古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

鉢形八幡神社

 神社沿革
 名称  八幡神社
 祭神  誉田別命第十五代応神天皇
 勧請年 天長元甲辰八月(八二四年)
 当社は北関東の拠点として重要な役割を果たした鉢形城主北条氏邦に依って永禄年間(一五五八~)に再建された天正十八年鉢形城落城の際兵火にかかる。嘉永四年一月三日には寄居町の大火でも類焼したが、慶應二年拝殿を建つしかし大正二年十二月二日又も火災によって拝殿を焼失する。
 再三の火災にもめげず大正六年に奥社を八年に今に残る拝殿を建設した。以来八十有余年氏子の厚い崇敬を仰ぎ今日に至ったが近年老朽化著しく氏子各位から改修の声が上がり建設委員会を結成、平成十七年七月着工、宮司総代氏子奉賛者を始め多くの芳志により奥社拝殿参道等の整備完了同年十月二十三日落慶した。
 平成十七年十月(二〇〇五) 八幡神社建設委員会 翠城鳥塚義信書
                                境内「神社沿革」碑文を引用

        
            
・所在地 埼玉県大里郡寄居町鉢形1168
            
・ご祭神 誉田別命
            
・社 格 旧村社
            
・例 祭 祈年祭 43日 例祭 915日 新嘗祭 1123
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1096334,139.1991976,16z?hl=ja&entry=ttu
 寄居町鉢形地区に鎮座する鉢形八幡神社は、国道140号バイパスを寄居町方向に進み、玉淀大橋(北)交差点を左折、国道254号にて荒川を越えて、鉢形陸橋を越える手前のY字路を左に進み、東武東上線の踏切を越えて埼玉県道30号飯能寄居線との合流地点である信号のあるT字路を右折する。
 その後600m程県道を東行し、「鉢形小学校入口」の立看板があるT字路を左折、進行方向右側にその小学校、道路を挟んだ反対側には「鉢形公民館・鉢形コミュニティセンター」を見ながら暫く道なりに進むと、道路がやや右方向にカーブする地点左側に社の社号標柱が見えてくる。
 
 鉢形小学校の道路を挟んで200m程南側に社は鎮座している。稲乃比売神社から直線距離にして600m程北西方向にあり、市街地から離れた長閑な丘陵地面に社は位置している。社に通じる入口付近には社号標柱があり(写真左、右)、左折すると角度のある上り斜面の坂道が待ち受けていて、更に進むと参道手前の道路右側には車幅が広い路肩面があり、そこに駐車させ参拝を開始した。
 
 参道入口正面には1対の灯篭が設置されている。   燈篭を過ぎて暫く真っ直ぐな参道が続くが
                         途中から右方向に曲がる配置となっている。
        
               曲がった先には鳥居・拝殿がある。
                ひっそりと静まりかえった境内。
        
          鳥居を過ぎてすぐ左側に設置されている「神社沿革」碑
        
                     拝 殿
 八幡神社  寄居町鉢形一一六八
 自然の要害を利用した鉢形誠は、文明年間(一四六九-八七)に長尾景春によって修築され、後に北条氏邦の居域となり、天正十八年(一五九〇)の落城まで、北関東支配の拠点として重要な役割を果たしてきた。現在、寄居町の大字鉢形となっている地域は、この鉢形城の城下町として中世から栄えてきた所で、当時は鉢形町と呼ばれていた。
 当社は、この鉢形町の総鎮守として代々の領主の崇敬が厚く、永禄年間(一五五八-七〇)には時の城主北条氏邦によって再建されている。このように、鉢形域と深い関係があったことは、当社に多くの幸いをもたらしたが、同城の落城に際しては、当社もまた敵方の兵火に罹って烏有に帰するという不幸な出来事もあった。同域は、落城の後廃城となったが、当社の方は氏子の力によって再建され、本山派修験の千手寺が別当としてその祭祀に当たった。ただし、城下として繁栄を誇った鉢形町は、廃城と共に衰微し、江戸時代には木持出・白岩・内宿・天粕・関山・立原の六か村に分かれ、木持村は氷川神社(現稲乃比売神社)を、立原村は諏訪神社を鎮守として祀るようになった。
『風土記稿』に「八幡社 当村(白岩村)及内宿・天粕・関山四か村の鎮守なり、千手院持」とあるのは当時の状況を表したものである。
 嘉永四年(一八五一)一月三日、荒川対岸の寄居に発生した大火災は、折からの強風によって当地にまで飛び火し、民家七〇戸をはじめ地内の六か寺及び鎮守社を焼き尽くしたと記録されている。寄居町大火として知られるこの火災によって当社は再び全焼の憂き目に遭ったのである。その後、氏子は直ちに仮宮を設け、祭りを再開し、一五年後の慶応二年(一八六六)には立派な社殿が再建された。
 明治初年の神仏分離によって、別当千手寺の管理を離れた当社は、明治五年に村社になった。ところが、大正二年十二月二日にはまたもや火災によって本殿・拝殿を焼失するという事態が起こった。この時も氏子一同はすぐさま社殿再建の願いを起こし、同八年七月十二日には焼失前にも優る社殿が竣工した。これが現在の社殿であり、拝殿の屋根には、これを機に従来の草葺きに代わって瓦葺きが採用された。
 文禄年中(一五九二-九六)に千手寺の別当職に就いて以来、今日まで当社の祭祀を担ってきたのが、逸見家である。その祖先の義重は北条氏邦の侍大将を務めた武士であったが、落城に際し家臣離散の時にあって、城主が代々崇敬してきた八幡社を守るべく当地に土着し、更に孫の義貞が千手寺を復興し、その初代別当になったという。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
  社殿の奥に鎮座している石祠。詳細不明。   社殿の右側に祀られている浅間大神の石碑
       
