古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

桜沢八幡大神社

 寄居町は埼玉県の北西部、都心から70km圏に位置している。荒川の中流域で長瀞のすぐ下流に位置し、 その左岸に街が発達する。古く秩父往還の街道筋にあり、秩父の山間部と荒川下流の平野部とを結ぶ物資輸送の拠点であり、また宿場町として栄えた。
 街の対岸にはかつて鉢形城があり、古くから地の利を生かした要害の地でもあり、城下町であった。 現在でも国道140号・国道254号及びJR八高線・東武東上線・秩父鉄道が接続する交通の要衝地となっている。この国道の合流地点に桜沢八幡大神社は鎮座している。

所在地   埼玉県大里郡寄居町桜沢3827
御祭神   天照大神  誉田別命
社  挌   不詳
例  祭   10月15日


      
 桜沢八幡大神社は寄居警察署の東側に位置し、国道140号線、254号線、県道62号線の合流地点傍に鎮座している。背後に戦国時代の山城があったという鐘撞堂山を配し、その山脈の稜線上に社が形成されている。ちなみに鐘撞堂山には名前の由来があって、戦国時代に寄居鉢形城の出城があったところで、敵の来襲を知らせるため鐘を撞いたことから鐘撞堂山と名付けられたと言われている。
 桜沢八幡大神社の社殿に通じる参道の全ては石段であり、また社殿も神楽殿も境内も綺麗に整備されている。駐車場は一の鳥居のすぐ右側に比較的広い駐車場もあり、そこに駐車して参拝を行った。
         
               国道254号線沿線上にある桜沢八幡大神社の鳥居
         
         
                            拝   殿
         
                            本   殿
 桜沢八幡大神社の祭神は品陀和気命(応神天皇)で、新編武蔵風土記稿による八幡大神社の由緒はこのように記述されている。

(桜澤村)八幡社
 村の鎮守なり、山崎八幡と云、猪俣党山崎三郎左衛門尉・小野光氏の霊を祀れり。由て此神号ありと近郷山崎村は此光氏の奮蹟にや、福泉寺の持。                 
                                               新編武蔵風土記稿より引用


 
拝殿の手前にある神楽殿。神楽殿は石段下に配置          境内社  詳細不明 
 され、拝殿に正面を向いているように見える。

           

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宗像神社

 九州福岡県宗像市に鎮座している宗像大社は式内社(名神大社)で、旧 社格は 官幣大社。日本各地に七千余ある 宗像神社、厳島神社、および 宗像三女神を祀る神社の総本社である。全国の弁天様の総本宮とも言われ、また別名裏伊勢と称されている。この社は航海の安全を祈願する神社で、主として瀬戸内海沿岸や近畿地方の海沿いの地域に多く存在する。
 宗像大社は、「鎮護国家・皇室守護および後悔の神として朝廷からも崇敬されたといい、庶民からも漁業・航海・交通の神として信仰を集めてきた。全国の厳島神社も宗像三女を祀っているという。なお、宗像系の神社は、5番目に多いとされている。
 ところで埼玉県は出雲系の社が多い県だが、この寄居町藤田地区にもこの宗像神社が鎮座している。(他にも大宮氷川神社の境内社、また大宮土呂地区等に宗像神社は存在する) 
 この寄居町の宗像神社は、奈良時代の大宝元年(701年)に荒川の氾濫をしずめ、船や筏の交通を護るため、九州筑前(福岡県宗像市)の宗像大社のご分霊を移し祀ったものであるとのことだ。考えてみると地形的にも遠い福岡県宗像市と埼玉県寄居町が、神社で結びついている。なんと不思議な縁ではないだろうか。

所在地    埼玉県大里郡寄居町藤田274
御祭神    多記理比売命 狭依毘賣命 多記都比売命(宗像3女神)
社  挌    旧村社
神  徳    国家鎮護、交通安全、醸造守護、五穀豊穣、金運・財運の
         隆昌、芸能・稽古事成就、立身出世、長寿延命、災難除け、他
例  祭    春祭 4月3日、秋例祭 11月3日

      
 宗像神社は埼玉県寄居町藤田地区に鎮座する。埼玉県道30号飯能寄居線を国道140号方面に向かい、左手に寄居町立寄居小学校を過ぎてから国道手前の細い十字路を左折し道なりに真っ直ぐ進む。2,3分進むと八高線の踏切があり、その先左側に宗像神社は鎮座している。
 駐車場は神社正面入り口、鳥居の向かい側の公会堂と、その隣にある数台駐車できるスペースがあり今回は集会所の駐車場に停め参拝を行った。
      
