古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

西五十子大寄諏訪神社

 現在五十子地区は東五十子と西五十子に分かれているが、分村したのは江戸時代初期と思われる。『新選武蔵風土記稿』の『正保年中改訂図』には「五十子村」とあり、『元禄年中改訂図』には「東五十子村・西五十子村」と分かれて記載されている。現在「五十子」を「いかっこ」と発音しているが、『地名と歴史』『埼玉地名誌』では江戸時代後期の国学者である小小田与清の日記を引用して、そこには「イカコ」と呼んだことを紹介している。
 鎌倉時代正和3年(1314)の「関東下知状」では、武蔵国本庄内生子屋敷を巡って、本庄左衛門太郎国房と由良八郎頼久が争ったという。ここに記されている「本庄内生子屋敷」の詳細は分かっていないが、当時の本庄地区が北堀と栗崎付近を中心とした地域といわれていることから、隣接地である「五十子」もその候補地に含まれていたかもしれない。
 またこの史料は「本庄」地名が資料に初めて登場した例で、本庄左衛門太郎国房も児玉党・本庄氏の武士で、五十子の地も児玉党・本庄氏の重要な所領の一地域だった可能性もある。
                                   「本庄市の地名」を引用

        
              ・所在地 埼玉県本庄市西五十子647
              ・ご祭神 建御名方神 菅原道真(天満宮)
              ・社 格 旧指定村社
              ・例 祭 祈念祭 2月第3日曜日 夏祭 715日 
                   例大祭 
10月第3日曜日 新嘗祭 12月第2日曜日
 西五十子大寄諏訪神社は国道17号を本庄方面に進み、17号バイパスと合流後、鵜森交差点を左折、そのまま道なりに600m程進むと、東五十子若電神社が鎮座する地に到着する。そのまま進む続け、JR高崎線の踏切を通過し、北泉保育所を過ぎると左手に西五十子大寄諏訪神社の社叢と社の看板が見える。
 社の西側から南側にかけて囲むように本庄総合公園や多目的グランドがあり、そこの駐車場の一角に停める。東側にある「多目的グランド」北に隣接する「わんぱーく」脇にある道沿いにすすむと左手に社叢並びに鳥居が見えてくるので、そちらからのアプローチをお奨めする。
        
                             西五十子大寄諏訪神社 正面鳥居
 正面東側は「わんぱーく」という子供達の遊び場があり、まるで社が子供たちを守り、その成長を暖かく見守っているかのような位置関係だ。
 
    鳥居の右側には社号標柱あり     
社号標柱の右脇には御手長神社と秋葉神社が鎮座
       
           鳥居のすぐ右側にはご神木が聳え立つ(写真左・右)
        
                     案内板
 大寄諏訪神社 御由緒   本庄市西五十子六四七
 □
御縁起(歴史)
 当社の由緒は、社伝によると天慶二年(九三九)常陸国(茨城県) を占拠した平将門の討伐に際して、藤原秀郷の要請で、信州諏訪の地から出陣した大祝貞継が五十子に陣をかまえ、この地に諏訪大社のご分霊をお祀りしたことによる。平将門の乱後、下野・武蔵国の国府の長官となった藤原秀郷は、神社の社殿を整え、新田を寄進した。
 寛正年中(一四六〇- 六六)、室町幕府鎌倉府の上杉兵部太輔房顕が社殿を再興する。
 天正十八年(一五九〇)、信州(長野県)諏訪大社の当主であった諏訪小太郎頼忠は、徳川家康から領地を与えられた際に、当社の由緒をただした社殿を修繕し、修験の理聖院に仕事をまかせた。その後、明治維新の際に、理聖院は復職して、諏訪大角と名乗り、当社の神職となった。
 昭和三年(一九二八) 本殿改築、幣殿拝殿新築。平成十五年に手水舎、平成十六年に社務所新築。平成十九年墓地を新設し、分譲をはじめている。
 なお、境内に「学問の神様」である菅原道真公をお祀りする天満宮もあり、広く信仰をあつめている。
                                       案内板より引用
        
                綺麗に整備されている参道
 
        参道途中には手水舎            手水舎の先にある神楽殿
        
                                       拝 殿
 案内板に記されている上杉兵部太輔房顕が社殿を再興した寛正年中は、「享徳の乱」といわれる古河公方・足利成氏と関東管領・上杉氏一族の間で行われた戦いの最中であり、関東管領である上杉房顕が、古河公方である足利成氏との対決に際し、当地に五十子陣を構え築いた頃に必勝祈願の為、この社を再興したと考えられる。
        
