古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

ブログ記事を新たに再編集いたしました。

ブログ記事を新たに再編集いたしました。


熊谷市内に鎮座する以下の神社を再編集しています。
飯塚太田神社
西城大天獏神社
上奈良豊布都神社
柴八幡神社
上川上伊弉諾神社
上新田諏訪神社
池上古宮神社
御正新田雷電神社
新堀新田八幡神社
久保島大神社
下恩田諏訪神社
高本高城神社
中曽根南市田神社
基本的には記事の内容は変わっていませんが、写真以外で以前参拝当時と現在で変った箇所、内容等には、*点を記してあります。

また名称変更もありまして
・古宮神社⇒「池上」古宮神社
・南市田神社⇒中曽根南市田神社
と「地名」をつけて案内しています。

今後とも宜しくお願いいたします。



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大芦氷川神社

 旧吹上町大芦地域は、元荒川と荒川に挟まれた低地に位置し、集落は旧河道の自然堤防上にある。『新編武蔵風土記稿』において、「村の広さは、東西十二町餘、南北十五町、東は明用、南は荒川を限り対岸横見郡上砂村、大里郡小八ッ林・玉作の三村界ひ、西も大里郡久下村にて、北は榎戸・吹上の二村なり」と記述され、東西1.3㎞程、南北1.6㎞程のやや縦長の地域である。南側は荒川が境となっているが、一部現在の「大芦橋」付近が突出部となっていて、嘗て当地南西の荒川には大芦河岸があり、古くから日光脇往還の渡船場としても栄えたという。
 昭和30年頃に洪水対策の為、太い鋼管パイル製の橋脚を持つ木製桁の冠水橋が完成するまで橋はなく、八王子千人同心道(日光脇往還)に属する「大芦の渡し」と呼ばれる官設の渡船で対岸を結んでいて、渡船場には1803年(享和3年)頃開設された「大芦の河岸」が併設され、大正時代には渡船場の川上側に仮橋が架設されていた。
 荒川はこの橋付近を扇端とする扇状地形である「荒川新扇状地」(「新荒川扇状地」や「熊谷扇状地」とも呼ばれる)が形成されていて、橋より下流側は縦断勾配1/1000以下の緩やかな流れとなる。河川敷は左岸(鴻巣市側)に広くとられていて、その広い河川敷を活用した農地の他、運動場や軽飛行機の発着場等のレクリエーション施設がある。毎年秋には左岸堤防(荒川花街道)や河川敷でコスモス祭りが行われ、開花期は行楽客で賑わう。春季はコスモスが植えられていた場所にポピーの花を見ることもできていて、左岸土手上にある「コスモスアリーナ ふきあげ」ではその時期になると盛大なイベントが開催され、コロナ禍以外の年では多くの客で賑わっている。
        
             
・所在地 埼玉県鴻巣市大芦1031
             ・ご祭神 素戔嗚尊
             ・社 格 旧大芦村鎮守 旧村社
             ・例 祭 祈年祭 3月上旬 お獅子様 71日 夏祭り 71819
                  秋祭り 1123
    地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0986363,139.4448734,17z?hl=ja&entry=ttu
 大芦氷川神社はJR高崎線吹上駅から直線距離で700m程、南西方向の住宅街に囲まれた中にひっそりと鎮座している。JR吹上駅(南口)からのルートでは、駅前ロータリーから駅南口通りを南下、最初の交差点を右折し、埼玉県道307号福田鴻巣線との交点で左折し、県道合流後は荒川・大橋橋方向に進む。「富士電機」の敷地を通り過ぎてから2番目の十字路を左折し、道幅の狭い道を直進すると、T字路にぶつかるが、その左側に大芦氷川神社が鎮座している。県道から左折後、道幅の狭い道を通る時には、対向車量や徒歩の方々には注意しながら、安全に進むように心がけてもらいたい。
 適当な駐車場はないので、通行に支障にない場所に路駐し、急ぎ参拝を開始する。
        