      
宗像神社
 宗像神社は、奈良時代文武天皇の御代大宝元年(701年)に荒川の氾濫をしずめ、舟や筏の交通を護るために、九州筑前(福岡県宗像郡)の宗像大社の御分霊を移し祀ったものです。
 宗像大社は、文永弘安の役(蒙古襲来)など北九州の護りや海上の安全に神威を輝かしていました。この地に御分霊を移してからは、荒川の流れが定まり、人々の崇敬を篤くしました。藤田五郎政行が花園城主(平安時代)として北武蔵一帯を治めるにあたり、ここを祈願所とし、北条氏もまた祈願所にしていました。
 春祭は4月3日、秋の例祭は11月3日で、当日は江戸時代から伝わる山車7台を引き揃え、神幸の祭事がにぎやかに行われます。なお、拝殿には寄居町出身の名彫刻家、後藤功祐の彫った市神様社殿があり、町の指定文化財として保存されています。
 祭神は、天照大神の御子である多紀理比賣命(たぎりひめのみこと)、狭依比賣命(きよりひめのみこと)、多岐津比賣命(たぎつひめのみこと)です。
 寄居町・埼玉県
                                                      案内板から引用

 この荒川はその名称通り、古来から「荒い川」であったという。その為か宗像神社は荒川のすぐ北側に鎮座している。宗像神社の由緒等を記した案内板とおり、「荒川の氾濫をしずめ」、「舟や筏の交通を護るため」、この地に海上安全の神として有名であったこの社の御分霊を移し祀ったということは道理であるし納得できることだ。
         
                            拝   殿
           
                         拝殿の右側手前にある町指定文化財,旧市神様社殿の案内板
旧市神様社殿
  寄居町出身の彫刻家後藤功祐によって明治初期に作られたとされる、高さ約1.2メートルの社殿です。
 正面の屋根が曲線形に手前に延びて向拝(ひさし)となる「流造」と呼ばれる構造を持ち、細密な彫刻が全体に施されています。
 旧寄居町市街地の開拓当初には、市神様としてまつられ、商業の守り神として多くの人の信仰を集めていましたが、明治四十二年に小社合祀を行った際、ここに移され、現在は拝殿の中に保管されています。
 平成9年1月   寄居町教育委員会
                                                                                                                     案内板から引用
         
                          宗像神社 本殿
 宗像神社の創建の由来として意味深いことを記述しているホームページがある。それによると寄居の中心を流れる荒川は、大雨の後には必ずといってよいほど氾濫し、流域に住む人々は、毎年のように、洪水の被害を被っていたといわれて、口伝によればそうした荒川を鎮め、舟の運行の安全を祈り、人皇第42代文武天皇の大宝元年(701年)に宗像大社(福岡県:沖津宮、中津宮、辺津宮の三宮の総称)のご分霊を祀ったものと伝わっている。
 しかし、大宝元年(701年)以降、資料等で宗像神社という名は、明治の神仏分離まではないようで、かわりに「聖天宮」の下社として繁栄してきたという記録が残っている。
 
 聖天宮は、弘仁十年(819年)に弘法大師が修行中に寄居を訪れ、象ヶ鼻の荒川岸壁の岩を見て、大海を渡る巨像の姿を思わせるということから、そこを霊地とし自ら聖天像を彫り、その後、その地に住む人々が、祠堂を設けてお祀りしたことに始まったと伝わっている。聖天宮は、男体を祀る上宮と、女体を祀る下宮があり、上宮が象ヶ鼻に、下宮が宗像神社と配祀されていた。聖天宮は、武将の信仰も厚く藤原基経、源頼義、源義家が戦勝を祈願したといわれ、また、鉢形城主の北条氏邦も、聖天宮を城の鎮守としていて、その後徳川将軍家からも代々御朱印をうけ、二十石を除地として与えられていた。そういった聖天宮の繁栄から、宗像神社という名よりも、聖天宮下宮としての記録が多く残っているものと考えられている。ただ、聖天宮の信仰が盛んであった時代も宗像大社になぞらえ、下宮を辺津宮、下宮にある弁天社(現在の摂社にあたる厳島神社)を中津宮、上宮を沖津宮と呼んでいたようで、宗像神社としての信仰がそういった形で残っていたようだ。
 埼玉県、特に秩父地方を包括するこの北埼玉地方には古来より「聖天信仰」が深く土着、信仰されている何よりの証拠であろう。

