古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

鵜森浅間神社

        
              ・所在地 埼玉県本庄市鵜森
248
              ・ご祭神 木花咲耶姫命
              ・社 格 旧村社
              ・例祭等 祈年祭 4月3日 例祭 10月17日 新嘗祭 12月10日
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2322275,139.2121654,19z?hl=ja&entry=ttu
 本庄市鵜森地区に鎮座する。鵜森浅間神社は国道17号線鵜森交差点北の農地内にポツンと社叢を伴った社が見える。畑の中に社叢が見え、手前には鳥居もある為、ひときわ良く目立つ社だ。つい最近舗装された道路ができたようで、鳥居手前まで進むことができ、そこに車を停めて参拝を行った。
        
              社号額に「富士山」の名を刻んだ鳥居
         鳥居の左側に「村社浅間神社]の社号柱も立てられている。
        
 鳥居を越えると境内になり、参道に沿って正面に石段があり、塚頂部には、浅間神社が祀られている。
石段の手前右側には、由緒を記した案内板があり、左下には「子授かり神石」の名札、山腹には、小御嶽三社大神の石碑が祀ってある。
    
      
鵜森浅間神社 正面参道           石段前右側にある案内板
 62回伊勢神宮式年遷宮記念
 浅間神社 御由緒
 □縁起    本庄市鵜森二四八
 鵜森は、本庄台地の末端部から利根川右岸の低地にかけて位置する農業地域で、その北端は元小山川、南端は女堀川で区切られる。 当社は、集落から離れて田畑の広がる中に鎮座しており、高さ一〇メートルほどの土盛りの上に本殿があるため、遠望すると、あたかも神が一帯を見守っているかのような印象を受ける。なお、鵜森という地名は、かつては当社の杜は今よりもずっと大きく、そこには鵜が生息していたことにちなむものであるといわれている。
 当社の創建の年代は不明であるが、口碑に「名主の早野半兵衛が当社と利益寺とを建立した」と伝え、利益寺でも早野半兵衛が天正年間(一五七三~九二)に草創した旨を伝えていることから、口碑に従うならば、当社もそのころ勧請されたものと考えられる。一方『児玉郡誌』は、この地が五十子城砦の要害の地であることから、寛正年間(一四六〇~六六)に上杉管領房顕の奥方の梅沢御前がその守護神として勧請し、社殿を建立した旨を載せており、これに従えば、当社の勧請は口碑に伝えるものよりも一〇〇年以上前のことになる。
 また、『風土記稿』に「浅間社 村の鎮守なり、大蔵院持」とあるように、江時代には、真言宗系修験の大蔵院が別当であ
った。神仏分離の後は、当社は明治四年に村社になり、同三十九年に字台の下浅間神社と伊勢神社を合祀したが、大蔵院は明治初年に廃寺になった(中略)
                                      案内板より引用
       
       石段前左側には「子授かり神石」 石段途中右側には「小御嶽三社大神」
        
                     拝 殿
        
  拝殿左脇には、天手長男社と八坂神社、その裏に隠れて、大黒天の石碑が祀られていた。
      
        拝殿右側奥には
天照皇大神宮(写真左)と、天神の祠が鎮座(同右)
 
 社殿裏に回ると、赤い手摺があり、石段が下っている。そこは
丸く窪んだ草地があり、冬時期の為か、今は全く水を湛えていない「水神精霊池」の看板が立つ(写真左)。精霊池の先には「浅間大神」の石碑がポツンと立っている(同右)。
 
 2017
年度・本庄教育委員会で発行された
「本庄市の地名①」において、本庄市内の地域名(主として大字)の地名由来を説明している書簡をインターネットにて紹介している。この中で、本庄地域を「本庄」「藤田」「仁手」「旭」「北泉」の5地区に分けて、旧大字ごとに紹介している。本書では江戸時代の古文書や明治時代に作成された行政文書等を参照しているが、江戸時代の文書では、地域によっては資料が残されていない場合もあり、分かる範囲で地名の起こりや、地名の持つ意味等含め本書に記録しているとの事だ。
 地名の読みは難解なものにはルビを付して紹介し、読み方が不明なものはそのままとしている。また地元で古くから呼ばれている呼び名と、現在の表記されている地名が異なる場合でも、本書では両方の読みを紹介しているとの事で、編集にも大変な努力をされたと感じるし、文面も丁寧に紹介されていて、読む方としてはありがたいことだし、このように後世の方々に向けて残すための書は素晴らしいことと感じた次第だ。

