古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

栄鷲神社


        
              
・所在地 埼玉県加須市栄2167
              
・ご祭神 天穂日命 武夷鳥命
              
・社 格 旧大曾村鎮守・旧村社
              
・例祭等 例祭(大杉囃子) 415
 麦倉八坂神社から利根川に沿って走る埼玉県道368号飯積向古河線を程東行する。進行方向右手には利根川の土手が延々と続き、対して左手は民家が点々と見える以外は長閑な田畑風景が広がる里風景を眺めながら、1.2㎞程行った先の十字路を左折し、北上する。暫く進むと進行方向右手前方に、田畑風景の中にポツンとこんもりとした栄鷲神社の社叢林が見えてくる。
 正面鳥居の向かい側に専用駐車スペースあり。
        
                  
栄鷲神社正面
『日本歴史地名大系』 「大曾村(おおぞむら)」の解説
 利根川左岸に位置し、東は前谷村と飯積村の飛地高野新田、南は利根川を隔てて弥兵衛村(現大利根町)。「吾妻鏡」建久元年(一一九〇)一一月七日条に、当日入洛した将軍源頼朝の随兵としてみえる大曾四郎を当地出身の武士とする説(風土記稿)がある。田園簿では水損場と記され、田高七五石余・畑高六二石余であるが、明和九年(一七七二)七八石余が高入れされており、新田が開発されていた(「古河御領分村高米大豆御上納高」田口家文書)。
        
             社は標高12m程の低地上に鎮座している。
      水害を避けるためなのだろうかか、小高い盛り土の上に建てられている。
 加須市栄地域は、明治98月に嘗ての前谷村と大曽村が合併したときに定められた名称であり、現在の「栄東」は旧前谷村、「栄西」が旧大曽村にあたり、旧大曾村鎮守であった栄鷲神社は別名栄西鷲神社とも称していて、万治九年に北葛飾郡鷲宮村(現鷲宮町)の鷲宮神社から勧請し、宝暦一四年に社殿を再建したと伝えている。
        
         鳥居の右側に設置されている「渡良瀨川重助裏護岸工之図」
 加須市指定文化財 渡良瀨川重助裏護岸工之図
 種番号 歴史資料第四号
 指定年月日 昭和五十六年三月九日
 管理者 栄西・鷲神社
 縦九一・三センチ、横一三六・五センチ。露月樓穣窓の筆になる絵馬である。現在の旧川が「く」の字形にまがった地点における護岸工事を描いたもので、右下の紅白の内務省旗をかかげたところで二人の監督官と三十人の工夫が土俵・石・その他の資材を積んだ舟を左右に動かして水制工事を進めている。河道には通運丸・高瀬舟・渡舟が描かれ、小段を石で強化した堤防上の馬踏には道が通じ通行人が描かれ、堤防に膚接して並ぶ農家のたたずまいにも注目に値するものがあり、遠景に富士山を配して方角を表わしている。写実的筆致で保存状態も良い(以下略)
                                      案内板より引用

 当地は古くから水場で村人は最近まで洪水に苦しめられていた。拝殿に掲げる明治一八年の「渡良瀬川字重助裏護岸工事之図」を見ると、何百人もの人夫が護岸工事に携わり、帆掛け船や外輸船の姿もあることから、これが大工事であったことと、当時の水害がいかに大きなものであったかを知ることができよう。
       
                    拝 殿
 鷲神社(みょうじんさま)  北川辺町栄二一六七(栄字西沼田耕地)
 栄の地は南に利根川が流れ、集落部は東西に分かれている。これは明治九年、大曾村・前谷村二ヶ村が合併した経緯による。
 当社は大曾分に鎮座し、社記は、この地が再開発される江戸初期、万治九年に北葛飾郡鷲宮村(現鷲宮町)の鷲宮神社から勧請し、宝暦一四年に社殿を再建したと伝えている。また一説に大曾の地は度重なる出水により荒地となっていたものを、足利からこの地に隠棲した多田某が草分けとなって開拓し、元和元年古河領(現横山町)雀宮神社を勧請して鷲神社を称したとも伝えている。なお、『風土記稿』には万治二年の勧請で、万松寺持と記している。
 万松寺は慶長元年の開基で、境内の老松に大鷲が飛来したことを伝え大鷲山大曾院と号し、曹洞宗である。
 明治五年に村社となり、同一六年には本殿・拝殿の改築を行い、近くは昭和三三年に氏子一同の寄進により改築を行っている。
 祭神は天穂日命と武夷鳥命の二柱である。境内には旧村内から集められたと思われる弁財天・稲荷社・天満宮の石祠と大杉大明神石祠が祀られている。 

 神仏分離により、万松寺の手を離れた当社は、大字飯積の本山派修験金剛院が服飾して神職となって奉仕し、今日に至っている。
 *平成の大合併の為、現在の住所は違うが、敢えて文面は変えず記載する。
                                  「埼玉の神社」より引用
 例祭は四月一五日。例祭前日をイバン(宵祭り)と呼び、疫神除けとして拝殿に集まり、御神酒を飲みながら過ごす習慣が昭和二四年ころまで行われていたという。
一五日当日は午前中に祭典が執行され、午後一時ころから神輿がでる。神輿は氏子の青壮年や篤信家に担がれ氏子中を回る。神幸にはお囃子が付き、笛・太鼓・鼓・鉦の音に合わせ一四、五曲囃される。道中「サギリ」「ヤギリ」と呼ぶ曲があり、俗に『大杉囃子』と呼ばれている。神輿は氏子の各家の玄関口に仮安置され、お供えがあげられ、囃子が行われたという。
 
拝殿左側には正一位稲荷神社・伊勢太々御神楽碑    拝殿右側に祀られている石祠二基
         の石祠・石碑あり               天満宮・大杉大明神
 旧別当万松寺境内には薬師堂がある。この縁日は四月八日で、近郷からの参詣客でにぎわっていた。薬師堂には井戸があり、昔、老婆が重い眼病にかかり苦しんでいたため、薬師を熱心に信仰したところ、ある晩、薬師の井戸水で目を洗えば治ると夢に出て、翌日僧侶から水を分けてもらい目を洗ったところ、立ち所に治り、以来眼病の霊水として広く知られるところになり、薬師堂はにぎわったと伝えている。
 当地は、度重なる水害で古い記録類に欠けるが、嘉永元年銘のある当社にかかわるといわれる随身画像軸が、萩原家に保管されているという。
        
                   栄鷲神社遠景


【栄八幡宮】
        
              ・所在地 埼玉県加須市栄3324
              ・ご祭神 誉田別命(推定)
              ・社格・例祭等 不詳
 栄鷲神社から南東方向で、直線距離にして350m程に栄八幡宮が鎮座している。
 但し、「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」にも解説等全くなく、残念ながら、創立年代・由緒等不明である。
        
                   栄八幡宮正面
 
   拝殿手前左側にある「青面金剛像」     青面金剛像」の右側に並ぶ菩薩像等


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「境内案内板」等
   

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