古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

大越鷲尾神社


        
              
・所在地 埼玉県加須市大越526
              
・ご祭神 天日鷲命
              
・社 格 旧上中下大越村鎮守・旧村社
              
・例祭等 祈年祭 217日 名越祭(祓い祭)731日・81
                   
秋祭り 1016
 常木神社から用水路沿いの道路を南東方向に1.2㎞程進むと大越鷲尾神社に到着する。但しこのルートでは社が背を向いたような状態であるので、一旦手前の十字路を右折し、左回りのようなルートにて、正面に到着することができる。
 社に隣接し社務所らしき建物もあり、そこには広大な駐車スペースもあり、そこの一角に停めてから参拝を開始する。
        
                  
大越鷲尾神社正面
『日本歴史地名大系』 「上大越村」の解説
 北は利根川を境として上野国邑楽郡大久保村(現群馬県板倉町)と対し、東は下大越村・中大越村。古くは中・下の大越村と一村であった。天正一〇年(一五八二)の成田家分限帳には「五十貫文 大越彦四郎」「二十一貫文 大越彦八郎」とみえ、在郷の武士と考えられる。なお萱氏系図(鷲宮神社文書)に「武蔵国大越郷住人大越次郎貞正」がみえる。貞正の娘を母とするのが萱氏の先祖で、建久元年(一一九〇)に鷲宮神社(現鷲宮町)本社を再建したと伝える。
*成田分限帳
「五十一貫文・大越彦四郎、二十一貫文・大越彦八郎」
*萱氏系図(鷲宮村鷲宮神社所蔵)
「莿萱重郎正忠(建保元年死す、行年七十九歳。母大越次郎貞正娘・武蔵国大越住人)」
 羽生領に所属(風土記稿)。寛永八年(一六三一)八月の騎西郡羽生領大越村御検地水帳写(関根家文書)には田畑二六五町余のうち五七町余が当発とあり、大規模な新田開発が進められていた。
        
                 参道の先に建つ鳥居
 参拝日は8月のお盆を過ぎた平日。連日35度以上を記録する「酷暑日」に参拝を行っているにも関わらず、鳥居の先は、樹木の木陰げとなっており、水分補給をしながら汗ばむ体を休ませるには丁度良い空間となっていた。

        
             拝殿手前、参道左側に祀られている合祀社
               左から天神社・( ? )・稲荷社
        
                    拝  殿
『新編武蔵国風土記稿 上中下大越村』
 羽生領葛濱鄕に屬す、按に【梅松論】に建武二年十月十日太田庄を、小山常若丸に宛行云々とあり、當村に小山の建立せし寺院あれば、彼太田庄と云へるは當所の事なるにや、成田分限帳に五十一貫文大越彦四郎とあるも、當所に住して在名を名乗しなるべし、當村元は一村なりしに、後上下の二村となり、後又其内より中村を分てりと云、
 鷲尾明神社 上中下三村の鎭守なり、鷲尾といへど、鷲明神を祭りしものなりと云、
 末社 淺間 ○辨天社 ○八幡社 以上の四社は共に上分にあり、

「埼玉の神社」による解説では以下の説明がある。
 当社は『新編武蔵国風土記稿』に「上中下大越村の鎮守なり、鷲尾といへど、鷲明神を祭りしもの」とある。往時真言宗妙雲山宝幢寺持ちとされ、明治以前は現社務所が同寺末の西行寺で、当社の直接管理に当たっており、享保四年の石鳥居にその寺名が残されている。
 昭和七年覆屋改築の際に見つかった棟札には「延享二年八月本殿改築 宝暦三年厨子造営 文政八年九月幟寄進 文政十年浅間神社創建」などが記されていたが、昭和四十四年社務所改築の折に紛失している。
 祭神は「天日鷲命」であるが、本来「天穂日命」であったものを、時の領主であった尾沢某が自分の姓から「尾」の一字を入れて、社名を「鷲尾」に改めた時に、祭神名も変えたと伝える。しかし、この祭神変更は、江戸期北埼玉一帯に綿が広く栽培され、青〇の名で知られる織物が盛んに行われていたことから、尾沢某が木綿作り、紡績業創始の神である天日鷲命を奉斎したものと思われ、現在も尾沢某が奉納したと伝える宝永四年の社号額が残る。
 当社には字宮西の今宮神社、字中内の御嶽神社二社、字馬場の白山神社、字前田の伊奈利神社・天神社を明治四十四年から大正二年までに合祀した。境内には安産子育ての信仰のある宣言者のほか八坂神社、湯殿神社、今宮神社、稲荷神社、天神社、神明社、弁天宮が祀られている。
        
