古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

戸崎諏訪神社

 諏訪神社  騎西町戸崎二三八八(戸崎字元屋敷)
 当地には『風土記稿』によると「城下」の小字があり、「城跡の形あり、廻りに土手とおぼしき跡見ゆ、戸崎右馬允といふものゝ居蹟なりと云ふ、」と載せる。更に『郡村誌』には、この城跡に竜宝寺を建立したとある。この城は、戸崎城あるいは名倉城と呼ばれたという。
 当社の創建も戸崎城に居た戸崎氏にかかわり、口碑によると同氏のゆかりの地である信濃国から一の宮の諏訪大社の分霊を受け祀ったことに始まるという。
 祭神は武御名方命であり、一間社流造りの本殿には束帯の諏訪明神座像を安置する。
 往時の別当は、真言宗諏訪山瑠璃院宝光寺で、当社のほかに字下耕地の牛頭天王社の別当も務めていた。
 明治初めの神仏分離により寺の管理を離れ、明治五年村社となり、同四〇年には宮元屋敷の厳島社と字下耕地の八坂社を合祀した。現在この二社は境内末社として祀っているが、八坂社は元地にも祠が現存し、子供神輿が納められている。
「埼玉の神社」より引用
        
             
・所在地 埼玉県加須市戸崎2388
             ・ご祭神 武御名方命
             ・社 格 旧戸崎村鎮守・旧村社
             ・例祭等 元旦祭 春祭り 327日 八坂祭 711
                  例大祭 827日 秋祭り 1127
 加須市戸崎地域は、同市西部に位置し、見渡す限り平坦な地域で、地域南部と中央部一部には住宅や民家はあるが、それ以外は周囲一面豊かな水田地帯が広がっている農業地域である。
 あまりに平坦な穀倉地域ゆえに、平永稲荷神社から目視ができる程で、稲荷神社正面入り口に接する道路を650m程東行し、突き当たりの路地を右折すると、遠目ながら戸崎諏訪神社の境内遠景が見えてくる。
 但し、社に通じる道は、舗装はされているが、道幅は狭い。周囲にはこれといった参拝用の専用駐車場はないようなので、適当な場所に路駐して、急ぎ参拝を開始した。
        
                戸崎諏訪神社 境内遠景
『日本歴史地名大系』「戸崎村」の解説
 正能(しようのう)村の北にあり、集落は騎西領用水左岸の自然堤防上に立地する。鎌倉時代戸崎右馬允の居城があったと伝え(風土記稿)、竜宝(りゅうほう)寺は戸崎城跡に創建したという(郡村誌)。城下(しろした)・城付(しろつき)の小名がある。永正一一年(一五一四)七月一日の尊能証状写(武州文書)に「武州中崎西之内自戸崎郷下之事」とみえ、崎西(きさい)のうち戸崎郷より下の年行事職を大円坊に申付くべきことを弾正忠尊能が証している。羽生領に所属(風土記稿)。寛永二年(一六二五)一二月設楽甚三郎(貞代)は徳川氏から「戸崎村」で三三九石余を宛行われた(記録御用所本古文書)。
       
               参道入口に建つ鳥居と社号標柱 
 当地は『吾妻鑑』や『新編武蔵風土記稿』に、鎌倉時代に戸崎右馬允国延の居城があった「戸崎城」があったと伝え、『郡村誌』によれば、社の西側近郊にある金桂山 龍寳寺(竜宝寺)が戸崎城跡に創建したという。 
吾妻鑑卷三
「寿永三年三月十八日、伊豆国に進発する頼朝の御前の射手に戸崎右馬允国延が定めらる」
吾妻鑑卷五
「文治元年十月二十四日、横山、西、小河、戸崎右馬允国延、河原、仙波等は頼朝の勝長寿院落慶供養に供奉す」
『新編武蔵風土記稿 戸崎村』
「小名 城下 城跡の形あり、廻りに土手とおぼしき跡見ゆ、戸崎右馬允といふものゝ居蹟なりと云ふ、」
郡村誌』
臨済宗竜宝寺。其城跡へ当寺を創建すと云」

   鳥居近くに建つ「耕地整理記念碑」    境内にある「県営埼玉型ほ場整備事業の竣工記念碑」
 記念碑文によると、戸崎地域周辺は平坦な水田地域で、農地自体は、昭和14年の耕地整理により整備されてはいるが、一反区画で整備されているほか、道路は狭く用排水路も土水路が残っていて、用排分離もされていないため、効率的な営農が行える状態ではなかったといい、そこで、平成26年度に戸崎地区周辺一帯の整備事業が行われたとの事だ。
 
