古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

下蓮田八幡神社


        
            ・所在地 埼玉県蓮田市東6-9-17
            ・ご祭神(主)応神天皇 (合殿)仁徳天皇
            ・社 格 旧下蓮田村鎮守 旧村社
            ・例祭等 初拝み 1月15日 春祈祷 4月上旬 祭礼 7月25日
                 新穀祭 11月23日 大祓 12月中旬 
 蓮田市の南部に位置する東(ひがし)地域は、蓮田駅に近く交通の便もあり、また、太平洋戦争後の宅地化推進により、かつてこの地域周辺に広がっていた「鎮守の森」は徐々に消えていき、景観も大きく変わってしまったという。
 蓮田駅の南西部にある「蓮田市立蓮田南小学校」のすぐ西側に鎮座している社。確かに周囲は開発によって多くの住宅街等に囲まれているが、社の入口から参道周辺にはまだこんもりとした社叢林は今尚健在で、氏子の方々の日々の崇敬の厚さを感じずにはいられない。
        
                 下蓮田八幡神社正面
『日本歴史地名大系』 「下蓮田村」の解説
 上蓮田村の南にあり、元荒川の右岸、綾瀬川の左岸に位置する。古くは上蓮田村と一村であったとみられ、同村の久伊豆神社は両村の鎮守となっている。寛永年間(一六二四―四四)検地があり(風土記稿)、田園簿では田高二一〇石余・畑高二〇九石余、岩槻藩領。寛文一二年(一六七二)の岩付御領分石高覚(吉田家文書)によると高四七七石余。延宝八年(一六八〇)の人数は二一〇、新田の家数一四(うち本百姓九)、人数九四(「岩付領内村名石高家数人数寄帳」同文書)。
 
    比較的長い参道を進むと一の鳥居(写真左)、その後二の鳥居(同右)に達する。
        
           二の鳥居の右側に祀られている境内社・金刀毘羅宮
この金刀毘羅宮は、古くから境内社として祀られている。かつては、毎年2月10日に、社の前に浅敷を作り、紅白の幕を張って盛大に祭りをして、当社の祭りより人出が多かったというが、戦後には衰退してという。
        
             二の鳥居近くに設置されている案内板
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 下蓮田村』
 八幡社 〇天神社 〇愛宕社 〇神明社 〇山王社 〇稻荷社 以上の神社慶福寺持、
 慶福寺 天台宗、入間郡古尾谷村灌頂院末、中應山蓮臺院と號す、開山慶蓮は慶安年中寂せしと云、本尊三尊の彌陀を安ず、地藏堂二宇 一は立像、丈二尺許、定朝の作、一は秘佛にして見ることを許さず、

 八幡神社  蓮田市東六-九(蓮田字神原)
 JR蓮田駅の東口を出て、南西に約一〇分ほど歩くと、当社の境内がある。この辺りは、元来は「鎮守の森」の言葉がふさわしいような山林であったが、交通の便がよいため、太平洋戦争後は宅地化が進み景観は大きく変わった。また、当社の境内の東側は蓮田南小学校に隣接しているため、子供たちからも「八幡様」の通称で親しまれており、境内で遊ぶ子供たちの姿もよく見受けられる。
 当社の創始については明らかではないが、古くから下蓮田の鎮守として祀られてきた。西南西四〇〇㍍ほどの所には、中世武士の城館跡を示す「堀の内」の地名があり、武神とされる八幡神の勧請に、この城館に居住した武士がかかわっていたとも推測される。
 祭神について『明細帳』は「祭神応神天皇、合殿仁徳天皇」としており、一間社流造りの本殿には金幣が大小一体ずつ安置されている。また、鎮座地付近は当社にちなんで「若宮」と呼ばれ、鳥居に掛かる社号額にも「若宮八幡宮」と刻まれていることから、当社は古くは「若宮八幡」を号していたことがわかる。
 明治四十一年七月十八日、政府の合祀政策に従い、下蓮田では、村社であった当社に字桑原の無格社神明社と字綾瀬附の無格社稲荷社の両社を合祀した。しかし、旧氏子の強い要望によって両社共昭和十年ごろ旧地に復し、合祀前のように祀られるようになった。
                                   「埼玉の神社」より引用
 
