古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

今井金鑚神社

 今井氏は武蔵七党の一つ児玉党出身の武士で、「武蔵七党系図」「新編武蔵風土記稿」などによると、庄氏を名乗ったとされる四郎高家の孫にあたる太郎兵衛行助が今井の地に居館を築き今井氏を名乗ったとされている。武蔵七党系図では「児玉庄太夫家弘―庄四郎高家(一谷合戦)―三郎行家―今井太郎兵衛尉行助―四郎左衛門尉経行―藤内左衛門行経(法名善光。弟太郎資経)―六郎経高(法名蓮心)―女子。経行の弟五郎有助―五郎太郎助経―三郎太郎家経―氏家」という系図となっているという。
 武蔵七党の一つである児玉党の一族の館の近くには守護神である金鑚神社を氏神として崇敬していることが多く、市内の今井・富田や、児玉町の真下・浅見など、児玉党支族の名字のつく旧村々にある金鑽神社がそれにあたるという。この今井地域も今井太郎兵衛行助が館を築いたときに守護神として乾の方角(北西)に勧請したと伝わっていて、このことは金鑚神社の影響力の広がりを感じることができる。
所在地    埼玉県本庄市今井1124
御祭神    素戔嗚尊、天照大神、日本武尊(推定)
社  挌    旧村社
例  祭    不明

       
 今井金鑚神社は国道462号を旧児玉町から本庄方面に北上し、四方田交差点を左折して真っ直ぐ上里町へ向かう途中に左側に鎮座している。四方田交差点から約2km弱で、道路沿いに鎮座しているので、道順に苦労せずに着くことのできる社だ。
           
 道路沿いで東側にある社号標石。この標石の奥には寛正年間(1789~1801年)の庚申塔。がある。また社号標石の奥に見える道路は、北廓遺跡という今井氏の居館跡と言われ、1982年の道路工事に伴う埋蔵文化財の発掘調査によって幅3.8m、深さ0.6から1.2mの直角の3条の堀が検出され遺物も出土しているとのことだ。現在は道路や駐車場となっていて当時の面影はまったくない。
           
 
 東側に向いている一の鳥居(写真上)の手前右側には本庄市指定文化財の「今井金鑚神社の獅子舞」の案内板(同左)がある。この獅子舞は 享保9年(1724)に社殿を再建したときに奉納したのがその始まりといわれます。京より招いた神官が伝えたといわれ、京風の雅楽や蹴鞠の仕草が取り入れられているという。また参道を真っ直ぐ進むと(同右)、社務所や社殿が右手側に見えるが、それらは参道に対して横を向いている配置となっている。
            
                              拝    殿

 社殿の正面右側にある開闢木喰不動尊 三笠山           拝殿上部にある社号額
          御嶽神社等の石碑群
              
                             本    殿
 社殿の左手奥には多くの合祀社が存在する。今井金鑚神社は明治初年の社格制定に際しては村社となり、明治四十年には字下郭の金鑽神社、字塔頭の飯玉神社、字下田の稲荷神社、字松島の松島神社、字川越田の天神社、字諏訪の諏訪社、字松原の天手長男神社、字雷電下の雷電神社の八社の無各社を合祀した。

           
                         参道の途中にあった社日

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蛭川駒形神社

 平重衡は平安時代末期の武将で、父は平清盛で五男。母は清盛の継室・平時子で宗盛、知盛らとは同腹。本三位中将と称され、源平合戦、正式には治承・寿永の乱で活躍する平家方の大将の一人である。兄知盛と並んで武勇の誉高く、平家の一員として各地を転戦して武功を挙げる。
 武将として重衡を一言でいうならば「不敗の将軍」といえよう。長兄重盛とは違い、重衡が誕生した保元2年(1157年)から保元・平治の乱を経た平和期に成長期を過ごした為、戦争を知らなかったはずであるのに、初陣24歳にして戦えば連戦連勝という輝かしい戦歴を誇ることは、それだけでも異彩を放つ才能の人物だったであろう。父清盛も重衡のその才能を期待してか、それまでの子供につけていた「盛」を付けずに、伊勢平氏の父祖である平維衡にあやかって「衡」とつけたものと思われる。その将才は「武勇の器量に堪ふる」(『玉葉』治承5年閏2月15日条)と評される一方、その容姿は牡丹の花に例えられたという。
 本庄市児玉町蛭川地区の駒形神社の境内には一の谷の合戦の後、捕えられた平重衡の首を蛭河庄四郎高家が持ち帰り供養した塚と伝えられる首塚がある。
所在地    埼玉県本庄市児玉町蛭川214
御祭神    駒形大神(天照大神他6神で構成、推定)
社  挌    旧指定村社
例  祭    不明 