     一の鳥居の先にある庚申塔       参道の先にある「社殿改築竣功記念碑」
 諏訪神社 社殿改築竣功記念碑
 碑文
 当神社は古来、戸崎の里の総鎮守としてこの地に鎮座し、武御名方命を祀る。村人の幸福と五穀豊穣を恵む、その神徳は遍く広く厚きものあり。
 明治四十年の頃、字元屋敷に在りし厳島神社、並びに字下耕地鎮座の八坂社を合祀し、爾来、里人いよいよ四季の祭りに努め来たりしが、平成七年五月一日の深更、不慮の火災起こりて社殿宝物等悉く烏有に帰す。村人の嘆き悲しみは極まれり。
 されども、やがて社殿再興の気運、氏子の間に高まり、明くる平成八年八月、重立つ人々信州諏訪大社に詣でて、分霊を奉裁し〇新社殿竣功を祝うに至りぬ。
 茲に新しき神殿造営の経緯を記し、村人の厚き敬神の心を書き留め、この里の末永き安寧と弥栄を祈念するものなり。
 平成八年(一九九六年)十月吉日(以下略)
                                     記念碑文より引用
        
     周囲一帯水田が広がっているとは思えない程、境内は社叢林が社を覆っている。
 参道は鳥居から進むが、境内社・八坂社が祀られている所から右側直角に曲がり、社殿に通じる。
        
                  境内社・八坂社
 当社の祭りの一つに、毎年711日に行われる八坂祭がある。この八坂祭は別名「天王様」とも呼ばれ、末社八坂社の祭りである。この日は大人神輿と子供神輿が練られ、村の厄払いが行われる。古くから天王様の風に当たると悪い病気にかからないといわれ、神輿が来ると氏子は沿道に出て拝むという。
「戸崎の村に過ぎたるものは天王様とお獅子様」といわれるほど、氏子は当地にある獅子を自慢する。普段、獅子は宝光寺薬師堂に奉安してあるが、五月一〇日には村の厄払いのため、これを出して氏子を回る。氏子の家に着くと、勢いをつけて座敷に上がり家を祓って風のごとく飛び出ていくもので、無病息災の意味も込められている。
 
社殿に通じる参道左側に並ぶ伊勢参宮記念碑等    参道右側に並列された奉納石燈籠等
        
                    拝 殿
 写真には見えずらいが、拝殿前にある賽銭箱に刻まれている神紋は「違い鎌」という。俗にいう鎌紋とは、農具として使われる鎌をモチーフとした家紋。鎌は諏訪明神の御神体で、祭具として崇められ、また豊穣を祈る意味を持つことから信仰的な意義により家紋となったという。
 
        拝殿に掲げてある扁額         社殿近くに設置されている掲示板
 諏訪神社  例大祭 八月二十八日
 当社は武御名方命を主祭神とし、五穀豊穣を司る神として崇敬される。創建は不詳であるが信州諏訪大社(現長野県)の分霊を祀ったものと思われる。平成七年五月一日深夜、火災により社殿を消失、翌八年に再建されている。
 古くは、地内の宝光寺の管理となっていたが、神仏分離により同寺を離れ、明治五年に村社となっている。また、同四〇年には厳島社と八坂社を合祀している。
 なお、当神社周辺は戸崎城の跡と伝えられ、明治時代の地図によれば土塁が廻っていたことがわかる。平成七年の試掘調査では、堀跡や土塁の痕跡が確認されている。また、平安時代の須恵器や土師器などが出土していることから、当時、ここに集落があったことがわかる。
加須市教育委員会

                                      掲示板より引用 
        
            社殿の東側に祀られている境内社・厳島社

 毎年8月27日に行われる例大祭(本祭り)は、作物の豊作を祈願する祭りで、「鎌どっかえ」と称する行事がある。祭りが近づくと、氏子は銘々で鎌に模して付木に篠の柄を付けたものを二本つくり、「諏訪神社」と書き、自分の名前を記す。当日、これを持って神社に参詣し、神前に供えて、他の鎌と取り換える。鎌は家に持ち帰られ、神棚に、また家によっては悪病除けのため玄関に供えるという。
 また、
当社の境内には道祖神があり、足の病気を治すご利益があるとされている。そのため、かつては草鞋が奉納されていたという。残念ながら境内を確認したが、それらしき祠等は確認できなかった。
        
              参道から入り口付近の鳥居を撮影



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」
    「埼玉苗字辞典」「境内掲示板・記念碑文」等
 

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平永白山神社及び平永稲荷神社


        
             
・所在地 埼玉県加須市平永384
             
・ご祭神 菊理姫命 伊弉諾命 伊弉冉命
             
・社 格 旧明願寺村南明願寺耕地鎮守
             
・例祭等 夏祭 77日〜10
 平永天神社から一旦国道122号線に戻り、「平永」交差点を直進、700m程先で進行方向左手に平永白山神社は見えてくる。
 周辺には適当な駐車スペースは見当たらないので、偶々境内で除草作業をしている氏子らしき方の了解を頂き、社のすぐ北側に面している道路に路駐し、その後参拝を開始した。
        
