古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

中江田町矢抜神社


        
             
・所在地 群馬県太田市新田中江田町1134
             
・ご祭神 経津主命 猿田彦命 埴山姫命 倉稲魂命 鎌倉権五郎景政
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 不明
    
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2811831,139.2870552,18z?entry=ttu

 新田下江田矢抜神社が鎮座する下江田地域から北側に接して中江田地域があり、同名の社が鎮座する。上記神社とその東側にある最勝寺の間の道路を北上し、東武伊勢崎線、国道354号新田太田バイパスを越えた群馬県道312号太田境東線との交点である十字路を左折する。現在この県道は通称日光例幣使街道とも呼ばれているが、この県道を600m程進むと、進行方向右手に中江田町矢抜神社の社号標、その奥に木製の鳥居が見える。
        
          県道沿いにある社号標柱と、その奥に建つ一の鳥居
    写真では分かりずらいが、鳥居の正面には、自然石の庚申塔が祀られている。
              *追伸 参拝日 2023年7月26日
 日本歴史地名大系 「中江田村」の解説
 [現在地名]新田町中江田
 南西境を石田川が流れ、東は木崎村、南は下江田村、北は上江田村、西は高尾村。村域は木崎台地の南西部とその南西方の沖積地帯を占め、中央を東西に日光例幣使街道が走る。
 中世には新田庄に属し、仁安三年(一一六八)六月二〇日の新田義重置文(長楽寺文書)に「えたかみしも」とみえる。当村は下江田郷に含まれたらしく、文亀三年(一五〇三)頃同郷から分れたとも伝えられる。
 近世は寛永三年(一六二六)阿部忠秋領となり、阿部氏の転封・加増に伴い同一二年下野壬生藩領、同一六年武蔵忍藩領となる。
        
 一の鳥居から北上すると広い境内が見え、その正面には赤を基調とする二の鳥居が見える。

 新田下江田矢抜神社内にある「新田町指定天然記念物 矢抜神社の山椿」の案内板によれば、
「このあたりは中世新田氏の一族江田氏の所領で、江田郷と称した地でした。その後、南北朝の争乱で新田氏が敗れたため足利氏の支配に移り江田郷も分割され、当時中江田村森下にまつられていた矢抜神社を分社し、中江田と下江田の現在地へ勧請してまつったと伝えられ」
たという。
        
       陽光が差し込む境内に対して、社殿奥には緑豊かな社叢林が広がる。
この社叢林の中に「矢抜神社古墳(木崎町2号古墳)」といわれる古墳時代の円墳が存在している。
        
                     拝 殿
        
          拝殿向拝部及び木鼻部には精巧な彫刻が施されている。
   
     拝殿前に設置されている案内板             本 殿
 惣鎮守矢抜大明神神宮建立
 神亀5甲子年4月朔日(奈良時代 聖武天皇の時代)
 中江田村森下(現在の粕場 東武線のところ)
 万治元年(1658年)929日 中江田村と
 下江田村の分村により中枝村宿通り(当時)
 に転祭されたとある

 初代宮司 江田和泉守氏清より始まり
 現在 第49世代宮司

 矢抜さま 昔をしのぶ 神楽殿
 平安時代の武将、「平 景正」が戦いで矢が目にさ
 さり引き抜いてまで奮闘した伝説があります
 中江田の人々はこの偉業をたたえて「矢抜神社」
 と命名したと伝えられています
                                      案内板より引用
 中江田町矢抜神社のご祭神の一柱に「鎌倉権五郎景政( 景正)がいる。この人物に関しては、既に「上奈良豊布都神社」「高本高城神社」でも紹介しているが、平安時代後期の実在した武将であり、祖先は桓武平氏の流れであったという。
 父の代から相模国鎌倉(現在の神奈川県鎌倉市周辺)を領して鎌倉氏を称した。居館は藤沢市村岡東とも、鎌倉市由比ガ浜ともいわれる。また『尊卑分脈』による系譜では、景正を平高望の末子良茂もしくは次男良兼の4世孫とし、大庭景義・景親・梶原景時らはいずれも景政の3世孫とする。他方、鎌倉時代末期に成立した『桓武平氏諸流系図』による系譜では、景正は良文の系統とし、大庭景親・梶原景時らは景正の叔父(あるいは従兄弟)の系統とする。
 16歳の頃、後三年の役(永保3年〈1083年〉〜寛治元年〈1087年〉)に従軍した景正が、右目を射られながらも奮闘した逸話が「奥州後三年記」に残されている。
 鎌倉市坂の下に,彼をまつる御霊神社があり,〈権五郎さん〉の通称で親しまれているが,奥羽地方には,目を負傷した景政が戦場からの帰途に霊泉に浴してその矢傷を治したという,いわゆる〈片目清水〉の伝説を伝えるところが多く,また景政を神としてまつる風習が広くおこなわれている。柳田国男が説いた〈目一つ五郎〉の信仰で,〈五郎〉を〈御霊〉に付会したものだが,《吾妻鏡》によると,1185年(文治1)の夏から秋にかけて,鎌倉の御霊神社にしきりに神異があったことが記されており,その託宣が人々に崇められていたことが知られている。
 中江田町地域に鎮座するこの社の案内板には、伝説に関して、その奮闘ぶりを讃え「矢を抜く」⇒「矢抜」と命名したとのことだが、この人物は後に「御霊信仰」の神、または「一つ目信仰・古代鍛冶集団」の神とも併せ持つ神と変貌してもいる。この事項は良く知ってご祭神としているのであろうか。
        
