古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

樋詰氷川神社

 樋詰氷川神社は桶川市川田谷地域南部に鎮座する。創建年代は不明である。ただ江戸時代前期から中期にかけて、川田谷村から枝郷として「樋詰村」が分村する際に創建されたものと推測される。因みに「樋詰」は「ひのつめ」と読む。当時「西光寺」が別当寺であり、西光寺は泉福寺を本寺とする天台宗の寺院であったが、明治初期の神仏分離により、廃寺に追い込まれた。
 1873年(明治6年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられた。1967年(昭和42年)に社務所兼集会所が改築された。
        
              
・所在地 埼玉県桶川市川田谷215
              
・ご祭神 素戔嗚尊
              
・社 格 旧川田谷村枝郷樋詰村鎮守・旧村社
              
・例祭等 1月1日 歳旦祭 2月20日 恵比須講 10月9日 お日待ち
                   
11月20日 恵比須講(新嘗祭)
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9782654,139.532126,16z?hl=ja&entry=ttu
 川田谷熊野神社から荒川に沿って北西方向に通じる道路を200m程進むと、進行方向正面に樋詰氷川神社の鳥居が見えてくる。川田谷熊野神社とは非常に近距離の位置関係となる。
 この樋詰氷川神社の前の道は、古くからの主要道路であったと考えられ、沿道には城館跡や寺社などが多く残されていて、江戸時代には中山道の脇道として、また、荒川の舟運や渡河のための主要交通路として、多くの人の往来があったと思われる。樋詰氷川神社境内に設置されている「樋詰の道しるべ」は高さ40㎝ほどの小さな道しるべであるが、当時の交通路を調べるうえでも重要な道標であろう。
        
                  樋詰氷川神社正面
 
    鳥居のすぐ左側に設置されている「樋詰の道しるべ」の案内板等(写真左・右)
「桶川市指定文化財 樋詰の道しるべ」
 種別 民俗文化財(有形民俗)  平成8529日指定
 この道しるべは、高さ40cmほどの小さな道しるべです。明和8(1771)に建てられ、正面には「あきは道」「大宮道」とあります。「あきは」 は火災除け、盗難除けの神様として信仰を集めた指扇村(現さいたま市)の秋葉神社で、「大宮」はさいたま市の武蔵一宮氷川神社です。正面向かって右側面 には「かうのす道」、左側面には「太郎ヱ門舟渡」と刻まれています。「太郎ヱ門舟渡」は、現在の県道12号川越栗橋線の太郎右衛門橋付近にあった荒川の渡場のことです。
 樋詰氷川神社の前の道は、古くからの主要道路であったと考えられ、沿道には城館跡や寺社などが多く残されています。江戸時代には中山道の脇道として、また、荒川の舟運や渡河のための主要交通路として、多くの人の往来があったと思われます。この道しるべも、通行する人々の案内役として重要な役割を果たしていたことがうかがえます。
 平成273 桶川市教育委員会
                                      案内板より引用
 
 
   鳥居を過ぎて参道右側にある「力石」     「力石」の傍に建つ「改修記念碑」
        
                     拝 殿
        
               境内に設置されている案内板 
 氷川神社  桶川市川田谷二一五
 祭神…素戔嗚尊
 当社が鎮まる樋詰(ひのつめ)の地は、荒川左岸の低地に位置し、古くから度重なる水害を被ってきた。樋詰は川田谷村の枝郷で、慶安ニ~三年(一六四九~五〇)の『田園簿』では本村に含まれており、元禄十五年(一七〇二)の『元禄郷帳』では川田谷村枝郷として樋詰村一〇二石余と記される。また、口碑によれば、樋詰の開発当初の村人は長島一家だけであったという。
 その創建は川田谷村から分村する過程で祀られたことが推測され、長島一家とのかかわりも考えられる。化政期(一八〇四~三〇)の『風土記稿』川田谷村枝郷樋詰村の項には「氷川社 村の鎮守なり、川田谷村西光寺の持」とあり、当時の家数は三三戸とある。
 参道入口の鳥居に掲げる「氷川大明神」の額には、裏に「元文四未(一七三九)天十一月吉日 武州足立郡石戸領樋詰村氏子中」と刻まれており、当社の最も古い史料となっている。また、本殿に安置する金幣には「奉献心願成就 明和六己年丑(一七六九)二月吉日」「願主伊勢屋丑兵衛」と記されている。
 明治六年に当社は村社となり、その後昭和四十二年には社務所兼集会所を改築した。また、往時の別当西光寺は既に廃寺となっており、その跡には墓地が残る。
 祭神の素戔嗚尊は八岐大蛇(やまたのおろち)を退治したことで有名であるが、八岐大蛇とは一説には大雨で暴れた川を表し、その水害を鎮めるための守り神として祀られたと考えられる。
 祭礼は正月の歳旦祭、二月の恵比須講(祈年祭)、十月のお日待ち、十一月の恵比須講(新嘗祭)の年四回である。
 社殿東隣に「稲荷社」を祀り、境内南東には「庚申塔(青面金剛)」が祀られている。(以下略)
                                      案内板より引用