                    本 殿
 また大越の氏子は祭神名が鷲であるためか、鳥(ニワトリ)は食べなかったといわれ、家で飼っているニワトリが年をとると鷲尾神社の境内に放したという。このほか、大越では正月三が日はうどんを家長が打ち、四日から餅を食べるという風習があり、三が日に餅を食べるとオデキができるといって、これを戒めたという。
 
  社殿右側に祀られている境内社・浅間社か       浅間社の右隣に祀られている八坂神社
        
              境内に祀られている石祠群。詳細不明
 731日と81日に行われる「名越祭」は「祓い祭」とも呼ばれている。この祭りは鎮座地である中内の氏子へ日頃の奉仕に対する労賃として始められ、収益は中内に還元される。祭りの1週間前に輪くぐりの材料となる真菰(まこも)を刈り、各戸へ招待状と人形(ひとがた)を配る。31日真菰で輪をつくり、神職があらかじめ集めておいた人形を持参して輪をくぐり、祓いを済ませた後神札を配る。嘗ては翌日の午(うま)の刻に神職が輪と人形を流したが、現在は河川の汚染防止の為お焚き上げをしているとの事だ。
        
                参拝終了後木陰の場所に戻り、一旦休み、鳥居方向を撮影。


 大越鷲尾神社から240m程北側で、利根川右岸の土手付近に大越樋口伊奈利神社が鎮座している。境内は決して大きくはないが、コンパクトに纏まった社殿やその手前に設置されている石碑二基の立派さ、また社殿の奥に並んで祀られている庚申塔や石祠等を拝みながら、なかなか立派な社と言う印象を持った。
 なにより境内の手入れが行き届いていて、地域の方々の社に対する崇敬の念を充分に感じさせる社でもあった。当初は立ち寄る予定はなかったのだが、何かのご縁で手繰り寄せられたもとの感じ、ありがたく参拝させて頂いた次第だ。
 但し周辺には駐車スペースは全くない様子。路駐して急ぎ参拝を開始した。
        
               ・所在地 埼玉県加須市大越650
               ・ご祭神 倉稲魂命
               ・社格・例祭等 不明
        
                    鳥居正面
                   鳥居の社号額には「西宮稲荷大明神」と刻まれている。
        
  社殿前には立派な「伊奈利神社 改築記念碑」「椿森稲荷神社碑銘」が設置されている。
                 椿森稲荷神社碑銘
            武蔵國北埼玉郡大越邨字樋口堤上有一社曰
            椿森稲荷一落人民尊信甚厚失不詳何年何人
            之所創建傳言慶安二年一加修繕焉後至天保
            二年社木繁茂良材頗多及伐以建前殿規模較
            大同三年三月罹災而燼失其八月雖再造營舊
            觀頗損後經四十年明治十三年新造萃表〇〇
            石置末社多擴舊規以擧行祭典同十九年官下
            令〇在堤地者無社寺無民家悉除去之是以事
            之關堤地者百方哀願緩其期終至今年不可復
            請焉官亦不許也於是一落相謀推荒木喜太郎
            三井長次郎三井清藏荒木重郎次四氏為幹事
            以永遷社之地初雖捧三井楠吉氏之屋後低窪
            不可以祭神焉及購三井長次郎氏之地定為社
            地奉一落經營甚勉不日竣功茲卜九月九日大
            奉還社之盛式神之享之以福落民亦不可疑也
             
之亍石永傳子孫係以銘々云(以下略)
               
                   拝 殿 
 当社は椿森稲荷とも呼ばれ、明治初期の利根川改修まで、現社地北側の堤防付近に鎮座していた。古くは木が繁殖していたことが伝えられ、「椿森」の名もこれに由来していたと思われる。
祭神は倉稲魂命。内陣には茶き尼天像(だきにてん)と嘉永七年に奉納された水晶玉を安置している。境内には末社天満宮、御嶽仙元宮、白雲山妙義大権現が祀られている。
 氏子にとって当社は「雨乞いの神」「疫病除けの神」「洪水を防ぐ神」としてご利益があるとされている。
       
            社殿奥に祀られていた庚申塔・石碑・石祠

   

参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「境内石碑文」等

                



拍手[0回]


常木神社


        
               