さて紹介が長くなったが、浅間神社が鎮座している「鵜森」は「藤田」地区に属し、「鵜森」は以下のように紹介されている。
○鵜森
 鵜森の意味は「埼玉県地方誌」には、ウノキからきた地名ではないかとあり、ウノキはスイカズラ科の植物で、「こねうつぎ」「たにうつぎ」の別名もある。「本庄市史」では浅間神社の森に鵜が沢山生息していたともいう。またこの神社の由来を、寛正年間に起きた五十子陣で陣地を構えた上杉房顕の妻梅沢御前が守護神として祀ったという。
 ・小字名 富士・西・台・川田・石川原・本郷・本郷前・高戸・東
【小字の由来】
・富士…村社である浅間神社が鎮座し、富士浅間信仰に関連した地名だろうか。位置が五十子城の北西にあたり、寛正年間に関東管領上杉房顕の妻梅沢御前が城の守護神として勧請したとの伝承がある。社殿は塚上に鎮座しているが、以前はこの塚から西に延びる高さ2m程の土塁が点在していたというが、現在は残っていない。
・台…一般的に土地の高い場所をいう。小字「富士」の南に隣接する「西」のすぐ南側にある小字。鵜森ではここにある集落を「高鵜森」と呼んでいた。
・東・西…鵜森の両端に位置する。
        

 現在鵜森浅間神社の西側に「浅間大神」の石碑が建っている位置に僅かながら土塁の後らしき遺構が見られるが、小字「富士」の由来にはこの塚から西に延びる高さ2m程の土塁が点在していたという記述がある。またこの「富士」の東西には「東」「西」という同じラインの小字があるところから、もしかしたらこの土塁は小字「富士」周辺のみではなく、「東」「西」にも同様な土塁が存在していたかもしれない。あくまで筆者の推測ではあるが。
 同様にこの鵜森浅間神社を「物見」とした場所として推測すると、五十子陣が築造された当時、陣地近く平行ライン上に「土塁」を構築し、北、東側の敵側の来襲に備えた防御施設ともいえる。
 この五十子陣が20年程最前線基地の一つとしての同じ場所で機能を保持していたこともあり、思った以上の大規模な陣地であったことも容易に想像できる。

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東五十子若電神社

神社散策の目的の一つにその鎮座している地名の由来も含まれる。その地方の独特の名称の由来を自分なりに紐解くことで、その歴史の淵源を少しでも知ることができるからである。
 本庄市には一見変わった地名がある。「五十子」。仕事の途中で偶々通り過ぎた際に、その地名を知ったわけであるが、変に印象が強かった為、業務終了後調べてみると「五十子」と書いて「いかっこ、いかこ、いそこ」と読む。時には「いかご」」とも読まれるようだ。
 この地域は東流する女掘川の侵食により、段丘崖が形成され、その北方には利根川の低地帯が広がる。南には小山川があり、東南800m地点で志戸川と合流している。これにより、北・東・南の三方を河川の段丘崖に画された自然の要害地となっていて、段丘崖の比高差は37mになる。
「五十子」地区はその地形上の特性から、室町時代中期に発生した『
享徳の乱』における激戦地の一つで、時の古河公方・足利成氏と関東管領・上杉氏一族の間で行われた戦いであり、長禄3年(1459年)から文明9年(1477年)にかけて断続的に続けられた合戦である。5代鎌倉公方・足利成氏が関東管領・上杉憲忠を暗殺した事に端を発し、室町幕府・足利将軍家と結んだ山内上杉家・扇谷上杉家が、足利成氏と争い、関東地方一円に拡大した戦いであり、享徳の乱は、関東地方における戦国時代の始まりと位置付けられている。
         
              ・所在地 埼玉県本庄市東五十子10
              ・ご祭神 別雷命
              ・社 格 旧村社
              ・例 祭 祈年祭 220日 春祭り 44日 天王祭 旧暦61
                   秋祭り 1019
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2281387,139.2089377,17z?hl=ja&entry=ttu
 
東五十子若電神社は国道17号を本庄方面に進み、17号バイパスと合流後、鵜森交差点を左折、そのまま道なりに進むと、「増上寺」が右側に見え、そのお寺の隣にこんもりとした古墳上にこの社は鎮座している。駐車スペースは社周辺にはなく、隣接するお寺の駐車場に停めて、参拝を行った。
         
            
東五十子若電神社正面の鳥居。左側には案内板あり。
         
                      案内板
 若電神社 御由緒
 本庄市東五十子一〇
 □御縁起(歴史)
 東五十子は、南を小山川、北を女堀川に挟まれた地域で、集落は台地上にある。中世には五十子のうちに含まれ、長禄三年(一四五九)ころ、関東管領山内上杉房顕が当地に砦を築いて自ら滞在して陣頭指揮を執ったので、これを五十子陣と呼ぶ。元禄年間(一六八八-一七〇四)に当村と西五十子村に分村したという。
 当社は、集落の西南端に鎮座し、高さ三・ニメートル、直径約二〇メー トルの古墳の上に祀られる。創建については『児玉郡誌』に「当社は古老の口碑に、三代実録に記載しある若電神社なりと云ひ伝ふ。天慶年中(九三八-九四七)平将門追討の際、藤原秀郷当社に来り戦勝を祈願し、武蔵守就任の後、報賽として、社殿を再建し、別当職として増国寺を創立す(以下略)」と記される。また、社家の諏訪家に伝わる口碑によると、当社は元来西五十子に鎮座する大寄諏訪神社と小山川を挟んで相対して祀られていたが、小山川の氾濫により当地に流れ着いたので、神聖な古墳上に祀ったという。更に『風土記稿』には「雷電社本地十一面観音を安ず、増国寺の持」と載る。
 明治初年の神仏分離により、当社は別当の増国寺から離れ、村社となった。『明細帳』によれば、現在の社殿は元和八年(一六二二)に三度目の建て替えをしたという。更に、明治四十二年一月に請負人大工本荘町小暮庄九郎、塗師請負坂本自作により改築修繕が行われた(中略)
                                    