                 
平永白山神社正面
 平永地域は、かつて江戸時代に編纂された『新編武蔵風土記稿』における「長ノ村」と「明願寺村」を合わせた地域で、明治8年に二村は合併し平永村となっあっという。平永天神社でも紹介したように、大きな集落は六つの耕地に分かれている。また、この六耕地には各々鎮守社があり、本田耕地は天神社、一丁畑耕地は地蔵尊、上平耕地は住吉社、新栄耕地は稲荷社、南明願寺耕地は白山社、北明願寺耕地は八幡社を祀っている。『新編武蔵風土記稿 明願寺村』の項には「今は村内を南北の二區に分ちて唱へり」と載せており、恐らくは南明願寺耕地・北明願寺耕地を指すのであろう。
        
                                        拝 殿
『新編武蔵風土記稿 明願寺村』
 白山社 金道院持、
 金道院 新義眞言宗蓮王山觀福寺と號す、大和國初瀨小池坊末、開山行皆元祿二年五月十八日寂す、本尊不動を安ぜり、
 社に関して「埼玉の神社」等に詳細な説明はなく、他の資料も決して多くはない。この神社の創建は明かではないが、口伝によると天正年中(一五七三)に領主木戸大隅守の許しを得て建てられたと伝えられている。                   
 
拝殿の右側奥に祀られている境内社・八坂神社         境内に設置されている
                         「八坂神社改築神輿修復記念碑」
               
八坂神社改築神輿修復記念碑
       
当地 南明願寺の地名は この地に住居を構えて中世に活躍した
             
武将 明願寺氏にちなんでつけられたものといわれている 彼の館
             の近くに白山神社(祭神 菊里媛命 伊弉諾命 伊弉冉命)が建立
             され氏子の崇敬の的になっている この神社の創建は明かではない
             が 口伝によると天正年中(一五七三)に領主木戸大隅守の許しを
             得て建てられたと伝えられている その後 寛永二年(一六二五)
             寛政十一年(一七九九) 昭和二十年(一九四五) 昭和四十五年
             (一九七〇)に改築が行われている
              この神社の境内社として八坂神社(祭神 素戔嗚命)がある 社
             伝によると元和年中(一六一五~二四)に愛知県津島市神明町に鎮
             座する津島神社より分祀したものであり その時に神輿が造られた
             ものと推測できる この社の夏祭は例年七月七日から四日間にわた
             って実施されていた なお 嘉永六年(一八五三)には改築された
             ことが棟木に記されてあった 年月を重ね 今日に至って八坂神社
             の社殿や神輿の損傷が甚しく神社としての尊厳を保つうえで改築や
             神輿の修復が必要であるとの声が高まり 氏子一同協議の結果早急
             に実施すべきであるとの決定をみた 氏子の積極的な協力により奉
             賛金として八百五拾八万円が集められた 神輿の修復は平成十年七
             月五日神輿匠師に依頼し 社殿の改築は平成十一年二月五日起工式
             を挙行した 大神等の神徳著く平成十一年七月三日には就航のはこ
             びとなり 来賓 役員 氏子等八十数名の参加のもと八坂神社遷座
             祭が盛大に執行された 式典終了後 神幸祭を実施 神輿は郷内を
             巡幸し氏子あげて神威の高揚につとめ郷土の発展と氏子の幸福を祈
             った
               この碑には 神社の由来及び記念事業の経過を記すとともに 氏
             子として常に神社の尊厳を保ち 敬神崇祖の心を養い 愛郷の情を
             もち地域づくりに精進する決意を碑と心に深く刻み 人生の歩みの
             
支えとするものである(以下略)
 この記念碑によると、当地の武将「
明願寺氏」の館跡が、この白山神社とその南側の金道院観福寺あたりに存在していたという。この明願寺氏は、鎌倉時代元寇で戦い討死したという。
 青石塔婆は、 鎌倉時代から室町時代にかけて死者への追善供養や、 生きているうちに自らの供養をする逆修供養などのために立てられた卒塔婆(ぞとうば)の一種で、 板碑とも呼ばれる。青石塔婆は、 荒川の上流域 (長瀞の周辺) で産出する緑泥片岩 (青石) を材料としている。
 青石塔婆のある金道院は、「高麗軍に対する西域防衛軍として出征し、 弘安4年の元寇海戦の夜襲で名誉の戦死を遂げた明願寺氏の館跡」と言い伝えられており、この大きな青石塔婆と関連があるという説がある
*残念ながら実見できず、「加須インターネット博物館」等にて案内板を確認できた。
 加須市指定有形文化財
 金道院の青石塔婆
 昭和三一年九月指定
 地上高二六〇センチメートル(枠線下端まで)、幅六一センチメートル、厚さ一〇センチメートルの市内で最大規模の青石塔婆である。これは過去に同寺東を流れる川に「やなぎばし」として架けられていたといわれている。そのためか表面の銘文が橋脚を支えるために一部削られている。
 山形の直下に二条線を配し、身部を二重の枠線で囲んでいる。上部に三弁宝珠を加え蓮座のうえに荘厳体でキリーク(阿弥陀如来の種子)を、中央下部に「弘安三年庚辰十二月時子剋敬白」、その両側には光明真言を彫る。弘安三年は一二八〇年。
 この周辺には多くの青石塔婆が出土していることから鎌倉時代には開発がされていたことがうかがえる。
 平成二四年三月 加須市教育委員会
        
