古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

下崎氷川神社


        
             
・所在地 埼玉県加須市下崎17151
             
・ご祭神 素盞嗚命
             
・社 格 旧下崎村上分鎮守 
             
・例祭等 例大祭 十月九日
    
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1083619,139.552614,17z?entry=ttu 

 上崎雷電神社から南西方向に目を移すと、こんもりとした林が見える。実はその辺りの一角に下崎氷川神社が鎮座する場所となる。直線距離にして230m程しか離れていないため、周囲は宅地化されていて現在は目立たないが、嘗てはお互い目視も出来る位の位置関係ではなかったろうか。 
       
                    こんもりとした社叢林の中に鎮座する下崎氷川神社
『日本歴史地名大系』 「下崎村上分」の解説
 [現在地名]騎西町下崎
 東は下崎村下分、西は上崎村。北東側を備前堀(びぜんぼり)川が流れる。正保四年(一六四七)の検地まで下分と一村であったという(風土記稿)。
 寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳によれば下崎上分の高五一二石余、反別は田方二九町九反余・畑方二五町二反余。元禄一五年(一七〇二)の河越御領分明細記によるとほかに一〇九石余があり、宝暦五年(一七五五)の下崎村上分明細帳(小池家文書)では田高三七五石余・畑高二四六石余、家数四九・人数二一九、馬九。
        
            社叢林の中でもひときわ目立つ赤い両部鳥居
 
  鳥居上部に掲げられている個性的な社号額  社は決して規模は大きくないが、社叢林に覆わ
                       た参道を進むと、神威的な神々しさを感じる。
        
                                       拝 殿
 
     社殿右側奥に祀られている石祠群        境内に設置されている案内板
         詳細不明
 氷川神社 例大祭 十月九日
 当社は素盞嗚命を主祭神とし、「おしかさま、おひかわさま」の名で親しまれている。氷川神社は概ね元荒川を東限、多摩川を西限とする区域に分布するが、当社が北限となる。伝えによると、当地は古くから米麦中心の豊かな農村であったため、五穀を守護し疫病を祓う神である氷川大明神を祀ったという。寛政五年(一七九三)に社殿を再建した棟札があることから、その創建はかなり古いものと思われる。
 古くは御神像が奉安されていたが、明治時代初めの神仏分離の際に、村内の民家に移された。 なお、下崎には八幡神社も村鎮守として祀られているが、これは江戸時代、当村が上分・下分 の二村に分かれていた名残りによるものである。  
加須市教育委員会
                                      案内板より引用
       
       社殿奥に聳え立つイチョウの巨木。注連縄等はついていないが、御神木と思われる。
      尚このイチョウの木は加須市保存樹木に平成18年9月29日に指定されている。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「加須市HP」「境内案内板」等



   

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上崎雷電神社


        
              
・所在地 埼玉県加須市上崎24021
              
・ご祭神 別雷命(わけいかづちのみこと)
              
・社 格 旧上崎村鎮守 旧村社
              
・例祭等 例大祭 1014
    
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1111209,139.5507081,17z?entry=ttu

 内田ヶ谷多賀谷神社から一旦西行し、埼玉県道308号内田ヶ谷鴻巣線に合流後、左折し南方向に進路をとる。1㎞程進んだ交差点を左折し、「KAZOヴィレッジ通り」を600m程進むと右手に上崎雷電神社ののぼり旗ポールが2基、そしてその奥には社号標柱、鳥居が見えてくる。
 実のところ、「KAZOヴィレッジ通り」沿いには、適当な駐車スペースはない。一旦南側に回り込むと、雷電神社社務所近くに専用駐車場があるので、そこに停めてから参拝を開始した。
        
                     
KAZOヴィレッジ通り沿いに鎮座する上崎雷電神社
 加須市上崎地域は、嘗て旧
騎西町に属し、見沼代用水(星川)左岸に位置していて、集落は地域中央を東西に通るKAZOヴィレッジ通り沿いに多い。地形を確認すると、大宮台地に連なる埋没台地および自然堤防上にあるとのことだ。
 地域の大部分は広大な田園風景が広がる稲作地帯であるが、『田園簿』によれば「田高四二三石余・畑高六七五石余」であり、この地域も田地より畑地の方が多かったようだ。
                
                           青空に映える社号標柱
 上崎地域北西側には、騎西領用水(きさいりようようすい)が星川(見沼台用水)から分岐して流れている。この騎西領用水は、新川(につかわ)用水・中用水・南用水・五ノ神用水の総称。幹川水路である新川用水の名で称されることも多い。元圦は星川の上崎村(現加須市)地先に設けて、忍領地域の落水を取水するものであった。星川分水口に「上崎洗堰」があり、これより新川圦前までの三〇〇間余を新川溜井と称して、用水の一時貯溜を行っていた。
 上崎洗堰の設置時期は未詳であるが、延宝元年(一六七三)の訴訟文書(見沼土地改良区文書)などにより、近世初頭と思われる。この堰については上流忍領と下流騎西領との間でたびたび水論が起こっている(大熊家文書)。新川用水は、元和七年(一六二一)の上早見村地詰帳(野房家文書)や、寛永(一六二四―四四)初期と考えられる武州騎西城絵図(岩瀬家文書)などからみると、この頃にはすでに開削されていたと考えられる。