        社殿奥には小高い丘上となっていて、そこには幾多の石祠が祀られている。
 
    拝殿手前で左側にある神楽殿       境内にある「合祀記念」の石碑
                    合祀記念
             嚮者官發合祀之令也中江田郷當合祀者有
             五社迺請宮得其聽許而合祀於村社矢抜神
             社祭神經津主命猿田彦命埴山姫命倉稲魂
             命鎌倉權五郎景政而茲謹記其年月社號神
             名永傳于後記曰明治四十一年八月二十四
             日無格社諏訪神社祭神建御名方神境内末
             社秋葉神社祭神火産霊命無格社嚴島神社
             祭神市寸島比賣命境内末社愛宕神社祭神
             火産霊命無格社淺間神社祭神木花之佐久
               夜毘賣命宇迦之御魂命(以下略


参考資料「
日本歴史地名大系」「Wikipedia」「境内案内板」
    「新田下江田矢抜神社内・新田町指定天然記念物 矢抜神社の山椿の案内板」等

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下崎八幡神社


        
              
・所在地 埼玉県加須市下崎1251
              
・ご祭神 誉田別命
              
・社 格 旧下崎村下分鎮守
              
・例祭等 例大祭914
    地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1050109,139.5588474,17z?entry=ttu

 下崎氷川神社の正面入り口から南側に伸びる道路を進む。当初の目的は、この下崎氷川神社の社号標がない事、参道に真っ直ぐ伸びる道路の先に何かあるのではないかと思い、その道を南下したわけだが、結局のところ何もなく、丁字路に当たってしまった。あまり期待していたわけではなく、単にモヤモヤしていた事項が解決できたという事で、次の参拝場所へと気持ちの切り替えはできた。
 その丁字路を左折し、600m程進んだ場所に下崎八幡神社の鳥居が見えてくる。
 同じ「下崎」地域に鎮座している社故に、意外と近距離(上崎雷電神社と下崎氷川神社との距離程ではないが)で、道順も分かりやすい。
        
       加須市下崎地域のほぼ中央部で、田園地帯の中に鎮座する下崎八幡神社
『日本歴史地名大系』には「下崎村下分」の解説が載っている。
 [現在地名]騎西町下崎
 騎西町場(きさいまちば)の南に位置し、西は下崎村上分。もとは上分と一村で、正保四年(一六四七)の検地の際分村したという(風土記稿)。
 
現栃木県日光市輪王寺蔵の大般若経巻第一四九の応永三年(一三九六)付奥書に「武州崎西郡葛浜下崎郷光明寺」とみえる。田園簿では下崎村一村で高付され、田高六四七石余・畑高三八六石余、川越藩領。領主の変遷は騎西町場に同じ。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では下崎下分の高五一一石余、反別は田方三三町三反余・畑方二〇町六反余。
 
        鳥居の社号額                   境内に通じる南北に長い参道
『新編武蔵風土記稿 
下崎村上文条』
下崎村を上分・下分と分ちしこと、正保の圖(図)には見えず、元禄の圖に始て二村とす、正保四年檢(検)地のとき分村せしことと知らる」
*旧字体の変更は( )にて筆者対応。
        
 参道から境内に入るその入り口付近に祀られている「辨財天」の石碑、その左側には「安永五年銘(一七七六)」の力石が置かれている。
 下崎地域は北側に「備前用水」、南側には「騎西領中用水」がそれぞれ南東方向に流れ、地域の境となっている。いわば生を営むために必要な農業用用水が身近にある地域であり、水の神様である辨財天が祀られていることにも納得ができよう。
        
                     拝 殿 
 
      拝殿に掲げてある扁額。              本 殿
 扁額には三宝荒神、八幡社と記載されている。
 三宝荒神(さんぼうこうじん、さんぽうこうじん)は、日本特有の仏教における信仰対象の1つ。仏法僧の三宝を守護し、不浄を厭離(おんり)する佛神である。
 不浄や災難を除去する神とされることから、火と竈の神として信仰され、「かまど神」として祭られることが多く、これは日本では台所やかまどが最も清浄なる場所であることから俗間で信仰されるようになったものであるという。
        
