岩松八幡宮
その後叔父義光との抗争(常陸合戦)には敗れ、常陸国は従子でもある佐竹氏の初代当主である佐竹昌義(義光の孫)に譲ることになったが、足利荘を成立させるなど、上野国の隣国である下野国にも着実に勢力を築いていった。晩年にも勅勘を被るなど、気性の荒さは改まらず、「荒加賀入道」と言われた。
ところで義国は犬間郷(現在の尾島町岩松)に館を構え、そのとき鬼門よけとして伏見稲荷の分霊を祭ったのが、冠稲荷なのだそうだ。後に仁安年中(1166-1169)新田義重が京都大番のおり山城国男山より小松を持ち帰り、この地に植えて岩清水八幡を勧請し岩松八幡宮と称した。以来犬間(猪沼)郷を岩松郷に改めたという。八幡宮は源氏の守護神として崇敬され、新田の庄各地に分霊が奉祀された。岩松八幡宮が新田の総鎮守といわれるようになったのは、世良田長楽寺の住僧松陰西堂の「松陰私語」に金山城主岩松尚純の一子夜叉王丸が七歳の時当家代々の慣例により八幡宮において元服し、昌純と名乗ったとの記述もみられるところから、南北朝以来新田の庄の実権が岩松氏に移ったことによると考えられる。
・所在地 群馬県太田市岩松町251-1
・ご祭神 誉田別命
・社 格 旧郷社 新田総鎮守
・例祭等 不明
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2529731,139.3322813,17z?hl=ja&entry=ttu
堀口賀茂神社から直線距離で800m程北東方向先に鎮座する岩松八幡宮。西側には「いぬま公園」が隣接しているが、その公園以外は田畑風景が続く長閑な地域にポツンと社は立っている。
駐車スペースはないようなので、西隣にある公園の駐車場(4、5台駐車可能)をお借りしてから参拝を開始する。
岩松八幡宮正面
鳥居の手前には狛犬があるが、岩塊の頂きに狛犬が設置されている。
朱色の鳥居が鮮やかに映える。
鳥居の社号額には「新田総鎮守 岩松八幡宮」と記されている。
この鳥居はよく見ると通常の「両部鳥居」とは違う。「両部鳥居」とは、左右2本の主柱の前後を袖柱(そでばじら)が支える仕組みとなっていて、主柱は上部で大貫(おおぬき)を通して繋ぎ、その上に大鳥居の屋根下の棟にあたる笠木(かさぎ)・島木(しまぎ)が置かれている構造。しかし岩松八幡宮の鳥居をよく見ると袖柱が前方一対どちらもなく、後ろ側のみで支える構造となっている。このような両部鳥居は初めて見た。
拝殿の手前に設置されている案内板
岩松八幡宮 所在地 太田市岩松町二五一番地一
誉田別命(応神天皇)を祭神とするこの社は、市野井(新田町)の生品神社、鹿田(笠懸村)の赤城神社と共に新田の三社といわれ、明治五年栃木県(当時この地は栃木県に属した)において郷社に列せられた。
創建は仁安年中(1166-1169)新田義重が京都大番のおり山城国男山より小松を持ち帰り、この地に植えて岩清水八幡を勧請し岩松八幡宮と称した。以来犬間(猪沼)郷を岩松郷に改めたという。
八幡宮は源氏の守護神として崇敬され、新田の庄各地に分霊が奉祀された。岩松八幡宮が新田の総鎮守といわれるようになったのは、南北朝以来新田の庄の実権が岩松氏に移ったことによると考えられる。
正木文書「新田庄田畠在家注文 嘉応二年(1170)目録」の中で「八幡のミやに二町五反」の除地の記載があり、これが一社のものであるかどうかについてはつまびらかでないが、応永十一年(1404)の村田郷地検目録には八幡神田が筆頭に記され、応永十七年(1410)の上今居郷地検目録八幡天神に起請(誓いをたてる)して作成されていることは、当時両郷とも岩松氏の支配地であったことから岩松八幡宮と見られる。また、世良田長楽寺の住僧松陰西堂の「松陰私語」に金山城主岩松尚純の一子夜叉王丸が七歳の時当家代々の慣例により当八幡宮において元服し昌純と名乗ったとの記述も見られ、往昔この社の隆盛と庄内での崇敬のほどがうかがわれる。なお境内には新田義貞を祭神とする摂社新田神社がある。