 なお『新編武蔵風土記稿 上崎村条』にもこの用水に関しての説明が載せられている。
「星川
村の南西を流る、幅十二間程、土橋一ヶ所あり、此川に樋を設け水を引分け、騎西領組合の用水とす、これを新川用水と云、その幅二間ばかり、樋の長さ十二間、公よりの修理にて組合の村々多し、又西の方に長八間の圦樋を設け、水を引分ち用水とす、是を九ヶ村用水と云、當村及上會下・中ノ目・戸室・竿莖・鴻莖・西谷・下崎村上下分皆組合なり」

        
                社号標柱の先にある一の鳥居     
                   参拝した時間帯は陽光がほぼ正面となる昼間時
       正面からの撮影をすると逆光となり、斜めからのアングルとなった。
        
                  静まり返った境内
  北風は冷たがったが、陽光が差し込む雲一つない晴天の中、気持ちよく参拝ができた。
        
       参道を進む途中、左側に「保存樹木」であるシイの大木が聳え立つ。
              加須市指定番号27号。幹周 252㎝。
        
                 参道の先にある二の鳥居
           二の鳥居の先には社殿はなく、住宅しか見えない。
                      社殿は二の鳥居を過ぎて右側に鎮座している。
        
                 社殿と二の鳥居の配置
        
                     拝 殿
        
                 拝殿右手にある案内板
 雷電神社 例大祭 十月十四日
 当社の創建は、上州板倉雷電社の分霊を祀ったことによるという。祭神は別雷命。恵みの雨をもたらす神として信仰され、現在も雨乞いに用いた池が残る。
 雷電様は相撲好きな神様としても有名。境内には「関東三十三高芝の一つ」と呼ばれた土俵も現存している。
 拝殿には明治二十四年奉納の、<利根川・新川・三間圦工事絵馬>がある。これは前年の大洪水 で被害を受けた諸河川の工事竣工を記念したもの。
 利根川に浮かぶ帆掛船、新川の作業に従事する女性たち、三間圦付近に置かれた宿所や監督所など、工事の様子が鳥瞰的に描かれている。
                                      案内板より引用

 また案内板に記されている加須有形民俗文化財(指定日 平成4316日)である「利根川・新川・三間圦工事絵馬」は、『加須インターネット博物館』において、以下のように説明がされている。
「利根川・新川・三間圦工事絵馬
明治(めいじ) 23(1890) 洪水(こうずい)で被害を受けた河川の工事竣工(しゅんこう)を記念して奉納されました。
工事の様子が鳥瞰的(ちょうかんてき)(=鳥が上空から見おろすように全体を広く見渡すこと)
に描かれています。
        
     拝殿上部に掲げてある扁額と、その周りには多数の奉納額が展示されている。
    地域の方々のこの社に対する崇高の思いがこの奉納された額の多さに現れている。
   
 社殿左側奥に祀られている「浅間神社」と      社殿右側には「元文五年(1740)と刻まれ
    その左側にある詳細不明な石碑       た「辨財天供養」の石碑がある。

 上崎雷電神社から西方向に約700m行った場所に「臨済宗円覚寺派 大光山龍興寺」がある。上崎雷電神社とは直接関係はないが、上崎地域の歴史を語る上において、この寺の存在抜きには語れない。
龍興寺にある案内板によると、大同年中(約一二〇〇年前)天祐和尚によって開かれたという。古くから足利氏と関係が深く、境内には足利持氏とその子春王安王の供養塔(県指定史跡)が現存していて、足利氏ゆかりのものも多く伝わっていたらしかったが、現在は足利家から寄進されたという膳と足利政氏・義氏からの寺安堵状(町指定有形文化財)が残っているのみであるという。
       
             社殿右側奥に聳え立つ
「保存樹木」であるイチョウの大木
                         加須市指定番号26号。幹周 305㎝

『新編武藏風土記稿 埼玉郡上崎村』にはこの寺に関しての記載がある。
「龍興寺 禪宗臨濟派相模國鐮倉圓覺寺末大光山と號す、延寶六年住僧大澄が書しものに、大同元年天祐草創の地なりとあれど、上りたる世の事なれば、いかん共云がたし、中興開山曇芳は、永享八年九月七日寂せり、此僧は鐮倉管領持氏の伯父なりと云傳ふ、本尊釋迦、毘首羯磨の作、座像にて長七寸五分、又持氏春王安王の墓三墓たてり、持氏法名長春院陽山繼公、永享十一年二月十日、春王は花山院春嶽香公、嘉吉元年四月日、安王は太山院天嶽雲公、嘉吉元年四月と彫たるよし、今は文字も減して、そのさま古きものには論なかるべし、【足利治亂記】をするに、永享年中持氏京都に叛き相州早川尻の戰ひにうち負け、永安寺に入て自害す、幼子春王・安王は下野國結城が許に逃れ、日光山に隱れ居けるが捕はれとなり、京へ送られける塗中、美濃國垂井の金蓮寺にて自害し、骸は高野山ヘ送るとみえたり、又【鐮倉九代記】には金蓮寺に葬しよし載す、今按に當寺古河公方政氏・義氏寄附の文書も藏すれば、成氏のとき父供養のために築し墓なるべし、」

