古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

上州藤岡諏訪神社

 藤岡市は群馬県の南西部に位置し、東は埼玉県上里町・神川町、西は高崎市・甘楽町・下仁田町、南は神流町・埼玉県秩父市、北は高崎市・玉村町と隣接。総面積は180.29平方キロメートル。鮎川(あいがわ)や神流川(かんながわ)が運んできた土砂が堆積してできた扇状地で、真ん中に庚申山丘陵 (独立丘陵) が分布していて、緑と清流に恵まれた山紫水明な地である。
歴史は古く、古墳時代の史跡も多く発見されている。室町時代には関東管領職にあった上杉憲実が平井城を築城した。江戸時代は日野絹の集散地として栄え、明治以降は高山社に代表される養蚕業の先進地、また木材の集積地として発達してきた。
 明治22年の町村合併の際に、藤岡町と小林村が合併してできた「藤岡町」が基になっていて、その後昭和29年、藤岡町と神流村・小野村・美土里村・美九里村の隣接14カ村が合併して市制を施行、翌年には平井・日野両村を編入、平成1811日に鬼石町と合併し、現在の藤岡市となっている。
 この「ふじおか」という地名の由来には諸説あるが、日蓮上人が大きく関わっているとされている。日蓮上人は、流刑地である佐渡に向かう途中、この地に立ち寄り地元の名士であった長谷川長源の屋敷に宿泊した。文応11年(1274年)、日蓮上人が佐渡から京に帰る際、再びこの地に立ち寄ると、長源の屋敷は「長源寺」というお寺に変わっていて、その立派さに感激した日蓮上人は、当時の常が岡 鮭塚(ときがおか さけづか)に八軸の経をおさめ、富士山の分霊を呼び奉った。このことから、「富士岡」(ふじおか)と呼ばれるようになったと言われている。
        
              
・所在地 群馬県藤岡市藤岡495
              
・ご祭神 健御名方神 八坂刀売神
              
・社 格 不明
              
・例 祭 諏訪神社春季例大祭 48日 夏越大祓 630日 
                   
諏訪神社秋季例祭 1017日 年越大祓 1231
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2403546,139.0810539,17z?hl=ja&entry=ttu

 本郷土師神社から十石街道を1.5㎞程北上すると藤岡市街地内に鎮座する上州諏訪神社。訪問時間は夕方で車両の交通量も多い時間帯であり、十石街道自体は決して道幅が広い道路ではないので、進行方向に対して右側に鎮座している社の専用駐車場に入る際に対向車両の関係で少し手間取ったが、街中にありながら境内は広く、駐車スペースも完備されている。後日確認すると藤岡市では一番大きな社であるそうだ。
 但し当日参拝場所が多く、当初本郷土師神社で終了する予定であったこと、偶々藤岡市市街地に立ち寄ったところ、この社を確認したが、残念ながらカメラの容量が残り少なく、撮影できる枚数が少なくなっている。心配しながらも参拝を行った。
            
                十石街道沿いに社は鎮座していて、社号標柱が目印となる。
    古くから「お諏訪様」と呼ばれ、氏子九ヶ町の氏神として信仰されてきたという。
        
                    参道の様子
 境内は広く、整然としている。周囲の手入れも行き届いていて、気持ちよく参拝ができた。
        
        鳥居を過ぎると正面に石段が見え、その高台上に社殿が見える。
            どうやらこの社は社殿が西向きであるようだ。
       
               参道右側に聳え立つご神木(写真左・右)
 
     ご神木の右並びにある神楽殿           石段の手前で左側に「由緒」と記
                           した石碑がある。
        
                     拝 殿
 拝殿左右にある天水桶が大釜の形状になっているのが面白い。またその前の狛犬の形が変だと思ったら「狛虎」と呼んでいるようだ。

 歴史・由緒
 およそ1100年前、上野国緑埜郡正四位椙山明神として、明神の荒魂と和魂をそれぞれにお鎮めし、上、下の2社としてお祀りされていました。
 永享3年(1431年)、有田大舎人小属定景が常岡城に居城するにあたり、諏訪大社の上社・下社を勧請して、上社は男神、下社は女神として、2社を崇敬祭祀していました。
 永禄9年(1566年)、芦田下野守信守が藤岡城に居城するにあたり、同年727日、信濃国一之宮諏訪大社の上社、下社から剣一口、鏡一面を請い受け、神霊として南山に上社、当社(現在の諏訪神社の場所)に下社を奉斉しました。
 天正18年(1590)、信守の孫、右衛門大夫康貞が居城するや、祖父の発祀せる上社、下社を以て牙城の守護となし、社殿を造営し祭田を寄進して別当をも定めました。
 慶長5年(1600年)、芦田氏故あって藤岡城を廃されたが、郷民はなお崇敬し祭祀を継続しました。芦田氏奉斉依頼、御神威は四方に輝き、藤岡領すなわち、当所他17ヶ村の総鎮守として崇拝せられてきました。
 しかし、明治初年の神社制度改正の砌、各町村に村社が置かれることとなり、当町を除く他の17ヶ村は氏子と称せず信徒として、祭礼には獅子舞や神楽舞等を奉納し、当社より各村毎戸に神符を頒布するを例としました。
 明治の神社制度改正に倣い、上社は下社に合祀されました。
また、明治元年(1866年)~明治34年(1901年)12月迄、当社はその地域の名から、「高山神社」という社名でした。
                              「上州藤岡諏訪神社HP」より引用

        
                           本殿より社殿全体を撮影
               現在の本殿、幣殿、拝殿及び神楽殿は、嘉永3年(1850)の建立
        
          社殿の左奥に水天宮を祀る池があり、朱塗りの太鼓橋が景観的に美しい。

 太鼓橋を渡った奥には「高山長五郎功徳碑」がある。養蚕改良高山社を創始した高山長五郎の生前の功徳を伝えるために明治24年に建てられた。その左には、「町田菊次郎頌徳碑」がある。高山長五郎亡き後、養蚕改良高山社の二代目社長として高山社の名声を高めた町田菊次郎の功労をたたえたものだ。いずれも市指定重要文化財になっている。
        
                       本殿の奥に境内社が並んで鎮座している。
       左から「三峯社」・「阿夫利社、大神宮、豊受社」・「稲荷神社」
         
                  社殿から参道を撮影

 上州藤岡諏訪神社の鳥居近くにある一対の石燈籠は、天保2年(1831)三井越後屋から奉納されたもので、中段には三井の紋がある。手水舎は、安政4年(1857)、三井八郎右衛門から奉納されたものだ。「藤岡市まちなか絹市歴史散歩まっぷ」によると、「藤岡の絹市は京都や江戸、大阪から多くの商人が集まり、東西の動堂町(ゆるぎどうちょう)通りと南北の笛木町(ふえきちょう)通りが交替で、上州最多の12回の市が立ちました。」と書かれているので、江戸時代の豪商三井家と藤岡地域は深い関係があったようだ。


 乗数藤岡諏訪神社の社殿南側には、鳥居のある立派な境内社である・八坂神社、大國神社、天満宮など多くの末社が鎮座している。残念ながらカメラの容量の関係で、大国神社しか撮影できなかった。
 
               境内社・大国神社(写真左・右)


参考資料「上州藤岡諏訪神社HP」「藤岡市まちなか絹市歴史散歩まっぷ」
    「藤岡市公式HP」「藤岡市役所 企画部 地域づくり課」「Wikipedia」等
 

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