             社殿奥に並んで祀られている石祠四基
             左から(?)・産泰宮・天満宮・多聞天
        
               境内北側から社殿方向を撮影
【平永稲荷神社】
        
              ・所在地 埼玉県加須市平永1109
              ・ご祭神 稲荷神(推定)
              ・社 格 旧下ノ村新栄耕地鎮守(推定)
 国道122号線「平永」交差点を南方向に600m程進み、信号のある交差点を左折するとすぐ左手に平永稲荷神社に到着することができる。
        
                 平永稲荷神社正面
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 下ノ村』
 天神社 村の鎮守とす 〇稲荷社 〇十六善神社 以上常泉院持
 常泉院 新義眞言宗、正能村龍花院末、松壑山眞如寺と號す、本尊不動を安ず、開山權大僧都秀宥、寬文二年六月廿二日寂す、
「埼玉の神社」において、平永地域の六耕地の中に各々鎮守社を祀り、本田耕地は天神社、一丁畑耕地は地蔵尊、上平耕地は住吉社、新栄耕地は稲荷社、南明願寺耕地は白山社、北明願寺耕地は八幡社を祀っている。そのうちの新栄耕地がこの社が属する集落と思われる。
 また、七月七日は一丁畑にある八坂様の祭礼で、本田・上平・新栄・一丁畑で天王様を行い、耕地ごとに宿回りで餅を搗く。女天王であり神輿はなく、また、獅子は、天神様が嫌いだというため近づけないという。
 
    鳥居のすぐ左側にある庚申塔        社殿の右側にあるご神木
                        根元には力石が置かれている。
       
                  社殿からの眺め 



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「
加須インターネット博物館」「境内記念碑文」等 
 

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平永天神社


        
             
・所在地 埼玉県加須市平永1197
             
・ご祭神 菅原道真公
             
・社 格 旧下ノ村鎮守・旧村社
             
・例祭等 天神講 125日 春日待 415
 埼玉県道128号熊谷羽生線を「むさしの村」を越えて東行し、国道122号線との交点である「志多見」交差点を左折する。その後、国道122号線を750m程南下すると、進行方向右手に平永天神社が見えてくる。但し、この国道にはコンクリート製の中央分離帯があり、社に向かうため直接路地に移動することができないため、一旦通り過ぎてから、すぐ先にある「平永」交差点で右折し、迂回しながら社に向かうほかはないようだ。
 正面鳥居のすぐ左側に車両が数台駐車可能なスペースがあり、そこの一角に停めてから参拝を行う。
        
                  平永天神社正面
『日本歴史地名大系 』「下之村」の解説
 明願寺(みようがんじ)村の西にある。羽生領に所属(風土記稿)。寛永二年(一六二五)七月水野清六郎(忠保)は、徳川氏から「下ノ村」で四五八石余を宛行われた(記録御用所本古文書)。田園簿によれば田高三二二石余・畑高二一八石余。旗本水野領と川越藩領とあるが、寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳に村名はみえず、国立史料館本元禄郷帳では水野ほか旗本二家と同松平の相給。松平家は川越藩主松平家の分家で、「風土記稿」では水野・松平と旗本富永領。
        
                 
平永天神社二の鳥居
        
                    拝 殿
 天神社  加須市平永一一九七(平永字本田)
 当地は合ノ川右岸自然堤防の南側に開けた所である。地名の平永とは、江戸期の地頭松舎人・水野十郎・富主膳ら三人の姓名にちなんで呼ばれ始めたという。
 当社の創建は、社記に「館林城主榊原康政の家臣松崎勘兵衛なる者、当地に住いてありしが、学徳に勝れ誠実にしてよく人を導きたれば、城主榊原康政これをいたく愛でて所蔵せる後陽成院御筆菅公像の掛軸を賜う。下ノ村(現平永)の里人菅公及び勘兵衛の徳を慕い、元和元年天神社を創祀す。下って明和三年社殿を再建し松崎家より件の掛軸の奉納ありたり」とある。
『風土記稿』に「天神社 村の鎮守とす、常泉院持」とある。また、「奉新建天神社拝殿・明和三丙戌年四月吉祥日・羽生領下ノ村別当常泉院寄寿」の拝殿棟札がある。
 明治九年に村社となり、同三十四年には社殿を再建し、村の鎮守として崇敬されたが、昭和二〇年の敗戦から三〇年を経て、当社への信仰は薄れてしまった。そのため、昭和五〇年正月、氏子は神社護持を改めて決議し、「祭祀復興・神域浄化・月例奉仕」を掲げ、昭和五三年に社殿を再興するに至った。
 古くは天神座像を安置していたが、昭和二〇年ごろ見当たらなくなり、現在は「天保十二年極月再興」の墨書のある台座だけ残る。
                                  「埼玉の神社」より引用
 氏子区域は、戦前は六耕地から成る平永全域であったが、現在は六耕地のうち本田耕地だけとなっている。ちなみに六耕地には各々鎮守社があり、本田耕地は当天神社、一丁畑耕地は地蔵尊、上平耕地は住吉社、新栄耕地は稲荷社、南明願寺耕地は白山社、北願寺耕地は八幡社を祀っている。このうち、現在も祭典が行われている神社は、当社と上平耕地の住吉社だけである。
 