 
       境内社・稲荷社             境内にある社務所兼集会所
       
 入口にある鳥居の右隣側には「奉納 大天狗 石尊大権現 小天狗」と刻印された石灯篭(写真左)があり、境内南東側には「庚申塔(青面金剛)」が祀られている(同右)。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「桶川市HP」「上尾市 日枝神社HP」
    「Wikipedia」「境内案内板」等

  
        


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熊野神社古墳

 桶川市の西部にある川田谷地域は、荒川右岸の自然堤防上の台地に位置し、早くから開発が盛んな地域であったようで、4世紀から7世紀にわたる古墳時代に、数多くの古墳が築かれる。この地域一帯には70基前後の古墳が築かれたと推定され、これを「川田谷古墳群」と呼んでいる。
 この古墳群は行田市にある埼玉古墳群より約1世紀前に築かれ、県内における古墳時代の始まりを物語る古墳として注目されている。
 江戸時代後期の『新編武蔵風土記稿 川田谷村』の項には、古墳の存在を示す記述がある。
 八幡社
 近き年村民社辺の地を穿ちしとき、圓徑七八寸許なる瓶二つを掘出せしが、其中に丹の丸せし如きもの納ありしと云、明器の類なるべければ、墳墓ならん、村民の持、
 王子稲荷社
 四十年前社傍の土中より石櫃を穿出せり、中に甲冑大刀等数多あり、又圓徑二寸許の玉の如きもの出たる由、今皆失ひて甲の鉢一つ殘したれど、それも半ば毀損せり、こゝも前の八幡の地と同く墳墓などの跡なるべし、
 川田谷古墳群は、家屋敷や農地の中にあったこともあり、明治時代になると耕地の拡大によって姿を消していった。その中で、埴輪が姿を現し、墓室である石室が開かれ、副葬品が発見されるようになった。この時代の出土品の一部は、現在も東京国立博物館に所蔵されている。
 この地域は中世の河田郷に比定され、古くから古墳が多く存在するところとして知られていた。この熊野神社古墳もその古墳群の一つで、円墳上に社が鎮座している。
        
              
・名 称 熊野神社古墳
              
・墳 形 円墳(最大幅16mの周溝あり)
              
・規 模 直径38m・高さ66.5m
              
・築 造 4世紀後半(出土土器から推定)
              
・出土品 勾玉、ガラス玉、管玉、紡錘車、石釧、筒形石製品、
                   筒形銅器等
                   *出土品は国の重要文化財に指定
              ・
指 定 埼玉県指定史跡
                   *
熊野神社古墳 昭和42年(1967328日指定
「川田谷古墳群」は大宮台地の西側、荒川を見下ろす標高20m程の台地上にある。調査によって6世紀前半から7世紀後半頃に造られたものが多いことが判明した。荒川の沖積地に向かってとび出している川田谷の台地の三つの支丘を中心に、北から西台(にしだい)・原山(はらやま)・柏原(かしわばら)・樋詰(ひのつめ)の四支群をつくる。
『新編武蔵風土記稿』にも記載があり、近世後期から存在が知られていたが、明治以来大規模な開墾により、多くの古墳が壊された。この時に発見された副葬品や埴輪類の一部は東京国立博物館や地元にある。
        
                                熊野神社古墳 遠景
 熊野神社古墳は、荒川と江川の合流する台地状にある直径38m、高さ6mの円墳で、円墳上に熊野神社が祀られている。昭和3年(1928)に社殿を改築した際に、玉類、石製品、 銅製品、太刀などの副葬品が出土し、一部は失われたが、それらは国重要文化財として、現在、埼玉県立博物館で保管・公開されている。桶川市歴史民俗資料館では、これらを精密に複製したものを展示している。昭和59年(1984)の発掘調査で出土した土器から、 4世紀後半の県内でも古い時期の古墳であることが確認されている。
 
          熊野神社古墳正面             川田谷熊野神社の案内板
        
   社殿に通じる石段手前に設置されている「埼玉県指定史跡 熊野神社古墳」の案内板
 埼玉県指定史跡 熊野神社古墳
 熊野神社古墳は、川田谷地域の荒川沿いに多く分布する古墳の1つで、河川交通上野重要な位置にあります。
 墳形は円墳で、昭和59年度に行われた調査によって、直径38m、高さ66.5m、周溝の幅1416mであることが確認されました。
 粘土槨(粘土で棺を覆って安置したもの)と想定されている埋葬施設は、昭和3年、墳頂部の社殿改修の際、偶然に発見され、玉類、石製品類、筒形銅器など、畿内の古式古墳と共通する多くの副葬品が出土しました。当時の出土遺物は国の重要文化財に指定され、現在は埼玉県歴史と民俗の博物館で保管展示されています。また桶川市歴史民俗資料館では複製品を展示しています。
 出土した遺物などからみて、古墳の年代は4世紀後半ごろと推定され、埼玉県内では比較的古い時期に築造された古墳と考えられています。
 平成2112月 埼玉県教育委員会・桶川市教育委員会
                                      案内板より引用
 更に『日本歴史地名大系』による 熊野神社古墳」の解説によれば、「墳丘は盛土の上段部と地山を整形した下段部の二段築造で、焼成前に底部を穿孔した二重口縁の壺形土器のほか器台形土器・坩形土器など五領II式の赤彩された土師器が発見された」と記載され、地山の上部を盛り土した二段築造の円墳であるという。丁度社の石段を登る途中にある鳥居付近の踊り場が、上段と下段の境目に当たるのであろうか。
 