        
 蛭川駒形神社は埼玉県道75号線を旧児玉町方向に進み、大天白交差点を右折し、国道254号バイパスを真っ直ぐ進む。しばらく進むと、国道462号と交じる吉田林交差点に着くのでそこをまた右折し、そのまま約5分位まっすぐ進むと、道路沿いで左側に駒形神社が見える。
              
                   道路沿いに鎮座する蛭川駒形神社正面参道
                
                         社殿の手前にある御神木
            
                               拝    殿
 蛭川氏は。庄氏より分派した氏族であり、児玉党の本宗家4代目庄太夫家弘の四男である庄四郎高家が、児玉郡の今井郷蛭川荘(蛭川・熊野堂・今井村から成る)の蛭川村に移住して蛭川氏の祖となった事から始まる。姓は藤原だが、本来は有道。蛭川氏の一族は、『吾妻鑑』などの資料に名が見える。
 社伝では、児玉党の本宗家2代目である児玉弘行が神田を若干寄進した事が伝えられている。弘行が社殿を修理した時期は、児玉党祖である児玉惟行の没後と考えられ、11世紀末から蛭川の地が児玉氏本宗家の所領内であったと伝えている。

        社殿の左側にある境内社群        境内社群の手前にある石祠 祠の台座は石棺か?
 
    本殿の奥には合祀社(写真左)や、そこから少し離れた場所にも石祠が1基(写真右)存在する。 
              
             
                           蛭川駒形神社本殿
 拝殿もどちらかと言えば素朴な造りだが、意外と本殿は彫刻などが施されており、壮麗さとある意味妖艶さも醸し出している。

 ところで、冒頭平重衡を紹介したのだが、この平重衡は連戦連勝の「不敗の将軍」と書いたが、最後の最後に1回だけ敗戦を喫している。それが有名な「一の谷の合戦」だ。そしてそこで重衡は生田の森の副将軍であったが、敗走の途中、追われて味方の船にも乗れず、馬をも失い、自害を覚悟したところを、庄四郎高家によって生け捕りになったという。庄四朗高家はもちろん蛭川氏の先祖となる人物だ。
 この庄四朗高家は後に重衡が斬首された首を当地に持ち帰り、篤く祀ったという。それが蛭川駒形神社の隅にある「平重衡の首塚」である。
           
                    本庄市指定文化財 平重衡の首塚
この地は、一の谷の合戦の後、捕らえられた平重衡の首を児玉党の蛭河庄四郎高家がこの地へ持ち帰り供養した首塚であると伝えられている。
                                                  現地標柱案内文より引用

 平重衡は平家方の大将の一人として、兄知盛と並んで勇将として全国にその名は知られていた。その重衡にとって一大事件として起こったのが南都焼き討ちで、東大寺や興福寺を焼失させ、この合戦の顛末により重衡の評判は一変し、仏敵として憎しみの対象となってしまう。『平家物語』では、福井庄下司次郎太夫友方が明りを点ける為に民家に火をかけたところ風にあおられて延焼して大惨事になったとしているが、『延慶本平家物語』では計画的放火であった事を示唆している。放火は合戦の際の基本的な戦術として行われたものと思われるが、大仏殿や興福寺まで焼き払うような大規模な延焼は、重衡の予想を上回るものであったと考えられる。
 ただここで重衡側の弁護すれば、南都に対しては、平家は最後まで、平和的に話し合いを望んでいた。この戦いの前に平家の忠臣妹尾兼康を派遣して、和議を申し込むも、南都はこれにまったく応じず挑発的な行為で答え、清盛に決戦を挑んだことが原因である。元々当初から、南都は平家と対立し、以仁王の挙兵に際しても、反平家の立場をとっていた。こう考えると、焼き討ちは合戦の最中の不慮の事故ではあるが、南都の僧侶側が自ら破滅を招いたともいえ、重衡の罪は重くないと思われる。時代は下るが織田信長の比叡山延暦寺焼き討ち事件とほとんど詳細は同じである。いや織田信長には比叡山の壊滅を計画的に画策していたから信長のほうが遥かに重いというべきか。
 その後も重衡が参戦した墨俣川の戦いや、備中水島の戦いにも勝利し、福原まで進出し、平家軍は京の奪回をうかがうまでに回復していた。
 そして重衡唯一の敗戦である「一の谷の戦い」で名だたる公達が多く討死にするが、平家でただ一人生け捕りにされ、この勇将の戦いはここで終わる。