                境内に設置されている案内板
 八幡神社 例大祭九月十四日
 当社は誉田別命(応神天皇)を主祭神とし、武の神・生活上の守護神として崇敬される
 伝えによると、騎西城廃城の時、当地に土着した者が城内に祀る八幡宮と三宝荒神を移したことによるという。また一説には、正保四年(一六四七)に石清水八幡宮(現京都八幡市)の分霊を祀ったともいう。
 本殿には内陣に向かって右に三宝荒神、左に八幡神を奉安する。三宝荒神は三面六臂(三つの顔と六本の腕)の立像で、全身が赤く塗られている。一般的に荒神は台所に祀られ、火防の神として信仰される。また、八幡神は馬に跨がり、弓矢を持った姿となっている。
 なお、下崎には氷川神社も村鎮守として祀られているが、これは江戸時代、当村が上分・下分の二村に分かれていた名残りによるものである。(以下略)
                                      案内板より引用

 案内版では「
正保四年(一六四七)に石清水八幡宮(現京都八幡市)の分霊を祀った」と記載されているが、この年は『新編武蔵風土記稿』によると、「正保四年檢(検)地のとき分村」と書かれており、分村した際に岩清水八幡宮の分霊を祀った可能性もあろう。
  
   社殿手前で、左手に鎮座する境内社。       社殿奥には稲荷社が祀られている。
        
                 社の正面入り口付近には趣のある「庚申塔」が祀られている。
    年始のしめ飾りも飾っていて、地域の方々の信仰の深さを物語っているようだ。
            筆者も社の参拝前には、手を合わせて頂いた。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「Wikipedia」「境内案内板」等
    

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下崎氷川神社


        
             
・所在地 埼玉県加須市下崎17151
             
・ご祭神 素盞嗚命
             
・社 格 旧下崎村上分鎮守 
             
・例祭等 例大祭 十月九日
    
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1083619,139.552614,17z?entry=ttu 

 上崎雷電神社から南西方向に目を移すと、こんもりとした林が見える。実はその辺りの一角に下崎氷川神社が鎮座する場所となる。直線距離にして230m程しか離れていないため、周囲は宅地化されていて現在は目立たないが、嘗てはお互い目視も出来る位の位置関係ではなかったろうか。 
       
                    こんもりとした社叢林の中に鎮座する下崎氷川神社
『日本歴史地名大系』 「下崎村上分」の解説
 [現在地名]騎西町下崎
 東は下崎村下分、西は上崎村。北東側を備前堀(びぜんぼり)川が流れる。正保四年(一六四七)の検地まで下分と一村であったという(風土記稿)。
 寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳によれば下崎上分の高五一二石余、反別は田方二九町九反余・畑方二五町二反余。元禄一五年(一七〇二)の河越御領分明細記によるとほかに一〇九石余があり、宝暦五年(一七五五)の下崎村上分明細帳(小池家文書)では田高三七五石余・畑高二四六石余、家数四九・人数二一九、馬九。
        
            社叢林の中でもひときわ目立つ赤い両部鳥居
 
  鳥居上部に掲げられている個性的な社号額  社は決して規模は大きくないが、社叢林に覆わ
                       た参道を進むと、神威的な神々しさを感じる。
        
                                       拝 殿
 
     社殿右側奥に祀られている石祠群        境内に設置されている案内板
         詳細不明
 氷川神社 例大祭 十月九日
 当社は素盞嗚命を主祭神とし、「おしかさま、おひかわさま」の名で親しまれている。氷川神社は概ね元荒川を東限、多摩川を西限とする区域に分布するが、当社が北限となる。伝えによると、当地は古くから米麦中心の豊かな農村であったため、五穀を守護し疫病を祓う神である氷川大明神を祀ったという。寛政五年(一七九三)に社殿を再建した棟札があることから、その創建はかなり古いものと思われる。
 古くは御神像が奉安されていたが、明治時代初めの神仏分離の際に、村内の民家に移された。 なお、下崎には八幡神社も村鎮守として祀られているが、これは江戸時代、当村が上分・下分 の二村に分かれていた名残りによるものである。  
加須市教育委員会
                                      案内板より引用
       
       社殿奥に聳え立つイチョウの巨木。注連縄等はついていないが、御神木と思われる。
      尚このイチョウの木は加須市保存樹木に平成18年9月29日に指定されている。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「加須市HP」「境内案内板」等



   

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上崎雷電神社


        
              
