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古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

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小被神社

 男衾郡は郡政制度における「中」郡で,比企地方ではもっとも大きく、榎津郷・雁倉郷、郡家郷・多笛郷・川原郷・幡々郷・大山郷・中村郷の8郷で、今の大里郡江南町・寄居町・川本町など荒川右岸一帯の地域と小川町・嵐山町・滑川町など比企郡の北部地域にあてはめられていた。
 *郡政制度・・・大宝令の規定では, 郡はその管轄する里の数に応じて大郡・上郡・中郡・小郡の5等級に分類されていた。
 男衾の地名は、古く奈良時代正倉院に伝わる白布(麻布)の墨書銘に『武蔵国男衾郡狩倉郷笠原里飛鳥部虫麻呂調布一端、天平六年十一月』とある。文字情報として最古の記録。約千三百年も前の正倉院宝物の中に、男衾郡という名があり、今に伝えられているといわれている。
所在地    埼玉県大里郡寄居町富田1508
主祭神    瓊瓊杵尊  (配祀)木花咲耶姫命  彦火火出見尊
社  格     旧村社  武蔵国 男衾郡鎮座 
 
      
由   緒   
 
安閑天皇の御宇創立(531年~535年) 寛文9年(1669)現地へ遷地
         元治元年(1864)3月9日宗源神宣で正一位大明神 
                   明治4年11月11日村社
               明治41年7月1日神饌幣帛料供進
例  祭        
4月14日

                
 地図リンク
  第27代安閑天皇の時に、土地の豪族富田鹿(とみたろく)が地主神である
小被神
を祀ったことにはじまるという。恐らくは男衾郡の部民を支配した壬生氏の祭祀する神社とされる。しかし壬生氏の本拠地摂津難波から持ち込んだ神ではなく、古くからの土地神を土地豪族が祭祀していたのを壬生氏が政治的に協力する立場にあったのだろう。
                 
                     社殿の南側少し離れた場所に一の鳥居はある。
 
     少し歩いていくと二の鳥居が見えてくる。           二の鳥居を超えると左側に案内板がある。
小被神社 略誌
鎮座地  埼玉県大里郡6寄居町大字富田字宮田1508番地
御祭神  主神 瓊瓊杵尊
      相殿 木花咲耶姫命
      相殿 彦火火出見尊
由  緒 
・ 富田邑は、第27代安閑天皇の朝.1470年前郡家郷富田鹿、塚越に居住せしに始り、富川鹿が郡内鎮護のため創祀せりと、伝承。
・ 延喜式内社 第60代醍醐天皇延長5年平安時代中期に編纂された有名な書物に登載されて居ると云事。本年より数えて1081年前。
・ 男衾郡総鎮守
・ 旧村社
御神徳 
・ 瓊瓊杵尊は皇祖天照大神の御孫にて豊葦原の瑞穂国を最初に治められた神、農耕殖産興業等日常生活を営む上に欠くことの出来ぬ御神徳を有する神様。
・ 相殿 木花咲耶姫命、主祭神の奥方、燃ゆる火のなかでお産をなされた故事にあやかりてお産の神様。また美麗なる神様。富士浅間神社の御祭神。
・ 相殿 彦火火出見尊、彦は男子の美称、火火は稲の穂の豊かな形容詞、主神瓊瓊杵尊の御子神様で御父神様の後を継ぎ、国土経営をなされた神様。
祭  日 
・ 1月1日       新年祭 年頭にあたり幸先を祈念し,氏子社に互礼を交す。
・ 4月第二日曜日  春祭 神社本庁より幣饌料供進、祈年祭を併せ行う。五穀豊穣諸産業隆盛氏子豊楽入学児童の安全を祈願する。
・ 10月第二日曜日  秋祭 以前の新嘗祭を併せ行う。本年中の生業の安泰を感謝する祭典。
・ 12月31日       大祓 年間思はずも積ったてあらふつみ汚を祓い消め清潔な心身にて新年を迎える神事。
                                       平成18年10月吉日   小被神社社務所
                                                      案内板より引用
                
                          小被神社 本殿見世棚造
 小被神社は寄居町大字富田と大字赤浜のちょうど境界線上に立地している。天正年間(1573~1591)北條氏邦が当地の領主であった頃、、荒川の大洪水により、赤浜村民が標高の高いこの地北に耕作地を与えられて移転してきて土地の領有権争いが起こり、寛文9年(1669)に赤浜村との村境にこの神社を鎮座させることによって、境界を明らかにさせ、隣村の横領を防いだという。
                                                                                               
