古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

北十条北向神社

 旧東児玉村の村域(下児玉村、小茂田村、阿那志村、関村、沼上村、南十条村、北十条村、根木村)には、北向という変わった名前の神社が多く鎮座するが、その本拠地が実は北十条地区である。
 『新編武蔵風土記稿 児玉郡十条村』に”薬師堂:鎮守北向明神の本地なり、貞享五年、時の住僧記せし縁起に、坂上田村麻呂将軍、上州赤城明神の本地薬師へ祈誓し、十条淵の大蛇退治の後、郡内当村及沼上・阿那志・小茂田・下児玉村の五村に彼明神を崇て、本地薬師を当寺に勧請せしなど云事を載たり…以下略”とある。当寺とは慶昌寺のこと。
 また『武蔵国郡村誌』には、下児玉村を除く四村と那珂郡古郡村に北向神社が記されていて、その祭神はスサノオ、大己貴、少彦名である。

        
            ・所在地 埼玉県児玉郡美里町北十条695
            ・ご祭神 大巳貴命 素盞嗚命 少彦名命 大雷命
            ・社 挌 旧十条村鎮守 旧村社
            ・例祭等 春祭り 43日 大祓式 81日 秋祭り 1019
                 新嘗祭 1125日 他
    地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2020011,139.1652408,16z?entry=ttu
  
 北十条北向神社は沼上北向神社の北側、埼玉県道75号線を身馴川公園交差点から熊谷方面に向かい、最初の交差点(コンビニエンスが斜向かいにある)を左折し300m位進むと右側に見えてくる。ちなみにこの県道75号線を熊谷方面に進むと左側脇に十条条里遺跡(県指定史跡)の碑が建っている。条里とは律令時代の班田収授の法に基づく土地の区画整理のことであり、北十条から南十条の一帯には昭和20年代まで、条里の跡が残っていた。
 十条という地名も条里制に由来するのだという。残念なことに現在は、耕地整理によって条里は消滅している。
             
                             北向きとなっている鳥居
             
                             北十条北向神社拝殿
             
                                  案内板
 『風土記稿』十条村の項に「北向明神社 鎮守なり 慶昌寺持」と載る。その創建については、貞享五年(1688)の奥書のある慶昌寺薬師堂の縁起に「昔、坂上田村麻呂が上州赤城明神の本地仏である薬師如来に祈誓し、身馴川(現小山川)の十条淵の大蛇を退治した後、郡内五か所に赤城明神を崇めて祀った」旨が記されており、当社はその内の一社であるという。

北向神社  御由緒   美里町北十条六九五
御縁起(歴史)
 北十条の鎮守である当社には、主祭神に素盞嗚命・大己貴命・少彦名命、合祀神に大雷命を祀る。『風土記稿』十条村の項に「北向明神社 鎮守なり、慶昌寺持」と載る。その創建については、貞享五年(一六八八)の奥書のある慶昌寺薬師堂の縁起に「昔、坂上田村麻呂が上州(現群馬県)赤城明神の本地仏である薬師如来に祈誓し、身馴川(現小山川) の十条淵の大蛇を退治した後、郡内五か所に赤城明神を崇めて祀った」旨が記されており、当社はその内の一社であるという。
 以来、当社は村民の厚く崇敬するところとなり、享保十三年(一七二八)には神祇管領吉田家から正一位の神階を受けた。 内陣にはその添状と女房奉書及び古色を帯びた金幣が安置されているが、この神階拝受を機に社殿も再建されたものと見え、別当の慶昌寺が願主となり、惣氏子五三名の寄附を受けて「奉成正一位御神官北向大明神并宮殿建立」を行った旨を記した享保十三年五月吉日付の棟札が現存する。
 明治五年に村社となり、同四十年に字重の村社大天雹神社(「明細帳」 に「大天電神社」とあるのは誤記)を合祀したとある。この大天雹神社は、『風土記稿』に載る慶昌寺持ちの「雷電社」のことで、合祀に際しては、享保十三年に正一位の神階を受けた際の吉田家添状と女房奉書及び金幣が当社の本殿に移された。これらはいずれも当社のものと同様で、享保十三年に社殿を再建した旨を記した棟札もある。
                                      案内板より引用
 
                     社殿の両側にある境内社(写真左、及び右)