  社殿の左側に祀られている浅間大神の石碑      社殿奥に祀られている境内社・稲荷神社。
                          並びに祀られている石祠は不明。
 
    駐車スペースの奥にある石碑類       並んで設置されている石碑二基
  左から本社建築之碑・石鳥居奉納之碑

 平永各耕地には石尊講があり、七月二〇日に講員は宿に集まり、庭に灯籠を立て、昼食は餡ころ餅、夕食は手打ちうどんを食べる風習がある。この日から八月三一日までは毎晩灯籠をつける。また、一〇年に一度は大山詣をする。
 七月一一日は常泉院の数珠を当社で回す百万遍があり、この日は大人も子供も集まる。
 七月七日は一丁畑にある八坂様の祭礼で、本田・上平・新栄・一丁畑で天王様を行い、耕地ごとに宿回りで餅を搗く。女天王であり神輿はなく、また、獅子は、天神様が嫌いだというため近づけないという。
        
                 社殿からの一風景



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等

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阿良川天神社


        
             
・所在地 埼玉県加須市阿良川240
             
・ご祭神 菅原道真公
             
・社 格 旧阿良川村鎮守
             
・例祭等 お元日 初天神日(春祭り天神) 125
 加須市志多見地域にある「むさしの村」南側に東西に流れる埼玉県道128号熊谷羽生線を行田方面に1㎞程西行し、十字路を左折する。会の川の南側を沿うように同県道128号線は走っているのだが、県道自体が自然堤防跡ではないかと思われる位に、南北の地との標高の差が特に南側面との標高差が45m程違って高い。現存している志多見砂丘と呼ばれる河畔砂丘の西端部に当たるのかもしれない。故に県道を左折直後、斜面を下るように進み、その後は周囲一面広がる水田地帯を眺めながら暫く南下すると、進行方向右手に阿良川天神社のこんもりとした社叢林が見えてくる。
        
                
阿良川天神社の正面鳥居                    
『日本歴史地名大系』 「阿良川村」の解説
 東は下之村、南東は道地村(現騎西町)、西は串作村など。当村の南西、串作村境から道地村境に至る長さ一・五キロ、幅平均一一メートル、堤敷一〇メートルほどの通称阿良川堤があった。寛永二年(一六二五)羽生領代官大河内金兵衛が、利根川・荒川からの水を防ぐ水除堤として築造したという(「風土記稿」「郡村誌」など)。現鷲宮町鷲宮神社の文禄四年(一五九四)八月付棟札に神領として「志多見荒河(中略)此郷何三分一」とみえる。羽生領に所属(風土記稿)。
        
         正面鳥居の脇には「明治四十三年八月 洪水記念碑」が建っている。

『明治43年の大水害』は、1910年(明治43年)8月に東日本の115県を襲った大水害である。85日ごろから続いた梅雨前線による雨に、11日に日本列島に接近し房総半島をかすめ太平洋上へ抜けた台風と、さらに14日に沼津付近に上陸し甲府から群馬県西部を通過した台風が重なり、関東各地に集中豪雨をもたらした。利根川、荒川、多摩川水系の広範囲にわたって河川が氾濫し各地で堤防が決壊、群馬県など利根川左岸や下流域のほか、天明3年(1783年)の浅間山大噴火後徹底強化した右岸側においても、治水の要、中条堤が決壊したため氾濫流は埼玉県を縦断東京府にまで達し関東平野一面が文字通り水浸しになり、関東だけで死者769人、行方不明者78人、家屋全壊・流出約5000戸を数え、東京府だけでも約150万人が被災する大惨事となった。
        
            
周囲一帯田園風景の中にポツンと鎮座する社
 加須市は地形的に大部分が低地帯で、平坦面であるため、古くから「暴れ川」利根川や渡良瀬川、荒川など、河川と共に歴史を重ねてきた「水の町」で、過去、多くの水害に悩まされてきた。そのたびに民家は流失し、人畜の死傷も甚だしく、田畑等の損害も甚大であり、その惨状は筆紙に尽し難いほどであっろう。
 
