古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

志賀八宮神社


        
             
・所在地 埼玉県比企郡嵐山町志賀1512
             
・ご祭神 天照大神御子五柱命・月読命御子三柱命・下照姫命
                  
建御名方命・保食命・素戔嗚命
             
・社 格 旧志賀村鎮守・旧村社
             
・例祭等 祭日315日・919日 天王様 76日
     
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0515036,139.3084399,18z?hl=ja&entry=ttu
 東武東上線武蔵嵐山駅から菅谷神社方向に南下し、一旦国道254号線・嵐山バイパスとの交点を右折し、小川町方向に進路をとる。その後右手にベイシア嵐山店が見えるすぐ先の交差点を右折し、東武東上線の線路を潜り、丁字路を左折すると、正面に森の覆われた小高い丘陵地面に達し、そこから細い路地に入ると志賀八宮神社の社殿が見えてくる。
        
                    志賀八宮神社正面         
『日本歴史地名大系』 「志賀村」の解説
 菅谷村の北にあり、村域は市野川右岸の低地・丘陵部を占める。北は同川を隔てて杉山村。村内を南北に川越秩父道が通る。古くは四ヶ村・志ヶ村・鹿村などとも記した(「風土記稿」など)。地名の由来は、河岸・川畔にみられる砂地を表す言葉「スカ」が転訛したものという説もある(埼玉県地名誌)。「風土記稿」では寛文年間(一六六一―七三)に菅谷村から分村したといい、「菅谷村の沿革」に寛文五年の検地帳がみえることから、同年頃の分村と考えられる。

 確かに筆者も『新編武蔵風土記稿 
志賀村』を確認してみたところ、「村名古へは四ヶ村と書たりしと、いつの頃より今の文字に改りしとは云は詳ならず」と「四ヶ村」の表記があり、『武蔵国比企郡村誌 巻之七 志賀村』にも「元菅谷村と一村たりしが寛文(かんぶん)の頃分れて二村となり四ヶ村と称せしか後今の文字に改む」と同じような内容であった。但しどのような経緯で「四ヶ村」という村名となったのかについては確認できなかった。
 対して「志ヶ村」「鹿村」に関しては名称自体、確認に至らず。
        
           鳥居の先にある石段を登り終えた先に拝殿が鎮座。
 鳥居の南側正面には東西に走る東武東上線の線路があり、時折電車が走る音こそ聞こえるものの、志賀地域の集落からは離れていて、また山の中腹に鎮座している地形から、境内一帯は静かで落ち着いた雰囲気が漂う。
        
           石段右側に祀られている「大国主大神」の石碑等
        
         石段を登るその中段付近で、段右側に鎮座している境内社。
                           社名を記した木札等が無く、詳細不明。
       
                                         拝 殿
              拝殿の社号額には「「志賀神社 五柱大神」と表記されている。
『武蔵国郡村誌 志賀村』
八宮社 村社。社地東西二十一間南北十七間、面積百五十坪。村の坤(ひつじさる)の方にあり下照姫命(したてるひめのみこと)を祭る。祭日三月十五日、九月十九日
 本村は元五社明神と唱ひ、村民五組分れて氏子となる。明治五年(1872)八月舊入間縣に出願許可を得て今の八宮社合併ス。則天照大神、保食神、諏訪明神、上、下照月女の命の二神を以て五社明神と唱ふ故に五柱大神と尊号す、
『神社明細帳 八宮神社』
 従前五社明神ト唱ヒ五ヶ所ニ鎮座在ス明治五年(1872)八月旧入間縣廳ニ出願許可ノ上合併明治四年中(1871)村社届濟、
 明治四十五年(1912)
三月二十七日同大字字北町裏無格社八雲神社ヲ本社ニ合祀ス、
       
                                     本 殿
     修繕工事中であったらしく、入り口鳥居付近には、多くの工事関係者がいた。

       
                        社の東側にある「志賀の庚申塔」

 志賀の庚申塔
 今から二八一年前の元文五(一七四〇)年の秋、徳川吉宗の時代の直後に、武蔵国志賀村下宿(しもじゅく)の百姓たちが、庚申様の石仏(石塔)を建てました。庚申様は、インドの猿の神様が中国を経て日本に渡来した民間信仰です。鎌倉時代、猿は馬の守り神で、武士の館に飼われていました。村人は庚申様を供養して五穀豊穣などを祈願し、「お日待」をして親睦を深めました。
 元文五庚申十一月吉祥日
 武州志賀村下宿講中
 令和三(二〇二一)年三月二八日修復 志賀一区
                                    「案内板」より引用



