古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

中蒔田椋神社

所在地    埼玉県秩父市蒔田2167  
主祭神    猿田彦命 大己貴命 天下春命
         (合祀)菅原道眞 大山津見命 素盞嗚命 大山津見命 武御名方命 大地主命
社   格    式内社 旧村社 
社   紋    抱き稲
例   祭    3月3日

 
                   
地図リンク
  中蒔田に鎮座する椋神社は、秩父鉄道大野原駅から、直線で北西2kmほどの場所にある。秩父橋を越えて、299号線を西へ道なりにまっすぐ進むと大きくカーブしている場所があり、蒔田交差点の手前のT字路を右折すると正面に蒔田椋神社のこんもりとした森の空間がそこにある。
  東南向きに小じんまりとした境内があり、中央に社殿がある。また社殿の左右に、二つずつの小祠の境内社がある。
  永禄年間に甲斐国領主武田信玄の進行に遭い兵火に罹り、社殿・古記録を焼失し、社領も没収されたという。その後宝暦十三年に社殿を再建し、明治六年に、熊谷県より、延喜式内と称することを許可された。
                      
                      
椋神社
 当神社は往古より延喜式内の社と古老の口碑あり。然るに永緑年間の兵火に依り旧殿旧記書類悉皆焼失し、社領没収せらる。社領旧社地は神畑田耕地の字名として現存す。石器時代の遺物石杵は當社の宝物にして今尚存し神宝石と称し來れり。里人愁ひて後年仮宮を造営し古例の如く執行。宝暦13年未本社再建。明治6年7月2日熊谷縣に於て延喜式内の社と可称旨達あり。同7年4月8日同縣に於て祠掌を置かる。明治9年6月10日熊谷縣に於て村社に列せらる。同年10月5日拝殿再建す。
                                                  昭和27年神社明細帳
            
                                本   殿
  
中蒔田椋神社は、秩父地方でも古風の形態の神楽である秩父神社系神楽を今日も百数十年間も継承し、秩父市指定無形文化財に認定されているそうだ
   

市指定無形文化財
中蒔田椋神社の神楽
 秩父地方に数多い神楽も、その由来や舞の型態等によって、いくつかの系統に分かれます。なかでも古風な舞をもち、盆地内に広く分布し、その主流をなしているものは秩父神社系神楽です。
 この秩父神社の神楽も幕末から明治の一時期にかけて、後継者不足から休止のやむなきに至ったといわれ、その断絶を憂えた秩父神社の神楽師佐野宗五郎は、蒔田椋神社祠掌設楽一貫と計り、椋神社氏子に伝授したと伝えられています。
 明治7年3月の「太々神楽装束勧進録」には、「天朝庚平区内安全五穀成就氏子一統開化進歩へ時勢二不渡戸々家々為繁栄祈念年々祭日永代太々神楽を奏する事」。とみえることから明治7年には既に伝授されていたものと考えられます。その後座や舞の変革はほとんど行われていないので、当時の秩父神社神楽の形態を伝えるものといえます。
 昭和47年4月6日 指定
 秩父市教育委員会
                                                                                                                 境内案内板より引用

 
     
社殿右側境内社八坂・産泰神社        社殿右側に鎮座する境内社稲荷・八幡神社

 


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上蒔田椋神社

  創立年度は不詳ながら、一説によると景行天皇の時、日本武尊東征の際、矛を杖にして山路を越えると、矛が光を放って飛んでいった。尊は不思議に思って光が止まったところまで行ってみると、井の辺のムクの木陰から猿田彦命が現れ道案内をしたという伝説から、尊は持っていた矛を神体として猿田彦命を祀ったことに始まるという。その後当所の椋の大樹の下に大己貴命を奉齋して椋大神と称したという。
 永禄12年(1569年)に武田信玄によって焼き払われ、その後は衰退し、江戸期は秩父神社によって管理されていた。
 毎年3月3日にはお田植え祭が行われる。この祭は、椋神社の境内を田んぼに見立てて、酒を飲んで赤ら顔になった氏子代表12人が神部となり、ユーモラスに田植え唄を歌いながら模擬的な農作業を行い今年の豊作を祝う祭である。

所在地    埼玉県秩父市蒔田2842  

主祭神    大己貴命 (配祀)猿田彦命
社  格     式内社 旧村社 
社  紋    葵
例  祭    3月3日(お田植え祭)