 ところで北十条地区の東側には「阿那志(あなし)」という変わった名前の大字がある。中世からの郷名であり、この地の阿那志は慶長期(1600年頃)まで穴師郷穴師村と表記していた。穴師とは鉱山などで金属の採掘を業とした人々を指すのだという。その関係だろうか、児玉町金屋は鋳物製造が盛んであったという。
 
 阿那志 アナシ 
 阿部族の首領を阿部志、磯族の首領を伊蘇志、渦族の首領を宇都志、阿那族の首領を阿那志と称す。すなわち穴族の渡来集団居住地を穴郷、穴師村、阿那志村と云う。近江国安那郷(草津市穴村)に安羅神社あり、アナはアラとも称す。アナベ、アナホ、アラ参照。児玉郡阿那志村(美里町)あり、当村、根木村、関村は阿那志郷を唱え、穴師とも記す。金沢文庫に¬文永十一年十一月、冨安新里・同阿那志村」と見ゆ

                                                           埼玉苗字辞典より引用

 不思議とこの付近には金鑚神社が多く分布している。武蔵国ニ宮 金鑚神社(神川町ニノ宮)は、祭神は金山彦或はスサノオであり、金山彦命は鍛冶職や鋳鉄業者の信仰を集めた神であり、金属精錬との関連が深い。
 「金鑚」の語源は砂鉄を意味する「金砂(かなすな)」に求められ、神流川周辺で、刀などの原料となる良好な砂鉄が得られた為と考えられている。また、御嶽山から鉄が産出されたという伝承もある。『神川町誌』に記述される一説として、砂鉄の採集地である「鉄穴(かんな)」を意味するものという説もある。これは金鑚神社の西方に神流川が北流している事による説である。語源については諸説あるが、古代に製鉄と関わりがあったとする点は一貫していて、現在も神流川は砂鉄が多い。
 ただ砂鉄は鉱山を必要としないので、その遺跡を求めることは難しい。又たたら(小規模製鉄所)の発見もされていない。児玉党の児玉は、「鋼の塊」を意味すると言う説もある。だが、どれも決定的証拠にはなり得ず、「噂」の域を超えない。真相はいかがなものだろうか。
  

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沼上北向神社

 神社は通常風水によって「子坐午向」に造られる。したがって真南または真東を向いているものがほとんどである。太陽信仰ともアマテラス信仰からであろうが古くから「天子南面す」と言われるように玉座は南、太陽の方角を向いていた。しかも、神社のほとんどが本殿に神の依り代として「円形の鏡」を置いている。正円の鏡は、その形はもちろん、輝きという意味でも太陽を模している。つまり「アマテラス=鏡=太陽」という構図が成立するわけだ。ゆえに社の方角も同じように南を向くのが多い。
 しかし中には真北に方向を向いている社も少数ながら存在することも事実で、特に有名なのは茨城県鹿嶋市に鎮座する鹿島神宮だ(但し断っておくが鹿島神宮の場合、社殿は北向きだが、本殿は東向きとなっている)。時の朝廷の権力が届きにくい東北地方を神威によって治めるという意味もあるらしい。
 児玉郡美里町沼上地区に鎮座している沼上北向神社も、数少ない北側に社殿を向けている社だ。赤城大明神を祀る北向神社五社のうちの一社と言われ、延暦15年(796年)に坂上田村麻呂が創建したと伝えられる古社だ。
        
             ・所在地 埼玉県児玉郡美里町沼上1
             ・ご祭神 大巳貴命、素盞嗚命、少彦名命
             ・社 挌 旧沼上村鎮守 旧村社
             ・例祭等 祈年祭 329日 大祓祭 731日 例祭 1019
                  新嘗祭 1129日 他
    地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1889308,139.1570971,17z?entry=ttu 。                   
 沼上北向神社は埼玉県道75号熊谷児玉線を旧児玉町方向に進み、身馴川公園交差点を左折して道なりに真っ直ぐ進むと、左側にこんもりとした北向神社の社叢が見えてくる。
 旧別当の長福寺の西脇から参道が始まり、50mほど進むと、美里町で最も大きいといわれる木造の両部鳥居〔高さ5.5m、幅3.65m)があり、正面に「正一位北向大明神」の社号額が掛かっている。
                  
          長福寺の西隣のT字路沿いにある北向神社の社号標
        
              美里町最大の一の鳥居という大鳥居
 
  一の鳥居を200m程進むと社の社叢が見える。           神楽殿
         
                      
拝 殿             
        
                       
本 殿

     境内に設置されている案内板      拝殿上部にも「北向神社の大要」の額あり        
北向神社 御由緒    美里町沼上1
□御縁起(歴史)