・所在地 埼玉県羽生市常木1135
               
・ご祭神 大雷命 誉田別命
               
・社 格 旧常木村鎮守
               
・例祭等 春祭り 415日 夏祭り 826日 
                    秋祭り(大祭)
1015
 堤千方神社南方の用水路に沿って南東方向に走る道路を1.3㎞程進むと、進行方向左側で、利根川右岸の土手に「羽生スカイスポーツ公園」が見え、その公園に対して道路の反対側で、用水路に沿って常木神社は鎮座している。
 社周辺には適当な駐車スペースはないようなので、上記公園の道路沿いにある広い駐車場に停めてから参拝を開始する。
        
            
利根川右岸の自然堤防上に鎮座する常木神社
『日本歴史地名大系 』「上常木村」の解説
 利根川右岸の自然堤防上に位置する。古くは下常木村と一村で、両村の境は入組んでいて分ちがたく、西は下村君村・堤村、東は上大越(かみおおごえ)村(現加須市)。現東京都世田谷区森巌(しんがん)寺所蔵鰐口の宝徳二年(一四五〇)八月日付銘文(武蔵史料銘記集)に「武州太田庄恒木郷極楽寺」とみえる。天正六年(一五七八)三月七日の木戸元斎願文(奈良原文書)によると、羽生城主木戸忠朝次男元斎が羽生城回復を上野国三夜沢大明神(現群馬県宮城村の赤城神社)に祈願し、回復のうえは埼玉郡常木郷など三郷から三貫文の地と神馬三疋を寄進することを約している。
 
        南北に流れる用水路に沿って社は鎮座し、社号標柱(写真左)から
             鳥居まで比較的長い参道が続く(同右)。
        
           笠木部は反りがなく、一直線という特徴ある鳥居
 現在は常木神社の名称であり、どのような由緒なのか名称だけでは皆目見当もつかないが、嘗ては「雷電天神合社」という社名で、雷神を祀る社であった。当地の方々は「雷電さま」の名で親しまれ、雷にちなむ信仰が語られている。『新編武蔵国風土記稿』によると、「二俣竹 此二俣竹は昔当社地に生ぜしものなるを大久保彦左衛門忠教、当所の地頭たりし時、刈り取て杖になさんとせしに、忽ち雷轟きわたりて、従者悶絶し雷鳴数日止ざりければ、忠教恐れて其罪を謝し、手づから其竹に銘を彫り、奉納せしもの是なり」とあり、この二俣の竹は、縁起と共に社宝として伝わっている。祭礼の折に設けられている舞台を社殿に背を向けて建てると、大夕立が来るとも言い伝えられている。
        
                    拝 殿
 当地は雷電講で賑わう群馬県板倉町を利根川の対岸に望む畑作地帯である。ここは全国でも有数な雷の多発地帯で、村民は夏の北西からの雷雲には殊に注意を向けている。
 嘗て「雷光」は「稲妻・稲光」とも云われ、稲の豊穣をもたらすものと言い伝えられるのだが、これは雷の古い信仰形態をみることができる。
 当社は慶長五年『常木雷神社大久保彦左衛門願文』によると、上州大楽木部佐貫之庄板倉之領廻之村(現邑楽郡板倉町)へ、承和年中勧請した雷電神社の神璽が、永正元年五月一日に常木の地に飛んで来たことから、村民は早速社殿を建立した。その神威は日ごとに増し、祈願すれば病気は治り、旱魃には大雨が降るなど、人々はその神慮に大いに歓んだという。享保三年吉田家から宗源宣旨を受けている。『新編武蔵風土記稿』にも「雷電の神体は一寸余の玉にして水晶の如し、久旱の時此の玉を水中に入れて祈れば、必ず其の験有りと云う」とある。また明治四年六月の「祭雷公文」が残り、往時の信仰の様子をうかがい知ることができる。
 明治四年九月に八幡神社を当社に遷座、合併している。因みに八幡神社は往古より当村茂手木という所に鎮座し、慶安二年社領二八石六斗の御朱印を付されたといわれる。
 昭和二〇年一月八日 現社名に改称している。
                                   「埼玉の神社」より引用

 

  拝殿の回りに祀られている末社三基…栗島・諏訪・熊野社。但しいずれかは不詳との事
        
                  社殿からの一風景
『新編武藏風土記稿 埼玉郡上常木村下常木村』
 雷電天神合社 
 雷電の神體は一寸餘の玉にして、水晶の如し、久旱の時此の玉を水中に入れて祈れば、必其驗ありと云、慶長五年別當龍門坊の住僧深舜が記せし緣起に、當社雷電は承和年中上野國邑樂郡板倉鄕に勸請せしを、不思議の
ありて永正元年當所へ移り祀りし由載せたれど、恐く傳への誤なるべし、今も彼地に雷電の大社存すれば、遙拜の爲に寫し祀れるならん、
 寶物 二俣竹 
 此二俣竹は、昔當社地に生ぜしものなるを、大久保
左衞門忠敎、當所の地頭たりしとき、伐り取て杖になさんとせしに、忽ち雷とヾゑきわたりて、從者悶し、雷鳴數日止ざりければ、忠敎恐れて其罪を謝し、手づから其竹に銘を彫り、奉納せしもの是なり、銘左の如し、