 
      拝殿向拝部(写真上)、木鼻部位(写真下左・右)の彫刻が素晴らしい。

 この五十子地域は東流する女掘川の侵食により、段丘崖が形成され、その北方には利根川の低地帯が広がる。南には小山川があり、東南800m地点で志戸川と合流している。これにより、北・東・南の三方を河川の段丘崖に画された自然の要害地となっていて、段丘崖の比高差は37mになる。
        
                 拝殿に掲げてある扁額
 鎌倉時代からの主街道である「鎌倉街道・大道」が武蔵国南部から北西方向に続き、上州に至る。古利根川以西を掌握していた関東管領家側にとって、この道を奪取される事(分断される事)は戦力に大きな影響を与える事になる。武州北西部の辺りで、前橋方面、児玉山麓方面、越後方面への分岐点があり、ちょうどこの分岐点の南側前面に本庄は位置していて、この大道を守護する必要性が生じた事も五十子陣が築造される事となった一因である。

 東西を分け断つ地理的な要因と南北へと続く軍事面での道路の関係上、武蔵国の北西部国境沿いに位置した本庄・五十子は、山内上杉家と古河公方家が対立する最前線地の一つと化したわけである。
        
                               境内社 天満宮
 
         金鑽神社                                蚕養神社
 
   社殿の右側にある合祀群。詳細不明       合祀社の隣には二宮神社が鎮座
「いかこ」という地名の由来としては、洪水の起こりやすい平地、低湿地帯を意味するという他に、江戸時代の古語用例集である『雅言集覧(がげんしゅうらん)』や幕末から明治期にでた近代的国語辞書である『和訓琹(わくんのしおり)』等に、「五十日をイカと読むのは、子生まれて
50日目に祝事となる為」とあり、『源氏物語』にも見える。

 この社が鎮座する地に隣接し、このようなお子様たちが楽しめる空間を設けた理由として、もし行政側がこの「五十子」の歴史的な地名由来を理解して、意図してこの地に作ったものであるならば、かなり歴史に深く精通された方々の存在を感じざるを得ない。 

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四方田産泰神社(金佐奈神社)

 産泰神社は群馬県前橋市に鎮座する、木花佐久夜比売命を主祭神とし安産・子育の神様であり、また美しい姿から女性の守護神として多くの崇敬を集めていて、県外からも多くの祈願者が訪れる神社である。近年ではパワースポットとしても注目されていて、妊婦の方をはじめ赤ちゃん連れのご家族などお参りに来られる方でにぎわっているという。いわば産泰神社は、誠に日本の国柄らしい安産・子育て・女性守護の神社でもある。
 産泰神社ホームページには「社歴」についてこのような記載がある。
「前橋市の東部、おだやかな田園地帯のこんもりとした小山に鎮座する産泰神社は、古くより神社名が示す通り安産・子育ての守護神として県内はもとより関東一円から参拝者が訪れます。社伝古志故事録は小田原北条氏の乱に焼滅し定かではありませんが、日本武尊の東征の折り此地に勧請せしといい又、履中天皇元年鎮座ともいわれています。 本殿の裏に約十三万年前に赤城山の「石山なだれ」により出現したといわれる磐座があり、原始古代から信仰の土地であったことが推測されます。現在の社殿は、権現造りで本殿・幣殿・拝殿・神門の四棟及び境内地が、十八世紀中期から十九世紀初頭の本県の神社建築様式の指標となる貴重な遺構であるとの理由で群馬県の重要文化財に指定されています。」
 産泰神社は古代巨石崇拝に基づく信仰形態がかなり古いにも関わらず、主祭神が木花佐久夜比売命であることにより、妊婦の方やお宮参りの方など女性の参拝者が多い神社でもあり、境内も含め女性が安心できる気配りと、荘厳ながら優しい雰囲気が漂う社でもある。
       
             ・所在地 埼玉県本庄市四方田289
             ・ご祭神 素盞鳴尊 天照大神 木乃花咲耶媛
             ・社 格 旧四方田村鎮守 旧村社
             ・例祭等 元旦祭 11日 祈年祭 220日 大祭 44
                  八坂祭 715日 秋祭 1019日 新嘗祭 1215
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.222422,139.1668236,17z?hl=ja&entry=ttu 
 四方田産泰神社(金佐奈神社)は、東富田熊野十二神社沿いの道路を西方向に進み、突き当たりのT字路を左折し、最初の「四方田住宅入口」交差点を真っ直ぐに進む。交差点先の新幹線の高架橋を過ぎると、すぐ正面左側に四方田産泰神社の鎮座するこんもりとした社叢が見える。
 但し困ったことに、適当な駐車スペースが見当たらなかった為、神社手前の小さな公園脇の一般の方々に迷惑をかけない場所に車をと待て、急ぎ参拝を行った。
*字数の関係で、社の表記は今後「
四方田産泰神社」とする。
              