 
沼上の地は身馴川南岸の水田地帯に位置する。地内にはかつて条里制遺構が見られたほか、地内の水殿と呼ぶ辺りに水殿瓦窯跡(国指定史跡)がある。
当社は主祭神として素盞嗚命・大己貴命・少彦名命の三柱を祀り、地内の一番南にある字宮上に北向きに鏡座している
社伝によれば、延暦15年(796)に坂上田村麻呂将軍が東征の途次、身馴川の水底に棲む大蛇を退治しょうとした時、上野国(群馬県)赤城明神の神霊を感じて児玉郡内に五社の北向神社を勧請し、当社はその内の一社であるという
「風土記稿」沼上村の項に当社は 「北向明神社 村の鎮守にて長福寺の持、末社 諏訪愛宕金毘羅 山神 牛頭天王 八幡 弁天 天神」とある。更に別当の長福寺については「新義真言宗、那賀郡広木村常福寺末、瑠璃光山薬師院と号す、本尊大日を安ず、又傍に北向明神の本地薬師を置り、当寺は名主利右衛門が先祖、九左衛門義長なるもの逸見上総介光長の苗裔にて、武田家滅亡の後当所に跡をかくし、かの明神の本地崇信のあまり、慶長2年(1597)一宇の堂を創建せり、因てこれを開基と称す(後略)」とある。当社は明治5年に村社となり、同40年には宇桑中の稲荷神社を合祀した。更に、大正2年には字上宿の玉手長男神社と字南の稲荷神社を境内に移転した

                                      案内板より引用
        
          稲荷大明神                               天手長男神社
        
                    社殿奥に祀られている
末社群                           
                           
 この美里町沼上地区にはかつて条里制遺構が見られたほか、地内の水殿と呼ぶ辺りに水殿瓦窯跡(国指定史跡)がある。この窯跡で生産された軒平瓦・平瓦は鎌倉永福寺(注、廃寺)の寛元-宝治年間(1243-49)の大修理に使用されており、一三世紀中ごろに操業していたと推定されている。
                      
                水殿瓦窯跡(国指定史跡)
 この窯跡で生産された軒平瓦・平瓦は鎌倉永福寺(注、廃寺)の寛元-宝治年間(1243-49)の大修理に使用されており、一三世紀中ごろに操業していたと推定されている。更に、字宮下には奈良・平安期の集落跡があり、土師器・須恵器が出土しており、古くから開かれた地であったことをうかがわせる。
        
                   
十条条里遺跡       

 

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堀の内羽尾神社

 羽尾神社の祭神の一柱である藤原恒儀は、「藤原」姓を称しているが特定不明は人物である。案内板等ではこの人物は青鳥判官と称し、隣地東松山市の青鳥にある青鳥城蹟の城主で、天長六年(829年)九月二十日に卒した人と伝えられている。新編武蔵風土記稿にはこの藤原恒儀はこの地に在住していた在地豪族であり、卒して後に産土神とした、とも書かれている。
 この藤原恒儀という人物は別名「恒儀様(ゴウギサマ)」と呼ばれ、昔から親しまれ、非常な力持ちで角力、つまり相撲が強かったと伝承もあり、土師氏の始祖野見宿禰を暗に連想させる。

        
             ・所在地 埼玉県比企郡滑川町羽尾4806
             ・御祭神 日本武尊 藤原恒儀
             ・社 挌 旧指定村社
             ・例祭等 春祭り 4月吉日 例大祭 10月吉日 秋祭り 10月吉日            
 羽尾神社は埼玉県道47号深谷東松山線を東松山方向に進み、滑川消防分署交差点前の信号を右折するとすぐ右側に鎮座している。右折する交差点は大型ショッピングモールが左側にある交差点なので、経路を説明する際には、まず迷うことのない解りやすい社と言える。
 社に隣接してすぐ北側には小さいながらも公園の駐車スペースもあり、身障者用の駐車スペースも設置されている駐車場もあり、そこに停めてから参拝を開始する。
                   
                            参道右側にある社号標
            
                                    参道正面の石鳥居
            
                      鳥居の右側に設置されている案内板          
 羽尾神社由緒
 一 御祭神 倭建命 藤原恒儀
 一 由緒
 当神社は、往古より「恒儀様」と尊称され、町崇敬の産土神社である。 
 また、伝来の古書に「倭建命、天長六(西暦829年)年鎮座」と明記されている。