 らいてんくうの御不地として、是をこめ奉也、さる間拙はきやうしうに候間、よろつの事をくわんねんし、中道のいんにひうけこんし三がいのもんにいり、そくしんしやうぶつをきはめ、無二やく無三ときはめ申よりして、よろつおしこといたし候へ共、此らいてんにおひて、さらさらおしことならす候間しやれうを爲付此ふちをこめ申候、以上此外不申候以上
  けい長三年八月一日  つねきちとう大久保左衞門
 

参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等

拍手[1回]


堤千方神社


        
               
・所在地 埼玉県羽生市堤869
               
・ご祭神 興玉命(推定)
               
・社 格 旧堤村鎮守・旧村社
               
・例祭等 天王様 77日〜15
 羽生市堤地域は同市北東部にあり、利根川右岸の自然堤防上に位置し、西側は下村君地域に隣接している。堤千方神社は下村君地域にある永明寺古墳のある永明寺正面の道路を東方向に600m程進んだ場所に静かに鎮座している。
        
                                 
堤千方神社正面
『日本歴史地名大系』 「堤村」の解説
 下村君村の東、利根川右岸の自然堤防上に位置する。現鷲宮町鷲宮神社の文禄四年(一五九五)八月付棟札に「発戸道原明堤此郷何三分一」とみえ、同社領があった。また、村内延命寺にあった寛永一三年(一六三六)の鐘銘に「崎東郡羽生北方堤村」とみえる(風土記稿)。田園簿によると幕府領、田高一三七石余・畑高三六〇石余、ほかに延命寺領一五石があった。宝永二年(一七〇五)一部が旗本藤枝領となり、天明五年(一七八五)上知(「寛政重修諸家譜」など)。化政期には旗本富田領と陸奥泉藩領(風土記稿)。同藩領は寛政二年(一七九〇)からと考えられ、幕末の改革組合取調書でも同じ。「風土記稿」によると家数六〇。「郡村誌」では七七戸・四二〇人、ほかに出寄留一五人。
        
                参道左側にある庚申塔等
        
              道路から少し離れた場所に鳥居が立つ。
「堤」という地名は、利根川の堰堤(えんてい)に由来する。この地域は、古くからしばしば水害に見舞われ、住民の生活は困窮を極めていたと伝えられている。
 当社は、利根川中流域右岸に位置し、「延命寺渡し」と云われる渡船場が近くにあり、上州との往来が盛んで、対岸より多くの参詣者があったという。というのも一間社流造りの本殿内に寛政二年 舘林町(現館林市)の岩蔵なる者より奉納の金幣が納められている事から見ても伺いしれよう。
 社伝によれば、俵藤太藤原秀郷の六男修理太夫は千方といい、この地に仁政をしき、里人がその徳を偲び、千方社を祀ったという。本殿には全長17.3㎝の「両顔石棒」を安置している。
 江戸期には延命寺の管理を受け、村の鎮守であったが、明治の神仏分離により興玉命を祭神とし、村社となる。
 明治45年の利根川引堤工事に際して、当社は延命寺と共に現在の地に移転された。旧社地は現在地から北北西約500m河川内(字上内田)に当たる。
 また旧社地には「御手洗池」と呼ばれる聖泉があり、癪病に効くと古くから言い伝えてきたという。
        
                    拝 殿
『新編武藏風土記稿 埼玉郡堤村』
 千方社 村の鎭守にて延命寺の持、相傳ふ俵藤太秀鄕の男を祀る所なりといへり、按に秀鄕が六男修理太夫を千方と云、此人を祀りしなるべし、社の傍に御手洗池あり、靈水にして癪を病る者、此水を汲て湯となし、沐浴すれば必驗しありと云、