境内掲示板より引用
 
    参道正面。古墳頂上部に社が鎮座          参道途中右手には手水舎
 五十子(いらこ・いかご)の戦いは、古河公方・足利成氏と関東管領・上杉氏一族の間で行われた戦いである。「享徳の乱」における激戦の一つであり、武蔵国の五十子周辺において、長禄3年(1459年)から文明9年(1477年)にかけて断続的に続けられた合戦で、
関東管領である上杉房顕が、古河公方である足利成氏との対決に際し、当地に陣を構え築いたものが五十子陣である。
 この「五十子」は本庄台地の最東端に位置し、利根川西南地域を支配していた上杉方にとって、利根川東北地域を支配していた足利方に対する最前戦の地として選ばれた。このように武蔵国五十子(現埼玉県本庄市)は上杉房顕&顕定が古河公方:足利成氏(しげうじ)と約
20年に渡って対峙し続けた場所であり、短期間とはいえ上杉方にとっては攻防一体の戦陣に適した戦略上の重要拠点でもあったといえる。
      
           古墳前であり、社の階段前に聳え立つ御神木。
 もともと
この乱の発端は、南北朝時代から始まるという。本拠地が関東でありながら、南北朝の混乱のために京都の室町にて幕府を開く事になった初代室町幕府将軍・足利尊氏が、将軍は常時京都に滞在せねばならない為、留守になってしまう関東を統治するため、自身の四男である足利基氏(もとうじ)を鎌倉公方として、関東に派遣した事に始まる。
 以来、将軍職は尊氏嫡男の足利義詮(よしあきら=2代将軍)の家系が代々継ぎ、鎌倉公方は基氏の家系が代々継いでいき、鎌倉公方の補佐する関東管領(当初は関東執事)には上杉(うえすぎ)氏が将軍家の命により代々就任する事になったが、徐々に、鎌倉公方は将軍家、並びに将軍家のお目付け役であり、後見的存在でもあるである関東管領とも対立し、独立政権として、自らの道を歩み始めようとするようになった。この対立構造は年々顕著になっていき、これを話し合いという平和的な解決方法ではなく、軍事的な行動により決着させようとした、俊才でありながら「籤(くじ)引き将軍」とも「万人恐怖の独裁者」と言われた6代将軍足利義教は、前関東管領上杉憲実を討伐しようと軍を起こした第4代鎌倉公方足利持氏を、逆に憲実と共に攻め滅ぼした(永享の乱)。その後、義教が実子を次の鎌倉公方として下向させようとすると、結城氏朝などが持氏の遺児の春王丸、安王丸を奉じて挙兵する結城合戦が起こるが、これも鎮圧され、関東は幕府の強い影響の元、上杉氏の専制統治がなされた。
 しかし、嘉吉の乱により将軍義教が赤松満祐に殺害されると、幕府は関東地方の安定を図るため、上杉氏の専制に対抗して鎌倉府の再興を願い出ていた越後守護上杉房朝や関東地方の武士団の要求に応え、持氏の子永寿王丸(足利成氏)を立てることを許し、ここに鎌倉府は再興された。
         
                  社殿。墳頂部に鎮座する。
 再興後の鎌倉府では、持氏が滅ぼされる原因となった憲実の息子である上杉憲忠が父の反対を押し切り関東管領に就任し、成氏を補佐し始めたが、成氏は持氏派であった結城氏、里見氏、小田氏等を重用し、上杉氏を遠ざけ始めた。当然、憲忠は彼ら成氏派に反発し、関東管領を務めた山内上杉家の家宰である長尾景仲、扇谷上杉家の家宰太田資清(太田道灌の父)らは、結城氏等の進出を阻止するため、宝徳2年(1450年)に成氏を攻めた。この合戦は間もなく和議が成立したが、これにより鎌倉公方と上杉氏との対立は容易に解消し得ない状態となった。
 鎌倉を辞していた憲忠は間もなく許され鎌倉に戻ったが、成氏により景仲方の武士の所領が没収されたことを契機に、成氏と景仲ら憲忠家臣団との対立は所領問題に発展したとされている。
 
   社殿に掲げてある「若電神社」の扁額        社殿手前には神楽殿あり
 享徳31227日(1455115日)、長尾景仲が鎌倉不在の隙に鎌倉公方・足利成氏は、関東管領・上杉憲忠を謀殺。里見氏、武田氏等の成氏側近が長尾実景・憲景父子も殺害した。在京していた憲忠の弟上杉房顕は兄の後を継いで関東管領に就任、従弟の越後守護上杉房定(房朝の従弟で養子)と合流して上野平井城に拠り、「享徳の乱」が勃発した。
         