・所在地 埼玉県加須市上崎24021
              
・ご祭神 別雷命(わけいかづちのみこと)
              
・社 格 旧上崎村鎮守 旧村社
              
・例祭等 例大祭 1014
    
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1111209,139.5507081,17z?entry=ttu

 内田ヶ谷多賀谷神社から一旦西行し、埼玉県道308号内田ヶ谷鴻巣線に合流後、左折し南方向に進路をとる。1㎞程進んだ交差点を左折し、「KAZOヴィレッジ通り」を600m程進むと右手に上崎雷電神社ののぼり旗ポールが2基、そしてその奥には社号標柱、鳥居が見えてくる。
 実のところ、「KAZOヴィレッジ通り」沿いには、適当な駐車スペースはない。一旦南側に回り込むと、雷電神社社務所近くに専用駐車場があるので、そこに停めてから参拝を開始した。
        
                     
KAZOヴィレッジ通り沿いに鎮座する上崎雷電神社
 加須市上崎地域は、嘗て旧
騎西町に属し、見沼代用水(星川)左岸に位置していて、集落は地域中央を東西に通るKAZOヴィレッジ通り沿いに多い。地形を確認すると、大宮台地に連なる埋没台地および自然堤防上にあるとのことだ。
 地域の大部分は広大な田園風景が広がる稲作地帯であるが、『田園簿』によれば「田高四二三石余・畑高六七五石余」であり、この地域も田地より畑地の方が多かったようだ。
                
                           青空に映える社号標柱
 上崎地域北西側には、騎西領用水(きさいりようようすい)が星川(見沼台用水)から分岐して流れている。この騎西領用水は、新川(につかわ)用水・中用水・南用水・五ノ神用水の総称。幹川水路である新川用水の名で称されることも多い。元圦は星川の上崎村(現加須市)地先に設けて、忍領地域の落水を取水するものであった。星川分水口に「上崎洗堰」があり、これより新川圦前までの三〇〇間余を新川溜井と称して、用水の一時貯溜を行っていた。
 上崎洗堰の設置時期は未詳であるが、延宝元年(一六七三)の訴訟文書(見沼土地改良区文書)などにより、近世初頭と思われる。この堰については上流忍領と下流騎西領との間でたびたび水論が起こっている(大熊家文書)。新川用水は、元和七年(一六二一)の上早見村地詰帳(野房家文書)や、寛永(一六二四―四四)初期と考えられる武州騎西城絵図(岩瀬家文書)などからみると、この頃にはすでに開削されていたと考えられる。

 なお『新編武蔵風土記稿 上崎村条』にもこの用水に関しての説明が載せられている。
「星川
村の南西を流る、幅十二間程、土橋一ヶ所あり、此川に樋を設け水を引分け、騎西領組合の用水とす、これを新川用水と云、その幅二間ばかり、樋の長さ十二間、公よりの修理にて組合の村々多し、又西の方に長八間の圦樋を設け、水を引分ち用水とす、是を九ヶ村用水と云、當村及上會下・中ノ目・戸室・竿莖・鴻莖・西谷・下崎村上下分皆組合なり」

        
                社号標柱の先にある一の鳥居     
                   参拝した時間帯は陽光がほぼ正面となる昼間時
       正面からの撮影をすると逆光となり、斜めからのアングルとなった。
        
                  静まり返った境内
  北風は冷たがったが、陽光が差し込む雲一つない晴天の中、気持ちよく参拝ができた。
        
       参道を進む途中、左側に「保存樹木」であるシイの大木が聳え立つ。
              加須市指定番号27号。幹周 252㎝。
        
                 参道の先にある二の鳥居
           二の鳥居の先には社殿はなく、住宅しか見えない。
                      社殿は二の鳥居を過ぎて右側に鎮座している。
        
                 社殿と二の鳥居の配置
        
                     拝 殿
        
                 拝殿右手にある案内板
 雷電神社 例大祭 十月十四日
 当社の創建は、上州板倉雷電社の分霊を祀ったことによるという。祭神は別雷命。恵みの雨をもたらす神として信仰され、現在も雨乞いに用いた池が残る。
 雷電様は相撲好きな神様としても有名。境内には「関東三十三高芝の一つ」と呼ばれた土俵も現存している。
 拝殿には明治二十四年奉納の、<利根川・新川・三間圦工事絵馬>がある。これは前年の大洪水 で被害を受けた諸河川の工事竣工を記念したもの。
 利根川に浮かぶ帆掛船、新川の作業に従事する女性たち、三間圦付近に置かれた宿所や監督所など、工事の様子が鳥瞰的に描かれている。
                                      案内板より引用