 重衡は梶原景時によって鎌倉へと護送され、頼朝と引見した。その後、狩野宗茂に預けられたが、頼朝は重衡の器量に感心して厚遇し、妻の北条政子などは重衡をもてなすために侍女の千手の前を差し出している。 『吾妻鏡』では頼朝との対面で「囚人の身となったからには、あれこれ言う事もない。弓馬に携わる者が、敵のために捕虜になる事は、決して恥ではない。早く斬罪にされよ」と堂々と答えて周囲を感歎させた。千手の前と工藤祐経との遊興では、朗詠を吟じて教養の高さを見せ、その様子を聞いた頼朝が、立場を憚ってその場に居合わせなかった事をしきりに残念がっている。
 そして、壇ノ浦の戦いのあった元暦2年(1185年)、重衡は東大寺に引き渡され、妻・輔子との最後の再会を果たした後、斬首された。享年29歳。 時代に翻弄されたとはいえ、太く短く駆け巡る人生で、最後はどのような気持ちでこの短い人生を締めくくったのだろうか。
 重衡の将才としての才能はもちろんだが、平時において心遣いを忘れない気を利かせる、冗談も言うユーモアを持った人物だったという。容貌は「艶かしいほど清らか」と記録が残るほどの美男。また、詩や笛など教養にも優れていた。

 蛭川地域にあるこの伝承が事実かどうかの真偽はあえてここでは問わない。ただ平安時代末期からの歴史がこの蛭川地域に確かに存在していて、それを発見できたことが自分にとってかけがえのない財産の一つとなったことはたしかだ。

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金屋白髭神社

 本庄市には「九郷用水」と言われる灌漑用水がある。この用水の由緒は諸説あり、かなり古いことは確かなようだ。この用水の北側に東福寺があり、その縁起には「昔、この地方は旱魃になやまされ、農民は苦労していた。そこでこの国の国造が、金鑽神社(神川村)に祈願すると一人の童子があらわれて「私が金龍になって神流川の流れを導くから、それにしたがって水路を開き用水にしなさい。」とお告げがあった。不思議なことにその夜明け、金色の大きな龍が神流川の水中よりあらわれて、野原や田畑をよこぎり進むと、ある高台にのめり上り、姿を消した。その高台がここ東福寺で、その金龍が通った跡に堀を開いてできたのが九郷用水(灌漑面積600ha、流路長さ約15km)であると伝えられている。」という。
 この縁起に記されている「国造」は令制国以前にあった行政区分であり、このことからこの縁起が記された時代の上限はかなり古く感じられ、またこの国造が金鑚神社に祈願したことや、九郷用水周辺には多数の金鑚神社が鎮座していることから、この地域一帯は金鑚神社の信仰地域であったと思われる。さらに神流川流域では古代に開削したとみられる大溝が確認されており、当時かなりの先進技術を金鑚神社を信奉する技術集団が保持していたことを物語っている。
 そしてこの技術者集団が居住していた地域の一つがこの白髭神社が鎮座する「金屋」地区であったのではないかと筆者は推測する。
所在地    埼玉県本庄市児玉町金屋1164
御祭神    猿田彦神(推定)
社挌、例祭  不明

       
 金屋白髭神社は、国道462号線を本庄市児玉町地区より神川町二ノ宮の金鑚神社の方向に進み、途中金屋保育所交差点の手前約200m、進行方向の右側に鎮座している。境内は決して広くはないが、この社が鎮座している「金屋」という地名には興味があったし、その地域名からか社の雰囲気も中々趣のある感じだ。駐車場は北側に隣接している第二金屋公民館があり、そこに停めて参拝を行った。
           
                            金屋白髭神社正面
 この社の参道正面には社殿を遮るように御神木の大杉があり、参道もその大杉を避けて迂回して造られている。日本人古来の巨木に対する信仰がまだまだ残っていて、参拝の最初から早くもカウンターを食らった感じを覚えた。

        国道沿いにある社号標石             参道を遮る御神木に並行してある境内社
                
    金屋白髭神社参道正面に聳え立つ御神木の大杉。但し樹齢はそれほどではないように思える。
              
                              拝    殿
 この社には残念ながら由緒等の案内板がない。式内社である武蔵国二宮金鑚神社から数キロしか離れておらず、この「金屋」という地域の由来はかなり深いはずであり、その点が非常に残念だ。
           
        
             
