古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

下須戸八坂神社


        
             
・所在地 埼玉県行田市下須戸2840
             
・ご祭神 素盞嗚尊
             
・社 格 旧下須戸村鎮守 旧村社
             
・例祭等 7月第2土日曜日
 埼玉県道128号熊谷羽生線を行田市街地、工業団地を通り過ぎた先の「下須戸」交差点を左折し、同県道364号上新郷埼玉線を900m程北上する。その後十字路を左折して500m程道なりに進むと、右側に下須戸八坂神社の鳥居が見えてくる。
        
                  下須戸八坂神社正面
 行田市中部東端に位置する下須戸地域は上星川が同市小見地域で見沼代用水と合流し、南東方向に流れるその左岸にある広大で肥沃な田園地域である。
 社の鎮座する「須戸」という地域名の語源は「洲門」であり、すなわち中洲の先端を意味するものといわれ、嘗ては利根川流域に多くあった地名であったという。
 不思議なことに下須戸近郊にはそれに対する「上須戸」は存在しない。ここから10km以上北西方向に離れた旧妻沼町に「上須戸」が存在し、この両村で対をなしているようだ。
『新編武蔵風土記稿』埼玉郡之十九 忍領
「郡中に上須戸と云村なし、ここより北の方三余里を隔てて幡羅郡上須戸村ありて、下須戸村なし、是両郡に跨て上下を唱へしものなるべし」
 言い伝えによれば、約700年前鎌倉幕府の迫害を受けた一人の僧が、牛頭天王の像を奉じて当地に住み着いたという。これが当社の旧別当真言宗天王院医王寺の開基であり、同寺の寺鎮守として牛頭天王像を祀ったことが当社の創始である。
        
                  
下須戸八坂神社境内
        
                     拝 殿
「行田の神々」23 八坂神社(下須戸)
 行田市の東側、国道125号沿いにある太田西小学校の近くに鎮座しています。
 言い伝えによれば、鎌倉幕府から追われた一人の僧が、牛頭天王像を奉じて当地に住み着きました。この僧が当地に真言宗医王寺を開き、この寺の鎮守として、牛頭天王像を祭ったのが始まりであるといわれています。
 古くは牛頭天王社と呼ばれていましたが、明治時代の神仏分離により、医王寺の管理を離れ、社名も八坂神社に改められ、主祭神も農耕の神様として信仰されているスサノオノミコトが祭られています。
 社殿のかたわらに小さな池がありますが、昔、周辺の村々に疫病が流行したとき、医王寺の僧が村人に疫病感染の原因である生水を飲むことをやめさせ、代わりにこの水を沸騰して飲むことを進めたお陰で、この村は疫病から守られたといいます。
 当社が牛頭天王社として信仰されていた江戸時代において、下須戸村は一時忍領であったこともありますが、長く幕府領でした。
 さらに、下須戸の須は、州で中州の先端を意味するといわれます。行田市の地図を見ると見ると良く分かりますが、南の荒川、北の利根川がかつて低地である行田市内を、乱流した痕跡が良く残されています。下須戸付近も乱流した川の痕跡が明らかに残る所であり、こうした地形から地名が付けられたのかも知れません。 
        
               社殿の左側には小さな池がある。
 上記「行田の神々23 八坂神社」に記されているように、昔近郊一円に疫病が流行り、医王寺の僧は感染の原因となる生水の飲用を村人にやめさせ、代わりにこの池の水を沸かして与えたところ、当地は疫病から守られたと伝わっていて、古くからの信仰の中心といわれていたのであろう。
 今ではその面影はなく、バリケードで張り巡らされているなど、寂しい状況となっているが、嘗てはこの池の水に対する信仰があり、遠くからはるばるこの水を受けに来るものが後を絶たなかったという。
        
                    本 殿  
          
                            拝殿手前左側に祀られている
                           若宮八幡社・辨才天等の石祠、石碑。
 この「辨才天」は下須戸地域の南方にある埼玉地域に鎮守する宇賀神社同様、出自不明の蛇神である「宇賀神」と同神であると考えられる。この宇賀神は、日本で中世以降信仰された神であり、神名の「宇賀」は、日本神話に登場する宇迦之御魂神(うかのみたま)に由来するものと一般的には考えられていて、その姿は、人頭蛇身で蜷局(とぐろ)を巻く形で表され、頭部も老翁や女性であったりと諸説あり一様ではない。
 元々は宇迦之御魂神などと同様に、穀霊神・福徳神として民間で信仰されていた神ではないかと推測されているが、両者には名前以外の共通性は乏しく、その出自は不明である。
 社の鎮座する場所の多くが、河川に隣接する所もあり、水との関連性が強いといわれる蛇神・龍神の化身とされることもある。
        
                    境内の一風景
 埼玉地域の宇賀神社には河川に関連した伝承である「おさき伝説」が今なお語り継がれていて、「いつのころかこの村に、おさきという娘がいた。ある時おさきが、かんざしを沼に落とし、これを拾おうとして葦で目を突いたあげく、沼にはまって死んでしまったため、村人たちは、おさきの霊を小祠に祀った」。また「おさきという娘が、ある年日照りが続き百姓が嘆くのを見て、雨を願い自ら沼に身を投じたところ、にわかに雨が降り地を潤し百姓たちはおおいに助かり、石祠を立て霊を祀った」とあり、当初は霊力の強い神霊を祀ったものが時代が下がるに従いこの地が水田地帯であるところから、農耕神としての稲荷信仰と神使のミサキ狐の信仰が習合し現在の祭神宇賀御魂神が祀られたと考えられている。

 八坂神社は、神道と仏教の融合・神仏習合の典型例といえる神社で、一説では、斉明天皇2年(656)新羅の牛頭山に鎮座していた素盞嗚尊の霊を迎えて創祀されたとされているこの神様は神仏習合の中で祇園精舎の守護神であり、疫病を鎮める仏教の神・牛頭天王と同一視され、明治の神仏分離令まで牛頭天王を称していた。こうした起こりから、八坂神社は厄難退散の性質が色濃く出ている神社でもある。
 この下須戸八坂神社は「素盞嗚尊」を祭神とした社であり、神話において描かれている「素盞嗚尊」のヤマタノオロチの大蛇退治伝説の話は、出雲の斐伊川の治水事業を象徴した話であるという解釈もある。社の鎮座する「須戸」という地域名の語源は「洲門」であり、すなわち中洲の先端を意味するものといわれ、河川に関連した地域名であることから、当時の地元住民の方々が子孫繁栄・五穀豊穣を祈り、「素盞嗚尊」をご祭神とする八坂神社を創建した一方で、弁財天を祀ったと考えることもできよう。



参考資料「
新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「行田の神々」「忍の行田の昔話」
    Wikipedia」等
 

拍手[1回]