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「GO! GO! 嵐山3 HP」「庚申塔案内板」等 

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遠山八幡神社


        
             
・所在地 埼玉県比企郡嵐山町遠山263
             
・ご祭神 誉田別命
             
・社 格 旧遠山村鎮守・旧村社
             
・例祭等 春季・秋季例祭 4月・113
  地図 
https://www.google.co.jp/maps/@36.0397861,139.2877655,16z?hl=ja&entry=ttu
 小川町・下里八宮神社から蛇行する槻川沿いに通る道路で、2.6㎞程進むと、進路方向左手に遠山八幡神社が見えてくる。
 ときがわ町の田黒日枝神社からもこの社は近く、田黒日枝神社沿いで南北に通っている道路を北上し、槻川に架かる谷川橋を渡ったすぐ先の丁字路を左折し、南西方向に750m程進むと進路右手に遠山八幡神社のこんもりとした社叢林が見えてくる。
 
境内東側に駐車可能な駐車スペースも確保されているので、参拝前の心配事もなく、安心して散策に望める。
        
                  遠山八幡神社正面
『日本歴史地名大系 』「遠山村」の解説
 外秩父山地東縁の山地に囲まれた槻川左岸に位置する。東は千手堂村・平沢村、西は下里村(現小川町)。交通不便で周囲から遠い山中にあることが地名の由来という(嵐山町誌)。
 玉川領に属した(風土記稿)。田園簿では田高一三石余・畑高三五石余、幕府領。寛文八年(一六六八)の御縄打水帳(杉田家文書)によると高七九石余で、反別は田一町九反余・畑一〇町余。名請百姓は二三名おり、寺一。一戸平均の所持田畑は五反ほどであった。
       
                        石段を登り終えた先に社殿は鎮座している。
         社は槻川の左岸段丘上の狭い平坦地を望む山麓に鎮座している。

日本歴史地名大系』による「遠山村」の解説において、交通不便で周囲から遠い山中にあることが「遠山」の地名の由来という。
 加えて社の鎮座地の小字は「蛇跡」。何と読むかも皆目見当もつかないが、地形を鑑みるに、槻川は下里地域から流れが南西方向に変わり、同地域南部でまた流れを東方向に大きく変化して、嵐山渓谷方向に蛇行しながら流入している。
 槻川は清流で有名だが、一度洪水になると、暴れ川に変貌したという。当然、河川流路も変わったのであろう。そして氾濫後の旧河川の跡地を「蛇跡」と命名したのであろうか。
 因みにこの地域内には「蛇谷」という小字も存在していて、他にも「滝守・井上・中沢・茗荷沢」という河川に関連している小字もある。
 
 鳥居手前右側に立つ社郷標柱。その並びに祀られている大黒天と聖徳皇太子の石碑(写真左)。
                        石碑の拡大写真(同右)。
       
                                       拝 殿
 八幡神社 嵐山町遠山二六三(遠山字蛇跡)
 遠山の地は山間の盆地である。地名は他地域との交通が不便で、周囲から隔たった遠い山中の意に由来する。当地の南西方、槻川を隔てた丘陵上には戦国期、小田原北条氏の家臣遠山右衛門太夫光景の居城と伝える小倉城跡がある。当地も同氏の所領であった。
 当社はこの遠山氏にかかわる社と考えられ、隣接する曹洞宗遠山寺は天正八年(一五八〇)に光景が父政景の追福のために中興開基したと伝えられている。当社もこのころには既に祀られていたものであろう。ちなみに北条氏滅亡後、遠山氏の子孫は山下を名乗ってこの地に土着したと伝える。
『風土記稿』には「八幡社村の鎮守なり、遠山寺持」と記されている。最も古い史料としては「八幡宮増成就・宝永六年(一七〇九)十二月廿日・武州比企郡遠山村」と刻む石碑が残されており、この年に参道石段を築いたことがわかる。
 神仏分離によって遠山寺の管理下から離れた当社は、明治四年に村社となった。
                                  「埼玉の神社」より引用 

