古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

月輪神社

 関白藤原忠通の子で九条家の粗である九条兼実(くじょうかねざね)は、京都の月輪寺(がつりんじ・つきのわでら)に隠棲していたことから「月輪殿(つきわでん)」と呼ばれていた。その霊が合祀されていると言われているのが月輪神社で、「月輪」の地名もここに由来しているとのことだ。参道や境内には樹齢何百年と思えるくらいの立派な杉が植わっていて、静寂かつ厳かなたたずまいであり、歴史を感じる古社である。

・所在地   埼玉県比企郡滑川町月輪418
・御祭神   素戔嗚尊、木花開耶姫命、味鋤高彦根神、豊受気媛神、月輪兼実公、菅原道真公
・社  挌   指定村社(大正5年)
・例  祭   春祭り 4月15日 例祭 7月15日 秋祭り 10月19日 11月23日 新嘗祭

               
 月輪神社は埼玉県道47号深谷東松山線を南下し、森林公園駅入口交差点のY字路を右折し、森林公園北口前の信号をまた右折する。道なりに真っ直ぐ進むと約5分弱で左側に月輪神社の社号標が見えてくる。駐車場は神社の東側隣に集会所があり、そこには駐車スペースが確保されており、そこに停めて参拝を行ったが、そこは神社の拝殿のすぐ横にあり、正面、つまり南側の鳥居から参拝することをモットーとしている筆者にとっては少々遠回りをしなければならないことが不満な点ではあるが。
                       
                           南側にある月輪神社の社号標
 
           社号標の先にある一の鳥居                      自然のままの社殿に通じる参道
      以前は朱塗りの鳥居であった。              境内は鬱蒼とした杉林に覆われている。
                      
                                                            参道の先にある拝殿
  なんでもこの社殿の基盤全体が古墳となっているようだ。この森林公園の南側に位置する羽根尾地域から月輪地域にかけては、数多くの遺跡が出土している日本でも有数の遺跡分布地帯で、調査によると、未発掘の埋蔵文化財が、町のほぼ全域に分布しているそうだ。

 東武東上線「つきのわ駅」の北部にある月輪古墳群や月輪遺跡からは、古墳時代の土器や石斧、直刀、さまざまな形の埴輪が数多く出土。東上線以南の地区からは縄文時代早期の土器が見つかり、駅西南部の一帯では旧石器時代の石器も発見されている。
 
     拝殿の「月輪神社」と書かれた扁額                           拝殿前の石段の横には案内板がある。

月輪神社
  由 緒
  当社は和同二巳酉(西暦七0九)年に大宮氷川神社の神霊を此の地に分社したと鎮守名に記載されており その後建久九戊午年三月、月輪兼実の霊を合祀して氷川大明神と称した。
享保八年九月宗源宣旨により正一位の神位を贈られた 明治維新の際明神号を廃し 氷川神社と称し 明治四十一年三月大字内の五社を当社に合祀して今までの氷川神社号を月輪神社と改称した 明治四年村社となり 大正五年指定村社に昇格した。

  昭和五十四年十二月吉日
   滑川村観光協会
   滑川村教育委員会

                      
                                           本殿覆屋
            
                           社殿手前にある古木跡

「埼玉県の神社」によると、「昔は、杉の古木が林立していたが、伊勢湾台風でその多くが倒れてしまった。この時、社殿の前にあった樹齢六〇〇余年といわれる神木の杉の幹にも亀裂が生じ、危険な状態になったため、氏子一同は涙を呑んで伐採を決意した」と記載されている。この伐採跡がこのご神木なのであろう。

 また案内板にも記載があったが、この月輪地域では、「獅子舞」が例祭に合わせて奉納される。「埼玉県県民生活部文化振興課公式HP」では以下の紹介がされている。

 月輪獅子舞 滑川町指定無形民俗文化財
 月輪神社で毎年7月と10月に五穀豊穣と子孫繁栄、悪魔除けを願い奉納されています。 太鼓には文政9(1826)年の銘があり江戸時代には既に行われていたと思われます。地元の熱意で、昭和57年に復活しました。  
                 
