古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

本沢熊野神社


        
              
・所在地 埼玉県比企郡吉見町本沢115
              
・ご祭神 伊邪奈岐尊 伊邪奈美尊
              
・社 格 旧本沢村鎮守 旧村社
              
・例祭等 夏祭り 714日
 吉見町の本沢地域は荒川右岸の町北部中央域に位置し、南北に通る「みどりの道」と埼玉県道343号小八林久保田下青鳥線に挟まれた南北に長い地域であり、集落は旧荒川筋の自然堤防上に点在している。
 本沢熊野神社は同地域中央部西側に鎮座する。途中までの経路は地頭方天神社を参照。埼玉県熊谷市と比企郡川島町を結ぶ農道である大里比企広域農道・通称「みどりの道」を吉見町方面に進む。埼玉県道345号小八林久保田下青鳥線と交わる交差点を直進し、暫く進むと大きく右回りにカーブし、その回り終わったあたりに手押しボタン式信号の交差点があるので、そこを右折する。因みにこの交差点を左折すると吉見町立北小学校、並びに地頭方天神社が鎮座する場所に到着する。
 その後300m程進んだ十字路を左折すると右側前方に本沢熊野神社の社叢林が見えてくる。
        
                  本沢熊野神社正面
 恐らくはこの一対の柱は嘗て鳥居が立っていたのであろう。駐車スペースもこの場所に確保されているので、この一角に停めてから参拝を行った。
 この参道は陽光が周囲を照らす明るい場所ではあるが、その先には社叢林が生い茂っていて、この微妙なコントラストが規模は小さいながらも社特有のものではないだろうか。
        
            長閑な田畑風景が広がる中に静かに鎮座する社    
        
                                参道の先に立つ石製の鳥居
『日本歴史地名大系 』での「本沢村」の解説
 [現在地名]吉見町本沢
 松崎(まつざき)村の東に位置し、集落は旧荒川筋の自然堤防上に発達。地内に弘長元年(一二六一)の板碑がある。田園簿では田高六五石余・畑高八三石余、幕府領。日損場との注記がある。元禄郷帳では高三二〇石余。「風土記稿」成立時には旗本渡辺領。同書によると渡辺領となったのは宝暦四年(一七五四)のことで、以後同領で幕末に至ったと思われる(「郡村誌」など)。検地は慶長年間(一五九六―一六一五)伊奈忠次により行われ、寛文一二年(一六七二)にも新田検地が、延宝六年(一六七八)には本検地が幕府代官中川氏により行われた。
『新編武蔵風土記稿』
本澤村 熊野社
「村の鎮守とす、別當を南光院と云 當山修験 一ツ木村龍海寺の配下 正當山と號し 本尊不動を安ず」
        
                                        拝 殿
 熊野神社 吉見町本沢四八六(本沢字北屋敷)
 口碑によると、当社は元和元年(一六一五)に豊臣氏の家臣石川九郎左衛門が戦に敗れて本沢の地に土着し、兜の鉢金の中の守り本尊を氏神として祀ったのが創祀であるという。元和元年といえば、大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡した年であり、各地に豊臣の残党が帰農落居しており、この石川九郎左衛門もその一人であったと思われる。ちなみに、この九郎左衛門がとうもろこしに馬がつまずいて落馬したとの言い伝えから、その子孫である石川実家では今もとうもろこしを作ることを禁忌としている。
 棟札によれば、延宝七年(一六七九)に本殿を建立し、宝永元年(一七〇四)に幣殿・拝殿を造営した。
『風土記稿』には「熊野社 村の鎮守とす、別当を南光院と云、当山派修験、一ツ木村竜海寺の配下、正当山と号し、本尊不動を安ず」とある。これに見える別当南光院は、かつて当社の南側に隣接して屋敷を構えていた。その末裔は野口憲夫家である。
 明治四年に村社となり、同十五年に本殿・拝殿を再建した。更に、昭和三十六年・同四十八年に社殿の改築を行い、同五十六年には本殿屋根の葺き替えを行った。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
 
