忍者ブログ

古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

出雲乃伊波比神社

 出雲乃伊波比神社は埼玉県に二社ある。「男衾郡・式内社・出雲乃伊波比神社」の論社は熊谷市板井に鎮座している社の他に同名で寄居町赤浜に存在する。出雲族の末と称する武蔵国造物部氏が祭る神社だそうだが、元々は「八幡神社」と呼ばれていた。
 この社は延喜式内社小被神社に非常に近く200mくらい、道路一本で結ばれており、男衾郡の中でも当時は非常に栄えた地帯だったのだろうと推測される。


所在地    埼玉県大里郡寄居町赤浜723
主祭神    須佐之男命
         (配祀)三穗津姫命 誉田別命 天児屋根命 天太玉命 天穗日命
         (合祀)天照皇大神 軻遇突智命
社  格    旧郷社  武蔵国 男衾郡鎮座        
由  緒    創立年代不詳 
                                                                                             例  祭      10月20日 大祭

                 
地図リンク
  国道140号彩甲斐街道(140号バイパス)を寄居方面に進み、花園橋北交差点を左折、荒川を抜け、最初の信号である花園橋(南)交差点を右折すると埼玉県道81号熊谷寄居線に入る。その道を真っ直ぐ行くと約300mくらいで右方向に出雲乃伊波比神社が見える。
  
木目調で歴史を感させてくれる黒く重厚な鳥居       出雲乃伊波比神社の参道 

 出雲乃伊波比神社から小被神社までは南に約200m、道路一本で結ばれており、わずか数百メートルに式内論社が2社存在するとは正直驚いた。と同時に、延喜式当時、またそれ以前にこの男衾の地はさぞかし栄えていたのだろうと、感じながら参拝を行った。
           

                       拝殿 明治14年に再建
           
                     本  殿 文政3年(1820)に再建
 出雲乃伊波比神社の御祭神は須佐之男命で、三穗津姫命、誉田別命、天児屋根命、天太玉命、天穗日命が配祀され、天照皇大神、軻遇突智命が合祀されている。
由緒
出雲乃伊波比神社

八幡塚御由緒
 赤浜の歴史は、出雲乃伊波比神社を軸として、千数百年の歩みを続けてきました。天正8年、荒川の度重なる大水害に抗し難く現在の地に集落一体となって、大移動を決行しました。その際境界決定について両者合議の上、精密なる境界構図が現存していることは往時の事実を物語る証拠であります。赤浜にとって、これ程重大な事業は以後四百年ありません。移転後、生活した下河内は肥沃に恵まれ比較的平坦でまとまった農地で赤浜地区の重要な基盤でした。しかし個々の耕作となりますと長短大小入り混じり、荒川に接近しながら用排水に難渋し、耕作道も狭くて不便でありました。昭和56年10月、農業の近代化を図るため、赤浜土地改良総合整備事業が進められ、由緒深い八幡塚も農地として整備せられしめたため、三代に渡る氏子総代、初穂組合長の協力を得て、記念碑を設立し、次の通り碑文を記しました。
宮乃井の由来

 旧郷社出雲乃伊波比神社の鎮座地は、鉢形庄、赤浜村と云われ、古は、字下河内の八幡塚に鎮座され、天正8年、度重なる大水害により、今の地に鎮座されました。旧社地の南方を宮乃東、北を宮後川端と称し、東南に宮乃井がありました。宮乃井は、神助により、豊かな水量に恵まれて、一年中、水の枯れる事はありませんでした。昭和8年、稀有なる大旱魃がありました時、赤浜の各戸の井戸水がすべて干しあがり、飲料水に欠乏したる時も、この宮乃井及び神水の根元より冷水こんこんと湧出し、赤浜は勿論、隣村富田より家内の飲み水として、更に牛馬の飲み水に至るまで使用したと伝えられていました。昭和56年10月、この宮乃井も、農業の近代化を図るため、赤浜土地改良総合整備事業により、土地基盤用排水、道路の整備、更に県道(菅谷・寄居線)高架橋が、かけられ、その存在も忘れ去られようと、しているため、私財をもって記念碑を建てました。碑文は次の通りです。

                                                                     全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年

 
                 妙見社御由緒の案内板(写真左側)と妙見社
妙見社御由緒
 赤浜地区の妙見社は、天正年間(西暦一五七三年~一五九一年)以前の遠い昔より妙見講を組織して、厚く信心して、今日なお「妙見様」の通称で親しまれていました。近年まで十二月三日の例祭日には、講中の家を順番に祭礼の準備やお祝の宿として集まり、幟が立ち先達様の祈願が終ると団子を配り、にぎやかな社頭となりました。
 諸般の事情により昭和五十年(一九七五年)三月三日を以って一時中止することになりました。長い年月で社殿の傷みも進み、倒壊寸前となり平成三年(一九九一年)二月十六日講中一同相談の結果、改築することに決定しました。四月三日仮殿遷座祭を斎行し社殿を解体したところ束木に「嘉永六年(一八五三年)癸丒孟春(みすのと丑年旧暦正月)奉造立講中為安全也」裏面には「大工 浅次良 又八」の二名が記録されていました。壁面の横板には「妙見宮殿修繕寄付連名及紀元二千五百五十五年 明治二十八年(一八九五年)と記されていました。
 平成三年四月十二日 上棟 六月二日 本殿遷座祭を斎行しました。
             
                  境内社 八坂神社 右側の石碑は不詳
 出雲乃伊波比神社は元々「八幡社」と言われていたという。由来を考えるに、「前九年の役の際、源頼義が白籏八幡社と改称した」 とのことだが、前九年の役は11世紀中期の事件で延喜式内社というのであればその当時には存在していただろう。では延喜式神名帳ができた時点での社名はどのような名称だったのだろうか。天正8年(1580)の荒川洪水の際に、古史料は流失、社史の詳細は不明となってしまったという。その後明治時代に元の名前に戻したというが、何の文献を根拠に今の社名に変えたのだろうか。
 また出雲乃伊波比神社という名前のわりに伊波比主神(経津主神)が祀られていないのはどういうことなのだろうか。




 


拍手[6回]

PR