 ところで、社の本殿には全長17.3㎝の「両顔石棒」を安置しているのだが、この「両顔石棒」は、古くから男性を模していると伝えられ、子供のいない者が信心すれば、必ず子が授かるといわれ、氏子内を初め他所からの参詣もあったという。新婚宮参り、赤子の初宮詣は今でも行われ、姑が関与するのを例とする。
 また社が上内田地域に鎮座していた当時、境内には前出「御手洗池」があって、社記には「霊水にして癪を病む者此水を汲みて湯となし、沐浴すれば必ず験あり」と伝えられていた。その後下内田に移転した時に、旧地に倣い池を掘り御手洗池とし、「婦人病、特に下の病や産後、この水で体を清めると良い」として昭和の初めまでは使用されていた。その後この池は少しづつ埋め立てられ、今では完全に姿を消し、跡地は遊園地となっているようだ。
        
              社殿の裏側に祀られている石祠等
 稲荷・天神・浅間・三峰の各社と思われるが、元々これらの境内社群は、三峰神社を除く三社に関して、古くは延命寺持ちで村内に点在していたもので、明治45年の利根川引堤工事に際して当社の境内社として合祀されたという。
        
                         堤千方神社遠景


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等

拍手[1回]


桶川稲荷神社

 江戸時代から桶川宿は染物や紅の原料となる紅花をはじめとする農作物の集散地兼宿場町として栄え、特に紅花は、幕末になると、山形の「最上紅花」に次いで全国で二番目の生産量を誇っていた
 当時は、街の至る所で紅花畑が見られたといわれている。桶川における紅花の生産は、天明・寛政年間(17811801年)に江戸商人がその種子をもたらしたことから始まり、「桶川臙脂(えんじ)」の名で全国に知られるようになった
 最上地方では7月に収穫するのに対し、気候が温暖な桶川ではひと足早い6月に収穫することができます。そのため、“早庭(場)「はやば」もの”とも呼ばれ、紅花商人に歓迎されたそうだ
 世情が安定した江戸後半は、江戸や大坂(現在の大阪)の大都市だけでなく地方の町も発展し、町人を中心とした消費生活が高まりつつ桶川臙脂の生産も急速に伸びていったという。遠方の商人も集まるようになると、富とともに文化ももたらされた。今も残る桶川祇園祭の山車の引き回しは京の都から、祭囃子は江戸から採り入れ、桶川で独自に発展した行事である。
 桶川稲荷神社には市指定文化財である一対の「紅花商人寄進の石燈籠」があるのだが、この石燈籠は、桶川宿とその周辺の紅花商人たちが、桶川宿浜井場にあった不動堂へ安政4年(1857)に寄進したものであり、明治時代となり、神仏分離策などの動きの中で、やがてこの稲荷神社へ移されたという。
         
             ・所在地 埼玉県桶川市寿21423
             ・ご祭神 宇迦之御魂命
             ・社 格 旧桶皮郷惣鎮守・旧村社
             ・例祭等 春の例大祭 4月第一土曜日 秋の例大祭 10月第一土曜日  
 加納氷川天満神社から一旦南西行し、国道17号線に合流後、桶川市街地方向に左折する。2.5㎞程進んだ「北一丁目」交差点を右折し、2番目の十字路を左折すると左手に桶川稲荷神社の境内、及び一の鳥居が見えてくる。
 駐車スペースは境内東側に綺麗に舗装された駐車場も完備されているので、そこの一角をお借りしてから参拝を開始する。
        
                  桶川稲荷神社正面
 「桶川」の地名の由来については諸説ある。最も有力なのは「沖側(オキガワ)」説で、「オキ」を「広々とした田畑」の意とし、その「方向(ガワ)」である「沖側(オキ-ガワ)」が転訛したとするもの。他にも、湿地が多い土地柄で、東に芝川、南に鴨川の水源があることから、「川が起こる」意で「起き川(オキガワ)」とする説などがある。この地名「オケガワ」が初めて文献に現れるのは観応3年(1352年)、足利尊氏が家臣にあてた下文(くだし-ぶみ)であり、そこには「武藏国足立郡桶皮郷内菅谷村(むさし--くに あだち-ごおり おけがわ--ごう-ない すがや-むら)」とある
        