        拝殿内部                   本 殿
 現在では、行政上は大字蓮田及び御前橋一と末広一丁目と東六丁目の各一部となっているが、当社の氏子区域である下蓮田は、江戸時代には独立した一村であり、「前口」「桑原」「新田」という現在も存続する三つの村組からなっていた。『風土記稿』下蓮田村の項では、村内の神社について「八幡社 〇天神社 〇愛宕社 〇神明社 〇山王社 〇稲荷社 以上の神社慶福持」と載せている。文中の慶福持は、阿弥陀三尊を本尊とする天台宗の寺院で、古くから下蓮田に住む人々の檀那寺でもある。
        
                        「大神宮 出雲大社 太々記念碑」
『風土記稿』にみえる諸社のうち、天神社は前口、神明社は桑原、稲荷社は新田で祀る社である。下蓮田では、村全体の鎮守として当社を祀ると共に、このような小規模の社を組ごとに祀ってきた。神社運営も、これらの組を単位として行われており、各組から年番が二名ずつ出て、祭典の世話役を務めるほか、総代も各地区から一名ずつ適任者が互選で選出されるという。
        
                  社殿からの眺め


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「ウィキペディア(Wikipedia)」
    「境内案内板」等
 

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西城天満神社


        
             
・所在地 埼玉県蓮田市西城1-81
             
・ご祭神 菅原道真公・面足命・訶志古泥命
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 春祭り 4月22日 例祭 7月25日 秋祭り 12月3日
 南新宿久伊豆神社の西側にある埼玉県道3号さいたま栗橋線との交点「西新宿2丁目」を左折し、同県道に合流、1㎞程南下すると、「城」交差点の西側角に西城天満神社が見えてくる。
        
                  西城天満神社正面
『日本歴史地名大系』「城村」の解説
白岡台地の中央部西端にある。元荒川の左岸に位置し、北は新宿(しんしゆく)村、西は同川を隔てて下閏戸村。村内に元荒川の枝流があり古川と称されるが、村内で再び元荒川に合している。小名の丸城(まるじよう)は一名を城といい、古くは城のあった所と伝える。寛永五年(一六二八)岩槻藩阿部氏の検地があり(風土記稿)、田園簿によれば同藩領で、田高七石余・畑高六〇石余。延宝八年(一六八〇)の家数一五(うち本百姓一〇)、人数一一五(「岩付領内村名石高家数人数寄帳」吉田家文書)。
『新編武蔵風土記稿 城村』
 小名 丸城 一に城と云、四方沼田なり、古へは城ありし處なるべし、されど何人の居し事を傳へず、此邊に廣さ八反程の所水殊に深き沼あり、向山屋鋪 城に對しての名なるべし、
 久伊豆社 城觀寺の持、當村及新宿村の鎭守なり、末社 稻荷 〇第六天社 同持


「埼玉の神社」の解説によれば、かつては、周囲が2〜3m程もあった大杉が5、6本も茂り、鬱蒼とした社の境内であったというが、時の流れにつれて周囲の環境も変化し、とりわけ、昭和42年の埼玉県道さいたま栗橋線の開通による変化は大きく、県道敷設の為当社の参道は半分以下となり、社殿の南側にあった沼も埋め立てられた。更に、区画整理によって昭和50年頃には杉の大木も伐採され、本来あった社の景観も失われたという。
        
