』の記述を参考にしたものと思われる。
 また、下野堂二柱神社の由緒として「鎮守聖天ハ信玄公帰依ノ尊躰ナリト云フ、勘解由四門造ノ堂ヲ建立シ安置ス、世人四門堂聖天ト云フ、是レ村名ノ起因ナリ」とあり、「下の堂」と「四門堂」が下野堂の由来としている。このことから下野堂の発音は「シモンドウ」と呼ばれていたのが、現在は漢字表記から「シモノドウ」と呼ぶようになったという
        
             
・所在地 埼玉県本庄市下野堂1212
             
・ご祭神 伊邪那岐命 伊邪那美命
             
・社 格 旧下野堂村、杉山村鎮守・旧村社
             
・例祭等 春の大祭 43日 天王様 715日 大祓 720
                  秋の大祭 113日 新嘗祭 125日 御手長様 1219
 小島諏訪神社から一旦北上し、国道17号線に合流後左折し、「小島(北)」交差点を左折する。「蛭子塚通り」を300m程南西方向に進んだ先の十字路を左折すると、すぐ左手に下野堂二柱神社が見えてくる。社の周囲は綺麗に区画整理され、住宅街が建ち並ぶ中に鎮座している。
        
                 
下野堂二柱神社正面
『日本歴史地名大系 』「下野堂村」の解説
 下ノ堂とも記す。本庄台地の末端、小島(おじま)村の西に位置し、畑作を中心とした村。北東部を中山道が通る。杉山村集落の中心部で三方を小島村に囲まれた杉山村の飛地のなかに当村の飛地があり、一方では村内に小島村と杉山村の飛地があることから、複雑な分村過程を示していると考えられる。塩原家創業誌(塩原家文書)は、甲斐武田家の一門と伝える塩原勘解由について「天正元年信玄卒スルニ及ビ勘ケ由子弟ヲ率ヘテ当地ニ来リ、(中略)一族帰農ニ決シ土地開拓ニ勉ム、(中略)天正十八年小笠原掃部頭ノ新領土トナレリ、勘解由ハ領主ト同族ノ故ヲ以テ更ニ地ヲ卜シ溝渠ヲ構ヒ居館ヲ経営ス、(中略)今ニ溝渠ノ跡ヲ存セリ」と記しており、勘解由の墓が現存する。
        
          鳥居近くに設置されている下野堂二柱神社の案内板
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 下野堂村』
 聖天社 本地十一面觀音を安ず、當所及杉山村の鎭守にして、杉山村日輪寺の持、
『新編武蔵風土記稿 杉山村』
 日輪寺 新義真言宗、賀美郡忍保村善臺寺末、聖天山光明院遍照坊と云、本尊不動 觀音堂


 二柱神社(しょうてんさま)  本庄市下野堂三二三(下野堂字森田)
 当地は、元々小島村の内であったが、慶長年間(一五九六〜六一五))に分村して杉山村となり、その後、延宝五年(一六七七)の検地までに分村して下野堂村となった。下野堂は下ノ堂とも書き、口碑によれば地名の由来は、当社の前身である「四門堂聖天」によるという。
 社伝によると当地の草分けである塩原家は、元々甲斐の武田信玄の家臣であった。武田信玄はかねてより聖天に帰依しており、領内より採掘された金を使って一六体の聖天像を造らせ、主立った家臣に分け与えた。塩原家の当主勘解由もその内の一体を拝受し、永禄年間(一五五八〜六九)に所領であった当地に堂を建立し、聖天像を祀った。この堂は四方に門を配置していたため、村人から「四門堂聖天」と称され、崇敬された。天正十年(一五八二)に武田家が滅亡すると塩原勘解由は四門堂に隣接して居を構え、帰農して当地の開拓に当たり、同十八年(一五九〇))にその功が認められて当地の所有を許された。その後、延宝五年(一六七七)の検地で四門堂の北西の隣接地が除地とされると、塩原家はそこを新たな境内地として、社殿を建立し、聖天像を祀って聖天社と称した。『風土記稿』によれば、当社は下野堂村及び杉山村両村の鎮守で、杉山村の日輪寺の持となっている。別当の日輪寺は、聖天山光明院と号した。
 神仏分離後、当社は二柱神社と改称し、明治五年に村社に列した。
                                  「埼玉の神社」より引用
 当社のご祭神は、伊邪那岐命・伊邪那美命の二柱で、地元の人々から「聖天様」と呼ばれ、霊験あらたかな神様として崇敬されており、特に象頭人身の二体が抱き合う聖天像の姿から、子授けに霊験あらたかな社として近隣の村々にも知られていた。このため、古くから子供のない夫婦は当社へ参拝して子授けを祈り、更に身籠ると四方田産泰神社へ参拝して安産を祈るのが習わしとなっているという。
 また当地では「雉は聖天様の使いであるから捕ってはならない」といい、かつては沢山の雉が生息していたが、近年の開発により、生息地の宗源がなくなり、滅多に見られなくなっている。
        