                     境内の様子
 この「五十子」地域は河川等が合流して形成される段丘上に位置する地形上の要衝地である以外にも、
鎌倉時代からの主街道である「鎌倉街道・大道」が武蔵国南部から北西方向に続き、上州に至る結節点でもあり、古利根川以西を掌握していた関東管領家側にとって、この道を奪取される事(分断される事)は戦力に大きな影響を与える事になる。
 武州北西部の辺りで、前橋方面、児玉山麓方面、越後方面への分岐点があり、ちょうどこの分岐点の南側前面に本庄は位置していて、この大道を守護する必要性が生じた事も五十子陣が築造される事となった一因である。
 東西を分け断つ地理的な要因と南北へと続く軍事面での道路の関係上、武蔵国の北西部国境沿いに位置した本庄・五十子は、山内上杉家と古河公方家が対立する最前線地の一つと化したわけである。

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下浅見八幡神社

「児玉党」は平安時代末に出現した武蔵武士団である武蔵七党の一派である。かれらは神川町の阿久原牧という牧場に派遣されてきた別当 (牧場を管理する職務)の貴族藤原氏と主従関係(或いは血縁関係)を結び、自ら開いた土地を「児玉庄」という庄園を作り貴族に寄進して中央権力の庇護を得た。
 児玉町域内にいた児玉党の一族は「庄・児玉・蛭川・塩谷・阿佐美・河内・真下氏」等がいた。その彼らの党祖とも言える児玉弘行・経行兄弟は八幡太郎義家に従い奥州合戦に従軍し、その後も義家の命で上野国多胡氏を討ち滅ぼしたりして活躍し、武家の棟梁たる源氏と児玉党と塩屋氏館跡推定地の深い繋がりを築いた。
 児玉党の一派である阿佐美氏(あさみし)は、武蔵国児玉郡入浅見村(現在の埼玉県本庄市児玉町入浅見)発祥の氏族で、武蔵七党中最大の武士団とされた児玉党を構成する氏族である。
        
            ・所在地 埼玉県本庄市児玉町下浅見879
            ・ご祭神 誉田別尊
            ・社 格 旧下浅見村鎮守・旧村社
            ・例祭等 春祭り 44日 秋祭り 1015日 新嘗祭 1210
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2115669,139.1636033,17z?hl=ja&entry=ttu  
 下浅見八幡神社は埼玉県道352号児玉町蛭川普済寺線を児玉町方向に進む。小山川を越えて暫く道なりに進み、下児玉交差点を右折してしばらく進むと、進行方向に対して左側にポツンと独立した大きな鳥居が見えてくる。参拝時刻は午前中で快晴であったが、鳥居正面に対して太陽を正面に浴びる状態になり、逆光状態での撮影となってしまった。
        
 そこで以前参拝して撮影した写真を載せる。因みに撮影日は平成26年8月4日の午後。撮影する時刻も考慮する必要もあると反省したと同時に、カメラ機能の調整(ISO感度は少し低めに調整するか露出補正で明るさ調節等)により、逆光状態でも十分に対応できることも、参拝終了後改めて知った。


        
               撮影日 平成26年8月4日(午後)
 鳥居を過ぎると正面にこんもりとした社叢が見える。
神社境内地の大部分が元は古墳だったのではないかと思ったが,案内板等では近郊の館である「関根氏館」に対して見渡せる小高い丘を選んで館の守護神として鎮座しているとの事だ。
 因みに「関根氏館」は阿佐美実高の館があったと伝っているが、「関根氏」の館の名称からも後代に関根氏が住んでから付けられたと考えられ、阿佐美氏とどのような関係があったかは現在判明していない。明治の地籍図でも確認されているが70mほどの方形区画に水路として使用されたと思われる外堀跡もみられ、一説によると外堀は幾重にも設けられていたと伝わるそうだ。
 駐車スペースは社殿外に確保されており、そこに停めて参拝を行った。
          
