古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

手白神社

 滑川は延長13.5㎞、流域面積40㎞2の荒川水系の一級河川で、源流(最上流)は比企郡嵐山町と小川町の溜池であり、農業排水を集めながら南東へと流れ、大里郡江南町、嵐山町、滑川町、東松山市を経て、吉見町北吉見と東松山市松山の境界で市野川に合流する。
 ところで江戸時代末期に編纂された新編武蔵風土記稿の比企郡吉田村に当時は滑川の起点が吉田村(現在の嵐山町吉田)の湧水だったことが記されている。

  
”滑川:当村の田間所々より涌出水、村内にて落合ひ、一條の流れとなり、始てこの名を負へり、是滑川の水源なり”

 この滑川源流域で熊谷市と滑川町との境付近に手白神社は鎮座している。

  ・所在地  埼玉県比企郡嵐山町吉田952
 ・御祭神  手白香姫命、大貴巳命、大山祇命、金山彦命、高霊神、市杵島姫命
 ・社  挌  旧村社
 ・例  祭  不明
*写真は2021年12月17日に再度参拝時に撮影したものである。21年参拝時、石段の両脇に聳え立つご神木のうち、左側の杉は既に切り倒されていたが、ブログ内容は敢て変えないことにした。
        
 手白神社は埼玉県道11号熊谷小川秩父線を小川町方向に進み、塩八幡神社の先の交差点を左折し、道なりに約1km位真っ直ぐ進むと右側に小高い山があり、その山を背にして鎮座している。
 道幅は狭く、また専用の駐車場もないので社を過ぎた場所に路上駐車し、急ぎ参拝を行った。                                                       
                                手白神社正面
        
                     参道の間には御神木の杉が聳えている。                     
 推定樹齢約800年以上という巨木であり老木だ。右側の木が高さ36m、目通り5.03m、左側が高さ26m、目通り2.7m。昭和49年に町の天然記念物の指定になった。
                       
                 石段の参道を登りきると正面に拝殿が見えてくる。  
   社殿の随所に施された彫刻が見事である。              社殿の横にある案内板

 町指定有形文化財 彫刻  手白神社本殿彫刻
 手白神社は今から870年ほど前の天治元年(1124)に蘆田基氏が創建したと伝える。御祭神は手白香姫命である。大字吉田地区のほぼ中心に位置し、古くより「手の神様」として、近隣の人々からの信仰が厚かった。現在の本殿は、大正二年(1913)に峯野神社、五竜神社、六所神社が合祀された際に六所神社の建物を移築したものである。
彫刻は江戸時代の作品で、技法に勝れ保存状態も良い(以下略)

 町指定天然記念物 手白神社の大スギ
 この二本の大杉は、御神木として祀られており、神社の歴史の古さを物語っている。いずれも樹齢は八百年と推定される巨木である(以下略)
                                                             案内板より引用
                       
                                 本 殿
                                   
                         こちらも本殿、右側面から撮影

 手白神社の御祭神筆頭である手白香姫命は継体天皇の后。二十四代仁賢天皇の第五皇女であり、武烈天皇は同母弟にあたる。古事記では手白髪郎女と表記されている。
 この社の起源として嵐山町誌は次のように述べている。宝永三年(1706)に別当泉蔵院から領主折井氏に提出された伝説として、「仁賢天皇(第二十四代)の第五皇女に手白香姫命という女性がおり、武烈天皇の酷刑苛政を諫めたがきかれないので東国に下り、この吉田の里に止って里人を教化した。ところがある日、手白香姫が村内を巡回し、とある清水で手を洗おうとして懐中の鏡を水中に落してしまった。水底を探し尋ねたがついに発見することができなかった。その後、手白香姫は都に帰り継体天皇の皇后となった。
 鏡を落とした湧水は鏡浄呂(きょうしょうろ)池と名づけ、姫の命によって鏡浄呂弁財天を祀った。その後、白河天皇の御代(1080年頃)に村長の芦田基氏という人が早朝弁財天に参詣したところ、社木の樫の木に向って神気が立ち上がり、その中に姫の姿が現れて「私は先年ここで鏡をなくしたので魂はまだここに止っている。手の業を望むものや手の病気を患うものは来て頼むがよい。」というお告げがあったという。