  古墳墳頂部に鎮座する川田谷熊野神社       墳頂部に建つ「出土品ノ碑」
 
               古墳墳頂部を撮影(写真左・右)。
   熊野神社を鎮座させるために墳頂部は削平されている可能性は否定できないであろう。

 昭和3年(1928)、社殿改築時に墳頂から粘土槨らしき部分が発見され、そこから東国では珍しい碧玉製品をはじめ、玉類・石製品・銅製品・鏡・刀などが大量に出土した。
 この古墳はあまり目立たない場所に築造されていて、一般的な評価も高くないように見えるが、埼玉県早期の古墳を語るうえで非常に重要な古墳でもある。
 現在の荒川の流路は、江戸時代初期に旧入間川水系の和田吉野川に南流する荒川を瀬替えして定まったものである。嘗て東京湾にそそぐ利根川から分かれた入間川が大宮台地の西を北上し、さらに、入間川・都幾川・越辺川・市野川そして和田吉野川と分かれ、入間、比企地方に流域を広げていた。
 古代において、河川は、人や物が行き交う上で重要な交通路であった。荒川に沿う川田谷の台地にある遺跡からは、繊細な櫛描文で飾られた壺が発見されている。この土器は、東海地方西部の伝統をひくものである。
 3世紀、近畿地方の勢力を中心として「国」の礎を作ろうとする歴史の波がおこり、東海地方の人びともこの波を受け止め、さらに東方へと伝えていった。現に熊野神社古墳出土品の中には畿内の古式古墳と共通する多くの副葬品が出土している。
 この古墳の埋葬者はどのような経歴の人物であったのであるかは不明であるが、筆者の想像を逞しくすると前置きをした上での考察ではあるが、鴻巣市・明用三島神社古墳の埋葬者と同じく、旧入間川等の河川による交易・流通を一手に担う一族の中心人物であったようにも思える。
 今後の新たなる発見により導き出される興味ある展開に期待したいと願うばかりだ。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「熊野神社古墳の物語 リーフレット PDF
    「Wikipedia」「境内案内板」等
        
        

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川田谷熊野神社


        
              
・所在地 埼玉県桶川市川田谷348
              ・ご祭神 伊弉冉命 大山咋命 天照大御神
              ・社 格 旧無格社
              ・例祭等 春祭 318日 秋大祭 1123
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9757206,139.5335257,17z?hl=ja&entry=ttu
 国道17号バイパス上尾道路を「アリオ上尾店」方向に進行し、「薬師堂(南)」交差点を右折し、民家と田畑地が混在する南西方向に伸びる道路を暫く進む。500m程先で正面方向に見える社叢林の路地付近に「熊野神社古墳」と表示されている小さい看板があり、その路地を左折すると右手側にこんもりとした古墳が見え始め、その古墳頂上部に川田谷熊野神社は鎮座している。民家に囲まれているせいか、目印の社叢林はあるにはあるが、それでも目立たない場所である。また看板も設置されてはいるが、それほど大きいものではないので、気をつけなければ、そのまま素通りしてしまいそうな場所にある。
 左折した路地は行き止まりとなっていて、その行き止まり付近右側には駐車可能な空間があり、そこに車両を停めてから参拝を開始した。
        
                 川田谷熊野神社正面
        
                                      石段手前右側に設置されている案内板
 熊野神社 御由緒  桶川市川田谷三八四
 □御縁起(歴史)
 川田谷は荒川右岸の自然堤防上に位置し、地名は川の端の地であることに由来するという。中世の河田郷に比定される。古くから古墳が多く存在する所として知られ、その内の一つである熊野神社古墳と呼ばれる円墳(最大径三〇メートル・高さ六メートル)の上に当社は鎮座する。
 当社は『風土記稿』川田谷村の項に「熊野社 東光寺持」と載り、当時は天台宗東光寺が別当であった。東光寺は村内泉福寺の末寺で、寺伝によれば天長六年(八二九)慈覚大師により開基されたという。
 また、かつての氏子区域の小名である「薬師堂」は地内の薬師堂の名にちなむものである。『風土記稿』に「薬師は慈覚大師の作にて座像長一尺余、東光寺の持」と記される。恐らくは、この薬師と共に当社は、 東光寺の僧によりこの地に勧請されたのであろう。
『明細帳』に「往古は東光寺持ニ日枝社、神明社アリシガイツノ頃カ (当社に)合祀シシタリト云伝フ」とあり、現在の祭神は伊弉冉命と並び大山咋命(日枝社)と天照大御神(神明社)となっている。
 かつての当社は小さな木の祠で、周囲には杉や樽の大木が多数生え、盛り土の高さも現在の本殿の屋根位まであった。昭和三年にこの祠を改築するに当たり、盛り土を掘削したところ粘土槨が発見され、中から勾玉や紡錘車など多数の遺物が出土した。これらは大変貴重な資料であるため昭和二十三年に国指定重要文化財となっている。(以下略)
                                      案内板より引用
        
