古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

畑中雷電及び下八ッ林天神社社

畑中雷電社】
        
             
・所在地 埼玉県比企郡川島町畑中47
             ・ご祭神 大雷命(推定)
             ・社 格 旧村社
             ・例祭等 不明
 地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9990566,139.4871741,16z?hl=ja&entry=ttu

 三保谷宿氷川神社から埼玉県道74号日高川島線を北西方向に進む途中、進行方向右手側にぼんやりと社号標柱が見えたので、偶々立ち寄った社である。偶然とはいえ、このお社との出会いに感謝しつつ、社号標柱の前にある適度な駐車空間に車を停め、厳かな気持ちで参拝を開始した。
             
            県道からやや北側に設置されている社号標柱
        
                歴史の風格の趣を感じる鳥居
        
                     拝 殿
 この社に関して、境内には案内板等もなく、後日編集中においてもこれといった文献・資料もない。推察するに板倉町に鎮座する雷電神社からこの地に勧請されたものと考えられる。
 〇雷電社 村の鎮守なり、村持ち
                       「新編武蔵風土記稿 比企郡畑中村条」より引用

下八ッ林天神社】
        
             ・所在地 埼玉県比企郡川島町下八ッ林236 
             ・ご祭神 菅原道真公
             ・社 格 旧村社
             ・例祭等 不明
 
途中立ち寄った畑中雷電社から埼玉県道74号日高川島線に戻り、北西方向に進路をとる。1.3㎞程進むと「下八ツ林」交差点に達し、そこを右折すると、すぐ右側に下八ッ林天神社が見えてくる。社の南側には「下八ツ林集落センター」があり、そこには駐車スペースも十分確保されていて、他の車両に迷惑がかからない場所に駐車してから参拝を行った。
        
                     下八ッ林天神社正面
 川島町下八ッ林地区は、江戸時代当時、下八ッ林村(しもやつばやしむら)と呼ばれていた。この村は上八ッ林村の東に位置し、古くは同村などと一村で八ッ林村と称していたが、後に畑中村等を分出、寛文元年(一六六一)の検地後、上・下の二村に分村したという(「風土記稿」等)。元禄郷帳に村名がみえ、高四九七石余。その後川越藩領となり、秋元家時代郷帳によると高は元禄郷帳と同じ。反別は田方九〇町九反余・畑方一九町七反余。以後の領主の変遷は谷中村に同じ。用水は上八ッ林村の用水の下流を利用。中山道桶川宿の加助郷を勤めていた(鈴木家文書)。「風土記稿」によると家数六六、鎮守は天神社、新義真言宗善福寺(現真言宗智山派)・同光勝寺、薬王寺・威徳寺等があるという。
             
                    鳥居の先に設置されている社号標柱
        
                     拝 殿
 下八ッ林天神社近郊には「道祖土家跡」と呼ばれる柱碑がひっそりと建てられている。因みに「道祖土」と書いて「さいど」と読む。この一族のルーツは、埼玉県さいたま市緑区道祖土地域と云われているが、一説では比企(ひき)郡八ツ林村の名主道祖土氏の祖先道祖土土佐守が戦国期に当地に住したためとする説もある。
 室町期には関東管領扇谷上杉氏の家宰太田氏の支配下にあり,太田道灌の陣屋が置かれ,道灌の没後はその追福のために養竹院が建立された(大字表,養竹院文書)。岩槻【いわつき】城主太田資正は,弘治348日の太田資正判物で道祖土図書助に,「三尾谷郷伝馬儀付而,田地指上百姓有之由,可及其断」と命じている。小田原の北条氏康は東武蔵に進出すると,永禄109月晦日の北条氏康判物で三保谷郷の代官職を八ツ林郷の道祖土図書助に安堵した。天正647日には,北条氏政の検地によって「三保谷代官道祖土土佐守」に対して「二百六十六貫八十文 田畠踏立辻」が書き出された。天正9年に太田氏房が岩付城主になってからは,岩付太田氏の支配下に入り,同14年には岩付城普請役が同1587日には陣夫役が三保谷郷道祖土図書助が命じられている(道祖土文書)。


 下八ッ林天神社東側に隣接して「薬師堂」が立っている。現在は真言宗智山派寺院の善福寺境外仏堂となっていて、江戸期には善福寺の門徒寺院として威徳寺と号し、不動明王を本尊とする本堂の他に、薬師堂・天神社を境内に擁し、江戸時代後期には寺子屋が開かれていたという。明治維新後の神仏分離により、威徳寺は善福寺と合寺された。
        
                                    
下八ッ林薬師堂
 下八ツ林村 
 威徳寺 
本尊不動を安ず
 薬師堂 古鰐口をかく、其圖上の如し、此鰐口元は、高麗郡佐西熊野堂にありしを、彼堂廢せし頃、應永七年持来て此堂に掛け、其時改めて裏面の銘を彫りし者なるべし、應永七年は明徳四年を下ること、僅に八年なれど、今も彼地に熊野堂なければ、其間に廢せしことしらる、
                               「新編武蔵風土記稿」より引用

        
                  境内にある案内板
 川島町町指定有形文化財・彫刻 薬師如来坐像
 所在地 比企郡川島町大字下八ッ林五八六
 指 定 昭和三十六年一月二十五日
 古くはここに威徳寺という寺があり、その薬師堂が現在のこの薬師堂である。ここの薬師様は古来霊験あらたかで有名であった。いまも秘仏とされており、十二年に一回の御開帳には賑わう。
 右手は施無畏印、左手の
の上に薬壺をのせたこの薬師如来坐像、高さ三十八㎝、ひのきの寄木造り、玉眼、鎌倉時代の作。
 川島町町指定有形文化財・工芸品 鰐口
 所在地 同所
 指 定 同日
 鰐口は堂などの軒先につるした平たい鉦である。参詣者は下げてある布縄を振ってこれを鳴らす。
 この鰐口はその銘によると、明徳四年(一三九三)佐西郷(狭山市笹井)の熊野堂へ、權律師良勝が奉納したものであったが、熊野堂が廃されたので、良勝の娘がこれを譲りうけ薬師堂に奉献したものと考えられる。この娘、有名なこの薬師様を慕って遠くから来て願をかけ、満願のお礼としたものであろう(現在は善福寺に所蔵されている)。
 直径二十二.cm 厚さ六.cm、青銅製、室町時代初期の見事な美的品である。周囲に次の銘がある。
(表面)明徳四年癸酉四月日 大工河内權伍國光
    
武州高麗郡佐西郷熊野堂律師良勝
(裏面)奉掛 薬師如来鰐口一面
    
應永七庚辰五月六日於本間氏女
                                      案内板より引用


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「
日本歴史地名大系」「道祖土文書」
    「
川島町HP(観光・文化財マップ)」「境内案内板」等

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