古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

身代神社

宮代町のホームページ等で町名の由来を見てみると、百間村の総鎮守姫宮神社の「宮」と、須賀村の総鎮守である身代神社の「代」をそれぞれとって出来た名前だという。
 この身代神社の「身代」は「このしろ」と読み、旧須賀村の鎮守で、創建は仁治3 年(1242)3 月に勧請されたと伝わり、主祭神は素盞鳴命だ。

所在地   埼玉県南埼玉郡宮代町須賀1634
御祭神   素盞鳴命
社  挌   旧村社 旧須賀村総鎮守
例  祭   不明

       
地図リンク
 身代神社は姫宮神社から北西方向に約4㎞程の須賀地区に鎮座している。姫宮神社から一般道で山崎交差点に達したのち、埼玉県道85号春日部久喜線を久喜市、つまり北西方向に道なりに真っ直ぐ進み、日本工業大学入口交差点の先で、右側にこの社はある。南北に長いが幅が狭い小さな社だが由緒のある古社であることは間違いない。大東亜戦争において当時は出征兵士の身代わりになり命を救ってくれるとの信仰がうまれ多くの祈願があったという。
 ただ適当な駐車スペースが存在していないので、県道の向かいにコンビニエンスがあるのでそこに停めて参拝を行った。

         
                    道路沿いにある一の鳥居。南向きの社
          
                  一の鳥居を越えるとすぐ先にある二の鳥居
 身代神社の名前の由来については「伝承として、ある武将が奥州に落ち延びる際に武将の姫が追っ手に捕えられそうになり、そのとき、村人がコノシロという魚を焼いた。この魚は焼いた時の匂いが人を焼いた時と同じであるといわれ、追っ手に対して「姫は死んでしまった」ことにし、救うためであった。無事に追っ手から逃げることのできた姫はたいそう感謝をし、コノシロにちなんで身代神社を祀ったという話が伝わっています。また、神社の脇にある身代池には、オイテケ伝承や龍神伝承が伝わっています。」という伝承があるそうだ。
                                    郷土資料館編「みやしろ 歩け 歩け」より引用
 
 拝殿前には石塔が2対ある(写真左)が、よく見ると倒壊(同右)している。東日本大震災の影響かどうか理由は解らないが、文化財でもあるので自治体のほうで何とかできないものだろうか。
 
  参道の左側には石碑類と共に案内板がある。                  案内板

身代神社     所在地 宮代町大字須賀座下堤

 旧須賀村の鎮守で、明治時代の神社明細帳によると祭神は武速素佐能男命を主神として他16柱を祀り、また「素佐能男命が大蛇を退治した際、心がすがすがしくなった」という故事によりこの地を須賀村といい、蛇の縁により別当職を龍光院という(中略)再興は天和2年(1688年)3月28日なり」と記されている。当社の創建は、鎌倉時代初期仁治3年(1242年)3月の勧請と伝えられている。祭礼は、7月14日。身代神社の「代」をとって現町名の一部とした。
            
                      石碑類の奥にある多数の庚申塚
 境内には高さ60センチほどどの小さな庚申塔が並べ建てられている。これらは江戸時代後期に須賀村の島地区の人々が奉納したもので、こうした庚申塔は近隣にもあまり例を見ない。
この神社は古利根川の自然堤防の上に位置し、周辺から縄文時代や古墳時代の遺物が発見されている。また、神社西の身代池は、かつて利根川の流路ともいわれ、この池で釣った魚を持ち帰ろうとすると「オイテケ、オイテケ」という声がするというオイテケ堀の伝説も残されている。
                                                        案内板より引用                                                                                                         


           昭和時代に改築されたコンクリート製の拝殿(写真左)と本殿(同右) 

 身代神社は大落古利根川のすぐ南側の周囲の低地よりわずかに高い「自然堤防」と呼ばれる地形上に鎮座している。この社の西隣に身代池がある。この池は古利根川の過去の氾濫によってできたものらしい。そして、この池にも不思議な言伝え、龍神伝説がある。                           