 大和王権は第25代武烈天皇没後、一旦血統が途絶える。嫡子がいなかった為だ。その為ヤマト朝を構成していた豪族連合の意向を受け、遠い越前国に住んでいて約5代前に分家した意富富杼王が謂わば婿入りの形で手白香姫命との婚姻を条件に大王の位を引き継いだ。第26代天王継体天皇である。そしてその嫡子欽明天皇(509~571)は王家本流として敏達から舒明、そして天智・天武へと連なる大王家の礎とも云える系統を保持することができた上においてもこの手白香姫命の存在は大きかったといえる。
                       
        社殿の左側奥の突き当りに御神水か湧水か?柄杓もあるのでその類だろう。
 
     拝殿の前を左に行くと神楽殿がある。        神楽殿前を右へと登って行くと境内社あり。
 

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越畑八宮神社

  新編武蔵風土記稿には八宮神社が鎮座する嵐山町越畑地区について以下の記載がある。ちなみに越畑と書いて「おっぱた」と読む。なかなか馴染みのない変わった名称だ。

越畑村(おっぱたむら)(現・埼玉県比企郡村嵐山町大字越畑)
 越畑村ハ領名(りょうめい)及ビ江戸ヨリノ行程(こうてい)前村ニ同ジ:。東ハ吉田・勝田(かちだ)ノ二村ニ隣リ、南ハ杉山・中爪(なかつめ)ノ村々ニテ、西ハ下上横田村(しもよこたむら、かみよこたむら)ニ交(まじわ)リ、北ハ古里村ナリ。東西七町南北二十町余。家数九十軒。御打入(おんうちいり)ノ後、高木筑後守広正(たかぎちくごのかみひろまさ)ガ采邑(さいゆう)ニシテ其子甚左衛門ガ時慶安(けいあん)元年(1648)検地(けんち)セリ。ソノ後元祿元年(げんろく)(1688)替(かわ)リテ御料所(ごりょうしょ)及ビ酒井但馬守(たじまのかみ)ガ知行(ちぎょう)トナリシニ、同キ十一年(1698)御料所ノ内ヲ割テ山高十右衛門ニ賜リ、又享保十二年(きょうほう)(1727)残リシ御料所ノ分ヲ黒田豊前守(ぶぜんのかみ)・羽太清左衛門ノ二人ニ賜リテ、今モ高木・山高・黒田・羽太等ノ子孫四人ノ知ル所ナリ。

 この越畑村に八宮神社が村の鎮守として存在する。八宮と書いて「やみや」と読む。名前通り8柱の神様を祭っている社だ。

所在地   埼玉県比企郡嵐山町越畑1445
御祭神   応神天皇、木花開夜姫命、大雷神、天照大御神、
       倉稲魂命、大山祇命、櫛八玉神、品陀別命
社 挌   旧村社
例 祭   毎年7月25日に近い日曜日 獅子舞

                      
 越畑八宮神社は太郎丸淡州神社から埼玉県道69号深谷嵐山線を深谷方向に進み、越畑交差点の次の信号を左折すると右側に八宮神社の鳥居と社号標が見える。ちなみにこの交差点の右側には七郷小学校の横看板があり小さいが目印にすると良い。この社には専用駐車場はないが、鳥居や石碑を過ぎた場所に車を停めるスペースがあり、そこを借用して参拝を行った。

 まず最初に鳥居を挟んで右側には庚申塚群が、左側には記念碑が数多く置かれている。
   
       鳥居の左側にある記念碑群          同右側にある庚申塚や神宮参拝記念碑 

そして鳥居の左隣には「県指定 無形民俗文化財 越畑の獅子舞」の案内板がある。
          
越畑の獅子舞

毎年7月25日の前後で一番近い日曜日には、越畑地区の八宮神社で夏祭りが行われます。ここで雨乞いの行事として行われるのが「越畑の獅子舞」です。獅子舞はササラと言われ、数百年前に飢饉にみまわれた越畑の人たちが伊勢山田(現在の三重県)から習ったのが始まりと伝えられています。

