埼玉県の北西部に位置する旧児玉町、現在の本庄市児玉地区は、南半分を県立上武自然公園に指定されている上武山地が東西につらなる。その北方には児玉丘陵と本庄台地がひろがり、上武山地を水源とする小山川や女堀川周辺は、農業地帯となっている。この変化に富む地形と自然環境に恵まれた児玉町は、太古の時代より住みよい地域であったようで、町内には先人達の生活の痕跡である遺跡の数も多く、埼玉県でも有数の文化遺産の宝庫と言われる。
児玉町大字下浅見には4世紀前半に築造された鷺山古墳がある。古墳は西に生野山丘陵、東に大久保山(浅見山)丘陵に挟まれた小丘陵上にあり、南北に広がる広大な条里水田を見渡せる絶好の位置に築造されており、まさにこの地域の王にふさわしい立地環境だ。古墳は全長60メートルの前方後方墳で、4世紀前半に築造されたと推定される武蔵国で最も早く築かれた古墳の一つという。また5世紀から7世紀にかけて築造された秋山塚原地区の秋山古墳群は、かつては100基近い古墳が築造されたようだ。
所在地 埼玉県本庄市児玉町児玉198
主祭神 誉田別尊〔ほんだわけのみこと〕
比売大神〔ひめおおかみ〕
息気長足姫命〔おきながたらしひめのみこと)
社 格 県社
創建年代 康平6年(1063)
例 祭 10月15日(児玉秋祭り)
神事等 3月15日 春祭り(植木市)7月13~19日の日曜日 八坂神社夏祭り
社伝によれば、1051年(永承6年)、源頼義、義家、親子が奥州の安倍氏征伐のおり、この地で都の石清水八幡宮を遥拝して、戦勝祈願を行った。 1063年(康平6年)、奥州を平定し帰る途中に、この祈願所に立ち寄って八幡神社を建立し勧進した。当初は、東石清水白鳩峯と称した云われていた。 武蔵武士、児玉党等の信仰も深い由緒ある神社である。
児玉党(こだまとう)は、平安時代後期から鎌倉時代にかけて武蔵国で割拠した武士団 の一つ。主に武蔵国最北端域全域(現在の埼玉県本庄市・児玉郡付近)を中心に入西・秩父・上野国辺りまで拠点を置いていた。当時の武蔵七 党と言われる武士集団のうち、最大の武力と血族を有していたといわれる。
一の鳥居より随神門をのぞむ 随神門手前にある案内板
随神門は本庄市指定特別文化財
石清水八幡神社 所在地 児玉郡児玉町大字児玉
東石清水八幡神社の祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと)、姫大神(ひめおおかみ)、神功皇后(じんぐうこうごう)の三神である。
社伝によれば、平安時代の末期、源義家が父頼義に従い奥州征伐に赴く途中金鑚(かなさな)神社へ参詣(さんけい)したが、そのおりに当地へ斎場(まつりば)を設け、戦勝を祈願し、康平六年(1063)帰陣の際ふたたび当地に立ち寄り、社殿を建立して八幡宮を迎(むか)え「東石清水白鳩峯」と称したのが始まりという。
現在の社殿は享保七年(1722)に再建したもので、拝殿は入母屋(いりもや)造りとなっており、屋根は銅葺千鳥破風(はふう)造りである。拝殿の格天井(こうてんじょう)には狩野直信(かのうただのぶ)筆の「飛龍の図」が描かれている。また、建物の彫刻は江戸の彫刻師の手によるもので、緻密(ちみつ)な彫(ほり)に極彩色がほどこされており、特に本殿の左右及び裏の三面には唐様(からよう)の人物や花鳥が彫刻され、その華麗さは県下でも稀な社殿として有名である。
境内にある江戸時代の高札場は、もと本町と連雀町との境いの道路にあったものを昭和五年に現在地へ移したもので、県内に現存している数少ないものの一つであり、町の文化財に指定されている。
昭和五八年三月 埼玉県