             
                  拝殿から見た風景
『新編武蔵風土記稿 田黒村』
 田黒城は村の北の方にて、小名小倉の内にあり。遠山右衛門大夫光景が居城と云ふ。西方二町許の地にして、東北の二方は、都機川、槻川の二流に臨み、西南は山に添ひて頗る要害の地なり。光景は隣村遠山村の遠山寺の開基檀越にして、天正十五年五月卒せし人なれば、爰に住せしも、元亀天正の頃なるべし、

『新編武蔵風土記稿 遠山村』
 八幡社 村の鎮守たり、遠山寺持、
 遠山寺
 曹洞宗、上野國緑野郡御嶽村永源寺末、長谷山と號す、寺領十石の御朱印は慶安二年賜ふ所なり、開山は漱怒全芳永正十五年十二月十五日示寂、開基は遠山右衛門大夫光景と云、過去帳を見るに、當寺開基無外宗關居士、其父政景也、天正八年三月廿三日開基桃雲宗見大居士、遠山右衛門大夫藤原光景、天正十五年五月廿九日とあり、按に此二人ともに開基とのせ、宗關居士の下に此父政景也とあるによれば、其實光景が父政景の追福のために、當寺を草創して父を開基とせしを合せて、二人共開基と記せるに似たり、又開山の寂永正十五年なれば、是も勧請開山なるべし、又按に隣村田黒村に、遠山右衛門大夫光景が城蹟と云地あるを以考れば、當時此邊彼が所領なりしこと知らる、光景が事蹟は他の書に所見なけれど、此人も甲斐守綱景の等の一族にて、共に北條氏に仕へし人なるべし、
 鐘。本堂の軒に掛く銘文中に遠山右衛門大夫光景家臣杉田吉兼と云者、大檀那として鑄造せし鐘なりしが、彼破壊せしにより、元禄十一年當寺十一世(山へんに圭)峻和尚の代に再造せしことを載す、

        
                             遠山八幡神社遠景

 武蔵遠山氏(むさしとおやまし)は、藤原利仁を祖とする加藤氏一門・美濃遠山氏の明知遠山氏の一族で、後北条氏家臣として、江戸城代をつとめた。
 元は室町幕府に出仕し、足利義材(後の義稙)の家臣で、奉公衆であったとも伝えられる。
 伝えによれば、大永年間(1521年~1528年)美濃国恵那郡遠山荘の明知城主の遠山景保の子の武蔵遠山氏初代にあたる遠山直景は明知城を親族に渡して退去し、士卒180名を率いて関東へ赴き北条早雲の配下に入ったとされる。
 元々この直景と早雲は、同じく幕府に申次衆として出仕していた伊勢新九郎(後の北条早雲)と親密になったと考えられており、遠山氏と同じく関東に下向して重用された。彼は江戸城代の地位を与えられ、息子の綱景と共に後北条氏の重臣として活躍した。『小田原衆所領役帳』によれば、比企郡野本(現・東松山市野本)・入間郡苦林(現・毛呂山町苦林)などに領していた。
 永禄7年(1564年)第二次国府台合戦で綱景が嫡男の隼人佐とともに戦死したため、出家していた遠山政景が還俗し江戸城代を継いだ。『新編武蔵国風土記稿』では綱景死後の城代は、綱景の弟で小倉城に拠った遠山直親だとする。直親が江戸城に移った後、小倉城は遠山光景が入ったという。
その後、松山城の支城小倉城主遠山光景の子光房は、同城落城後に本名山下氏に復姓して、曹洞宗遠山寺隣の山下本家屋敷に帰農したという。

 嵐山町・遠山地域のような、小さい地域の中でも調べてみると、確かに深い歴史は存在する。だからこそ、社の散策はやめられないのだ。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「GO! GO! 嵐山3 HP」「Wikipedia」等
 

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小川町 国指定重要文化財 下里・青山板碑製作遺跡

【小川町 国指定重要文化財 下里・青山板碑製作遺跡】
         
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0392442,139.2740801,16z?hl=ja&entry=ttu
 小川町 国指定重要文化財の「下里・青山板碑製作遺跡」に行きました。
 下里八宮神社沿いの道路を1.2㎞程南下すると「下里・青山板碑製作遺跡 割谷地点」の標識がある丁字路に達するので、そこを右折し、槻川を越えて暫く道なりに進んでいくと、板碑製作遺跡に到着します。製作遺跡手前に駐車場が有り、そこの一角に停めてから散策を開始しました。
 予定では、嵐山町方面の社に参拝する途中で立ち寄った関係で、あまり時間がなく、割谷地区の遺構場だけ見学いたしました。
        