 足利持氏は「第4代鎌倉公方」である。この「鎌倉公方」とは、史実によると、1333年(元弘312月建武政権下で足利直義が〈関東十ヵ国〉(相模,武蔵,上野,下野,上総,下総,安房,常陸,伊豆,甲斐)の支配をゆだねられ後醍醐天皇の皇子成良親王を「鎌倉将軍府」に任命して鎌倉に入ったことにはじまる。その後室町幕府を開いた足利尊氏は、関東を押さえるために次男の基氏を「鎌倉公方」としてその本拠地を「鎌倉府」と称し、関東八か国(武蔵・相模・下総・上総・安房・常陸・上野・下野)と伊豆・甲斐を合わせた一〇か国を統括した。一時的は陸奥・出羽も含む奥州をも支配した時期もあった。
 1336年(延元1・建武311月京都に幕府を開き、その嫡子義詮を鎌倉にとどめ,これを〈鎌倉御所(鎌倉公方)〉とし,そのもとに「関東管領」を配置して東国の政治一般にあたらせた。その政治組織を鎌倉府といい,あたかも小幕府の観をなした。
 以後その子孫(氏満(うじみつ)、満兼(みつかね)、持氏(もちうじ))がこの職を世襲した。
 歴代の公方とも将軍への対抗意識が強く、また鎌倉府の領国に対する主要な権限を幕府直轄の機関である「関東管領」に握られていたため、その争奪をめぐってしばしば争いを繰り返していた。持氏の代になり、当初「上杉禅秀の乱」では幕府は持氏を援助したが,乱後幕府と持氏の間が不和となり、1428年足利義教が将軍となってからは京・鎌倉間の対立はいっそう激化した。鎌倉府内部でも幕府との協調を説く関東管領上杉憲実(のりざね)と持氏の不和が顕在化し,永享の乱が勃発し、1439年持氏は自害,鎌倉公方は滅亡する。

 龍興寺中興の祖となる第3世曇芳和尚はその足利持氏の伯父という。伯父とは父母の兄や弟、また父母の姉妹の夫で、父母の兄には「伯父」という。持氏の父親である満兼には兄がいたのであろうか。どの文面にもそれらしい人物はいない。それとも母親とされる「一色氏」の義兄であろうか。
 どちらにしても埼玉県指定史跡として「足利持氏、及びその子春王安王の供養塔」が現存しており、持氏の子孫である足利政氏・義氏からの寺安堵状も残っているのであることからも、何かしら鎌倉公方・足利氏と関係した人物がいたことは確かであろう。

 この龍興寺は臨済宗鎌倉円覚寺末寺という。この円覚寺は、弘安5年(1282年)に鎌倉幕府執権・北条時宗が元寇の戦没者追悼のため中国僧の無学祖元を招いて創建したといい、北条得宗の祈祷寺となるなど、鎌倉時代を通じて北条氏に保護されていた。
 しかしその後の鎌倉幕府の滅亡から、建武の新政を経て南北朝時代に移ると、新しく鎌倉を掌握した鎌倉公方・足利氏はこの寺を支援するようになる。このお寺のあちこちには足利氏の「丸に二引き両」の家紋があり、鎌倉公方との繋がりが深かった何よりの証拠ではなかろうか。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「
日本歴史地名大系」「日本大百科全書(ニッポニカ)」
    「百科事典マイペディア」「改訂新版 世界大百科事典」「加須インターネット博物館」
    「境内案内板」等

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内田ヶ谷多賀谷神社

 多賀谷氏は道智氏の一族で、武蔵七党のひとつ野与党に属し、道智頼基の子・光基(みつもと)を祖とし、武蔵国埼玉郡騎西荘多賀谷郷の地頭職として赴任し、本拠地としていた。周辺には、寄居・タテヤマ(館山か)などの、館跡に関する地名が残っている。
 1190年(建久元年)117日、源頼朝上洛の際の先陣の髄兵の中に多賀谷小三郎の名があり、『吾妻鏡』にも御弓始の射手として多賀谷の名が散見される
 吾妻鑑卷十「建久元年十一月七日、頼朝上洛随兵に多加谷小三郎」
 卷二十一「建暦三年五月二日、和田の乱、北条方たかへの左近は討死す」
 卷三十二「嘉禎四年二月十七日、多賀谷太郎兵衛尉、多賀谷右衛門尉」
 卷四十一「建長三年正月十日、多賀谷弥五郎重茂」
 卷四十六「建長八年正月十三日、多賀谷弥五郎景茂」
 元々、多賀谷郷一帯は小山氏の領の一部であったが、小山義政の乱で功のあった結城氏にこの地が恩賞として与えられるに及び、多賀谷氏は結城氏の家人となり、氏家の代に常陸国下妻へ移住。1440年(永享12年)に勃発した結城合戦では、氏家は落城寸前の結城城から結城氏朝の末子・七郎(後の結城成朝)を抱いて脱出して佐竹氏を頼り、後年、結城家の再興に尽くした。
1454年(享徳3年)の享徳の乱では、鎌倉公方足利成氏の命により関東管領上杉憲忠を襲撃。憲忠の首級をあげ、その功により下妻三十三郷を与えられ、「金子に多賀谷という名字と多賀谷の紋(瓜に一文字)を下された」と記していて、結城氏の家臣ながら関東諸将の会合に列席する地位を得た。だが、氏家の弟で結城成朝より1字を受けた多賀谷高経(朝経)が成朝を暗殺したと伝えられる(『結城家之記』『水谷家譜』東大史料本ほか)など、その後は結城氏からの自立を図り、佐竹氏との同盟を強め、反北条氏の立場を鮮明にしてゆく。
 重経の代に最盛期を迎え、領地を20万石にまで拡大。1590年(天正18年)の小田原征伐に参戦して豊臣秀吉から領土を安堵されたが、文禄の役では病気と称し参加しなかったため、領地の一部を没収1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いにおいては、家康の再三の出陣要請にも応じず、会津征伐に向かう徳川家康の小山本陣へ夜襲をかけようとした事が露見し、改易された。重経は流浪の末、死去し、その後。多賀谷氏は没落していく。
 ともあれ、戦国時代には20万石の大名として常陸国下妻城主として君臨していた多賀谷氏の故郷が、武蔵国埼玉郡内「田ヶ谷(多賀谷)」地域であったというのも興味深い事である。
        