 
また社境内には神池があり、弁天池と呼ばれている。神池の中に島があり、厳島神社が祀られている。現在は御祭神は宗像神社と同じだが、江戸時代までは弁天社としてのお参りが絶えなかったと伝えられている。
 これは宗像神社の主祭神の狭依毘賣命は、又の御名を市寸島比売命と言い、弁財天と同神と考えられていることからもそのように推察されたようだ。


        拝殿の左側にある御興殿            社殿左側で、道路沿いにある八坂神社
          
                境内社である長男神社・丹生神社・罔象神社等

     社殿右側にある弁天池と厳島神社         厳島神社の隣、高台に鎮座する境内社
                                      金刀比羅宮(左)、琴平神社(右)

 ところで宗像神社の例大祭は、毎年春と秋に行なわれる。春季例大祭は、4月3日に神社で祭典が行われ、祭典のみで鳳輦、山車の渡御等は行わない。秋季例大祭は11月第1日曜日とその前日の土曜日に行われる。近年の取り決めにて渡御、還御は順次の通り行われる。年番町は、本町、中町、栄町、武町の四町内が交替で行い、付祭りの際は、本町から武町の間が歩行者天国となり、各町山車は、その中で曳きまわしを行う、大変盛大なお祭りのようである。筆者は残念ながら実見したことがないので、今度ゆっくり体現してみたいものだ。

         
                宗像神社の隣を通り過ぎる八高線を偶然撮影

 宗像神社は大宝元年創建という歴史ある社はもちろんのこと、現在でも五穀豊穣、家内安全、交通安全の神として、また寄居の鎮守として、地元の人々から信仰されている。大切にしたい日本文化の財産がここにも存在する。



                                                                                                                         

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八幡・若宮八幡神社

所在地  埼玉県熊谷市押切1056
主祭神  八幡神社 誉田別命。 若宮八幡神社 仁徳天皇
社  挌  旧村社
例  祭  新年祭 2月19日、大祭 10月15日、感謝祭 12月1日



 八幡・若宮八幡神社は飯玉神社から埼玉県道47号深谷・東松山線を北上し、荒川に架かる押切橋南詰め下に鎮座している。但し押切橋から直接社に通じる道はなく、手前にある押切橋交差点を右折し遠回りに荒川沿いに回り込むとこの社に到着する。県道からの道は比較的民家が密集し、また道幅が狭いので運転には注意が必要だ。
 駐車場は神社手前に駐車スペースがあり、そこに駐車し参拝を行った。


八幡・若宮八幡神社
 所在地 熊谷市押切
 村社八幡・若宮八幡神社は明治初年まで八幡宮と称していたが、明治5年上押切御正山若宮坊東陽寺の氏神若宮八幡社の御祭神仁徳天皇を移転合祀し、同時に現社名にされた。
 祭神は誉田別命。御神体は明治初年まで誉田別命の乗馬の像だったが、合祀の際これを徹し御幣とした。なお、大正4年、大嘗祭記念として鏡を御神体として奉斎した。末社には主神の神明宮のほか一社ある。
 本社の創建年代は不詳である。当社は文化6年(1809)、同7年(1810)、文政10年(1827)と度々の大洪水で流失したため、用水堀のほとり(元八幡)に仮本殿をつくり、文政12年(1829)現在地に遷座した。
 新年祭は2月19日、感謝祭は12月1日、大祭は10月15日で、大祭当日は「ささら獅子舞」が奉納される。

                   拝   殿

                   本   殿
本殿は凝った彫刻の施され、大変綺麗なものだったが玉垣の外側からの撮影は今回断念した。
 
            境内社 神明宮                                         神明宮の右隣にある末社

 八幡・若宮八幡神社は決して規模的には大きな神社ではないが、整備や清掃が行き届いた綺麗な神社だ。短い参拝時間であったが神社散策を楽しむことができた。ただ神社の西側には県道47号押切橋の高架橋がすぐ目の前にあり、車の騒音もよく響いた。社自体の風情は良かっただけに、少々残念な気分になってしまった。