 拝殿向拝部(写真上)、及び木鼻部(同下・左右)の彫刻がこの規模の社としては精巧である。
 
  社殿右側奥に祀られている御嶽神社の石碑   社殿右手前に鎮座する境内社。詳細不明。
        
                 境内に立ち並ぶ石碑群

 ところで後日地図を確認してから分かった事だが、本沢地域は「みどりの道」を挟んで地頭方地域に接していて、この道路を対象軸とすると、ほぼ同じ距離で東に地頭方天神社があり、西には本沢熊野神社が鎮座しているような不思議な配置となっている。
 更に地頭方天神社は西向きの社に対して、当社は東向きと、お互い向き合っているようにも見える。単なる偶然か、それとも何かしら曰くがあるのであろうか。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「広報よしみ 2023年7月」等
        


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平沼氷川神社


        
             
・所在地 埼玉県比企郡川島町平沼323
             
・ご祭神 素戔嗚尊
             
・社 格 旧平沼村鎮守 旧村社
             
・例祭等
 国道254号線を南下し、首都圏中央連絡自動車道(圏央道)の川島IC付近で交じる「つばさ・みらい通り」を左折し、最初の信号のある交差点を右折する。埼玉県道76号鴻巣川島線合流後、300m程進んだT字路を更に左折すると、平沼氷川神社の境内に通じる場所に到着する。
 社の東側に隣接している「平沼集落センター」の駐車スペースをお借りしてから参拝を行う。
        
                  平沼氷川神社正面
 周囲は北側にICの洗練された高架橋が、そして西側には近代的な大型モールが遠くから見える中、対照的に東・南側は川島町特有の沖積低地帯の田畑風景が広がり、集落がその一帯に寄り添いながら点在し、その集落内の真ん中に鎮座する、まさに「鎮守の社」といったような印象。
 
    石製の鳥居(写真左)を過ぎると玉砂利が敷かれた綺麗な境内が広がる(同右)。
    日頃からの手入れも行き届いているようで、気持ちよく参拝を行うことができた。

『日本歴史地名大系 』より「平沼村」の解説
 [現在地名]川島町平沼
 白井沼(しろいぬま)村の西にあり、北は上八ッ林(かみやつばやし)村。小田原衆所領役帳には小机(こづくえ)城(現神奈川県横浜市港北区)城主北条氏秀の所領として、「卅五貫文 比企郡平沼」とあり、弘治元年(一五五五)に検地が行われている。天正一八年(一五九〇)五月日には「伊草 中山 平沼」に前田利家の禁制(写、武州文書)が下されている。
 田園簿では田高五一五石余・畑高五三石余、旗本酒井領。ほかに氷川明神領高一石二斗、大福だいふく寺領高八斗。その後川越藩領となり、秋元家時代郷帳では高五六四石余、ほかに検地出高として高三四七石余がある。
        
                     拝 殿
『比企郡神社誌』において、「大字平沼氷川神社由緒。後鳥羽天皇の頃、足立郡より当地に来住開拓せるもの数家あり、氷川大神を勧請す。永正十二年に至り宮祠の腐朽したるを恐れて矢部伊賀一族主宰となり再興す。慶長三年、名主矢部七郎兵衛・同与七郎、主任となり本社を改築す。寛永十九年、名主矢部七郎右衛門・同三郎右衛門・外氏子一同にて改造す。明治十六年、村長矢部杢太郎主導者となり拝殿及び玉垣を建造す」と記されている。
 平沼氷川神社の創建年代等は不詳ながら、平安時代後鳥羽天皇の御代(1183-1198)に足立郡から移住して当地を開拓した矢部氏を中心とした集団が大宮氷川神社を勧請したという。
 この矢部氏は、平沼地域及び三保谷郷山ヶ谷戸を開発した時から今に至るまでも多く存在している。
・平沼地域
上記『比企郡神社誌』参照
・三保谷郷山ヶ谷戸地域
『八ツ林村道祖土文書』
「天正六戊寅年卯月七日、三保谷郷検地書出、二十三貫八百三十二文・養竹院分(表村)、十九貫五百六十五文・福島給田、三貫七百七十文・矢部大炊助給田、三保谷代官道祖土土佐守百姓中、江雪奉之(板部岡融成)」
『道祖土系図』
「道祖土図書康満は後福島与右衛門満吉と号す。比企郡老袋村(川越市)にて五十貫の地を給ふ。天正十八年岩付落城に付武州登戸村(鴻巣市)に来り住居す。功臣矢部刑部は兄土佐守康玄に仕ふ」
        
