鵜森浅間神社
・所在地 埼玉県本庄市鵜森248
・ご祭神 木花咲耶姫命
・社 挌 旧鵜森村鎮守・旧村社
・例祭等 祈年祭 4月3日 例祭 10月17日 新嘗祭 11月10日 他
本庄市・鵜森地域は、本庄台地の末端部から利根川右岸の低地にかけて位置する農業地域で、その北端は元小山川、南端は女堀川で区切られている。
国道17号線を本庄市方向に進み、「鵜森」交差点を右折すると、進行方向正面やや左側の農地内に小高くこんもりとした鵜森浅間神社の社叢林、及び石製の鳥居が見えてくる。
鵜森浅間神社正面
『日本歴史地名大系』 「鵜森村」の解説
鵜ノ森とも記す。本庄台地末端部から利根川南岸の沖積低地にかけて位置し、村の北端を東流する元小山川の対岸は傍示堂(ほうじどう)村、東から北は榛沢郡牧西(もくさい)村、南端を東流する女堀(おんなぼり)川の対岸は東五十子(ひがしいかつこ)村、西は本庄宿。沖積低地の自然堤防上の小字・本郷と台地上の小字・台に分散して集落がある。寛永二年(一六二五)一二月、大平角介(俊堅)は徳川氏から当村で一五石余を宛行われた(記録御用所本古文書)。正保二年(一六四五)の本庄町外石高等領知図(中原家蔵)では高三八〇石、家数二五。
一見すると古墳のような塚上に鎮座している。
「鵜森」という地域名は、『埼玉県地名誌』によると、「ウノキ」からきた地名ではないかとある。ウノキはスイカズラ科の植物で「こねうつぎ」や「やにうつぎ」の別名ともいう。
地域名が命名された当時、この地域にはウノキの茂る森だったのであろうか。「本庄市史」では、浅間神社の森に鵜がたくさん生息していたと記している。またこの社の由来を、寛正年間に起きた五十子陣で陣地を構えた上杉房顕の妻梅沢御前が守護神として祀ったといわれている。
石段前左側に注連縄で祀られている 石段途中の右側に祀られている
「子宝授かり神石」 小御嶽三社大神の石碑
石段手前に設置されている案内板
浅間神社 御由緒
▢縁起 本庄市鵜森二四八
鵜森は、本庄台地の末端部から利根川右岸の低地にかけて位置する農業地域で、その北端は元小山川、南端は女堀川で区切られる。 当社は、集落から離れて田畑の広がる中に鎮座しており、高さ一〇メートルほどの土盛りの上に本殿があるため、遠望すると、あたかも神が一帯を見守っているかのような印象を受ける。なお、鵜森という地名は、かつては当社の杜は今よりもずっと大きく、そこには鵜が生息していたことにちなむものであるといわれている。
当社の創建の年代は不明であるが、口碑に「名主の早野半兵衛が当社と利益寺とを建立した」と伝え、利益寺でも早野半兵衛が天正年間(一五七三~九二)に草創した旨を伝えていることから、口碑に従うならば、当社もそのころ勧請されたものと考えられる。一方『児玉郡誌』は、この地が五十子城砦の要害の地であることから、寛正年間(一四六〇~六六)に上杉管領房顕の奥方の梅沢御前がその守護神として勧請し、社殿を建立した旨を載せており、これに従えば、当社の勧請は口碑に伝えるものよりも一〇〇年以上前のことになる。
また、『風土記稿』に「浅間社 村の鎮守なり、大蔵院持」とあるように、江戶時代には、真言宗系修験の大蔵院が別当であった。神仏分離の後は、当社は明治四年に村社になり、同三十九年に字台の下浅間神社と伊勢神社を合祀したが、大蔵院は明治初年に廃寺になった。(以下略)
案内板より引用
拝 殿
拝殿の左側に祀られている境内社二柱 手長男社・八坂社の奥に祀られている
左から手長男社・八坂社の石祠 大黒天の石碑。その左側の石祠は不明
鵜森地域の小字である「富士」は、旧村社である洗顔神社が鎮座している地内で、「地名と歴史」では、位置が五十子城の北西にあたり、寛正年間に関東管領上杉房顕の妻梅沢御前が守護神として勧請したとの伝承を載せている。社殿は塚の上に鎮座しているが、同書では土塁の一部ではないかとし、神社から西の方向に2m位の土塁が点在しているとしているが、現在ではあまりその遺構は確認できていない。
また、小字「台」は、一般的には土地の高い場所をいうが、鵜森地域ではここにある集落を「高鵜森」と呼んでいるようだ。
境内社・天神の石祠 境内社・天照皇大神宮
塚の西側には降りる階段等があり、その先に「水神」と設置されている案内板がある。
窪地のようではあるが、水は現在ない。
その奥に見える碑は「浅間大神」の石碑
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「本庄の地名① 本庄地域編」
「境内案内板」等