「おぶすま」という名前の本源はなぜ「小被」なのであろうか。

埼玉苗字辞典には「おぶすま」についてこう書かれている。

  
男衾 オブスマ 意部郷大(おぶ)郷に関係あるか。二項に男衾大須磨と記す。和名抄に男衾郡を乎夫須万と訓ず。平城京跡出土木簡に「天平十八年十一月、武蔵国男衾  郡余戸里、男衾郡川面郷」と見ゆ。当郡富田村に小被(おぶすま)神社あり、此地が本郷か。また、足立郡篠葉村字男衾、宿篠葉村字大伏沼(おぶすま)あり。両村(草加  市)は慶長十一年に分村す。
1 男衾郡大領の阿部族壬生吉士 古代氏族系譜集成に「孝元天皇―大彦命―波多武日子命―建忍日子命―勝目命―知香子―白猪―日鷹(雄略九年紀、難波吉士)―万里―山麻 呂(安閑二年、主掌屯倉之税)―鳥養―葛麻呂(推古十五年、為壬生部、壬生吉志)―諸手(持統四年、武蔵国居住)―富足―老―鷲麻呂(正六位上、男衾郡大領)―糟万 呂(外従七位上、郡主政)―松蔭(外正八位下、延暦十二年、補軍団大毅)―福正(外従八位上、男衾郡大領、男衾郡榎津郷戸主)―継成(三田領主)」と見ゆ。子孫は多 摩郡三田領主となる。承和八年太政官符に「男衾郡榎津郷戸主外従八位下壬生吉士福正」。続日本後紀・承和十二年条に「前男衾郡大領外従八位上壬生吉志福正」あり。
2 男衾三郎 前項の後裔か。大須磨三郎絵巻は観音霊現記物語で永仁年間の作とされている。男衾三郎絵詞に「昔、東海道のすえに、武蔵の大介といふ大名あり、其子に吉見 二郎、をぶすまの三郎とて、ゆゝしき二人の兵ありけり。吉見の二郎は、姫君一人いでき給へり、観音に申たりしかハ、やがて慈悲といはんとて、さぞなづけ給ける、慈悲 に上野国難波の権守が子息、難波の太郎をむこになさんとする。をふすまの三郎は、久目田の四郎の女を迎て、夫妻とぞたのまれける、男子三人、女子二人、いでき給へり  。吉見次郎兄弟、大番つとめにとて京上せられけり、一千余騎にてのぼり給、吉見のめのと、こうとう大夫正広というもの、三百余騎先陣の兵ニうちのぼる、吉見郎等荒 権守家綱といふものあり、正広・家綱には中田下郷をたまふべし」と見ゆ。
3 猪俣党男衾氏 富田村小被神社は、風土記稿に「延喜式神名帳に載る武蔵国男衾郡小被神社是なりと云。不動寺の持」と。无動寺氏は、一説に不動寺氏かと云う。小野氏  系図に「猪俣野兵衛尉時範―重任(男衾野五郎)―某(无動寺)」と見ゆ。富田村が本拠地か。
4 丹党男衾氏 丹庄阿保地誌に「丹党五十余家の内、男衾」とあり。本朝武家諸姓分脈系図(冑山文庫)に「秩父四郎冠者武峰―秩父太郎元房―直時(男衾二郎、改勅使河原 )―常直(男衾太郎)」と。男衾氏の本名は高麗郡(飯能市)出身の本橋氏なり。本橋条参照。源平盛衰記に男衾二郎あり。
5 畠山氏流男衾氏 幕臣飯塚氏は、寛政呈譜に「畠山庄司重能が三男男衾六郎重宗が後裔、兵部少輔重世・秩父郡飯塚の郷に住せしより家号とす」と見ゆ。また、吉川英治本 ・新平家物語に川越重頼の臣男衾源次が登場する。

 「おぶすま」に関する地名の歴史は思った以上に淵源が深い。それゆえに簡単に答えが出るはずもない。また地名の歴史と同様に小被神の存在にも興味をそそる。地主神というが祭神にも祀られていない。一体何者なのだろうか。

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