           道路沿いにある社号標のほうが歴史を感じる重みのある標石だと思う。
 

 東松山台地北縁の、嵐山町川島字屋田から滑川町月輪字西荒井にかけて、東西400m、南北800mの範囲に所在する。嵐山町側を「屋田古墳群」、滑川町側を「月輪古墳群」と呼ぶこともある。かつては100基以上の古墳があったと推測されたが、多くの古墳は開墾などにより破壊され、2002年(平成14年)のつきのわ駅開設に伴う区画整理事業の際に発掘調査が行われ、59基の古墳の記録保存がなされた。 現在直径2030mの円墳47基が現存する。
 1969年(昭和44年)101日、埼玉県の重要遺跡に選定された。
Wikipedia」より引用

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笠原久伊豆神社

  元荒川は延長61Km、流域面積216Km2の中川水系の一級河川。埼玉県熊谷市佐谷田を管理起点とし、おおむね南東へ向かって流れ、行田市、吹上町、鴻巣市、川里町、菖蒲町、桶川市、蓮田市、白岡町、岩槻市を経由して、最後は越谷市中島で中川の右岸へ合流する。この元荒川は山地水源を持たない河川であり、かつての元荒川は荒川扇状地の湧水を水源としていたが、次第に水源は枯渇し、現在の源流はポンプで汲み上げた地下水(人工水源)である。
 久伊豆神社は不思議とこの元荒川流域を中心に分布する神社で、逆を言うとそれ以外の地にはほとんど建てられていない。興味深いことに、荒川の主流(元荒川~備前堤~綾瀬川)は、神社分布の境界線にもなっていて、左岸側に久伊豆神社、右岸側には氷川神社が分布している。不思議な事項であり、このような意味において大変興味のある社である。
 鴻巣市笠原地区にもこの久伊豆神社が存在する。もちろん元荒川流域左岸だ。

所在地  埼玉県鴻巣市笠原1755
御祭神  不明
社  挌  延喜式内社、旧村社
例  祭  不明
      
 笠原久伊豆神社は鴻巣市街地の東端に位置する。埼玉県警察運転免許センターを最初の目印にして、まず免許センター前交差点を右折し、最初の信号であるひばり野交差点を左折し道なりに直進する。上越新幹線の高架橋をくぐった先の郷地橋交差点を右折すると埼玉県道77号行田蓮田線となり、車で約5分位走ると笠原郵便局交差点となり、左折すると左側にこの社が見えてくる。ちなみに道路を挟んだ反対側には久伊豆神社の別当寺であった東光寺がある。
 駐車場は、久伊豆神社の社号標を過ぎると民家があり、その先に駐車スペースがあるので、そこに停め参拝を行った。

              
                村社 久伊豆神社の社号標。斜めに傾いている。その先に神明系の鳥居がある。
       
                  一の鳥居。この鳥居を過ぎると直角に曲がり、その正面に二の鳥居がある。
         
                                  二の鳥居前から撮影。その先に社殿が存在する。
 
 久伊豆神社の鎮座地は埼玉県内の、綾瀬川左岸(東岸)を中心に集中的に分布している。これはちょうど氷川神社勢力圏と香取神社勢力圏とに挟まれたエリアであり、こうした「棲み分け」を武蔵七党、特に野与党・私市党の勢力範囲と関連づける説もあるようだ。
         

                         参道左側にある神楽殿
 
 神楽殿の南隣に鎮座する境内社、由緒不明。   社殿の奥にある境内社等。こちらも由緒不明だ。
          近くに力石がある。
                     
                                                             拝   殿
                       
 
                            本   殿
 
ところで笠原久伊豆神社は延喜式式内社の一で、さいたま市浦和区上木崎に鎮座する足立神社や同市北区宮原町に鎮座する賀茂神社と共に武蔵国足立神社の論社とされている。延喜式神名帳成立時点での足立郡の群域がどこまでだったかは細かいところまでは不明だが、この笠原地方は埼玉郡に所属していたはずだし、そうするとその時点で足立郡の式内社にはそもそも該当しないのではないかと思われるが、一応論社ということなので紹介した。
 久伊豆神社は現代風にいうと、特定地域密着型の社である。鴻巣の久伊豆社はこの笠原の他に郷地にも存在するし、近隣では旧川里町屈巣地区、また北根地区にも鎮座している。久伊豆社は笠原地区のみではなく、狭い区域に少なからず存在している。その中で笠原久伊豆神社を延喜式内社の一論社として比定する絶対的根拠がどこにあったのだろうか。