                           大芦氷川神社正面
 
       一の鳥居の先には、          一の鳥居の先に設置されている
  参道に対して横切るように一般道が通る。           
案内板

 大芦氷川神社 御由緒 鴻巣市大芦一〇三一
 □御緣起(歷史)
 当地は元荒川と荒川に挟まれた低地に位置し、集落は旧河道の自然堤防上にある。また、かって当地南西の荒川には大芦河岸があり、古くから日光脇往還の渡船場としても栄えた。村の開発の年代は明らかでないが、慶長十ニ年(一六〇七)十月の「足立郡箕田村内大芦村御検地水帳」(堀ロ家文書)が残る。
 当社は大芦村の鎮守として祀られてきた社で、『風土記稿』大蘆村の項には「氷川社 医王寺の持、稲荷社」とある。江戸期に別当であった医王寺は真言宗の寺院で、開山賢秀の没年は明らかでないが、ニ世の僧秀栄は貞享三年(一六八六)に没したという。
当社は『明細帳』によると、明治六年に村社となり、同ニ十八年に本殿を再建し、同四十年には字田向の雷電社、字土橋の稲荷社とその境内社八坂社、字三人野の稲荷社・諏訪社、字新在家の蠶養社・雷電社・神明社、字永川の電電社・大天白社・神明社、字台の浅間社、字中内出の塞神社の計十三社を合祀した。ただし、新在家の雷電社と中内出の塞神社は今も祠がそのまま残されている。
 なお、社蔵の算額は嘉永三年(一八五〇)四月に関流の小林要吉郎勝栄一門が奉納したもので、一門は広く大芦、明用、今泉、吹上、和名、登戸、多門寺、箕輪などの各村にわたる四六人で、算法上達祈願を込めたもの である。
 □御祭神と御神徳
 ・素戔嗚尊…災難除け、安産、家内安全
                                      案内板より引用
        
             参道左側には
震災記念碑、表忠塔、戦利兵器奉納碑等が並ぶ。
 写真左側の震災記念碑は昭和6921日に発生した西埼玉地震に関する碑。 真ん中の日露戦争の表忠碑の上には 戦利品と思われる砲弾が立った状態で飾られている。右側の石碑は日露戦争での戦利兵器奉納ノ記。
  
             
     清掃等行き届いた清潔感ある参道         参道左手には「大芦氷川神社の算額」案内板あり

 鴻巣市指定有形文化財(絵画) 昭和三十四年一月十六日指定
 大芦氷川神社の算額
 算額とは、和算家が和算の問題と解答を木版に描き、神社仏閣に奉納したもので絵馬の一種である。
 この算額は、当初に住む関流(関孝和の流派)の和算家小林要吉郎勝栄一門が嘉永三年四月に、算法上達祈願のためにこの大芦氷川社に奉納した。
 大芦・明用・今泉・吹上・和名・登戸・多門寺・箕輪等の各村にわたる一門四六人の連名となっている。
 和算は、中国の影響を受けて我が国独得の高度な発達を遂げた数学である。江戸時代には関孝和らによって研究が深められ、西洋数学と遜色のない水準に達したが、応用技術と結びつかなかったために科学としての研究は深められなかった。
 しかし、地方人士の間で一種の知的競技として難問を出し合い、その解答を算額にして公開することが流行した。算額は、当時の人たちの知的水準の高さの一端を窺い知る貴重な資料でもある。
 参考:嘉永三年(一八五〇) 鴻巣市教育委員会
                                      案内板より引用
 
       二の鳥居前にある手水舎              二の鳥居
        
                     拝 殿
 鴻巣市内には、地域毎に継承される伝統行事として、「獅子舞」や「棒術」が現代まで継承されている。原馬室獅子舞・棒術は、埼玉県無形民俗文化財に指定されているが、この他にも、大芦、小谷、広田、登戸地区にも獅子舞が伝承されている。
【大芦ささら獅子舞】
・昭和3841日無形民俗文化財指定(市指定56) 
太鼓、笛、ささらなどの伴奏で舞・踊る獅子舞は多くその伝承を明らかにせず、大芦の場合も300年程前、東吉見辺りより伝授したとされる。村内の斎藤家を家元としつつ、村の寺社の祭りと共に発展し、村人の無病息災と五穀豊穣、さらに国家安泰を祈りながら、今日まで受け継がれてきたとされる。
登録団体:大芦ささら獅子舞保存会
                             「鴻巣市公式HP」による記述を引用
        
                                   本 殿 
 
   社殿左側に鎮座する境内社・稲荷社。    社殿右側に鎮座する境内社・これも稲荷社。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「鴻巣市公式HP」「Wikipedia」「境内案内板」
       

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前砂氷川社


        
             