                
四方田産泰神社 社号標石
       
           参道
から社殿方向を望む。手前には神橋あり。
 
 社号標石から鳥居までは細い道乍ら舗装されている一般道となっているが、鳥居(写真左)から先は四方田産泰神社の広大な境内となる。鳥居には「産泰神社 金佐奈神社」並んで描かれている。また鳥居を越えてすぐ左側には案内板(写真右)がある。

産泰神社    所在地 本庄市大字四方田二八九
 産泰神社の創建は、鎌倉時代、武蔵七党のうちの一党である児玉党の一族の四方田五郎左衛門資綱が、この地に砦を築いたときに、守護神として勧請し祀ったのが始まりと伝えられる。その後の延元二年(一三三七)、北畠顕家が薊山合戦の際、戦勝を祈願したところ、勝利をおさめることができたので兜を奉納し深く感謝したという。
 元禄年間(一六八八~一七〇四)にはいると京都吉田家の配下であった神主の杉田氏が奉仕するようになり、今でもその子孫は代代神主をつとめている。
 なお、当社は女性の守護神として広く信仰を集め、毎年四月四日の例祭日には、近郷近在はもとより他県からも多くの参詣客が集まり、安産を祈って底のない柄杓を奉納する慣習がある。なお、当日は本庄市指定文化財となっている杉田組による金鑚神楽が奉奏される。
 
昭和六十年三月   埼玉県   本庄市                  案内板から引用
        
 境内には松尾芭蕉の句碑があり(写真左)、
「しぐるるや 田のあら株の くろむほど」と刻まれている。碑の裏には慶應元年の建立と刻まれている。
 また参道左側には神楽殿あり(写真右)
神楽殿の手前には「金鑽神楽杉田組」(無形民俗文化財)と記されている標柱があり、春の例祭には、杉田組による金鑽神楽が奉奏される。
 神楽とは神を祀るために演じられる神事芸能・舞楽である。神楽は宮中の御神楽と、民間の里神楽に分けられ、里神楽は、狭義では関東の民間の神楽を指すとされ、神社・地域ごとに特色ある神楽が演じられていたが、現在本庄市域で行われている神楽はほぼ『金鑚神楽』である。『金鑚神楽』は児玉郡、大里郡を中心に13座が組織され、市域では本庄組(諏訪町)、宮崎組(牧西)、杉田組(四方田)、根岸組(小平)、太駄組(太駄)がある。
       
                    拝 殿
 
    「産泰神社」と掲げている額            拝殿には奉納額あり
 安産、子宝祈願に御利益があるとされる本庄市四方田の産泰神社では4月に、春季例大祭が開かれ、安産を願う人、子宝に恵まれたい人、子や孫が生まれて健やかな成長を祈る人たちで賑わう。例大祭は、底がない柄杓か、底がある柄杓を社殿に奉納する珍しい習わし。明治時代初期から定着し、例年多くの参拝者を集めている。桜も満開時期となり、華やいだ雰囲気で行われる。底がないひしゃくには安産の願い、底があるひしゃくには赤ちゃんを授かりたい願いと、無事に生まれた感謝の気持ちが込められているという。
       
                拝殿の左側にある
案内板
○金佐奈神社 御由緒   本庄市四方田二八八ーニ
□御縁起(歴史
)四方田は、武蔵七党の児玉党に属した四方田氏の本貫地であった。地内の「堀の内」には同氏の居館であったと伝えられる館跡があり、当社の境内はこの館跡の東端に当たる。こうした立地からも、当社の創建には四方田氏が深くかかわっていることが推測できる。
『児玉郡誌』によれば、当社は、四方田五郎左衛門資綱がこの地に城砦を築いた際に、その守護神として勧請したものであるという。また、同書は更に、延元二年(一三三七)に北畠顕家が薊山合戦の時、当社に戦勝を祈願して勝利を収めることができたので、奉賽として兜を奉納したことや、元禄年間(一六八八~ 一七〇四)以来、地元の杉田家が代々神職として奉仕してきたことを記してい る。『風土記稿』四方田村の項に「金鑚神社 吉田家の配下、杉田摂津の持、村の鎮守なり」とあるのも、杉田家による祭祀が確固たるものであったことを示しており、同家には元禄十一年(一六九八)以降の裁許状六通の写しがある。 ちなみに、明治以降も、神職は杉田家が伊勢守・嘉内・力衛・右一・泉司・孝好と代々継いで、現在に至っている。
 なお、当社は、一般に「産泰様」として知られているが、これは当社が産泰神社との合殿になっており、後述するように産泰神社の信仰が盛んであったことによるものである。そのため大正十年ごろ「金佐奈産泰神社」と社名を変更しようとしたが、実現には至らなかった。
                                      案内板より引用
      