                           金屋白髭神社本殿
  金屋白髭神社から国道462号線を西に5km程行くと金鑽神社が鎮座する。この金鑽神社は『延喜式』神名帳に児玉郡の名神大社「金佐奈神社」とみえる。現在の祭神は天照皇太神・素盞嗚命・日本武尊の三柱で、社蔵の「金鑽神社鎮座之由来記」によると、日本武尊が東征の折に火鑽金(火打金)を御霊代として山中に納め、天照大神・素戔嗚尊を祀ったのが創始という。
 社名の金鑽=金佐奈は金砂の意で、鉱物の産出を霊験として崇めたといわれ、御嶽山では鉄や銅が採鉱されたとの伝承もある。同じく文化文政期の幕府官撰地誌『新編武蔵風土記稿』は、一説として祭神を採鉱・製鉄を司る金山彦神としており、古代の製鉄に関わる技術者集団(渡来人か)が周辺に存在し、彼らが金鑽神社の祭祀集団となっていたとの考え方もある。
 さて児玉郡域には、製鉄に関連する地名が多く残る。神流川は「かんな」すなわち砂鉄・鉄穴の意とされ、児玉郡美里町阿那志は古くは「穴師」とも記され(「記録御用所本古文書」国立公文書館内閣文庫蔵)、鉄穴師(鉱工業者)に関わるものと考えられている。
 白髭神社が鎮座する「金屋」地区は古くから製鉄・及び鋳物師が存在していた。製鉄・鋳物と用水開削は一見何の関連性のない分野と思われがちだが、「掘削技術」を共通項目として考えるならばいささか早計ではないだろうか。その点は埼玉苗字辞典でも以下の記述があり、参考にしてもらいたい。
中林 ナカバヤシ
同郡金屋村(児玉町) 児玉記考に「旧家中林喜三郎、祖先を中林佐渡守と云ひ、倉林越後守の実弟なり。旧幕の頃は世々忠蔵と通称し、地頭の組頭役を勤続せり。文政の初年迄は倉林家と同じく盛んに鋳物師を営み全国百八軒の其一たりし」と見ゆ。天正年間の倉林越後守と兄弟説は附会にて、遥か是以前より鋳物師であった。多摩郡平尾村椙山神社懸仏銘(東京都稲城市)に「延徳二年壬午五月五日、武州児玉郡金屋住人中林五郎左衛門家吉敬白」。延徳二年(一四九〇)は庚戌である。延徳は私年号で寛正三年壬午(一四六二)が正確である。金屋村懸仏銘に「長享二年戊申六月吉日、武州児玉金屋中林家次」。静岡県富士山頂浅間神社懸仏銘に「天文十二年癸卯六月吉日、武州児玉金屋中林常貞」。大滝村三峰神社懸仏銘に「天文十四年乙巳八月吉日、三峰大明神、武州児玉金屋住中林次郎太郎信心施主」。小平村成身院文書に「文禄四年、阿弥陀如来座像造立之檀主中林加賀守・中林主計助・中林若狭守」。当村真福寺文禄四年墨書銘に旦那中林加賀守・中林主計助。上州世良田村東照宮元和四年燈籠奉納に金屋村中林仲次。川越鋳物師寛政六年小川文書に「児玉郡八幡山金屋村いものし・中林由右衛門・同庄右衛門・同伊左衛門・同治兵衛・同治右衛門・同太郎兵衛」。秩父郡金沢村西光寺天保十五年半鐘銘に児玉郡金屋村鋳物師中林庄右衛門。当村円通寺嘉永五年地蔵尊に中林伊左衛門・中林利七・中林定五郎母なみ・中林善兵衛母すみ・中林源治郎妻くめ・中林仙蔵妻りよ。当村元治元年二十二夜塔に中林善兵衛・中林茂助あり。
真継 マツギ 我国鋳物師の元締にて江戸時代に京都の真継能登守斎部宿祢は、足立郡川口町や児玉郡金屋村の鋳物師等を支配す。
倉林 クラバヤシ 鍛冶・鋳物師の倉族なり。
金屋村(児玉町) 金屋は金打の義で古代以来鍛冶・鋳物を業とする集団の居住地にて、小名倉林は此氏の屋敷名なり。(中略)秩父郡薄村薬師堂鰐口銘に「天正十五丁亥年十一月十五日、武州秩父郡薄之郷薬師堂鰐口処、大旦那北条安房守氏邦、武州児玉郡金屋村細工大工棟梁倉林若狭守政次」あり。風土記稿金屋村条に「天正中は倉林越前守・村民政右衛門が先祖知行せり。(中略)倉林文書(埼玉の中世文書)に「戌三月二十日(天正十四年)、伝馬三疋可出之、上州之鋳物師に被下、可除一里一銭者也、仍如件、自小田原西上州迄、宿中、垪和伯耆守奉之」あり。上州鋳物師宛てにて、前橋市上新田の鋳物師倉林氏宛てなり。金屋村倉林氏が買い求めた物であろう。児玉記考に「○旧家倉林甚四郎、先代を政右衛門と通称し、祖先を倉林越後守と云ふ、越後守は嘗て上杉修理太夫政実より旧賀美郡安保村に於て知行七貫文を与へられたる名族の後胤なり。爾来連綿同族三十有六戸皆繁盛を極む。○旧家倉林太郎兵衛、祖先は甚四郎に同じ。仁安元年(平安時代末期)始めて鋳物師となり、往時全国百八軒の其一なり。紫宸殿へ燈炉を献納し禁裏御用附となり、爾来、主上御即位毎に必ず参内せり。天福元年菊の紋章を許され現に門扉の座金に此章を附す。維新前は世々地頭の名主役を勤め苗字帯刀を許さる。