               槻川に架かる橋の手前から撮影
 
  この橋から見る山河の風景があまりに素晴らしく、暫し見とれながら時を過ごしていました。
        
         気を取り直して再度出発。東行すると、行き止まりとなります。
   これより車両は通行止め。但し徒歩は大丈夫であるので、ここから歩いて進みます。
        因みに駐車スペースは、この地点の手前に確保されています。
       
 右手丘陵地面に早くも「ズリ」と云われる緑泥石片岩の破片が大量に散乱しているのが見えます。
              
        暫し歩いて行くと上記標識があり、ここから丘陵地面を登ります。

 下里・青山板碑製作遺跡(しもざと・あおやまいたびせいさくいせき)は、埼玉県比企郡小川町にある、鎌倉時代から室町時代にかけての板碑製作遺跡で、2014年(平成26年)106日、国の史跡に指定されました。
 板碑(いたび)は、日本の中世に多数造立された、板石製の塔婆(卒塔婆)であります。一般的な形態は、頂部を山形(三角形)に形作り、その下を2条の水平線で画し、その下には仏・菩薩を象徴する種子(梵字)、真言、偈(げ)、年記などを刻んであります。種子とは梵字(サンスクリット文字)1字で仏・菩薩を象徴的に表したものです。真言とはサンスクリットの「マントラ」の訳語で、仏の真実の言葉を表す呪文。偈とは仏・菩薩の徳を讃える韻文で、板碑は、主として武士層が追善供養や逆修供養(生前に死後の安楽を祈って建立する)を目的に造立したもので、13世紀から16世紀末までの間に作られ、南北朝・室町時代にもっとも多く作られるが、17世紀には消滅してしまいます。唐突に消滅した理由は明らかではありませんが、江戸時代になり、家や村、仏教のあり方、民間における多様な信仰の浸透など、社会の変化によって、位牌や墓石が普及するようになったことなどが考えられています。
 板碑は日本各地に造立されましたが、関東地方では緑泥石片岩製(青石)の武蔵型板碑と、筑波地方に産する黒雲母片岩を素材にした下総型板碑が主なものであります。青石で作った板碑は関東地方を中心に約5万基が確認されています(発掘調査の進展により、6万基に達するとの説もある)。うち27,000基が埼玉県内に所在します。そのうち、本遺跡の所在地である埼玉県小川町には1,000基を超える板碑が存在する。このうち最古の年記を有するのは木呂子太子堂の阿弥陀三尊種子板碑で、建長(1249 - 1256年)の銘があります。

 板碑の素材となる緑泥石片岩の産地としては、荒川上流の埼玉県長瀞町が有名であるが、小川町は採掘地と伝承される場所はあり、有力な候補地であったものの、近年まで学術調査はされませんでした。
 平成13年に同町下里で加工石材が採集されたことを契機に,小川町教育委員会が調査を開始したところ,採掘の可能性がある地点が,割(わり)()地区,西坂(にしさか)下前(したまえ)A地区,内寒沢(うちかんざわ)地区など19箇所確認されました。
 遺跡の規模や採掘の可能性がある地区が多数確認されることから,小川町内で生産された板碑の量は膨大で,武蔵国における板碑の中心的な生産地であったと考えられます。板碑の生産と流通だけでなく,板碑に象徴される中世の精神文化を知る上でも重要な遺構であると考えられています。
文化遺産オンライン」「小川町HP」「Wikipedia」より引用
                         大量のズリが周囲一帯散乱しています。
  因みに進路はロープが張られていて、その内部へは遺跡保護の為入れません(写真左・右)。
        