最後に笠原久伊豆神社の鎮座する地、「笠原」について「埼玉苗字辞典」では以下の記載がある。

笠原 カサハラ 弁韓(後の迦耶)の蓋(かさ)族居住地を笠原と云う。原は城(都)の意味で、非農民の職業集団居住地を云う。カサ条参照。大和国高市郡の飛鳥川上流に栢森村(今の明日香村)があり、迦耶人の居住地で飛鳥川を別名迦耶川とも称す。此地の飛鳥衣縫は、雄略記に「漢織、呉織、衣縫、是飛鳥衣縫部、伊勢衣縫部の先也」と見ゆ。迦耶は安耶(あや)国とも称し、漢人、呉人は迦耶出身なり。漢(あや)及び呉(くれ)条参照。武蔵国埼玉郡栢間郷笠原村鴻巣市)は是等迦耶人の居住地である。安耶ノ国渡来人は安部族にて、武蔵国造家及び埼玉古墳の被葬者は安部族笠原氏の首領である。アベ条参照。和名抄に埼玉郡笠原郷を加佐波良と註す。此地は百間村(宮代町)一帯にあった古代笠原沼にて、幸魂沼(埼玉沼)の一なり。今の笠原小学校及び東武動物公園の附近で、其の岸辺に式内社宮目神社(百間村姫宮神社)がある。近村の爪田ヶ谷村、蓮谷村、久米原村、須賀村、中村等に小名笠原あり。百間東村西光院条に「当院は行基の草創にて安部清明開基せり。昔は法相宗の大刹なり、末寺門徒塔中二十七ヶ寺あり、本尊薬師を安す」と。有名なる安部清明は附会にて、薬師を守本尊とする鍛冶集団の古代安部族の草創である。隣村の葛飾郡下高野村杉戸町)龍燈山伝燈記に「武総国界に一大入江有り、而して是を幸魂真間入江と申す。景行天皇御宇、倭建命、東国御下向の時、此入江御渡有り、御一島山に着く。和銅三年下総国住人孔王部堅・一家五十口を引連れ此の島に移り住す。神亀三年行基菩薩・道俗弟子数人を伴いて武州百間郷佐加狭井浦より大島郷に於て錫を給ふ」と見ゆ。古代は江戸湾より笠原沼に至り、宮代町逆井で上陸して大島郷(杉戸町)に着いた。また、男衾郡竹沢郷笠原村小川町)あり、正保年間より比企郡に属す。正倉院天平六年宝物に武蔵国男衾郡カリ倉郷笠原里と見ゆ。古代蓋族の居住地にて当村に笠原氏多く存す。また、小名では入間郡荻原村字笠原、二本木村字笠原、高麗郡鯨井村字笠原、秩父郡上小鹿野村字笠原あり。此氏は武蔵国北部に多く存す。



一 古代阿部族笠原氏 埼玉稲荷山古墳の鉄剣銘に「辛亥年七月中記、上祖名意富比垝、(中略)、其児名加差披余」とあり。オオヒコは阿部族を率いた代々の首領名である。其の子孫カサハヨは笠族の名を冠している。