 埼玉苗字辞典では金屋地区の鋳物師は同時に鍛冶師であるという。時代は下るが平安時代以降から活躍した児玉党も金鑽神社を信奉し、崇敬していた一族という。
 金屋地区も金鑽神社を信奉する鍛冶師、鋳物師が居住していた地域だったからこそ、後世にこの地名が残ったのではないだろうか。

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東石清水八幡神社

 埼玉県の北西部に位置する旧児玉町、現在の本庄市児玉地区は、南半分を県立上武自然公園に指定されている上武山地が東西につらなる。その北方には児玉丘陵と本庄台地がひろがり、上武山地を水源とする小山川や女堀川周辺は、農業地帯となっている。この変化に富む地形と自然環境に恵まれた児玉町は、太古の時代より住みよい地域であったようで、町内には先人達の生活の痕跡である遺跡の数も多く、埼玉県でも有数の文化遺産の宝庫と言われる。
 児玉町大字下浅見には4世紀前半に築造された鷺山古墳がある。古墳は西に生野山丘陵、東に大久保山(浅見山)丘陵に挟まれた小丘陵上にあり、南北に広がる広大な条里水田を見渡せる絶好の位置に築造されており、まさにこの地域の王にふさわしい立地環境だ。古墳は全長60メートルの前方後方墳で、4世紀前半に築造されたと推定される武蔵国で最も早く築かれた古墳の一つという。また5世紀から7世紀にかけて築造された秋山塚原地区の秋山古墳群は、かつては100基近い古墳が築造されたようだ。


所在地    埼玉県本庄市児玉町児玉198 
主祭神    誉田別尊〔ほんだわけのみこと〕

         比売大神〔ひめおおかみ〕
                 息気長足姫命〔おきながたらしひめのみこと
社  格     県社
創建年代   康平6年(1063)
     
例  祭     10月15日(児玉秋祭り)
神事等    3月15日 春祭り(植木市)7月13~19日の日曜日 八坂神社夏祭り

              
地図リンク
  社伝によれば、1051年(永承6年)、源頼義、義家、親子が奥州の安倍氏征伐のおり、この地で都の石清水八幡宮を遥拝して、戦勝祈願を行った。 1063年(康平6年)、奥州を平定し帰る途中に、この祈願所に立ち寄って八幡神社を建立し勧進した。当初は、東石清水白鳩峯と称した云われていた。  武蔵武士、児玉党等の信仰も深い由緒ある神社である。
  児玉党(こだまとう)は、平安時代後期から鎌倉時代にかけて武蔵国で割拠した武士団 の一つ。主に武蔵国最北端域全域(現在の埼玉県本庄市・児玉郡付近)を中心に入西・秩父・上野国辺りまで拠点を置いていた。当時の武蔵七 党と言われる武士集団のうち、最大の武力と血族を有していたといわれる。    
         
一の鳥居より随神門をのぞむ                    随神門手前にある案内板
      随神門は本庄市指定特別文化財

石清水八幡神社         所在地 児玉郡児玉町大字児玉
  東石清水八幡神社の祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと)、姫大神(ひめおおかみ)、神功皇后(じんぐうこうごう)の三神である。

 社伝によれば、平安時代の末期、源義家が父頼義に従い奥州征伐に赴く途中金鑚(かなさな)神社へ参詣(さんけい)したが、そのおりに当地へ斎場(まつりば)を設け、戦勝を祈願し、康平六年(1063)帰陣の際ふたたび当地に立ち寄り、社殿を建立して八幡宮を迎(むか)え「東石清水白鳩峯」と称したのが始まりという。
  現在の社殿は享保七年(1722)に再建したもので、拝殿は入母屋(いりもや)造りとなっており、屋根は銅葺千鳥破風(はふう)造りである。拝殿の格天井(こうてんじょう)には狩野直信(かのうただのぶ)筆の「飛龍の図」が描かれている。また、建物の彫刻は江戸の彫刻師の手によるもので、緻密(ちみつ)な彫(ほり)に極彩色がほどこされており、特に本殿の左右及び裏の三面には唐様(からよう)の人物や花鳥が彫刻され、その華麗さは県下でも稀な社殿として有名である。
  境内にある江戸時代の高札場は、もと本町と連雀町との境いの道路にあったものを昭和五年に現在地へ移したもので、県内に現存している数少ないものの一つであり、町の文化財に指定されている。
                                                                                                                                                            昭和五八年三月   埼玉県
            
              拝殿の手前にある銅製鳥居は本庄市指定特別文化財
         
                             拝  殿 
                            南側に鎮座                                  
                             本  殿 
                       細工が細やかで見事な彫刻
 ちなみに現在の社殿は、久米六右衛門が発起人となり、享保3年に起工し、享保7年(1722)に完成、棟梁は妻沼伝兵衛、彫刻は獅子の五右衛門と龍の茂右衛門など、当代無双の名人の手によるものです。 (案内板より)
                          