参道途中、左側に祀られている庚申・道祖神の石碑   石碑の並びに祀られている石碑二基
  左から庚申塔・道祖神・道祖神・庚申塔        左から庚申塔・御嶽大神     
        
                    拝 殿
 天神社  加須市阿良川二四〇(阿良川字天神)
 往古、会ノ川が利根川の本流であったころは坂東太郎の名の通り流量も多く、そのため、流域では洪水による被害が頻繁に受けた。当地名もこのような利根川の様相に由来すると思われる。
 当社は弘安年間の創建と伝え、菅原道真公を祭神とし、内陣には天神座像を安置する。
『風土記稿』によると、江戸期は真言宗薬王山常徳寺が別当となり当社の管理に当たっていた。
 明治八年、上地から稲荷神社を合祀し、同四三年には千方の常徳寺裏にあった雷電神社を、翌四四年には同字の千方神社と同境内社の諏訪神社を合祀した。現在、旧雷電神社社殿に合祀社の四社が合殿として祀られている。
 昭和四一年、暴風雨により社殿が大破したため、同時に倒れた裏山の木を用いて、同四二年一一月氏子有志により再建された。
 戦前までは「天神様の分」と呼ばれた社領が二、三反ほどあり、名主であった福田家が管理をして、小作に貸し出し、その小作料を神社の費用に充てていたが、農地解放のため失った。以後、神社の運営に必要な費用は氏子全員で負担することとなり、年二回、祭礼前日の除草時に維持費として当番が集めている。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
  拝殿手前で向かって左側に祀られている     拝殿手前の向かって右側に一体だけある
     境内社・八坂社と神楽殿              牛の神使石像
       
                                      本 殿
 『新編武蔵風土記稿 阿良川村』には、北西串作村から阿良川村を経て東道地村に至る「堤」の存在を示す段があり、高さは「一丈」、つまり3m程の高さであったという。因みに『日本歴史地名大系』によるとこの堤は「阿良川堤」と表記されている。それでも、寛保28月(1742)未曾有の大洪水があり、利根川・荒川・入間川が氾濫し、堤防の決潰は広く96ヶ所に及び、その中の一つである加須市志多見の阿良川地内では、この堤約90mが決壊し、利根川を始めとする多くの諸河川の水が溢れ、被害は江戸までおよび、この地域でも洪水で多くの人が亡くなったという
『新編武蔵風土記稿 阿良川村』
堤 村の西南にあり、利根川本圍堤なり、高一丈、騎西・幸手二ケ領水溢の爲に設く、寛保二年洪水の時押破られしを、同時に京極佐渡守命を蒙りて修理せしと云。此堤は串作・道地の二村に續けり、

        
               本殿奥に祀られている合祀合殿
     中には雷電神社や稲荷神社・千方神社・諏訪神社の神名が記された碑あり。   
   拝殿の右側にある「富士講記念碑」    「富士講記念碑」の右側並びに祀られている
                         (?)・辨財天・辨才天の石碑三基
 氏子区域は旧阿良川村全域で、全戸が氏子となっていて、そのほとんどが農業に従事している関係から、榛名講・三峰講・石尊講が盛んに行われていた。但し現在榛名講は消滅し、三峰講の講員も天神耕地の者だけに限られるようになったという。
 氏子は「天神様」と呼び、単に「天神」又は「天満天神」と呼ぶこともある。また、近郊からは「阿良川の天神様」と呼ばれ、学問の神として信仰を集めている。
 また、
古くから洪水の度に疫病に襲われていたためか、当地では疫病除けの行事が盛んで、7月中には、11日から4日間も天王神輿の渡御が行われ、15日には下須戸地域の八坂神社からお水を受けて来る。これを「天王様の水」と称して、飲めば病気にならず、風呂に入れれば綺麗になるという。更に20日には疫病除けのため、百何遍を行っているという。
        
              社殿から境内、及び参道方向を撮影
                             


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」等
 

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下須戸御嶽神社

 明治期以前の「神仏習合」の色合いの深い社である。この「神仏習合」とは、日本固有の神の信仰と外来の仏教信仰とを融合・調和するために唱えられた信仰であり、思想である。
 本来は別な宗教である仏教と神道の一体化をはかったもので,奈良時代頃に出現した神宮寺にその起源をみることができる。越前国気比(けひ)神宮寺や若狭国若狭彦神宮寺が代表例であり,平安時代にかけて全国的な広まりをみせた。平安時代になると,仏が仮に神の姿で現れて功徳(くどく)を示すとする本地垂迹(すいじゃく)説が唱えられ,習合神道や仏教を中心にこの思想が展開され,祇園信仰や八幡信仰などの僧による神祇信仰も一般化した。これに対し,鎌倉時代以降は神道側から神を主とする神本仏迹説や種々の神道説が提唱された。習合思想は近世まで継承された。
 明治1 1868))年、王政復古の実現とともに、復古神道(ふっこしんとう)を基礎理念とした明治維新政府が発令したいわゆる神仏判然令(神仏分離令)によって神仏が分離されるまで、神仏習合した信仰や思想は、国民の間に何の違和感なく、自然と広く浸透していたのであろう。
        