 
身代池の周囲を三周すると、池から龍神が立つといって、巡り歩くことを忌む。昔、ある人が三周しようと試みたが、二周半からのあと半分がどうしても回れなかった

 また同沼には「おいてけ堀」伝説も存在する。この伝説は古利根川下流域の越谷市東方や川越市吉田にも同様の伝説がありその地域の関連性も考えられる。

 昔、宮代町にある身代神社そばの身代池は、魚釣りをするとよく釣れる場所だった。しかし、帰ろうとすると池の中から「オイテケ、オイテケ」と言う声がして、皆恐ろしくて置いて逃げ帰ったと言う。

 
 この沼は夏になると一面の蓮で埋め尽くされてしまうが、春先なので全容がわかる。ただ沼の周囲を歩くことはしなかったのは残念。

 
 話は変わるが身代神社が鎮座する宮代町須賀地域の「須賀」にも何か歴史的な因縁を感じる。
  

須賀 スガ 
 崇神六十五年紀に「任那国の蘇那曷叱知(ソナカシチ)」と見ゆ。蘇は金(ソ、ス)で鉄(くろがね)、那は国、曷は邑、叱知は邑長で、鉄の産出する国の邑長を蘇那曷叱知と云う。島根県大原郡大東町須賀に須賀神社あり、須佐之男命と稲田姫命の夫婦を祭る。古事記に「かれ是を以ちて其の速須佐之男命、宮造作るべき地を出雲国に求ぎたまいき。爾に須賀の地に到り坐して詔りたまいしく、『吾此地に来て我が御心須賀須賀し』とのりたまいて、其地に宮を作りて坐しき。故、其地をば今に須賀と云う」とあり。須賀は素賀(スガ、ソガ)とも書く。
須は金(ス、ソ)の意味で鉄(くろがね)のこと、賀は村の意味で、鍛冶師の集落を称す。武蔵国の須賀村は利根川流域に多く、砂鉄を求めた鍛冶師の居住地より名づく。埼玉郡百間領須賀村(宮代町)は寛喜二年小山文書に武蔵国上須賀郷、延文六年市場祭文写に太田庄須賀市祭と見ゆ。同郡岩槻領須賀村(岩槻市)は新方庄西川須賀村と唱へ、今は新方須賀村と称す。同郡忍領須賀村(行田市)は太田庄を唱へ、須加村と書く。同郡羽生領小須賀村(羽生市)は太田庄須賀郷を唱へる。同郡備後村字須賀組(春日部市)、琴寄村字須賀組(大利根町)、飯積村字須賀(北川辺町)等は古の村名なり。葛飾郡二郷半領須賀村(吉川市)あり。また、入間郡菅間村(川越市)は寛文七年地蔵尊に入間郡須賀村と見ゆ。男衾郡須賀広村(江南町)あり。此氏は武蔵国に多く存す。
                                                                  「埼玉苗字辞典」より引用



 ここでは利根川流域に「須賀」とつく地名が多数存在しているらしいが、そのことは別項にて論じたい。


 


 
                                                                                       


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五社神社

  宮代町東地区に鎮座する五社神社は、以前、五社権現社もしくは五社宮とも言われ、熊野三社(熊野坐神社、熊野速玉神社、熊野那智神社)、白山、山王の五社)を等間隔に祀ったことからその名が起こったと言われている。祭神は、天之忍穂耳命他7柱である。
 百間東村の鎮守社で創立は養老年間(717 ~ 724) に行基が当地に来たときであるとされる。本殿は、県指定文化財。本殿内部に納められた神鏡は、江戸時代の信仰形態を示す貴重な資料となっていて 町指定文化財に指定されている。

所在地    埼玉県南埼玉郡宮代町東90
御祭神    天之忍穂耳命、天津日子根命、天之穂日命、活津日子根命、久須毘命                                                                    社  挌    旧村社  百間東村鎮守社
創  建    養老年間(717-724)  
例  祭    みかん投げ 例年2月14日