           境内に設置されている社の由来等を刻印した碑
 天満神社
 歴史
 口碑によれば、天満社は京都の北野天満宮から勧請したという
『風土記稿』城村の項では、明治六年に天満社が村社になっており本来は現在地から百米ほど北西に祀られており現在地に第六天社があった
 大正二年に無格社であった第六天社へ天満社を合祀したことにより村社天満神社とし崇拝された。
 昭和二十一年二月宗教法人となり、天満神社と改称される。
 信仰
 天満社の祭神であった、菅原道真公と第六天社の祭神であった面足命・訶志古泥命の三柱が当社の祭神であるが、既に天満天神の信仰が定着しており、入試祈願の絵馬が数多く掛けられる。
 四月二十二日の春祭りは、氏子から「神社の祭礼」と呼ばれている
 なお、昔農作業の関係で別の日に祭りをしたことがあったが、その年には、雹が降って作物に大被害があったため、以来この日以外に春祭りを行った事はない(以下略)
        
                    拝 殿
 天満神社(だいろくてんさま)  蓮田市西城一-八一(城字柳原)
 城は、源平時代に戦に敗れた七人の落武者が住み着いて開発したと伝えられる古い歴史を持つ村で、小島・斎藤・内田・岩崎・山田・野口・宮澤の七家が、その七人の落武者の子孫であるといわれている。地内には市指定史跡にもなっている室町時代の平山城跡があり、「城」の地名は、この城にちなんだものではないかと推測される。
 元来、この城の地内には、久伊豆社・大六天社・天満社の三社があった。そのうち久伊豆社が城村及び新宿村の両村の鎮守であったが、城で祀っていくことが困難になったため、いつのころか新宿村に譲渡されたと伝えられる。『風土記稿』城村の項では、久伊豆社と第六天社の二社だけ載り、天満社の名が見えないにもかかわらず、明治六年に天満社が村社になっていることを考えるなら、久伊豆社が新宿村に譲渡されたのは化政期(一八〇四-三〇)以降のことであり、その代わりに、新たな村の鎮守として天満社が勧請されたものと想像できる。口碑によれば、天満社は京都の北野天満宮から勧請したという。
 村社であった天満社は、本来は現在地から一〇〇㍍ほど北西に祀られていて、現社地には元々は『風土記稿』に載る第六天社があった。ところが、大正二年に無格社であった第六天社へ天満社を合祀したことにより、大六天社は天満神社と改称され、村社となった。天満社よりも第六天社の方が境内が広かったことも考慮した合祀であった。
                                   「埼玉の神社」より引用
        
                    本 殿
 面足(オモダル)命・訶志古泥(カシコネ)命は、日本神話に登場する兄妹神であり、『古事記』では兄を淤母陀琉神、妹を阿夜訶志古泥神、『日本書紀』では兄を面足尊、妹を綾惶根尊(アヤカシキネ)と表記する。天津神であり、神武天皇は直系8親等で7代目の子孫にあたる。
『古事記』において神世七代の第六代の神とされ、兄淤母陀琉神が男神、妹阿夜訶志古泥神が女神である。オモダルは「完成した(=不足したところのない)」の意、アヤカシコネはそれを「あやにかしこし」と美称したもの。つまり、人体の完備を神格化した神である。
 また淤母陀琉神は「淤母」は「面」、「陀琉」は「足る」と解して、名義を「男子の顔つきが満ち足りていること」とし、文脈や阿夜訶志古泥神との対応、また今日に残る性器崇拝から男根の様相に対する讚美からの命名と考えられる。阿夜訶志古泥神は「阿夜」は感動詞、「訶志古」は「畏し」の語幹、「泥」は人につける親称と解し、名義は「まあ、畏れ多い女子よ」とし、淤母陀琉神と同様の理由で、女陰のあらたかな霊能に対して恐懼することの表象と考えられる。中世には、神仏習合により、神世七代の六代目であることから、仏教における、欲界の六欲天の最高位である「第六天魔王」の垂迹であるとされ、特に修験道で信奉された。明治の神仏分離により、第六天魔王を祀る寺の多くは神社となり、「第六天神社」「胡録神社」「面足神社」などと改称したという。
 