   石段の手前左側には「埼玉県指定史跡 熊野神社古墳」の案内板も設置されている。 
 社殿に通じる石段。踊り場付近には鳥居が立つ。   墳頂部には「出土品ノ碑」が設置
       
                    拝 殿 
 この地域は中世の「河田郷」に比定され、古くから古墳が多く存在するところとして知られていた。
『日本歴史地名大系』 「河田郷」の解説
 川田谷辺りに比定される。応永四年(一三九七)七月二〇日の足利氏満寄進状では、相模国鎌倉郡小坪(現神奈川県逗子市)の残り半分の替地として、足立大炊助跡である足立郡内「河田郷領家職内」の所領などが鎌倉円覚寺塔頭黄梅院に寄進されている。正長元年(一四二八)六月二一日の鎌倉府奉行人連署奉書によれば、河田郷領家職が大井五郎左衛門尉のために牛田十郎跡に混入して押領され、黄梅院雑掌の訴えを受けた鎌倉府は、実情調査を武蔵国守護代大石憲重に命じている。
        
                                 拝殿から石段下を撮影
 熊野神社の創建年代などは不詳ながら、天長6年(829)創建と伝えられる東光寺が当社を勧請したのではないかといい、年不詳ながら、明治維新後に日枝社・神明社を合祀している。当社の鎮座地は直径38m、周溝幅1416mの円墳上で、埼玉県最古の古墳とされ、円墳から出土した遺構は、国の重要文化財に指定されている。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「桶川市HP」「Wikipedia」
    「境内案内板」等                      
 

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三田原氷川神社

 江戸時代における川田谷村は東西14町・南北1里余の村域を有し、村高1,200石を越える比較的大きな村であったようで、陣屋が置かれたのは村の北西部の天沼で、この陣屋は「牧野本陣」、あるいは「牧野陣屋」「川田谷陣屋」と呼ばれていた。
『新編武蔵風土記稿 川田谷村』
「邸宅 陣屋
 御入國以來牧野讃岐守康成及び其子内匠頭信成・孫佐渡守親成等住せし陣屋なりしが、慶安三年親成が弟太郎左衛門永成に分地せしより、今も其子孫大和守の陣屋となせり、構の内に鎭守として太神宮・八幡の合社、稻荷・辨天の合社あり、」
 村内は慶安3年(1650年)に信成の遺領(隠居領)が3人の兄弟により分割された際、川田谷村も3分割され、その後明治元年(1868)牧野一族3家により私称されていた上川田谷村・下川田谷村上分・下川田谷村下分の私称村名を廃止し、川田谷村に統一された。
 三田原氷川神社は「下川田谷村」(*下川田谷村上分・下川田谷村下分のどちらかは不明)の鎮守社であるが、この「三田原」は旧川田谷村の小字「三ツ木・田向・柏原」の各字を総称した呼び名で、この三つの字の人々によって伝承されていたという
        
              
・所在地 埼玉県桶川市川田谷2082
              
・ご祭神 素戔嗚尊
              
・社 格 旧下川田谷鎮守・旧村社
              
・例祭等 春の大祭 315日 秋の大祭 1015
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9852055,139.5223646,18z?hl=ja&entry=ttu
 桶川市西部にある「城山公園」の南側に東西に通る埼玉県道12号河越栗橋線を荒川・川島町方向に進み、「川田谷」交差点を左折する。その後、300m程先の丁字路を右折し、暫く南方向に進むと三田原氷川神社の鳥居が右側に見えてくる。
        
                 三田原氷川神社正面
 三田原氷川神社は、埼玉県桶川市川田谷地域に鎮座する社である。川田谷地域は早くから開けた地であったためか、元禄七年(一六九四)の「桶川町助郷帳」(須田家文書)では上川田谷村と下川田谷村とに分けて記され、化政期(一八〇四-三〇)には既に全体で家数五〇〇戸に達していて、当社は下川田谷の鎮守である。創建年代は不明であるが、1668年(寛文8年)に神祇管領長上吉田家より正一位に叙せられる等、江戸時代前期の時点で既に神階が与えられていて、かなりの信仰を集めており、江戸時代以前から存在していたものと推測される。
 明治初年に指定された近代社格制度では「無格社」となった。しかし氏子たちの篤い信仰を背景に昇格申請がなされ、1929年(昭和4年)に村社となったという。年不詳ながら八幡神社・八坂社を合祀している。また秋大祭では三田原(三ツ木、田向、柏原)の簓(ささら)獅子舞が奉納される。因みにこの三田原という名称は三ツ木、田向、柏原の各小字を総称した呼び名で、この三つの字の人々によって伝承されているという。
 
