古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

除堀久伊豆神社

 久喜市除堀地域。この「除堀」という地名は「よけぼり」と読むのだが、いかにも地形が関連する難解地名であろう。『埼玉の神社』による解説によれば、「当地は、かつての荒川の乱流に削られて残った小さな台地上にあり、除堀の地名は、当社の二百㍍ほど東側で、この台地を東西に分断している江川が、水害除けのために開削されたことによると考えられる」との事だ。
        
                         ・所在地 埼玉県久喜市除堀474
                         ・ご祭神 大己貴命(推定)
                         ・社 格 旧除堀村鎮守 旧村社
                         ・例祭等 元旦祭 祈年祭 45日 例祭 419
                              塞神祭 51日 大祓 71日 秋祭 1019
 菖蒲町台久伊豆神社から一旦南下して旧国道122号線を南東方向に400m程進んだ三叉路を左折、その後、国道122号線との交点である「台九宮」交差点を直進する。埼玉県道78号春日部菖蒲線に合流後東行すること450m程で、進行方向左手に除堀久伊豆神社の鳥居が見えてくる。但し県道沿いからは少し離れた場所に鳥居はあり、注視しなければそのまま通り過ぎてしまうので、その点は気をつけなければならない。
        
                 除堀久伊豆神社鳥居
『日本歴史地名大系』 「除堀村」の解説
 東は笠原沼用水を境に原村、北は庄兵衛堀川を挟んで河原井沼新田、南は星川を境に下大崎村(現白岡町)。騎西領に所属(風土記稿)。寛永一一年(一六三四)の年貢割付状(茂木家文書)によると、田方二一町三反余・畑方五四町三反余、屋敷一町五反余(以上新田分も含む)、幕府領。同一六年川越藩領になり(同年「年貢割付状」同文書など)、田園簿によると田高一五六石余・畑高三九九石余。
        
       鳥居の右側手前には庚申塔が建ち、それに対してその向かい側には
             「諏訪神社・久伊豆神社・七社神社」と刻印された社号碑がある。

 当地では、明治六年に当社を村社とし、字江川東にある諏訪神社と字小中瀬の七社神社は無格社となった。更に同四十年八月には、政府の合祀政策に伴い、無格社の二社は当社に合祀された。ところが、合祀後、村内に病人や災いが相次いだため、占いをしたところ諏訪神社の合祀が原因とされたことから、昭和十年、畑となっていた元地に社殿を建て、改めて諏訪神社を祀ったので災いも治まったという話がいい伝えられている。
        
          鳥居から一般道を北上すると、社の境内が見えてくる。
                社殿の右側に見える綺麗な建物は社務所
        
          境内に設置されている「
除堀の獅子舞」の案内板
 除掘の獅子舞は、3頭の獅子が笛の音色にあわせて、お腹に付けた太鼓を鳴らしながら舞う。一般的に「ささら」と呼ばれ、毎年419日に近い日曜日(平成24年は422日)に行われる。平成20年までは、毎年419日に行われ、花宿(はなやど・当番の家)で式典を行い、村回りをしていたが、久伊豆神社の社務所の改築に伴い、平成21年からは神社で式典を行い、村回りをするようになった。
 舞を行うのは、穀物が豊かに実り、流行り病が退散し、災いを消し去ることなどを願うためである。当日は、久伊豆神社を出発し、稲荷神社・七社大権現・不動寺・諏訪神社・久伊豆神社の順で舞を行いながら村を回る。獅子は朋冠・大獅子・雌獅子の3頭で、そのほか笛方・天狗・道化等の役割があり、この獅子舞には、笹がかり・梯子がかり・花がかり・綱がかりの4種類の舞がある。
 除堀の獅子舞の起源は、約400年前に村の西の方にある池に雌獅子が1頭浮かびあがり、村人が救いあげて医王院に安置し、その年の雨乞い祈願に獅子頭をかぶり、太鼓と笛の音に乗って舞ったのが始まりと伝えられている。
 除堀の獅子舞は、昭和51年3月26日久喜市指定無形民俗文化財に指定されている。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 除堀村』
 久伊豆社 村の鎭守なり、護寶院持、〇諏訪社 これも鎭守なり、光明院の持、〇七社權現社 不動寺持、
 〇光明院 新義眞言宗、戸ヶ崎村吉祥院末、田中山と號す、大日を本尊とせり、
 〇護寶院 當山派修驗、牛重村般昌院配下、本尊不動を安ず、