     広い境内の一角に境内社
稲荷社と猿田彦大神の石祠が鎮座する(写真左)。
               社殿右側には御神木(同右)

 四方田氏(よもだし、よもたし)は、平安時代から鎌倉時代にかけて武蔵国
最北端域全域で割拠した武蔵七党の児玉党を構成する一族である。武蔵児玉郡四方田邑の発祥。庄氏より分派した氏族で、庄二郎弘高(児玉党本宗家4代目庄太夫家弘の次男)が四方田に住み、四方田二郎弘高を名乗ったことから始まる。Wikipediaより引用)
武蔵七党系図
「庄権守弘高―庄三郎左衛門弘長(四方田左近将監)、弟本庄四郎弘季(号四方田、号牧西)、弟五郎弘綱、弟四方田七郎高綱」
 産泰神社・金佐奈神社案内板に記されている四方田五郎左衛門資綱は「吾妻鑑」にも登場している。
吾妻鑑卷三十二「嘉禎四年二月二十二日」
 今日は前駈(前触れ役)を用いず、右馬権頭北條政村が御車の前で先導役に任じた。行列は 先ず右馬権頭北條政村。次いで御車(八葉)宇田左衛門尉 四方田五郎左衛門尉資綱 小宮五郎左衛門尉 本間次郎左衛門尉信忠 左衛門三郎平盛時 富所左衛門尉 若兒玉小次郎 小河三郎兵衛尉直行 参河三郎左衛門尉 飯富源内長能
 以上十人、直垂を着し帯劔、御車の左右に列歩す。(吾妻鑑より引用)
 
           社殿奥に鎮座する境内社・末社群(写真左・右)

 本庄市内には、旧児玉町を含め計11社の分社が存在していて、神流川扇状地には嘗て九郷用水が開削され、その要所には金鑽神社の分社が祀られている。これらの所在地は武蔵七党の1つである児玉党の勢力範囲と一致するといわれ、同党からの金鑽神社崇敬の様子が伺える。


                   

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東富田熊野十二社神社


        
              ・所在地 埼玉県本庄市東富田
301
              ・ご祭神 国常立尊
              ・社 格 旧富田村鎮守 旧村社
              ・例 祭 祈年祭 219日 夏祭 715日 
                                     秋例大祭 
1019日 新嘗祭 1214
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2238501,139.1753852,17z?hl=ja&entry=ttu
 
東富田熊野十二社神社は、国道17号を本庄市街地方面に進み、「鵜森」交差点を左折し、道なりに真っ直ぐ進む。途中本庄総合公園を左側に見ながら、尚も進み、北堀地区のT字路に到達する。T字路は左折して次の北堀地区「北泉小学校前」交差点を右折し、そのまま10分程進むと、道路沿いに面した右側に東富田熊野十二社神社が見えてくる。
 東富田熊野十二社神社の右手には愛宕神社があり,更にその右手には金鑚神社・八坂神社相殿があって,それぞれに鳥居がある。そのため,3つの神社が並列しているように見えるが、東富田熊野十二社神社は旧村社の格式があり、その他の神社は境内社と呼んでいいのかと思う。真ん中の愛宕神社は熊野十二社神社古墳と呼ばれる古墳の墳頂に鎮座していている。
       
               道路沿いに面して鎮座する社
 
         鳥居の右側に社合標柱あり           鳥居上部には社合額
       
                    拝 殿
    
        東富田熊野十二社神社、鳥居の両側に掲げている案内板(写真左・右)

熊野十二社神社 御由緒    本庄市東富田三〇一
 御
縁起(歴史) 
 東富田は、かつては隣の大字西富田と一村で富田村と称していた。分村した年代は明らかでないが、天正十八年(一五九〇)四月の「信茂判物」(鈴木家文書) には、「両富田之村」とあることから、中世末期には、既に二村に分かれていたと考えられる。
 旧富田村は、鎌倉街道が通り、平安末期には武蔵七党児玉党の氏族富田氏の本拠地であり、富田三郎親家が居館を構えていた。口碑によると、この親家が当社を紀伊国(和歌山県)の熊野那智大社から勧請するとともに、境内のすぐ北隣に、祈願所として富田寺を開基し、当社の社務を兼帯させたという。創建の経緯については、親家のころに書かれたと思われる「児玉在所引旦那名字注文写」(熊野那智文書)には「とミた」と同氏の名が見えることから、恐らくは熊野修験の当地周辺での活動が背景となり奉斎されたものであろう。
 ちなみに、当社名の「十二社」とは、熊野三所権現と五所王子さらに四所宮を合わせた十二社権現であったものを明治以降、天地修固の天神七代地神五代の十二代の神霊としたものである。
 明治五年当社は村社となった。 更に同四十年、字山根の浅間神社、字下田の金佐奈神社、字元屋敷の熊野十二社神社の三社を合祀した。なお、社殿は延享年間(一七四四-四八)に建てられたといわれ、その後、平成二十五年損傷の著しい社殿を造り替え、現在に至っている。
                                      案内板より引用