地図リンク
  
 上蒔田に鎮座する椋神社は、中蒔田椋神社より南西に約2㎞弱、国道299号を小鹿野町方向に進むと道路の北側にあり、参道入口の鳥居が見える。小さな丘を背負う立地条件で拝殿の奥は山林が続くがこれはこれで大変趣がありなんともいえない気持ちの良い時間が流れる。天気も良く、また開放的な空間にこの社は鎮座しているため、なんとなく長居をしてしまった。
 社地の500メートル手前には蒔田川がながれる。この蒔田川は荒川水系の一支流で、丁度皆野町の椋神社や大塚古墳あたりで荒川と合流する河川であり、この皆野地方の椋神社が河川にも関係があるのではないかと想像を膨らましてしまうところだ。
 
    
国道299号線沿いに一の鳥居と社号標がある。
 
     参道の先に二の鳥居や社殿が見えてくる。
 
      拝殿。拝殿の家紋は葵の紋が付けられていた。
 
市指定民族資料
蒔田椋神社御田植神事
 この社は遠く「延喜式」に載る古社で、ここに伝わる御田植神事は春の農作業に先がけた三月三日(旧暦の頃は二月三日)今年の稲作の豊穣を願って行われます。境内にしめ縄を張りめぐらして御田代に見立て、鳥居の外には、わらで龍を形どった水口が設けられます。
 毎年氏子の中から十二人の神部が選ばれ、その中の二人が作家老となって神事の主役となりますが、神部のいでたちは、烏帽子に白装束で、手には鍬を模した竹製の農具をもって演じます。
 祭典ののち坪割り(四方固め)つづいて水乞い神事に丹生神社までまいり、水ぬさと呼ぶ御幣をいただき御田代水口に立て、田仕事が始まります。苗代つくりから種子播き、本田の耕起から田植までの実際の農耕順序にしたがい「御代の永田に手に手をそろえて、いそげや早苗手に手をそろえて」と田植唄をうたいながら演じる所作は、多くの古風な習俗を伝承している貴重な民族資料です。
                                                    秩父市教育委員会
 
                 本   殿

                                                                                    
  





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野巻椋神社

所在地    埼玉県秩父郡皆野町皆野野巻363   
主祭神    猿田彦大神 
(合祀)    菅原道眞 金山彦命 建御名方命 大日霊貴尊 建御名方命 建御名方命
社  格     式内社 旧村社

社  紋    五七桐
例  祭    10月15日

        
  埼玉県秩父郡皆野町に鎮座する。皆野町椋神社から埼玉県道43号皆野荒川線に移り、荒川を越え皆野橋のT字路の交差点を右折し、埼玉県道44号秩父児玉線を300m位北上すると大渕交差点となるのでそれを左折する。この道は埼玉県道37号皆野両神荒川線で、道なりに約1、5km位進むと約赤平川の支流前のT字路があるのでそこを右折すると左側に椋神社がある。
 ちなみに車で来ると、社の裏側へ回り込む形になるので、車を止めて、表に回って参拝を開始する。
           
      
 椋神社裏にあった昭和16年に建てられた社号標 奥にある建物の前に駐車
            
                表に回った先に鳥居があり参拝を開始する。
            
                             拝  殿
          
                              本  殿

 
                 拝殿の右側にある陽石        社殿の左側にある境内社の鳥居と境内社群
  野巻椋神社の創立年月等は不詳だが、口碑によると、野巻(牧)は奈良・平安の頃に牧の駒を奉りし地から付けられたと伝えられている。名に、カリホシバ(刈干場)、クツウチバ(沓打場)、カジヤ(鍛冶屋)、マキハラ(牧原)などが現在も残っているようだ。
 また、当社の創建については、秩父氏が牧場の守り神として奉斎したものではないかとも考えられているようで、当時は『武蔵志』の”倉宮”や鎮座地の字名等から”くらのみや”明神等と呼ばれていたと思われる。

 区域外にも当社への強い信仰があり、隣村の秩父市吉田久長(旧久長村)には遥拝所があったと云われ、古くは、そこに繁っている松の木に鈴を懸け、当地との間の川が増水し参詣できない時には、これを振ってそこに祀られている石宮から当社を拝んだとのことだ。