             
・所在地 埼玉県加須市内田ヶ谷676
             
・ご祭神 倉稲魂命
             
・社 格 不明
             
・例祭等 例大祭 1013
    
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1176611,139.5456808,16z?entry=ttu

 外田ヶ谷久伊豆神社の南側正面である一の鳥居が接している埼玉県道148号騎西鴻巣線を1.8㎞程東行し、「田ヶ谷小学校前」交差点を右折する。「内田ヶ谷集会所」が左手に見えるすぐ先の丁字路を左折し、左方向に大きく迂回するように進むと民家の間から内田ヶ谷多賀谷神社が見えてくる。
社には専用駐車スペースがないようなので、近場の路肩に停めてから急ぎ参拝を行う。
        
           新川用水(騎西領用水)のすぐ南側に鎮座する社
『日本歴史地名大系』 「内田ヶ谷村」の解説
[現在地名]騎西町内田ヶ谷
正能(しようのう)村・騎西町場(きさいまちば)の西にあり、西は騎西領用水を隔てて外田ヶ谷や村。集落は同用水南岸に沿う自然堤防上に立地する。嘗ては外田ヶ谷村と一村であったが、騎西領本囲いの堤を築いた時、堤防の内となった地域を内田ヶ谷と称した(風土記稿)。
円福寺記録(内閣文庫蔵)に収める多賀谷譜によると、騎西庄多賀谷郷は多賀谷氏の本拠で、字中郷(なかごう)の新義真言宗大福だいふく寺一帯は室町時代の多賀谷館跡と伝える(風土記稿)。
 
     鳥居の上部に掲げてある社号額        鳥居を過ぎてすぐ左側に鎮座する
                             境内社・八坂社
        
                    境内の様子
『新編武蔵風土記稿 内田ヶ谷村条』には「多賀谷氏」に関して意外と詳しく載せている。長い文章であるので、文脈ごとに最初は「原文」、そして後に現代語での筆者の拙い解説ではあるが載せたいと思う。尚旧漢字も幾つかある為、これも現代漢字に変換して解説を行う。
『新編武蔵風土記稿 内田ヶ谷村条』
=原文=
古は西庄多ヶ谷郷と唱へ多賀谷氏住せしと云、多賀谷記を按るに、武蔵国埼玉郡多賀谷郷の住人、左衛門尉家政は、金子十郎家忠が二男なり、仁元年頼經の随兵たり、其子彌五郎重茂頼嗣に仕へ、建長三年弓始を勤め、其子五郎景茂宗親王に仕へ、康元元年弓始に景茂其器に撰れ、其子彦太郎家經、其子五郎政忠、其子彦太郎家茂相續す」
=現代語訳=
 嘗てこの地は西庄多ヶ谷郷と言い、多賀谷氏が地頭職として赴任して以来、代々この地に住んでいた。多賀谷記という書物では、多賀谷左衛門尉家政は桓武平氏村山党の金子十郎家忠の次男であるともいう。この多賀谷家政は暦仁元年(1238)時の鎌倉将軍である九条頼経(摂家将軍・在位12261244)の随兵として仕えていた。その子彌五郎重茂は鎌倉第5代将軍である九条頼嗣(摂家将軍・在位12441252)に仕え、建長三年(1251)御弓始の射手を勤めた。その子五郎景茂は鎌倉第6代将軍・宗親王(後嵯峨天皇第一皇子・在位12521266)に仕え、康元元年(1256)御弓始の射手に選ばれている。その子供である彦太郎家經から五郎政忠、彦太郎家茂と一族は代々相続されてきた。
*筆者の調べたところ、「吾妻鑑」では嘉禎4年(1238217日九条頼経の随兵として、多賀谷太郎兵衛尉(第21番)、多賀谷右衛門尉(第26番)の名前が出ていて、その2人の内のどちらかではなかろうか。因みに「嘉禎4年」は1123日に「暦仁元年」と改元されているので、そこから上記のミスがあったのだろう。
=原文=
其子彌五郎政朝、下總結城左衛門尉滿廣の子、原五郎光義を聟(娘むすめの夫おっと)となし、家を繼しむ、光義古郷忘れ難く、結城に歸りしかば、嫡子彦四郎氏家を始め、家臣随ひ来ると載たれば、此頃まで當所に住せしなるべし、又村内大福寺の記に、多賀谷氏下妻へ移し時、館蹟へ建立と云事見えたれど、同書に據ば光義當所を去し後、彦四郎氏家一旦常陸に趣き、後寛正年中下妻城を取立住せしとあれば、寺傳こゝより下妻へ移りしといふは誤りなり、その寺の條下に辨せり、且家政重茂等がことは【東鑑】に載する所も多賀谷記と符合せり、又當國七黨系圖野與黨に、道地法花坊・多賀谷次郎光基・同彌三郎某・同三郎重基・同四郎久基など云人見ゆ、道地村と云るは、隣村なれば是等の人々も當所に住せしこと知るべし、又外田ヶ谷村名主太四郎の先祖は、多賀谷氏に仕へしものなり、其家傳に多賀谷氏の先、頼朝に仕へて、安藝(芸)国藻刈城を賜はり、遥の後宮内少輔武重が時、毛利氏に仕ふと云のみにて、其詳なることは知らず
=現代語訳=
 多賀谷彦太郎家茂の子である彌五郎政朝の代に、下総国・結城左衛門尉滿広の子である原五郎光義を聟(むこ)として向かい入れ、多賀谷氏を相続させたが、光義は故郷である結城、下妻が忘れられず、嫡子彦四郎氏家を始め、一族・家臣も従えて帰ってしまった。尚、光義がこの地から離れた後に、彦四郎氏家は一旦常陸国に赴き、その後寛正年中(14601466)に下妻城に戻ったというが、村内の大福寺の記録には、光義と一緒に彦四郎氏家は下妻へ移ったというが、それは誤りである。
 多賀谷彦太郎家茂以下の事項は「吾妻鑑」にも記載されているので、多賀谷記は信頼できる資料である。また「武蔵七党系図」には道地法花坊・多賀谷次郎光基・同彌三郎某・同三郎重基・同四郎久基など人名が載っている。
*武蔵七党系図
「野与六郎基永―道智法華坊頼意―平太郎頼基―多賀谷二郎光基―弥三郎□□、弟に三郎重基、四郎久基、五郎重光、六郎時員」
 内田ヶ谷村の隣村に「道地村」があるのも、多賀谷氏に関連した地名であろう。また外田ヶ谷村名主太四郎の先祖は、多賀谷氏に仕えていて、その後その一族は安芸国藻刈城を賜り、その後宮内少輔武重の時に毛利氏に仕えたというが、詳しいことは分からない。
=原文=
「當(当)村もとは内外の分ちなかりしが、騎西領本圍(囲)の堤を築し時、堤の内を内田ヶ谷と云ひ、堤の外を牛之助新田と云いが、後は外田ヶ谷と唱へ、二村に分てり」
=現代語訳=
 この村は嘗ては同じ「田ヶ谷村」であったが、騎西領本囲堤を築く際に、堤内を内田ヶ谷と言い、その外側を牛之助新田、その後外田ヶ谷と唱え、二村に分かれた。
        