二 武蔵国造族笠原直 笠原・笠間・風間等の笠族を支配管掌し笠原直を名乗る。物部族を支配するものを物部直と云う。古代氏族系譜集成に「兄多毛比命(武蔵国造、奉祭氷川神)―荒田比乃宿祢―宇志足尼―筑麻古―蚊手―加志―波留古―使主(武蔵国造、笠原直)―兄麻呂(物部直)、波留古の弟碓古―小杵(従兄使主と争ふ)」と見ゆ。日本書紀・安閑天皇元年閏十二月条に「武蔵国造笠原直使主、同族小杵と、国造を相争ひて年を経て決し難し。小杵は性阻にして逆あり。心高うして順なし。密かに就て援を上毛野君小熊に求めて、使主を殺さんと謀る。使主覚りて走出で京に詣りて状を申す。朝廷臨断、使主を以て国造と為し、小杵を誅す。国造使主悚憙(おそれよろこび)、懐にみちて、黙し巳む事能わず謹んで国家の為に、横渟・橘花・多氷・倉樔の四処の屯倉を置き奉る」と見ゆ。また、大里郡神社誌・相上村大里町)吉見神社条に「末社に東宮社、天神社あり。東宮社は祭神建夷鳥命の子建豫斯味命(吉見命)にして牟刺国造の始祖なり。又天神社は天穂日命・建夷鳥命を祭神とす。吉見郷は建豫斯味命・伊豆毛国より入間郡に遷り坐す故に吉見と云ふ。和銅六年五月奉勅・外従三位下牟刺国造笠原豊庭と宝物あり」と見ゆ。宝物は後世の造立であろう。



 「埼玉苗字辞典」によると「笠原」姓の源流は朝鮮半島の弁韓国の中の「蓋(かさ)族」より来るらしい。この弁韓国は弁辰ともいい、紀元前2世紀から4世紀にかけて存在していた三韓(馬韓、辰韓)の一つである。領域は馬韓の東側で、辰韓の南、日本海に接し、後の任那・加羅と重なる場所にあった地域と推測されている。この蓋族が古代日本に移住し姓も「笠、上、賀佐、風」と称した。

 この笠原という姓は日本国で30,000人、姓名ランキングで327位という。関東地方に圧倒的に多く、次いで新潟、長野の上信越地方、そして興味深いところで大阪、岡山県も比較的多数存在している。

   埼玉県   およそ8,600人     静岡県  およそ1,800人
   東京都   およそ7,800人     大阪府  およそ2,300人
   千葉県   およそ2,900人     岡山県  およそ2,800人
   群馬県   およそ3,300人
   神奈川県 およそ6,000人
   新潟県   およそ6,500人
   長野県   およそ3,600人
   愛知県   およそ1,800人

 「笠原」姓の他同族と言われている「風間」姓は全体的に多くは存在しない姓名ではあるが(全国ランキング714位、28,000人ほど)、やはり関東、甲信越地域に多くみられ、静岡県以西はあまり多くない。

   埼玉県   およそ3,200人           新潟県 およそ5,200人
   東京都   およそ4,300人     静岡県 およそ1,800人
   神奈川県 およそ2,600人     長野県 およそ1,400人

 この笠原姓は東日本地方に圧倒的に多く存在する中、岡山、大阪地方にも多くいることは着目に値することだ。岡山県には金工鍛冶の技術を持つ吉備氏系の笠氏の存在があり、新撰姓氏録では笠臣国造として孝霊天皇の皇子・稚武彦命の後裔氏族つぃて登場する。

笠臣国造
笠臣国造(笠国造)とは笠臣国(現・岡山県西部~広島県東部、笠岡市中心)を支配したとされ、国造本紀(先代旧事本紀)によると応神天皇(15代)の時代、元より笠臣国の領主をしていた鴨別命(かもわけのみこと)の8世孫である笠三枚臣(かさみひらのおみ)を国造に定めたことに始まるとされる。鴨別命は御友別の弟で、福井県小浜市の若狭彦神社の社務家である笠氏(笠臣)の祖と言われ、岡山県の吉備中央町にある鴨神社では笠臣(かさのおみ)が祖である鴨別命を祀ったと言われている。新撰姓氏録の笠朝臣(かさのあそみ)の項では、孝霊天皇の皇子・稚武彦命(わかたけひこのみこと)の後裔氏族であり、笠臣は鴨別命の後裔氏族として書かれている。また日本書紀には鴨別命が熊襲征伐の勲功により応神天皇より波区芸県主に封じられたとされているが、波区芸(はぐき)がどこかは不明である。  