・所在地 埼玉県鴻巣市前砂656
             
・ご祭神 素戔嗚尊 稲田姫尊
             
・社 格 旧前砂村鎮守 旧村社
             
・例 祭 春祭り 224日 例大祭 79日 秋祭り 1123
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0948433,139.4606188,17z?hl=ja&entry=ttu
 前砂氷川社は旧吹上町の市街地から東側端部に位置し、一面田園風景が広がる中に静かに鎮座する、正に地域の「鎮守様」である。JR吹上駅(南口)からのルートでは、駅前ロータリーから駅南口通りを南下し、最初の交差点を左折、「花みずき通り」を線路に沿って東方向に進む。その後コスモス通りと交わる十字路を直進、その後旧中山道である埼玉県道365号鎌塚鴻巣線に路線名は変更となるが、そのまま道なりに直進すると、吹上町南部の地域道である「富士見通り」に合流する「前砂」交差点に到着する。この交差点を右折し、荒川の土手方向に進み、2本目の十字路を左折し、突き当たりを再度左折すると前砂氷川社の鳥居がある場所に到着できる。
 
社の東側隣には「前砂町内会館」があり、そこの駐車場の一角に車を停めてから参拝を行う。
        
                                 
前砂氷川社正面
 鴻巣市「前砂」地域は元荒川右岸の自然堤防上に位置している。北側は元荒川の旧河道跡地を公園化した「水辺公園」がその境となり、東側においてJR高崎線以北では元荒川が、西側から南側にかけては荒川(現在は元荒川)の嘗ての流路跡を改修した「足立北部排水路」がその地域境となっている。およそ南北約1.7㎞、東西で長くても約900mのややひょうたん型を変形した地域であり、河川、またはその河川跡を利用した排水路がその四方の境を形成する地域である。

 この地域は北部と南部では地域の特徴が異なり、北部、特に旧中山道である埼玉県道365号線以北では、住宅地や商業施設・工場が多くあるのに対して、県道から離れた南部は農村地帯であり、一面の田園風景が広がる。また荒川の土手もすぐ南側に目視できる長閑な場所でもある。 
   寛文九年(1669)銘が刻まれている鳥居          参 道
        
         参道の両側にある石灯篭の右手前に設置されている案内板。
 氷川社 御由緒 吹上町前砂六五六
 □御縁起(歴史)
 当地は元荒川右岸の自然堤防上に位置する。慶長十二年(一六〇七)には「足立郡箕田内前砂村御検地水帳」(江原家文書)が作成されており、村の開発は江戸時代以前にさかのぼると思われる。
当社の創建は詳らかではないが、境内には「江原又左衛門惣氏子」と刻まれた寛文九年(一六六九)の石鳥居があり、このころ既に前砂村の鎮守であったことが知られる。恐らく、当社は村の開発と前後して当地に勧請されたと思われる。ちなみに、江原又左衛門は当村の名主を累代務めた家柄で、現在の江尻家がその後裔に当たるという。
『風土記稿』前砂村の項には「氷川社 村の鎮守なり、宝蔵院持、 末社 神明熊野天神合社 稲荷客人諏訪合社」と記されている。また、宝蔵院は、同蓄によると、真言宗箕田村(現鴻巣市)の龍珠院の末寺で、氷川山と号したという。開基・開山などは不詳であるが、当社の北一〇〇メートルほどの所にあるその跡地(明治四年に廃寺)には観音堂や元禄八年(一六九五)をはじめとする法印墓石八基などがある。
 当社は、明治初年に別当の宝蔵院から離れ、明治六年に村社となった。祭神は素戔嗚尊と稲田姫尊の二柱である。また、当社の祭神は、白が嫌いなので氏子内に白塗りの壁もないし、白い鶏を飼ってもいけなかったという。
 □御祭神
 ・素戔嗚尊・稲田姫尊
                                      案内板より引用


 行田史譚に「前砂村、寛永年中(16241644)名主江原又左衛門、享保六年(1722)名主江原又左衛門、天保元年名主江原又左衛門」。氷川社延宝六年(1678)御神燈に江原又左衛門」と記載があり、案内板での石川家が前砂氷川社の創建に関わっているのも疑いないようにも思える。
        
                     拝 殿
 
 社殿左側に鎮座する境内社・天神神明熊野合殿。      社殿右側に祀られている境内社・合殿。
                       「新編武蔵風土記稿」に書かれている「稲荷
                            客人諏訪合社」であろうか。
 
         馬頭観音と稲荷大明神、塞神                 境内社・三峰神社
 

 前砂地域は明用地域に鎮座する三嶋神社の西側に隣接する。嘗て荒川は瀬替え以前、元荒川と繋がっていた時期があり、その時期が56世紀にあたり、この明用三島神社古墳は、大河川が結節する地点を監視できる場所に本拠地を構築し、川関所を兼ねた津を経営する権力・能力によって力を蓄えた首長の墓であった可能性が高い見解もある。
        
