鵜森浅間神社
・所在地 埼玉県本庄市鵜森248
・ご祭神 木花咲耶姫命
・社 格 旧村社
・例祭等 祈年祭 4月3日 例祭 10月17日 新嘗祭 12月10日
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2322275,139.2121654,19z?hl=ja&entry=ttu
本庄市鵜森地区に鎮座する。鵜森浅間神社は国道17号線鵜森交差点北の農地内にポツンと社叢を伴った社が見える。畑の中に社叢が見え、手前には鳥居もある為、ひときわ良く目立つ社だ。つい最近舗装された道路ができたようで、鳥居手前まで進むことができ、そこに車を停めて参拝を行った。
社号額に「富士山」の名を刻んだ鳥居
鳥居の左側に「村社浅間神社]の社号柱も立てられている。
鳥居を越えると境内になり、参道に沿って正面に石段があり、塚頂部には、浅間神社が祀られている。石段の手前右側には、由緒を記した案内板があり、左下には「子授かり神石」の名札、山腹には、小御嶽三社大神の石碑が祀ってある。
鵜森浅間神社 正面参道 石段前右側にある案内板
第62回伊勢神宮式年遷宮記念
浅間神社 御由緒
□縁起 本庄市鵜森二四八
鵜森は、本庄台地の末端部から利根川右岸の低地にかけて位置する農業地域で、その北端は元小山川、南端は女堀川で区切られる。 当社は、集落から離れて田畑の広がる中に鎮座しており、高さ一〇メートルほどの土盛りの上に本殿があるため、遠望すると、あたかも神が一帯を見守っているかのような印象を受ける。なお、鵜森という地名は、かつては当社の杜は今よりもずっと大きく、そこには鵜が生息していたことにちなむものであるといわれている。
当社の創建の年代は不明であるが、口碑に「名主の早野半兵衛が当社と利益寺とを建立した」と伝え、利益寺でも早野半兵衛が天正年間(一五七三~九二)に草創した旨を伝えていることから、口碑に従うならば、当社もそのころ勧請されたものと考えられる。一方『児玉郡誌』は、この地が五十子城砦の要害の地であることから、寛正年間(一四六〇~六六)に上杉管領房顕の奥方の梅沢御前がその守護神として勧請し、社殿を建立した旨を載せており、これに従えば、当社の勧請は口碑に伝えるものよりも一〇〇年以上前のことになる。
また、『風土記稿』に「浅間社 村の鎮守なり、大蔵院持」とあるように、江戶時代には、真言宗系修験の大蔵院が別当であった。神仏分離の後は、当社は明治四年に村社になり、同三十九年に字台の下浅間神社と伊勢神社を合祀したが、大蔵院は明治初年に廃寺になった(中略)
案内板より引用
石段前左側には「子授かり神石」 石段途中右側には「小御嶽三社大神」
拝 殿
拝殿左脇には、天手長男社と八坂神社、その裏に隠れて、大黒天の石碑が祀られていた。
拝殿右側奥には天照皇大神宮(写真左)と、天神の祠が鎮座(同右)
社殿裏に回ると、赤い手摺があり、石段が下っている。そこは丸く窪んだ草地があり、冬時期の為か、今は全く水を湛えていない「水神精霊池」の看板が立つ(写真左)。精霊池の先には「浅間大神」の石碑がポツンと立っている(同右)。
2017年度・本庄教育委員会で発行された「本庄市の地名①」において、本庄市内の地域名(主として大字)の地名由来を説明している書簡をインターネットにて紹介している。この中で、本庄地域を「本庄」「藤田」「仁手」「旭」「北泉」の5地区に分けて、旧大字ごとに紹介している。本書では江戸時代の古文書や明治時代に作成された行政文書等を参照しているが、江戸時代の文書では、地域によっては資料が残されていない場合もあり、分かる範囲で地名の起こりや、地名の持つ意味等含め本書に記録しているとの事だ。
地名の読みは難解なものにはルビを付して紹介し、読み方が不明なものはそのままとしている。また地元で古くから呼ばれている呼び名と、現在の表記されている地名が異なる場合でも、本書では両方の読みを紹介しているとの事で、編集にも大変な努力をされたと感じるし、文面も丁寧に紹介されていて、読む方としてはありがたいことだし、このように後世の方々に向けて残すための書は素晴らしいことと感じた次第だ。
さて紹介が長くなったが、浅間神社が鎮座している「鵜森」は「藤田」地区に属し、「鵜森」は以下のように紹介されている。
○鵜森
鵜森の意味は「埼玉県地方誌」には、ウノキからきた地名ではないかとあり、ウノキはスイカズラ科の植物で、「こねうつぎ」「たにうつぎ」の別名もある。「本庄市史」では浅間神社の森に鵜が沢山生息していたともいう。またこの神社の由来を、寛正年間に起きた五十子陣で陣地を構えた上杉房顕の妻梅沢御前が守護神として祀ったという。
・小字名 富士・西・台・川田・石川原・本郷・本郷前・高戸・東
【小字の由来】
・富士…村社である浅間神社が鎮座し、富士浅間信仰に関連した地名だろうか。位置が五十子城の北西にあたり、寛正年間に関東管領上杉房顕の妻梅沢御前が城の守護神として勧請したとの伝承がある。社殿は塚上に鎮座しているが、以前はこの塚から西に延びる高さ2m程の土塁が点在していたというが、現在は残っていない。
・台…一般的に土地の高い場所をいう。小字「富士」の南に隣接する「西」のすぐ南側にある小字。鵜森ではここにある集落を「高鵜森」と呼んでいた。
・東・西…鵜森の両端に位置する。
現在鵜森浅間神社の西側に「浅間大神」の石碑が建っている位置に僅かながら土塁の後らしき遺構が見られるが、小字「富士」の由来にはこの塚から西に延びる高さ2m程の土塁が点在していたという記述がある。またこの「富士」の東西には「東」「西」という同じラインの小字があるところから、もしかしたらこの土塁は小字「富士」周辺のみではなく、「東」「西」にも同様な土塁が存在していたかもしれない。あくまで筆者の推測ではあるが。
同様にこの鵜森浅間神社を「物見」とした場所として推測すると、五十子陣が築造された当時、陣地近く平行ライン上に「土塁」を構築し、北、東側の敵側の来襲に備えた防御施設ともいえる。
この五十子陣が20年程最前線基地の一つとしての同じ場所で機能を保持していたこともあり、思った以上の大規模な陣地であったことも容易に想像できる。