 この「若宮」という名称だが、興味深い見解がある。民俗学の研究によると「若宮」とは非業の死をとげた霊をまつったもので、平安後期以後の御霊信仰とともに広まったと、柳田国男以来いはれているそうだ。
 深谷市上手計の二柱神社の近くと思われる若宮社について「大里郡神社誌」ではこのような記述がありそれを紹介したい。

 「別当大沼院」は、深谷城主上杉公の家臣 大沼弾正忠繁の祈願所にて、恒例に依り同城へ年賀登城の際、酒宴の席上 礼を失し、弾正の怒に触れ、恐れて城内を逃出したるも、大雪の為め歩行 意の如くならずして因り居たるに、殿は乗馬にて追跡し、遂に上手計村 栗田家の門松の蔭にて手打になりて斃れければ、遺骸を同地先へ埋葬せるに、院の妻また自害して失せけり。里人これを憐みて、両人をその地に若宮社として奉斎せりといふ。今に至るも、栗田家一族の年中行事の一として、重く祭事を執行せり。
                                                  (大里郡神社誌より引用)

 全国に3万社あると言われる八幡神社が御霊信仰の流れを汲むものであるという説もあり、歴史の裏を垣間見た思いがした。

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渡唐神社

所在地  埼玉県熊谷市三本717
主祭神  少彦名命
社  挌  旧村社
例  祭  不詳


                     
 渡唐神社は飯玉神社から埼玉県道47号深谷東松山線を北上し、押切橋交差点を右折する。埼玉県道81号熊谷寄居線に変わり、この道を真っ直ぐ進むと2,3分位で右側にこんもりとした林の中に社殿が存在する。道は一本道で一面畑の中に鎮座するので分かりやすい。

        鳥居の横にある社号石標          鳥居から境内を撮影。社殿は横を向いている。
               
                              拝   殿
 渡唐神社の境内社には駒形明神社がある。社伝によると、平安時代末期から鎌倉時代初期大里郡熊谷郷出身の武将、熊谷次郎直実の愛馬、権太栗毛が一の谷の合戦後この地にて息が絶え、それを悼み直実が駒形明神を祀った場所と言われている由来をもつ。
 ちなみにこの権太栗毛を含め当時の日本の馬は西洋のようには調教されておらず、また去勢されることもなかった為気性が荒く、すぐ人に噛みつく癖があったという。
 
                           境内社駒形明神社 

           
             末社群  左から 厳島神社、八坂神社、順海神社、三峯神社

 渡唐神社の祭神は少彦名命でスクナヒコネ、スクナヒコ、スクナミカミともいい、多くの古代文献にみえる広い信仰圏をもった神である。またこの神は、後世の倭姫命の小虫生成説や一寸法師などの説話の祖型ともみられる。
 常世国(とこよのくに)から石(いわ)に示現する神と歌われ、粟茎(あわがら)に弾(はじ)かれて淡島(あわしま)より常世国に至ったとも語られる。またガガイモの舟に乗り、蛾(が)あるいは鷦鷯(さざき)(ミソサザイ)の皮を着て海上を出雲(いずも)の美保(みほ)崎に寄り着いたと説かれるので、この神は常世国より去来する小さ子神であったことがわかる。さらにこの神は、多くの場合、国造りの神として大己貴神、またの名を大国主命と並称されるが、その場合は種に関連し、農耕の技術や労働は大己貴神単独の行動として語られるため、その本質は粟作以来の穀霊であったと考えるべきであろう。
 不思議とこの神の出自は、古事記において神産巣日神の子とされ、日本書紀では高皇産霊神の子とであり、いってみれば高天原生まれのエリートの神である。ところが生まれは高天原でも実際に住んでいるのはなぜか常世の国であり、あくまでも常世の国の住人としてこの世にやってきて、その優れた能力を発揮し、そして最後は常世の国に帰っていく。少彦名命は出生としては高天原の直系の神として主流派に属するのだが、その能力や機能という個性の面において国つ神の大己貴神に協力して国造りを協力している点で非主流の系統に属しているということになる。

 さて少彦名命は国造りの立役者でありながら前段と何の脈略もなしにいきなり登場する。『古事記』によれば、大国主の国土造成に際し、天乃羅摩船に乗って波間より来訪し、大己貴大神の命によって国造りに参加したという。
 