拝殿の手前にある銅製鳥居は本庄市指定特別文化財
拝 殿
南側に鎮座
本 殿
細工が細やかで見事な彫刻
ちなみに現在の社殿は、久米六右衛門が発起人となり、享保3年に起工し、享保7年(1722)に完成、棟梁は妻沼伝兵衛、彫刻は獅子の五右衛門と龍の茂右衛門など、当代無双の名人の手によるものです。 (案内板より)
*高礼場
*法度、掟書、犯罪人の罪状などを記し、交通の多い市場、辻などに掲げた板札を高礼といい、庶民の間に徹底させるためこれらの高札を掲げる場所を高礼場といった。これらは中世末期から あったが、江戸時代が最も盛んとなり明治三年(1870)に廃止された。高礼場は無年貢地で街道の宿場や村の名主宅前など目立つ場所に普通設置され、江戸には日本橋など六ヶ所の大高礼場 をはじめ三十五ヶ所に高札場(こうさつば)があったという。
児玉党(こだまとう)は、平安時代後期から鎌倉時代にかけて武蔵国で割拠した武士団 の一つ。主に武蔵国最北端域全域(現在の埼玉県本庄市・児玉郡付近)を中心に入西・ 秩父・上野国辺りまで拠点を置いていた。当時の武蔵七 党と言われる武士集団のうち、最大の武力と血族を有していたといわれる。
ところで、その名誉ある児玉党の名「児玉」とはどのような由来、由緒があるのだろうか。「児玉」について以下の記述が掲載されている書物がありここに掲載する。
児玉 コダマ 小、児は胡の佳字にて、胡(えびす)、蕃(えびす)なり。玉は鉄(くろがね)の意味。蕃族鍛冶集団の集落を児玉、小玉と称す。蕃(えびす)のことはバン、バンタ参照。物作り集団(部)の物部族は出雲・芸備地方及び筑紫国(九州全体の総称)が本拠地である。物部氏の祖神饒速日命の天降る時に従って来た思金命は「重い金」で鍛冶鉱山師の首領である。子孫は秩父国造と信濃阿智祝で、鍛冶神の児玉彦命を奉斎し、秩父郡大宮郷と信濃に児玉氏多く存す。天平九年東大寺文書に食封千戸の内、武蔵国児玉郡五十戸と見ゆ。和名抄に児玉郡を古太万と註す。
1 信濃国の児玉彦命 神代の時代に出雲国の大国主命の子・健御名方神が諏訪に来たる際に相争った諏訪の神・洩矢神あり。健御名方神に服従し、子孫は神長官家の守矢氏を称す。守矢氏系図に「洩矢神―守矢神―千鹿頭神―児玉彦命(片倉辺命の子)」と。諏訪系図に「健御名方命―伊豆早雄命―片倉辺命」と見ゆ。児玉彦命は出雲族の健御名方神の家から、信濃国土着神の守矢神の家に養子となっている。鍛冶神の児玉彦命を奉斎した集団は児玉氏を名乗って多く現存す。
2 有道姓児玉氏 大国主命は大物主命とも称し、其子大田田根子命は日本書紀崇神天皇七年条に陶器庄の鍛冶神と見ゆ。大国、大田の大は大ノ国(後の百済)出身で、田根子は種子で子孫の意味。大族の集団を大部と称し、其の支配管掌者を大部連と云う。(中略)児玉郡誌に「児玉、或曰遠峯。有道維能、自京師移関東、居児玉、因氏焉。児玉・遠峯、和名抄訓古太万。有道貫首遠峯と称すなどなど、有もせぬ人名を往々作り出したるは、怪誕不稽も甚し。往昔軍団を置かれて、遠峯軍団と云う、遠峯とは義訓にてコタマと訓ず、音声の遠山に響くをコタマにこたうど云うに因る」と。遠峯(こだま)は人名では無く児玉のことで、藤原伊周の家令で、子では無い。常陸国筑波郡水守郷(みもり)は、後の新治郡水守村(つくば市)で、将門記に「水守の営所」と見え、当時館城があった。此地の物部姓有道氏は、同族久米物部の居住する武蔵国児玉郷浅見村を所領とす。入浅見村の苗字久米氏は在名阿佐美氏、或は児玉氏を名乗り児玉党の旗頭となり、同族でもある領主の有道姓を冒す。針博士有道氏は「維、惟」を通字としており、児玉党は是を用いていない。