               進路途中に設置されている案内板
 国指定史跡
 下里・青山板碑製作遺跡-割谷地区-
 下里・青山板碑製作遺跡は、武蔵型板碑の石材である緑泥石片岩の採掘から板碑形への加工の工程が初めて明らかになった遺跡群の総称です。小川町大字下里・青山地域で発見された19か所の遺跡の内、割谷地区(割谷遺跡)・西坂下前A地区(西坂下前A遺跡)・内寒沢地区(内寒沢遺跡)の3地区が平成26106日付けで国史跡に指定されました。
 13世紀になると仏教信仰の高まりを受け、石塔の一種である板碑の造立が盛んになります。
 緑泥石片岩製の武蔵型板碑は関東地方を中心に5万基も確認されており、小川町下里・青山地区の19か所の遺跡の時期と、関東で多くの板碑が造立された14世紀中頃から15世紀後半の時期が一致することなどから、この遺跡群は関東地方の板碑造立を中心的に支えた生産地と考えられます。
 遺跡は採掘に伴う谷状地形、ズリ平場、ズリ山、ズリ斜面、露頭、採石痕が残る岩塊などで構成されます。採掘に伴う谷に設定した2分のトレンチの試掘調査では、第一号トレンチから三段の階段状となる採掘遺構が検出され、中段の一畳大の板石の横断面には採石のための矢穴痕や工具痕が確認されました。また、第2トレンチの試掘調査では板碑制作に伴う工具痕や打撃痕をのこす細かいくず石の集中区が検出され、その近くから製作途中の板碑未成品や台石未成品が出土し、板碑の制作遺構と考えられます。
 今回の板碑制作遺跡の発見は板碑の生産と流通のあり方を知る上で重要な発見であるとともに、中世の仏教信仰を考える上でも重要な発見となりました。
                                  案内板・説明文より引用
        
                        
割谷地区第1号トレンチ(試掘坑)の状況
        

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下里八坂神社


        
             
・所在地 埼玉県比企郡小川町下里2348
             
・ご祭神 須佐之男命(推定)
             
・社 格 旧無格社
             
・例祭等 不明
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0482108,139.2827061,16z?hl=ja&entry=ttu
 上小川神社から埼玉県道11号熊谷小川秩父線、並びに国道254号線を2.8㎞程東行すると、国道左側脇で、小高い山の麓に下里八坂神社の鳥居が見えてくる。
 国道脇で鳥居周辺には、丁度駐車可能な空間があり、そこの一角に停めてから参拝を行う。
        
                                 
下里八坂神社入口付近
『日本歴史地名大系』 での「下里村」の解説
 小川村の南東、小川盆地の東部に位置し、西は青山村、南西は日影村(現玉川村)。村域の中央を槻川が蛇行する。玉川領に属した(風土記稿)。至徳四年(一三八七)閏五月二一日の天龍寺寺領土貢注文案(天龍寺文書)に「一、下里郷 銭捌拾貫文」とあり、この頃、当地は京都天龍寺の寺領であった。
 天龍寺重書目録(鹿王院文書)に収められる応永二七年(一四二〇)四月一九日の足利義持御教書案によれば、同寺領である下里郷などの段銭以下、諸公事・臨時課役・守護役などが免除されている。なお年未詳の天龍寺寺領目録(同文書)にも「武蔵国下里郷」が記載されているが、当地が天龍寺領としていつまで存続したかは不詳。
 
  参道入口左側には馬頭観音がずらりと並ぶ。   鳥居の右側奥にある「無格社 八坂神社」
                          、手前には「鳥居建設記念碑」。
 
   鳥居を越えると、いよいよ参拝スタート   鳥居を越えてすぐ参道左側に祀っている庚申塔 
      勾配のある石段を登る。       青面金剛(しょうめんこんごう))と石祠
       
             社殿まで長い石段が続く(写真左・右)。
    緑泥片岩で組まれた石段は傾斜こそあるがしっかりとしているため意外と登り易い。
 見た目通りの昔からの手作り感のある石組。材料は同地域内に緑泥片岩の採掘場所があるので、資材調達は特に問題はないと思うが、この斜面を人の力のみで作り上げたその労力は、想像するだけでも大変だっただろうと思いながら一直線の石段を登った。石段の数は数えなかったが、200段以上はあると体感した。但しこの石組は幅があまりない所もあり、登る際には、つま先歩きのような歩き方となり、そこだけはやや不便を感じた。
 
 石段の両側には、鬱蒼とした林と大杉等の巨木で埋め尽くし、日中参拝しているにも関わらず、ほの暗いが、樹木の枝葉の間からさし込む日の光は眩しく、そよ風は爽やかな新緑の木の香りに満ちていて心地よい。
 またこの古風な石段を粛々と登っていくと、この石段を作り上げた多くの地元住民の方々の思いが聞こえるような気がして、理屈では説明しがたい、第六感的な不思議な感覚が研ぎ澄まされたような気持ちになる。今まで数多く社に参拝しているが、時に不思議な感性が右脳を駆け巡り、直感力が増幅するような心持ちになる。
        