                        境内奥に聳え立つ大杉のご神木(写真左・右)

「埼玉の神社」には、鉢形八幡神社のご神職は代々「逸見氏」であったという。この逸見氏は『新編武蔵風土記稿』や『大里郡神社誌』にも以下の記載がある。
 〇新編武蔵風土記稿 末野村条
「古は鉢形の領内なり。氏邦の家臣逸見美作守領せし処とも云ふ」
 〇新編武蔵風土記稿 下日野澤村条
「高松城址 村の東にありて、登ること凡そ十町にして、山上平垣四十間四方許、所々掘切り等今猶有せり、鉢形北条氏邦の臣、逸見若狭守の城墟なり、若狭守子孫野巻村に蟄居し、今野巻村 の各主役を勤む」
 〇新編武蔵風土記稿 野巻村条
「四郎兵衛氏は逸見を称す、先祖は蔵人佐と號し、北條氏邦に属したる由にて(中略)以前は甲州武田家臣にて、信玄の下知にて当郡へ来り、日野澤の内高松城に住せしが、小田原北條に属し、夫より氏邦が旗下となれるとぞ、天正十八年御討入りの時より民間に蟄し、当村の里正とはなりし由」
 〇大里郡神社誌 鉢形神社
「本山修験白石山多賀院千手寺別当職たりしが、明治元辰九月二十七日逸見式部と改名、鎮将府傳達所にて復飾願済み、最初の神主となる。
逸見氏は清和源氏甲斐逸見の庶流にして、中宗の逸見若狭守義重、武蔵国男衾郡鉢形城主安房守北条氏邦に属し、秩父郡小柱村・野巻村・深澤村、榛沢郡飯塚村・末野村、男衾郡藤田村の六ヶ村にて永七百五十貫の高を領し、侍大将を勤めたりしが、天正十八年五月本城没落、家臣離散の時、当御鎮守八幡大神は城主代々尊敬の神社なればとて、義重・白岩村に土着致し、孫逸見与八郎義貞を以て文禄年中、本山派修験千手寺廃跡を再興せしむ。
是より正統二十三代別当職相勤め、逸見式部に至り復飾して神主となる」
        
          社殿右側で、浅間大神の奥に鎮座する境内社・合祀社。
      左より「御嶽神社・三峯神社・厳島神社・姥神社・琴平神社・雷電神社」

 
     境内に鎮座する境内社・古峰神社     古峰神社の北側に鎮座する境内社・八坂神社
   参道入口付近に鎮座する境内社・天手長男神社(写真左)とその内部(同右)

 鉢形八幡神社の創建年代等は不詳であるが、文明年間(14691487)に長尾景春が修築、後に北條氏邦が居城とした鉢形城の城下町鉢形町の鎮守として再建し、崇敬が厚く祀られたという。その後天正18年(1590)に鉢形城が落城した後は、鉢形町も6ヶ村に分かれ、当社は白岩・内宿・天粕・関山の鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際し明治5年村社に列格している。
 当社の歴史は戦火や大火等による消失の連続だった。北條氏邦が居城とした鉢形城の城下町鉢形町の鎮守として祀られたが、天正18(1590)鉢形城落城の際には兵火にかかって消失、その後氏子の力によって再建された。また嘉永4(1851)には寄居町の大火でも類焼したが、慶応2(1866)拝殿を再建。しかし大正2年またも火災により拝殿を焼失。この時も氏子一同はすぐさま社殿再建の願いを起こし、同8712日には焼失前にも優る社殿が竣工した。これが現在の社殿であり、拝殿の屋根には、これを機に従来の草葺きに代わって瓦葺きが採用されたという。

 このように何度も社殿の消失に遭いながら、当地の氏子の方々はこの社を見捨てず、その都度再建した。決して楽ではなかったろうし、現実的にも莫大な資金も必要だった事であろう。当地の方々の熱意や崇敬の念があったからこそ、この社は守られてきた。現在でも境内も定期的に手入れも行っているのであろう。筆者としても、社と当地の人々の関係を深く知る良い機会となった参拝であった。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「大里郡神社誌」「埼玉の神社」「境内神社沿革碑文」等
                   

拍手[1回]


露梨子春日神社


        
             
・所在地 埼玉県大里郡寄居町露梨子160
             
・ご祭神 天児屋根命
             
・社 格 旧村社
             
・例 祭 祈年祭 328日 例祭 1022日 新嘗祭 1218
      地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.113096,139.2168037,17z?hl=ja&entry=ttu
 露梨子春日神社が鎮座する「露梨子」地域。「露梨子」と書いて「つゆなし」と読む。書沢川沿いの車が1台通るのがやっとの小道を進んだ最終地点にひっそりと鎮まっている。
『大里郡神社誌』においてこの社が紹介されているが、「当初より此の地に鎮座し社地も従前の形を保ちて變(かわ)らず」と記載され、創建当時からこの地にあったことが伺われる。
 集落から離れているためか、日中でも人影は全くなく、森林に覆われているため心細くなるくらいの第一印象。但しそのうちに、ふと耳を澄ますと、清流の音と鳥の声や木々の葉音が、静けさの中に心地よく響き渡ってくる。新緑の時期でもあり、青々とした生命力が溢れ、樹木に覆われているためか、体感温度が23℃低く感じる。
        