                 拝殿から参道方向を撮影。参道の先には荒川の土手が広がる。

 最近の調査では元荒川が吹上町市街地の東南方面、前砂地域から明用を経て三丁免小谷へとS字カーブを描くように蛇行し(現在の足立北部排水路)、最終的には荒川に流入する古い蛇行河跡があることが分かったという。その流路跡は自然堤防も伴ったのだろうが、不思議と現在も道路として一部改修されている。

 我々が普段何気なく使用している道でも、律令時代以前の古代にまでその淵源を遡るものもある。今回の社参拝には直接関係ない事項ではあるが、この地域の歴史の一片を知ることができたことは、大変有意義であったと心からそう思う。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「Wikipedia」「境内案内板」
                             

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鎌塚八幡神社


        
            ・所在地 埼玉県鴻巣市鎌塚428
            ・ご祭神 誉田別命
            ・社 格 旧鎌塚村鎮守 旧村社
            ・例 祭 新年祭 16日 大祓 626日 1226日 例大祭 914
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1110077,139.4521216,18z?hl=ja&entry=ttu
 鴻巣市の鎌塚地域はJR高崎線吹上駅の北側にあり、元荒川を境としてその以北に位置し、国道17号線を越えて上越新幹線までの間が地域として南北の境となる。因みに「新編武蔵風土記稿」では旧吹上町鎌塚地域は、江戸時代「鎌塚村」と云い、東は下忍村、西は大井村、北は持田村、南は元荒川を限て足立郡吹上村と、夫々境を接していたという。
 鎌塚村を「風土記稿」で調べる際には吹上村が属する「足立郡」にはなく、「埼玉郡」内に属するので、調べる際にも地域の歴史を知ることは必要だ。
        
        国道沿いではあるが、道路からやや離れたところにある一の鳥居。
 鎌塚八幡神社は国道17号線の道路沿いで、市街地内に鎮座していて、位置的にはJR吹上駅の真北1㎞程の場所である。国道17号線を吹上市街地方向に進み、「鎌塚」交差点を過ぎて「鎌塚(南)」交差点の手前のT字路を左折、鎌塚集会所の東側に隣接するように境内がある。駐車スペースも集会所周辺にあり、そこの一角に車を停めてから参拝を行った。

 市街地内にありながら、宝績院という寺院とも接している関係からか、その境内は市街地とは違う空気感が一帯には漂っている。但し近代的な建物が立ち並ぶ中でも、不思議と違和感なく古い寺社が地域に上手く溶け込んでいるところが、いかにも今の日本を象徴していようで、ごく自然と参拝にも厳かな気持ちで臨めた。
        
               
一の鳥居から並んで二の鳥居、三の鳥居が続く。
 
       
                   
三の鳥居を過ぎるとすぐ正面右側に聳え立つご神木
 ご神木の存在は、社殿同様その地の歴史の深さを語る上でも象徴的な存在だ。このような老木・巨木がこの地にある事で、境内の空気感を一瞬にして変化させ得る「装置」ともなっているようにも思える。
            
                  社殿側からご神木を撮影。
 このアングルから見るご神木の威容は、少しは筆者の思いの何割かは理解して頂けるであろうか。
        
                             参道から社殿を望む。
 
 参道左側にある「境内碑」。よく読み取れず。     社の東側に隣接する宝積院。
        
                                     拝 殿
        
                                    案内板
八幡神社 御由緒     鴻巣市鎌塚四二八
□御縁起(歴史)
当社の創建の年代は不明であるが、口伝によれば、鎌塚地内の石川家の先祖の出身地である大阪府羽曳野市の誉田八幡宮を当地の宝積院境内に、地域の氏神として勧請し祀ったことに始まるという。石川家は、江戸期に名主を務めており、宝積院の維持にも深く関与していた。
旧社殿の棟札には、元禄一〇年との記載のあることから、今から三百年以上前に旧社殿は建築されたことになる。
文政十一年(一八二八)の古文書には、「八幡社 村の鎮守なり 宝積院持」との記述がある。
明治初年、当社が宝積院の境内地にあったことから、神仏分離政策の下、当社の御神体は移転を余儀なくされ、一旦、本倉稲荷神社へ遷座され、それまで鎌塚にあった他の四社とともに五社合殿して祀られていた。しかし、その後、時の総代石川茂十郎ら鎌塚村の人々の尽力により、国に上地されていた旧地の払い下げを受け、明治七年再び元の地に戻されて祀られることとなった。
旧社殿は昭和四十一年の台風により倒壊したが、鎌塚地区内外の氏子の協力によって社殿および集会所が昭和四十六年に完成し、遷宮式を盛大に挙行した。
「巫女の舞」は、その社殿再建を記念して、時の町内会長、婦人部有志により、浦安の舞の指導者を招いて、舞いを奉納したのが始まりである。毎年、九月十四日の例大祭において、鎌塚在住の小学四年生の女子児童により、舞が奉納されている。
今日まで、鎌塚地区の住民は、五穀豊穣・商売繁盛・家内安全・無病息災・生涯の幸せを祈願し、祭礼等には、多くの人の輪を広げ、親睦を深めてきた。
□御祭神
・誉田別命(第十五代応神天皇)
                                      案内板より引用