                     拝 殿
 拝殿正面には対をなす樹木が立つ。鳥居替わりであろうが、上手く撮影できないため、斜めからの撮影となった。
 八坂神社 小川町下里二三四八
 当社は、小川町の東端にそびえる遠ノ平山の中腹に南面して位置し国道二五四号に面して建つ鳥居をくぐり、百余段の石段の参道を登り詰めた所に鎮座する。地元の人は、参道入口の辺りを神南沢と呼んでいる。また、国道の走る谷を挟んで南側には観音山があり、西斜面には暦応三年(一三四〇)の開山と伝わる天台宗大聖寺が建つ。
 社伝によると、当社は宇多天皇の寛平年間(八八九-九八)に素盞嗚尊を奉斎したとあり、当時上郷地区に疫病が流行し、その猛威に怯えた郷人が創建したという。そして、いつのころからか大聖寺の守護神として祀られるようになった。江戸期の同寺との関係も『風土記稿』に当社のことが載らず詳らかではない。文化七年(一八一〇)に社殿を改築したと伝わるのみである。そして、明治初年の神仏分離により大聖寺の手を離れた当社は、無格社となった。その後、明治四十三年には現在の石段が組まれている。
 なお、遠ノ平山は通称御嶽山と呼ばれ、頂上にはかつて御嶽神社が祀られて、大正以前には橋本姓を名乗る祀職が籠もって祈禱をしていたという。その後、後継者もなく、社殿の荒廃に伴い、当社の末社である三峰・金毘羅の相殿に合祀した。朽ちた社殿は昭和二十年代まで残っていたが、現在では嵐山方面から登る参道と旧社地を伝える碑が建つのみとなっている。
                                  「埼玉の神社」より引用

        
           境内社。三峯神社・金比羅神社・御嶽神社が合祀 
       

 下里八宮神社で紹介した「下里ささら獅子舞」は、7 13 日〜 15 日の 3 日間、下里八宮神社・八坂神社・大聖寺に奉納してきたという。
 下里の獅子舞の歴史は古く、かんばつや疫病を追い払うため、享保年間(171636年)に始められたと伝えられている。別名「防ぎの祭り」ともいわれ、難病や疫病が村に入らないように、村境に悪疫退散のお札を青竹にはさんで立つ。ささら獅子舞は、わらじがけの獅子3頭、伴奏のササラ、笛、万灯等、4050人が大聖寺と鎮守の八坂神社に舞を奉納するものである。
 この獅子舞の奉納は、例年715日に近い日曜日に奉納されていて、八宮神社は毎年、大聖寺は八坂神社との隔年であるという。


参考資料「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「小川町議会だより 64 HP」
    「
比企ライフネットHP」等 


       

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下里八宮神社

 環境省では、様々な命を育む豊かな里地里山を、次世代に残していくべき自然環境の一つであると位置づけ、「生物多様性保全上重要な里地里山(略称「重要里地里山」)」(500箇所)を選定した。選定された「重要里地里山」は、地域における暮らしや営み、保全活動等の取組を通じて守られてきた豊かな里地里山を広く国民の皆様に知ってもらうためのものである。また、地域における農産物等のブランド化や観光資源などにも、広く活用できるものと考えているという。
 埼玉県比企郡小川町・下里地域周辺は、周囲を外秩父の山々に囲まれ、伝統産業で古くから栄えた町に、昔ながらの風景が残る農村地域である。農地を中心としたモザイク状の土地利用形態が維持されており、オオムラサキ、カタクリやニリンソウなど里地里山に特徴的な動植物が生息・生育していて、環境省による生物多様性保全上重要な里地里山(略称「重要里地里山」)の選定地となっている。
 里地里山は、原生的な自然と都市との中間に位置し、集落とそれを取り巻く二次林、それらと混在する農地、ため池、草原などで構成される地域である。そのような人の営みがつくり出した里地里山は、食料や燃料生産の場となるだけではなく、様々な動植物の生息・生育の場となり豊かな生物多様性を育んできた。また、国土保全や水源涵養、環境保全の機能など、多面的な機能を発揮し、さらに癒しや楽しみの場、絵図や文学を創出する役割なども果たしている。
 里地里山の多様な生物の営みによって、人が自然から得ているこれらの恵みは「生態系サービス」と呼ばれ、私達の暮らしに必要な資源を提供し、安全や快適性をもたらしている。これらの恵みの多くは、里地里山と人が関わり続けることで、生み出されるものであることから、里地里山を「国民共有の財産」と位置づけ、将来にわたって守り継ぐことが大切であるとの事だ。
        