 故、大國主神、坐出雲之御大之御前時、自波穗、乘天之羅摩船而、內剥鵝皮剥、爲衣服、有歸來神。爾雖問其名不答。且雖問所從之諸神、皆白不知。爾多邇具久白言、自多下四字以音此者久延毘古必知之、卽召久延毘古問時、答白此者神產巢日神之御子、少名毘古那神。自毘下三字以音故爾白上於神產巢日御祖命者、答告、此者實我子也。於子之中、自我手俣久岐斯子也。自久下三字以音故、與汝葦原色許男命、爲兄弟而、作堅其國。故、自爾大穴牟遲與少名毘古那、二柱神相並、作堅此國。然後者、其少名毘古那神者、度于常世國也。故、顯白其少名毘古那神、所謂久延毘古者、於今者山田之曾富騰者也。此神者、足雖不行、盡知天下之事神也。
口語訳
(この大国主神が出雲の御大の崎にいたとき、波間から、天の羅摩の船に乗り、鵝の皮を剥いで着物にしたものを着て、やって来た神があった。その名を尋ねたが答えない。お伴の神々に尋ねても、みな「知らない」と言う。だが多邇具久という神が、「これは久延毘古ならきっと知っているでしょう」と言った。そこで久延毘古を召して尋ねたところ、「これは神産巣日神の御子で、少名毘古那神という神です」と答えた。そこで神産巣日命に報告し、この神を見せたところ、「これは確かに私の子だ。私の子の中で、指の間から漏れた子だ。だからあなた、葦原色許男命はこの子と兄弟になって、この国を作り固めなさい」と言った。そこでこの後、大穴牟遲命と少名毘古那神の二柱は相並んで、この国を作り固めた。その後、少名毘古那神は常世の国に行ってしまった。この少名毘古那神の名を明らかにした、いわゆる久延毘古は、今は山田の曾富騰(そおど=かかし)という者である。この神は、歩くことはできないけれども、世の中のことをすべて知っている神だという。)

 少彦名命は常世の国から船を使用して出雲の地に来たという。ここでの最大のポイントは常世の国は何処か、ということだ。ウィキペディアには常世の国についてこのような記述をしている。

常世国
 常世の国(とこよのくに)は、古代日本で信仰された、海の彼方にあるとされる異世界である。一種の理想郷として観想され、永久不変や不老不死、若返りなどと結び付けられた、日本神話の他界観をあらわす代表的な概念で、古事記、日本書紀、万葉集、風土記などの記述にその顕れがある。
 こうした「海のはるか彼方の理想郷」は、沖縄における海の彼方の他界「ニライカナイ」にも通じる。また、常世の国は沖縄や台湾、あるいは済州島などともいわれている。(中略)
 常世の国へ至るためには海の波を越えて行かなければならず、海神ワタツミの神の宮も常世の国にあるとされていることから、古代の観念として、常世の国と海原は分かちがたく結びついていることは明らかである。『万葉集』の歌には、常世の浪の重浪寄する国(「常世之浪重浪歸國」)という常套句があり、海岸に寄せる波は常世の国へと直結している地続き(海続き)の世界ということでもある。
 
しかしながら、常世の国には、ただ単に「海の彼方の世界」というだけでなく、例えば「死後の世界」、「神仙境」、永遠の生命をもたらす「不老不死の世界」、あるいは「穀霊の故郷」など様々な信仰が重層的に見て取れる。(中略)


 つまり、常世の国とは現世的な海の彼方の一地域の他に、「死後の世界」、「不老不死の世界」という観念的世界観も含まれるという。ただここではこの「死後の世界」、「不老不死の世界」という観念的世界観についての意見は述べない。何故ならこのような神の領域にも似た主張はこの取るに足らない一平凡人が話す内容ではないからだ。
 現世的な海の彼方の一地域として考えた場合、この常世の国は記紀において少彦名命、御毛沼命、多遲麻毛理が、そして万葉集や日本書紀において浦島子が常世の国に渡った、との記事が存在する。これらの人物の内容の説明は長くなるのでここではあえて紹介はしないが、この4人には全て共通する項目がある。その共通する項目とはこの4人は海岸線の近くに活動拠点を有している。という点だ。
 少彦名命は上記にて説明した通りだが、御毛沼命は神武天皇の兄で古事記において波の穂を跳みて常世の国に渡ったとある。多遲麻毛理は垂仁天皇の時代、不老不死の薬である時じくの香の木の実(ときじくのかくのこのみ)を常世の国に遣わした、との記事がある。この時じくの香の木の実とは時を定めずということから「いつでも香りを放つ木の実」を指すと解され、「今の橘なり」と言われる。橘は葉が常緑であることから、「永遠性・永続性」の象徴と考えられ、その橘という木は西日本、特に和歌山県、三重県、山口県、四国、九州の海岸に近い山地にまれに自生するという。浦島子は浦島太郎の別名。皆さんもご存じの人物で、ここから考えられることは、この4人は海洋民ではなかったか、ということだ。