獅子舞は万灯、法螺貝にはじまり、先払い、先達(神主)、氏子総代、棒司、花笠っ子、笛吹き衆、中立、獅子三頭の順番で行列をつくります。神社に到着すると、獅子が舞う場が清められ、獅子舞が行われます。(県指定無形民俗文化財)
                                             嵐山町ホームページより引用
    
            
                          鳥居から参道を撮影
                       
                         鳥居を過ぎると石段があり、斜面上に社が鎮座している。
 
        斜面を登りきると左側に神楽殿(写真左側)、右側に社務所(写真右側)がある。
                      
                                          拝    殿
                        
                                本殿覆屋、鮮やかに彩られた本殿が中にある。

神社明細帳には八宮神社について以下の記載がある。

八宮神社 
  埼玉縣武蔵國比企郡七里村大字越畑字日向
  村社 昭和二一、一○、一五 法人登記済
 由緒
  勧請(かんじょう)人皇四十七代聖武天皇ノ御宇ト申ス、其後承平)年中(931-938)経基公関東征討ノ節此ニ祈願シ遂ニ八ヶ所ニ是ヲ祭ルト云フ。明治四年(1871)中村社(そんしゃ)届濟。
  明治三十二年(1899)五月二十二日八幡神社ヲ八宮神社ト訂正ス。
  明治四十年(1907)四月十日大字越畑字冨士山無格社浅間神社、字幡後谷前無格社雷電社、字柳原無格社神明社、字社宮司無格社社宮司社、字後谷無格社山神社、字下串引無格社大天獏社、字大堂無格社八大社、字清水無格社八幡社ノ八社ヲ本社ニ合祀(ごうし)ス。大正八年(1919)十二月二十二日拝殿幣殿(へいでん)改築許可。大正九年(1920)四月十五日竣工。
  大正十一年(1922)三月二十日神饌幣帛料供進神社ト指定セラル。

            
                                   拝殿前の石段から鳥居方向を撮影

 嵐山町は比企丘陵の中枢部を占めており、山あり渓谷あり、平地ありと変化に富んだ自然の宝庫で、国蝶オオムラサキが生息する地としても有名でり、歴史的には、木曽義仲や畠山重忠など、平安末期から鎌倉時代にかけて日本史に名をとどめた坂東武者ゆかりの地でもあり、埼玉県の中にあって観光資源の豊かな地域の一つである。

 越畑地区に鎮座する八宮神社は決して規模の大きい社ではないし、神社の外観もどちらかというと地味である。しかし獅子舞のような県の指定を受けている歴史的にも淵源の古い文化財あり、鮮やかに彩られた美しい本殿といい、後世に残すべき素晴らしい文化がこの地にはある。大切にしたいものだ。

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太郎丸淡州神社、勝田淡州神社

 市野川は延長約35km、流域面積147Km2の荒川水系の一級河川。正式な表記は市野川だが、市の川や市ノ川と表記することもある。埼玉県大里郡寄居町牟礼の牟礼橋を管理起点とし、小川町、嵐山町へと概ね南東に向かって流れ、関越自動車道を越えた辺りからは流れを東へ変え、滑川町、東松山市を経由し、再び流れを南東に戻す。さらに吉見町、川島町を経て最後は北本市と桶川市の境界付近で荒川と合流する。
 武蔵国郡村誌や新編武蔵風土記稿によれば、市野川の上流部(寄居町と小川町の境界付近)には、金山、金塚などの小字名が分布している。例えば牟礼村に金山、今市村に金山、高見村に金塚がある(高橋の付近)。また、牟礼村には金山社が祀られていたとある。金山社の祭神は金山彦命であり、この神は金属精錬業者(鍛冶屋や鋳物師)の信仰を集めたようである。これらのことから、市野川の周辺には金属の精錬を生業とする人々が居住していたと推測される。その時代は不明だが、鎌倉街道や古城跡との関連などから、おそらく近世以前だと思われる。市野川から採取した砂鉄を原料として、金属の精錬(たぶん、たたら製鉄)を行なっていたのだろう。この古代鍛冶集団と関係があるのか、嵐山町の市野川左岸流域には淡州神社が多く存在している。