                                 露梨子春日神社 正面
 正直この社に到着させるのに実のところ2回失敗している。ナビで住所検索しても全くヒットしない。近隣の住所にも全く反応なし。露梨子地域が決して長閑な田畑地域だけではなく、国道254号線沿い、及びその周辺は宅地化も進んでおり、決して検索も難しくはないと高をくくっていたのが間違い。社は露梨子地域北側に鎮座しているが、国道254号線北側の宅地化された場所は意外と細かい道で、またこの辺りは荒川の河岸段丘が支流の深い谷で削られているので、土地のアップ・ダウンもあり、回り込むのがえらく大変である。
             
                
露梨子春日神社 社号標柱

 また社の北側で小園地区に鎮座している壱岐天手長男神社からも東武東上線を挟んで南西方向で250m程しか離れていない場所であるのも関わらず、そこから社に到着する簡単なルートがない。
 結局南側の国道254号からチャレンジする道順か、保田原波羅伊門神社の南側を東西に通っている道路からグルっと南側、その後北東方向へ進路をとる道しかなく、安全を期して、国道254号線から北上するルートでチャレンジする。
        
                                     石製の鳥居

 国道140号バイパスから寄居・長瀞方面に進み、「玉淀大橋(北)」交差点を左折し国道254号線に合流するところまでは、「鉢形白山神社」と同じであるが、荒川を南下してそのまま暫く道なりに進む。
 国道の進路が南方向から東方向にカーブし、「玉淀観光バス」の看板が見えた次の
T字路を左折。その後2番目のT字路を右折して暫く民家が並ぶ道を北上するが、すぐに周囲は田畑風景が広がる地帯となる。240m程進むとY字路となるので、道幅の狭い右斜め方向に進路をとる。この車両1台がやっと通るくらいの道幅が狭い道路で、途中からは深い森林が道周囲を覆い始め、心細い気持ちを抑えながら進むと、その小道の最終地点に露梨子春日神社はひっそりと佇んでいる。
       
         鳥居のすぐ先には紙垂が巻かれている杉の御神木がある。
              見たところ樹齢はまだ若そうである。
         
 拝殿手前には1対お決まりの狛犬が設置されているが、よく見ると参拝客に対して正面を向いている格好となっていて、珍しい配置である。加えて拝殿は参道に対して左側に少しずれて鎮座している。拝殿の左側には切り立った崖となっていて、書沢川が拝殿の向きに沿って流れているようだ。『大里郡神社誌』ではこの社は創建当初からこの地にあり、社殿の配置も変わっていないようなので、河川に関連した社の可能性もある。そのことは「埼玉の神社」春日神社の項にも同様の記載がされている。
        
                                     拝 殿
        拝殿正面には青々とした樹木があり、その下から苦しい体勢で撮影

 春日神社 寄居町露梨子一六〇(露梨子字滝之原)
 書沢川沿いの桑畑の中の小道を進むと、こんもりとした森に至る。この奥を入った所に当社はひっそりと鎮まっている。氏子の集落から離れているためか、日中でも人影はなく、眼下を流れる清流の音だけが静けさの中に響き渡る。
 当社の創建は、社家である相馬家の伝えによれば、明暦元年(一六五五)十二月十日のことでありた。この年、一帯に悪病が流行し、更に数年来の天災続きで村は疲弊していた。一計を案じた神職相馬筑後守宗次は春日神社をこの地に鎮祭し、村民と共に祈願したところ、たちまちにして悪病が治り、天災もやんだ。以来、村人は厚く当社を崇敬しているという。
『風土記稿』は「春日社村の鎮守にて、折原村神主相馬播磨持」と載せている。明治九年五月に村社となり、同四十四年十月には地内の字宮前から村社白山神社を合祀した。
 相馬家は、天長元年(八二四)から神主を務めると伝える旧家である。相馬筑後守宗次は明暦元年八月十日に同家で初めて神紙管領から「折原村聖天之祠官」として神道裁許状を受けている。
境内に祀る不動尊にちなみ、書沢川にある小さな滝を「不動の滝」と呼ぶ。あるいは、不動尊は当社創建以前から祀るものであろうか。
                                   「埼玉の神社」より引用

「埼玉の神社」による露梨子春日神社の由来の中で、創建に「神職相馬家」が関わっているとの記載がある。この「相馬家」は、露梨子春日神社のみならず、近隣の社の神職や社掌となっており、同じ系統一族の名も存在する。
大里郡神社誌』
折原村佐太彦神社(旧聖天社)は、人皇五十三代淳和天皇の御宇、長慶元年、相馬清太郎宗満祠官となりて当社を鎮祭す。この相馬氏は木持村神職家と同人なりて、現社掌は相馬二郎なり。
・男衾郡木持村稲乃比売神社(旧氷川社)は、人皇五十三代淳和天皇の御宇天長年間に至り相馬氏祠官となりて之を奉仕せり(中略)
・当神職の員数及職名並に許状下腑年月左の如し
 天長元年甲辰六月廿十八日 相馬清太郎宗満
 明暦元乙未年八月十日   相馬筑後守宗次
 宝永二年乙酉三月十五日  相馬筑後守宗隆
 宝暦十一年四月九日    相馬筑後守吉秋
 延享四年二月十一日    相馬筑後守隆久
 明和四年二月九日     相馬大和守隆継
 寛永五年六月八日     相馬和泉守尊明
 