        参道左側に設置されている「氷川神社 御由緒」(写真左)
           と「氷川神社の簓獅子舞」(同右)の案内板
 氷川神社御由緒  桶川市川田谷二〇八二
 □御縁起(歴史)
 川田谷は、荒川左岸の自然堤防上に位置する村で、南北朝期から見える河田郷に比定されている。早くから開けた地であったためか、元禄七年(一六九四)の「桶川町助郷帳」(須田家文書)では上川田谷村と下川田谷村とに分けて記され、化政期(一八〇四-三〇)には既に全体で家数五〇〇戸に達している。当社は下川田谷の鎮守である。
 古い川田谷村の項には「氷川社 一は竹内にあり、一は三田原村にあり」と二社の氷川社が記されているが、当社はそのうち「三田原村にあり」とされている方の神社である。創建の時期は不明であるが、内陣には寛文八年(一六六八)の宗源宣旨があり、江戸時代の早い時期に正一位の神階を受けていたことがわかり、当社は既にこのころには相当の信仰を集めていたものと推測される。また、このほかに文政十三年(一八三〇)の墨書のある神璽筥と像高三七センチメートルの氷川大明神像、更に石棒などを納めた木箱が納められている。
 明治維新を迎え、社格制定に際しては無格社とされたが、規模も大きく、信仰も厚かったため、昇格の申請がなされ、昭和四年十二月二十七日に村社に列した。また、年代は分からないが、八幡神社と八坂社の二社を合祀して境内社とした。境内社は、かつて一社ずつ現在の幟竿置場の辺りに並んでいたが、昭和二十八年ごろ合殿にまとめられた。(以下略)
                    

 氷川神社の簓獅子舞   所在地 桶川市大字川田谷
 氷川神社の簓獅子舞は、毎年十月上旬から中旬に行われる祭礼において奉納されている。
 この獅子舞は別名三田原の簓獅子舞といわれており、この三田原とは三ツ木、田向、柏原の各字を総称した呼び名で、この三つの字の人々によって伝承されている。
 この獅子舞の始められた年代は不明であるが、地元に伝わる由来記には、江戸時代の元禄年間(一六八八~一七〇四)以降に盛んになったと記されている。本来この獅子舞は、柏原の八幡神社において、旧暦八月十五日にその氏子によって奉納されていたものであるが、その後八幡神社が氷川神社に合祀されたこともあり、現在の日時に行われるようになったという。
 舞は全部で十二の場からなり、旧村内の㐂(七が三つ)倉堂から行列を組んで、舞の庭に舞い込み、四隅に立つ花笠の中で、宰領とよばれる道化と女獅子、法眼、後獅子の三頭の獅子によって舞われる。その内容は、女獅子をめぐって、法眼と後獅子がいさかい、また和解するといった展開である。
 現在、この簓獅子舞は、後継者も多く、また舞の型のくずれも少なく、桶川市における貴重な民俗芸能の一つである。(以下略)
                                  どちらも案内板より引用

        
                   境内の様子
 社殿は東向き。丁度参拝時間も正午に近い時間帯で、参道から社殿に向かう軸線上に太陽の陽光がくるので、参道から拝殿に直接撮影することができず、境内の樹木からできる木陰をうまく利用しながらの撮影となった。
        
                    拝 殿
 三田原氷川神社の北側には「城山公園」がある。現在では桶川市民のみならず、周辺地域の方々にとっても多目的広場,児童遊園,水遊び場,テニスコート、バーベキュー場等が設置され、多彩な遊びの楽しめる憩いの公園で、広い園内は四季折々の自然に囲まれており、中心に位置する大池は家族連れの憩いの場になっている。
 この公園の一角で竹林の中に「三ツ木城跡」が存在する。この三ツ木城の詳細は不明で、鎌倉時代に源頼朝に仕えた足立右馬允遠元、あるいは室町時代に岩槻城主・太田氏に仕えた石井丹後守が考えられているが、いずれも定かではない。近年の調査研究によれば14世紀代に築城されたものとされている。現在城址は「城山公園」として整備されており、土塁の遺構が残っている。
『新編武蔵風土記稿』にもこの「三ツ木城跡」は掲載されている。
「舊蹟 三ツ木城蹟
 東西北の三方深田にして、西の一方のみ平地に續き、今も土手の蹟存せり、郡内別所村無量寺の縁起には、足立右馬允が居跡なりと云、是右馬允遠元がことにや、遠元は保元中の人にて、當郡の地頭職に補せらるゝことは、丹波國山垣村當家の系圖に見えたり、又石井丹後守が住せし跡ともいへり、いづれも定かならず、」
 前項「川田谷諏訪神社」にて、「足立遠元」の子「遠村」が河田谷氏を称したのだが、「舊蹟 三ツ木城蹟」の記載内容が本当であれば、遠元自身もこの地に居住していたことになろう。
 まああくまで伝承の域を出るものではないであろうが。
 