                                      拝 殿
        
                 拝殿に掲げてある案内板
 多賀谷神社 例大祭 十月十三日
 当社の創建は古く、約五百年前、多賀谷光義が稲荷明神を郭内に勧請したことによるという。光義は敬神の念厚く、その際、牛頭天王・熊野社・弁天社などの社も祀ったと伝えられる。五穀豊穣と福寿に霊験あらたかなことから「福寿稲荷」とも呼ばれた。
 大正四年、これらを合祀したことにより「多賀谷神社」と改称した。主祭神は倉稲魂命で、農業の守り神として崇敬される。
 当社は、かつて米麦の収穫期にコメバツ・ムギバツ(米麦の初穂)と呼ばれる氏子の物納により維持された。現在は米代・麦代として現金を集め、その費用に充てている。
                                      案内板より引用
 
 社殿左側手前に祀られている境内社・天神社     境内東側隅に祀られている石祠。
        
                                   境内の一風景
 多賀谷神社の案内板にある「合祀前の鎮座地」を現在の地図で照合・確認すると、東西の範囲は西側端にある多賀谷神社(元稲荷社)から東側は大福寺を越えて、今の「内田ヶ谷地蔵尊」あたりまでの約1㎞まで。南北に関して北側は新川用水(騎西領用水)、南側は「備前堀用水」の左岸あたりの数百m程と推測されるので、東西に長いかなり大規模な鎮座地であったと思われる。


 ところで、関ヶ原の戦い以後の多賀谷氏は、どうなったのであろうか。佐竹氏から重経の養子となった宣家は、関が原の戦い後、佐竹氏に戻り、兄佐竹義宣の秋田転封に従い檜山城主となり、その後、宣家は出羽亀田藩岩城氏の家督を相続して亀田藩主を継いだ。
 一方、重経の実子・三経は結城秀康(松平秀康)の家臣となり、秀康の越前転封に従って越前松平氏の有力家臣となって、越前丸岡・三国で32千石を領した。三経の一族は1616年(元和2年)三経の子・泰経の死によって断絶したとされるが、血統は存続したという。



参考資料「吾妻鑑」「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉苗字辞典」
    「Wikipedia」「境内案内板」等

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外田ヶ谷久伊豆神社


        
              
・所在地 埼玉県加須市外田ケ谷7441
              
・ご祭神 大已貴命
              
・社 格 旧村社
              
・例祭等 どんど焼き 114日 例大祭 121
    地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1211753,139.530692,17z?entry=ttu

 加須市外田ヶ谷地域は同市西部に位置し、嘗ては旧騎西町に属していた。この社は外田ケ谷地域の北西部で、南東方向から南方向に流れが大きく蛇行する見沼代用水及び騎西領用水の左岸に鎮座している。道路端から続く社の参道が長く、嘗てはさぞ広大な社地を有していたものと思われる。周囲は道路側を除いて田園地帯が広がる中に社は静かに佇んでいる。
       
 経路途中は行田市・関根神社を参照。「関根集落センター」から見沼大用水左岸に沿って伸びる道を東行し、埼玉県道32号鴻巣羽生線との交点を直進する。その後大きく右カーブする先に同県道148号騎西鴻巣線と交わる丁字路に到着するので、そこは左折すると、すぐ左手に外田ヶ谷久伊豆神社の一の鳥居が見えてくる。
 但し鳥居周辺には適当な駐車スペースはないので、同県道148号騎西鴻巣線と交わる丁字路に到着する手前の細い道を左折し、社の北側回り込む先にある広い空間に駐車してから、参拝を行う。
        