  社殿左側に祀られている天神社・庚申塔など    社殿右側にも庚申塔が祀られている。
        
              本殿奥に聳え立つイチョウの大木
              蓮田市の保護樹林に平成2年6月指定


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」
    「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内案内板」等

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南新宿久伊豆神社


        
              
・所在地 埼玉県蓮田市南新宿783
              
・ご祭神 大己貴命
              
・社 格 旧新宿村・城村両村鎮守 旧村社
              
・例祭等 春祭り 4月8日 秋祭り 11月28日
 下閏戸伊夜彦神社から一旦東行し、旧国道122号線に合流後右折する。その後、埼玉県道3号さいたま栗橋線と交わる「関山(北)」交差点を左折、同県道を北上し、「西新宿2丁目」交差点を右折した同県道145号白岡停車場南新宿線の南側にある「上島公園」の道を隔てた反対側に南新宿久伊豆神社は静かに鎮座している。
        
                 
南新宿久伊豆神社正面
            久伊豆神社には珍しい石段上に鎮座する社
 南新宿地域は、蓮田市の東部に位置していて、かつては新宿村といっていたが、明治12年に郡内の他の新宿村と区別するために南新宿村と改められたという。
 この南新宿村は、明治22年に黒浜村と合併、黒浜村大字南新宿となり、昭和29年には新たに成立した蓮田町の大字となった。この南新宿地域の中にあって元荒川沿いにある低地は元水田地帯であったが、昭和30年代になると農家が減少し、土地区画整理事業の対象地域となって都市基盤整備が行われ、昭和48年には、当地から分離して大字西新宿となった。
 そのため当社の氏子区域は、現在の南新宿のみとなる。氏子数は約150戸であり、総代は染谷・請野・上宿・下宿の四つの村組から一名ずつの計四名が、任期四年で神社運営に当たっているという。    
        
              鳥居の左側に設置されている案内板
「南新宿の久伊豆神社」  蓮田市南新宿七八三二
 蓮田市には七つの久伊豆神社があり、すべて元荒川流域のみに分布しています。これは舟での運搬が深く関係しており、川の流れに沿って土地が開発されていったからではないかと思われます。したがって、「久伊豆」の神は、農作の神、水の神としての性格を持ち、稲作の信仰として祭られたと考えられ、当時の村の鎮守様であるなど、それぞれ個性的な歴史を持っています。
 この「南新宿の久伊豆神社」は、各講地、上宿・下宿・染谷・請野の各講地から選出の氏子総代・各講地二名、任期二年 神社総代・各講地一名で構成され、年間祭事を運営しております。
                                       案内板より引用
        
       
旧新宿村・城村両村鎮守であり、旧村社の格式の割りにやや小規模な社
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 城村』
 久伊豆社 城觀寺の持、當村及新宿村の鎭守なり、末社 稻荷 〇第六天社 同持
 城觀寺 新義眞言宗、足立郡倉田村明星院の末、東光山と號す、本尊阿彌陀、 〇阿彌陀堂 同寺の持