             
・所在地 埼玉県比企郡小川町下里2348 
             
・ご祭神 高龗神 伊豆能賣神 墨江三龗神 海見三柱神
             
・社 格 旧下里村鎮守・旧村社
             
・例祭等 下里ささら獅子舞 7月中旬
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0507979,139.2806173,16z?hl=ja&entry=ttu
 田黒日枝神社前に南北に走る道路を北上する。槻川に架かる谷川橋を渡った先にある丁字路を左折し、道なりに3.5㎞程進んだ左側に下里八宮神社の鳥居が見えてくる。
 小川町・下里地域は小川盆地の東端に当たり、地内中心を槻川が蛇行、屈曲しながら東流し嵐山渓谷に達する手前までの、槻川の清流と里地里山が創り出す豊かな自然体系が保存されている地域でもある。社はこの槻川沿いの地、仙元山(標高298m)の麓に鎮座している。
            
                    下里八宮神社正面
 天照大神が素戔鳴尊と誓約の時に出現したと云う五男三女神を祀る神社を八宮という。「八宮」と書いて通常「やみや」と読むが、正式には「やぎゅう」。別名「矢弓」「箭弓」、時には「野牛・柳生」とも書く。
 五男三女神は素戔鳴尊の子ともいわれ、田心姫(たこりひめ)、湍津姫(たぎつひめ)、市杵島姫(いちきしまひめ)の三女、正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(まさかあかつかちはやひあまのおしほみみのみこと)、天穂日命(あまのほひのみこと)、天津彦根命(あまつひこねのみこと)、活津彦根命(いくつひこねのみこと)、熊野豫樟日命(くまのくすひのみこと)の五男。

 
八宮神社は比企郡小川村、下里村、下横田村、能増村、中爪村(以上小川町)、志賀村、広野村、越畑村、杉山村(以上嵐山町)に鎮座している。淡州神社や黒石神社も同様だが、比企郡内には同系統の社が比較的狭い地域に集中的に鎮座している興味深い郡でもある。
 下里八宮神社は、比企郡小川町下里にある神社である。下里八宮神社の創建年代等は不詳ながら、当初は志賀との境に鎮座、近郷七ヶ村の総鎮守として祀られていたものの、貞観10年(868)嘗て寺があった当地へ遷座、近郷7ヶ村に分霊を配祀し、八宮神社の総社と称されたと伝えられている。
 
       鳥居を過ぎると丘陵地面の緩やかな登り参道を進む(写真左・右))。
 鬱蒼とした社叢林が参道両側に広がり、拝殿に近づくに連れて、自然と厳かな気持ちになる。
        
                             拝殿前に立つ神明系の二の鳥居
             どこまでも落ち着いた雰囲気が境内全体漂う
        
             拝殿に達する前にももう一段石段を登る。
 同じ八宮神社でも、下里八宮神社は、鳥居を過ぎた瞬間から自然と一体化したような参道、それに凛とした佇まいの社殿、加えて、目には見えない厳かな空気が境内周辺に滲み出ているのに対して、小川盆地内で町内に鎮座する小川八宮神社の荘厳で堂々とした造りである拝殿・本殿、綺麗に整えられた陽光眩しく明るい境内の雰囲気が、まさに対極的である。
「風格」「品格」等、色々と表現方法は多様であるが、結論から言うと、筆者はこの社を参拝して、つくづく感じた。他の八宮神社とは遙かに「格が違う」と
       
            石段を登り終えたすぐ左側に聳え立つ大杉のご神木(写真左・右)
        
                     拝 殿
 八宮明神社 村内の鎮守なり、
 別當寶壽院。新義眞言宗、入間郡今市村法恩寺末、正理山と號す、本尊薬師を安ぜり、
                           『新編武蔵風土記稿 下里村』より引用