 また、別の祭神「藤原恒儀」は、青鳥判官と称し、隣地東松山市に在る青鳥城址の城主で、天長六年九月二十日の卒した人と伝えられる。
 後年に至り当社に合祀されたと云う。 
 そして、当社は、藤原恒儀の嫡子恒政と家臣藤原竹連によって創建されたと伝承されている。

 明治四年村社となり、大正五年四月指定村社に昇格した。
                                                            案内板より引用
羽尾村 恒儀
村内の産神なり、土人の話に當社は、青鳥判官藤原恒儀の靈を祀る所なり、恒儀は天長六年九月廿日卒せし人なり、今隣村石橋村の内、字内青鳥と唱ふる地に、恒儀の住せし城蹟といふものあり、享保年中當の神官を附んとて、京都吉田家へ請しに、恒儀は力ある人にて、相撲のことにつき、清原熊鷹と云るものを撲殺せしにより、勅勘の身となりし由、王政玉と云書にも見えたれば、位階は進めがたし、是まで號をつねきと唱へ来れど、この後はこふきと稱すべしといひしよし改號せりと、按に王政玉と云書名うたがはし、又恒儀のことも他の書に所見なければ、つまびらかならず、姑く傳るままを記せり、
                                                              『新編武蔵風土記稿』より引用

             
                                                             羽尾神社 参道
 羽尾神社は比企丘陵の尾根の微高地先端に建てられており、一の鳥居から決して高くはない2つの石段を登ると社殿が見えてくる。この羽尾神社は今でこそ社として鎮座しているが中世には羽尾館、つまり城的機能を持つ館があったのではないかと言われている。、
 現地を訪れると確かに神社背後にわずかに土塁や空堀らしい跡が確認でき、台地先端を掘り切っているように見える。ただはっきりとした明確な遺構とは言えないことも確かで、神社の建立・改築の際に相当手が入っている可能性もある。
             
                                    拝  殿
 
        拝殿の額には「鎮護宮」と書かれている。                  本 殿
 ところで羽尾の「羽」は羽生の地名の由来とと同じく「埴輪」の「埴」、つまり、土師族出身の移住民がこの羽尾地方に住んできたことをこの地名は意味するのではないだろうか。土師氏は土器を製作する集団を土師部といい、ハゼ、ハニシとも称していた。この滑川町を含む比企地方の地名「比企」は日置が語源で、日置部(ひおきべ)という太陽祭祀 ...と関係するという説が有力で、この日置部は太陽祭祀を司り、暦に精通している。暦の精通は、当初は豊漁に通じ、農耕の発展で豊作に通じて、祭事の中心になる。つまり、日置部は、一部をシャーマンに残し、祭事の道具の埴輪や土偶に関わる土師氏になっているという。
            
                                                           社殿からの一風景
 この日置部集団は太陽を祀る祭祀集団であり、測量をする と共に、また、製鉄や土器製作の新しい方法を身につけた技術集団である。
 6世紀後半から7世紀にかけて、桜山(東松山市)、五厘沼(滑川町)、和名(吉見町)の埴輪窯、須恵器窯で、須恵器が生産がはじまっており、8世紀になると、南比企丘陵-鳩山町を中心に、嵐山町、玉川村の一部に多くの須恵器窯がつくられて、須恵器と瓦の生産がさかんに行われるようになった。このことはある高度の技術者集団の移住が考えられる。
                       
 
 また羽尾神社の祭神である藤原恒儀は滑川村誌 民俗編によると、この人物は大麦の穂で目を突いて、片目になってしまったことから、羽尾地区では大麦は禁忌作物であり、また恒儀にまつわる片目の伝承があるという。また武蔵国郡村誌の比企郡羽尾村によれば、羽尾村の琴平社(現在は羽尾神社に合祀か?)の祭神は金山彦命だった。金山彦命は金属精錬との関わりが深い神なので、羽尾地区の片目伝承との関連性が興味深い。
 つまり藤原恒儀はこの地域の古代鍛冶集団の長であった可能性が非常に高いのではなかろうか。