                           鳥居の右側に設置されている案内板
        
                綺麗に整備されている境内
 桶川稲荷神社は旧中山道桶川宿の街道筋から、東側に少し入った閑静な住宅街の一角に鎮座する。社伝によると嘉禄年間(1225年〜1227年)に創建とされ、現在の桶川市と上尾市に跨る地域に比定される「桶皮郷」の惣鎮守として創建され、ご神体として宝剣を祀っている。時代は下り1668年(寛文8年)の宗源宣旨が当社内陣に残されていて、また1694年(元禄7年)に代官南条金右衛門が幕府に乞うて社地三反五畝が除地として許されていることから、江戸時代初期にはすでに祀られていたといわれ、1717年(享保2年)に神祇管領長上吉田家より正一位に叙せられている。「南蔵院」が別当寺であった。南蔵院は明星院を本寺とする真言宗の寺院であったが、明治初期の神仏分離により、廃寺に追い込まれた。南蔵院の僧侶は還俗して当社の神職となった。
 1873年(明治6年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられ、1907年(明治40年)の神社合祀により周辺の4社が合祀された。また時期は不明であるが、2社も合祀されている。現在は境内に本殿、幣殿、拝殿の他に、八雲社、雷電社、琴平社、阿夫利社が祀られている。
        
                              稲荷神社の大磐石
 
 稲荷神社の力石 民俗文化財(有形民俗) 昭和50年12月13日指定
 力石は、神社などの境内に置かれ、若者などがこれを持ち上げて力比べなどをしました。稲荷神社の力石は、長さ1.25m、厚さ0.4m、重さ610kgの雫のような形の楕円形で、力比べに使った力石としては日本一重いと言われています。表面には「大般石」の文字と、嘉永5年(18522月、岩槻の三ノ宮卯之助がこれを持ち上げたこと、続いて、ともに当時の桶川宿の有力商人であった石主1名と世話人12名の名が刻まれています。
 三ノ宮卯之助(18071854)は旧岩槻藩三野宮村(現越谷市)出身で、江戸へ出て勧進相撲をつとめ、江戸一番の力持ちと評判の力士でした。三ノ宮卯之助の名がのこる力石は、埼玉県内の他、千葉やかながわ、遠くは長野や兵庫でも確認されています。三ノ宮卯之助がこの力石を持ち上げた嘉永52月は、稲荷神社の大祭と考えられます。卯之助の怪力ぶりに、集まった観衆はさぞかし驚き、拍手喝采を送ったことでしょう。
                                    前出
案内板より引用
        
                                    拝 殿
   拝殿の前には一対の紅花商人寄進の石燈籠がある。この石灯篭も桶川市指定文化財。
 稲荷神社
 稲荷神社は、近郷の氏子や崇敬者により、鎮守として祀られています。かつて、この地は芝川の水源地帯で、高崎線の線路近くにあった湧水が中山道を横切ってこの付近を流れ、一帯は豊かな社が広がっていました。創建は長承3円(1134)とも嘉禄年間(12251227)ともいわれます。元禄6年(1693)に桶川宿の鎮守となり、明治6年(1873)に桶川町の村社となりました。約1,200坪の境内地には本殿、幣殿、拝殿、手水舎、神楽殿、社務所のほか、八雲社、雷電社、琴平社、阿夫利社が祀られています。また、かつての桶川宿の繁栄を偲ばせる文化財なども大切に守られています。
 紅花商人寄進の石燈籠 有形文化財(歴史資料) 昭和49年3月5日指定
 稲荷神社拝殿の正面にある一対の大きな石燈籠です。かつて中山道の宿場町だった桶川宿は、染物や紅の原料となる紅花の生産地としても栄えました。この石燈籠は、桶川宿とその周辺の紅花商人たちが、桶川宿浜井場にあった不動堂へ安政4年(1857)に寄進したものでした。明治時代となり、神仏分離策などの動きの中で、やがてこの稲荷神社へ移されました。また、不動堂は現在浄念寺境内へ移築されています。
 燈籠には計24人の紅花商人の名が刻まれており、桶川のほか、上尾や菖蒲の商人の名前もあります。かつての紅花商人たちの繁栄を伝える貴重な文化財です。
                                  共に前出案内板より引用
        
                    本 殿
 一間社流造りの本殿は、文化十四年(一八一七)に幕府の御用大工であった江戸の立川小兵衛という棟梁によって造営されたと伝える由緒あるものである。また、昭和四十三年には氏子崇敬者の総意をもって本殿の覆屋の解体復元が行われたという。
 
 社殿のすぐ左側に鎮座する境内社・雷電社    参道左側に並列して鎮座する境内社四社
                          一番社殿側に鎮座する阿芙利社
        
