古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

駒崎久伊豆神社


        
            
・所在地 埼玉県蓮田市大字駒崎271
            
・ご祭神 大己貴命
            
・社 格 旧駒ヶ崎村鎮守 旧村社
            
・例祭等 春祭礼 4月第1日曜日 夏祭礼 714日に近い日曜日
                 
秋祭り 1215日に近い日曜日 他
 上平野八幡神社から埼玉県道77号行田蓮田線を1.7㎞程東行し、「井沼」交差点を右折する。同県道87号上尾久喜線に合流後、南西方向に進み、見沼代用水に架かる徒行橋を越えた先にある「駒崎自治会館」のすぐ東隣に駒崎久伊豆神社は鎮座している。
 因みに参道の東側に隣接して嘗ての別当寺であった新義真言宗・星久院(しょうきゅういん)の広大な墓地がある。この寺院は新義真言宗足立郡倉田村(桶川市)明星院の末、仏光山遍照寺と号し、本尊は弥陀。開山 は祐長文安3年(1446年)で、江戸期に建てられた堂宇はことごとく火災にあう焼失したと言われ、当時をしるす古文書は残っていないが、火災のとき持ち出したと言われる須弥檀(しゅみだん)と仏像は大きく立派なもので、残された仏像から観音堂もあり、当時の寺院が大伽藍や堂を持った寺であったことを知ることができるという。
        
            駒崎久伊豆神社境内に通じる南北に長い参道
『日本歴史地名大系』 「駒崎村」の解説
 綾瀬川の左岸、井沼村・上平野村の南に位置する。正和四年(一三一五)四月一三日、伊賀光貞は父頼泰から武蔵国「駒前」等を譲られ、嘉暦二年(一三二七)八月二四日幕府より外題安堵を受けた(正和四年四月一三日「伊賀頼泰譲状写」楓軒文書纂)。検地は寛永七年(一六三〇)岩槻藩阿部氏が行っている(風土記稿)。田園簿では同藩領で、田高一六三石余・畑高一二四石余.
 
 
150m程の長い参道が南北に伸びていて、途中に朱を基調とした一の鳥居(写真左)、二の鳥居(同右)が建っている。
        
         県道沿いに鎮座しながら境内は静かで落ち着いた雰囲気
 駒崎久伊豆神社の創建年代は不明である。ただ別当寺だった星久院の開山の祐長が1446年(文安3年)の寂であることから、そのころに創建されたものと推測されている。1846年(弘化3年)に神祇管領長上吉田家より正一位に叙せられた。1873年(明治6年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられ、1907年(明治40年)の神社合祀により、「八幡社」が合祀された。
        
              境内に設置されている社の案内板
「駒崎の久伊豆神社」  蓮田市駒崎二七一
蓮田市には七つの久伊豆神社があり、すべて元荒川流域のみに分布しています。これは舟での運搬が深く関係しており、川の流れに沿って土地が開発されていったからではないかと思われます。
 したがって、「久伊豆」の神は、豊作の神、水の神としての性格を持ち、稲作の信仰として祭られたと考えられ、当時の村の鎮守様であるなど、それぞれ個性的な歴史を持っています。
 この「駒崎の久伊豆神社」は、室町期に創建されたと推測されており、現在氏子数八十有余名で構成され、元旦の四方拝の祭典で始まり、四月第一日曜に春祭礼、七月十四日に近い日曜に夏祭礼があり四月と七月の祭には獅子頭をかついで氏子各戸を回り五穀豊穣・病魔退散を祈ります。十二月十五日に近い日曜には秋祭りがあり、婦人会中心の踊りを奉納します。各行事とも総代三名、年番八名を中心に執行しております。又境内の清掃は老人会が行うなど村の鎮守様として信仰を集めている。(以下略)
                                       案内板より引用

        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 駒ヶ崎村』
 久伊豆社 村の鎭守なり、社内に元祿四年再造の棟札をかく、星久院持、
 星久院 新義真言宗、足立郡倉田村明星院末、佛光山遍照寺と號す、本尊彌陀を置り、開山祐長文安三年の寂なり、