       
地図リンク
 五社神社は東武伊勢崎線『姫宮駅』の南西約600m程の位置に鎮座している。西光院というお寺と道を挟んで隣接している。駐車場は無いので西光院の駐車場を一時借りて参拝を行った。
 この社の具体的な創建時期は不明とされているが、当地の古伝によると養老年中(717年~724年)に、奈良時代の僧である行基が当地を訪れたと伝えられており、当時、行基の前に、五人の老翁が現れ「当地は、霊験あらたかな地である。我々は熊野三山の翁、近江日吉の主、白山の厳翁である。」と告げて姿を消したという。そして、行基はこの神託にならい、当地に西光院を建立し、その鎮守として当社を創建したとされている。
           
                            五社神社正面
            実は交通量が非常に多く、撮影するのに意外と時間がかかった。
 
   
 鳥居の扁額には「五社宮」と書かれている。         境内内にある多数の境内社や石碑
               
                         石碑の手前にある案内板

五社神社    所在地 宮代町東九〇
 
五社神社は、以前、五社権現社もしくは五社宮とも言われ、熊野三社(熊野坐神社、熊野速玉神社、熊野那智神社)、白山、山王の五社を等間隔に祀ったところからその名が起ったと言われている。祭神は、天之忍穂耳命他七柱である。
 
創建年代については、別当である西光院が火災にあったため明らかでないが、現在の本殿は、桃山時代の文禄、慶長(一五九二~一六一四)の建築と推定されている。本殿は五間社流造りで、正面に向背を付け、蟇股に牡丹、竜、鳳凰、猿、虎などの彫刻が施されている。大正年間に茅葺きからトタン葺きに替えられ、昭和四十九年の解体修理のとき銅板葺きにされた。
 
また、それぞれの社には、元禄十四年(一七〇一)五月吉日の年号がある銅製の御神鏡がある。江戸の鏡師二橋伊豆守藤原吉重の作である。(中略)
 
なお、本殿は、昭和三十七年三月県の指定文化財となっている。  昭和六十二年三月
                                                       案内板より引用
                                                                                                     
          
                    拝    殿
  
       
                             本    殿                                                
 見事な流造りの五間社である。本殿は桃山期の文禄慶長年間(1592-1614)の建築と推定され、五間社流造。平野部での同建築は珍しく、埼玉県指定文化財とされている。五社神社の名前は、熊野三社(熊野坐神社、熊野速玉神社、熊野那智神社)、白山神社、山王神社の五社を等間隔に祀ったことに由来するそうだ。

 当地は、かつて百間村の中心地であったが、元禄8年(1659)に分村して東村となった。また、古くは大寺であった西光院があることから寺村と称した事もあった。
 創建については、元禄12年(1699)に西光院住職宗彬法印と弟子の当社別当大蔵坊秀応が、荒廃した当社の改修の寄進を求めるために記した「勧進帳」(西光院蔵)には次の様な事が記されている。
 「養老年間(717-724)かの行基が当地に来たところ、五人の老翁が現れ、「我々は仏法護持のため、様々な霊地に身を置いたが、中でも当地は天地に比べるもののない霊場である。我々は熊野三山の翁・近江日吉の主・白山の厳老である」と告げて姿を消した。行基はこの告げに従い、当地に西光院を建立し、境内に寺の鎮守として当社を創建した。その後当社は、百間領五千石の総社として厚く崇敬されたが、時を経ると人々の崇敬心が衰え、社殿も激しく荒廃してしまった。この有様を憂えた宗彬法印らは、まず元禄8年に拝殿を増築し、次いで他の社殿の改築を発願して、広く寄進を求めたものである。
 口碑によると、この社殿の改修は、宗彬法印らの努力もあって、領民の寄進により無事に行われたという。
 なお、本殿は五間社流造りで、桃山期から江戸初期のものとされ、県内では珍しい形式であり、昭和37年に県指定文化財となった。
                                                   『埼玉の神社』より引用