所在地    埼玉県比企郡嵐山町太郎丸
御祭神    速御玉姫命
社  挌    旧村社
由  緒    大化(たいか)年中(645-650)本社再建スル所ナルト自来(じらい)*1年月久シキヲ経(へ)ルヲ以テ之レカ修繕(しゅうぜん)ヲ施(ほどこ)スト雖(いえども)元禄ノ頃(げんろく)(1688-1704)社宇(しゃう)*2大(おおい)ニ破損(はそん)ス是(これ)ヲ以テ猶(なお)再建スト云フ棟札(むなふだ)ニ元禄八年(げんろく)(1695)九月吉辰ト記載(きさい)アリ今現ニ存立(そんりつ)スル社宇ハ則(すな)チ之トナリ明治四年中(1871)中村社(そんしゃ)ニ列(れつ)セラル明治三十六年(1903)四月二十五日上地林(あげちりん)百十八坪(つぼ)ヲ境内(けいだい)ニ編入(へんにゅう)許可
                                                                                                                                                      「神社明細帳 淡州神社 七郷村太郎丸」より引用
例  祭    不明
       
 太郎丸淡州神社が鎮座する太郎丸地区は嵐山町の中央部に位置し、すぐ東側は滑川町である。太郎丸淡州神社は埼玉県道69号深谷嵐山線を深谷方面に行き、武蔵嵐山病院を過ぎた次の信号のない十字路を右折すると左側に淡州神社の赤い鳥居が見えてくる。
          
  
参道正面に赤い両部鳥居があり、鳥居を越えて左側に何故か「大国主大神」の石碑がある。
          
                  二の鳥居と参道の突き当たりに拝殿がある。

 明治時代、内務省および庁府県に備え付けられていた神社の台帳のことを神社明細帳というが、1879年(明治12年)6月28日、内務省達乙第31号により、神社及び寺院の明細帳を作成し、その副本を内務省に送付することが各府県に命じられた。各府県では、社寺取扱規則(明治11年内務省達乙第57号)の基準に合致する社寺を、届出又は職権によりそれぞれ神社明細帳及び寺院明細帳に登載した。その神社明細帳、七郷村誌には嵐山町太郎丸について以下の記載がある。

水房村(みずふさむら)枝郷(えだごう) 太郎丸村(たろうまるむら)   

 
太郎丸村ハ水房村ノ西ニ続キテ江戸ヨリノ行程(こうてい)ハ本村ニ同ジ、水房庄(みずふさしょう)松山領(まつやまりょう)ト唱(とな)フ。古ハ水房村ノ内ナリシガ、寛文五年(かんぶん)(1665)検地(けんち)アリシヨリ別レテ枝郷(えだごう)トナレリ。此(この)検地ノ時村民太郎丸トイヘルモノ案内セシヨシ『水帳(みずちょう)』ニシルシタレバ、当村ハ此太郎丸ガ開墾(かいこん)セシ地ニテ村名トハナレルニヤ。家数二十余、東ハ中尾(なかお)・水房ノ二村ニ続キ、南ハ市ノ川(いちのかわ)ヲ界(くぎり)テ広野村ノ飛地(とびち)ニ隣(とな)リ、西ハ志賀村(しかむら)及ビ杉山村ニ接(せつせ)リ、北ハ広野・伊子(いこ)ノ二村ニ及ベリ。東西二町許(ばか)リ南北五町(ごちょう)余り、水利不便ナレバ天水(てんすい)ヲ仰(あお)イデ耕(こう)ヲナセド、又水溢(すいいつ)ノ患(わずらい)アリ。爰(ここ)モ本村ト同ク古ハ岡部氏ノ知ルトコロナリシガ、安永元年(あんえい)(1772)収公(しゅうこう)セラレ、同ク九年猪子左太夫(いのこさだゆう)ニ賜(たまわ)リ、今子孫(しそん)栄太郎ガ知ル所ナリ。