            阿芙利社の左側に祀られている境内社・八雲社
                    元市神          
 
 八雲社の左側に祀られている境内社・琴平社     琴平社の手前にある元白山社
                              現在は神楽殿
『埼玉の神社』によれば、「明治初年の神仏分離を経て、当社は明治六年に村社となった。一方宿の鎮守であった字西ノ裏の神明社は無格社となったため、明治四十年に字西ノ裏の白山社・字浜井の若宮社・字牛久保の稲荷社の三社の無格社と共に当社に合祀された。この時、字西ノ裏から白山社の社殿が当社境内に移築され、以後神楽殿に使用された。このほかに、明治九年に現在の西一丁目の加藤電気の辺りから雷電社が、又いつのころか桶川郵便局の西隣から浅間社が、同じく東和信用金庫の北隣から八雲社(市神)がそれぞれ当社境内に合祀された。中でも浅間社は昭和三十年ごろまで旧地に高さ二・七メートルほどの富士塚が築かれていた。この塚は、地元の富士講の人々が富士山に登拝の度に「黒ボク」と呼ばれる溶岩を一つずつ持ち帰り、これを積み上げたものであった。毎年七月一日には初山と称してその一年間に生まれた子供が母親に抱かれてこの塚に詣で額に神印を押してもらい、愛児の無事成長を祈願した」と、八雲社や白山社等の境内社に関しての記載がある。
        
                東側にも鳥居があり、鳥居の先にはご神木が聳え立っている。
             
                 桶川稲荷神社のご神木
        
                 東側駐車場からの風景


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「桶川市HP」「Wikipedia」「境内案内板」等

拍手[0回]


加納氷川天満神社

 加納氷川天満神社は埼玉県桶川市にある神社で、全国の天満宮の一つでありながら、氷川神社の分社の一つでもある。
 嘗ては菅原道真を祭る天満宮の一つとして「加納天満宮」という名前であり、当時の上加納村の鎮守であった。1868年に上加納村と下加納村が合併した際に下加納村の鎮守の氷川神社をこの神社に合社したことから氷川天満神社という特異な名称となったという。
 但し、元からこの地に天満社があったことや、江戸期に鎮守であった氷川神社よりも天満社のほうが信仰を集めていたことから、二社合殿となった今も、古くからの通称である「天神様」の名で親しまれている。
         
               
・所在地 埼玉県桶川市加納771
               
・ご祭神 素戔嗚尊 菅原道真公
               
・社 格 旧上加納村、下加納村鎮守・旧村社
               
・例祭等 例大祭 2月25日 春祭り 3月25日 ふせぎ 5月7日
                    夏越の祓 6月25日 新嘗祭 11月23日 大祓 12月25日
         
 小針領家氷川諏訪神社から南行し、埼玉県道311号蓮田鴻巣線との交点を右折、同県道を西行する。2㎞程過ぎると圏央道に達し、そこを更に北西方向に800m程進んだ先の路地を左折すると、進行方向右手に加納氷川天満神社の神明系の一の鳥居が見えてくる。
 実は県道をそのまま道なりに直進した最初の十字路を左折しても、道幅の狭い道路ながら同系統の鳥居が見える。上記に紹介した一の鳥居が南側にあり、このルートの先には中山道から続く「天神道」といわれる昔からある道につながっている。これに対して、もう一方の鳥居は東側にあり、この鳥居の先の参道は狛犬等があり、より社の参道らしさを感じる。専用駐車場もこの東側の鳥居から進むと近くにあり、この駐車場に停めたのち南側の一の鳥居に向かう。
         
             赤を基調とした両部鳥居である二の鳥居
 平安時代の貞観11年(869年)の創建と伝えられ、古くから近隣の人々に知られ、信仰されてきた。
 江戸時代には「木曾街道道懐宝図鑑」に掲載され、参拝者が後を絶たなかった。また境内の井戸の水で作った薬湯は多くの病気に効くといわれていたことから中山道を通る旅人が疲れを癒すために訪れたという。桶川宿から天神道と呼ばれる道がありその道を通って加納天神社に参拝する人がいたという。
 現在は二社の合殿となっているが、元は別々に祀られていて、加納天満社が現在地にあり、氷川社が今よりも1㎞ほど東方に離れた字宮ノ脇の地に鎮座していたという。その後、明治8年(1875)に上加納村と下加納村が合併し、この天満宮に下加納村の鎮守であった氷川神社を合祀したことから「氷川天満神社」と称するようになったとの事だ。
        