案内板より引用
拝 殿
岩松氏(いわまつし)は、日本の氏族で本姓は源氏。その家系は清和源氏のうち河内源氏の棟梁であった鎮守府将軍源義家の子、義国を祖とする「足利氏」の支流である。
岩松氏は元々足利義兼の庶長子の足利義純を祖とする。義純は大伯父新田義重に養育されたといい、その子新田義兼の女を妻とした。が、後に畠山重忠の未亡人(北条時政女)を娶って源朝臣畠山氏の祖となり、先妻である新田義兼の女との間に生まれた子たちは義絶された。
義絶され新田氏に残った子・岩松時兼・田中時朝兄弟が、新田義兼がその妻(新田尼)に譲った所領の一部(新田荘岩松郷など)を譲られたことにより家を興す。こうしたことから、岩松氏は母系である「新田氏」を以って祖と仰いできた。但し、父系は足利氏を祖とし、室町時代には足利氏の天下となったことから新田の血筋を誇りとしながら、対外的には足利氏の一門としての格式を誇った。
このように父系を清和源氏足利氏、母系を清和源氏新田氏に持つ岩松氏は、『尊卑分脈』によれば、清和源氏足利氏の一族とされるが、通常新田岩松氏と称され、両方の血を受け継ぐという微妙な立ち位置にいたのに加え、新田氏4代目当主である政義が、その家督相続をした段階では少年であったが為に、祖母である新田尼は所領の大部分を岩松時兼に相続させてしまう。岩松氏は新田氏一族でありながら、その創立時点から新田氏本宗家との因縁があった。また新田一族で本宗家に近い大館氏の大館宗氏と用水争いを起こした際に、惣領の新田基氏・朝氏父子の裁定に従わないなど、新田本宗家に対しある程度の自立性を持っていたようである。
本 殿
赤い透塀(すかしべい)の隙間から見える本殿は拝殿と独立していて門も設置されている。
その後鎌倉時代末期には、本宗家の新田義貞の鎌倉幕府打倒のための挙兵に参加したが、倒幕後は新田氏と共に京都には行かず、当地に残り足利氏に従った。経家は、建武の新政で飛騨守に任ぜられ、北条氏の遺領伊勢笠間荘 以下十箇処の地頭職を賜り、鎌倉将軍府執権の足利直義の指揮下にあって、関東経営に当たった。建武三年(1335)中先代の乱の際、鎌倉に迫った北条時行軍を迎撃するが惨敗し討死、岩松一族は宮方と武家方とに内部分裂を起こしたが、その岩松氏本家を継いだ岩松直国は足利方の立場を堅持し続ける。
結果として岩松氏は、成立の経緯から、新田一族と足利一族の立場を使い分け、鎌倉時代、南北朝時代以降新田氏本宗家が没落する中でたくみに世の中を渡りきり、新田荘を中心に上野国に栄えた。
社殿の左側に祀られている「衡立岐大神」の石祠。 本殿奥に鎮座する境内社。
八衢比賣命と八衢比許命の名も刻まれている。 詳細不明
この衡立岐大神とは「岐の神(クナド、くなど、くなと -のかみ)」と云われ、古より牛馬守護の神、豊穣の神としてはもとより、禊、魔除け、厄除け、道中安全の神として信仰されている。日本の民間信仰において、疫病・災害などをもたらす悪神・悪霊が聚落に入るのを防ぐとされる神である。また、久那土はくなぐ、即ち交合・婚姻を意味するものという説もある。
神話では、『古事記』の神産みの段において、黄泉から帰還したイザナギが禊をする際、脱ぎ捨てた褌から道俣神(ちまたのかみ)が化生したとしている。この神は、『日本書紀』や『古語拾遺』ではサルタヒコと同神としている。また、『古事記伝』では『延喜式』「道饗祭祝詞(みちあえのまつりのりと)」の八衢比古(やちまたひこ)、八衢比売(やちまたひめ)と同神であるとしている。
社殿の左側手前に鎮座する社あり。摂社・新田神社だろうか。
参考資料「おおた観光サイトHP」「WEB GUNMA」「Wikipedia」等