飯玉神社は主として埼玉県北部に見られる神社で、祭神は豊受比賣命であり、熊谷市千代地区にも飯玉神社が鎮座している。この神社には奇妙な伝承、伝説があり、この神社の南にある御池に棲む魚は片目という伝承がある。社前の池は、里唱御池(りしょうおいけ)といい、この池の魚類はすべて片目であると伝えられ大切に飼育されていたが、水量の少なくなった現在、魚類はあまり見られなくなったということらしい。ちなみに字である地名の千代は「ちよ」ではなく「せんだい」と読む。
またこの千代地域の近隣である深谷市瀬山にかつて少間(さやま)池というのがあり、そこに棲む魚は片目だったという伝説もあり、両地域に何かしらの関連性も感じられる。
所在地 埼玉県熊谷市千代625
御祭神 豊受比賣命
社 挌 旧村社
例 祭 不詳
飯玉神社は埼玉県道47号深谷東松山線を東松山方面に進み、延喜内式社田中神社を右手に見ながら道なりに真っ直ぐ進む。押切橋を越え、江南台地の上り斜面を進むと右側に飯玉神社鎮座する。押切橋交差点から大体2,3分位で到着する。駐車場は残念ながらないので神社の手前に右折する道路があり、そこに駐車し急ぎ参拝を行った。
飯玉神社鳥居の横にある案内板
拝 殿
拝殿から左側裏手に鎮座する三峰神社 拝殿手前右側には八坂神社と天満神社
社前の池は、里唱御池といい、片目の魚伝説があるというのだが.....見たところこれといった特徴のない普通の池だった。しかし不思議なことだが片目片足・巨人伝説(ダイダラボッチ)・「一つ目小僧」「片目の魚」「片葉の葦」「鎌倉権五郎」等の伝説、伝承は日本各地に点在している。そして同時にその地域には古代鍛冶集団の影を色濃く感じる。それは埼玉県も同様だ。埼玉県編纂の「埼玉県史」は埼玉県内での製鉄の起こりを平安時代以降とする説が大半を占めているが、公的な通説をそのまま鵜呑みにすることは危険だ。
日本で鉄器が普及し始めたのは弥生時代中期中葉(紀元前後)から後半にかけて北部九州で、全国的に石器に取って代わり転換が完了するのは弥生時代後期後半(3世紀)と見られている。青銅器も含めてこの鉄器あるいは原材料はおそらく中国大陸から輸入されていたであろうが、鉄器を精製する技術まで輸入されたかどうかは解らない。しかし紀元前後朝鮮半島との交流は現代我々が考えているより盛んであったのではないか、と考えられる。というのも4世紀頃から朝鮮半島は群雄割拠の戦乱の時代に突入し、多くの人々が戦乱や飢饉をのがれて日本に渡ってきた。5世紀までに秦氏・漢氏の渡来が伝えられ、5世紀末から百済が高句麗に圧迫されると、さらにこの地域の人々が渡来してきたというが、結局戦乱による移住ができた基本因子、つまりその前代における平和時の交流が元々あったからこそ可能だったわけで、その交流が盛んであったからこそ朝鮮半島の人々はわざわざ海を渡って移住を考えたのではないだろうか。
ところで3世紀陳寿が編纂した正史「三国志」の魏志韓伝には朝鮮半島南岸に倭地があったとの文面がある。
①韓は帯方の南にあり東西は海を以って限りとして、南は倭と接し方四千里ばかりである。
上記の文の南は倭と接し、の「接する」とは土地と土地が接し境界をなしている状態を云うのであるから朝鮮半島に倭地ありの「直接証言」文であろう。そうでないとすれば、東西は海を限りと同じように、南も海を限りにしていたと表現するしかない。
②郡より倭に至るには海岸に循って水行し、韓国を歴(ヘ)て乍は南し乍は東し、その北岸狗邪韓国に到る七千余里
その北岸は倭の領地の北岸を示し、拘邪韓国はれっきとした倭国の一員であることを三国志の著者陳寿(233-297)は当時の常識として理解していてそれを正規の史書に記述していた。
また三国志以前には「山海経」という中国最古の地理書がありそこにも古代倭国の記述が存在する。
③蓋国在鉅燕南倭北。倭属燕。
山海経は著者不詳の東周時代の地理書と言われている。ここでは地理的に直接燕国と倭国が接してはいないが、倭国が蓋国を通じて燕国に属している、という。つまり、ここで重要なことは山海経が記述された当時(東周 BC8世紀~BC3世紀)倭国は中国大陸と朝貢という名の交易を行っていた、ということだ。
上記①、②の記述から、当時倭国は海を渡り、朝鮮半島の先進文化を取り入れる労力をしなくても半島南部に一拠点があり、そこから多くの文化、技術を吸収していたと思われる。鉄器製造の技術も三国志編纂当時というより、②の卑弥呼在命中の時代(248年と推定)までは確実に半島南岸に倭地である狗邪韓国が存在していて、鉄器製造のノウハウを学んだのではないか、と考える。というのも、この朝鮮半島は鉄器製造一大拠点だったという。
