下高野御所宮神社・下高野熊野神社
天文13年(1544年)もしくは天文14年(1545年)頃に生まれた。永禄年代末期までの動向は詳細不明であるが、兄の義氏とともに北条氏に庇護されていたと考えられている。永禄元年12月から翌年正月の間に、13代将軍・足利義輝より偏諱を受け、輝氏と名乗った。
当初は義氏の後継者的立場にあったが、天正4年(1576年)に義氏の嫡男・梅千代王丸が誕生すると、後継者から外れることになった。翌年(1577年)、幸手一色氏が輝氏を領内の「高野台」に迎えて守護するようになった。その後、天正12年(1584年)、沼尻の合戦に巻き込まれて死去した。
杉戸町下高野地域の佐内新田に鎮座する御所宮神社はこの足利輝氏の霊を合祀したという。
【下高野御所宮神社】
・所在地 埼玉県北葛飾郡杉戸町大字下高野1735
・ご祭神 神倭磐余彦命 五処大権現
・社 格 旧佐内新田株鎮守
・例祭等 初お神酒 1月1日 夏祭り 7月10日〜15日
秋祭り(お歩射) 9月9日
杉戸香取神社から埼玉県道372号下高野杉戸線を北西方向に650m程進み、「万願寺橋」交差点を右折、その後2番目先の十字路を左折すると、豊かな社叢林の中に下高野御所宮神社が見えて来る。
下高野御所宮神社正面
社が鎮座している地は佐内新田株である。この字の氏子の生業が現在に至るまで、稲作を中心とする農業であることから、氏子は当社にコメの豊作を第一に祈願するのを例としている。また、近年までは、稲作のほかに副業として養蚕を行い、農家の現金収入としていたことから、養蚕倍盛を願う氏子には、よくできた繭を額に入れて奉納する信仰もみられたという。
拝 殿
御所宮神社 杉戸町下高野一七三五(下高野字佐内新田前)
『高野村志稿』に載る当社の由緒を要約すると次のようになる。
日本武尊が当地に来訪したことにより、尊を祀る社を建て社名を「御所宮」とした。下って天正十二年(一五八四)三月、御所の足利公方の血筋を引く領主足利輝氏の霊を合祀した。元禄三年(一六九〇)熊野五社権現を新たに勧請して社名を「五社権現」と改め、佐内新田株の鎮守となった。更に享保六年(一七二一)、名主の間宮長左衛門は由緒が社名変更により失われることを憂いて再び「御所権現」と改めた。
一方、社蔵の棟札から当社の歴史を振り返ると、次のようになる。まず、元禄十一年(一六九八)の棟札には、「奉勧請五処大権現」とあり、この年、当社が勧請されたことが確認できる。この時の遷宮導師は、別当長福寺の尊映法印であった。
次いで、享保二年(一七一七)の棟札には、「新建一宇五処権現」とあり、遷宮導師は、別当永福寺の浄栄法印であった。「新建一宇」と棟札にあることから、この年、恐らく小祠から規模の大きな社殿に建て替えたのであろう。別当寺の寺名については、元禄と享保の棟札の記録が相違するが、これは、長福寺が享保年間に永福寺と改めたからである。
なお、『風土記稿』には「御所権現社 永福寺持」とある。
「埼玉の神社」より引用
境内に祀られている稲荷大明神・天満宮の石祠(写真左・右)
社の境内にひときわ聳え立つ巨木(写真左・右)。ご神木の如きその威容。
【下高野熊野神社】
・所在地 埼玉県北葛飾郡杉戸町大字下高野872
・ご祭神 伊弉冉尊 速玉男命 事解之男命
・社 格 旧下高野村下株鎮守
・例祭等 春祭り(おくまんさま) 2月5日 秋祭り 9月9日
下高野御所宮神社から直線距離にして200m程南側に下高野熊野神社は鎮座する。当社が鎮座する字は下高野の集落の一つである下株で、当下株地区は、現在行政上隣接する佐内新田と一つにあり杉戸町四区を構成しているが、この二地区は古くから何らかの関わりがあったようで、佐内新田の鎮守御所宮神社の祭礼が当社の「九日(おくんち)と同じ日で、佐内新田の人が甘酒を作り当社に供えたことがあったという。
拝 殿
『新編武蔵風土記稿 下高野村』
御所權現社 永福寺の持、下同じ、 〇熊野社 〇稻荷社
永福寺 新義眞言宗、平須賀村寶聖寺末、龍燈山と號す、小名堂の下にありて年代は傳へず、本尊彌陀は行基の作、長五尺七寸の坐像なり、開山詳ならず、後圓融院の御宇僧覺宥中興せり、明德三年七月廿三日第三世日尊、己が父因幡か罪業消滅の爲に施餓鬼供養の法を修せしより以來、今も其法修せり、その日參詣の人群集するをもて、土俗施餓鬼寺とも稱せり、境內に因幡池とて小池あり、日尊始て施餓鬼の法を修せしとき、龍燈現せしより 當寺の山號とせりと、今按に因幡池は當時因幡か屋敷の內にて、日尊施餓鬼を修せし奇瑞ありしにより、寺を移して龍燈山と名付しなるべし、當寺施餓鬼の緣起、及び閻魔王日尊に示すの偈等あれど、妄誕怪異取に足らず、觀音堂 閻魔堂 地藏堂 位牌堂 鐘樓 新鑄の鐘をかく、
熊野神社 杉戸町下高野八七二(下高野字熊野面)
当地は、古利根川の中州に積もった砂が強い西風に飛ばされ、自然堤防上に堆積して出来た「高野砂丘」と呼ぶ砂丘上にある。
高野の地名は、行基が開山したと伝える地内永福寺の『竜灯山伝灯記』によると、昔武総国境の真間(まがま)の入江に薩天(さつて)ヶ島という島があり、日本武尊が東征の時、舟をこの島に着けて富士山と筑波山を眺め、両山の麓まで見渡せるところから高野と名づけられたという。
日本武尊の伝説はともかく、当地は古くから開けた所で、『吾妻鑑』に、治承五年(一一八一)二月二十三日に下川辺行平、同弟四郎政美が古我・高野等の渡しを固めて余兵の遁走を討ち止めたとあるが、この高野の渡しは当地のことであるといわれ、交通の要衝であった。
『高野村志稿』に当社は「伝灯記・昔話等に拠れば、領主一色式部大補直為(一説に頼直)幼時脆弱なりしかば乳母深く之を慨き、乳母が産土神熊野権現に祈りて霊験あり、依て父一色式部大輔満直奉賽の為に祠を建てて之を祭り、後祠堂頽破せしかば元禄三年(一六九〇)二月下株の住民之を再建すとありて下株の鎮守なり、幕時は永福寺持、維新後は東大定の所管なり」とある。現宮司の東家は、高野にあった本山派修験東大寺の末である。東大寺は文治元年(一一八五-九〇)に西行が開基と伝え、中興を菅原道秀といい、新田義貞に従い鎌倉を討った後当寺を守り、子孫が維新に際し復飾して東を名乗った。
「埼玉の神社」より引用
参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「ウィキペディア(Wikipedia)」等