          
 山間に鎮座する野巻椋神社から見る武甲山。現在山頂は削り取られ創建当時の面影こそないが、それでも美しいことには変わりない。





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皆野椋神社

 皆野町は埼玉県の西北、秩父郡の東北に位置し、秩父市の北に接する町で、秩父盆地の入り口にあたる。東経139度5分、北緯36度4分で、東は東秩父村に、北は長瀞町と本庄市に、南・西は秩父市にそれぞれ接している。
 町の中央を荒川が東流し、その右岸の川岸段丘に町が帯状に開けている。
 気象は内陸性気候を示し、冬季は北西の季節風が強く、乾燥した晴天が続き降雨量、積雪とも比較的少ない。夏季は高温多湿で気温の年格差が著しい。
 町の産業は、商工業が主で地理的条件等から商業は、郡北部地区商域圏の中心である。工業は、精密機械製造業が中心であり、農業は、農道整備や施設整備事業等を実施し、ぶどう・しめじ・しいたけを中心とした観光農業が脚光を浴びている。

        
             ・所在地 埼玉県秩父郡皆野町皆野238
             ・ご祭神 猿田彦大神 八意思兼命 大己貴命
             ・社 格 延喜式内小社(論社) 旧村社
             ・例祭等 祈年祭 478日 八坂神社例祭 718
                  例大祭 1078日 他    
 皆野町皆野に鎮座する。国道140号彩甲斐街道を皆野方向に向かい、大塚交差点手前の十字路を右折しそのまま直進し、秩父鉄道の踏切を越えると正面に椋神社の大きな朱色の鳥居がある。鳥居の左側には駐車場もあるので、そこに停車し参拝を行った。
 もと、椋宮(倉宮)明神と称し、元慶5年(881年)円福寺を建立した真言僧源仁僧都が深く当社を崇敬したという。また秩父別当熊谷重能は厚く当社を尊信し、寿永元年(1182年)この地に居を定めたという。
        
                              皆野椋神社 一の大鳥居
 社伝によると、日本武尊東夷征伐のおり、当地を通過される時、御矛を立て、祭神・猿田彦命・八意思金命・大己貴命の三柱の神を拝し給うたのが、当社の創祀。猿田彦命は、日本武尊の巡視をご案内した神。八意思金命は、知知夫国造の祖神。大己貴命は、国土経営の神である。
 元来は椋宮(倉宮:くらのみや)と称された古社で式内社・椋神社の論社の一つ。
        
                     木製の両部鳥居である二の鳥居
 
      二の鳥居の左脇には            皆野椋神社の案内板もあり。
  猿田彦大神の名が刻まれた石祠等を祀る。
 椋神社 御由緒  皆野町皆野二三八
 ◇蓑山を信仰の象徴として里の各所に祀る氏神の総鎮守
 椋神社は延喜式に記載されている秩父郡内二社のうちの一社で、同名の神社は当社を含めて郡内に五社ある。
 社記に、景行天皇四十年日本武尊が知知夫国を巡見した折、この地に至り御矛を立て猿田彦命・大己貴命・ 
八意思兼命を鎮祭したことを創祀としている。
 古くは「椋宮」・「倉宮」とよばれ、元慶五年(八八一)円福寺を開いた源仁僧都が当社を篤く崇敬し別当を務める処となった。その後秩父庄司畠山重能・重忠親子が崇敬し、鉢形北条氏の臣用土新左衛門、江戸期には阿部豊後守、松平下総守らが崇敬した。
 明治初年神仏分離によって寺の管理を離れ、村社に列せられ、明治四〇年(一九〇七)近郷の二七社を合祀した。なかでも蓑山(587メートル)に鎮座する蓑山神社は椋神社の奥宮としてそのままに鎮座し、昭和四〇年代頃まで養蚕守護の信仰を集めるほか、雨乞いのご利益もあらたかな神社としてこの地方に生活する人びとから農耕の神として位置づけられている。
 例祭一〇月八日に奉納される獅子舞は埼玉県指定無形民俗文化財で「雨乞いザサラ」とも呼ばれ、一二頭もの獅子が舞う姿は賑やかであると共に迫力がある。獅子舞は用土氏の頃に始められたと伝えられ、その頭は「重箱獅子」と呼ばれる古い作風にみられる長方形の箱型をなし、桃山期作として町指定民俗文化財に登録されている。
 ◇ご祭神 猿田彦命・大己貴命・ 八意思兼命(以下略)
                                      案内板より引用
 