                      境内に設置されている「神社改修記念碑」
 神社改修記念碑
 當平沼氷川神社社殿は明治十六年五月氏子七十五名により総額二百十七圓七十銭の寄附金を得て創建せしものなり
 以来百余年を経過し近年その腐朽甚だしく氏子これを憂慮し協議の結果昭和五十九年二月総意に基づき改築することに決定し直ちに建築委員会を組織し資金の積み立てを開始諸準備に着手する
 改築は位置面積共に旧来通りであり総工事費は八百三十一萬三千圓で氏子百四戸の同額積立寄付金と特別奉納金等により昭和六十一年一月十七日起工、同三月末完工せり
 また社前の石囲石段は明治三十七年氏子の寄進なれど本村町議歴代区長これを新たに奉献す、今ここに荘厳な鎮守の杜に新装の香漂う社殿と周辺を目前に拝し一同の深い敬神の念と相互協力に結ばれ栄えて今事業が達成せられし事は誠に喜びと感激の極みである依ってこれを記念し後世のためにこの碑を建立す
 昭和六十一年十二月吉日 氏子中
 
           拝殿左側には境内社2社が並列して祀られている。
       境内社・津島神社               境内社・天神社
        
     社の東側に隣接している「平沼集落センター」前に聳え立つ立派な松の大木。


参考資料「比企郡神社誌」「八ツ林村道祖土文書」「道祖土系図」「日本歴史地名大系」
    「境内神社改修記念碑」等



 

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出丸中郷白山太神社


        
            
・所在地 埼玉県比企郡川島町出丸中郷331
            
・ご祭神 白山妙理権現 水神 菅原道真 稲荷神
            
・社 格 旧出丸中郷村鎮守
            
・例祭等
 出丸中郷地域は、出丸中郷若一王子社にて以前紹介しているが、他にもう一社紹介したい社があり、それが白山太神社である。出丸中郷若一王子社から一旦北上し、埼玉県道339号平沼中老袋線に合流後右折、その県道を700m程直進し、県道が荒川の土手を離れて屈曲しようとする丁度突き当たりに白山太神社は鎮座する。
        
                        県道沿いに鎮座する出丸中郷白山太神社
 県道は意外と交通量も多く、普通自動車よりもトラック等の大型車両が目を引く。社周辺には横断歩道もないため、道路を渡る際には周辺の道路事情には注意が必要。
 県道に面した入口に社と古墳を共に明記した標柱も立っていて、標柱付近には僅かに駐車スペースもある。
        
                                 出丸中郷白山太神社正面 
『日本歴史地名大系 』には「出丸中郷」の解説がある。
 [現在地名]川島町出丸中郷
 上大屋敷村の東、荒川の右岸に位置し、南辺を同川支流の入間川が東流する。中世には伊豆丸郷のうちで、近世には出丸七ヵ村の一。川越城下と中山道の上尾宿や桶川宿方面とを結ぶ道が通る。この道は当地で入間川・荒川を渡り、入間川対岸南方の上老袋村(現川越市)との間に金兵衛渡、荒川対岸東方の畔吉村(現上尾市)との間に畔吉渡があった。
 田園簿では中ノ郷とみえ、田高一〇八石余・畑高七五石余・野高二三石余、川越藩領、
        