             
・所在地 埼玉県行田市下須戸1284-2
             
・ご祭神 天御中主神
             
・社 格 旧無格社
             
・例祭等 獅子回し 71415日 9月十五夜の日
 行田市街地を東西に走る埼玉県道128号熊谷羽生線を加須市方向に東行し、見沼代用水に架かる「須戸橋」を越えた用水沿いの路地を左折すると、すぐ右手に下須戸御嶽神社の社殿が背中を見せるように鎮座している。
        
                 
下須戸御嶽神社正面
『日本歴史地名大系』 「下須戸村」の解説
 北は荒木村に続き、西は見沼代用水を隔てて若小玉・小針の両村。寛永一二年(一六三五)の忍領御普請役高辻帳(中村家文書)に村名がみえ、幕府領で役高一千二九九石余。同一六年忍藩領となり、田園簿によると高一千六四八石余、反別は田方一一九町六反余・畑方五三町九反余。元禄一二年(一六九九)幕府領になったと思われ(同年「阿部氏領知目録」阿部家文書など)、国立史料館本元禄郷帳では幕府領。明和七年(一七七〇)と推定されるが川越藩領となり、文政四年(一八二一)上知(松平藩日記)。
        
                  東向きの社殿
 下須戸御嶽神社の創建年代は不詳だが、見沼用水開発以前、星川が下須戸を流れていた五百年以上前に獅子頭が漂着した際に、当社に獅子舞を奉納したと伝承があり、古くから当地に鎮座、蔵王権現社と称していたという。
        
                      参道右側に祀られている浅間塚の石碑
 塚上には「浅間大神」が祀られ、その下には左から「辨財天」・「食行〇〇碑」・「富士登山記念碑」・「白蛇大明神」や「登山三拾三度大願成就」等の石碑がある。
        
                    浅間塚の先に祀られている境内社二基と石碑三基
       赤い鳥居がある社は稲荷社と思われるが、その左側の境内社は不明。
 一番右側にある石碑には「湯祈祷 釜唸 冬至哉」等の文字が刻まれている。「埼玉の神社」によると、昭和の初めまで境内にある御嶽山の信仰があったとの事。44日の祭りに宮司が社前に鎌を据え、これに沸騰させて手でかきまぜた後、笹の葉を浸し、参拝者にかけた。これを受けると無病息災となるという。この行事に関する石碑であろうか。
        
                    拝 殿
 御嶽神社(みたけじんじゃ)  行田市下須戸二七二七(下須戸字天王前)
 当社創立の記録は残っていないが五百余年前、見沼用水開発以前、すなわち德川入府百余年前星川本流が当下須戸を流れていた時に獅子頭三頭が漂着し、これを喜んだ村人が当社に獅子舞を奉納したとの伝承がある。これは鼻の穴から外を見る形式で、この獅子頭の古さからも伝承を肯定できよう。
「風土記稿」には「蔵王権現社二宇 一は宮本院、一は医王寺の持」とあるが、当社がいずれなのかは不明である。
 入母屋造り板葺きの本殿には、彩色四三センチメートルの蔵王権現像を安置し、わきに正徳三年十一月七日付けの卜部兼敬武州埼玉郡下須戸村正一位蔵王権現の宗源宣旨がある。
 境内にある御嶽社の碑(山岡鉄舟篆額)には、文化三年に改築した社殿が、明治一三年の暴風雨により境内の大木が倒れ破損したので新築したと記されている。明治初頭、現社名に改め、天御中主神を祭神とする。
 明治末期の神社合祀の際、当社は無格社であったため、合祀される予定であったものを四集落(現氏子区)挙げて反対し中止され今日に及んでいる。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                拝殿向拝部の精巧な彫刻  
        拝殿の木鼻部位にも細やかな彫刻が施されている(写真左・右)。
             
    社の北側に隣接している下須戸自治会須戸橋集会所付近に聳え立つイチョウの大木
     集会所近くのイチョウの根本付近には「鹿島神宮参拝記念碑」が建ったいる。
        
                                社殿から参道方向を撮影
 氏子は下須戸地域の下分にあたり、兼業農家が半数を占める。当社の信仰の中心は9月の十五夜に行われてる獅子舞である。十五夜前は農作業も一段落するので10日間かけて練習をする。この獅子はよそより姿勢が低いので練習はきついようで、トイレの際も、窓に手拭を縛っておかなくては用も足せない程であったという。
 舞の種類は「橋渡り」「しめくぐり」「花遊び」「笹掛(ささがかり)」「鐘巻」等あり、この他に包み金を多く出さないと行われない舞や、特別な場所等でしか舞われない舞もあるという。但しこの獅子舞は笛方がいなくなってしまったため、近年は中止されているらしい。
       