 この渡唐神社で上記のような説明を長々としたか、不思議に思う方も多いと思うが実は理由がある。この社の名前である「渡唐」といい、所在地である「三本」といい、全て海に関する地名、神社名なのだ。

渡部 ワタナベ 海(バタ、ハタ)の転訛で海(ワタ)の佳字に渡を用いる。
藤   フヂ  葛(ふぢ)は、葛(つつら、つづら)、管羅(つつら、くだら)の転訛にて、百済(くだら)を指す。山城国葛野郡(かどの)は韓人秦氏の本拠地である。葛野川(かどのがわ)は別名桂川(かつらがわ)を称す。桂は葛野(かつらの)の転訛なり。葛野(かどの、かつらの)は葛野(ふぢの)とも称す。
三   ミ   三は未(み)の佳字にて、羊(ひつじ)族の集落という。
下  モト  浦の意味にて海洋民を称す。佳字に元、本を用いる


  この地名や苗字等が過去の歴史にすぐに直結することはない。ないどころかそれで全てを証明することは危険である。地名の変化、変遷は一千有余年という長い歴史には当然あることだし、自然災害や人的災害による一族の移動もある。またそれを冷静に証明する信憑性のある史書等の存在も欠かせない。だからといって否定する事もまたナンセンスである。残念ながら今回この熊谷市三本地域には古来から続く「渡部、渡辺、渡」姓の史書、文章等の発見はなかったが、地道に時間をかけてじっくり調べていきたい。

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飯玉神社

 飯玉神社は主として埼玉県北部に見られる神社で、祭神は豊受比賣命であり、熊谷市千代地区にも飯玉神社が鎮座している。この神社には奇妙な伝承、伝説があり、この神社の南にある御池に棲む魚は片目という伝承がある。社前の池は、里唱御池(りしょうおいけ)といい、この池の魚類はすべて片目であると伝えられ大切に飼育されていたが、水量の少なくなった現在、魚類はあまり見られなくなったということらしい。ちなみに字である地名の千代は「ちよ」ではなく「せんだい」と読む。
 またこの千代地域の近隣である深谷市瀬山にかつて少間(さやま)池というのがあり、そこに棲む魚は片目だったという伝説もあり、両地域に何かしらの関連性も感じられる。
所在地  埼玉県熊谷市千代625
御祭神  豊受比賣命
社  挌  旧村社
例  祭  不詳

  飯玉神社は埼玉県道47号深谷東松山線を東松山方面に進み、延喜内式社田中神社を右手に見ながら道なりに真っ直ぐ進む。押切橋を越え、江南台地の上り斜面を進むと右側に飯玉神社鎮座する。押切橋交差点から大体2,3分位で到着する。駐車場は残念ながらないので神社の手前に右折する道路があり、そこに駐車し急ぎ参拝を行った。

 
            飯玉神社鳥居の横にある案内板

                   拝   殿 
 
  拝殿から左側裏手に鎮座する三峰神社        拝殿手前右側には八坂神社と天満神社
 
 社前の池は、里唱御池といい、片目の魚伝説があるというのだが.....見たところこれといった特徴のない普通の池だった。しかし不思議なことだが片目片足・巨人伝説(ダイダラボッチ)・「一つ目小僧」「片目の魚」「片葉の葦」「鎌倉権五郎」等の伝説、伝承は日本各地に点在している。そして同時にその地域には古代鍛冶集団の影を色濃く感じる。それは埼玉県も同様だ。埼玉県編纂の「埼玉県史」は埼玉県内での製鉄の起こりを平安時代以降とする説が大半を占めているが、公的な通説をそのまま鵜呑みにすることは危険だ。

