古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

金原稲荷神社(保食社)


        
             
・所在地 埼玉県南埼玉郡宮代町金原43
             
・ご祭神 倉稲魂命
             ・社 格 旧百間金谷原組鎮守
             
・例祭等 例祭(稲荷神社の祭礼) 720
 金原稲荷神社(保食社)は、山崎地域に鎮座する重殿社から直線距離にして1㎞程南にあり、真言宗智山派金谷山遍照院のすぐ西側に鎮座している。
 山崎重殿社から一旦東行し、埼玉県道154号蓮田杉戸線に達した十字路を右折する。その後、1.3㎞程進んだ「中」交差点を右折し、300m程先にある丁字路を右折すると左側に社は見えてくる。
        
                
金原稲荷神社(保食社)正面
 当社の祭神は倉稲魂命であるが、社頭に掛かる明治18年の社号額には「保食社」とあり、この保食神が祭神として意識された時期があったことをうかがわせる。もともとは西光院の末寺である宮崎坊の境内社であった。安永4年(1775)に京都の伏見稲荷大社から正一位の位階を与えられたことがわかる文書が残されている。本殿は慶応3年(18675月の再建で、内陣には全高25㎝の白狐に乗った荼枳尼天像が納められている。
        
      鳥居を過ぎて当初はそのまま参道を進むが、途中で直角に右に曲がる。
             その先に社殿がある配置となっている。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 百間村』
 一は百間金谷原組新田と云、享保九年の新開とのみ傳へて、検地は詳ならず、
 遍照院 金屋山と號す、天正九年造立せり、開山祐源と云ふ、 地藏堂 宮崎坊 稻荷山と號す、 稻荷社 雷電社

 稲荷社  宮代町金原四三(百間村字金谷原)
 百間村は大落古利根川の右岸に沿って位置する。「風土記稿」によれば、古くは太田庄百間領に属し、村の鎮守であった姫宮神社の応永二十一年(1414)の鰐口には「大田庄南方百間」とあり、足立郡鴻巣宿の農民が来て、切り開いた土地であるという。
 当社は、この百間村の金谷原に鎮座する。金谷原とは鋳物師に関係の深い地名で、この辺りに鍛冶屋がいたことから付いたという。ちなみに当社の南三○○メートルほどの所に鍛冶屋屋敷跡があり、当地では「川口の鋳物師の本家」であるといわれている。
 口碑によれば、江戸初期に金谷原の「七郎名主」と呼ばれた関根家では金山大神を鎮守としていた。村には上の上寺(宮崎坊か)と下に遍照院があった。当時村では上下の対抗意識が強く、名主の関根家は下に居を構えていた。安永年間(一七七二〜八一)以前に、名主が関根家から上の折原家に替わるや、上では金山社を鎮守として祀るのを嫌い、新たに京都の伏見より稲荷を勧請した。そこへ下の金山神社を合祀したという。また、社伝には「安永四年(一七七五)羽倉摂津守が山城国伏見稲荷より五穀豊穣を願い勧請した」とある。「風土記稿」に見える上の寺と思われる宮崎坊は稲荷山と号し、遍照院は金谷山と号し、稲荷社・金山社それぞれの別当であったことが推測される。
                                  「埼玉の神社」より引用
 現在の金原は、「金谷原」を継承する地域名で、上・下・新田の三つの地区に分かれている。明治九年の『郡村誌』には、当地の地味について「色赤野土なり質悪しく稲麦に宜しからず茶甘藷に適し水理便ならず時々水旱に苦しむ」と記され、昭和十年代ごろまで旱魃に見舞われるたびに雨乞いを行っていたといい、その祈願は群馬県板倉町の雷電神社に「お水」をもらって祈願をしたという。
 
     拝殿に掲げてある扁額               拝殿内部
        
                     本 殿
 かつて金原では、ムラの鎮守である稲荷神社の祭りを二月の初午に行い、この時甘酒を造る。この日には、稲荷神社に各家で藁のコモに豆腐を二丁くらい入れて供える。また、事前に当番の家で造っておいた甘酒を稲荷様の境内に置き、参拝者に振る舞った。この甘酒は、稲荷様の田んぼからあがる小作の米の一部を、糀と交換して造るものである。甘酒を造った当時は、当番が一〇軒くらいで、当番の家で造り、神社に運んで神主に拝んでもらった後に振る舞うのであった。男の人たちは、御神酒で宴会を行った。この行事は、第二次世界大戦後もいくらか行ったが、現在は行われていないとの事だ。
        
             境内にある稲荷神社二百年祭記念の石碑
 稲荷神社二百年祭記念
 保食社は安永四年九月本宮正官攝津守によって分社、現在の地に鎮座された氏神樣です。
 約六百坪の境内には杉の大木が茂り百間杉と愛称されておりましたが大東亜戦争の供木になり放置されておりましたが幸い町当局の好意により公園と集会所が完成し社殿補修工事は氏子一同の協力によってなされたものであります。(以下略)
                                      石碑文より引用

        
              境内西側に祀られている境内社四基
       左より金山大神・天満宮・雷電宮・金谷権現神社が祀られている。
 因みに金山大神は、明治41年に字金谷原前から移転したという。この社は鍛冶屋集団が信仰する職業神を祀る社である。金谷または金屋(原)と称する地名は、かつて鍛冶・鋳物師の居住地であったことを示す場合が多い。金原という地域名や、境内社に金谷権現社や金山大神を祭ってあるところから、近隣で製鉄、あるいは金属加工が行われていたらしいことが伺えよう。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「宮代町立図書館/宮代町デジタル郷土資料HP 宮代町史 通史編」
    「境内石碑文」等
     
        

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