 大阪府に関しても笠原氏に関して面白い事項がある。笠縫邑(かさぬいむら、かさぬいのむら)とは、崇神天皇6年に、宮中に奉祀していた天照大神を移し、豊鍬入姫命に託して祀らせた場所。同時に宮中を出された倭大国魂神は渟名城入媛命に託して、後に大和神社に祀った、とされる。 笠縫邑は大嘗祭、豊明節会の起源に関係する大事な土地との説もある。
 この笠縫邑は大阪市東成区深江南に鎮座する深江稲荷神社には、付近の深江は笠縫氏の居住地で、大和の笠縫邑から移住してきた、との伝承がある。万葉歌人高市黒人(たけちのくろと)が「四極山(しはつやま) うち越え見れば笠縫の島 漕ぎ隠る 棚無し小舟」と詠んだ様に、古代には、笠縫島といわれた。笠縫島は、現在の深江から東大阪市足代にかけて、入江に浮かんだ島であった。笠の材料の確保のため、笠縫氏は島に住んだと思われるが、もともと大和の笠縫邑も、同じような低湿地か、島状の土地だったのではないかとも推測される。 現在も大嘗祭に使用する笠は、この深江から天皇家へ献上されている。また、深江は、皇祖の御神鏡に関係する鋳物師とも関係が深い土地とのことである。
  


 さて日本全国見てもこの「笠原」姓は非常に少なく、現代人の私にとっても正直インパクトのない印象は拭えない。それなのに日本書紀にはハッキリと関東の片田舎の事件の一首謀者「笠原直使主」と明記していた事実は、ある意味面白い考察を提示してくれた。
 この「笠原」姓は確かに東日本地域には多く存在しているが、その大多数は西から移住した民族ではないだろうか。その中継所として「吉備地方」、「大阪府」が存在し、その中継所にも少なからず永住者が存在し、その地域における「笠氏伝承」となったのではないかと考えられる。その中継所も神話の宝庫である「吉備」や、皇祖の御神鏡に関係する鋳物師とも関係が深い土地である大阪の「深江」など、古代倭国神話形成における重要な地域だからこそ天皇家は「笠原」姓を忘れなかったのではないか、と推測する。

 また笠縫邑に関してはいくつか面白い考察もあり、別項を設けて述べたいと思う。


*補足   
 笠原久伊豆神社の接している道路は現在県道38号加須鴻巣線といい、かつての騎西道であり、別名、御成道とも称されていた。名前が示すとおり、徳川家康が鷹狩のさいに通った(とされる)道で、鷹狩で騎西方面に向かうために、家康が新たに作らせた街道である。                平成26年3月22日

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菖蒲神社

 菖蒲神社が鎮座する旧菖蒲町は人口2万2679(1995)。元荒川,星川,見沼代用水などが北西から南東に流れ,自然堤防と後背湿地に水田が広がる。中心集落の菖蒲は星川東岸の自然堤防上にあり,江戸時代は2・7の日の六斎市が立ち,米,農具,木綿などの取引でにぎわった。自然堤防上ではナシ栽培が盛んであったが,近年は〈埼玉ダナー〉で知られるイチゴの産地でもある。平成22年の大合併で栗橋町や鷲宮町と共に久喜市に編入された。

所在地  埼玉県久喜市菖蒲町菖蒲552
御祭神  袋田大明神(奇稲田姫命) 鷲宮大明神(武蝦夷鳥命) 久伊豆大明神(大己貴命)
社  挌  旧村社
例  祭    毎年1月15日 左義長(三毬杖) *小正月に行われる火祭りの行事
 

       
 菖蒲神社は埼玉県久喜市菖蒲町、埼玉県道12号川越栗橋線の菖蒲宮本交差点の角に鎮座する。但し交差点付近には駐車スペースがない為、車で社に向かうためには交差点の手前のT字路を右折しなければならないのでそこは注意が必要だ。
 古くは袋神社、袋明神社とも呼ばれ、奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)を御祭神とする神社。現在の御祭神は袋田大明神、鷲宮大明神、久伊豆大明神の三神で、五穀豊穣、厄除、病気平癒に霊験あらたかとかいうらしい。
           