             社殿の左側手前に祀られている石祠群
 左側の石碑は蚕影大神。その並びには八坂神社・天満天神宮・稲荷大明神・御手長宮を祀る。
       
               社殿左側奥にある庚申塔四基。右から二番目は大山祇命の石碑。
        
            社殿右側奥に祀られている若宮八幡宮、他。
         左から庚申塔・塩原勘解由墓・若宮八幡宮・追遠碑の石碑
            庚申塔や塩原勘解由墓の奥には奉献碑がある。
                     追遠碑
                丈慎終追遠即民徳歸厚矣是古之教人法也蓋我開蕀祖者小笠原
                長清末孫而世居甲斐有故更氏鹽原仕武田家信玄當爭覇一族皆
                在文武職就中勘解由信重歴仕信玄勝頼屢有功晩爲上州長根組
                部将劃策中遭於宗家瓦解竟不果噫時哉既来子當地偃武帰農開
                拓土地耕芸躬努諸族相頼一致協力斯業漸成焉時領主小笠原信
                嶺待勘解由以同族禮故聾望自隆焉慶長十八年五月十六日卒爾
                後襲其遺業者滋加殆作村相矣今也村民相謀建碑而奉祀事以致
                追遠之虔素是亶非闔村故而巳所以使隣里郷黨馴致醇厚之風也
                 仍作銘々曰 兵農出一 偃武躬耕 創業遺徳 諸族共榮
                             信玄十三世裔武田正樹篆額

              
                       鳥居の東側に祀られている塞の神の石碑
   中央上部に大きく刻印された「久那斗神」「八衢彦神」「八衢姫神」以外の字は読み取れず。
              
                          塞の神の近くに聳え立つご神木

 ところで、当地に古くから居を構える氏子の間では、かつて当社に祀られていた聖天像について次のような口碑が伝えられている。
 氏子は武田信玄より拝受した聖天像を厚く崇敬していたが、江戸中期にこの聖天像の行方がわからなくなり、村中が大騒ぎになった。この時、別当の日輪寺から村人に元小山川の川岸に集まるようにという指示があり、村人がこぞって川岸に集まった。しばらくすると川の上流から純銀の聖天像が流れて来るのを村民の一人が発見し、川から取り上げた。村人たちは「これこそ行方知れずになった聖天像の生まれ変わりである」と言って持ち帰り、当社に祀って一層崇敬したという。後日、この聖天像は、村中の騒ぎを鎮めようと日輪寺が作らせ、元小山川に流したものであることが判明したが、村人の崇敬心は変わらず、文化五年(一八〇八)と天保十年(一八三九)に、村の重立ちが元小山川に聖天像を迎えに行く模様を描いた絵馬を奉納したという。因みに純銀の聖天像は明治初年の神仏分離により日輪寺に遷されたのだが、氏子にとって聖天像は崇敬の的であり、当社と一体不可分の存在であったため、何時の頃か木造の聖天像を作り、これを厨子に納め、本殿の屋根裏に奉安しているそうだ。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「本庄の地名HP」「埼玉の神社」
    「境内案内板・石碑文」等
  

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