 久伊豆神社  蓮田市駒崎二七一(駒崎字中郷)
 鎮座地の駒崎は、古くは「駒前」とも書き、正和四年(一三一五)の「伊賀頼泰譲状写」にその名が見えるように、古くから続く村である。当社の創建の時期は定かではないが、江戸時代に別当であった真言宗星久院の開山の祐長が文安三年(一四四六)寂であることから、当社の創建も室町期には行われていたことが推測される。
『風土記稿』駒ケ崎村の項に、当社は「久伊豆社 村の鎮守なり、社内に元禄四年(一六九一)の棟札をかく、星久院持」と記されている。この記事に記されている棟札は、現存こそしていないが、本殿には「奉僧永海」「(梵字)元禄十四年(一七〇一)十一月吉日」と刻まれた金幣が納められているので、この時期に社殿の再建がなされたことがうかがわれる。また、昭和五十五年に総代の箕田賢一がまとめた『久伊豆神社之記』によれば、昭和五十五年二月に本殿東側の大杉を伐採したところ、その年輪が二百九十余年であったことから、この杉は元禄の再建の際に植樹されたものではないかという。
 その後、弘化三年(一八四六)八月には、神祇管領の吉田家から正一位の神位に叙せられた。本殿には、この時に拝受した宗源宣旨・宗源祝詞・幣帛が奉安されている。また、極位を受けたのを契機に本殿の修復と覆屋の新設が行われたと伝えられる。
 明治六年に村社となり、同四十年には無格社八幡社を合祀した。
                                   「埼玉の神社」より引用
       
                    本 殿

  社殿奥に祀られている境内社・八坂社       社殿右側手前にある力石四基
        
                社殿から参道方向を望む

 駒崎地域には、上・中・下・向山の四つの組があり、当社はそのうちの中にある。氏子の数は、現在140戸程あり、その9割が農家である。綾瀬川左岸の平野に位置し、見沼代用水が地内を貫流するこの地域は、従来は稲作や養蚕を中心にしていたが、戦後は果樹栽培が盛んとなり、今では梨が特産物となっている。春祭りは、昭和40年頃迄は4月15日が祭日であったのだが、梨の交配の為早く行うようになったのは、生業の変化に対応したものである。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「ウィキペディア(Wikipedia)」
    「境内案内板」等

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上平野八幡神社


        
             
・所在地 埼玉県蓮田市上平野692
             
・ご祭神 応神天皇
             
・社 格 旧上平野村鎮守 旧村社
             
・例祭等 歳旦祭 元旦 防疫祭 45日 例大祭 412日 913
                  
大祓 614日 1227日 他
 蓮田市上平野地域は、元荒川右岸に位置し、南は綾瀬川を境として高虫地域のすぐ東側にある農業地域である。この地域は、『新編武蔵風土記稿 上平野村』に(「當村元は平野村とのみ唱へり、然るに元荒川の下流に同名ありて、彼川浚の時両村呼び分がたしとして、當村上流にあるを以て上の字を加ふべき山、沙汰ありしより起れりと」)と載せているように、かつては「平野村」とのみ唱えていたのだが、元荒川下流域にも同名村があるので上平野村と称するようになったという。
        
                  上平野八幡神社正面 
 この上平野地域にあって鎮守社として信仰のある八幡神社は、地域の西端に鎮座していて、高虫氷川神社から埼玉県道77号行田蓮田線を500m程東行すると、それまでの田畑風景の中に点在する雑木林とは明らかに違う緑豊かな森が出現し、その森の中に上平野八幡神社の赤い鳥居が見えてくる。因みに、後日地図を確認すると、この鳥居は珍しく北向きである。
 上平野八幡神社の正面に対して県道を挟んだ左側(地図でいうと北側)には、バスの折り返し場であろう空間があり、そこの奥にある集会所の駐車スペースをお借りしてから参拝を開始する。
        
           社叢林の中にひときわ目立つ朱を基調とした鳥居
    高虫氷川神社同様にこの社の社叢林も蓮田市の保存樹林の指定を受けている。
『日本歴史地名大系』 「上平野村」の解説
 元荒川右岸に位置し、南は綾瀬川を境にして足立郡に対する。東は井沼・駒崎の二村、北は元荒川を境にして柴山村(現白岡町)。元荒川の下流域に同名村があるので上平野村と称するようになったという(風土記稿)。戦国期頃に成立したとみられる市場之祭文写(武州文書)に「武州崎西郡平野宿市祭」とある。岩槻領に所属(風土記稿)。天正一八年(一五九〇)と推定される一二月二〇日、「平野之内平原寺」に宛てた全阿弥の書状がある(平源寺文書)。慶長三年(一五九八)正月五日の芝切に関する傘型連署起請文(同文書)に平野村がみえる。
 
          正面の鳥居のすぐ左側の大木の根元にある庚申塔。
       その先に真っ直ぐに伸びる畦道の先に見える境内社(写真左・右)
        