                   菖蒲神社の入口である二の鳥居から境内を撮影
           
                  二の鳥居の先、左側にある菖蒲神社の案内板

菖蒲神社                  所在地 南埼玉郡菖蒲町大字菖蒲

 菖蒲神社は、古くは袋田者、袋田明神社とも呼ばれ、奇稲田姫命を祭神とする神社で、境内は東西二十五間(約45m)南北四十三間(約77m)で、面積は1,715坪を有していた。
  現在の祭神は袋田大明神、鷲宮大明神(武夷鳥命)、久伊豆大明神(大己貴命)の三神で、五穀豊穣、厄除、病気平癒に霊験あらたかという。御神体は銅鏡で、本地薬師の像が彫られており、裏に寛文九年(1669)九月の銘がみられる。
 新編武蔵風土記稿には末社として稲荷天神合社、雷電社、大黒天金毘羅秋葉聖徳太子合社があり、ほかに村内には稲荷社(村民持)、愛宕社(慈眼院持)、若宮八幡社、三所権現社があったと記されている。毎年一月十五日には、注連飾やお札を持ちより左義長が行われる。左義長は「どんど焼き」ともいわれ、長い竹数本を立て、門松や書初めなどを焼き、その火で焼いたモチを食べると一年間の病が除かれるというものである。
 なお、三月下旬から五月下旬までの二、七の日には、鳥居前の通りに植木市が立ち賑っている。
 菖蒲町教育委員会
                                                                                                               案内板より引用

 また鳥居を入った右側の境内の一角は、休憩所が設けられていて、その前に、菖蒲神社の絵馬の説明書きの案内板あった。
           

菖蒲町指定有形民俗文化財 菖蒲神社絵馬 六面

 指定年月日 平成四年三月二十三日 所在地 菖蒲町大字菖蒲五五二 所有者 菖蒲神社
 菖蒲神社は、「新編武蔵風土記稿」によれば、「袋田明神社 祭神は稲田姫命と伝」とあります。
 同社には現在六面の大絵馬が残されています。三面一組の「百人一首」や、町内で唯一の「飾馬」、幕末の狩野派の絵師伊白榮厚の描いた「鞍馬山」などです。
 「百人一首」は、天明八年(一七八八)五月、平沢喜兵衛ほか百名の伊勢大々御神楽講中によって奉納されています。三面に百枚の絵札を描く、ほかに例を見ない珍しい絵馬で、百人の奉納者が一首ずつ奉納するという形式をとったものです。絵師は藤原守直、細工人は辻幸八とあるほか、執筆が道祖土負栄とあります。
 「鞍馬山」は、画題としては珍しいものではありませんが、細工人斉藤八五郎により荘厳な大型の絵馬に仕上げられ、絵師伊白榮厚が下絵を描き川原塚白泉が彩色するという大掛かりな作品となっています。伊白榮厚は、上新選久伊豆神社・台久伊豆神社など町内に六面の作品を残していますが、「狩野」を名乗るのはこの絵馬だけです。裏書には、天保九年(一八三八)、穀屋茂吉など十六人の証人と思われる人々の名前が墨書されています。
 天明八年(一七八八)八月吉日奉納の「飾馬」は、中央の白馬と左右に配された黒馬が三頭向かい合う構図で描かれたもので、町内に唯一残された絵馬らしい絵馬です。嘉永五年(一八五二)五月の「神宮皇后」と合わせて、江戸中期以降見沼通船で栄えた町の様子を伝える資料として貴重です。
 菖蒲町教育委員会
                                                       案内板より引用

 休憩所の並びには県指定天然記念物の樹齢300年と言われる「野田フジ」があり、大正天皇の即位にちなみ「君万歳の藤」と名付けられた。根周りは約9mで、4月末~5月はじめのゴールデンウィークの頃の開花時期にはみごとな花をさかせるという。残念ながら今回は9月の参拝だったので見ることができなかったが、次回にはその見事な藤を見てみたい。
           
               「埼玉県指定天然記念物菖蒲のフジ」の明記された標石

 二の鳥居の正面には社殿がある。開放的な社の雰囲気は大変気持ちよく、街中にある神社としては比較的境内は広く、ゆっくりと散策できる。
           
                             拝    殿
 
           
                             本   殿 

 本殿の左側には境内社が並んでいる。
 
             八雲神社                八雲神社の並びには大黒社稲荷社・聖徳社・                                                                                            庚申社・琴平社・八雲神社がある。