*高礼場
 *法度、掟書、犯罪人の罪状などを記し、交通の多い市場、辻などに掲げた板札を高礼といい、庶民の間に徹底させるためこれらの高札を掲げる場所を高礼場といった。これらは中世末期から あったが、江戸時代が最も盛んとなり明治三年(1870)に廃止された。高礼場は無年貢地で街道の宿場や村の名主宅前など目立つ場所に普通設置され、江戸には日本橋など六ヶ所の大高礼場 をはじめ三十五ヶ所に高札場(こうさつば)があったという。

 
児玉党(こだまとう)は平安時代後期から鎌倉時代にかけて武蔵国で割拠した武士団 の一つ。主に武蔵国最北端域全域(現在の埼玉県本庄市・児玉郡付近)を中心に入西・ 秩父・上野国辺りまで拠点を置いていた。当時の武蔵七 党と言われる武士集団のうち、最大の武力と血族を有していたといわれる。
 
ところで、その名誉ある児玉党の名「児玉」とはどのような由来、由緒があるのだろうか。「児玉」について以下の記述が掲載されている書物がありここに掲載する。


児玉 コダマ 小、児は胡の佳字にて、胡(えびす)、蕃(えびす)なり。玉は鉄(くろがね)の意味。蕃族鍛冶集団の集落を児玉、小玉と称す。蕃(えびす)のことはバン、バンタ参照。物作り集団(部)の物部族は出雲・芸備地方及び筑紫国(九州全体の総称)が本拠地である。物部氏の祖神饒速日命の天降る時に従って来た思金命は「重い金」で鍛冶鉱山師の首領である。子孫は秩父国造と信濃阿智祝で、鍛冶神の児玉彦命を奉斎し、秩父郡大宮郷と信濃に児玉氏多く存す。天平九年東大寺文書に食封千戸の内、武蔵国児玉郡五十戸と見ゆ。和名抄に児玉郡を古太万と註す。



1 信濃国の児玉彦命 神代の時代に出雲国の大国主命の子・健御名方神が諏訪に来たる際に相争った諏訪の神・洩矢神あり。健御名方神に服従し、子孫は神長官家の守矢氏を称す。守矢氏系図に「洩矢神―守矢神―千鹿頭神―児玉彦命(片倉辺命の子)」と。諏訪系図に「健御名方命―伊豆早雄命―片倉辺命」と見ゆ。児玉彦命は出雲族の健御名方神の家から、信濃国土着神の守矢神の家に養子となっている。鍛冶神の児玉彦命を奉斎した集団は児玉氏を名乗って多く現存す。

2 有道姓児玉氏 大国主命は大物主命とも称し、其子大田田根子命は日本書紀崇神天皇七年条に陶器庄の鍛冶神と見ゆ。大国、大田の大は大ノ国(後の百済)出身で、田根子は種子で子孫の意味。大族の集団を大部と称し、其の支配管掌者を大部連と云う。(中略)児玉郡誌に「児玉、或曰遠峯。有道維能、自京師移関東、居児玉、因氏焉。児玉・遠峯、和名抄訓古太万。有道貫首遠峯と称すなどなど、有もせぬ人名を往々作り出したるは、怪誕不稽も甚し。往昔軍団を置かれて、遠峯軍団と云う、遠峯とは義訓にてコタマと訓ず、音声の遠山に響くをコタマにこたうど云うに因る」と。遠峯(こだま)は人名では無く児玉のことで、藤原伊周の家令で、子では無い。常陸国筑波郡水守郷(みもり)は、後の新治郡水守村(つくば市)で、将門記に「水守の営所」と見え、当時館城があった。此地の物部姓有道氏は、同族久米物部の居住する武蔵国児玉郷浅見村を所領とす。入浅見村の苗字久米氏は在名阿佐美氏、或は児玉氏を名乗り児玉党の旗頭となり、同族でもある領主の有道姓を冒す。針博士有道氏は「維、惟」を通字としており、児玉党は是を用いていない。まったく別家の人々である。小代八郎行平置文写(肥後古記集覧)に「行平が曽祖父児玉の有大夫弘行の所領の事余の国々の分までには注すに及ばず武蔵一ヶ国の分には、児玉・入西両郡、弘行の所領たりき、此外にも猶を有りき。然れば弘行は分限も広く武芸道立て被るるに依りて、児玉より入西へ越へ被るる時と謂い、惣べて行が被時は随兵百騎を相い具せ被れき、云々」と見ゆ。行平は源頼朝に仕へ、子孫は入間郡小代郷の鍛冶鋳物集団を引き連れて、所領地の肥後国玉名郡野原庄(熊本県荒尾市)へ移住す。小代氏が筒ヶ岳に山城を構えて小代山と称された所は古墳時代から奈良平安時代にかけての製鉄跡群である。有名な肥後の小代焼は児玉党に所属した職業集団の作品である。児玉党の始祖弘行は児玉・入間両郡の鍛冶支配頭で、牧場の別当は無関係である。