                   出丸中郷若一王子社同様土手に接して立地している社
        
                                      拝 殿
        この拝殿は一段高い所にあり、白山古墳の墳頂部にあたるという。
 この土手上の自転車道を北上すれば東大塚古墳群、荒川対岸の1km余り北東には上尾市の殿山古墳、さらに少し北は桶川市の熊野神社古墳がある。更に入間川を挟んですぐ南の川越市上老袋には50mの前方後円墳の舟塚古墳がある。付近は河川が集まる所であり、古代水上交通の要衝だったのかも知れない。        

 この社には創建に関する資料、案内板等はない。『新編武蔵風土記稿・出丸中郷村』には、以下の説明が載せられている。
白山社 村の鎮守なり、淨光寺持、
御手洗 社の後にあり、長さ三町程、幅二十間餘、五十間に至る、
    両岸草木繁茂し清水冷なり、池中に白蛇すめりとて、鯉魚多くすめども得ることを禁ず、

 白山(はくさん)は、日本の北陸地方、白山国立公園内の石川県白山市と岐阜県大野郡白川村にまたがる標高2,702mの活火山であり、富士山、立山とともに日本三霊山の一つである。
 古くから天下の名山として知られる白山は、御前峰(ごぜんがみね)・大汝峰(おおなんじがみね)・別山(べつさん)の総称である。養老元年(717)に越前の僧・泰澄(たいちょう)が初めて登拝して山頂に祠を祀って以来、日本を代表する神仏習合の『霊山』として崇敬と信仰を集めている。
 ところで、白き神々の峰として崇められた白山は、多くの霊峰と同様、古くは人間が足を踏み入れることを許さない禁足の山であった。そこに分け入ったのが、「越の大徳(だいとく)」と呼ばれた泰澄で、次のような伝承が伝わっている。
 ……越前や加賀の窟(いわや)で修行に明け暮れていた泰澄は、あるとき女神の示現にあい、「私は白山妙理権現である。私の真の姿が見たければ白山山頂に来たれ」と告げられた。女神に導かれ、ついに人跡未踏の山頂に到達した泰澄。山頂近くの「転法輪の岩屋」にて祈りを凝らすと、翠ヶ池から火を吐きながら九頭竜があらわれた。その姿に満足できなかった泰澄がさらに祈ると、龍はその身を変じ、女神の本地仏である十二面観音が神々しい姿てあらわれた……。
 別伝では女神・伊弉冉尊(いざなみのみこと)から十二面観音へと変じたとも伝えられている。
 
    拝殿に掲げてある個性的な扁額             拝殿内部

 上記の伝承では、白山開山の起源は、十一面観音の化身である九頭竜王が泰澄の前に現れたことによる。また、白山権現は、九頭竜出現伝承にも関わっているという。
 福井県に流れる「九頭竜川」流域の伝承では、雄略天皇21年(477年)。継体天皇主導のもと、日野、足羽、黒龍三つ大河を治水する大工事が行なわれ、その後、黒龍大神と白龍大神のうちの前者は、天地の初めから国土を守護してきた四方位を象徴する4柱の神々「四大明神」の一柱を祀るものとされた。東の常陸国には鹿島大明神、南に紀伊国には熊野大権現、西の安芸国には厳島大明神(神宮創建 推古天皇元年{593})、北の越前国の当地には黒龍大明神として、日本の国家鎮護 及び 黒瀬川(後の九頭竜川)流域の守護神として祭祀されてきた。
 その後寛平元年(889年)6月、平泉寺の白山権現が衆徒の前に姿を現して、尊像を川に浮かべた。すると九つの頭を持った龍が現れ、尊像を頂くようにして川を流れ下り、黒龍大明神の対岸に泳ぎ着いたという。以来、この川を「九頭龍川」と呼ぶようになった。九頭竜川の流域には、九頭龍権現を祀る祠が多く、水源にはやはり修験道と関係が深い白山がある。

 つまり白山は霊山として原始的な山岳信仰の対象として崇敬されていると同時に、古来より里に水をもたらす「命をつなぐ親神様」として、水神や農業神であり、祖霊が鎮まる場であった。君臨した神は、水の霊力をつかさどる九頭龍神であり、黄泉国の主宰神である女神でもある。