 また案内板に記されている加須有形民俗文化財(指定日 平成4316日)である「利根川・新川・三間圦工事絵馬」は、『加須インターネット博物館』において、以下のように説明がされている。
「利根川・新川・三間圦工事絵馬
明治(めいじ) 23(1890) 洪水(こうずい)で被害を受けた河川の工事竣工(しゅんこう)を記念して奉納されました。
工事の様子が鳥瞰的(ちょうかんてき)(=鳥が上空から見おろすように全体を広く見渡すこと)
に描かれています。
        
     拝殿上部に掲げてある扁額と、その周りには多数の奉納額が展示されている。
    地域の方々のこの社に対する崇高の思いがこの奉納された額の多さに現れている。
   
 社殿左側奥に祀られている「浅間神社」と      社殿右側には「元文五年(1740)と刻まれ
    その左側にある詳細不明な石碑       た「辨財天供養」の石碑がある。

 上崎雷電神社から西方向に約700m行った場所に「臨済宗円覚寺派 大光山龍興寺」がある。上崎雷電神社とは直接関係はないが、上崎地域の歴史を語る上において、この寺の存在抜きには語れない。
龍興寺にある案内板によると、大同年中(約一二〇〇年前)天祐和尚によって開かれたという。古くから足利氏と関係が深く、境内には足利持氏とその子春王安王の供養塔(県指定史跡)が現存していて、足利氏ゆかりのものも多く伝わっていたらしかったが、現在は足利家から寄進されたという膳と足利政氏・義氏からの寺安堵状(町指定有形文化財)が残っているのみであるという。
       
             社殿右側奥に聳え立つ
「保存樹木」であるイチョウの大木
                         加須市指定番号26号。幹周 305㎝

『新編武藏風土記稿 埼玉郡上崎村』にはこの寺に関しての記載がある。
「龍興寺 禪宗臨濟派相模國鐮倉圓覺寺末大光山と號す、延寶六年住僧大澄が書しものに、大同元年天祐草創の地なりとあれど、上りたる世の事なれば、いかん共云がたし、中興開山曇芳は、永享八年九月七日寂せり、此僧は鐮倉管領持氏の伯父なりと云傳ふ、本尊釋迦、毘首羯磨の作、座像にて長七寸五分、又持氏春王安王の墓三墓たてり、持氏法名長春院陽山繼公、永享十一年二月十日、春王は花山院春嶽香公、嘉吉元年四月日、安王は太山院天嶽雲公、嘉吉元年四月と彫たるよし、今は文字も減して、そのさま古きものには論なかるべし、【足利治亂記】をするに、永享年中持氏京都に叛き相州早川尻の戰ひにうち負け、永安寺に入て自害す、幼子春王・安王は下野國結城が許に逃れ、日光山に隱れ居けるが捕はれとなり、京へ送られける塗中、美濃國垂井の金蓮寺にて自害し、骸は高野山ヘ送るとみえたり、又【鐮倉九代記】には金蓮寺に葬しよし載す、今按に當寺古河公方政氏・義氏寄附の文書も藏すれば、成氏のとき父供養のために築し墓なるべし、」

 足利持氏は「第4代鎌倉公方」である。この「鎌倉公方」とは、史実によると、1333年(元弘312月建武政権下で足利直義が〈関東十ヵ国〉(相模,武蔵,上野,下野,上総,下総,安房,常陸,伊豆,甲斐)の支配をゆだねられ後醍醐天皇の皇子成良親王を「鎌倉将軍府」に任命して鎌倉に入ったことにはじまる。その後室町幕府を開いた足利尊氏は、関東を押さえるために次男の基氏を「鎌倉公方」としてその本拠地を「鎌倉府」と称し、関東八か国(武蔵・相模・下総・上総・安房・常陸・上野・下野)と伊豆・甲斐を合わせた一〇か国を統括した。一時的は陸奥・出羽も含む奥州をも支配した時期もあった。
 1336年(延元1・建武311月京都に幕府を開き、その嫡子義詮を鎌倉にとどめ,これを〈鎌倉御所(鎌倉公方)〉とし,そのもとに「関東管領」を配置して東国の政治一般にあたらせた。その政治組織を鎌倉府といい,あたかも小幕府の観をなした。
 以後その子孫(氏満(うじみつ)、満兼(みつかね)、持氏(もちうじ))がこの職を世襲した。
 歴代の公方とも将軍への対抗意識が強く、また鎌倉府の領国に対する主要な権限を幕府直轄の機関である「関東管領」に握られていたため、その争奪をめぐってしばしば争いを繰り返していた。持氏の代になり、当初「上杉禅秀の乱」では幕府は持氏を援助したが,乱後幕府と持氏の間が不和となり、1428年足利義教が将軍となってからは京・鎌倉間の対立はいっそう激化した。鎌倉府内部でも幕府との協調を説く関東管領上杉憲実(のりざね)と持氏の不和が顕在化し,永享の乱が勃発し、1439年持氏は自害,鎌倉公方は滅亡する。