 久伊豆社  蓮田市南新宿七八三(南新宿字染谷)
 鎮座地の南新宿は、かつての新宿村で、明治十二年に郡内の他の新宿村と区別するために南新宿村と改められた。口碑によれば、地名の由来は、岩槻城主が当地を訪れた際、岩槻城と宿(白岡町篠津)を結ぶ岩槻道沿いに立ち並ぶ集落を見て名付けたものであるという。
 当社は、この集落の西の外れに鎮座し、境内の南端は大字城(旧城村)との境に接している。『風土記稿』城村の項に「久伊豆社 城観寺の持、当村及新宿村の鎮守なり、末社 稲荷」とあるのが当社である。別当の城観寺は足立郡倉田村(桶川市倉田)真言宗明星院末で、東光山と号した。当社が城村の項に記されたのは、城観寺の所在が城村であったためであろう。当村及び城村は、いずれも江戸中期まで岩槻城付の村で、岩槻道を通じて城下との結び付きも強かったことから、当社は江戸初期には既に岩槻城の鎮守であった久伊豆神社の分霊を当地に勧請し、両村の鎮守として創建されていたと思われる。
 神仏分離後、城観寺は廃寺となり、当社は新宿村の鎮守として明治六年に村社に列した。
 現在の社殿は、明治三十九年に再建されたもので、昭和三十年には傷んだ箇所の改修が行われた。また、境内にはかつて樹齢二千年ともいわれ、樹高三〇㍍の偉容を誇る杉の御神体が聳えていたが、昭和五十四年に落雷に見舞われ、著しく衰えたことから伐採された。
                                   「埼玉の神社」より引用
        
               境内に祀られている稲荷大神
 当社は江戸期を通じて新宿村・城村両村の鎮守であったが、当地では別に稲荷神社を祀り、村内の安全や五穀豊穣を祈願していた。当社が新宿村の村社に列せられてからも今でも稲荷神社は当地の鎮守として信仰されている。そのため、当社の初詣は、最初に稲荷神社、次に当社の順で参拝するのが習わしとなっており、総代は、南新宿自治会館に詰めて参拝者と新年の挨拶を交わし、お神酒を振る舞う。
 また、
7月14日は「宮薙(みやなぎ)」と称して、四つの村組のうち請野と染谷が当社を、上宿と下宿が稲荷神社を、それぞれ清掃すると「埼玉の神社」には載せている。
 
       稲荷大神の北側隣にある神木跡(写真左)と、手前に設置されている
               「為後日記之」の碑(同右)
                    
為後日記之
             
此所に在りし御神木は杉の大木にて樹齢
             約二〇年と云れ目通三米余樹高三十米に
             て一本にて伸長し其の偉容は近隣の目標
             とされ当久伊豆神社の象徴として南新宿
             氏子の信仰の的で有ましたが昭和五十四
             年八月不慮の落雷に見舞れ枯化状態とな
             り止なく昭和五十五年一月人々に惜まれ
             伐採其の優美の姿を消しましたしたがっ   
             て其址に代の木を植て在り日の面影を偲
               
び後世に傳るため之を記します
             
昭和五十五年一月吉日 一九八〇年(以下略)



参考資料「新編武蔵風土記稿」「さいたまの神社」「
ウィキペディア(Wikipedia)」
    「境内案内板・記念碑文」等
 

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下閏戸伊夜彦神社


        
             
・所在地 埼玉県蓮田市閏戸99
             
・ご祭神 天香久山命 素戔男尊
             
・社 格 旧下閏戸村鎮守 旧無格社
             
・例祭等 元旦祭 禦(ふせぎ) 4月15日 夏祭り 7月14日
 上閏戸愛宕神社から旧国道122号線を南下し、中閏戸久伊豆神社に達する前に右折した「蓮田北小学校入口」交差点を更に1.4㎞程直進し、「蓮田市浄水場」の看板が設置されている信号のある十字路を右折するとこんもりとした下閏戸伊夜彦神社の社叢林が見えてくる。
 
社の周辺には残念ながら適当な駐車スペースはない。そのため手押し信号のある十字路左手にコンビニエンスストアがあり、そこの駐車スペースをお借りしてから参拝を開始する。
        
                
下閏戸伊夜彦神社の社叢林
『日本歴史地名大系』 「下閏戸村」の解説
 蓮田台地の中央部、元荒川右岸、綾瀬川の左岸に位置し、北は中閏戸村、南は上蓮田村。古くは閏戸郷に属したという(風土記稿)。元禄一一年(一六九八)までは閏戸村に含まれたといわれるが(同書)、寛文五年(一六六五)の上尾宿助馬調(「絵図面村々高」田中家文書)によると、臨時助人馬指定村として下閏戸村があげられており、この頃から分村化が進んでいたとみられる。岩槻藩領で、同一二年の岩付御領分石高覚(吉田家文書)によると高一八〇石余。
 