 川島町は埼玉県のほぼ中央に位置し、北は都幾川・市野川を境として東松山市・吉見町に、東は荒川を境として北本市・桶川市・上尾市に、南は入間川を境として川越市に、西は越辺川を境として坂戸市に接していて、まさに“川に囲まれた島”そのものといえる。その河川沿いには多くの「九頭龍神」が祀られている。
『新編武蔵風土記稿』に記されている「御手洗 社の後にあり、長さ三町程、幅二十間余、五十間に至る、両岸草木繁茂し清水冷なり、池中に白蛇すめりとて、鯉魚多くすめども得ることは禁ず」にある「池中の白蛇」は、古来から「蛇」は「龍」の化身とも云われているところから、九頭龍神の類かもしれない。
 
  拝殿左側に祀られている境内社・稲荷神社    同右側に祀られている境内社・天満宮
        
               ご神木の銀杏の根元にある力石
        
                               ご神木のある風景


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「川島町HP」「Wikipedia」埼玉古墳軍」等

 

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出丸下郷赤城神社

 川島町出丸下郷地域の東側には「旧荒川」と言われる細長い沼地が1kmほど続いている。この沼地は荒川の旧河道であり、昭和初期まで荒川が流れていた跡という。地図等を確認すると分かるが、嘗ての荒川が頻繁に蛇行を繰り返して流れていた頃の痕跡が色濃く残っている。旧河川の跡にしては意外と水量も豊富で、自然が色濃く残り、景観も良好である。この旧荒川が桶川市と川島町との行政界となっている。
 荒川と旧荒川との間にはホンダエアポートが存在する。ホンダエアポートは、軽飛行機専用の非公共用飛行場であり、運営管理は本田航空が行っている。元は熊谷陸軍飛行学校桶川分教場の飛行訓練に使用された滑走路だったが、戦後は長らく荒れた状態で放置されていた。そこで、1964年(昭和39年)3月にホンダが航空産業への参入を目指し、株式会社ホンダエアポート設立したという。
 この熊谷陸軍飛行学校の本校は埼玉県大里郡三尻村に置かれたが、1945年(昭和20年)終戦前の418日に熊谷陸軍飛行学校令廃止となり、戦後は進駐したアメリカ陸軍第43師団によって接収され、以後約13年間米陸軍キャンプとして利用された。1958年(昭和33年)、同キャンプは日本政府に返還され、同年8月、航空自衛隊熊谷基地(住所:埼玉県熊谷市拾六間892)が発足し現在にいたっている。
        
            
・所在地 埼玉県比企郡川島町出丸下郷55
            
・ご祭神 大己貴命/大穴牟遅神(推定) 豊城入彦命(推定)
            
・社 格 旧村社
            
・例祭等 
 出丸下郷赤城神社は川島町東南部荒川右岸にあり、出丸本地域に鎮座する若一王子社の北西方向で直線距離にして約1㎞先の場所に位置する。
 社の北には「埼玉防災航空センター」が見えるのみで、北西部にあるホンダエアポートは旧荒川土手に遮られていてため見ることはできない。それ以外は一面田畑が広がる長閑な地域であり、その物静かな風景の中にポツンと社の社叢が見えるという印象である。
        
                 
出丸下郷赤城神社遠景
『日本歴史地名大系』には出丸下郷の解説が載っていて「西谷(にしや)村の北東、荒川の右岸にあり、南は出丸本(いでまるほん)村、東は堤防・荒川を隔てて足立郡の諸村。中世伊豆丸(いずまる)郷の遺称地の一で、近世には出丸七ヵ村のうち。出丸中郷とともに出丸本村から分れたという(風土記稿)。
 田園簿では下郷とみえ、田高一一八石余・畑高一〇六石余・野高一三石余、川越藩領。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳でも下郷とあり、高三九八石余、反別は田二八町九反余・畑二九町九反余。ほかに開発地高六一石余(田四町四反余・畑四町六反余)があった」とある。