             二の鳥居の前にある重厚感のある手水舎
 
       二の鳥居の右側に並んで設置されている案内板(写真左・同右)
 氷川天満神社と文化財
 この神社は「加納の天神様」として親しまれ、古くから近郷近在の人々の信仰を集めていました。江戸時代の天保2年(1841)刊行の「木曽街道懐宝図鑑」にもその名が記されており、参詣者が絶えなかったといいます。また、境内の井戸水を用いた薬湯は諸病に効くと有名であったことから、多くの参詣者が浸かってきました。この薬湯に使用した井戸は、ご神水の井戸として現在も境内地で水を湛えています。
 神社の縁起は、「宝徳2年(1450」正月24日の夜に社の森に光が差し、コウノトリが尊像を背負って飛来し、社に安置して飛び去った」というものです。その後の正徳2年(1712)正月、菅原道真を祭神として、上加納村の鎮守としたと伝えられています。明治8年(1875)に上加納村と下加納村が合併し、この天満宮に下加納村の鎮守であった氷川神社を合祀したことから「氷川天満神社」と称するようになりました。
 この神社には「天満宮」と記された木製の社号額があります。これは、梵語学者として有名な真言宗の僧・盛典(16621747)が加納の光照寺で修行中であった元禄元年(1688)に奉納したもので、現在は桶川市指定文化財に指定されています。表面は黒漆を塗り、縁を朱塗りにし、中央の「天満宮」の文字は金色に塗られています。裏には「江戸愛宕真福寺一代日向所生超然房性遍法印御自筆元禄元年辰十一月吉日武州足立郡鴻巣内加納村願主
釈盛典敬白」と刻まれています。かつては拝殿か鳥居に掲げられていたと考えられますが、現在は取り外され保管されています。

 氷川天満神社 御由緒  桶川市加納七七一
 □御縁起(歴史)
『埼玉県地名誌』によると、加納は中世荘園である深井荘の追加開墾地であるところから生じた地名である。地内には、室町-戦国期の加納城跡があり、岩槻太田氏の旗下木本氏が居城したと伝えられる。この木本氏の後裔が江戸期に上・下加納村の名主を務めたという。
 当社は二社の合殿となっているが、元は別々に祀られていて、天満社が現在地にあり、氷川社が今よりも一キロメートルほど東方に離れた字宮ノ脇の地(現在のタカハシプレス工業の敷地)にあった。『風土記稿』によると、氷川社は上・下加納両村の鎮守で、天満宮と共に真言宗光照寺が別当であった。一説にこの光照寺は、戦死した加納城主の長男が出家して城の近くに庵を設けたのに始まるという。
 神仏分離を経て、明治六年四月に、氷川社・天満社共に村社となった。次いで、明治四十年五月に氷川社と字本村の無格社八雲社を天満社に合祀したのを機に社名を氷川天満神社と改めた。天満社の方が合祀先に選ばれた理由としては、その周辺に有力者が居住していたことが挙げられよう。このときの御遷宮に際しては、氏子の各戸の庭先で「餅搗き踊り」を行うなど村を挙げて祝ったとの話が残されている。
 神仏分離後の祀職は、合祀を経たころまでは、地元の加藤周蔵が務め、その跡を桶川の稲山家が継いだ。更仁昭和初年からは地元の桜井家が継ぎ奉仕している。
 
     参道左側にある神楽殿              参道右側にある力石
         
                               力石のすぐ隣にある井戸
 嘗ては薬湯に使われたようだが、現在はその機能を果たしておらず、鯉などが放されている。
             またこの井戸はとても深いといわれている。
         
                     拝 殿
         
                   拝殿上部、向拝部等には細やかな彫刻が施されている。
 加納氷川天満神社には年2回の例大祭がある。2月の例大祭は「天神様のお祭り」と呼ばれ、嘗ては前日の晩に当社を中心に四里四方の小学生たちが地区ごとに年長者の家を宿として泊まり込み、そこで習字を行い、当日は朝早く銘々で「正一位関白太政大臣菅原道真公」などと墨書した旗を持ってお参りし、境内にある池の周囲にその旗を立てて、筆を池に投げ入れたという。
         
                                         本 殿
 一方、8月の例大祭は本来は氷川社の祭礼で、夜830分から9時にかけて当地の伝統芸能である「餅搗き踊り」が盛大に行われる。
この「餅搗き踊り」は祭礼のほかに、昭和30年ごろまでは氏子の中で七五三のお祝いや家の落成祝いがあると頼まれて行っていたとの事だ。 

  社殿左側に祀られている境内社・山王社    社殿左側奥に祀られている神武・明治天皇
                           遙拝所、並びに稲荷大明神
        
                          社殿から南側にある二の鳥居を望む
 
      因みにこちらは東側の鳥居(写真左)とその先の参道の風景(同右)
     こちらはこちらで落ち着いた雰囲気でもあり、個人的には好みである。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「桶川市HP」「Wikipedia」
    「境内案内板」等
 

拍手[0回]