 久伊豆神社  久喜市除堀四七四(除堀字江川西)
 除堀は、かつての荒川の乱流に削られて残った小さな台地上にある。
 当地には、当社近くにあった医王院(廃寺)の建治三年(一二七七)の板碑(市指定文化財)のほか、かつては鎌倉街道が通っていたと伝えられ、宿の跡を示す「宿場」、街道に架かる橋の跡を示す「鎌倉杭(ぐい)」などの地名が残ることから、当地の開発は鎌倉時代以前と思われる。
 除堀の地名は、当社の二百㍍ほど東側で、この台地を東西に分断している江川が、水害除けのために開削されたことによると考えられる。
 当社の創建について当地では、記録も伝えもないが、当地の西に隣接する菖蒲町大字台では、昔、台の村には上と下に久伊豆神社があったので、下の久伊豆神社を除堀にあげてしまったという伝承があり、そのため、久伊豆神社の境内地の分だけ除堀から台の方へ突き出た形になっているのだといわれている。『風土記稿』除堀村の項に「久伊豆社 村の鎮守なり、護宝院持、諏訪社 これも鎮守なり、光明院の持、七社権現社 不動寺持」とあり、当社のほか江川の対岸に鎮座する諏訪社も鎮守であることから、台の伝承と考え合わせると、江川の開削で村が分断され、村の西側に神社がないために、村境近くに鎮座していた当社を譲り受けて鎮守としたものと思われる。
 内陣には三体の懸仏、嘉永六年(一八五三)の再建時の幣束二体、元治元年(一八六四)に伯家より受けた勧遷状と神璽筥(しんじばこ)を奉安する。
                                    「埼玉の神社」より引用
 
    境内に祀られている稲荷神社           重厚な雰囲気の本殿

 除堀久伊豆神社のすぐ東隣に不動寺薬師堂があり、そこに久喜指定有形文化財に指定されている建治板石塔婆がある
        
                  
不動寺薬師堂
       
              
建治板石塔婆(二基)とその案内板
        
 久喜指定有形文化財  建治板石塔婆
                     指定年月日 昭和四十八年三月十六日
                     所 在 地 久喜市除堀四七一
 板石塔婆は、卒塔婆(そとば)・塔婆(とうば)と呼ばれる仏教遺物の一種で、主に死者の霊をとむらい供養するための石造(せきぞう)塔婆である。板碑・青石・板仏などと言うこともある。全国的に分布し、その形態や材質はさまざまであるが、埼玉県には特に多く、荒川上流流域に産する緑泥片岩を材料とした武蔵型板石塔婆が約二万余基確認されており、市内では約二百余基発見されている。
 この建治板石塔婆は上部下部が欠損しているが、市内に現存するものでは最大の大きさである。種子は五点具足の荘厳体の梵字で「アーンク」と発音し、胎蔵界(たいぞうかい)大日如来を象徴する。その下には蓮座があり、ともに深く豪快な薬研彫(やげんぼり)である。その下部中央には「建治参季丁丑忌辰八月八日」と紀年銘があり、その左右に「今此三界 皆是我有 其中衆生 悉是我子」と、法華経を出展とする偈(げ)が刻まれている。
 板石塔婆で最大のものは、秩父郡長瀞町野上下郷にある応安二年(1369)銘釈迦一尊種子のもので、高さ五・三五メートルである。市内では、この板石塔婆が最大で、一六七七センチである。また最古のものは、大里郡江南村須賀広の嘉禄三年(1227)銘阿弥陀三尊画像のもので、最新のものは、戸田市妙顕寺の慶長三年(1598)銘題目三尊のものである。
 市内では北1丁目遍照院の建長七年(1255)が最も古く、建治三年(1277)の本例がこれに次ぐものである。最新のものは、本町一丁目光明寺の天正八年(1580)のものである。
 この板石塔婆は、久喜市にとって優れた板石塔婆であり、貴重な資料である。大切に保存したいものである。


除堀久伊豆神社の東側には、諏訪神社及び七社神社が鎮座している。
 
   埼玉県道87号春日部菖蒲線を東行し、江面郵便局北側に鎮座する諏訪神社(写真左・右)

 
除堀地域東側に位置し、埼玉県道87号春日部菖蒲線沿いに鎮座する七社神社(写真左・右)



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「
久喜市HP」「埼玉の神社」
    「境内案内板」等   

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