 龍興寺中興の祖となる第3世曇芳和尚はその足利持氏の伯父という。伯父とは父母の兄や弟、また父母の姉妹の夫で、父母の兄には「伯父」という。持氏の父親である満兼には兄がいたのであろうか。どの文面にもそれらしい人物はいない。それとも母親とされる「一色氏」の義兄であろうか。
 どちらにしても埼玉県指定史跡として「足利持氏、及びその子春王安王の供養塔」が現存しており、持氏の子孫である足利政氏・義氏からの寺安堵状も残っているのであることからも、何かしら鎌倉公方・足利氏と関係した人物がいたことは確かであろう。

 この龍興寺は臨済宗鎌倉円覚寺末寺という。この円覚寺は、弘安5年(1282年)に鎌倉幕府執権・北条時宗が元寇の戦没者追悼のため中国僧の無学祖元を招いて創建したといい、北条得宗の祈祷寺となるなど、鎌倉時代を通じて北条氏に保護されていた。
 しかしその後の鎌倉幕府の滅亡から、建武の新政を経て南北朝時代に移ると、新しく鎌倉を掌握した鎌倉公方・足利氏はこの寺を支援するようになる。このお寺のあちこちには足利氏の「丸に二引き両」の家紋があり、鎌倉公方との繋がりが深かった何よりの証拠ではなかろうか。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「
日本歴史地名大系」「日本大百科全書(ニッポニカ)」
    「百科事典マイペディア」「改訂新版 世界大百科事典」「加須インターネット博物館」
    「境内案内板」等

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内田ヶ谷多賀谷神社

 多賀谷氏は道智氏の一族で、武蔵七党のひとつ野与党に属し、道智頼基の子・光基(みつもと)を祖とし、武蔵国埼玉郡騎西荘多賀谷郷の地頭職として赴任し、本拠地としていた。周辺には、寄居・タテヤマ(館山か)などの、館跡に関する地名が残っている。
 1190年(建久元年)117日、源頼朝上洛の際の先陣の髄兵の中に多賀谷小三郎の名があり、『吾妻鏡』にも御弓始の射手として多賀谷の名が散見される
 吾妻鑑卷十「建久元年十一月七日、頼朝上洛随兵に多加谷小三郎」
 卷二十一「建暦三年五月二日、和田の乱、北条方たかへの左近は討死す」
 卷三十二「嘉禎四年二月十七日、多賀谷太郎兵衛尉、多賀谷右衛門尉」
 卷四十一「建長三年正月十日、多賀谷弥五郎重茂」
 卷四十六「建長八年正月十三日、多賀谷弥五郎景茂」
 元々、多賀谷郷一帯は小山氏の領の一部であったが、小山義政の乱で功のあった結城氏にこの地が恩賞として与えられるに及び、多賀谷氏は結城氏の家人となり、氏家の代に常陸国下妻へ移住。1440年(永享12年)に勃発した結城合戦では、氏家は落城寸前の結城城から結城氏朝の末子・七郎(後の結城成朝)を抱いて脱出して佐竹氏を頼り、後年、結城家の再興に尽くした。
1454年(享徳3年)の享徳の乱では、鎌倉公方足利成氏の命により関東管領上杉憲忠を襲撃。憲忠の首級をあげ、その功により下妻三十三郷を与えられ、「金子に多賀谷という名字と多賀谷の紋(瓜に一文字)を下された」と記していて、結城氏の家臣ながら関東諸将の会合に列席する地位を得た。だが、氏家の弟で結城成朝より1字を受けた多賀谷高経(朝経)が成朝を暗殺したと伝えられる(『結城家之記』『水谷家譜』東大史料本ほか)など、その後は結城氏からの自立を図り、佐竹氏との同盟を強め、反北条氏の立場を鮮明にしてゆく。
 重経の代に最盛期を迎え、領地を20万石にまで拡大。1590年(天正18年)の小田原征伐に参戦して豊臣秀吉から領土を安堵されたが、文禄の役では病気と称し参加しなかったため、領地の一部を没収1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いにおいては、家康の再三の出陣要請にも応じず、会津征伐に向かう徳川家康の小山本陣へ夜襲をかけようとした事が露見し、改易された。重経は流浪の末、死去し、その後。多賀谷氏は没落していく。
 ともあれ、戦国時代には20万石の大名として常陸国下妻城主として君臨していた多賀谷氏の故郷が、武蔵国埼玉郡内「田ヶ谷(多賀谷)」地域であったというのも興味深い事である。
        