                        社殿前には朱を基調とした二の鳥居が立つ。
                        
                                 鳥居の近くにある案内板
               
                     拝  殿
 □八幡神社 御由来 
 御縁起(歴史)   
 下浅見は、かつては入浅見と共に阿佐美といわれ、児玉党阿佐美氏の本貫の地とされる。 児玉党系図(諸家系図纂)によると、児玉庄大夫家弘の末男弘方が、阿佐美氏を称している。弘方の子実高は、文治五年(一一八九)の奥州征伐に従軍し、翌年の源頼朝上洛の際にも供奉したことが『吾妻鏡』に見える。 地内の字新堀には「関根氏館」と呼ばれる館跡があり、一辺が七   〇メートル前後の正方形の内堀が現存する。この地をかつては「二重堀」と呼んだことから、外堀もあったと考えられるが、現状では確認できない。明治期に書かれた「下浅見地誌」には、浅見実高が居住したとある。
 当社は、『児玉郡誌』によれば、浅見実高が奥州征伐の帰陣の際、鶴岡八幡宮を当地に勧請して産土神としたという。当社は、館跡から見て南東で、館に続く街道沿いの小高い丘の上に鎮座することから、館を見渡せる場所を選んで、館の守護神として祀ったのであろう。
『風土記稿』によれば、当社は村の鎮守で、地内の成就院持であった。 成就院の開山頼元は、元禄七年(一六九四)寂と伝えられる。
 明治に入り、当社は別当成就院を離れて、村社となった。明治四十年には字雷電山の無格社雷電神社を本殿に合祀した。なお、『明細帳』によれば、現在の社殿は正保五年(一六四八)の再興である。本殿には、木造の騎乗八幡大明神像(高さ二二センチメートル)が奉安されている。
                                      案内板より引用
 
   拝殿に掲げている「八幡宮」の扁額             本  殿
        
      社殿の左側には広い空間があり、その周りには境内社等が鎮座している。
 
      境内社  名称不明
          社殿の左奥で丘の上に鎮座する末社群
 
      社殿奥の丘上に鎮座する                社殿の奥で丘上に鎮座する末社群
   
御嶽大神、三笠山大神、八海山大神等            名称不明

 児玉党は、平安時代後期から鎌倉時代にかけて武蔵国で割拠した武士団の一軍団で、主に武蔵国最北端域全域(現在の埼玉県本庄市・児玉郡付近)を中心に入西・秩父・上野国辺りまで拠点を置いていた。
 武蔵七党の一つとして数えられる児玉党は諸々の武士団の中では最大勢力の集団を形成していたという。氏祖は、藤原北家流・藤原伊周の家司だった有道惟能が藤原伊周の失脚により武蔵国に下向し、その子息の有道惟行が神流川の中流部にあった阿久原牧を管理し、ここに住して児玉党の祖となった有道氏である。また「有」とは、有道氏の略称として伝わる。子孫の多くは神流川の扇状地に広がって、猪俣党と共に児玉の条里地域を分けていた。牧に発し、子孫が条里地域に広がっている。
 古書などでは、児玉党を「武蔵七党中、最大にして最強の武士団」と書いているが、集団の規模が大きかったために滅びにくかったというだけのことであり、負け戦も少なくはない。但し他の武蔵国の中小武士団と比べれば、長続きしたのも事実でもある。
        
               駐車場から撮影、やはり逆光。

「浅見」との地名の由来は、埼玉県本庄市児玉町入浅見・下浅見発祥。戦国時代に「阿佐美」の表記で記録のある地名で、苗字としても同地で平安時代末期に阿佐美姓を称したと伝えている。「浅見」という苗字は埼玉県特有の苗字らしく、秩父地方を中心に奥多摩から群馬県の南部にかけて、全国の半数が分布する。

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都島角折神社

 本庄市都島地区は元々上野国に属していたらしく、慶長十七年検地帳に上州国那波郡都島村と記述されていている。上野国史によると、武州杉山、新井、都島、山王堂、沼和田、仁手等の数村は、古へ上野国那波郡に属していたが、寛永中の利根川及び支流の烏川の洪水で流路が変わり、武蔵国に編入されたと記されている。また武蔵風土記によると横瀬村華蔵寺大日堂天正十一年の棟札に、上野国新田庄勢多郡横瀬郷とあるし、又和名抄賀美郡郷名に載せてある小島は、今の小島村と考えられるから、烏川の流路は寛永年中に賀美郡忍保から現在の八町河原に移ったものと考えられる。
 この都島地区に鎮座する角折神社にも「那波八郎」伝説は存在する。都島地区は嘗て那波郡と陸続きだった時期があった。寛政年間以前の利根川流路の痕跡が
この伝説の存在により残っているというべきだろうか。
所在地   埼玉県本庄市都島235
御祭神   角折神
社  挌   不明
例  祭   11月3日 秋季例大祭
           
 都島角折神社は小島唐鈴神社から北側1、5km程の場所に鎮座している。 国道17号小島交差点の左側脇に唐鈴神社は鎮座しているが、そこを右折し、そのまま北上すると旭公民館の向かい側に都島角折神社は鎮座している。道路側から狭い境内に通じる道に入るのはやや憚ったが、今回は無理やり駐車し参拝を行った。
           
                          角折神社の両部鳥居
 都島角折神社が鎮座している都島地区は烏川と利根川が合流するすぐ南岸に位置し、地形上烏川低地帯に含まれていて、その中の自然堤防上に鎮座している。
 この地域名「都島」は、小鹿野町吉田文書に「正月四日(天正七年)、北条氏政は、去年十二月二十八日の宮古島衆(北条方)と倉賀野衆(武田方)との合戦における氏邦家臣吉田和泉守の戦功を賞す」と記述され、この地域の土豪集団の名称から、本来の地名は「宮古島」で、後に「都島」と変わったのではないかと思われる。
           