寛政十年二月十九日    同人
 文化十年八月七日     相馬播磨守知祇
 文政六年二月十一日    同人
 天保九年七月六日     相馬伊豫正知豫
 天保十三年一月十六日   同人
 文久二年二月四日     相馬仲平明祇
 明治八年七月十七日    相馬金吾
 明治四十一年五月十四日  相馬次郎
『新編武蔵風土記稿 折原村条』
聖天社 村の鎮守とす、神主吉田家配下、相馬播磨持、
諏訪社 相馬播磨持、

 淳和天皇(じゅんなてんのう)は、日本の第53代とされる天皇(在位823年~833年〉である。天皇在位時、用いられた歴号は「弘仁」「天長」。それに対して長慶元年は中国・唐代穆宗の治世で使用された元号で、821年~824年とされる。『大里郡神社誌』は何を元本にしてわざわざ唐国の歴号を用いたのであろうか。
        
 
      拝殿・向拝部や木鼻部に施されている彫刻の数々(写真上段及び下段左・右)
 
   社殿の左側に鎮座する境内社・天神社      社殿の左側奥に祀られている神興庫と八坂神社
 
  社殿の右側奥に鎮座する境内社・稲荷神社   稲荷神社の近隣に並んで祀られている石祠群
        
           稲荷神社や石祠群の前方に祀られている不動尊

「埼玉の神社」春日神社の由緒にも「境内に祀る不動尊にちなみ、書沢川にある小さな滝を「不動の滝」と呼ぶ。あるいは、不動尊は当社創建以前から祀るものであろうか」と記載され、春日神社創建前からこの地に祀られていたかもしれない可能性を示唆している。修験道に関わりのある祠であろうか。

 不動尊とは不動明王の尊称で、明王とは密教系の仏神で、悪魔を撃退する「仏の知恵(真言)を身につけた偉大な人」という意味である。
 明王の中でも中心的役割を担う5名の明王の中の中心となっているのが不動明王であり、「お不動さん」の名で親しまれ、大日如来の化身とも言われる不動明王は、天台宗、禅宗、日蓮宗等の日本仏教の諸派および修験道で幅広く信仰されていて、真言宗では大日如来の脇侍として、天台宗では在家の本尊として置かれる事もある。
 
                社の東側を流れる書沢川。
 この社は数百m程しか離れていないにも関わらず、民家から隔絶された場所に鎮座し、この社周辺のみ孤立しているように見える。

 一方、古来より日本人は山岳を神が宿る場所、 あるいは神そのものとして崇拝してきた。奈良時代になると修験道の祖と称される役行者のように山岳に籠もって修行し、験力を得た異能の人物も現れてくる。ことに平安時代になると、密教の験者たちは競って山岳で修行し、密教の修法に神道や道教の要素も取り入れた修験道の教義をもとに独自の峰入りの作法や呪法を編み出した。彼らは山に伏して修行するところから山伏とも呼ばれた。
 修験者たちが特に多く集まったのは、 紀伊の熊野と大和の金峰山である。熊野を拠点とする修験者たちは、天台寺門宗に属する三井寺派の僧たちであった。ことに三井寺長吏で聖護院門跡を開いた増誉(一〇三二~一一一六年) が、白河上皇の熊野参詣の先達をつとめ最初の熊野三山検校に任じられて以降は、三井寺派の山伏は本山派と呼ばれる修験道の一大集団へと成長する。
修験道の基本的な考え方は、修行する山岳を曼荼羅(金剛界・胎蔵界)そのものと捉え、その中心に不動明王が住む聖地があり、その霊力を体得しようとすることにある。もともと不動という言葉は動かない大山をさし、不動明王は山の守護神として修験者の本尊としてふさわしい存在であった。したがって修行に用いる法具(山伏十二道具)も、本尊不動明王の姿と金剛界・胎蔵界の両曼荼羅を象徴している。歌舞伎『勧進帳』の山伏問答で、弁慶が 「それ修験の法といえば胎蔵・金剛の両部を旨とし、峰山悪所を踏み開き…」 と弁じ、「して、山伏のいでたちは」 という富樫の問いに「すなわち、その身を不動明王の尊容にかたどるなり」 と答えて道具の説明をするくだりはあまりにも有名である。
 江戸時代になると、修験者あるいは山伏は、山岳修行者としてよりも、民間の御祈祷師として、そういう意味での「行者」として人々の目に映ることが多くなった。彼らは不動明王の像をおいた堂をもって、農村に定着し、人々の病気をなおしたり、憑(つ)きものを落したり、吉凶禍福の判断のため、予言のため頼りにするほか、何か失物(うせもの)があったときにも、占ってもらうような相手として、民衆生活に密接なつながりをもっていて、村人にとっては、村の医者であり、また、村のいざこざを調停する判事であったりした。
        