参考資料 「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「滑川ふるさと散歩道HP」等
    

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奈良梨八和田神社

  奈良梨宿(ならなしじゅく)は、川越・児玉往還にあった宿場で、現在の比企郡小川町大字奈良梨の奈良梨交差点周辺が該当する。この地はかつての鎌倉街道上道の拠点として、戦国時代には平時に馬3頭、戦時に馬10頭を置く伝馬宿であった。天正10年12月9日の北条家伝馬掟には、奈良梨に対して、西上州の通路にして伝馬を高見及び菅谷まで綱立すること、一日につき平時は馬3匹、戦時には馬10匹を備えて置く。それぞれ公用荷物に限り無賃で輸送すること、それ以外の荷物は一里一銭の公定駄賃を取るように指示している。
 戦国時代の後北条氏は内政に優れた大名として知られていて、早雲以来、直轄領では日本史上最も低いと言われる四公六民の税制をひき、代替わりの際には大掛かりな検地を行うことで増減収を直に把握し、段階的にではあるが在地の国人に税調を託さずに中間搾取を排し、また飢饉の際には減税を施すといった公正な民政により、安定した領国経営を実現した。伝馬制も同様に内政を得意とする後北条氏らしく細やかな規定だ。これらの事柄からここ奈良梨は戦国時代には伝馬駅宿に定められ、宿が形成されていたことを知ることができる。
所在地   埼玉県比企郡小川町奈良梨939
御祭神   建御名方命(推定)
社  挌   旧村社
例  祭   不明

      
 奈良梨八和田神社は埼玉県道11号熊谷小川秩父線と同県道296号菅谷寄居線が交わる奈良梨交差点の北側に奈良梨八和田神社、旧名諏訪神社は鎮座している。埼玉県道296号線沿いに嘗て鎌倉街道上道はあったと考えられ、この奈良梨も重要な拠点の一つであったことは上記後北条氏の伝馬掟でも判明している。八和田と書いて「やわた」と読むが、決して八幡系の社ではなく、諏訪神社系統のようだ。
         
 一の鳥居から二の鳥居や社叢までの長い参道。ちなみに一の鳥居は二つの県道が交わる『奈良梨』交差点沿いにあり、両県道の交通量の多さから今回撮影ができなかった。
         
                         二の鳥居正面参道

  二の鳥居の手前で右側には厳島社とその周りには水堀のような池があるが、農業用の溜池だろうか。
           
                             拝    殿
 八和田(やわた)とは、かつてのこの付近の村名だった比企郡八和田村に由来する。元々諏訪神社といい、明治23年に上横田・下横田・中爪・奈良梨・能増・高見・伊勢根・高谷の八か村が合併して八和田村を作ったので、この諏訪神社もその村社として、幾つかの神社を合祀し、村社として、現在の社名へと改称されたという。
 
              神楽殿                           本    殿 
                       
  昔、信州諏訪の大祝諏訪小太郎頼水が、東国に下る折、「神木の刺さった所を住居にせよ」との氏神(諏訪神社)の託宣によって、神木の枝をちぎって東方に投げたところ、奈良梨に飛来して逆さに突き刺さり、そのまま根を下ろして成長したという。この大杉は水を呼ぶといわれ、奈良梨の耕地は余程の日照りが続いても田植えの水に困ることがないという言い伝えがあり、氏子の人たちの信仰を集めている。
 当地では「蛇はお諏訪様の使いである」との言い伝えがあり、特に白蛇を見ると吉兆であるといわれている。現に神木の割れ目から白蛇が顔を出した時には氏子中が大騒ぎになったという。また、当地の境内にある弁天池と普賢寺は堀でつながり、弁天池に棲む白蛇と普賢寺の本尊である普賢菩薩が夜な夜な行き来をするという興味深い伝説も残されている。
                                               「埼玉の神社」埼玉県神社庁
                  
                           八和田神社の大杉

  高さ約30m、目通り約5.7mの大スギ。赤茶けた幹が威容を誇る。周辺は田園地帯のため遠くからもよく目立つ。樹齢は約800年以上と推定され、小川町の天然記念物に指定されている。

 また八和田神社の鰐口は、延徳・弘治の銘を刻したもので、もと高坂村常安寺に延徳3年(1491)大成と永順に寄り懸けられたが、その後、弘治3年(1557)男衾郡鉢形錦入の新井土佐守によって寄進されたものだといわれる。大きさは、面の径34.6センチ、胴の厚さ18.5センチを測り、鰐口としては大型である。
           
 この八和田神社の鰐口は、町指定文化財(工芸品)として小川町の指定を受けている。

 

