箭弓稲荷神社
また鎌倉街道等、多くの街道が集まる交通の要衝として、古くは鎌倉時代から松山城(現在の行政区域は比企郡吉見町に存在するが、松山城跡自体は当市と隣接している)の城下町、その後は松山陣屋の陣屋町として発展した比企地域の中心都市である。
「やきゅう」という音との縁で、プロ野球をはじめとする野球関係者が多く参拝する事でも知られている。特に、同じ埼玉県内の所沢市に本拠地を構える埼玉西武ライオンズの選手が頻繁に訪れているという
所在地 埼玉県東松山市箭弓町2-5-14
主祭神 保食神(宇迦之御魂神 うがのみたまのかみ)
豊受比賣神
社 格 県社 別表神社
本殿様式 権現造
例 祭 9月21日(例大祭) 他
創立年代 712年(和銅5年)
箭弓神社は東武東上線、東松山駅西口を降りて徒歩5分位の位置にある。「箭弓」という言葉は上古代、「矢久」「野久」「八宮」と呼ばれ、「八宮」とは天照大神が素戔鳴尊と誓約の時に出現したと云う五男三女神を祀る神社を八宮と云う。五男三女神は素戔鳴尊の子ともいわれ、田心姫(たこりひめ)、湍津姫(たぎつひめ)、市杵島姫(いちきしまひめ)の三女、正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(まさかあかつかちはやひあまのおしほみみのみこと)、天穂日命(あまのほひのみこと)、天津彦根命(あまつひこねのみこと)、活津彦根命(いくつひこねのみこと)、熊野豫樟日命(くまのくすひのみこと)の五男であったという。
二の鳥居 綺麗に整備された参道。二の鳥居から撮影
創建は712年(和銅5年)と歴史のある社で、創建当時は単なる小さな祠でしかなかったが、長元3年(1030年)、下総国の城主・平忠常の討伐に出かけた源頼信が、この周辺に一泊し、近くにあった野久稲荷神社に詣でて、太刀一振と馬一頭を奉納したところ、その夜に白羽の矢のような形をした雲が敵陣の方へ飛んでいくのを目撃する。これは神のお告げだと確信し、直ちに敵陣に攻め込んだ頼信は見事に快勝し、当地に、立派な社殿を建造し「箭弓稲荷大明神」と称えられ、その後も松山城主や川越城主の庇護を受け、現在に至っている。
三の鳥居手前にある手水社 三の鳥居近くにある由緒、祭神の
紹介した案内板
境内由緒書
御祭神 宇迦之御魂神(保食神)豊受比賣神
当社の御創建は和銅五年と伝えられ、規模の雄大さと御社殿の荘厳さと御霊験の灼かさに於いては、関東に比なき稲荷大社と称せられ、創立の当時は野久又は矢久稲荷と称せられ里人の信仰の的となっていた。社記に依れば人皇第六十八代後一条天皇の御宇長元元年下総国(千葉)の城主前上総介平忠常謀反を企て、安房、上総、下総の三カ国を切従へ破竹の如き勢いにて威を八州に震い大軍を起こして武蔵国に押出せし時、冷泉院判官代甲斐守源頼信長元三年忠常追討の倫旨を賜り、当地野久ヶ原に本陣を張りて当社を尊仰し朝敵退治の願書を呈し、一終夜の御祈願ありてその暁白雲俄に起こりて白羽の箭の如く型取りたる雲あらわれると共に一陣の風颯と吹き立ち敵陣の方へ箭を射る如く飛び行けば頼信神明の感応なりと直ちに敵陣に攻め入れば、忠常の陣中麻の如く乱れ三日三夜追討して潰滅せり、頼信御神威を感得、喜悦して直ちに見事なる御社殿を再建建立して箭弓稲荷大明神と称へ奉れりと記され亦後に御社名を箭弓稲荷と呼称す。
又宝徳三年二月の初午に河肥の左金吾持資主の心願成就の法楽を捧げられ文明年中まで年毎の御祭礼は、太田道灌により執行せられ、松山城主上田氏、難波田氏も康正年中より、代々の領主達の尊信最も篤く後川越八代の城主松平大和守は、社地を免租して親筆の献額を捧げ、松平家代々の城主当社を崇敬し御分霊を城内及び邸内に奉斎された。
当社の最も隆盛を極めたのは、特に享保年間で庶民の崇敬最も篤く、四方遠近の国々貴賤当社に心願をこめて参籠し、社前市をなし人馬の往来繁く江戸より熊谷西上州、また江戸には「箭弓稲荷江戸講中」日本橋小田原町を中心に江戸市中に及び講中の参拝引きもきらず、桶川、鴻巣、吹上の宿より道中して参拝し「従是箭弓いなり道」の道標50余本ありて当時の隆盛を偲ぶことができる。現在も大小百余講社あり。尚当社は、五穀豊穣、商売繁盛。家内安全の守護神であるとともに養蚕倍盛、交通安全、厄除、火難除、開運、学業成就、芸能精進等の神社として信仰を集めております。
拝 殿
重厚な造りで趣のある、箭弓神社 本殿
現在の社殿は享保3年(1718年)領主、島田弾正が四方の信徒と図って建築したものであるといわれている。本殿は正面5.43メートル、奥行5.15メートルあり、屋根は切妻単層三重垂木の銅葺でできている。本殿には幾多の彫刻が施されており、また本殿内部は日光廟を模した感じであるという。
元 宮
元のお社として現本殿の真後ろに鎮座し、社殿には彩色ある細やかな彫刻が施されている。毎月1・15日には神饌を供し拝礼する。
宇迦之御魂社(團十郎稲荷・穴宮)
遡ること七代目市川團十郎は特に厚く当社を崇敬しており、社に籠り芸道精進、大願成就のご祈願をいたし、その当時、江戸の柳盛座の新春歌舞伎興行において「狐忠信」「葛の葉」等の芸題を披露しましたところ毎日札止めの大盛況となりました。
これはひとえにご神威、ご霊験のあらたかなることだと感得した團十郎は、文政四年(1821年)の秋、当社に石造りの祠を建立しました。
以来江戸の役者衆や花柳界をはじめ、芸能・技術の向上を願う方々の信仰が厚く、芸能・商売繁昌の守り神として広く崇敬を集めています。
宇迦之御魂社御由来 掲示板より引用