      
下閏戸伊夜彦神社正面鳥居           鳥居の掲げてある社号額
        
                    拝 殿
 伊夜彦神社(いやひこじんじゃ) 蓮田市閏戸九九(閏戸字野久保)
 閏戸は、蓮田台地の中央部に位置し、西は綾瀬川を隔てて伊奈町、東は元荒川を隔てて白岡市に接する。その地内は、北から上閏戸・中閏戸・下閏戸の三地区に分かれ、上閏戸では愛宕神社、中閏戸では久伊豆神社、下閏戸では伊夜彦神社すなわち当社を祀っている。
 この閏戸が上(かみ)・中(なか)・下(しも)の三つに分かれたのは元禄十一年(一六八九)とされている。当社の創建の年代は不明であるが、下閏戸では「七軒百姓」と呼ばれる原嶋・岩崎・小花・神田・森田・清水・花井の七家の先祖が開いたという。中でも草分けとされている原嶋家や岩崎家などの家々は、二五〇年ほど続いていることから考えると、当社もまた、江戸時代の初期に、これら草分けの人々によって勧請されたものと思われる。
 明治七年、上閏戸・中閏戸・下閏戸の三村は合併し、再び閏戸村となった。その村社には、最も規模が大きかった中閏戸の久伊豆神社がなったことにより、当社は他の諸社と共に無格社となった。そのため政府の合祀政策に従って、明治四十二年(『明細帳』では明治四十三年)に、村社の久伊豆神社に合祀された。その後、「やはり地元に字の鎮守を置きたい」という氏子の声が高まり「、合祀から半世紀を経た昭和三十三年五月、神社本庁の認可を得て、久伊豆神社からの分祀を実現した。更に、昭和四十九年には、氏子諸氏の奉賛により、老朽化した本殿及び拝殿の改築と境内の整備を実施した。
                                   「埼玉の神社」より引用
        
          境内に設置されている「伊夜彦神社本殿拜殿竣工記念」
 伊夜彦神社本殿拜殿竣工記念
 御由緒
当伊夜彦神社は古くより此の地に祭神として創祀せられ由来郷邑の守護神として開運殖産災除の光被を賜り尊い崇敬をうけられておりましたが法令により明治四十二年中閏戸久伊豆神社に合祀せられて以来約五十年経過致しました
其の後昭和三十三年五月神社本庁の認可を受け現地に奉還されました
然るに社殿の老朽化のため氏子諸氏の奉賛により本殿並に拜殿を改築し神域を整い長えに御神徳を仰がんとするものであります
 昭和四十九年七月十四日                           記念碑文より引用
        
                    本 殿
 当社のご祭神といわれている「天香山命(あめのかぐやまのみこと/あまの-)」は、日本神話に登場する神で、高天原から天降った天津神に分類される。『先代旧事本紀』によれば、天照太神の孫神である饒速日尊(旧事本紀では天火明命と同視する)と、天道日女命との間に生まれた神(天照太神の曾孫神)で、尾張氏等の祖神とされ、物部氏等の祖神である宇摩志摩治命(うましまぢ-)とは母神を異にする兄弟神となっている。
 また、新潟県の彌彦神社の社伝に、神武天皇の大和国平定後、勅命を受け越国を平定、開拓に従事したと伝えている。
        