 五社神社の御祭神は天照大神御子五柱命と言われ、アマテラスがスサノオと誓約した時にアマテラスから生まれた5柱の御子神であり、以下の5柱が祀られている。

天忍穂耳命
 
 天照大神の左のみづらにかけられた珠から化生した神、出雲の国譲り一番目に派遣され出雲への降臨を取りやめた神、ニニギの父神、稲穂の神、農業神。
天穂日命  
 天照大神の右のみづらにかけられた珠から化生した神、菅原家の祖神、出雲の国譲り二番目に派遣され大国主命に寝返った神、出雲国造、武蔵国造、土師連の遠祖にあた
る神、農業神、稲穂の神、養蚕の神、木綿の神、産業の神。
天津彦根命 
 天照大神の首の珠から須佐之男命の左腕に化成した神、多くの氏族の祖神/天皇家に忠誠を誓った氏族。
活津彦根命 
 天照大神の左手にかけられた珠から化成した神、太陽の神、繁栄の神。
熊野樟日命 
 天照大神の右手にかけられた珠から化成した神、火の神、紀州・熊野三山の本源とされる神。
                                                                                  


        
 石段を登ってすぐ参道の右側に、小さな塚があり、周りには石祠が祀られているが、これも、古墳なのかは不明だ。

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姫宮神社

 宮代町は、埼玉県の東部に位置し、東西6,3km、南北6,7kmと北西から南東にかけて細長い形をしており、面積15,95km2、人口約3万5千人と埼玉県では数少ない町であり、南埼玉郡で唯一の町でもある。東側は、北葛飾郡杉戸町、南側は春日部市、西側は南埼玉郡白岡町、北側は久喜市に接していて、東武伊勢崎線が町西部を沿って走り、同日光線が町内の東武動物公園駅を起点として栃木、日光方面へと走る。町の東側にはかつて利根川の本流であった古利根川が流れていて南埼玉郡と北葛飾郡の境をなし、江戸時代以前はこの川によって武蔵国と下総国が分けられていた時期があった。
  宮代町の地形は、大宮台地の東北部にあたり、標高8~11mの台地と、その縁辺に位置する標高6m前後の後背湿地、標高6~7mの古利根川右岸の自然堤防から成り立っている。宮代町を含む埼玉県東部はかつて縄文時代の気温上昇によって海水面が今より2~3メートル高く上昇し、その結果「奥東京湾」と呼ばれる内海がかつて存在していて、今の栃木県古河市周辺地域に至るほどに広域な範囲であったらしい。ちなみに同時期に「香取海」と呼ばれる内海もあり、筑波山の麓まで海だったという。
 そこで思い出されることは、以前鷲宮在住の知人が「この鷲宮周辺に以前温泉が出たのだが、不思議とその温泉の成分が塩分を含んでいた。」と話していたことだ。地中奥深くは大昔の「縄文海進」の影響、名残りが未だ続いているエピソードではないだろうか。
所在地   埼玉県南埼玉郡宮代町姫宮373
御祭神   宗像3女神 (多記理姫命・市杵島姫命・多記津姫命)
創  建   天長元年(824年)
社  挌   式内社宮目神社論社、旧村社、旧百間村総鎮守
例  祭   7月20日

       
地図リンク 
 姫宮神社は宮代町の南東部、東武伊勢崎線「姫宮」駅から北西1km弱の姫宮落川と大落古利根川が蛇行している小高い台地の先端部に位置している。社殿は南向きで、境内は明るく開放的で長い参道、拝殿部と、森に囲まれて奥ゆかしい本殿、境内社群に分かれている配置のように見える。今回の参拝の目的地は姫宮神社であったためか、「姫宮」の名称からか、拝殿の雰囲気からか、何か女性的な雅(みやび)を漂わせてくれる不思議な社だ。因みに駐車スペースは社号標の手前に2台位停めることができる空間があり、そこに停めて参拝を行った。
            