 日本で鉄器が普及し始めたのは弥生時代中期中葉(紀元前後)から後半にかけて北部九州で、全国的に石器に取って代わり転換が完了するのは弥生時代後期後半(3世紀)と見られている。青銅器も含めてこの鉄器あるいは原材料はおそらく中国大陸から輸入されていたであろうが、鉄器を精製する技術まで輸入されたかどうかは解らない。しかし紀元前後朝鮮半島との交流は現代我々が考えているより盛んであったのではないか、と考えられる。というのも4世紀頃から朝鮮半島は群雄割拠の戦乱の時代に突入し、多くの人々が戦乱や飢饉をのがれて日本に渡ってきた。5世紀までに秦氏・漢氏の渡来が伝えられ、5世紀末から百済が高句麗に圧迫されると、さらにこの地域の人々が渡来してきたというが、結局戦乱による移住ができた基本因子、つまりその前代における平和時の交流が元々あったからこそ可能だったわけで、その交流が盛んであったからこそ朝鮮半島の人々はわざわざ海を渡って移住を考えたのではないだろうか。

 ところで3世紀陳寿が編纂した正史「三国志」の魏志韓伝には朝鮮半島南岸に倭地があったとの文面がある。

韓は帯方の南にあり東西は海を以って限りとして、南は倭と接し方四千里ばかりである。

 上記の文の南は倭と接し、の「接する」とは土地と土地が接し境界をなしている状態を云うのであるから朝鮮半島に倭地ありの「直接証言」文であろう。そうでないとすれば、東西は海を限りと同じように、南も海を限りにしていたと表現するしかない。

郡より倭に至るには海岸に循って水行し、韓国を歴(ヘ)て乍は南し乍は東し、その北岸狗邪韓国に到る七千余里

 
その北岸は倭の領地の北岸を示し、拘邪韓国はれっきとした倭国の一員であることを三国志の著者陳寿(233-297)は当時の常識として理解していてそれを正規の史書に記述していた。


 また三国志以前には「山海経」という中国最古の地理書がありそこにも古代倭国の記述が存在する。

蓋国在鉅燕南倭北。属燕。

 山海経は著者不詳の東周時代の地理書と言われている。ここでは地理的に直接燕国と倭国が接してはいないが、倭国が蓋国を通じて燕国に属している、という。つまり、ここで重要なことは山海経が記述された当時(東周 BC8世紀~BC3世紀)倭国は中国大陸と朝貢という名の交易を行っていた、ということだ。

 上記①、②の記述から、当時倭国は海を渡り、朝鮮半島の先進文化を取り入れる労力をしなくても半島南部に一拠点があり、そこから多くの文化、技術を吸収していたと思われる。鉄器製造の技術も三国志編纂当時というより、②の卑弥呼在命中の時代(248年と推定)までは確実に半島南岸に
倭地である狗邪韓国が存在していて、鉄器製造のノウハウを学んだのではないか、と考える。というのも、この朝鮮半島は鉄器製造一大拠点だったという。

 魏書東夷伝弁辰の条に
国、鉄を出す。韓、わい、倭 皆従がいて之を取る。・・・・また以て二郡に供給すとある。半島南部は「韓」と呼ばれていた。三韓の内、実力がある辰韓は外国から多数の製鉄専門家を集めて最も鉄治の技術が進んでいた。現在のところ、我が国で見つかった最も古い鉄器は、縄文時代晩期、つまり紀元前3~4世紀のもので、福岡県糸島郡二丈町の石崎曲り田遺跡の住居址から出土した板状鉄斧(鍛造品)の頭部だ。鉄器が稲作農耕の始まった時期から石器と共用されていたことは、稲作と鉄が大陸からほぼ同時に伝来したことを暗示するものではないだろうか。

 
 さて日本神話に登場する数多くの神々の中に製鉄・鍛冶の神が存在する。天目一箇神(あめのまひとつのかみ)と言い、『古語拾遺』によれば、天目一箇神は天津彦根命の子である。岩戸隠れの際に刀斧・鉄鐸を造った。大物主命を祀るときに作金者(かなだくみ、鍛冶)として料物を造った。また、崇神天皇のときに天目一箇神の子孫とイシコリドメの子孫が神鏡を再鋳造したとある。『日本書紀』の国譲りの段の第二の一書で、高皇産霊尊により天目一箇神が出雲の神々を祀るための作金者に指名されたとの記述がある。『古語拾遺』では、筑紫国・伊勢国の忌部氏の祖としており、フトダマとの関連も見られる。
 鍛冶の神であり、『古事記』の岩戸隠れの段で鍛冶をしていると見られる
天津麻羅と同神とも考えられる。神名の「目一箇」(まひとつ)は「一つ目」(片目)の意味であり、鍛冶が鉄の色でその温度をみるのに片目をつぶっていたことから、または片目を失明する鍛冶の職業病があったことからとされている。これは、天津麻羅の「マラ」が、片目を意味する「目占(めうら)」に由来することと共通している。