まったく別家の人々である。小代八郎行平置文写(肥後古記集覧)に「行平が曽祖父児玉の有大夫弘行の所領の事余の国々の分までには注すに及ばず武蔵一ヶ国の分には、児玉・入西両郡、弘行の所領たりき、此外にも猶を有りき。然れば弘行は分限も広く武芸道立て被るるに依りて、児玉より入西へ越へ被るる時と謂い、惣べて行が被時は随兵百騎を相い具せ被れき、云々」と見ゆ。行平は源頼朝に仕へ、子孫は入間郡小代郷の鍛冶鋳物集団を引き連れて、所領地の肥後国玉名郡野原庄(熊本県荒尾市)へ移住す。小代氏が筒ヶ岳に山城を構えて小代山と称された所は古墳時代から奈良平安時代にかけての製鉄跡群である。有名な肥後の小代焼は児玉党に所属した職業集団の作品である。児玉党の始祖弘行は児玉・入間両郡の鍛冶支配頭で、牧場の別当は無関係である。
3 児玉党 風土記稿児玉町条に「八幡社は当所及び八幡山町其余近村十六ヶ村の総鎮守なり。別当大善院、本山修験・八幡山と号す、中興僧有便・寛永十八年化す」と。児玉記考に「八幡宮社司、其祖児玉党児玉左馬助大膳坊と号す、世々児玉に住し鎮守八幡神社に奉仕す。明暦四年松井長門守の男庄蔵・甲館没落の後、大膳院四代有便法印へ女婿となり松井姓を襲ふ」と見ゆ。別当修験大膳院先祖は児玉党創設に深く係わっていた。武蔵七党系図に「遠峯有貫主―有大夫別当弘行(弟有三郎別当大夫経行)―武蔵権守河内権守家行(弟入西三郎大夫資行、真下五郎大夫基行)―児玉庄大夫家弘(弟塩谷平五大夫家遠、富田三郎親家)―庄権守弘高(弟庄三郎河内忠家、庄四郎高家、庄五郎阿佐美弘方)―庄太郎家長(弟荘二郎弘定、荘三郎四方田左近将監弘長、山門戒空房快照、本荘四郎四方田弘季、五郎弘賢、四方田七郎高綱)」と見ゆ。
4 児玉氏の本名 児玉党の旗頭は本名久米氏なり。久米条参照。児玉町名主島田氏は藤原伊周の子孫と伝へる。児玉郡塩谷村西光院真鏡寺境内に金王神社(こんのう)あり。風土記稿に「境内に塩谷某の古墳と云伝ふるものあれば、碑石に年号・法名等も見えざれば詳ならず」と。塩谷氏の本名は渡来系の金(こん)ノ氏なり。コン条参照。児玉党の名跡継承者は下野国出身の出稼衆が多い。
物部族金氏 児玉党の祖有道宿祢は「物部豊日乃連(大部造)―船瀬足尼(久慈国造)の後裔、金乃造―真塩乃造―磐麿乃造(大部造、居常陸国筑波郡)の後裔、長道(大部を改め、有道宿祢姓を賜ふ)」とあり。金乃造は常陸国の金氏族の管掌者で金氏であり、大ノ国(韓半島南部)の渡来集団大部族の首領である。金氏族有道氏は武蔵国児玉郡へ移住す。児玉郡塩谷村西光院境内に金王(こんのう)神社あり。是を将軍頼朝の臣で豊島郡渋谷村の渋谷金王丸の墓と伝承しているが附会なり。金王は金ノ神社であり金氏族の氏神である。
児玉の由来として、上記1、2によると、諏訪大神「建御名方命」の御子「片倉辺命(かたくらべのみこと)」の御子、又は「千鹿頭神(ちかつ神)」の御子の児玉彦命がいて、この神は鍛冶神とも呼ばれている。児玉彦命は元々は出雲族の健御名方神の家だったが、信濃国土着神の守矢神の家に養子となったようだ。
名前の一致、もしくは類似しているだけで全ての関連性を結びつけることは非常に危険なことだが、古代ある時期において出雲族等西国氏族が東国に進出したことは史実上の事実であり、信濃国、とりわけ諏訪地方一帯は軍事拠点、兵站拠点として非常に重要な地である。また児玉彦命は鍛冶神という。児玉地方を含む武蔵国の丘陵地から西側に鎮座する神社の祭神の大多数は鍛冶神で、共通項目もあり類似性を感じる。ではこの児玉彦命と児玉郡とはどのような関係があるのだろうか。今のところ残念ながら不明な点が多く今後の課題としたい。