                           県道沿いに建つ一の鳥居と社号標柱
 駐車した場所から100m程南側に一の鳥居があり、そこまで一旦回り込む必要があるのが意外と面倒であるが、そこは社への挨拶は基本であるため、その労力は惜しずに行う。それにしても一地域の社としては、意外と長い参道である。
        
               一の鳥居を越えた辺りで撮影
               遠くに二の鳥居が見えてくる。
『日本歴史地名大系』 「外田ヶ谷村」の解説
 [現在地名]騎西町外田ヶ谷
 内田ヶ谷や村の西にあり、見沼代用水および騎西領用水の左岸に位置する。田園簿によれば田高五六石余・畑高四三五石余、川越藩領。国立史料館本元禄郷帳では幕府領と旗本四家の相給。明和七年(一七七〇)と推定されるが幕府領分が川越藩領となり、文政四年(一八二一)上知(松平藩日記)。化政期には同藩領と前記旗本四家領(風土記稿)。幕末の改革組合取調書では旗本五家(前記四家を含む)の相給。検地は正保四年(一六四七)、のち元禄八年(一六九五)平岡次郎右衛門が実施した。

        
                          朱色が特徴的な両部鳥居形式の二の鳥居
 
    二の鳥居上部に掲げてある扁額     二の鳥居から暫く歩くと三の鳥居に達する。

 地域に根を下ろしたまさに「鎮守様」。参道を進みながら思う、この第一印象がピッタリな社である。市街地の社は参道は短いか、参道自体ほとんどない所もあり、「鎮守様」感が損なわれているケースが多々見られる。この社は宅地化された塀や垣根を除くと、囲いのない参道が一本伸びているのみ。その素朴さが却って参道の先にある境内や社殿に対しての、神聖性を徐々に押し上げるような効果があるように、筆者は勝手に解釈してしまうのだ。
 行政区画上、何処までが神社の管理区域なのかも見た目漠然としているので、その事も気になってしまう所ではあるが、その点は優秀な自治体の区域割がしっかりとなされているだろうから、心配しなくても良いだろう。
        
                                  三の鳥居
 三の鳥居を過ぎると、その先は境内となる。左手には社叢林が生い茂り、右手は田園風景に交じり、空間が広がる。左手の社叢林の手前には石碑や記念碑、境内社が並び、右手には、奉納碑や参拝記念碑等が十基整然と並んでいる。       
        
               参道左手に設置されている案内板
 久伊豆神社 例大祭 十二月一日
 当社の創建は不詳であるが、昔、鎮守が無いのを憂えた村人が、騎西・玉敷神社の分霊を祀ったことによるという。主祭神は大己貴命で、福徳を授ける神として崇敬され、明神様、くいず様とも呼ばれる。
 一月十四日には、どんど焼きが行われる。これは正月の餅焼きともいわれ、作物の豊穣を祈る行事である。
*明神様のお使い
 明治四十三年の夏。この地方一帯を大水が襲いました。外田ヶ谷は周りが堤で囲まれていたため、入り込んだ水はたちまち村内に溢れました。
 手を拱いているうちにも水嵩はどんどんと増し、押し入れの中程まで達したときです。突然現われた一匹の大蛇。濁流にもまれながらも、頭を出して南の方へと泳いでいきます。
 ちょうど三間樋あたりでしょうか。堤を数回横切ると、遠くへ消え去ってしまいました。
 後には幾条かの切れ目が生じ、水は堤の外へと流れ出しました。やがて轟音と共 に堤は切れ、水はみるみる引いていきました。
 おかげで村は、大きな被害から免れることが出来ました。村人はこの大蛇こそ明神様のお使いと、深く感謝したと いうことです。
                                      案内板より引用

この昔話は外田ヶ谷地域に伝わるものだが、隣の道地(どうち)地域には、この昔話の続きがある。
暫くして、道地の愛宕様(あたごさま・現在は稲荷神社に合併)の沼に、どうした訳かこの大蛇が棲みついてしまいまった。祟りを恐れた村人は、毎日酒や米をお供えして、やっとのことで沼から出ていってもらったということだ」
                          加須インターネット博物館HPより引用
        
                       参道の長さに比べて小規模でコンパクトな拝殿
 石灯篭の基礎部分は石で補強され、高くなっている。社が鎮座しているこの地は自然堤防上にあるようで、北側の水田地帯よりは12m程高いとはいえ、それでも標高は17m程。見沼台用水が西側近郊に流れていたりして、案内板にも記されている「明治43年の大洪水」以外にも、今まで数多くの水難に見舞われていて、その対策でこのように高くなっているのであろう。
 
     拝殿に掲げてある扁額                本 殿
『新編武藏風土記稿 埼玉郡外田ヶ谷村条』には、この社に関して以下の記載がある。

「久伊豆社
 騎西町塲久伊豆の社を勸請して村の鎭守とす、寶正寺持、按に【式神社考】に多氣比賣神社今屬、埼玉郡在西領外田ヶ谷村、祭神栲幡千々命と載たれど騎西町塲より寫せしものにて、本社あらざる事
論なし」