  菖蒲神社が鎮座する久喜市菖蒲町地区は名前こそ「菖蒲=あやめ」と可憐な印象を与え、菖蒲町新堀にある菖蒲城址は現在あやめ園として毎年6月上旬から中旬にかけて35,000株の花菖蒲が見所を迎えるほど名前通りの「あやめの町」として有名な地域だ。ただこの地域の歴史をひも解いてみると利根川、荒川等の河川に囲まれた氾濫原の地形ゆえに昔から鎌倉幕府等、時の為政者たちが開発を進められた地域であり、長年の周辺の河川の氾濫により形成された自然堤防から外れた加須低地の中の埋没ローム台地上にあるため当時の開発に携わった多くの人々の苦労も並大抵ではなかったと想像される。

 また社から県道12号を南下すると菖蒲町字陣屋には菖蒲城址がある。
            
 現在は城址の遺構は全く残っていない。ただ一面の水田の中に「菖蒲城址あやめ園」があり、そのなかににぽつんと残る城址の標石と江戸時代にこの辺りを治めた旗本内藤氏の陣屋門が存在するだけだ。ただ築造当時は北・西・南に深い湿地帯となっていて、この地形を利用して対上杉氏に備えていたらしい。(但し埼玉郡に所属する古墳や神社、城のほとんどは沼地や湿地帯の微高地に築造されている。ある意味埼玉県東部の地形上の宿命なのだろう)
 その名前の由来として室町時代には古河公方足利成氏の家臣金田式部則綱が、対立する関東管領上杉氏に対する最前線として構えた際に城の完成した日が菖蒲の節句だったので、その名がついた説や、享徳4年(1455年)6月、足利成氏が室町幕府および管領上杉氏との抗争の過程で、鎌倉より古河へと転戦する際に「武州少府」に一時逗留した旨の記述があり、この「少府」を「菖蒲」の地に比定する説もある。
 天正18年(1590)小田原の役では、秀吉方に攻められ周辺の城とともに落城。その後廃城となり、江戸時代に入ると旗本内藤氏が陣屋を構えた。なお初代内藤正成は徳川16神将の一人に数えられる。


 菖蒲神社を調べていく途中、気になったことがある。菖蒲町地区を含むこの久喜市には「久喜断層」が存在している、ということだ。この久喜断層は元荒川構造帯という久喜断層から綾瀬川断層の間の沈降地形のことをいうそうだ。2005年から実施された産業総合研究所の久喜断層調査では、断層帯での地下水成分の違いが見られるものの活断層の可能性は低いと考えられる。
       

 また綾瀬川断層は活断層であるが地震の発生確率は低いと考えられている。しかしこの断層の北西延長には西埼玉地震(S6.M=6.9)を引き起こした深谷断層があり東京湾方向の断層と連動しマグニチュード8級地震を懸念する研究者もいる。

 滝宮神社の項でも述べたことだが、日本は地震大国であり、火山大国でもある。埼玉県はこのような自然被害は他県に比べると少ない県と言われているが、それでも日頃の防災意識は必要だ。筆者の自宅には熊谷市の洪水ハザード、地震ハザードを貼り付けており、非常時の対策を万全とは言えないが行っている。東日本大震災の教訓を学び、その対策や備えを日頃から各家庭のレベルでも行わなければいけない、そういう時期が来てしまったのかもしれない。寂しい限りだ。


                  

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知形神社

 知形神社の鎮座地は「田中」で、古来より交通の要衝と言われていた。それ故か吉田東伍の『大日本地名辞書』には、「延喜式幡羅郡田中神社はこれなるべし。然るに近世この村 榛沢郡の所管なりしかば、三ヶ尻の田中天神を以て式内に擬せるも、村名にも後世まで存するを想へば、此なる知形明神ぞ式内ならん云々」とあり、幡羅郡の延喜式内社・田中神社に比定している。さて真相はどうであろうか。

所在地   埼玉県深谷市田中612-1
御祭神   彦火瓊瓊杵尊、思兼命  (合祀)菊理姫神 伊弉諾尊 伊弉册尊
社  挌   旧村社
例  祭   10月15日 秋祭り