                          都島角折神社案内板

角折神社
 所在地 本庄市都島二三五
 角折神社の由来は、清和天皇の貞観年間(859~877)京都から公卿某が東国に下向した折に、勅使河原(現上里町内)に至りさらに上州那波郡茂木郷に移ったところ、この地に魔鬼が現われ民衆を苦しめているのを見て、魔鬼の角を折って退治したと伝えられる。以来、都島の里人はこの剛勇の公卿を崇拝して角折明神と称し、後世に伝えるため神祠を建てて祀ったと伝えられている。
 社殿は享保年間(1716~1736)の建築で、徳川時代には正観寺がその別当職であった。
 なお、境内には、九頭竜神社と八郎神社も祀られている。
 九頭竜神社は、昔、正観寺の北側にあったが、後にこの地に神殿を移したものである。この都島の辺は利根川と烏川が合流し、水域の移り変わりが激しい所で、たびたび洪水にみまわれたが、当社に瀬引の祈願をしたところ川の流れが北に変り洪水がなくなったという伝説がある。
 八郎神社は疱瘡除けの神として、鎮西八郎を祀ったものである。明治時代には近隣町村からの参詣者が多く、同社の「鎮西八郎子孫」の御札を住居の入口に貼っておけば疱瘡の疫病神が舞い込まないと言われている。
 昭和六十一年三月
                                                           案内板より引用


 案内板前半の記述では、「那波八郎大明神神事」がモチーフとなっているようだが、詳細を調べてみるとかなりの違いがある。「那波大明神神事」の内容は長くなるので省略するが、本来の伝承では怨霊(大蛇)と化した那波八郎が京からきた若い公家からお経を唱えられ、蛇は成仏して那波大明神になったというのだが、この都島角折神社の案内板では、対峙した人物は「京からきた公卿」でそこは同じだが、怨霊ではなく角のある「魔鬼」であり、「那波八郎」であるかの記述もなく、ただ「魔鬼が現れて民衆を苦しめた」としか書かれていない。そして「那波大明神神事」では祀られた対象は「那波八郎」だがこの案内板では退治した当の人物である「剛毅な公卿」が「角折明神」として祀られている。

 案内板後半はもっと混乱していて、境内社である八郎神社は「八郎」を祀っているが「那波八郎」ではなく、同じ八郎でも「鎮西八郎(おそらく源為朝)」を祀っている。由来、由緒は語部による口伝えが主であったろうから、伝説が各地に浸透するなかで、地域的変化が生じることは致し方ないこととはいえ、かなりの脱線が見られる。正確な記録の伝承は何時の世にも必要なことだ。
           
                             拝     殿

        拝殿の右隣にある八郎神社             拝殿の左側手前にある九頭竜神社
           
                          社殿を西側から撮影

 ところで上野国佐位郡一帯に勢力を誇っていた桧前一族は、当時の政治を掌握していて天皇以上の権力を有していた蘇我氏のもとで、大和政権の外交・財政・軍事などに深く関わって成長してきたとされている。つまり桧前一族は蘇我氏の配下であり、ブレーンでもあったと思われる。蘇我氏の協力があり、桧前一族は日本国中にその勢力範囲を広げたと思われる。その中の一派が上野国佐位郡を中心に北武蔵国にもその範囲を広げたと考えられる。角折神社が鎮座する「都島」地区はその範囲内に含まれていた可能性が高い。
 この「都(宮古)島」は「都(宮古)」+「島」と分割することができ、本来の地名は「宮古」であろう。前述の小鹿野町吉田文書は天正7年(1579年)に北条氏政が配下の吉田和泉守政重に送った感状であり、少なくとも16世紀にはこの「宮古島」という名は存在していたことになり、決して近年に付けられた地名でないことが分かる。
 また伊勢崎市の大字には「宮古」「宮子」「宮前」「上之宮」といった「宮」のつく地名が多数あり、 更に伊勢崎市宮郷地区は嘗て「宮の郷」と呼ばれていたということから、少なくともこの地域は「宮」に関連した地域であることは間違いない。
 但し那波郡には7つの郷があるが、その中に宮の郷は存在しないことから、ある意味地元の人々の尊称名ではないかと考えられる。またこの地域には延喜式内社である火雷神社倭文神社、それに那波総社の飯玉神社も鎮座していて、「宮」の地名を付ける根拠も確かにある為、即決するのは危険であり、さらなる考証は必要だ。


       鳥居や案内板の隣にある石祠               社殿と八郎神社の間にある石祠

  社殿を左側に回るとその先には数基の石祠あり          石祠の手前にある境内社


 都島角折神社の北側と西側面に社を取り囲むように自然堤防が伸びている。嘗てある時期に河川の通り道だったかのようにこの堤防は東側に伸びて、最終的には利根川に合流する。 暴れ川の名称を持つ利根川の乱流を物語るわずかな痕跡の一つであるこの自然堤防は、現在この長閑な田園風景の一つに溶け込んでいるようだった。