        
                標柱の北に駐車スペースがあり、その先に参道がある。
                               
 参道は当所北方向に伸びているが、鳥居付近で右側に直角に曲がる。社地の敷地の関係でこのような配置となっているのであろうが、他の社にも時折あるケースでもある。
        
        神明鳥居付近で右方向直角に曲がり、その参道を進むと拝殿が見えてくる。
        
                                       拝 殿
        
                拝殿手前には「赤城神社再建委員会」の碑が立っている。
 神域は旧吉野川に面し、河川東へ再度改修、元台地西岸足立台地は縄文弥生の村が栄、古代大和に属す。往昔岩出男姫神を祠、地名赤城方丈橋 (慈覚大師)川田谷勅願院と共に天歷元年(九七四)当社修造由 寿永年間(一一八二~五)兵乱社寺焼失、再建の鎮守十ヶ村、宝永六年(一七〇九)本社再建(棟札)神位宝永元文寬保寬延天明安政、元別当宝勝寺天保年間類焼故創立年月日未詳 明治四年村社、同七年拝殿再建、同丗一年尊像修復、大正元年神明宮合祀、戦後社有地八反余解放、昭和五十一年外宇改修、平成七年十一月廿五日時終戦五十年、不審火に側碑破壊遍く焼失、されど神殿の霊域灰燼の積中、事代主神像出現(大己貴命神子)神慮霊験を感得仮遷座、修、心痛二年氏子崇敬者数多の奉賛を得てご社殿は完成した。

 この碑によれば、嘗てこの地には「岩出男姫神」なる神の祠があり、慈覚大師や川田谷勅願院と共に天歷元年(九七四)当社修造したと記されている。が、慈覚大師が第3代天台座主円仁であるならば、延暦13年(794年)~ 貞観6114日(864224日)の人物であるため年代が合わないようにも見える。
 また「岩出男姫神」なる神とは如何なる神であったのであろうか。碑を見る限りにおいて、元々この土地の「産土神」であるようにも思えようが、不思議な一文だ。
        
                                      境内碑
 當社華表は明治廿三年の建設にして腐朽甚しく再建を企つる事多年なりしも明治四十年以來水災頻りに至り其機を失す今回氏子より金壹百六十五圓を醵出し鈴木周太朗氏より石材華表料金三百圓及基本財産中に金壱百三拾圓の寄附を得以て建設奉納せり尚川越町竹谷善吉氏の發意に因り字中井に八二番に鎮座せし子之権現社を遷して境内神社となし同氏〇〇も基本金貳百五十圓及祭禮幟一對並に同石〇を寄進さる仍て永く両氏の芳名を後毘に傳へ紀念となさんが爲め此碑を建設する所以なり     大正九年一月吉辰  赤城神社氏子中
 