                    境内の様子

 ところで修験道の開祖には、大和葛城(かつらぎ)山にいて、優れた呪術師と知られた役小角を、役行者(えんのぎょうしゃ)としていただき、真言宗系の験者(げんざ)は、醍醐(だいご)寺の聖宝(しょうぼう)を中興の祖と尊んだ。その根本道場は、吉野・大峯(おおみね)・熊野の連峯が第一に考えられ、山伏は大峯入りを何回重ねたか、その度数の多いのが上層にランクされた。しかし、日本列島の山岳には全国到るところ修験の霊場が開かれた。中部では越中立山・白山・戸隠、関東では伊豆箱根・日光補陀落(ふだらく)山、東北では出羽三山が特に重要視された。

 武蔵国における修験霊山・霊場は以下の場所である。
 ①都幾山慈光寺 
 ②越生山本坊 
 ③笹井観音堂(梅之坊)
 ④武甲山 
 ⑤三峯山 
 ⑥両神山 
 ⑦武州御嶽山
 上記の内越生山本坊は、越生町の黒山三瀧(男滝・女滝・天狗滝)及び熊野神社、本山派修験の道場であり、入間・比企・秩父三郡、常陸・越後(一部)の年行事職大先達であった。熊野神社は古くは将門宮と称し、平将門の後裔との伝承が残る栄円(箱根山別当相馬掃部介時良)により、関東の熊野霊場として応永五年(1398)に修験道場(越生山本坊)を開いたと伝えられていて、京都聖護院配下の本山派修験二十七先達の一つに数えられている。

 この山本坊栄円は「相馬掃部介時良」が本名であり、露梨子春日神社や折原佐太彦神社稲乃比売神社の神職と同姓である。何か関連性はあるのだろうか。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「大里郡神社誌」「埼玉の神社」「Wikipedia」等

拍手[1回]


鉢形白山神社


        
            ・所在地 埼玉県大里郡寄居町鉢形468
            ・ご祭神 菊理媛命 伊弉諾損 伊弉冉尊
            ・社 格 旧村社
            ・例 祭 祈年祭 43日 例祭 1017日 新嘗祭 1123

 国道140号バイパス(彩甲斐街道)を寄居・長瀞方向に進み、玉淀大橋(北)交差点を左折する。玉淀大橋を南下し、荒川を越える。この橋の左方向で荒川下流域は「かわせみ河原」と呼ばれ、土日・祝日は勿論、平日でも暖かい季節ともなれば、水遊びやバーベキューを楽しむ人々で賑わっている。
 その後荒川を越えた最初の信号のある交差点を右折し、450m程直進すると「立ケ瀬集会所」に到着し、その隣に鉢形白山神社は鎮座している。立ケ瀬集会所の駐車スペースを利用して参拝を開始した。
        
              立ケ瀬集会所に隣接して鎮座する鉢形白山神社

 鉢形白山神社は荒川右岸の絶壁近くにある字立ケ瀬に鎮座している。同じく荒川右岸の絶壁上にある鉢形城は南西方向にあり、北東へ向かって流れて来た荒川はこの立ケ瀬地域で直角に曲がり東へ向かって流れ出す。その為か荒川左岸に比べて右岸には堆積作用で形成された立ケ瀬河原が存在している。
        
                             参道の先に拝殿が見える。
『大里郡神社誌』
「傳へ言ふ人皇九十八代後亀山天皇の御宇元中年間の勧請永禄年中鉢形城主北条氏邦同城鬼門除の祠として再建せりと明治二十五年三月三日類焼同年九月十五日現今の本社を再建す」

『新編武蔵風土記稿 男衾郡關山村条』
「關山村は白岩村の東南に續けり、家數十六軒御打入の後より御料所に屬し、延享年中まで猶かはらざりしに、其後逸見出羽守の加恩の地に賜はり、今子孫英介の知る所なり、検地は前村に異ならず
 小字 立ヶ瀬、中久保、庚申塚、五枚畠、猫岩、原、大塚、猿楽場」

       
         拝殿の手前で左側には御神木である椋の木が聳えている。
        
                     拝 殿

 鉢形白山神社の創建年代等は不詳であるが、元中年間(1384-1392)の勧請と伝えられ、太田道灌も当社を参拝、駒つなぎの桜と椋を植樹、椋の木は現存し、当社御神木となっている。その後鉢形城主北条氏邦は永禄年間(1558-1570)鉢形城を修築、城の表鬼門鎮守として社殿を再建したという。
        
              拝殿の左側には南北に走る道路があり、そこには石碑が並んでいる。

 奥宮再建記念碑
 白山神社祭神 菊理媛命 伊弉諾損 伊弉冉尊
 古書によればこの白山神社は人皇九十八代後亀山天皇の御宇元中年間の勧請永禄年中(四百拾年前)鉢形城主北条氏邦が同城鬼門除の祠として再建せるものであり偶々明治二十五年三月三日類焼同年九月十五日現在の社殿に改築せりという
 尚奥宮については永禄年間のものでその普及甚だしく更に類焼による損傷等これを看過するに偲びずこの度氏子等相謀り造営となる。
 茲にこの経緯を記録し長く後世に傳えんとす。
                                     記念碑文より引用
 