                       姫宮神社入口の鳥居と社号標
               社号標石も鳥居も真新しく、境内は綺麗に清められている。
            
                           一の鳥居と参道正面
           
                      一の鳥居の手前左側にある案内板
 『埼玉県の神社』によれば、創建については、社伝には、桓武天皇の孫の宮目姫が下総の国へ下向の途中、当地に立ち寄った際、紅葉の美しさに見とれているうちににわかの病で倒れて息途絶えてしまった。後に、当地を訪れた慈覚大師円仁がこの話を聞いて、姫の霊を祀ったのが始めであるという。
 『風土記稿』百間村の項によると延長五年(927)成立の『延喜式』神名帳に載る武蔵国埼玉郡「宮目社」は、当社のことであるという。
 
       開放的で綺麗な参道の風景                 参道の途中左側には神楽殿
           
                              拝    殿
           
                                                               本    殿
        社頭の掲示板によれば、基壇の銘に「正徳五年(1715)四月吉日」とあるそうだ。
 姫宮神社
 所在地 宮代町字姫宮
 姫宮神社は旧百問領の総鎮守で、祭神は多紀理毘売命・多岐津比売命・市杵島比売命の三柱を祀る。社伝では、桓武天皇の孫の宮目姫が当地に立ち寄った際、紅葉の美しさに見とれ、突然の病で亡くなったことを、後に慈覚大師円仁がこの話を聞き、姫の霊を祀ったのが始まりであるともいう。また、一説には、延長5年(927)成立の『延喜式』に記載される「武蔵国埼玉郡宮目神社」は当社のことであるという。
当社の本殿は、基壇の銘によると「正徳5年(1715)4月吉日」とあり、その頃建立されたと推定され、建築様式からも証明されている。一方、拝殿は、海老虹梁に文久3年(1863)の銘が記されている。拝殿内には絵馬が多数掲げられており、一部は町の指定文化財に指定されている。
 また、かつて所蔵していた応永20年(1414)銘の鰐口は、現在、町の指定文化財として当社の別当寺であった前原の宝生院が所蔵する。
 本殿の東側に八幡社が祀られている。元は別の神社であったが、明治35年(1902)当社に編入された。なお、八幡社は、周囲より2m程小高くなっており、かつて埴輪片が出土したことから古墳であると推定される。
                                                    社頭掲示板より引用

 さて境内には数多くの境内社が鎮座している。
 
         拝殿左側にある稲荷社            稲荷社の奥には左から香取、鹿島、天神社
 
         本殿右側にある地主神                     八幡神社の奥には三峰社

  
 この地主神は姫宮神社の鎮座する以前に姫宮地区に祀られていた神であろう。ではこの神が誰であろうか。現時点ではハッキリとは判明しない、がヒントはある。この神は姫宮神社が古利根川とその支流である姫宮落川の合流地点に近い場所に鎮座しているということからまず
水に関連した神であるであろうことはこの社の鎮座する位置関係から解る。また姫宮神社の祭神が多記理姫命 多記津姫命 市杵嶋姫命の宗像3女神であるところから、地主神の本来の祭神も女神である可能性は高い。水神+女神、そして式内社宮目神社。何かしら連想される神がここにある程度限定されるではないだろうか。

 なお、姫宮神社の一帯には古墳が群集していて、姫宮神社古墳群と
命名されている。姫宮神社本殿付近も古墳の上に祀られているそうだ。
          
                  本殿東側に鎮座する境内社である八幡社
 姫宮神社社殿南東側のこの一帯からは、1999年の試掘調査で円墳跡と埴輪片が出土しており、姫宮神社境内を中心とするこの自然堤防上に、6世紀代の古墳を中心とする古墳群が築かれていたと推定されている。 八幡社があるこの一帯は周囲より2~3m高いとされ、径6mの円墳とされるらしい。

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