             
・所在地 埼玉県加須市内田ヶ谷676
             
・ご祭神 倉稲魂命
             
・社 格 不明
             
・例祭等 例大祭 1013
    
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1176611,139.5456808,16z?entry=ttu

 外田ヶ谷久伊豆神社の南側正面である一の鳥居が接している埼玉県道148号騎西鴻巣線を1.8㎞程東行し、「田ヶ谷小学校前」交差点を右折する。「内田ヶ谷集会所」が左手に見えるすぐ先の丁字路を左折し、左方向に大きく迂回するように進むと民家の間から内田ヶ谷多賀谷神社が見えてくる。
社には専用駐車スペースがないようなので、近場の路肩に停めてから急ぎ参拝を行う。
        
           新川用水(騎西領用水)のすぐ南側に鎮座する社
『日本歴史地名大系』 「内田ヶ谷村」の解説
[現在地名]騎西町内田ヶ谷
正能(しようのう)村・騎西町場(きさいまちば)の西にあり、西は騎西領用水を隔てて外田ヶ谷や村。集落は同用水南岸に沿う自然堤防上に立地する。嘗ては外田ヶ谷村と一村であったが、騎西領本囲いの堤を築いた時、堤防の内となった地域を内田ヶ谷と称した(風土記稿)。
円福寺記録(内閣文庫蔵)に収める多賀谷譜によると、騎西庄多賀谷郷は多賀谷氏の本拠で、字中郷(なかごう)の新義真言宗大福だいふく寺一帯は室町時代の多賀谷館跡と伝える(風土記稿)。
 
     鳥居の上部に掲げてある社号額        鳥居を過ぎてすぐ左側に鎮座する
                             境内社・八坂社
        
                    境内の様子
『新編武蔵風土記稿 内田ヶ谷村条』には「多賀谷氏」に関して意外と詳しく載せている。長い文章であるので、文脈ごとに最初は「原文」、そして後に現代語での筆者の拙い解説ではあるが載せたいと思う。尚旧漢字も幾つかある為、これも現代漢字に変換して解説を行う。
『新編武蔵風土記稿 内田ヶ谷村条』
=原文=
古は西庄多ヶ谷郷と唱へ多賀谷氏住せしと云、多賀谷記を按るに、武蔵国埼玉郡多賀谷郷の住人、左衛門尉家政は、金子十郎家忠が二男なり、仁元年頼經の随兵たり、其子彌五郎重茂頼嗣に仕へ、建長三年弓始を勤め、其子五郎景茂宗親王に仕へ、康元元年弓始に景茂其器に撰れ、其子彦太郎家經、其子五郎政忠、其子彦太郎家茂相續す」
=現代語訳=
 嘗てこの地は西庄多ヶ谷郷と言い、多賀谷氏が地頭職として赴任して以来、代々この地に住んでいた。多賀谷記という書物では、多賀谷左衛門尉家政は桓武平氏村山党の金子十郎家忠の次男であるともいう。この多賀谷家政は暦仁元年(1238)時の鎌倉将軍である九条頼経(摂家将軍・在位12261244)の随兵として仕えていた。その子彌五郎重茂は鎌倉第5代将軍である九条頼嗣(摂家将軍・在位12441252)に仕え、建長三年(1251)御弓始の射手を勤めた。その子五郎景茂は鎌倉第6代将軍・宗親王(後嵯峨天皇第一皇子・在位12521266)に仕え、康元元年(1256)御弓始の射手に選ばれている。その子供である彦太郎家經から五郎政忠、彦太郎家茂と一族は代々相続されてきた。
*筆者の調べたところ、「吾妻鑑」では嘉禎4年(1238217日九条頼経の随兵として、多賀谷太郎兵衛尉(第21番)、多賀谷右衛門尉(第26番)の名前が出ていて、その2人の内のどちらかではなかろうか。因みに「嘉禎4年」は1123日に「暦仁元年」と改元されているので、そこから上記のミスがあったのだろう。
=原文=
其子彌五郎政朝、下總結城左衛門尉滿廣の子、原五郎光義を聟(娘むすめの夫おっと)となし、家を繼しむ、光義古郷忘れ難く、結城に歸りしかば、嫡子彦四郎氏家を始め、家臣随ひ来ると載たれば、此頃まで當所に住せしなるべし、又村内大福寺の記に、多賀谷氏下妻へ移し時、館蹟へ建立と云事見えたれど、同書に據ば光義當所を去し後、彦四郎氏家一旦常陸に趣き、後寛正年中下妻城を取立住せしとあれば、寺傳こゝより下妻へ移りしといふは誤りなり、その寺の條下に辨せり、且家政重茂等がことは【東鑑】に載する所も多賀谷記と符合せり、又當國七黨系圖野與黨に、道地法花坊・多賀谷次郎光基・同彌三郎某・同三郎重基・同四郎久基など云人見ゆ、道地村と云るは、隣村なれば是等の人々も當所に住せしこと知るべし、又外田ヶ谷村名主太四郎の先祖は、多賀谷氏に仕へしものなり、其家傳に多賀谷氏の先、頼朝に仕へて、安藝(芸)国藻刈城を賜はり、遥の後宮内少輔武重が時、毛利氏に仕ふと云のみにて、其詳なることは知らず
=現代語訳=
 多賀谷彦太郎家茂の子である彌五郎政朝の代に、下総国・結城左衛門尉滿広の子である原五郎光義を聟(むこ)として向かい入れ、多賀谷氏を相続させたが、光義は故郷である結城、下妻が忘れられず、嫡子彦四郎氏家を始め、一族・家臣も従えて帰ってしまった。尚、光義がこの地から離れた後に、彦四郎氏家は一旦常陸国に赴き、その後寛正年中(14601466)に下妻城に戻ったというが、村内の大福寺の記録には、光義と一緒に彦四郎氏家は下妻へ移ったというが、それは誤りである。
 多賀谷彦太郎家茂以下の事項は「吾妻鑑」にも記載されているので、多賀谷記は信頼できる資料である。また「武蔵七党系図」には道地法花坊・多賀谷次郎光基・同彌三郎某・同三郎重基・同四郎久基など人名が載っている。
*武蔵七党系図
「野与六郎基永―道智法華坊頼意―平太郎頼基―多賀谷二郎光基―弥三郎□□、弟に三郎重基、四郎久基、五郎重光、六郎時員」
 内田ヶ谷村の隣村に「道地村」があるのも、多賀谷氏に関連した地名であろう。また外田ヶ谷村名主太四郎の先祖は、多賀谷氏に仕えていて、その後その一族は安芸国藻刈城を賜り、その後宮内少輔武重の時に毛利氏に仕えたというが、詳しいことは分からない。
=原文=
「當(当)村もとは内外の分ちなかりしが、騎西領本圍(囲)の堤を築し時、堤の内を内田ヶ谷と云ひ、堤の外を牛之助新田と云いが、後は外田ヶ谷と唱へ、二村に分てり」
=現代語訳=
 この村は嘗ては同じ「田ヶ谷村」であったが、騎西領本囲堤を築く際に、堤内を内田ヶ谷と言い、その外側を牛之助新田、その後外田ヶ谷と唱え、二村に分かれた。
        