 八宮神社 小川町下里九一二
 下里は小川盆地の東端に当たり、地内を槻川が屈曲しながら東流する。当社はこの槻川沿いの地、仙元山(標高二九八メートル)の麓に鎮座している。仙元山に続く尾根には平安期築造の青山城趾(県選定重要遺跡)があり、「青木家譜」によれば、藤原成之の後裔氏宗が天慶の乱後ここに居住し、青木と改姓し、鎌倉幕府、鎌倉府、関東管領に従ってしばしば戦功をたてたとされる。
 社伝によると、当社は初め村の東方に当たる志賀村との境に祀られていたが、清和天皇の貞観十年(八六八)に現在の地に遷座した。その後、近村七か所に分霊したことから、八宮神社の総社と称せられたという。
『風土記稿』には「八宮明神社 村内の鎮守なり、別当宝寿院、新義真言宗入間郡今市村法恩寺末、正理山と号す、本尊薬師を安ぜり」とある。同書の比企郡の項には、ほかに小川村・下横田村・能増村・越畑村・中爪村・杉山村・広野村・志賀村の各村に八宮明神社あるいは八宮社が見える。
 主祭神は高龗神・伊豆能賣神・墨江三龗神・海見三柱神である。
                                  「埼玉の神社」より引用
「埼玉の神社」に登場する「青木氏」を調べてみると、『新編武蔵風土記稿 下里村』に「古城跡、山の上にて廻り三四丁許の地を云、古へ何人の住せしと云ことを伝へず」と記載され、この古城跡とは、青山城跡であろう。青木文書に「青山村に城跡あり、藤原成之の後裔氏宗が天慶の乱の後、ここに居住して青木氏と改姓す。城主に氏久・氏郷・右京亮の名あり、天文年間まで居城す」とあり、「鎌倉幕府、鎌倉府、関東管領に従ってしばしば戦功をたてたとされる」と年代的にも一致する。
        
                     本 殿
        
           本殿の裏側に祀ってある七社分霊神璽を納めた祠
『神社明細帳』に「往古ハ村の東方志賀村々境ニ鎮座アリテ近郷七ヶ村ノ総鎮守タリシカ年月事由不詳現場ノ所ヘ移転スト云コト古老ノ口碑ニ残レリ」と記されている。このことは、氏子の間にも、「初めは村の東方の志賀村との境に鎮座していたが、貞観十年(八六八)に現在の社地に移り、近郷七か所に分霊を配祀し、八宮神社の総社と称せられた」との口碑が残る。本殿の裏側に祀ってある祠は、右の口碑に伝えられる七体の分霊の神璽で、古くは幣殿の両側に祀られていたという。
 
      拝殿に掲げてある奉納額           拝殿左側に鎮座する境内社
             日露戦争の戦勝記念          左側の石祠は三峰社。右側は不明

        境内社・天神社                        境内社・稲荷社
       
           本殿奥の基礎部分にあたる地に
緑泥石片岩らしきものが層状となって見える。

 下里八宮神社から槻川に沿って1.5㎞程南下した場所に「下里・青山板碑製作遺跡」といわれる板碑製作遺跡が存在する。下里 青山板碑製作遺跡は、武蔵型板碑の石材である緑泥石片岩の採掘から板碑形への 加工の工程が初めて明らかになった遺跡群の総称で、平成26106日付けで国史跡に指定されている。
 13世紀になると仏教信仰の高まりを受け、 石塔の一種である板碑の造立が盛んになる。緑泥石片岩製の武蔵型板碑は関東地方を中心に5万基も確認されており、小川町下里・ 青山地区の19か所の遺跡の時期と、関東で多くの板碑が造立された 14世紀中頃から15 世紀後半の時期が一致することなどから、この遺跡群は関東地域の板碑造立を中心的な生産地と考えられる。筆者も行って見たが、入口から少し上ると緑泥石片岩の大きな破片がむき出しに至る所に散らばっている。
 このような板碑製作遺跡の発見は板碑の生産と流通のあり方を知る上で重要な発見であると共に、 中世の仏教信仰を考える上でも重要な発見となったという。 
       
                     歴史も古い下里地域に鎮座している八宮神社

『町指定無形民俗文化財 下里の獅子舞』指定年月日 昭和44626
 下里ささら獅子舞は、古くは 7 13 日〜 15 日の 3 日間、下里八宮神社、八坂神社、大聖寺に奉納してきました。昭和39 年に一時活動を休止し 43 年に復活、保存会を発足いたしました。
 現在に至るまで大人から子どもたちへと引き継がれ、練習も 6 月中旬から毎日曜日を中心に行なっています。ことしは、7 15 日の午前中は八宮神社、午後は大聖寺に奉納いたしました。真夏の一日、下里 4区センターから奉納寺社まで、太鼓や笛の音が響き厳おごそかな気持ちになります。
                               「小川町議会だよりHP」
より引用



参考資料「環境省 自然環境局 自然環境計画課HP」「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」
    「小川町議会だよりHP」「下里・青山板碑製作遺跡 案内板」「Wikipedia」等

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