○熊野十二社神社  所在地 本庄市東富田三〇一
 熊野十二社神社の祭神は、国常立尊で、延享年間(一七四四~一七四八)に勧請したと伝えられ、社殿は現在覆屋の中にある。
 社殿のある小高い丘は、古墳であり、同様なものが周辺に分布している。この古墳群は、東富田古墳群といい、特に、今の種子センターの地にあった公家塚古墳は、県下でも数少ない古墳時代初期のものであった。

 また、神社の北にある冨田寺は、山号を愛宕山照明院といい、本尊は阿弥陀如来である。
 昔、児玉党一族の富田氏の祈願所であったと伝えられ、西方には、「代官屋敷」と称される屋敷址があったと言われている。

                                      案内板より引用
     
         拝殿上部右側に掲げてある奉納額           本 殿

 東富田熊野十二社神社の隣には古墳墳頂に愛宕社、その古墳の麓付近に金鑚神社・八坂神社相殿が鎮座する。
 
            境内社 愛宕社           境内社 
金鑚神社・八坂神社相殿
 
 愛宕社が鎮座する古墳は、熊野十二社神社古墳と呼ばれる。直径26.5m、高さ5.2mの円墳。5世紀中葉築造(推定)。葺石あり。未発掘。古墳東側は道路や宅地で削られているが、熊野十二社神社の境内として高い墳丘が残されている。
 東富田古墳群と言われる古墳群を形成されていたようで、特に、今の種子センターの地にあった公家塚古墳(直径
70m、高さ1m 円墳)は、県下でも数少ない古墳時代初期の大型古墳であったようだ。


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入浅見金鑚神社

神流川は、長野・群馬・埼玉の県境、三国山(1818 m)に源を発し、南から北へと向きを変えて急流を一気に下り、北東に向きを変える神流川頭首工のある辺りからは、なだらかに広がる扇状地をゆっくり流れる。その後、烏川に流入して利根川に合流する流路延長 87.4km、流域面積 407 ㎢の一級河川である。
 古代律令時代には、条里制田畑が広がっていたといわれ、条里制田畑に水を供給する用水堀やため池が発達した。一説によると九郷用水は条里制施行時に用水路として造られたといわれている。 
 九郷用水は神流川から取水する用水で、全長約16㎞。その要所には不思議と金鑚神社が祀られている。これらの所在地は武蔵七党の一つ児玉党の勢力範囲と一致するといわれていて、この用水の開削伝承に、金鑽神社が登場する。
 昔は台風が来ると大水もたびたび出た。ある台風の後、よく晴れた中お百姓さんが川原の畑にくわ切に出かけた。ひと仕事して一服しようと、大水で流れ着いた大木に腰かけた。
すると、その大木が動き出し、実は天にも届くような大蛇であったと知れた。百姓は驚いて腰が抜け動けなかったが、暫くして我に返ると大蛇はおらず、その這った跡が東方に向かっていた。その筋が後に九郷用水になったという。
 九郷用水については次のような伝もある。大昔一帯が日照りに悩まされることが多く、これを知った国造が金鑽神社にこもって、その惨状を訴え祈願したという。すると社殿に童子が現れ、自分が金竜となり神流川の水を導くゆえ、それに従い水路を掘るように、との託宣があった。
 はたして翌朝、金色の大蛇が新宿附近の神流川に現れ、岸に上がると本庄市北堀まで進み、浅見山へ消えたという」
 用水開削時期については、古代の条里制施行時に開削されたとする説や,平安末期から武蔵(むさし)七党のうちの児玉党によって開削されたとする説などがあり、ハッキリとした時期は分かっていない。しかし、神流川流域では古代に開削したとみられる大溝が確認されており、当時かなりの先進技術が金鑚神社を信奉する技術集団が保持していたことを物語っている。
        