                 社殿から参道方向を撮影

「はすだ観光協会HP」において、「(伝)下閏戸村の開拓者・岩崎氏の郷里が越後ということで、己の故郷の弥彦(伊夜彦)神社をこの土地に勧請して、一族の繁栄と安穏を祈願したという」と載っているが、筆者が調べた限りにおいて「岩崎氏の郷里が越後国」を証明する信用できる史料が見つからなかった。因みに『埼玉の神社』においては、当社は江戸末期から昭和15年頃までは岩崎氏が神職であり、元々は「修験者」であったという。考えるに修験者であるという事は、地元の人物ではない可能性は高いが、かといって、それだからこの人物は越後国出身であるというのはあまりに飛躍が過ぎよう。
 また、仮に上記の氏の故郷が越後国であったとして、己の故郷の弥彦(伊夜彦)神社をこの土地に勧請したというのであれば、当然ご祭神は「天香久山命」となるはずであると思われるのだが、「はすだ観光協会HP」でのご祭神は「素佐之男命(素戔男尊)」となっていて、矛盾が生じる。
 上記『埼玉の神社』においても、当社のご祭神は、『明細帳』においては天香久山命、『郡村誌』では素戔男尊とされていて、それ以上の詳しい説明はされていない。
 これらの全ての矛盾を合理的に解釈できる方法はないのであろうか。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「はすだ観光協会HP」「埼玉の神社」
             「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内記念碑文」等

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中閏戸久伊豆神社


        
             
・所在地 埼玉県蓮田市閏戸3292
             
・ご祭神 大己貴命
             
・社 格 旧中閏戸村鎮守 旧村社
             
・例祭等 元旦祭 春季祭(おしっさま) 5月5日
 上閏戸愛宕神社から国道122号線、途中から分岐する旧国道122号線を800m程南下し、「蓮田北小学校入口」交差点を右折し道なりに進み、旧別当福正院跡に建てられた蓮田北小学校の南側に隣接する、社叢林に囲まれた中に中閏戸久伊豆神社は鎮座している。
        
                 
中閏戸久伊豆神社正面
 地図を確認すると、見沼代用水がすぐ西側裏手に流れ、北側にある小学校以外は集落からも離れ、目立たない場所に社は位置していて、当地の人々の生活圏から一線を画する地に社を祀る配置が却って神聖性ある雰囲気を醸し出している。
『日本歴史地名大系』「中閏戸村」の解説
 上閏戸村・貝塚村の南にあり、元荒川の右岸、綾瀬川左岸に位置する。西は同川を境に足立郡小貝戸(こがいと)・柄山(がらやま)村(現伊奈町)、南は下閏戸村。閏戸郷に属したという(風土記稿)。旧家与兵衛家は黒須氏を称しているが(同書)、永正一六年(一五一九)四月二日、先祖の黒須平内五郎が「長渭」なる人物から感状(写、武州文書)を、また黒須八郎左衛門尉が氏綱から四月七日付の判物(写、同文書)をそれぞれ与えられているが、いずれも検討を要する。
        
             社の入口付近に設置されている案内板 
「閏戸の久伊豆神社」  蓮田市
閏戸三二九二
 蓮田市には七つの久伊豆神社があり、すべて元荒川流域のみに分布しています。これは舟での運搬が深く関係しており、川の流れに沿って土地が開発されていったからではないかと思われます。
 したがって、「久伊豆」の神は、豊作の神、水の神としての性格を持ち、稲作の信仰として祭られたと考えられ、当時の村の鎮守様であるなど、それぞれ個性的な歴史を持っています。
 この「閏戸の久伊豆神社」は、かつて二社ありました。「武蔵風土記稿」に「久伊豆神社二宇村内ノ鎮守ナリ」と記されており、旧一二二号道を挟んで向き合うように「東の宮」「西の宮」が祀られていました。現在の神社は西の宮です。境内には、三嶽社、疱瘡神社があり、石の獅子頭、力石が残されています。当社の祭事は、一月一日の元旦祭、五月五日の春季祭ですが、春季祭では「お獅子様」が行われ無業息災を祈る行事があります(以下略)。
                                       案内板より引用
 