                                      拝 殿
        
                 拝殿に掲げてある案内板
 多賀谷神社 例大祭 十月十三日
 当社の創建は古く、約五百年前、多賀谷光義が稲荷明神を郭内に勧請したことによるという。光義は敬神の念厚く、その際、牛頭天王・熊野社・弁天社などの社も祀ったと伝えられる。五穀豊穣と福寿に霊験あらたかなことから「福寿稲荷」とも呼ばれた。
 大正四年、これらを合祀したことにより「多賀谷神社」と改称した。主祭神は倉稲魂命で、農業の守り神として崇敬される。
 当社は、かつて米麦の収穫期にコメバツ・ムギバツ(米麦の初穂)と呼ばれる氏子の物納により維持された。現在は米代・麦代として現金を集め、その費用に充てている。
                                      案内板より引用
 
 社殿左側手前に祀られている境内社・天神社     境内東側隅に祀られている石祠。
        
                                   境内の一風景
 多賀谷神社の案内板にある「合祀前の鎮座地」を現在の地図で照合・確認すると、東西の範囲は西側端にある多賀谷神社(元稲荷社)から東側は大福寺を越えて、今の「内田ヶ谷地蔵尊」あたりまでの約1㎞まで。南北に関して北側は新川用水(騎西領用水)、南側は「備前堀用水」の左岸あたりの数百m程と推測されるので、東西に長いかなり大規模な鎮座地であったと思われる。


 ところで、関ヶ原の戦い以後の多賀谷氏は、どうなったのであろうか。佐竹氏から重経の養子となった宣家は、関が原の戦い後、佐竹氏に戻り、兄佐竹義宣の秋田転封に従い檜山城主となり、その後、宣家は出羽亀田藩岩城氏の家督を相続して亀田藩主を継いだ。
 一方、重経の実子・三経は結城秀康(松平秀康)の家臣となり、秀康の越前転封に従って越前松平氏の有力家臣となって、越前丸岡・三国で32千石を領した。三経の一族は1616年(元和2年)三経の子・泰経の死によって断絶したとされるが、血統は存続したという。



参考資料「吾妻鑑」「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉苗字辞典」
    「Wikipedia」「境内案内板」等

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