 また日本民俗で片目の動物としては、魚、特に鮒(フナ)の説話が多く語られる。
 宮崎県の都萬神社の御手洗の池の魚は木花開耶姫命の玉の紐が落ち、フナの眼を貫き、片目になったという。出羽金沢の厨川のカワハゼは後三年の役の時、鎌倉景政が傷ついた眼をここで洗ったので、そこに棲むカワハゼはすがめであるという。 
 武蔵野島の浄山寺門外の池に棲む片目の魚は延命地蔵が茶畑で傷ついた眼をそこで洗ったからであるという。阿波福村の池に棲む片目のフナ、コイその他は月輪兵部が池の主の大蛇の左眼を射たためであるという。伊予の山越では片身のフナを焼き、弘法大師に出すと、あわれに思い、小川に放つと、蘇生し片眼のフナとなり泳ぎ去ったという。名古屋の闇森の池の片眼フナは瘧の呪いになるという。備前、備中、備後、和泉の魚、越前、越中、越後、伊勢の魚鼈、摂津、越前、越中、越後のフナ、上野、美作のウナギ、甲斐、遠江のドジョウなどにも片眼のものがある。



 片眼の蛇の説話も少なくない。佐渡金北山の蛇は順徳天皇行幸以来片眼であり、近江では旱魃の時に水喧嘩を救うために片眼の娘が川の穴に飛び込んで蛇体と化して、その因縁で片眼のコイがいるという。その他羽後のカジカ、信濃のイモリ、美作のカモなどは片眼説話がある。



 高皇産霊神が天目一箇神を作金者に定めてから、御霊神社の祭神、御手洗の池の魚、池の主は片眼で、池の主は人との交渉が多かった大蛇であった。伊勢に一目龍、肥後に一目八幡があり、やまのかみ、雷神は片眼である。一目の妖怪は山城八瀬村の山鬼、土佐の山爺、有名なひとつ目小僧がある。



 その一方で、弥生時代に砂鉄精錬の技術が出雲を中心とする地帯で古来発達していて独自の製鉄方法はあったとする根強い意見もある。それは、製鉄炉の発見はないものの、次のような考古学的背景を重視するからである。
 1 弥生時代中期以降急速に石器は姿を消し、鉄器が全国に普及する。
 2 ドイツ、イギリスなど外国では鉄器の使用と製鉄は同時期である。
 3 弥生時代にガラス製作技術があり、1400~1500℃の高温度が得られていた。
 4 弥生時代後期2~3世紀)には大型銅鐸が鋳造され、東アジアで屈指の優れた冶金技術をもっていた。

 鉄鉱石の精錬は銅に比べ容易である。能率・歩留まりを厭わなければ瓦を焼く窯でも代用できる。箱型炉が開発・導入される以前の原初的な製鉄法であったろう。砂鉄精錬についても、後のたたら製鉄法に近い技術の開発をまたずとも、必要にせまられ出来上がりの質を問わない工法が用いられていたであろう。

 
埼玉県にはアラハバキを客人神として祀る氷川神社がさいたま市に鎮座しているが、出雲の斐川にあった杵築神社から移ったという由来や御祭神である素戔嗚命の関係から見ても出雲の流れを汲むといえる。また埼玉県の神社も出雲系の社が非常に多い特徴がある。 前述の記述でも述べたが、出雲は日本の古代製鉄発祥の地であり、氷川神社の祀官は鍛冶氏族である物部氏の流れを組む可能性が高いと言える。 ある説では氷川神社のある埼玉県は古代製鉄産業の中心地でもあるという。


 熊谷市の片隅の一社の伝承から非常に飛躍した話となってしまったが、古代鍛冶集団は確かに存在していて、武蔵国の重要な何かを解く一つの鍵となるかもしれない。





 
 


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