魏書東夷伝弁辰の条に「国、鉄を出す。韓、わい、倭 皆従がいて之を取る。・・・・また以て二郡に供給す」とある。半島南部は「韓」と呼ばれていた。三韓の内、実力がある辰韓は外国から多数の製鉄専門家を集めて最も鉄治の技術が進んでいた。現在のところ、我が国で見つかった最も古い鉄器は、縄文時代晩期、つまり紀元前3~4世紀のもので、福岡県糸島郡二丈町の石崎曲り田遺跡の住居址から出土した板状鉄斧(鍛造品)の頭部だ。鉄器が稲作農耕の始まった時期から石器と共用されていたことは、稲作と鉄が大陸からほぼ同時に伝来したことを暗示するものではないだろうか。
さて日本神話に登場する数多くの神々の中に製鉄・鍛冶の神が存在する。天目一箇神(あめのまひとつのかみ)と言い、『古語拾遺』によれば、天目一箇神は天津彦根命の子である。岩戸隠れの際に刀斧・鉄鐸を造った。大物主命を祀るときに作金者(かなだくみ、鍛冶)として料物を造った。また、崇神天皇のときに天目一箇神の子孫とイシコリドメの子孫が神鏡を再鋳造したとある。『日本書紀』の国譲りの段の第二の一書で、高皇産霊尊により天目一箇神が出雲の神々を祀るための作金者に指名されたとの記述がある。『古語拾遺』では、筑紫国・伊勢国の忌部氏の祖としており、フトダマとの関連も見られる。
鍛冶の神であり、『古事記』の岩戸隠れの段で鍛冶をしていると見られる天津麻羅と同神とも考えられる。神名の「目一箇」(まひとつ)は「一つ目」(片目)の意味であり、鍛冶が鉄の色でその温度をみるのに片目をつぶっていたことから、または片目を失明する鍛冶の職業病があったことからとされている。これは、天津麻羅の「マラ」が、片目を意味する「目占(めうら)」に由来することと共通している。
また日本民俗で片目の動物としては、魚、特に鮒(フナ)の説話が多く語られる。
宮崎県の都萬神社の御手洗の池の魚は木花開耶姫命の玉の紐が落ち、フナの眼を貫き、片目になったという。出羽金沢の厨川のカワハゼは後三年の役の時、鎌倉景政が傷ついた眼をここで洗ったので、そこに棲むカワハゼはすがめであるという。
武蔵野島の浄山寺門外の池に棲む片目の魚は延命地蔵が茶畑で傷ついた眼をそこで洗ったからであるという。阿波福村の池に棲む片目のフナ、コイその他は月輪兵部が池の主の大蛇の左眼を射たためであるという。伊予の山越では片身のフナを焼き、弘法大師に出すと、あわれに思い、小川に放つと、蘇生し片眼のフナとなり泳ぎ去ったという。名古屋の闇森の池の片眼フナは瘧の呪いになるという。備前、備中、備後、和泉の魚、越前、越中、越後、伊勢の魚鼈、摂津、越前、越中、越後のフナ、上野、美作のウナギ、甲斐、遠江のドジョウなどにも片眼のものがある。
片眼の蛇の説話も少なくない。佐渡金北山の蛇は順徳天皇行幸以来片眼であり、近江では旱魃の時に水喧嘩を救うために片眼の娘が川の穴に飛び込んで蛇体と化して、その因縁で片眼のコイがいるという。その他羽後のカジカ、信濃のイモリ、美作のカモなどは片眼説話がある。
高皇産霊神が天目一箇神を作金者に定めてから、御霊神社の祭神、御手洗の池の魚、池の主は片眼で、池の主は人との交渉が多かった大蛇であった。伊勢に一目龍、肥後に一目八幡があり、やまのかみ、雷神は片眼である。一目の妖怪は山城八瀬村の山鬼、土佐の山爺、有名なひとつ目小僧がある。
その一方で、弥生時代に砂鉄精錬の技術が出雲を中心とする地帯で古来発達していて独自の製鉄方法はあったとする根強い意見もある。それは、製鉄炉の発見はないものの、次のような考古学的背景を重視するからである。
1 弥生時代中期以降急速に石器は姿を消し、鉄器が全国に普及する。
2 ドイツ、イギリスなど外国では鉄器の使用と製鉄は同時期である。
3 弥生時代にガラス製作技術があり、1400~1500℃の高温度が得られていた。
4 弥生時代後期(2~3世紀)には大型銅鐸が鋳造され、東アジアで屈指の優れた冶金技術をもっていた。
鉄鉱石の精錬は銅に比べ容易である。能率・歩留まりを厭わなければ瓦を焼く窯でも代用できる。箱型炉が開発・導入される以前の原初的な製鉄法であったろう。砂鉄精錬についても、後のたたら製鉄法に近い技術の開発をまたずとも、必要にせまられ出来上がりの質を問わない工法が用いられていたであろう。
埼玉県にはアラハバキを客人神として祀る氷川神社がさいたま市に鎮座しているが、出雲の斐川にあった杵築神社から移ったという由来や御祭神である素戔嗚命の関係から見ても出雲の流れを汲むといえる。また埼玉県の神社も出雲系の社が非常に多い特徴がある。 前述の記述でも述べたが、出雲は日本の古代製鉄発祥の地であり、氷川神社の祀官は鍛冶氏族である物部氏の流れを組む可能性が高いと言える。 ある説では氷川神社のある埼玉県は古代製鉄産業の中心地でもあるという。
熊谷市の片隅の一社の伝承から非常に飛躍した話となってしまったが、古代鍛冶集団は確かに存在していて、武蔵国の重要な何かを解く一つの鍵となるかもしれない。