           社の西側には見沼代用水が南北方向に流れている。


 下須戸御嶽神社から見沼大用水の1㎞程上流域には、同名の社が鎮座する。『新編武蔵風土記稿 下須戸村』に蔵王権現社が二社あると載せ、当社はその二社のうちのいずれかであるという。
        ・所在地 埼玉県行田市下須戸2727 下須戸農村センター内 
                 
                   
御嶽神社正面
 
     
社殿手前で参道左側にある         社殿手前で参道右側に祀られている
        「上組大正昭和史」の石碑          天神社・稲荷〇・庚申塔の石碑三基
                  
上組大正昭和史
           大正から昭和初期にかけて下須戸上組地区より
          
村長‣助役‣収入役の三役の方々が役職に就き長い間
        村政はもとより地区の発展のために尽くしてくださいました。
           村 長 村社新兵衛
           助 役 村社 正市
           収入役 渡辺萬三郎
          なお地域は違いますが旧太田村信用農業協同組合長。
           そして行田市農業協同組合長の田島実衛氏の農業
                  発展のため特に上組地区への指導力は偉大でした。
               近年においては教育者でした渡辺彰吾氏は文部大臣より
              表彰され、後年太田公民館運営委員長及び地区内子供たちの
           勉学に多大な貢献をされました。今日までに例のない
         上組の偉人のみな様の功績を讃えここに記するものです。
     
       
                    拝 殿
               
                   境内の様子


 下須戸御嶽神社から一旦「行田市 太田公民館」へ東行し、埼玉県道364号上新郷埼玉線に合流後、そこを左折、国道125号行田バイパスに到着する300m程手前で、進行方向左手の道路沿いに下須戸天満社が鎮座している。 
       
              ・所在地 埼玉県行田市下須戸1600
              ・ご祭神 菅原道真公(推定)
              ・社格 例祭等 不明
 下須戸天満社の創建、由来等は不明であり、『風土記稿』に載る「天神社」が当社かどうかもハッキリしないが、「埼玉の神社」による下須戸八坂神社の由緒によると、「明治期に現社殿を建造し、天神社・御嶽神社二社の計三社を合祀したが、三社とも戦後旧地に復した」と記載されていて、下須戸地域にこの天神社に相当する社は天満宮しか見当たらなく、推測ではあるが当ブログで紹介する次第だ。
        
              県道沿いに鎮座する下須戸天満社
                拝殿等なく、本殿のみの社
    県道沿いに鎮座している所から、江戸時代以前からこの道は続いていたと考えられる。

 一般的に、天満宮や天神社は、どちらも「天神信仰」で、『天神さま』という。
「天満宮」とは、菅原道真公を祭神として祀っている神社のことで、「天満天神の宮」といった意味の表現であるといえ、一般的には「天神様」と呼び親しまれていることが多い。
 一方「天神」信仰は、日本における天神(雷神)に対する信仰のことであり、菅原道真が後から結びついた。本来、「天神」とは「国津神」に対する「天津神」のことであり、特定の神の名ではなかったが、道真が没後すぐに、天満大自在天神(てんまんだいじざいてんじん)という神格で祀られ、つづいて、清涼殿落雷事件を契機に、道真の怨霊が北野の地に祀られていた火雷神と結び付けて考えられ火雷天神(からいてんじん)と呼ばれるようになり、後に『渡唐天神』『妙法天神経』『天神経』など仏教でもあつい崇敬をうけ、道真の神霊に対する信仰が天神信仰として広まったという。
 つまり、もとは「天津神」での雷神信仰と、菅原道真の怨霊信仰と結びつき、共に「天神さま」と称され、後代には怨霊や怨念の部分が薄れ、学者の神である道真が残り、今では天神・天満宮が学問の神様となったということのようだ。
 
   拝殿に掲げてある「天満社」の扁額     社殿の右側に祀られている石碑や石祠
                      左から辨才天・?・稲荷大明神・(稲荷、八幡)石祠
『新編武蔵風土記稿 下須戸村』
 天神社 常光寺持、
 常光寺 禪宗曹洞派、上州矢場宿恵林寺末、金昌山と號す、開山大庵文恕慶長十五年十二月廿五日寂す、開基榮覺常光は里正右衛門が先祖なり、寛永十三年正月十三日死す、本尊藥師を安ぜり、
 西光院 常光寺の末、瀧藏寺と號す、本尊彌陀、阿彌陀堂


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「日本大百科全書(ニッポニカ)」
    「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」「山川 日本史小辞典 改訂新版」「Wikipedia」等


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