   社叢林は思った以上に懐が深く、日中参拝で晴天にも関わらず、薄暗く静かである。
     深い林の中から日が差す木洩れ日が不思議な神々しさをも感じさせてくれる。

 蓮田市上平野に鎮座する上平野八幡神社の創建年代は不明である。ただ上平野村が成立したのが慶長年間(1596年-1615年)であること、当地にある平源寺も同時代の開山であることから、その頃に創建されたものと推測される。
 1873年(明治6年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられ、1907年(明治40年)の神社合祀により、周辺の2社が合祀された。1944年(昭和19年)、「八幡社」から「八幡神社」に改称したという。

        参道は途中でL字に右方向に曲がるのだが、その角付近には
         一際高々と聳え立つ御神木が聳え立つ。(写真左・右)
 
 南北に通じる参道の先に建っている2基の建物のうち、左側は祭器庫、右側は社務所(写真左)。この建物には「令和八年度 上平野八幡神社 行事予定表」の紙が貼られている。そしてすぐ右手にあるのは神興庫(同右)。当社の夏の悪疫退散の行事である「天王様」に際に使用される山車や、かつて春の祭礼において各戸を練り歩いていた獅子頭等が保管されているのであろう。

『蓮田市HP』には上平野の天王様に関して、『「天王様」とは、夏の悪疫退散の行事で、神輿の渡御や山車の巡行を伴って開催されることの多い祭礼です。蓮田市内の天王様は、多くが714日前後に実施されてきました。かつての上平野の天王様は、神輿の後を山車が巡行するお祭りでした。その後、八幡神社で祭典後に大天狗、小天狗、獅子が全氏子の家を回る形になりましたが、近年では、神社本殿に大天狗・小天狗・獅子を飾り、軽トラックに祭囃子の録音再生機材を搭載し、上平野の地区内を祭囃子の演奏をスピーカーで流しながら巡行する形になっています。』と載せている。
       
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 上平野村』
 八幡社 村の鎭守なり 末社 愛宕 稻荷 〇稻荷社 〇天王社 以上共に寶蔵寺持
 〇雷電社 妙音寺持 末社 稻荷

 八幡神社  蓮田市上平野六九二(上平野字上綾瀬)
 鎮座地の上平野は、その名が示すように、元荒川右岸の平野部に位置する農業地域である。元来は単に「平野」と称していたが、元荒川下流の同名の村と区別するために、元禄年間(一六八八-一七〇四)ごろ、「上」の文字を冠するようになった。その地内には、享保十三年(一七二八)に井沢弥惣兵衛が中心となって開削した見沼代用水が通っているが、元荒川の対岸の芝山とを結ぶ伏越は、その重要構造物として著名である。
 当社は、この上平野の鎮守として祀られてきた社で、慶長年間(一五九六-一六一五)に、村の開発と同時に勧請されたものといわれている。このことは、戦国期ごろに成立したとされる「市場之祭文写」に「武州崎西郡平野宿市祭」との記載があり、また、地内の平源寺も戦国末期の草創といわれていることから、まず間違いないものと思われる。なお、『風土記稿』上平野村の項には、「八幡社 村の鎮守なり 末社 愛宕 稲荷」とあり、別当についての記載はないが、実際には真言宗の宝蔵寺が別当であった。
 明治になると、神仏分離が行われ、宝蔵寺は廃寺となり、墓地と集会所にその跡を残している。一方、当社は明治六年に村社になり、同四十年に字長島谷の雷電社と字上綾瀬の須賀社を合祀した。なお、社名は、当初は八幡社であったが、昭和十九年に八幡神社と改めた。
                                   「
埼玉の神社」より引用
        
                    本 殿
 
           境内には石祠が2基祀られている合祀社がある(写真左)。
 左側の石祠は稲荷大明神。右側の石祠は具体的な社名は彫り込まれていない。但し、天神(菅原道真)らしき人物が坐っている像に、なにやら梅(?)の木も彫られているようなので、天神社かもしれない。但し『新編武蔵風土記稿』には末社として天神社は載せていないので、あくまで推測に過ぎないことはお断りさせておく。
(*但し同地域にある平源寺項には天神社の記載があるので、合祀されている可能性はあろう)
        