 案内板に記載されている「石川家」は、鎌塚地域に長く土着している在地
名主であったようであり、「宝蔵院」嘉永六年供養塔に石川覚三郎、明治二年名主石川茂十郎。明治九年戸長石川茂十郎・文政九年生、副戸長石川新兵衛・嘉永元年生、副戸長石川治郎八の名前がある。
 
    拝殿上部に掲げてある扁額       拝殿向拝部にもさりげなく彫刻が施されている。
        
          社殿左側に並んで祀られている境内社群。詳細不明。


 鎌塚八幡神社が鎮座する「鎌塚」という地域名も意味深である。「鎌」のつく地名で「鎌倉」が一番有名な所だが、この「鎌倉」は奈良時代から平安時代にかけてみられていて、「万葉集」には「可麻久良」、日本最初の漢和辞典の「和名抄(わみょうしょう)」には「加末久良」と記されている。
「鎌倉」の地名の起こりについては諸説があるが、地形に由来を求める説が有力と思われている。
浸食地形・崩壊地形を示す地形用語で、「鎌(かま)」は「えぐったようながけ地」で、「市街は溺れ谷の埋積低地にのり、周辺に向かって〈やつ・谷〉とか〈やと・谷戸〉と呼ばれる多くの侵食谷の発達が特徴的」であることが鎌倉の由来になっているという説。

 地形以外にも
滋賀県大津市の比叡山(ひえいざん)にも「神倉」、「神庫(かみくら)」が転訛したものとされる鎌倉という地があり、鎌倉にも同様に神庫と呼ばれるものがどこかにあったのではないかという説。
蒲(がま)という植物がいっぱい生えていたからという説、また、鎌倉の近い高座郡が昔は、高倉(たかくら)、または高麗(こま)と呼ばれていたので『こまくら』が転訛した、あるいはアイヌ語に由来する、という説。

その他にも「伝説的な説」として「藤原鎌子」に関連する説等、あるようであるが、どれも実証的な信憑性に欠け、推測・仮説の域にしか達していない。
        
                                   拝殿からの一風景

 鎌塚地域は南側には元荒川、そしてその支流で東側に「前谷落」という河川が合流する地点の西側に位置している。この「前谷落」は行田市・持田地域のかんがい流末と都市排水を源流として、行田市郊外を南下して、吹上町鎌塚地域で元荒川左岸に合流する。「前谷落」の流域一帯は一面の低地であり、都市化は進行してはいるが、まだ氾濫原跡を思わせる地形が少しは残っていて、現在それらは広大な水田となっている。「前谷落」の流域一帯の平均標高は17m程。その西側に位置するJR高崎線上の標高が18m程で、自然堤防上に鎮座している鎌塚八幡神社社殿付近でも19.4m程しかない。南側の元荒川北側で19m程であるため、元荒川周辺より低いのだ。
 この低地(氾濫原跡)は嘗て土地開発が未熟な時代に、忍川の流路が乱流していて不定だった頃の名残りでなないかとの説もあり、その地域に「鎌塚」も含まれている。

「鎌塚」の「鎌」は浸食地形・崩壊地形を示す地形用語で、河川氾濫地域であることを、先祖の方々が後世我々に教えようとして、この名前にしたのかもしれない。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「鎌倉市公式HP」「Wikipedia」「境内案内板」
                

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新たに再編集いたしました。

 日高市に鎮座する高麗神社、毛呂山町に鎮座する出雲伊波比神社、ときがわ町に鎮座する萩日吉神社、滑川町に鎮座する堀の内羽尾神社月輪神社大雷淡州神社、深谷市に鎮座する武蔵野足高大神社上野台八幡神社長在家稲荷神社黒田豊栄神社上原白髭神社を再編集いたしました。


 内容はほぼ変わっていませんが、新たな案内板等掲示しています。また写真の画像を編集いたしまして、改めてアップいたしました。

 今後とも宜しくお願いします。

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