         
                       拝 殿
 
      拝殿に掲げてある扁額               拝殿内部            
        
           境内に設置されてある「皆野椋神社の獅子舞」案内板
 埼玉県指定民俗文化財 皆野椋神社の獅子舞
 明治一五年の大火で記録類が焼失し、詳しい縁起はわかりませんが、児玉町小平の石神神社獅子舞の起源に、「元禄十二年皆野に伝わる獅子頭が小平に分けられ……」と伝えられています。これが皆野椋神社獅子舞に関する、最も古い記録です。
  獅子頭は塗獅子で、狛犬型、龍頭型とがあり、髪は栗毛のたてがみで、大狂い、女獅子、小狂いの三頭を一組として四組一二頭あります。
演目は一八庭で、神前に子どもたちの舞うお神楽三拍子に始まり、ひきま、わせ、おく、弓掛り、まり掛り、みいれ、ひょうたんまわし、幣掛り、竿掛り、花掛り、お神楽ざさら、輪掛り、橋渡り、下妻、宿割、天狗拍子で終わります。三頭の獅子の足が腰鼓にあわせてぴたりぴたりときまるのが特徴で、師匠ざさらといわれる「宿割」はその特色を最もよく表しています。
  一日の行事の中ほど、中入りには二人立ちの大神楽獅子二頭が勇壮に舞い、道化たちがからみます。また、演目の最終には一二頭の獅子に、中立四人が加わり、一六人ざさらともいわれる天狗拍子が舞われます。
 古くは上郷組、下郷組とに分れ、交代で九曲ずつを受持って演じていました。また、今は行われていませんが、椋神社と土京遥拝所の間にご神幸に供奉した道中または行列といわれた儀式は荘重なものでした。
 実施期日 一〇月七日 土京遥拝所 一〇月八日 椋神社
                                      案内板より引用                                                                                                                                
            
                      本  殿               

        
                                     神楽殿 
                 
        
                 本殿の後方に境内社が少々狭い空間にズラッと並んでいる。
 祖霊社 八坂大神 正一位伏見稲荷大神 太宰府天満宮 4社合殿(産泰大神・愛宕大神・秋葉之大神・八幡大神)6社合殿(山之神大神・諏訪大神・摂社末社之大神・駒形大神・金刀比羅大神・秩父彦之大神)
        
        社殿の右手には護国神社もある。これがまた立派な佇まいだ。
        
                        本殿の右側には石祠が所狭しと並んでいる。
                一部だが、社号や祭神名が記された木の札が掛けられている。
       高良玉垂大神・天児屋根神社・斎主大神・神明大神・菊理姫大神・事解男大神
             雷電大神、善女龍王大神・句々馳智大神・河菜姫大神・埴山姫大神

            境内にある「宝物殿」        境内に設置されている由来碑
 椋神社の主祭神猿田彦命は貞観13年従5位上に叙せられ延喜式神名帳に秩父郡2座とある内の1社と伝えられている。椋神社は郡下に同名社5社をかぞえ、明治政府はいずれも式内社と称することを許したという。その中で平将平、平重能の墓がある円福寺が鎮守として崇敬し、付近には古墳の多いことなどからわが椋宮が本社であるとの説もある。
 当社の草創をたずねれば景行天皇41年皇子日本武尊が東国御巡見の折この地に至り猿田彦命のお導きによっての御創祀と伝えられる。
 新篇武蔵風土記稿に「村ノ鎮守」と載せられ小作地を持ち氏子から社地参道寄進のあったことからも崇敬の深さが知られ元禄年間以前より舞われている獅子舞を始め神代神楽の奉納が今なお盛んなことにもあらわれている。
 
爾来氏子一同熱心な奉仕を続けて昭和621019日伊勢本宮参拝を果たし、永代御祈祷御神符拝受を畏み、今年あたかも平成の御大礼を奉祝しこの由緒を誌し後世に伝える

 ところで、皆野椋神社の主祭神のトップである「猿田彦」は、『古事記』および『日本書紀』の天孫降臨の段に登場する(『日本書紀』は第一の一書)。天孫降臨の際に、天照大御神に遣わされた邇邇芸命(ににぎのみこと)を道案内した国津神である。
 猿田彦の特徴はその異様な容姿にある。鼻の長さ7(あた)、背の高さ7(さか)、口赤く、眼は八咫鏡(やたのかがみ)のように輝いていたという。「鼻長七咫、背長七尺」という記述から、天狗の原形とする説がある。「天地を照らす神」ということから、天照大神以前に伊勢で信仰されていた太陽神だったとする説もある。
 天孫降臨の際に道案内をしたということから、後世、道の神・旅人の神とされるようになり、道祖神と同一視された。そのため全国各地で塞の神・道祖神が「猿田彦神」として祀られていて、この場合、妻とされる天宇受売神とともに祀られるのが通例である。
 猿田彦命を祭神とする神社は全国に二千余社を数え、交通安全の守護神として警視庁にも祀られている。
         