 社殿の右側には数々の石製の記念碑がある。    記念碑の隣には3基の石祠が鎮座する。

「大里郡神社誌」には境内社として
手長男神社・八坂神社・天神社が紹介され、それらは石祠であることも記されている。但し手長男神社(社殿 間口一尺一寸、奥行一尺九寸)、八坂神社(社殿 間口一尺六寸、奥行一尺六寸)、天神社(社殿 間口一尺七寸、奥行二尺一寸)と、大きさ的にみると、真ん中が天神社で、左右にそれぞれ八坂神社、手長男神社となるのであろうか。
        
                      3基の石祠の奥に鎮座する境内社。詳細は不明。

 白山神社 寄居町鉢形四六一(鉢形字立ヶ瀬)
 当社は、荒川右岸の絶壁近くにある字立ケ瀬に鎮座している。立ケ瀬の地名は、荒川の川瀬に切り立つ地を示すもので、南西部には自然の要害を利用して築いた鉢形城の城跡がある。
 創建は社伝によると、第九九代の後亀山天皇の代、元中年間(一三八四-九二)である。祭神は、菊理媛命・伊弉諾命・伊弉冉命の三柱である。本地仏は、白山妙理大権現の化身である観音菩薩で、この像は現在も本殿に奉安されている。
 文明年間(一四六九-八七)太田道灌は鉢形城へ訪れる道すがら当社に参拝し、武運長久を祈願している。また、この折、境内に駒つなぎの桜と椋の二本の樹木を植えている。桜の木は、当社の春祭りのころ、毎年見事な花をつけ、境内で酒宴を開く氏子を和ませたが、残念ながら明治初期に枯れている。椋の木は現在も残り、神木として大切にされている。
 永禄年中(一五五八-七〇)北条氏邦は、鉢形城を自然の要害を利用しながら修築拡張し、北武蔵の要として備えを固めた。この時、当社は、城の表鬼門に当たることから重要視され、神の加護を得んとして社殿を再建している。
 江戸期は、関山村の小名立が瀬の鎮守として村人に信仰され、更に明治五年に村社となった。
                                  「埼玉の神社」より引用


参考資料「新編武蔵風土記稿」「大里郡神社誌」「埼玉の神社」等
        

拍手[2回]


皆谷朝日根八幡神社


        
             
・所在地 埼玉県秩父郡東秩父村皆谷1311
             
・ご祭神 品陀和気命(応神天皇)
             
・社 格 旧村社
             
・例 祭 元旦祭 元旦 祈年祭3月中旬の日曜日 例大祭 113
                  
新嘗祭 11月下旬の日曜日
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0369711,139.1618011,15z?hl=ja&entry=ttu
 東秩父村の埼玉県道11号熊谷小川秩父線沿いに鎮座する皆谷天児安神社を更に450m程南下し、「朝日根方面」「ヤマメの里公園駐車場」の看板が見えるT字路を右折する。くねくねと曲がった山道が暫く続き、途中何本も脇道もあるが、我慢して山道を3㎞程進む。車を走らせながら森林に囲まれた薄暗い山道を進んだかと思うと、急に辺りは明るくなり、民家というか集落も所々に点在していて、陽光が燦々と降り注ぐ山の斜面には広々とした段々畑もあり、晴天という天候も相まって、そこには綺麗な山なみの景観を楽しむことができる。
「斜面集落」は、空が大きく開けていて天気が良い日であれば青い空を充分満喫できる。遠くの山もすぐ近くに感じられ、畑と家々が造る里山の風景はまた格別である。

 一方このような奥深い外秩父の冬、何の遮蔽物もない場所で風の強い日はどの位つらいだろうか、雪はどの位積もるのだろうか、と当地に生活する方々の日々の生活に思いを馳せてしまったことも事実である。

 そのような事を考えつつ、森林に囲まれた薄暗い山道が急に開け、集落地の里風景が広がった右カーブにかかる手前正面方向に、周囲の山なみに茂る木々とは明らかに違う皆谷朝日根八幡神社の社叢林が見えてくる。
        
                             皆谷朝日根八幡神社の社叢林
     日影となっているが社叢林中央下部の間からは木製の鳥居や社号標柱が見える。
        
                              皆谷朝日根八幡神社 一の鳥居
『新編武蔵風土記稿 皆谷村条
 八幡社
 小名牧野にあり、本山修驗、明王院配下、金龍房持除地七畝、社頭老杉茂生す、神體白幣、本地彌陀木の立像、文和二年の勸請にて、村の總鎭守とす、例祭八月十五日又は九月十五日、當村明王院當時支配せり
 雷電社 稻荷社 天王神 天神社 以上の小社みな本社の左右にあり
 精進屋 村民等潔齋の時こヽに炊食す
 古碑四基 一は文和四年正月、一は同年七月、一は延文六年八月、一は明應のもの年月不明なり
 
 一の鳥居からは参道が伸びている(写真左)が、鳥居の先にある杉の巨木が両脇に聳え立ち、参道にまで根を張っている状態で、所々幅が短くなっている(同右)。樹勢も良いようで、幹から伸びる枝や葉も勢いよいようだ。
 実は県道から山道に入る手前にある商店に立ち寄り、ジュース等商品を購入した際に、そこの商店のお婆さんからこの社に関して色々と有益な話を聞いたのだが、お婆さんから最初に聞いた話はこの大杉であった。やはり地域に住む方の生きた情報はありがたいものだ、と改めて感じた。
       