    境内合祀社 稲荷社・天神宮        合祀社の並びに祀られている権現社
       
                                   境内の一風景


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「Wikipedia」「境内碑」等
    

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渕名神社

 平安時代も終わりに近い12世紀初頭の天仁元年(1108)、上野国と信濃国境に聳え立つ浅間山の大噴火により、上野国一帯に噴出物が降り積もり、田畑に壊滅的な打撃をもたらした。天仁大規模噴火ともいう。当時京の公卿であり、右大臣にまで昇進した藤原宗忠が寛治元年(1087年)から保延4年(1138年)まで書いた日記である『中右記』(ちゅうゆうき)にもこの当時の様子が記されている。藤原宗忠は摂関政治から院政への過渡期の公卿として、その時代の動きや自身の身辺での出来事、また、重要な人物との接触や、その活動についての自身の意見や評価を日記として残し、その時代をつかむ上で重要な史料を後世に提供した重要人物でもあり、『中右記』は平安時代後期の趨勢を知る上で貴重な史料ともいえる。
 この日記によれば、天仁元年95日の条に、この年の40年も前の治暦年間(1065 - 1069年)に噴煙が上がっており、その後も少しではあるが噴煙が上がり、同年721日になって突然、大噴火を起こした。噴煙は空高く舞い上がり、噴出物は上野国一帯に及び、田畑がことごとく埋まってしまった、と記されている。
 復興のために開発した田畑を豪族が私領化し、さらに荘園へと発展したため、この噴火は上野国の荘園化を促すきっかけとなったともいう。
 天仁大規模噴火は天明の大噴火よりも大規模な噴火だったとされていて、最近、12世紀初めの北半球の気温が約1℃低下したことや欧州における暗い月食、数年間の異常気象、大雨や冷夏による作物の不作と飢饉の原因が浅間山の噴火であった可能性が示唆されている。
 藤原秀郷の子孫で佐位郡に勢力を持つ渕名太夫兼行(ふちなたゆうかねゆき)は、1108年の浅間山の大噴火で荒廃した土地を再開発して「渕名荘」が成立した。
        
            
・所在地 群馬県伊勢崎市境上渕名993
            
・ご祭神 保食命
            ・
社 格 旧村社
            
・例祭等 祈年祭 217日 春季例祭 4 3日 例大祭 1017
                 
神迎感謝祭 旧111
 国道17号バイパスである上武道路を伊勢崎方向に進み、群馬県道2号前橋館林線との交点である「上渕名上武道下」交差点を右折する。因みに上武道路は高架橋であるので、交差点の手前で左車線に移り、高架橋を下がり、少し進んだ「上渕名上武道下」の交差点を右方向に進む。
 県道合流後1㎞強程進むと、利根川支流である早川の西側に隣接している渕名神社に到着する。
        
                県道沿いに鎮座する
渕名神社
「渕名」の地名由来として、『伊勢崎風土記』によると、第11代垂仁天皇9年に風雨不順によって人々が苦しめられていたため、天皇は百済車臨を東国に派遣した。車臨は当地に至り御手洗池で手を洗う大国主命と出会い、国家の難の平定を願った。すると大国主命の姿はなくなり、その跡に淵が出来たのが、「渕名」の地名由来との事だ。
        
                     道路に面して赤い鳥居、その先に石の鳥居がたつ。
    境内には銀杏の大木が茂り、字名「銀杏」もこれに由来したものといわれる。

 この社一帯は嘗て「淵名荘(ふちなのしょう)」と言われていた。この荘は、上野国佐位郡(現在の群馬県伊勢崎市)にあった荘園。郡のほぼ全域が荘域であったことから、佐位荘(さいのしょう)とも称された。
「仁和寺法金剛院領目録」に同荘の名前があり、同院の創建が大治5年(1130年)であることから、その前後に仁和寺領として成立したとみられている。秀郷流の藤原兼行(淵名兼行)が「淵名大夫」の異名で呼ばれており、彼もしくはその子孫である藤姓足利氏が開発に関わったとみられている。また、付近にある女堀(未完成)の開削にも関わったとする見方がある。足利氏の没落後、中原季時や北条実時(金沢実時)が地頭を務めたが、霜月騒動を機に支配権が金沢家から北条得宗家に移った。得宗家は被官の黒沼氏を淵名荘に派遣したが、西隣の新田荘を支配する新田氏と境相論を起こしている。後に両者は協調に転じるが、元弘3/正慶2年(1333年)に新田義貞が黒沼彦四郎を処刑したことを機にこの関係に終止符を打った。
        
                                  石製の二の鳥居
 室町時代に入ると、室町幕府によって領家職が走湯山密厳院に寄進されるが、現地の武士である大島氏(新田氏系)や赤堀氏(藤姓足利氏系)、守護の上杉氏などの勢力が強く、本家である仁和寺・領家である密厳院の上級支配権は有名無実と化していった。なお、同荘に属する赤石郷が戦国時代に由良成繁によって伊勢神宮に寄進され、後に「伊勢崎」と呼ばれるようになったという。
        