  拝殿手前右側に鎮座する境内社・八幡宮社       社殿の右隣に鎮座する合祀社
 この合祀社は「大六大社・天神社・八坂神社・稲荷社(三社)・白山社・妙見社・御嶽社」



参考資料「新編武蔵風土記稿」「桶川市HP」「Wikipedia」「境内案内板」等
 

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川田谷諏訪神社

 江戸時代後期に編纂された『新編武蔵国風土記稿』において、武蔵国足立郡の一区分として「石戸領」が挙げられている。この領の諸村は概ね牧野一族が幕末まで知行した地域となっていて、現在の鴻巣市・桶川市・上尾市・北本市のあたりで、以下の21か村となっている。
(*各村の持添新田については幕府領に組み込まれ、小林村のように他家の知行地となった村もある)
鴻巣市域 滝馬室村・原馬室村・小松原(原馬室村枝郷)
北本市域 石戸宿村・下石戸上村・下石戸下村・高尾村・荒井村・北袋村(荒井村枝郷)
桶川市域 上日出谷村・下日出谷村・川田谷村・樋詰村(川田谷村枝郷)
上尾市域 領家村・藤浪村・古泉村(藤浪村枝郷)・中分村・畔吉村・小敷谷村・小林村
        
(小敷谷村枝郷)・菅原新田
 石戸領の「本村」と見なされたのは石戸宿村であったが、牧野氏の陣屋は川田谷村に置かれていた。というのも、川田谷村には平安時代創建と伝える天台宗の古刹泉福寺があり、中世には三ツ木城(城山公園に名を残す)や武城などの城が築かれ、旧来の土豪層の勢力も依然として強く、牧野氏は陣屋に居住して知行地支配を行ったと考えられ事。また近世の川田谷村は東西14町・南北1里余の村域を有し、村高1200石を越える比較的大きな村で(元禄郷帳)あったことも挙げられている
 牧野氏の陣屋が置かれたのは村の北西部の天沼地域であり、『新編武蔵風土記稿』にも川田谷村に「陣屋」があることが記されており、編纂時には牧野永成の子孫である牧野成傑(大和守。長崎奉行などを務めた人物)のものであるという。
 2007年、国道17号(上尾道路)の建設工事に先立ち、陣屋跡周辺は「大平遺跡」として発掘調査が行われており、陣屋に関連する区画溝と、牧野康成の弟で、関ケ原の合戦での負傷を契機に僧侶となった易然(いねん)が建立した「見樹院(牧野康成の院号でもある)」に関連する遺構などが確認されている
        
             ・所在地 埼玉県桶川市川田谷6710
             ・ご祭神 建御名方命
             ・社 格 旧石戸領総鎮守・旧村社
             ・例祭等 祈年祭 327日 春祈祷 41日 大祭82627
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0105776,139.5178763,16z?hl=ja&entry=ttu
 高尾氷川神社から東側にある埼玉県道57号さいたま鴻巣線に合流後、南方向に進む。同県道33号東松山桶川線との交点にある「荒井」交差点を更に南下し、1.6㎞程先の「川田谷(一場)東」交差点を左折し400m進むと、進行方向正面に鬱蒼とした社叢林が見え、その中心辺りに川田谷諏訪神社の鳥居が見えてくる。
 鳥居から100m程先にある「諏訪神社」交差点右側手前に駐車スペースがあるので、そこの一角に車を停めてから参拝を行う。
        
                 川田谷諏訪神社正面
『日本歴史地名大系』 「川田谷村」の解説
 上日出谷(かみひでや)村・下日出谷村の西にあり、両村と村境が錯雑する。東を江川が南流し、西は荒川を隔て比企郡表村(現川島町)。現在は河川改修によって一部が荒川西岸になっている。江川上流には浸食谷がみられ、谷津が発達して湧水池が多くみられる。応永四年(一三九七)七月二〇日の足利氏満寄進状(黄梅院文書)などにみえる「河田郷」の遺称地。永禄一一年(一五六八)二月一〇日の泉福寺海証状(中院文書)には「河田谷泉福寺」とある。
 天正一八年(一五九〇)九月七日の伊奈忠次知行書立(「牧野系譜」京都府舞鶴市立西図書館蔵)に「河田や」とあり、牧野康成に与えられた石戸領八ヵ村の一村。康成は北西の天沼に陣屋を構え(風土記稿)、孫親成の頃まで存続したとみられる。遺構は明治初年に削平されたと伝えられ、北から南に湿地が広がる台地の先端部に、現在も土塁と堀の跡をわずかに残している。石戸領は康成の没後、子の信成が継ぎ、正保元年(一六四四)信成が一万七千石に加増されて下総国関宿城(現千葉県関宿町)城主となると嫡男親成に与えられた。同四年に信成が隠棲し親成に後を譲ると、石戸領は信成に養老料として与えられた。
 慶安三年(一六五〇)の信成没後は石戸領五千石は分けられ、親成の弟旗本の尹成に二千石、同永成と成房とに各一千五〇〇石が与えられた(寛政重修諸家譜)。
             