              専用駐車場から見える武甲山
 皆野町椋神社の西側は荒川が流れ、その台地上にこの社が鎮座しているのが来てみると良く分かる。また武甲山がよく見える位置にあるのも何か印象的だった。椋神社にとっても武甲山は蓑山と共に神聖の山の対象だったのだろうか、とふと感慨にふけってしまった。

 



                                                          

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永明寺古墳

 永明寺古墳は東北自動車道のすぐ東側、稲荷塚の鷲宮神社から埼玉用水路に沿って西に向かった所、地形的には利根川が群馬側に張り出して蛇行した所にあり、村君古墳群内にある前方後円墳である。
 この古墳は、羽生市で最大の前方後円墳(埼玉県羽生市村君)で、全長78m、高さ7mで埼玉県下で10番目の大きさを誇る。真言宗・永明寺の境内にあり、前方部に文殊堂、後円部に薬師堂が祀られている。1931年に薬師堂の床下を発掘、緑泥片岩等を用いた石室から衝角付冑、挂甲小札、直刀片、鏃、金製耳輪などが出土したらしい。

所在地
     埼玉県羽生市下村君字谷田
区  分     埼玉県選定重要遺跡 羽生市指定史跡
築造年代        6世紀初頭(推定) 埋葬者不詳


     
地図リンク
永明寺と永明寺古墳
 永明寺は、真言宗豊山派・堤の延命寺の末寺で、五台山薬師院と号する。永明寺古墳は古墳時代後半に作られたもので、高さ七m、全長七十三mの前方後円墳である。
 前方部には文殊堂、後円部には薬師堂がある。昭和六年に薬師堂の下を発掘したところ、大きな石を敷いた石室が見つかり、中から直刀、やじり、金製の耳輪などが出土した。
 市内にはほかに毘沙門塚古墳など二十三の古墳があるが、規模、保存状態の点で市内の代表的古墳である。
ま た、薬師堂には貞治六年(1366)に修造された高さ八十五センチ、台座六十センチの県指定重要文化財である木造薬師如来像が安置されている。『細い螺髪、丸い顔立ちとおだやかな衣文につつまれた体躯など、一見平安末期の定朝様の流れがこの時代にも生き続けていたことの証明となる遺品である。』といわれている。
                                                                           埼玉県   昭和五十五年三月
                            
                               境内案内板より引用

      
       永明寺正面の真浄門の手前左側に永明寺古墳の石碑があり、その門の先に古墳がある。

         
                境内からの様子。案内板の奥にあるこんもりとした山が全て永明寺古墳

 永寺古墳は現在の地形では利根川を見下ろす台地の上に築造されている。古代この利根川は幾度と氾濫を繰り返し、現在の流路になったといわれるが、それにしてもあまりにも利根川に近すぎる。築造当時それほど近くなかったかもしれないとの見解があるかもしれないが、それでも大きな?を感じてしまった。また台地上にたてられたといっても標高17m、水田からの比高は僅かに2mで、主軸はほぼ東西に向いている。利根川の氾濫がおこった場合、その濁流を横正面から直接受けてしまっただろう。河川の氾濫地域の真っ只中に古墳を造る、この永明寺古墳の埋葬者はどのような考えでこの地域に古墳を造ったのだろうか
 自分が生まれ育ったこの地でこの先も眠りたい、という観念的な考えは解らない訳ではないが、それだけではないはずだ。時の為政者たちは重要な現実問題の一つの解決策の一つとして古墳築造を行ったと考えたほうが自然だ。それは羽生市にある永明寺古墳が属する村君古墳群のほかにも多くの古墳群が現存しているが、それらの立地条件をみてもある程度判明できる。
   新郷古墳群 (羽生市上新郷、利根川南岸1㎞弱の自然堤防上に分布に存在)
   今泉古墳群 (羽生市今泉、利根川南岸1.5kmに存在。4基の古墳中熊野塚古墳のみ現存)
   尾崎古墳群 (羽生市尾崎、利根川南岸に存在、河川の氾濫などでかなりの数の古墳が埋没)
   羽生古墳群 (羽生市羽生、羽生駅北側に存在、毘沙門山古墳が有名)
   小松古墳群 (羽生市小松、地下3mから古墳の石室が発見され、古墳が沖積層の下に埋没)
   村君古墳群
 埼玉県の東部は関東平野のほぼ中央部に位置し利根川や中川にそって上流から妻沼低地、加須低地、中川低地と続き、低地に囲まれるように大宮台地が大きな島状にあり、 このうち羽生市がある地帯は加須低地と言われ、利根川中流域の低地のひとつとして南の大宮台地と北の館林台地の間に位置している。
 この加須低地の場合、ほかの低地とは少々違う点があり、ひとつは自然堤防と思われる微高地の地表のすぐ下からしばしばローム層が発見されることで、低地の浅い部分の地下にローム層が存在することは一般では考えられないことらしい。。しかもなぜか微高地の下にローム層があり、後背湿地の下からは見つからない。ふつう自然堤防と後背湿地の構造的な違いは表層部付近だけであり、地下はともに厚い沖積層が続くものらしい。
 