            鳥居に対して右側に聳え立つ大杉(写真左・右)
       
    右側の大杉は参道内部から撮影することができず、一旦外に回って撮影(写真左・右)
        
 大杉等多くの巨木に囲まれた参道を通ると石段が見え、その石段が終了するその先には石製の二の鳥居が現れる。石段から鳥居方向を撮影する際に、その先に見える拝殿の様子もアングルとして納められ、その遠近感の妙と、樹木の囲まれた参道から、陽光を浴びた拝殿との光のコントラストが素晴らしく美しく、思わずシャッターを切ってしまった。
        
                                  境内の様子
 皆谷(かいや)地域は東秩父村西部に位置する。北で坂本、東で御堂、南で白石、西で皆野町三沢と隣接する。槻川上流域の山間部にあたる。小字として皆谷・新田・山口・森ノ脇・大切・朝日根・小安戸・八重蔵・湯ノ木が挙げられる。大霧山東側の緩傾斜面に沿って民家が散在する山村。東部を北流する槻川に沿って県道11号線が南北に縦貫する。大霧山を中心として南北に縦走する尾根は村界であると同時にハイキングコースとしても整備されている。皆谷の榊は高さ約10 m、幹回り2 m弱の巨木であり、県天然記念物に指定されている。
 地名の由来として、「南方に聳える笠山
(837m)をはじめとする高い山々に四方を囲まれているため、日の短い冬などは太陽が高くならないと中々村に光が差し込まない谷間の地形の意」に由来するという。

『新編武蔵風土記稿』においてもこの地域名に関して、以下の記載がある。
「中にも笠山と云るは南に聳(そびえる)て最も高く、北陰の地形なれば、冬日の短きに至りては、曜靈の照らす所も午天にあらざれば遍からず、かゝる山谷の村居なれば、村名の起り推てしるべし」
        
                                   拝 殿
        
                           拝殿の手前で右側にある案内板
 八幡神社  御由緒 東秩父村皆谷一三一一
 ◇例大祭には「朝日根の獅子舞」が奉納される
 当社の鎮座する皆谷は、南方に聳える笠山(八三七㍍)をはじめとする高い山々に四方を囲まれているため、日の短い冬などは太陽が高くならないと中々村に光が差し込まない。皆谷と云う村名は、このような地形から名付けられたものであろう。 口碑によると、当社は初め、「マキノウチ」と呼ばれる家の氏神であったが、後に村の鎮守になったと伝えられる。マキノウチとは「巻の家」の意味で、ほかの土地から巻物と八幡様の神像を携えて当地に移住したとの伝えから、このような屋号で呼ばれるようになったと云う。 『新編武蔵風土記稿』には、「小名牧野内にあり、本山修験、明王院配下、金竜房持、除地七畝、社頭老杉茂生す、神体白幣、本地弥陀木の立像、文和二年(一三五三)の勧請にて、村の総鎮守とす、例祭八月十五日又は九月十五日、当村明王院当時支配せり」と載せる。 明治三年(一八七〇)に村社となり、現在も本殿(平成十三年村指定有形文化財彫刻)には白幣を祀り、十一面観音像を安置している。 例大祭当日には、十二庭からなる「朝日根の獅子舞」(昭和五十六年村指定無形民俗文化財) が奉納される。
                                      案内板より引用
 
     拝殿に施された数々の彫刻               本 殿
                                                失礼ながら本殿内部を撮影
 この社の本殿には、海老紅梁や彫刻等見事に施されている。一間流社造で、正面には屋根が張り出した向拝を設けている。彩色されていたかは判別できないが、各所に施された装飾彫刻から放たれる雰囲気が際立ち、実際の規模以上の風格をも感じた。
 それ以上に本殿の基礎に石を幾重にも積み上げたている点も注目される。目視のみなので何とも言えないが、写真を見た限り、傍に流れている川の石や近隣の山で採取され、更に加工を施した岩石も使用されたのではなかろうか
 案内板には本殿は平成十三年村指定有形文化財彫刻として登録されているらしい。
             
     拝殿の手前左側で、案内板と対に設置されている「朝日根の獅子舞」の標柱

 朝日根の獅子舞
 村指定無形民俗文化財 無形民俗文化財 昭和561220日指定
 文政3年(1820)頃、当地区に悪病が流行して多数の人々が困窮した時、藤造という人が、地区の氏神八幡神社に病気平癒を祈願し、獅子舞を奉納することを約したことに始まると伝えられています。
 獅子舞の流儀は「鎌形流ささら」といわれ、「朝日根のあばれ獅子」と称される荒い舞い方をします。
 獅子は大頭・中獅子・雌獅子3頭で、ささら2名、笛型を加えて構成され、舞は12底です。毎年11月上旬の日曜日に奉納されます。
                                    東秩父村HP
より引用
  
   社殿の左手に鎮座する境内社・合祀社      境内の奥手には今の季節水量は多くないが、
         詳細不明          砂防工事も施され、その一角には石祠もある。
        
 境内から隣接している社務所に向かう道の途中には、小川からくみ上げられたような綺麗な水が流れている。水質の関係から飲むことはしなかったが、見た目でも飲んでも安全と分かるようだった。透き通ったきれいな水に少なからず感動し、思わず両手でくみ上げる。不思議なもので、自身の五感でその水の綺麗さを感じることができ、冷たさを感じ、参拝の疲れを一時癒すことができた。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「東秩父村HP」「Wikipedia」「当地案内板」等