                川田谷諏訪神社 社号標柱
        
                           鳥居前面に設置されている案内板
 諏訪神社御由緒  桶川市川田谷六七一〇
 □御縁起(歴史)
『風土記稿』川田谷村の項に、「諏訪社 社頭三石天正十九年賜ひし御朱印の文に足立郡河田谷郷の内とあり、石戸領の総鎮守なり」と載り、境内に建つ文化十三年(一八一六)の敷石供養塔にも「石戸領二十一ケ村氏子中」と刻まれているように、当社は古来、石戸領二十一か村の総鎮守として崇敬されてきた。この「石戸領二十一か村」とは、滝馬室・原馬室・原馬室枝郷小松原・上日出谷・下日出谷・川田谷・川田谷枝郷樋詰・菅原新田・領家・藤波・藤波村枝郷古泉・中分・畔吉・小敷田・小林・石戸宿・下石戸上・下石戸下・高尾・荒井・荒井村枝郷北袋の諸村である。
 鳥居に掛かる扁額の銘文によると、当社の社殿は天保八年(一八三七)七月に再建されたが、同十五年正月に火災に遭って全焼したため、氏子の各村相計り、社殿を再建した。『明細帳』によれば、明治六年に村社となった。祭神は建御名方命である。
 また、江戸時代には当社の西方五〇〇メートルほどの所にある天台宗の普門寺(山号は諏訪山)が別当であったが、神仏分離後は、地元の高柳家が神職となり、(中略)奉仕している。ちなみに、高柳家の祖は、北条家の家臣であったといい、兄弟でこの地に来て土着し、兄が本家、弟が分家(現社家)となったとの伝えがあり、代々当社への崇敬の念が厚い家柄であった。(以下略)
                                      案内板より引用

        
                入口に建つ石製の一の鳥居
 正面一の鳥居から鬱蒼たる社叢林が続く。所謂「鎮守の森(ちんじゅのもり)」とは、日本において、神社(鎮守神)に付随して境内やその周辺に、神殿や参道、拝所を囲むように設定・維持されている森林であり、森を伴わない神社はほとんどないと言って良い。鎮守の森というのは、多くの神社を囲むようにして存在した森林のことで、「杜」の字をあてることも多い。「神社」と書いて「もり」と読ませている例もあり、古神道から神社神道が派生したことが伺える。また、「社叢」と称されることも多い。
 ただ残念ながら完全に昔の植生を今に残している森はそう多くない。元々「神道」における自然崇拝の基本の一つに「自然物は神、その他の霊的存在の仕業とみて崇拝する対象」であったが、太平洋戦争後は国土開発の一環として、鎮守の森を含む多くの森林が伐採されたにより、かなり生態系を変えさせられたからだ。
 今では行き過ぎた開発への反省、過疎とバブル経済崩壊による土地不足の緩和・解消により、森林など緑地を保全・再生しようという機運が高まって、ナショナルトラスト運動などに繋がっている。鎮守の森についても、上記のような生態系保全という観点だけでなく、住民・観光客にとっての行楽や癒しの場、東日本大震災(2011年)で津波の勢いを減衰させた防潮林としての役割が注目され、維持・再生に向けた運動が行われているという。
        
        石製の一の鳥居の先には朱を基調とした木製の二の鳥居が建つ。          
 
   鬱蒼とした社叢林の先に境内が見える。     参道を進むと一角に神池のような窪みがある。
 
境内に至り、すぐ左側には神興庫らしき倉庫あり。   神興庫の反対側にある社務所。
        
                    拝 殿
         後日地図を確認しると西向き(正確には南西方向)の社殿。
        
                            拝殿手前に設置されている案内板
 市指定文化財 川田谷・下日出谷の万作(諏訪の万作)
 平成1562日指定
 「万作」は、埼玉県をはじめとした関東一円に分布する民俗芸能として知られており、桶川では川田谷と下日出谷の地域で伝承されています。鉦(かね)や拍子木と歌で調子がとられ、「銭輪」「きっさき」「伊勢音頭」「下妻」「口説」などの手踊りが演じられます。かつては、歌に加え台詞を述べる「段物」と呼ばれる芝居の要素が入った演目もありましたが、現在では手踊りが主になりました。
 市場地区で伝えられている「諏訪の万作」は、昭和30年代の町村合併時に地区の交流を目的として、薬師堂喜楽連から教わり始められました。現在は、「伊勢音頭」や「銭輪」など花笠や手ぬぐいを使った手踊りの演目が、毎年8月に行われる諏訪神社の祭礼などで披露されています。(以下略)
                                      案内板より引用