                      ・所在地 埼玉県本庄市児玉町入浅見899
                      ・ご祭神 素盞嗚尊
                      ・社 格 旧入浅見村鎮守・旧村社
                      ・例 祭 春祭り 4月3日  秋祭り 1014日  新嘗祭 12月10日
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2049845,139.1532806,17z?hl=ja&entry=ttu       
 入浅見金鑚神社は埼玉県道352号児玉町蛭川普済寺線を旧児玉町蛭川地区方向に進む。「山蛭川」のY字路交差点(但し手押信号)手前にこんもりとした森が左側に見えてくるが、その森中に入浅見金鑚神社が鎮座している。
 森の手前に左折する細い道があり、そこを進むと左側にお寺があり、そこの駐車スペースを利用してから徒歩にて社に向かう。森周辺も
静かで県道沿いに鎮座しているとは思えない程荘厳な雰囲気があるが、道路事情にはやや難あり。
               
                 
入浅見金鑚神社鳥居正面
 古墳の墳上に鎮座しているので、参道途中には階段があるが、それがかえって良い雰囲気を醸し出している。この社のすぐ北側は県道が南北に走り、しかもかなりの交通量であるが、そのような喧噪や騒音がほとんど聞こえない。
        
                                 鳥居の左脇にある案内板
 第62回伊勢神宮式年遷宮記念
 金鑚神社 御由緒   
 所在地 埼玉県本庄市児玉町入浅見字西裏八九九
 □御縁起(歴史)
 入浅見は古くは隣接する下浅見と共に「阿佐美」といい、武蔵七党児玉党の氏族である阿佐美氏の本貫地であったとされ、当社の境内のすぐ北側に当たる「城の内」という場所は、この阿佐美氏の居館の跡と伝えられる。また、地内には古墳が多く点在しており、当社の境内にもその一つがある。そのため、元来は古墳を避けるような形で鳥居の北東付近に鎮座していたが、昭和五年に古墳の南側を平らに崩し、現在のように古墳の頂を背にする形で祀るように改めたという。
 当社の由緒については『児玉郡誌』に、当社は阿佐美右衛門尉実高が勧請した社で、天正四年(1576)九月に領主黒田豊前守の寄附によって社殿が改造され、享保年間(171636)に正一位の神階を奉授した旨の記載がある。また本殿には、往時神階叙位に伴って掛けられたと思われる「正一位金鑚大明神」の木製の社号額や、天保三年(1832)に拝殿を再建した際の棟札などが納められている。
 江戸時代には、真言宗の金鑚山観音寺が別当であったが、神仏分離によって同寺は廃され、現在では観音堂(当社の三○○メートルほどに所在)にその名残をとどめている。一方、当社は明治五年に村社となり、政府の合祀政策に従って、字聖天平の諏訪神社並びにその境内社を当社境内に移転した。当社の祭神は素盞嗚命である。(中略)
                                      案内板より引用
        
                       参道。綺麗に維持され、手入れも行き届いている。
        
                                         拝 殿
 本庄市入浅見地区は、本庄市旧児玉町共和地区の南部に位置し、生野山の北東の方角に続く緩い丘陵地と、生野山の東部で二つの尾根の間の谷部、生野山西部の先端部の北側を含む。この生野山の北東の尾根より分断された小丘陵上の南斜面に集落が集中している。入浅見の北側は児玉条里水田地帯の南端にあたり、中央部は2本の尾根に挟まれた谷となっている。条里水田は九郷用水を用いて、谷戸田の水田は生野山麓の複数ある溜池(ためいけ)の用水を用いている。
 入浅見は本来下浅見と一村であったが、戦国時代以降2村に分村する。浅見は「阿佐美」とも書き、この地名が初めて資料に見えるのが天正5年(1577)の「北条氏邦朱印状」(武州文書)で「入阿佐美・阿佐美村」と記載されていることから、この時期には分村していたことが分かる。
        
                                         本  殿
 古代における入浅見地区は、5世紀前半には「金鑚神社古墳」が築造され、共和地区内周辺地域と同様に、児玉条里地帯に一部が含まれた先進地域であった。古代末期には児玉郡内に児玉庄という荘園があったことが平安時代末期 - 鎌倉時代初期の公家である九条兼実の日記『玉葉』に見られる。
 当時の児玉庄の実態は『玉葉』に記されたもの以外で史料等なく不明であるが、その当時から入浅見地区も含まれていた可能性がある。入浅見の北部は条里地帯に含まれている一方、中央部、生野山の二つの尾根に挟まれた谷も水田として開発されていることが発掘等によって分かっているが、この地域は条里地帯からは外れていて、所謂「谷戸田」と言われる水田である。
 
        
                            社殿奥に鎮座する境内合祀社二棟        
          左側「疱瘡神社・絹笠神社・手長男神社・菅原神社」  
           右側「八坂神社・稲荷神社・伊勢神社・二柱神社」
 