                鬱蒼とした森に囲まれた社
       県道を挟んだ北側にはバスのロータリー場となっている広場がある。
        
 埼玉県道77号線の北側にはかつて別当寺といわれた「宝蔵寺」があったという。
『新編武蔵風土記稿 上平野村』
 寶藏寺 新義眞言宗、足立郡倉田村明星院門徒、安養山と號す、本尊藥師、〇庵 正觀音を安ず、
 この宝蔵寺は武蔵国足立郡倉田村(現・埼玉県桶川市倉田)の明星院を本寺とする真言宗の寺院であったが、明治初期の神仏分離により、廃寺に追い込まれたといい、現在はかつての寺の名残として敷地内にあった墓地は残り、その他、地域の集会所やコンクリートブロックで仕切られているが、バスのロータリー場となっている。
 そこの一角には石塔・墓石・五輪塔や宝篋印塔が並んで置かれている。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「蓮田市HP」「埼玉の神社」
    「ウィキペディア(Wikipedia)」等
   

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高虫氷川神社

 蓮田市(はすだし)は、埼玉県の東央部に位置し、北は久喜市、東は白岡市、南はさいたま市と上尾市、西は伊奈町と接している。人口は約62千人で、旧南埼玉郡。1972年(昭和47年)市制施行している。
 大宮台地(北足立台地)の一部である市内中央の蓮田台地と東部の白岡(黒浜)台地、その間を流れる元荒川および西から南の境を流れる綾瀬川周辺の低地からなる。
 東京から約
40km圏内という立地にあり、高度経済成長期以降にかつて水田・森林等であった元荒川周辺の低地を中心に宅地造成が行われ首都圏のベッドタウンとなっているが、市内北西部や東部には田園や自然が多く残されていて、緑豊かな自然と落ち着いた住宅街が広がる住環境が魅力的な市でもある。
        
             
・所在地 埼玉県蓮田市高虫1702
             
・ご祭神 建速須佐之男命・大己貴命・奇稲田姫命
             
・社 格 旧高虫村鎮守 旧村社
             ・例祭等 元旦祭 禦(ふせぎ)41日 春祭り 43
                  灯籠 91日 お日待 1019
 蓮田市高虫地域は、蓮田台地の北西端にあり、元荒川の右岸、綾瀬川の左岸に位置し、標高 1013m 前後の平坦面が広がる農業地域である。地図を確認すると、この地域は蓮田市の北西部端部にあり、北は元荒川を隔てて久喜市菖蒲・白岡市柴山、南は綾瀬川を境として伊奈町や桶川市に接する突端部に当たる
 途中までの経路は、白岡市の柴山諏訪八幡神社を参照。この社を西行し、埼玉県道5号さいたま菖蒲線に合流後、野通川・元荒川を越え南西方向に1.5㎞程進む。その後、「高虫」交差点を左折、同県道77号行田蓮田線に入り500m程東行した先の十字路を右折すると、目の前に里山のような鬱蒼とした林が眼の前に広がり、薄暗い林の中に高虫氷川神社が厳かに鎮座していた。
       
                  高虫氷川神社正面
 この『高虫』の地域名については、「高い場所」や「高台」を意味する「高」と、湿地・沼沢地を表す古語系統の「ムシ/ムシロ」に由来すると考えられ、周辺の地形(台地と低湿地が接する土地)を反映した地名とみられる。また、「埼玉の神社」では、「地内に丈の高い苧(からむし)が繁茂していたことにちなむ」と載せており、ハッキリとは分かっていない。
 
 入り口付近に設置されている市指定文化財である高虫氷川神社本殿の案内板(写真左・右)
 蓮田市指定有形文化財建造物
 高虫氷川神社本殿
 昭和五十八年四月一日指定
 当社は、十七世紀の終わり頃、武蔵国一之宮氷川社を勧請したと伝えられており、享保四(一七一九)年に今の境内地が確定したといわれている。昭和十九(一九四四)年に名称を氷川社から氷川神社へと改称した。
 本殿は、元文三(一七三八)年に建築され、その後、慶応元(一八六五)年に解体修理された。氷川神社は武運長久の神として知られ、建速須佐之男命・大己貴命・奇稲田姫命を合祀する。
江戸時代後期の神社建築の様式が良好に残されている本殿は流造りで、その規模は、幅二・七五㍍、奥行き二・ 七五㍍である。また、階段部分は、幅二・六五㍍、奥行き〇・九㍍を測る
 この流造りというのは、正面の屋根だけを長く伸ばす建て方で、全国の神社に多く見られるスタイルである。
 さらに、本殿の周囲に施された彫刻も優れた作風を示しており、一部には彩色も残っている。彫刻は階段にも施されている。(以下略)                          案内板より引用
 