もうひとつは背湿地と思われる部分の一部では軟弱な泥炭質の層が著しく厚いことで、代表的なのは羽生市三田ヶ谷付近(現在さいたま水族館がある付近)で、泥炭質の層が10mもあるという。

 つまりこういうことだ加須低地のすぐ下には台地が隠れている(埋没台地という)ということだ。それも古墳時代前後の。加須低地は沈んだ台地の上にできた特殊な低地だったというのだ。前出の小松古墳は地下3mから古墳の石室が発見され、古墳が沖積層の下に埋没していることがわかり、また行田の埼玉古墳群や高山古墳なども本来台地の上につくられたものが、2.3mの沖積層(古墳が築かれた後に堆積した土砂)で埋まっていることが明らかとなったという
         

 このような古墳築造のためには、巨大なる労働力と経済力と政治力を必要とすることはおよそ疑いがないところだ。しかもこの自然災害の氾濫地帯で、造ったとしてもすぐ破壊され、埋没してしまうことが解っているのになぜこれほどの「一大労働力」を動員する必要があるのか。悩みながら考え続けた今現在の筆者の結論は以下の通りだ。

 
1 平時において古墳はそこに眠っている為政者の鎮魂と祭祀のための施設
 2 利根川等の河川の氾濫が発生した場合(自然災害)、防災施設としての堤防的な施設

 3
 人為的に緩急な事態が発生した場合の要塞的な施設

 「
平和時における鎮魂と祭祀」施設と「自然災害に対する堤防的な防御施設」「人為的な交戦状態に陥った場合の防御施設」は共有するものだろうか。
 「自然災害に対する堤防的な防御施設」に関しては
古墳群の配置
状況を考えるとあり得ると思う。が「人為的な交戦状態に陥った場合の防御施設」はどうであろうか。常々古墳や古墳群地形条件を見ていると、古墳の要塞のような防御施設という一面を考えずにはいられない
 関東地方古墳は近畿地方比べて規模は小さい事実は否定できないが、
鹿島古墳群のように小さな古墳でも集めれば少人員を分散して隠すことができ、防御的な役割は十分に役に立つ。
 良い例が埼玉古墳群だ。埼玉古墳群のような100mクラス級古墳を9基密集して造り、二重の周濠で固め、周濠は基本的には空堀だったらしいが地盤は軟弱な泥炭質の層で水はすぐ溜まり、地下には潜らない為、忽ち水濠に変貌する。また埼玉古墳群9基の中に丸墓山古墳がある。この古墳だけ円墳なのだが何故丸墓山古墳だけ円墳なのか今もって謎とされている。しかしこの古墳は高さが19mあり、「防御施設」として考えた場合十分な「見張り台」的な役割を伴うことができる。現に石田三成の忍城攻防戦においてこの古墳は本陣として立派に機能していたことを考えると従来の古墳の見方も少し様相が異なって見えてくる。
 さてこの
ように見張り的な機能も充実している古墳群は立派な要塞に変貌するのではないだろうか。これを防御施設と言わずして何といえばいいのだろうかと思うのだが、このような考え方は飛躍しすぎであろうか。
          
                  羽生市永明寺の銀杏 羽生市指定天然記念樹
 

 永明寺のイチョウ       天然記念物  羽生市指定

イチョウは古生代末に出現し、生きた化石といわれており、進化の過程がたどれたり、先祖返りが見られるなど学術的に貴重な植物です。中国原産で、観音像の渡来とともに日本に持ち込まれたとする説があります。雄雌に分かれる植物で、この樹は雌株ですが、珍しく大きく成長しています。高さ37.5m、目通りの周囲は4.85m、根回りは7.7mもあります。推定樹齢は500年を超えるものと思われます。
                                                          案内板より引用                                                      

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