3 児玉党 風土記稿児玉町条に「八幡社は当所及び八幡山町其余近村十六ヶ村の総鎮守なり。別当大善院、本山修験・八幡山と号す、中興僧有便・寛永十八年化す」と。児玉記考に「八幡宮社司、其祖児玉党児玉左馬助大膳坊と号す、世々児玉に住し鎮守八幡神社に奉仕す。明暦四年松井長門守の男庄蔵・甲館没落の後、大膳院四代有便法印へ女婿となり松井姓を襲ふ」と見ゆ。別当修験大膳院先祖は児玉党創設に深く係わっていた。武蔵七党系図に「遠峯有貫主―有大夫別当弘行(弟有三郎別当大夫経行)―武蔵権守河内権守家行(弟入西三郎大夫資行、真下五郎大夫基行)―児玉庄大夫家弘(弟塩谷平五大夫家遠、富田三郎親家)―庄権守弘高(弟庄三郎河内忠家、庄四郎高家、庄五郎阿佐美弘方)―庄太郎家長(弟荘二郎弘定、荘三郎四方田左近将監弘長、山門戒空房快照、本荘四郎四方田弘季、五郎弘賢、四方田七郎高綱)」と見ゆ。

4 児玉氏の本名 児玉党の旗頭は本名久米氏なり。久米条参照。児玉町名主島田氏は藤原伊周の子孫と伝へる。児玉郡塩谷村西光院真鏡寺境内に金王神社(こんのう)あり。風土記稿に「境内に塩谷某の古墳と云伝ふるものあれば、碑石に年号・法名等も見えざれば詳ならず」と。塩谷氏の本名は渡来系の金(こん)ノ氏なり。コン条参照。児玉党の名跡継承者は下野国出身の出稼衆が多い。

 物部族金氏 児玉党の祖有道宿祢は「物部豊日乃連(大部造)―船瀬足尼(久慈国造)の後裔、金乃造―真塩乃造―磐麿乃造(大部造、居常陸国筑波郡)の後裔、長道(大部を改め、有道宿祢姓を賜ふ)」とあり。金乃造は常陸国の金氏族の管掌者で金氏であり、大ノ国(韓半島南部)の渡来集団大部族の首領である。金氏族有道氏は武蔵国児玉郡へ移住す。児玉郡塩谷村西光院境内に金王(こんのう)神社あり。是を将軍頼朝の臣で豊島郡渋谷村の渋谷金王丸の墓と伝承しているが附会なり。金王は金ノ神社であり金氏族の氏神である。

 児玉の由来として、上記1、2によると、諏訪大神「建御名方命」の御子「片倉辺命(かたくらべのみこと)」の御子、又は「千鹿頭神(ちかつ神)」の御子の児玉彦命がいて、この神は鍛冶神とも呼ばれている。児玉彦命は元々は出雲族の健御名方神の家だったが、信濃国土着神の守矢神の家に養子となったようだ。



    名前の一致、もしくは類似しているだけで全ての関連性を結びつけることは非常に危険なことだが、古代ある時期において出雲族等西国氏族が東国に進出したことは史実上の事実であり、信濃国、とりわけ諏訪地方一帯は軍事拠点、兵站拠点として非常に重要な地である。また児玉彦命は鍛冶神という。児玉地方を含む武蔵国の丘陵地から西側に鎮座する神社の祭神の大多数は鍛冶神で、共通項目もあり類似性を感じる。ではこの児玉彦命と児玉郡とはどのような関係があるのだろうか。今のところ残念ながら不明な点が多く今後の課題としたい。



 



 


 


 

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本庄金鑚神社

 本庄市は埼玉県の北西部県境に位置し、北に利根川が位置し、市内中央部にJR高崎線が、南部に関越自動車道と上越新幹線が東西に横断している。市街地は本庄駅付近に集中する。国道17号線(本庄駅北側)より北部は畑が広がり、住宅密集地は本庄駅の南部方面に広がっている。本庄北部は畑が広がっている為、風をさえぎる物がなく、秋冬では西風が強い。内陸の台地で比較的安定した風土を保つ。旧市内域(児玉町合併以前)では、3分の2が台地上に当たる。一方で、児玉南部方面は山麓地帯である為、夏場では山間独特の湿度の高さがあり、土砂崩れも多いようである。
  本庄市の名前の由来として古代から人々が住み、縄文時代の遺跡が多く、平安時代には児玉党の荘氏が登場する。この宗家(本家)が本庄の由来となっているという。
 旧石器などの遺物の出土や縄文期、弥生期、古墳期と、各時代にそれぞれ遺跡がある事からも分かるように原始時代の頃より本庄には人々が暮らしていた。本庄の古墳時代の特色として、旧児玉町下浅見の鷺山古墳が4世紀中頃(333年 - 366年)まで遡る県内でも最古級かつ最大(全長約60m)の前方後円墳に当たる事、また、本庄の大久保山古墳群の前山1号墳は県内最大の前期前方後円墳であり、武蔵国北部に顕著な巨大円墳も古墳時代の本庄の特色の一つである。
所在地      埼玉県本庄市千代田三丁目2-3
主祭神      天照大御神 素戔嗚尊 日本武尊
社  格      旧県社
創建年代    欽明天皇2年(541)
例  祭      11月2.3日(本庄祭り)