 栲幡千々命(たくはたちぢひめのみこと)は、日本神話に登場する女神で、『古事記』では万幡豊秋津師比売命(よろづはたとよあきつしひめのみこと)、『日本書紀』本文では栲幡千千姫、一書では栲幡千千媛万媛命(たくはたちぢひめよろづひめのみこと)、天万栲幡媛命(あめのよろづたくはたひめのみこと)、栲幡千幡姫命(たくはたちはたひめのみこと)、火之戸幡姫児千千姫命(ほのとばたひめこちぢひめのみこと)と表記される「天津神」である。
 葦原中津国平定・天孫降臨の段に登場する女神で、『古事記』および『日本書紀』本文・第二・第六・第七・第八の一書では高皇産霊神(高木神)の娘。『日本書紀』第一の一書では思兼命の妹、第六の一書では「また曰く」として高皇産霊神の子の児火之戸幡姫の子(すなわち高皇産霊神の孫)。天照大神の子の天忍穂耳命と結婚し、天火明命と瓊瓊杵尊を産んでいる。
 
 『新編武蔵風土記稿』は、江戸幕府直轄の教学機関である「昌平坂学問所地理局」による事業(林述斎・間宮士信ら)で編纂され、1810年(文化7年)に起稿し、1830年(文政13年)に完成した。
 この風土記稿の成立過程において、まず地誌取調書上を武蔵国の各村に提出させたうえ、実際、編集者が実地に出向いて調査したという。調査内容は、自然、歴史、農地、産品、神社、寺院、名所、旧跡、人物、旧家、習俗など、土地・地域についての全ての事柄にわたる。
『新編武蔵風土記稿』の編集者は、当時の俊才・英才が集うまさにエリート集団であったのであろう。そのエリート集団が、現在「多氣比賣神社」に属し、ご祭神は栲幡千々命と【式神社考】という書物に載せているが、これは「騎西町塲村」に鎮座する社のより「写し」であるので、外田ヶ谷久伊豆神社の御祭神ではないと考察している。
 当時のエリート集団は、ただ室内に籠り、書物に目を通して誤字・脱字等のチェック、記録するのみの集団ではない。実際に現地に赴き、その地の書物を現場で確認するような人々であったのだろう。
江戸幕府直轄の教学機関としてのプライドが成せる責任ある事業だったのであろうし、妥協を許さない、凄まじいほどの知識に対する探究心がこの一文に現れている。
 
社殿左側手前には「社殿修理記念碑」「庚申塚」が並ぶ(写真左)。またその右並びには神橋が設置されていて、その先には「辨財天」の石碑がある(同右)。因みに手前の神橋には「辨天橋」と刻まれている。
 
「辨天橋」の右並びには境内社が鎮座する。左側から境内社・八幡神社、愛宕神社(写真左)、その右側には詳細不明な境内社(同右側)が祀られている。
        
         社殿奥には御嶽神社・氷川神社と刻まれている石碑がある。
       
        社殿右側には敷石奉納碑や伊勢参拝記念碑等が整然と並んでいる。
 


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「加須インターネット博物館」
    「Wikipedia」「現地案内板」等
 

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串作諏訪神社

『日本歴史地名大系』 「串作(くしつくり)村」の解説
 [現在地名]加須市串作
 北は会(あいの)川を境とし、南東は阿良川(あらかわ)村。羽生領に所属(風土記稿)。田園簿では田高一六四石余・畑高四三七石余、ほかに野銭永三二文があり、川越藩領。

 元禄七年(一六九四)には幕府領で高七一六石余(「御検地之節日記」東京都河井家文書)。元禄郷帳では高五三七石余。旗本深尾・藤方・戸田の三給(国立史料館本元禄郷帳)。この三家の相給で幕末まで続いたとみられる(改革組合取調書など)。
        
              
・所在地 埼玉県加須市串作8701
              
・ご祭神 武御名方命 倉稲魂命 市杵島命 少彦名命
              
・社 格 旧串作村鎮守 旧村社
              
・例祭等 例祭 827
    
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1360975,139.5237987,17z?entry=ttu

 加須市串作地域。「串作」と書いて、漢字の訓読み通り「くしつくり」と読む。この地域は加須市西端部に位置し、すぐ北側は会(あいの)川を境として羽生市川崎地域、西隣は行田市真名板地域であり、近辺に「羽生イオン」がなければ、何の変哲もない水田等の農地が大部分を占める中、地域の西側で自然堤防上に形成した集落が固まって存在する、閑静な地域である。現在は田園風景が広がる稲作地帯であるが、17世紀半ばに編纂された《武蔵田園簿》によると、田高一六四石余・畑高四三七石余と、田地より畑地の方が遙かに多かったようだ。
 
串作(くしつくり)の地名由来に関して、しっかりと記載されている資料がない。また同じ地名も少ないので、「串」のつく地名がある、数ある信頼し得るHPを参照し、それを総合して解釈すると、以下のようになる。
串(くし)」とは砂丘や小丘の高まりを意味する言葉であり、長く連なった丘状地形との記載が多い。川の流れによって出来た堤防がこの地に連なっていたことから付いた地名という。また「串」は物を連ねる棒のことで、アイヌ語のクシは「越える」、琉球語のクシも「越えること」、朝鮮語のクシは「岬」のこと(民俗地名語彙辞典)』
        
                  串作諏訪神社正面
 串作諏訪神社への途中経路は真名板高山古墳を参照。埼玉県道128号熊谷羽生線を加須市方向に進み、「真名板」交差点を右折、県道32号鴻巣羽生線合流後650m程南下する。「薬師堂前」交差点を左折後、700m程先の十字路を右折し暫く進むと左手に串作諏訪神社の境内が見えてくる。
 境内南側には駐車可能な駐車スペース(数台分)もあり、そこに停めてから参拝を行った。       
        