 

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小島唐鈴神社

 那波八郎伝説は利根川左岸中流域を限定した一区域内の民間伝承・伝説の類であるが、利根川右岸にもその痕跡は残っていて、本庄市小島地区に鎮座する唐鈴神社という一風変わった名前の社の伝承にも那波八郎に関する記述が存在する。
 本庄市小島地区から真北には利根川を挟んで伊勢崎市堀口地区があり、地区内には那波総社飯玉神社が鎮座する。共に那波八郎の伝承を共有する社同士で、地形的に見ても南北同線上に鎮座しているこの事実から、何かしらの関連性が伺わせる。
 規模も小さく閑散として何となく寂れた社、という第一印象であったが、調べてみると歴史も古く、決して侮れない、そんな社をまた一つ発見してしまった思いだ。
所在地   埼玉県本庄市小島5-433
御祭神   大国主命・素戔嗚尊・宇迦之御魂神
社  挌   旧村社
例  祭   不明

       
 小島唐鈴神社は国道17号を上里町方向に進み、本庄市街地を抜けた小島交差点を左折するとすぐ左側に見えてくる。丁度交差点の脇に社殿が鎮座しているので、小島交差点からよく見える為場所は解りやすい。ただそこから一の鳥居までの参道は数百m程あり、しかも一の鳥居付近には適当な駐車場や駐車スペースがない為、近隣にある長松寺の駐車場に置かせてもらい参拝を行った。
           
               道路沿いにある唐鈴神社一の鳥居とその先にある参道。

       一の鳥居に掲げている社号額              一の鳥居からの参道が結構長い。
              
          一の鳥居から参道を進むと二の鳥居があり、その先右側に案内板がある。

唐鈴神社
 所在地 本庄市小島五‐四
 唐鈴神社の祭神は、大国主命・素盞鳴尊・倉稲魂命である。
 社伝によれば、遣唐使として唐国に渡った大伴宿根古麿が、天平勝宝年間(749~757)に帰国の折、唐国の玄宗皇帝より渡海安全のため金鈴を授けられた。
 その後、古麿は武蔵野国武州小島郷皇坂(現在の長松寺境内)に館を築く。その子古佐美、さらにその子良麿三代がこの地に住んだ。この時、良麿は五穀豊穣のため秘蔵の唐鈴と、出雲国氷川の杵築大社(現出雲大社)を分霊し二柱を祀り社を創立した、後に、良麿は帰京を任ぜられたが、その際に神宝の盗難を恐れ石函に入れ、社の下に埋めた。
 そして幾歳月がすぎ、戦乱の世に社も破壊された。これを嘆いた近在の人々が再興のため社跡を掘ると石函が出土し、中に五つの金鈴があったと言う。石函には、大伴宿根古麿が玄宗皇帝から賜った唐鈴であることが記されていたと伝えられる。これが唐鈴神社の由来である。
 なお、社殿裏の交差点一帯は、小島本伝遺跡で、古墳時代の住居跡が発掘されている。また、西方には、県選定重要遺跡の旭・小島古墳群があり、その中の八幡山古墳など数基は、本庄市の文化財にも指定されている。
 昭和六十一年三月
                                                          案内板より引用

 この案内板に登場する大伴宿根古麿とは、大伴宿祢古麻呂のことであろう。この人物の生年は不詳であり、没年は天平宝字元年7月4日(757年7月24日))と言われている。
 大伴氏は古来から続く名族で,天孫降臨の時に先導を行った天忍日命の子孫とされる天津神系氏族である。「大伴」は「大いなる伴部」という意味で、朝廷に直属する多数の伴部を率いていたことに因む名称。古来から物部氏と共に朝廷の軍事を掌握していた軍事氏族という一面を持つ。両氏族には親衛隊的な面を持つ大伴氏に対して、国軍的な意味合いの強い物部氏との違いがあるといわれて、大伴氏は朝廷の警護を任されていた近衛兵のような存在と言われている。が古代よりそのような機構が整備されていたかどうかは正直言ってハッキリとは判明していないのが実情だ。
 大伴氏は5世紀雄略天皇の頃中央での葛城氏に代わって覇権を確立し、大伴室屋は大連に任命されるころからその孫金村に至る時期がその全盛期にあたり、特にこの金村は平群真鳥の乱を平定し、さらに継体天皇を担いで王位継承戦争を戦い勝利するなど政略的能力を如何なく発揮し、物部氏や蘇我氏と共に朝廷内で重きをなしたが、任那割譲問題の失政が原因で勢力を急速に縮小する。しかし大化改新後の金村の孫である右大臣長徳やその兄弟である吹負や馬来田が壬申の乱に際して活躍し復権。天武天皇の御代に宿禰を賜姓され、奈良朝には宮廷人として相当栄え参議以上の官職ににおいてる者もかなり見られた。
           
