上野大宮神社
聖天社
祭神は猿田彦命・天津碓目命の二座なり、又五瀬命雷神・嚴嶋明神を配祀す、慶安年中社領十石の御朱印を賜はる、承和三年九月の鎭座と傳ふれど、慥かならず、唯文龜二年再建の棟札あるを以、古社なることを證すべし、其圖左にのす、
旦那代官泉州神馬代官村田大藏
助左衛門木一本大工三郎
奉再興武州入西郡越生鄕上野村聖天宮敬白
新六木綿一反五郎左衛門紙一束
森新右衛門木綿一反
次郎兵衛紙一束、 鍛冶士
(裏に文龜年辛未四月十九日とあり)
末社 稻荷社 青木明神社 神明社 荒神社
神主森村飛騨 吉田家の配下なり、先祖を式部と云、大永四年三月八日死せりと、されど家系等は傳へず、
・所在地 埼玉県入間郡越生町上野1732
・ご祭神 猿田彦命 天津確目命
・社 格 旧聖天社 旧村社
・例祭等 春季大祭 毎年4月第1日曜日 新嘗祭 毎年11月23日
年末大祓 毎年12月23日
地図 https://www.google.com/maps/@35.953128,139.3027573,17z?hl=ja&entry=ttu
上野東山神社から北西方向に鎮座している。上野東山神社から一旦東行して、埼玉県道30号飯能寄居線に合流、そこを左折し、北上する。JR八高線に祖稲川北西方向に向きを変えながら進むと、左手に「富士講の碑」のある石碑があり、その手前には路地があるので、そこを左折する。道幅の狭いながらも当初は民家も立ち並んでいるのだが、そのうちに農地が一面広がる長閑な田畑風景と変わり、その道を600m程進んだ先の丁字路を左折する。
暫く進むと急に周囲が深い森に覆われ、心細さも味わいながら進んでいくと、その進行方向左手に「上野二区区民センター」が人目を憚るかのような場所に現れ、その建物の反対側で、斜面上に木々に囲まれながらも上野大宮神社の境内が見えてくる。
「上野二区区民センター」内には広い駐車スペースが確保されていて、そこから参拝を開始する。この建物の近くに鳥居はあるのだが、そこは「二の鳥居」で、そこから南側に一本舗装されていない道があり、70m程先に「一の鳥居」が建っている。
正面一の鳥居
周囲を森と田畑に囲まれていて、決して目立つ場所にあるわけではなく、むしろひっそり感が半端ない程静かな社。しかし、周囲一帯の風景と見事にマッチした美しい姿には、まさに脱帽の一言。
静かな参道を進むと正面に二の鳥居、社殿が見えてくる。
「上野二区区民センター」近くにある二の鳥居
鳥居の先にある味のある手水舎 鳥居の右側に設置された案内板
越生七草めぐり スズキ
大宮神社の由来
当社は古来文武天皇の文武元年に創立承和三年九月従五位下武蔵介当宗宿禰家主が再建したと伝えられている。祭神には猿田彦命、天津確目命の二座なり、応永十年児玉党遠江守長隆が修営した天文六毛呂土佐守顕家が再営し更に元亀二年辛未(棟札現存)泉州神馬代官村田大蔵再び修営する。
三代将軍家光公より社領捨石の御朱印を続いて代々の将軍より賜る。
森村大和守を始め以来森村一家がこの社を護持していた嘉永六年三月十日延焼文久三年八月再建 この本殿は平成十二年町文化財に指定された。
明治四年社領奉還同五年社格御制定の折村社に列せられる。明治四十年越生町如意の白坂神社同所熊野神社を合祀する。
この社の祭神の中には昭和三十年町文化財指定の聖天雙身歓喜天像が祭られている。
毎年春季大祭に桃の弓の歩射を奉納、戦後中止していたが、形を変えて五十年目に小学校入学者の祈願祭として歩射を復活した。(以下略)
案内板より引用
拝 殿
『入間郡誌』大宮神社
略々中央宮附にあり。北及南は何れも小流の通ぜる低地にして、社地は中間の高台を占めたり。口碑には文武天皇の頃創立、承和三年武蔵介当宗宿禰家主再営、応永十年遠江守長隆(児玉氏)修営、天文六年毛呂土佐守顕季再営と伝へ、応永、天文の棟札も存すと称すれど、未だ詳ならず、次で元亀二年風土記には文亀とあり。誤れるなりと云ふ。)泉州神馬代官村田大蔵なるもの再営し、棟札今に存すと云ふ。村田大蔵とは如何なる人ぞ。天正以後毛呂村岩井に住せし村田氏とは関係の存せざるにや。社殿壮にして、明治四十年如意の白山神社、熊野、愛宕の諸社、及上野の諏訪、琴平、天神、熊野、稲荷の諸社を合祀せり。
神職は森村氏今に三十九代なりと云ふ。
上野大宮神社のご祭神は「猿田彦命」と「天津確目命」の二柱。この中で「天津確目命」を資料等で調べてみたのだが、該当する神が皆無であった。但し「確目」を素直に読むと「うすめ」となり、「あまつうすめのみこと」=「天鈿女命」となったのであろう。「越生町HP」でも「天鈿女命」と表記されている。
アメノウズメ(アマノウズメ)は、日本神話に登場する女神。『古事記』では天宇受賣命、『日本書紀』では天鈿女命と表記する。
「岩戸隠れ」の伝説などに登場する芸能の女神であり、日本最古の踊り子と言える。日本神話で、天照大神が天の岩屋に隠れた際、その前で踊り、大神を誘い出した女神。天孫降臨に五伴緒神(いつとものおのかみ)として従い、天の八衢(やちまた)にいた猿田彦神に道案内をさせた。猿女君(さるめのきみ)の祖神。一説には猿田毘古神の妻となったともいう。
一説に別名「宮比神」(ミヤビノカミ)。大宮売神(オオミヤノメノカミ)と同一視されることもあり、現在の社名である「大宮神社」もそこからの由来と考える。
拝殿に掲げてある扁額 社殿左側にひっそりと祀られている境内社・
石祠群。詳細は不明
精巧な彫刻を施されている本殿
「越生町HP」によると、当社は文武天皇元年(697)創建、承和3年(836)の再営と伝えられ、 児玉党の遠江守長隆や毛呂土佐守顕季による室町時代の修営、再営の記録がある。祭神は猿田彦命と天鈿女命で、御神体の双身歓喜天(聖天)の木像(町指定文化財)が祀られている。上野聖天社、聖天宮と称していたが、明治2年(1869)に大宮神社と改称した。
現本殿は、嘉永6年(1853)に焼失したが、文久3年(1863)、上野村の大工棟梁中嶋久蔵、大谷村(現越生町大谷)の大工棟梁肝煎(脇棟梁)深田定蔵ほか、地元の大工、杣方による再建され見事な彫刻が施されている。西面に「當國熊谷住 彫工 小林齋熊山橘正信」の作銘が刻まれており、「大巳貴命の大鷲退治」「素盞鳴尊の八岐大蛇退治」「天の岩戸」の胴羽目彫刻は、小林一門の3代目、小林丑五郎によるものと推測される。
内陣には聖天像が御神体として安置されている。御神体である聖天像は、象の頭をもつ男女の神が抱き合っている姿で、夫婦和合や子授け、福徳の神として信仰されてきた。
上野大宮神社の本殿、聖天像ともに町の指定文化財である。
参道からの一風景
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「入間郡誌」「越生町HP」
「デジタル大辞泉」「Wikipedia」「境内案内板」等