          
地図リンク
 JR本庄駅から中山道を左折、そのまま真っ直ぐ進むと約2km位で金鑚神社に着く。街中の神社ゆえ、また昼間の参拝の 関係で交通量も多く、(中山道の道幅も決して広くもない)神社までの道のりは決して気分がいいものではなかったが、神社の鳥居を拝むとやはり神妙な感じになる。
 地形的に見ると、JR本庄駅の北西1.2km、国道462号と県道392号の交差点、昔で言うと中山道と下仁田街道(上州姫街道)の分岐点だったそうだが、その手前に金鑚神社は鎮座している。
 
                       神社前の大鳥居                               鳥居を過ぎると左側に神社の案内板がある
   大鳥居の社号額は江戸時代の老中で有名な
                  松平定信の揮毫とのこと
金鑚神社   
  所在地 本庄市千代田3-1
  金鑚神社の祭神は天照皇大神、素盞鳴尊、日本武尊の三神である。
 社伝によると、創立は欽明天皇の二年(541)と伝えられている。武蔵七党の一つである児玉党の氏神として、また、本庄城主歴代の崇信が厚かった。
 境内は、ケヤキやイチョウなどの老樹に囲まれ、本殿と拝殿を幣殿でつないだ、いわゆる権現造りの社殿のほか、大門、神楽殿、神輿殿などが建っている。本殿は享保九年(1724)、拝殿は安永七年(1778)、幣殿は嘉永三年(1850)の再建で、細部に見事な極彩色の彫刻が施されており、幣殿には、江戸時代に本庄宿の画家により描かれた天井絵がある。
 当社の御神木となっているクスノキの巨木は、県指定の天然記念物で、幹回り五.一メートル、高さ約二十メートル、樹齢約三百年以上と推定される。これは本庄城主小笠原信嶺の孫にあたる忠貴が社殿建立の記念として献木したものと伝えられる。
 このほか、当社には市指定文化財となっているカヤ、モミ、大門、神楽、小笠原忠貴筆建立祈願文がある。
                                          昭和六十年三月 埼玉県・本庄市
                           
   鳥居をくぐるとすぐ右側に巨大なクスノキがある。「金鑚神社のクスノキ」として埼玉県の県指定天然記念物に認定されている。
埼玉県指定天然記念物 金鑚神社のクスノキ  昭和44年3月31日指定
 クスノキは、元来暖帯地方に自生し、わが国では主に九州地方、近畿地方南部及び東海道関東地方の太平洋沿岸地方に生育する植物で北関東ではこのような巨木になったのは珍しい
目通り5.1メートル、根回り9.8メートル、枝張りは東へ14.2メートル、西へ15.6メートル、南へ15.0メートル、北へ13.8メートルと四方へ平均して伸び樹齢、およそ350年と推定され樹勢盛んである、このクスノキは寛永16年(1639)金鑚神社社殿改修のおり小笠原忠貴が献木したものと伝えられ、金鑚神社の御神木として今日にいたる。
                                             埼玉県教育委員会
                                             本庄市教育委員会
                       
                                       鳥居の正面にある大門 本庄市指定文化財
                                           旧別当の威徳院の総門であったという

 
             拝殿前の階段近くにある手水舎       階段を上ると左側に神楽殿 文政4年(1823)建立
                        
                                                               拝      殿 
                                                    「丸に尻合せ三つ蔦」の神紋  
                        
                                                        配色豊かで豪華な本殿
  本庄金鑚神社には江戸神楽という神楽がある。金鑚神楽には、本庄組・宮崎組・杉田組・根岸組・太駄組の5組の神楽組がある。
 本庄では、地方では珍しい「免許」を持つ神楽として有名で、本庄組は、1825(文政8)年に出された免許状が保存されており、金鑚神社の大祭で奉納舞を行うそうだ。また、1716(正徳6)年の免許を持つ宮崎組は、牧西八幡大神社に奉納され。そして杉田組は西富田金鑚神社等で奉納するという、一社相伝の由緒深いこの江戸神楽は、専門の神楽師ではなく、神社の氏子によって代々伝承されているそうだ。           

 なおこの江戸神楽は現在本庄市無形文化財に指定。



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