         鳥居の手前で参道右側に祀られている「塞神」の石碑と「力石」
 力石 (ちからいし)
 力石は、重さ200㎏近いものもあるように、大きくて重い石です。「源義家の腰掛石」や「武蔵弁慶がちぎって投げた石」など、武勇に優れた英雄に因む伝説があります。
 江戸時代頃から神社などの祭礼の場で、若衆たちの娯楽として肩に担ぎ上げたり、頭上に差し上げたりする力試しが親しまれるようになりました。そして、代々、力石を神社に奉納することが習わしとなったとも言われています。
 ここ、諏訪神社の祭礼の折にも、先人たちによる力試しの催しが行われていたようです。
 令和元年五月 串作諏訪神社
                                      説明板より引用
        
                          青空に映える白色の明神鳥居
 鳥居を過ぎて暫く参道を真っ直ぐ進むが、途中から右側直角に曲がる形式となっていて、境内は右方向に広がり、社殿も右側に建っている。
 真っ直ぐ進む参道途中には、幾多の石碑、境内社等が設置・祀られている。          
   鳥居の先で参道左側に設置されている      参道右側にある境内社、詳細不明。
         「
串作諏訪神社御造営の碑」      字北の頭殿社・字須崎の厳島社であろうか。
 
  「串作諏訪神社御造営の碑」の並びに           参道が右方向に曲がる先にある
祀られている境内社。左側八坂社・右側産泰大神        境内社・稲荷社
        
                     拝 殿
 当神社の由緒は不詳ですが、古くから串作の鎮守として祀られており、「風土記稿」 にも「諏訪社 村の鎮守なり」と記載されています。
 明治以前は、真言宗観音寺の持ちでしたが神仏分離によりその管理を離れ、明治五年に村社となり、同四十一年八月二十二日に字内野の稲荷社、字北の頭殿社、字須崎の厳島社を合祀し、更に、戦後になって、字東の八坂神社も合祀しています。
 主祭神は武御名方命で、大国主神さまの次男にあたられる神さまで、狩猟・農業の神さまとして信仰される一方、ことに武勇にすぐれた神さまとしても知られ、戦国時代に武田氏の守護神として、武士の尊崇もことのほか厚かったようです。
 現在の本殿及び旧拝殿は、明治十九年九月二十七日に建造されたもので、本殿を除く拝殿、覆屋は近年老朽化が甚だしく、年々営繕を繰り返してまいりましたが、その限界となり、有志の方々より改築の議がおこり、この地に生まれ育った大竹榮一氏より崇敬の念厚く、多額の浄財の寄進の申し出があり、一気に社殿御造営への気運が高まり、この度の施工をみたのであります。
 平成二十三年八月二十四日に奉祝祭を斎行し、ご神徳を仰ぎ、神威を昂揚し崇敬の誠を碑に刻み弥栄を記念するものであります。
平成二十三年八月吉日
                            「串作諏訪神社御造営の碑」より引用

        
                      社殿全体を撮影。右側が本殿部。
       
    社殿左側にはこのような大木が聳え立つ(写真左・右)。周りを網で覆っている。
                 ご神木の類であろうか。


 ところで「串」のつく地名に関して雑学を幾つか紹介しよう。この「串」のつく地名は、特に西日本の海岸に多ようだ。「串」地名が「岬」の地名に多いのは、朝鮮語の「コス」(岬の意味)から来ているという説がある。また海岸の崩壊地関係の「串」地名も多数存在し、斜面の傾斜地や海岸段丘崖を背にした小低地に多く見られるとの事だ。
 
  大木の北側近辺に祀る「辨才天」等の石碑       境内北側隅には「二十二夜塔」
      左側に石碑は不明          ・菩薩様像等が並んで祀られている。
        
                        手入れも行き届いている綺麗な社

「串」と「櫛」は同じ語源ともいう。櫛は「霊妙なこと、不思議なこと」という意味の「奇(くすし)」や「聖(くしび)」との音の共通性から呪力を持つものとして扱われた。語の読みからは「苦死」に通じるため、贈り物にするときは、忌み言葉として「かんざし」と呼んだそうだ。
『古事記』には、伊邪那岐命が、妻の伊邪那美命が差し向けた追っ手(黄泉醜女)から逃れるために、櫛の歯を後ろに投げ捨てたところ筍に変わり、黄泉醜女がそれを食べている間に逃げることができたという記述がある。同じく『古事記』で大蛇を退治しに出向く須佐之男命は櫛名田比売を櫛に変えて自分の髪に挿した。
「串」というと美味しい食べ物を連想するほど串料理を連想するが、「串」の歴史も古く、神事を行う場所で、木竹などの串に玉がついたものをお供えしていたことから「玉串」と呼ばれ、神事のお供え串があったという。現在では榊や竹に麻や木綿、紙などをつけたものになっているが、「玉串礼拝」とも呼ばれ、礼拝する者の敬意や、神威を受ける為に祈りを込めて捧げるものとして、特別な意味を持つという。

 地名一つとってもその由来には幾つもの説があり、そこには淵源とした歴史の深さを感じる。少しの時間で全てを証明すること自体が無理なのであろう。その限られた時間の中で考察する楽しみもあるのだが。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「クニの部屋 -北武蔵の風土記-
    「四万十川地名辞典」「境内碑文・説明板」等

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