        
                赤が基調である二の鳥居
『日本歴史地名大系』 「高虫村」の解説
 蓮田台地の北西端にあり、元荒川の右岸、綾瀬川の左岸に位置する。東は上平野村、西は足立郡五町台(ごちようだい)村(現桶川市)。北を流れる元荒川に柴山村(現白岡町)に通じる土橋が架かる(風土記稿)。寛永七年(一六三〇)岩槻藩阿部氏の検地があった(風土記稿)。田園簿では旗本伊奈領で、田高一六七石余・畑高一一八石余。ほかに改出し分三五石余、野銭永二貫三七五文。伊奈領は元禄一〇年(一六九七)上知と考えられ(寛政重修諸家譜)、国立史料館本元禄郷帳では幕府領。宝暦一三年(一七六三)下総佐倉藩領となり(「堀田氏領知調帳」紀氏雑録続集)、幕末の改革組合取調書でも同じ。村の南西方、小針領家村(現桶川市)との間にある水除堤は、慶長年中(一五九六―一六一五)代官頭伊奈忠次が綾瀬川を荒川(現元荒川)から分離するため築いたもので、備前堤と称する。
 
 二の鳥居を過ぎた参道左手に祀られている    参道を隔てて三峰神社の反対側の右手に
        境内社・三峯神社           祀られている境内社・琴平神社
        
              広々として手入れの行き届いた境内 
 当社は1689年(元禄2年)に創建された。当初は別の場所に位置していたが、1720年(享保5年)に現在地に移転した。なお、『氷川神社明細帳』には、創建年を「天和九年」としているが、「天和」は4年しかなく、「天和九年」に相当するのは「元禄二年(1689年)」であるので、その年に創建されたものと推測されている。
 872年(明治5年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられた。1944年(昭和19年)に、「氷川社」から「氷川神社」に改称された。
        
                    拝 殿
『新編武藏風土記稿 高虫村』
 氷川社 村の鎭守なり、元祿年中の勸請と云、村持、

 氷川神社  蓮田市高虫一七〇二(高虫字前野)
 高虫は、蓮田台地の北西端に位置する農業地域で、その地名については、地内に丈の高い苧(からむし)が繁茂していたことにちなむものという説がある。当社は、この高虫の鎮守として祀られてきた社で、昭和十九年十二月に、社号を「氷川社」から「氷川神社」に改めた際にまとめられた『氷川神社明細帳』には、当社の詳しい由緒が記されている。その概略は、次の通りである。
 当社は、天和九年(一六八九か)六月、地内の向山と称する高台の地に武蔵国一宮氷川大明神を勧請したことに始まる。その後、享保四年(一七一九)には米津出羽守から社地七反歩を賜り、その翌年には現在の原地と称する場所に移転したという。弘化二年(一八四五)には屋根を大修繕し、天保年間(一八三〇-四四)には幣殿・拝殿、慶応元年(一八六五)には本殿再建に取りかかり、翌年には竣工成って遷座を行い、明治五年には村社に列した。
 右の由緒では、当社の勧請を「天和九年」としているが、天和は実際には三年までしかなく、『風土記稿』高虫村の項には、「氷川社 村の鎮守なり、元禄年中(一六八八-一七〇四)の勧請と云、村持」とあることから、当社の勧請は、元禄二年(一六八九)のことと思われる。なお、当社の本殿は、一間社流造りの建物全体に彫刻を施した立派なものであり、昭和四十八年に市の文化財として指定された。
                                                                      「埼玉の神社」より引用
        
        
                    本 殿
        
                    拝殿の手前で右側に祀られている境内社・天朝神社
        
                社殿から見た境内の一風景
 今回日中の参拝にも関わらず、境内は薄暗く静か。神川町の上阿久原丹生神社や、本庄市の小平石神神社参拝時に感じたどこか神秘的で、威厳のある空間がこの社にもある。鑑みれば、この地に定住した多くの先人たちが、この社を祀り、それを子孫が絶えることなく継承し、現在に至るまで長い年月をかけて熟成させたような、その地域周辺に醸し出す文化の「濃さ」をつくづくと感じ、自然と参拝も厳かな気持ちとなり、境内に祀られている全ての対象物に対して頭を下げたくなる思いとなった。
 まあ、筆者の個人的な趣味・趣向が、このような人里離れた緑ゆたかな森に覆われた中に鎮座する社が好きであることも一番の理由ではあるのだが。
        
         社に対して道を隔てた反対側に祀られていた庚申供養塔


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「蓮田市HP
    「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内案内板」等
             

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