       
地図リンク
 国道140号線秩父街道から武川交差点で県道69号深谷嵐山線を南下すると、応正寺の西側に知形神社が鎮座している。境内の殆どはゲートボール場になっており、日中は地域のコミュニティの場としてこの神社が存在していているようだ。
 境内周囲には木々が茂り、社殿左側には沢山の末社が纏められている。無形民俗文化財指定の「知形囃子」が奉納される神社として知られている。
 
                             社号標                                           境内の様子 鳥居の形式は明神鳥居
                              
  例祭では、享保年間から氏子により始められたと伝わる、無形民俗文化財指定・知形囃子が奏されている。

知形囃子(昭和三十七年十二月二十五日指定)
 享保九年(1794年)頃知形神社の氏子により受け継がれたものである。毎年七月十五日夏祭りに十一の廊を神輿の渡御の先導になって奏でられたもので知形の囃子、馬鹿囃子、街道下り三曲よりなっている。秩父囃子の源流といわれ、よく似ている.
                                                                                                                     案内板より引用
          
                             拝   殿
 拝殿の向かって左側に境内社がある。
          
 左手前から八坂神社、諏訪神社、琴平宮、雷電神社、見目神社、(?)、手長神社、稲荷神社、八幡神社、荒川神社、金山神社、天満宮、愛宕神社。
 また反対側には御神木の幹に2つ石祠があったが、カメラの容量の関係で撮影できなかった。


 歴史学者、民俗学者で有名な柳田國男の著書「定本 柳田國男集」によると、「ちかた」とは、門神、門を守護する神のことであるという。古語拾遺に「豊磐間戸命・櫛磐間戸命の二柱の神をして、殿門を守衛らしむ。是並、太玉命の子也」とある。深谷市の智形神社の祭神(配祀)が天太玉命であるというのは、このことと関連するのだろう。また天太玉命は、主神の瓊瓊杵命が天降ったときの伴の五柱の神の一柱でもある。

 川本町田中の地は、東西に熊谷と秩父、南北に深谷と嵐山を結び、さらに荒川水流を臨む交通の要所という。この地に知形神社が鎮座しているということは、何か深い意味があることなのだろうが現状それ以上の考察は不明だ。


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本田春日神社、大天白神社

所在地   埼玉県深谷市本田2025
社  格   旧村社 
祭  神   武甕槌命、経津主命
由  緒   天平20年第四十五代聖武天皇の御代748年の昔より
        下本田の鎮守として氏子の信仰の篤い神社。
例  祭   10月15日 秋祭



地図リンク
 春日神社は埼玉県道69号線を嵐山方向へと進み、本畠駐在所交差点を左折、そこから約1km先に鎮座する。
  
     社号標柱 参拝日平成24年4月25日         社殿や境内社も良く手入れされている。

                    拝   殿
 
                                         本     殿
     拝殿も本殿も比較的新しい。つい最近再建したのではないのか。

  ちなみに本田春日神社は天平20年(748)に河内国の枚岡神社を勧請したものといい、古くは「枚岡神社」と称したという。奈良遷都のとき、藤原氏は氏神として同神社を奈良春日山にまつって春日神社としたことから、当社も「春日神社」と改称したという。

 
       左より鹿島神宮、稲荷大明神、社日神社                                    八坂神社
  
         天満天神社(右)と天満自在天神碑                      合祀社、左から古峯神社、八幡神社
                                                                               雷電神社、山之神社、冨士浅間神社
 
  この社は、道路沿いから一本細い路地に入った場所に鎮座していた。決して目立たない位置にありながら、境内はきちんと整備されていて居心地の良い空間がこの一帯に存在していた。このような地域に根付いた社が、これからも地方の文化財として後世に長く伝えてもらいたいと参拝中感じさせてくれる、趣のある良い神社だった。


 川本春日神社からほぼ真東に約1km程、また鹿島古墳群の南東約400mほどの場所に大天白神社がある。残念ながらこの社に案内は無く、御祭神・勧請年月・縁起・沿革等は全て不明だ。

大天白神社
地図リンク


                   拝   殿
        
               拝殿内にある本殿                                       合祀社  詳細不明

 祭神は北に荒川、西に吉野川が流れていることから水神なり河川神なりであるのではないか。すると瀬織津姫命など祓戸神あたりと推測される。


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