         社殿右側奥に諏訪神社が鎮座        鳥居の左側(西側)にも境内社あり
                                詳細不明
        
                                 社殿からの一風景
 古代末期児玉郡内に武蔵武士の前身にあたる児玉党等多くの武士集団が発生するが、この児玉党内に阿佐美氏も含まれる。当然阿佐美氏の支配領域は児玉庄に含まれるはずである。その児玉庄の根幹をなす条里水田は本来国衙領(公領)であり、荘園の管理や年貢の収納・治安維持等の権限はあっても、児玉党武士団の所領ではない。しかし、入浅見の谷戸田地域は国衙領に含まれず、児玉党独自での開発により、自己の所領として得られる地域で、これを地盤として、荘園内外での所領を拡張することができたと考えられる。
 現在児玉地域で発掘されている古墳群や条里遺跡、及びその周辺の水田遺跡や九郷用水の規模等を考慮すると、この入浅見地域は児玉党にとっては周辺へ開発する際に重要な開発拠点であったと思われる。



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宮戸八幡大神社

        
         
           ・所在地 埼玉県本庄市宮戸1071
           ・ご祭神 誉田別尊
           ・社 格 旧村社   創建・建立 文正年間(14661467)
           ・例 祭 祈年祭 415日 初穂奉告祭 720日・1220
                例大祭 10月
15日 新嘗祭 11月23日 
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2393791,139.2388439,19z?hl=ja&entry=ttu
 宮戸
八幡大神社は国道17号深谷バイパスを岡部方向に進み、「道の駅おかべ」の先にある岡(東)交差点を右折する。群馬・埼玉県道259号新野岡部停車場線を道なりに真っ直ぐに北上し約2km進むと右側にこんもりとした社叢と道沿いに沢山の墓地、そして大日堂が見える。(横瀬神社並びに華蔵寺)その手前の十字路を左折し、また道なりに1㎞程真っ直ぐ進み、2番目の十字路を右折すると宮戸八幡神社が見える。
 正直実母方の墓地がある
華蔵寺、横瀬神社からそう遠くない場所にこのような社があるとは想像も出来なかった。これも神社散策での奇縁ともいえる。
 駐車スペースは社の道を隔てた場所が広い空間となっていて(但しそこが駐車場かは分からなかったが)そこの一角に車を停めて参拝を行った。
        
                 宮戸八幡神社正面から撮影
        
                        鳥居の左側にある案内板
 八幡神社 御由緒   所在地 本庄市大字宮戸一○七-一
 □御縁起(歴史)
 当地は利根川南岸の自然堤防上に位置し、利根川と当地との間には群馬県境町の飛地があり、かつての武蔵・上野両国境に位置する。
 社伝によれば、
当社は文正年中(一四六六~六七)に新田三河守家純(岩松家純)が五十子に陣を張った際、上野国新田郡岩松郷(群馬県新田郡尾島町岩松)の八幡宮の分霊を奉遷して鎮祭したという。また『児玉郡誌』には、承応元年(一六五二)の社殿改築の棟札に「横瀬郷鎮守八幡大神社」と記されていたことや、地頭所より年々祭祀料が寄附されていた旨が述べられている。
『風土記稿』
村の項には「八幡社 村の鎮守、観泉寺持」と記されている。当社の東隣に本堂を構える観泉寺は、八幡山無量院と号する真言宗の寺院で、応永年間(一三九四~一四二八)に新田氏の家臣金井主水が開基したと伝えられ、万治三年(一六六〇)に新田郡世良田村惣持寺の法印祐伝が再興し、当時は惣持寺の末寺であった。
 当社は
神仏分離を経て、明治四年に村社となり、同四十年に字中道北の八幡太神社、字山神の山神社、字藤塚の稲荷社の三社の無格社を本殿に合祀した。同四十一年には神饌幣帛料供進神社に指定された。
 平成
十年七月十八日、同地区に鎮座していた清水川稲荷神社を配祀した(中略) 
                                      案内板より引用
        
         境内は決して広くはないが、境内はちゃんと整備されている
             静かな
佇まいと共に荘厳さも持ち合わせた社

 宮戸地区は本庄市の最北端東寄りに小和瀬地区とともに位置していて、利根川に近く、低地部に属している。宮戸の歴史は古く、天正19年(1591)の検知帳にこの地が記されていることから、江戸時代に入ってかなり早い時期に検知が行なわれている。『風土記稿』を確認すると江戸時代から明治初期までは榛澤郡藤岡領に属していた。
 因みに宮戸の名前の由来は不明で、お宮があったことから由来するか、「ヤト」からくる湿地帯だった事からとしていて、はっきりとした根拠もなくわかっていない。
              