拍手[1回]


奥澤神社


        
             
・所在地 埼玉県秩父郡東秩父村奥沢568
             ・ご祭神 伊弉冉尊 速玉之男神 事解之男神 素戔嗚尊(合祀神)
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 元旦祭 13 祈年祭 211 春祭 4月第2日曜日
                  夏祭 7月下旬の日曜日 例大祭 1017
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0612515,139.1925263,16z?hl=ja&entry=ttu 
 御堂八幡山神社から埼玉県道11号熊谷小川秩父線を西方向に1.8㎞程西方向に進む。その後東秩父村役場入口手前のY字路を右手前方向に進み、最初のT字路を左折すると、奥澤神社の鳥居が正面に見えてくる。T字路の左側には社号標柱があるので、分かりやすい場所だ。
 但し、周辺には駐車スペースはないようなので、一旦東秩父村役場に戻ってそこの駐車場をお借りしてから参拝を開始する。
             
              T字路の正面に設置されている社号標柱
 周辺には民家が並び、時に農作業の為であろうか、現地の方々とすれ違う程度で、社に参拝する方には全く出会わなかった。
 
 槻川流域に民家が集中し、大部分は山林が占める東秩父村の地形。この社も近隣の御堂八幡山神社安戸天神社安戸能気神社等同じく、山の中腹に鎮座している(写真左・右)。
        
                                  奥澤神社 正面鳥居
 東秩父村の奥沢地域は村北東部に位置し、北で大里郡寄居町西ノ入、比企郡小川町木呂子・勝呂と、東で安戸と、南で御堂と、西で坂本と接する。この地域の大部分は山林が占め、南端を東流する槻川北岸に僅かな水田がみられる山村であり、集落は槻川と並行して走る県道11号線沿いの低位段丘に散在する。
『新編武蔵風土記稿』には「地名の起こり山沢多きが中にも、沢の奧と云義なるべし」と紹介されている。また同風土記稿には当地の神社を挙げて「熊野社除地一段一畝、村中の鎮守、例祭九月十九日、社は巽向、神体は白幣、別当大行院東林山と号す、本山修験(中略)妙見社 村持、椎の大木あり、囲一丈八尺許、天王社 村持」と載せていて、嘗ては熊野神社と称していた。
        
                          鳥居の右側に設置されている案内板
 奥沢神社   御由緒 東秩父村奥沢五六八
 ◇獅子舞を回した天王祭り
 鎮座地奧沢は大部分を山林が占め、村の中央を通る熊谷から小川を経て秩父を結ぶ道路に沿って集落が散在する山村地域であり『新編武蔵風土記稿』に「地名の起こり山沢多きが中にも、沢の奧と云義なるべし」と紹介されている。同じく『新編武蔵風土記稿』は当地の神社を挙げて「熊野社除地一段一畝、村中の鎮守、例祭九月十九日、社は巽向、神体は白幣、別当大行院東林山と号す、本山修験(中略)妙見社 村持、椎の大木あり、囲一丈八尺許、天王社 村持」と載せている。
 社記に当社は「天正六年(一五七八)九月紀伊国熊野三社権現を勧請して字腰村中山に奉祀し熊野社とよび鎮守とする。明治七年(一八七四)村社となり社号を熊野神社と改める。同四十二年(一九〇九)二月に現在地に移転して、字半場東山の八坂神社を合祀、大字名を冠し奥沢神社と改称」とあり、社記を裏付ける「奉修熊野三社大権現天正六年(一五七八)九月十九日別当東林山大行院」銘の棟札(五十二cm)陣に納められている。
 現社地は、『新編武蔵風土記稿』にある「妙見社」の社地で、現在境東に隣接する妙見神社は天之御中主神を祀っている。
 尚、合祀した八坂神社には「奉造立牛頭天王御氏子繁昌息災祈 所・妙栄山浄蓮寺」と記す元禄十年(一六九七)の棟札(七十四cm)が現存する。(以下略)
                                      案内板より引用

        
            比較的勾配のある石段を登ると境内に到着する。
        
                                    拝 殿
 山の中腹に鎮座する社には、やはり独特の空気感が存在する。社叢林の囲まれているため、心寂しくなる時もある。また一歩〃石段を登りながらも、当初は見えてこない境内・社殿に焦りや疲れ等の心身的な疲労も溜まることも度々ある。但し一度境内に到着するとその達成感からか、それまでの疲労等が吹き飛んでしまうから不思議だ
 同時に境内の静寂な空間が辺りを包みこみ、ひっそりと佇みながらも、どことなく歴史の重みを感じさせてくれる。これは平野部に鎮座する社にうける印象とはまた別の感覚であろう。
 
      拝殿に掲げてある扁額      社殿の奥にひっそりの鎮座する石祠。詳細不明
        
      奥澤神社の境内から少し外れで少し下った場所に「妙見社」が鎮座する。
案内板に記されているが、『新編武蔵風土記稿』にある「妙見社」の社地で、現在境東に隣接する妙見神社は天之御中主神を祀っているとの事だ。
       
                        妙見社の傍に聳え立つ巨木(写真左・右)
        
                                石段での一風景


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「Wikipedia」「南内板」等
                  

拍手[2回]