                     拝 殿
 
 社殿手前左側には「
渕名神社社殿新築記念碑」があり(写真左)、同殿左側には旧社名である「熊野神社」の案内板(同右)が設置されている。

「淵名神社社殿新築記念碑」
 由緒
 当社は奈良時代の創建と伝えられ、鎌倉時代に至って、豪族淵名大夫光行の篤い崇敬を受けて、その氏神として祭祀されたとも伝えられている。
 天下争乱の戦国時代に一時荒廃したが、郷民崇敬によって修復され、明治六年には、村社に列せられている。
 現在の社殿は熊野神社と称された時のもので、明治の頃に上淵名の鎮守である飯玉大明神を合祀した際に淵名神社と改称し「保食命」を主祭神とした。
 同時期、近傍に祭祀されていた「金山大権現」「赤城神社」「諏訪神社」「神明宮」「天満宮」「稲荷神社」なども合祀し、今に至る。
 境内には以前、樹齢三百余年以上あると思われる、見上げるばかりに大きな銀杏の古株が有り、字名を銀杏と称される程であった。しかも、この大銀杏の樹皮を産婦が用いると乳の出が良くなると伝えられ神社に祈願してその分与を乞う者も多かったという。

 拝殿東隣に設置されている案内板 
熊野神社」
 上淵名(いま淵名神社)祭神 須佐之男尊
 淵名神社になって「保食命」
1)奈良時代に創建されたと伝う。
 鎌倉時代に至り豪族淵名大夫光行の崇敬が篤く氏神として祭祀した。
 戦国時代に一時社殿が荒廃したが郷民の崇敬によって修復され古来より十二月二十九日に例祭が営まれた。
 明治に至るまでの境内に目通り十六尺の大銀杏があり婦人がこの樹皮を用いると乳がよく出るといわれて奉賓が盛んであった。今の此の地を字銀杏というのはその為である。
2)昔、上淵名の鎮守は飯玉大明神であった。
 村の東南方淵名から東新井に通じる道端にあったが明治に熊野神社に合祀して淵名神社と改めた。
 いま、淵名神社の御神体は飯玉大明神の御神体を納めるもので古来からあった熊野神社の御神体はこの時放り出されてしまい大家が店子に追い出された形となった。
 天保年間、村内にあった神社は村の西方に「金山大権現萬蔵」、東に「赤城神社」、もと長命寺前に「諏訪神社」、南方に「神明宮」、横町に「天神様萬蔵東」と「比丘尼塚」、阿弥陀山に「稲荷神社」があったが明治に淵名神社に合祀された。

「淵名神社社殿新築記念碑」と社殿東側の「案内板」には、創建等由来に多少の表現の違いがある。「淵名神社社殿新築記念碑」では上淵名の鎮守である飯玉大明神を合祀し、社号を淵名神社と改称、並びに「保食命」を主祭神とした際の経緯をサラッとに載せているのに対して、「案内板」のほうでは、「古来からあった熊野神社の御神体はこの時放り出されてしまい大家が店子に追い出された形となった」と、明治期の神社合祀時に御祭神の交代等に伴う熊野神社側氏子の不満を露骨に載せている。
        
                 拝殿に掲げてある扁額
 
 社殿左側には「奉納奥社」との社号額が記されている鳥居が立ち(写真左)、その先には幾多の石祠・石碑等が立ち並ぶ(同右)。
 石祠・石碑群は左側から「二十三夜塔」「道祖神」「大黒天」「庚申塔」「猿田彦大神」「?」「?」「?」「飯玉神社」「富士浅間宮」「諏訪神社」「秋葉山神社」「?山神社」「?」「豊玉姫神」が祀られている。
        
       社の東側には南北に早川が流れ、長閑な農村風景が広がっている。
  よく見ると境内の東側隅には石祠がポツンと祀られていた。弁財天の祀る石祠である。
                  どのような経緯であの場所に祀られているのだろうか。


参考資料「中右記」「Wikipedia」「伊勢崎風土記」「境内案内板等」等
            

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