        案内板の左側にある「本庄市指定文化財 宮戸八幡大神社の格天井絵」

 宮戸
八幡大神社の天井花鳥画は拝殿の天井に描かれた28枚の花鳥画で、江戸時代末作成。宮戸出身の角田岱岳をはじめ、島村の金井烏州、金井研香らの作で、保存状態もよく、彩色でみごとであるという。
 金井
は寛政8年(1796年)、佐位郡島村(現佐波郡境町大字島村字前島)に生まれ、本名を泰といった。金井家は新田氏の支族で、その祖は金井長義と言われている。近世には近在に聞こえるほどの豪農であった。父の萬戸は酒井抱一などと交際をした俳諧の名手であった。 烏洲ははじめ兄の莎邨(詩文に優れる)から経史を学んだが、21歳の時に江戸へ出て、しばしば父のもとを訪れた青木南湖などから画書を学んだ。25歳の時、兄莎邨が夭折したので帰郷し、金井家を継ぎ代々の家名である彦兵衛を名乗った。 天保3年(1832年)には関西をまわり、頼山陽など多くの名家と交誼した。このころから画名をうたわれるようになり、子持村白井雙林寺の大襖絵や前橋市龍海院の大維摩像や『赤壁夜遊図』(境町指定重要文化財)などが描かれている。その画風は筆に勢いがあり気韻に富んでいる。
 また
『無声詩話』(嘉永7年)は卓越した近世画論として高い評価を得ている。江戸後期の県内における画才詩文が最も優れた存在であったが、安政4年(1847年)に62歳で没している。弟に金井研香(南宋画家)、子に杏雨(画家)、金井之恭(貴族院議員、書家)がいる。(伊勢崎市教育委員会)
 金井
烏州は江戸時代後期の画家であり、上野国佐位郡島村(現在の群馬県伊勢崎市境島村)に生まれていて、その苗字と出生地が示す通り、新田一族である金井氏の後裔にあたる。烏洲の号は、故郷の島村が利根川へと流れ込む烏川の洲にあったことにちなむ。
 
    鳥居を過ぎてすぐ左側にある末社群         末社群の隣には神楽殿あり
        
                      拝  殿
        
                 拝殿向拝部の見事な彫刻
 社伝によれば、
当社は文正年間(14661469)に新田三河守家純(岩松家純)が五十子に陣を張った際、上野国新田郡岩松郷(群馬県新田郡尾島町岩松)の八幡宮の分霊を奉遷して鎮祭したという。また「児玉郡誌」には、承応元年(1652)の社殿改築の棟札に「横瀬郷鎮守八幡大神社」と記されていたことや、地頭所より年々祭祀料が寄付されていた旨が述べられている。「風土記稿」宮戸村の項には「八幡社 村の鎮守、観泉寺持」と記されている。観泉寺は当社の東隣に位置する。明治四年神仏分離を経て、村社となる。
 
      神楽殿の隣に鎮座 祖霊社か         社伝の左側奥にある末社群

 宮戸八幡神社は利根川
南岸の自然堤防上に位置し、利根川と当地との間には群馬県境町の飛地があり、かつての武蔵・上野両国境に位置している為、新田系の氏族関連の地名や、苗字も多く存在する。実は自分の母方の系統も元を辿れば、新田氏族の家来である「横瀬8騎」の後裔にあたる。
○三友氏
・深谷市福応寺由緒書
 「元弘
三癸酉五月東征伐之論旨給はり御一同不残御加勢に付桃井直常公、横瀬党三供主計等、右六騎者桃井公之旗下也」。金山城主横瀬氏と共に行動し横瀬姓を名乗る。六騎先祖書写に「三供主計兼村(永和三年十月十八日卒)―三供彦太郎村房(応永十二年五月十二日卒)―横瀬加賀房利(文安二年十一月十一日卒)―横瀬新右衛門房保(寛正二年十一月四日卒)―横瀬主計房教(応仁二年十二月三日卒)―横瀬新太郎芳茂(延徳三年十月二十九日卒)―横瀬新左衛門房次(永正十七年二月四日卒)―横瀬彦右衛門房賀(弘治元年十二月十一日卒)―三供新右衛門繁房(元亀二年二月二十七日卒)―三供新兵衛」

 新田家本流は南北朝時代足利氏と対立し、激戦の末に没落する。そして足利方に回った新田足利流岩松氏が新田家の本貫地である地域を必死に守り、同時に新田家を後世に残す役割を果たした。宮戸八幡大神社の創建・創立にはその岩松系の一族が関わっている。
 遠い歴史の中で先人たちが苦悩し、努力をしたおかげで今の自分が存在している。川の流れのように歴史も過去から現在に至る悠久の流れの中に今の自分がいる。遠い先人たちの思いを感じながら、同時にその奇妙な縁を感謝しつつ、厳かな気持ちで参拝を行った次第だ。

           


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