                             拝     殿

       拝殿手前左手側にある天王宮        拝殿の右側には国常立神・国狭槌神・豊斟渟神
                                              の石碑
 案内板に記されている大伴宿祢古麻呂は奈良時代の官人で、第十回遣唐使の副使を拝命されたくらいであるから学識もあり容姿も端麗な人物であったらしい。それに加え軍事氏族大伴一族の気風を受け継いでいてかなりの硬骨漢だったようだ。この第十回遣唐使、天平勝宝5年(753年)正月、玄宗臨御の諸藩の朝賀に出席し、古麻呂は日本の席次が西畔(西側)第二席で、新羅の東畔第一席より下であったことに抗議し、新羅より上席に代えさせている逸話がある。また天平勝宝6年(754年)の帰国の際には、唐朝、揚州出身の鑑真和上とその弟子24人を便乗し帰国する。この鑑真の来朝も実は密航で、鑑真和上は渡航を希望していたが、時の唐の官憲が鑑真和上の渡航を禁止しているのを無理やり独断で鑑真一行を自分の乗る第二副使船に乗せたという。後に事実が露見して外交問題に発展するのを恐れて大使である藤原清河は渡航を禁止したほどだったから、いかにこの人物が反骨があり、義を重んじる人物だったかわかるだろう。
 当時の大伴氏の中心人物は大伴旅人で、最終階位は従二位・大納言。政治的には長屋王に組していたといわれる。時は藤原鎌足を祖として藤原不比等の時代にのし上がってきた新興氏族・藤原氏が台頭していた時代で、藤原氏はこの旅人を目障りな存在として映っていたのか、遠い九州に2度赴むかさせている。天平2年(730年)6月に旅人が危篤になった時、旅人は腹違いの弟・稲公(いなきみ)と甥の古麻呂に遺言を告げたという。古麻呂は大伴氏の将来を託すに足る人物と旅人に認められていたことではなかろうか。
           
                             拝     殿
 長屋王は、藤原氏の陰謀により神亀6年(729年)2月に自害し、大伴旅人は前出の危篤状態から一旦は回復し、京に呼び戻されたが、ほどなく天平3年(731年)7月に病没。藤原氏も天然痘により四兄弟が相次いで病没し、橘諸兄等、非藤原氏が政治の中心となったが、聖武天皇の皇后光明皇后の信頼が厚い藤原南家・藤原仲麻呂の台頭により大伴古麻呂は橘奈良麻呂の乱に連座、拷問の末に絶命したという。

 案内板には大伴古麻呂が当地に館を築いたと書かれているが、古麻呂自身は遣唐使以外はほぼ京にいて、東国に赴いた記事はない。僅かに天平宝字元年(757年)6月に鎮守将軍兼陸奥按察使兼任となり、陸奥国への赴任を命じられたとの記述はあるが、翌月には橘奈良麻呂の乱に連座されていて、時間的に厳しい。ただ大伴氏は歴史もあり、大伴氏に関連した氏族がこの地に移住、統治したことはあながち間違いではあるまい。正倉院庸布墨書銘に「天平勝宝五年十一月、武蔵国加美郡武川郷戸主大伴直牛麻呂、戸口大伴直荒当が庸布を貢納す」とあり直姓の大伴氏の存在が近隣に存在していたし、児玉郡には桧前一族の配下に「大伴国足」という人物がいたことが飯倉村字山崎遺跡の銘に残っているという。

       社殿裏手に一列に並ぶ末社群              社殿の手前道路側にある社日

 しかしそれよりこの本庄市小島地区に「那波八郎」に関する伝説があること自体注目に値する。
 伊勢崎市角渕に鎮座する角渕八幡神社の伝説によると、嘗て貞観(じょうがん)4年(862)の10月から翌11月にかけて天災や不吉なことが続いていた。そこで、国司は神官に命じて火雷神社(玉村町下之宮)において神事を執り行わせようとし、その際、副使としてこの地を治めていた武士那波八郎廣純(なわはちろうひろずみ)を同行させた。神官が、斎戒し注連を結んで四方を祈祷し、神前に幣帛を奉り、神鏡を捧げて祈祷を行っていた7日目、怪物が姿を現し、神鏡を奪おうとした。那波八郎廣純は刀を振ってその首を切り落とした。このとき、怪物の折れた角を川に投げ、後に淵になったところが、現在の玉村町「角渕」であり、切った手を捨てたところが玉村町「上之手」(神の手)であるという。更にこの時、はねられた魔物の首を祀ったのが、本庄市小島にある唐鈴神社とされている。
 この説話から見えてくることは、この小島地区は、ある時期那波八郎伝説を共通する文化圏に属していたということだ。属するというのは文化的とも、経済的とも取れるし、もっと深く推測すると那波氏の支配下地域だったのともいえる。自分たちにとって安心できる地域だからこそこの地に祀ったと考えた方が自然だ。

 ところで案内板では唐の帰国の際に贈られた金鈴が御神体とも言われ、伝説では魔物の首を祀っている・・・何故相反するものが共存して祀られているのか、それとも魔物=鈴なのか、伝説の中に面白い真実が隠されているような気がしてならない。

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