            
                     本 殿
 市指定文化財 諏訪神社本殿
 諏訪神社は、江戸時代には譜代大名牧野家の所領であった旧石戸領(現在の上尾市北西部から鴻巣市南西部にかけての一帯)五千石の総鎮守として信仰される神社でした。天正19年(1591)には社領として三石拝領の朱印状を受けた記録が「新編武蔵風土記稿」に見ることができます。これにより諏訪神社は天正19年以前の創建であることがわかります。
 諏訪神社本殿は、一間社流造でという造り方です。身舎と呼ばれる社殿の主体部分の長さは一間(6=1.82m)で、屋根は杮葺と呼ばれる薄い板を葺いたものです。身舎は、複雑な組物と彫刻で隙間なく飾られ、見る人の目を楽しませてくれます。
 造られた年代については、棟札が発見されていないため確定はできません。しかし、社殿細部に施された建築様式や発見された関連資料などから、19世紀中頃の建築であると推測されます。また、大工は地元の棟梁・新井家が深く係わっていると考えられます。(以下略)
                                      案内板より引用
        
        
                    「桶川市指定文化財 諏訪神社本殿」の石碑等が並ぶ。
  
 室町時代、古河公方の側近家臣の有力者の一人に木戸氏がいた。この木戸氏は栗橋城主であった野田氏と同族といわれ、下野国足利荘木戸郷を名字の地とする足利氏の家臣であった。
 その後戦国期になると古河公方側近の木戸氏の他にもう一つの系統の木戸氏の活躍が目だってくる。それが、羽生・皿尾城の木戸氏である。この木戸氏は持季の弟範懐の子孫とされるが、史料上に名を確認できるのは歌人として知られる大膳大夫範実からである。
そして範実には直繁・忠朝という二人の男子がいた。
黒田豊前守直邦の和歌系統』
藤原定家―為家―為世―頓阿―経賢―尭尋―尭孝―常縁―常和(弟弟子宗祗)―正吉(常和弟子、俗名木戸大膳太夫範実)―賢哲(木戸伊豆守忠朝)―休波(木戸元斎)」
  社殿右側奥に鎮座する境内社・稲荷社    社殿奥に鎮座する境内社・白幡権現神社        
 羽生城は、埼玉県羽生市にあった日本の城で、16世紀初頭の築城とされ、永禄3年(1560年)の長尾景虎(後の上杉謙信)による関東出兵以降、上杉方の関東攻略の拠点となり、広田直繁、その後木戸忠朝という兄弟が城主を務めていた。この兄弟は関東管領・上杉謙信の忠臣で、終始一貫して謙信に仕えた武蔵国で唯一の武将として知られているが、後北条氏の度重なる攻撃を受け天正2年(1574年)閏11月に自落した。
 築城時期や築城者について、江戸後期に編纂された『新編武蔵風土記稿』では弘治2年(1556年)、「木戸忠朝」によるものと記している。ただし、『風土記稿』の説を裏付ける資料は存在せず、詳細は定かではない。一方、小田原安楽寺に安置されている三宝荒神像には広田直繁と河田谷(木戸)忠朝の連名で、
「武州太田庄小松末社三宝荒神、天文五年丙申願主直繁、忠朝」
と記されていることから、天文5年(1536年)の時点で直繁が城主を務めていたと推測されている。
 この木戸忠朝という人物は、武蔵国の国人領主。木戸範実(正吉)の子。広田直繁とは兄弟(長幼の順は不明)。伊豆守。武蔵国羽生城将。はじめ河越方面の領主河田谷氏の名跡を継ぎ、「河田谷右衛門大夫」を名乗っていたが、永禄9年(1566)までには木戸姓を称している。
上杉謙信書状「木戸伊豆守殿、同右衛門大夫殿、菅原左衛門殿(広田出雲子、木戸伊豆婿)」
上杉家文書「信州御調儀之段、被仰出候、目出度肝要に奉存候、於当口両度得勝利候之上、弥以成田押詰可申候、林平右衛門尉殿(謙信家臣)、河田谷右衛門大夫忠朝花押」
永禄三年関東幕注文「羽生之衆、河田谷右衛門大夫・紋かたばみ」
        
                               社殿からの一風景

 河田谷氏は平安時代末期から鎌倉時代にかけて活躍した「足立遠元」の子「遠村」が河田谷氏を称したといわれていて、忠朝はこの名称を継ぎ、足立郡河田谷村(桶川市)に居住、或は知行し、河田谷(かわたがい)或は河田井(かわたがい)と称していたと思われる。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「桶川市HP」「最多案の神社」
    「Wikipedia」「境内案内板」等
   

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