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菅沼天神社

弓で的を射る弓神事は、現在も各地で行われているが、形式的には、主として乗馬した射手が馬を馳せながら射る流鏑馬、その場で射る歩射の二種類であろう。民間の弓神事として行われるのは、ほとんどが後者のほうであり、地域によりさまざまな言い方がある。
 
関東地方では一般的にオビシャと称し、埼玉、千葉、茨城各県の利根川流域の各村落で行われる春の行事であり、特にこの3県において濃密に分布している。漢字では、「奉射」「奉謝」「奉社」「備射」「備社」「毘舎」「毘者」「毘沙」「御歩射」等いろいろ言われている。関東地方で現在も行われている弓神事は、新暦の1月あるいは2月に集中していて、元来は弓を射てその年1年の作物の作柄など、神意を占う予祝行事であったと思われる。
 
深谷市菅沼地区に鎮座する天神社にもオビシャ神事の一形態である「的場の儀」が例年初午の日である225日に行われている。
所在地   埼玉県深谷市菅沼480
御祭神   菅原道真
社 挌   不明
例 祭   2月25日「的場の儀」を含む春の例大祭

     
 菅沼天神社は国道140号線を熊谷警察署から旧川本町方向に進み、知形神社がある植松橋の下流約1kmの荒川の段丘崖上に鎮座している。国道140号から左折した先に鎮座しているが、手作りの看板があるので見落とさなければこの小さな社に着くことができる。社叢に接して社務所があり、そこには駐車スペースがあるのでそこに停めて参拝を行った。

 菅沼天神社正面参道。この参道を真っ直ぐ進む先に天神社は鎮座しているが、社殿は南側、つまり進行方向に対して横を向いている為、鳥居からは左側90度曲がって進むことになる。その曲がった先に天神社社殿が存在する。
              
 参道を進むと左側に「的場の儀」の案内板と石像がある。「的場の儀」は深谷市指定無形文化財。

  天神社の「的場の儀」を始め、関東3県(千葉、茨城、埼玉)に多く民間伝承されている「オビシャ」神事は、淵源を辿ると「射日神話」にたどり着く。菅沼天神社のように白い紙に同心円を描いた一般的な的もあるが、中には、墨で「鬼」の宇を書いた的や、三本足の烏や兎などを描いた的もある。古来、中国や朝鮮半島、日本では、三本足の烏は太陽を、兎や蛙は月を象徴する動物として描かれてきた。この三本足の烏は八咫烏とも言われ、日本神話において神武東征の際、高皇産霊尊 によって神武天皇のもとに遣わされ、熊野国から大和国への道案内をしたとされる神聖な烏であり、賀茂氏が持っていた「神の使いとしての鳥」の信仰と、中国の「太陽の霊鳥」が習合したものともされる。このためオビシャは、「日射」すなわち象徴的に太陽を射て、新たな年の活性化を図る行事であったのではないか、とする考え方もある。
 
                                            
                    天神社社殿
『隋書』倭国伝の一節にこのような記述がある。

 
毎至正月一日、必射戲飲酒、其餘節略與華同。好棋博、握槊、樗蒲之戲。氣候温暖、草木冬青、土地膏腴、水多陸少。以小環挂鸕○項、令入水捕魚、日得百餘頭。俗無盤俎、藉以檞葉、食用手餔之。性質直、有雅風。女多男少、婚嫁不取同姓、男女相悅者即為婚。婦入夫家、必先跨犬、乃與夫相見。婦人不淫妒。

(現代語訳  
毎回、正月一日になれば、必ず射撃競技や飲酒をする、その他の節句はほぼ中華と同じである。囲碁、握槊、樗蒲(さいころ)の競技を好む。気候は温暖、草木は冬も青く、土地は柔らかくて肥えており、水辺が多く陸地は少ない。小さな輪を河鵜の首に掛けて、水中で魚を捕らせ、日に百匹は得る。俗では盆や膳はなく、檞葉を利用し、食べるときは手を用いて匙(さじ)のように使う。性質は素直、雅風である。女が多く男は少ない、婚姻は同姓を取らず、男女が愛し合えば、すなわち結婚である。妻は夫の家に入り、必ず先に犬を跨ぎ、夫と相見える。婦人は淫行や嫉妬をしない。)

 
ここで書かれている「射戯」とはオビシャ神事ではないかという人もある。とすると、このオビシャ神事の淵源は考えられている以上に太昔に遡るかもしれない。

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