    しっとりとして雰囲気ある参道       参道右側に祀られている疱瘡社・三嶽社
        
                     拝 殿
『新編武蔵風土記稿 中閏戸村』
 久伊豆社二宇 村内の鎮守なり、共に中古騎西町に立る、久伊豆を勧請せしと云、


久伊豆神社  蓮田市閏戸三二九二(閏戸字北原)
『風土記稿』によれば、当地は古くは閏戸郷に属し潤戸村と称したが、元禄十一年(一六八九)に閏戸村が六か村に分村したため、それ以降は中閏戸村と称したという。また、旧家黒須与兵衛家の先祖平内五郎が永正十六年(一五一九)に「長渭」なる人物から謝状を、八郎左右衛門尉が氏綱から四月七日付けの判物をそれぞれ与えられたと記されるが、検討を要する。
『風土記稿』中閏戸村の項に「久伊豆神社二宇 村内の鎮守なり、共に中古騎西町に立る久伊豆を勧請せしと云」と載るように、地内にはかつて久伊豆神社が二社祀られていた。一社は「西の宮」と称し見沼用水を背にして鎮座し、もう一社は「東の宮」と称し「西の宮」と現在の国道一二二号を挟んで向き合うように祀られていた。この「西の宮」が当社のことである。往時は当社北に真言宗福正院が隣接し、当社との関わりをうかがわせるが、明治初期に廃寺となり明らかではない。なお騎西町の久伊豆とは現在の玉敷神社のことである。
 明治七年に上閏戸村・中閏戸村・下閏戸村の三か村が合併して閏戸村となり、同九年に当社は村社となった。
 明治四十一年に「東の宮」を合祀したのに続き、同四十三年には村内の九社を合祀した。なお、昭和二十年の宗教法人法施行に伴い、上閏戸の愛宕神社と下閏戸の伊夜彦神社は旧社地に戻された。
                                                                      「埼玉の神社」より引用
        
                    本 殿
 当社が5月5日に行っている「春季祭」は災害除けと豊作を祈願する祭りで、古くから獅子回しの行事があることから「おしっさま」と呼ばれている。若衆がこの獅子回しの行事を中心となって担い、かつては迎え組・持ち回り組・送り組の三班が分担して行ったという。
        
               拝殿前にある藤棚と、その手前には椎のご神木がある。

 春季祭当日未明に迎え組が騎西の玉敷神社から獅子頭を納めた筥(はこ)を借りて来て神前に奉安し、午前9時から神職が祭典を執り行う。祭典終了後、持ち回り組が、天狗面を被り剣を持つ天狗役、獅子の筥を持つ獅子役、太鼓を担いで叩く太鼓役に分かれ、掛け声も勇ましく、走って神社を出発し地内を一軒ずつ回る。家数も多いこともあり、少しでも回る時間を短縮しようと、途中、随所で田畑を突っ切るなど近道をして、神社に戻るのは午後2時過ぎとなる。その後、迎え組が獅子を返しに行く。このように、持ち回り組の担当の人たちは、村中を走り抜くために足腰が痛くなり、まともな農作業に取り掛かるには大体1週間が過ぎてからであったという、と「埼玉の神社」は解説している。
 因みに、この村回りも家数の増加と共に若衆の負担が増えたため、昭和40年代には取りやめて、祭典に続いて拝殿で参列者を祓う形となったという。
 若衆は、地内の18~42歳の男衆で構成されている。「おしっさま」行事に関して、古くは、よそから地内に来た婿はこの行事の際には重労働の太鼓役になるのが慣例となっていたようで、次の婿入りがあるまで幾年も交替できなかったという。
        
   社殿の右側には、石の獅子頭が四基並んで置いてある(画像が小さくてすいません)
            幟竿を固定する際にこの石を用いたという。
        
                                  境内の一風景


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「はすだ観光協会HP」「埼玉の神社」
    「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内案内板」等

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