 ここで注目される点はこの「太郎丸」という地名の由来だ。1665年の検地の際に、太郎丸という村民が案内をし、そしてこの村はこの太郎丸を中心に開墾した地であるためにこの地を「太郎丸」と命名した、ということのようだ。
 江戸時代初期この地は水房村の一部で、寛文五年(1665)の検地の時独立して太郎丸村となった。水房村とは本郷、枝郷の関係にあるのはその為で、それで太郎丸村の鎮守様は水房村の淡洲明神社(阿和須神社)であった。「新編武蔵風土記稿」で、太郎丸村の淡洲明神社を「村の鎮守」と書かなかった理由もここからくる。

 
      社殿左側にある境内社 弁財天               社殿右側奥にある八坂社

 太郎丸淡州神社の当初の社地は、現鎮座地の裏手の山中の「御林」と称するところにあったらしい。現社地には、幕末にその山から幣束が飛来して突き立ったので、これを神の御意として村民は心を一つにして社殿を造営したという。



勝田淡州神社

所在地    埼玉県比企郡嵐山町勝田270
御祭神    保武田別尊(応神天皇)、息長足日賣命、武内宿称命、菅原道真公、武甕槌命
社  挌    旧村社
例  祭    不明
          
 勝田淡州神社は太郎丸淡州神社から埼玉県道69号深谷嵐山線に戻り、深谷市方向に北上し、玉ノ丘中北入口交差点を右折すると花見台工業団地となるので、そのまま5分弱進むと左側に勝田淡州神社が見えてくる。但し道沿いにはなく一本西側に入った道路で、しかも大変道幅は狭い。専用駐車場はなく、路肩に駐車して急いで参拝を行った。
          
 
            拝    殿                          本    殿

勝田淡州神社の由来は以下の通り。

淡州神社
由緒(ゆいしょ) 勧請(かんじょう)*1年月不詳(ふしょう)、宝永(ほうえい)年中(1704-1711)中宮(ちゅうぐう)建立、文化年中(1804-1818)上□建立、嘉永(かえい)年中(1848-1854)鳥居建立。
 元淡洲明神ト唱来(となえきたり)シ処(ところ)御維新(いしん)*2ノ際(さい)當号(とうごう)ニ改稱(かいしょう)ス。

 しかし淡州神社であれば、祭神は速御玉姫命であるはずなのに、この社は八幡神社でお馴染みの3祭神というのはどういうことだろうか。少し納得がいかない。

           
               社殿の右側に並んで鎮座する境内社、鹿島神社と天神社

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菅谷神社

  鎌形八幡神社から北東方向、約3km嵐山町内には菅谷神社がある。この神社で注目したいところは、祭神に「畠山重忠」が祀られているということだ。嵐山町は歴史上有名な人物を2名輩出していていて、平安末期から鎌倉時代にかけて日本史に名をとどめた坂東武者ゆかりの地でもある。
 嵐山地方は鎌倉街道上道上の交通の要衝で、中世に比企地方が光彩を放ったのは、当時の幹線道路である鎌倉街道上道(かみつみち)によるところが大きいといわれている。この道は比企郡内を縦貫していて、南下すれば武蔵国府、さらに進めば鎌倉、逆に北上すれば、児玉、藤岡から信州または越後へ達することが出来た。つまり、比企は当時の交通の要衝に発展したということになり、戦国時代に城郭が多数築かれた理由も、この鎌倉街道を監視または支配するためであったと考えられている。

 そういう意味で、嵐山町に源義仲、畠山重忠という歴史的に見ても重要な人物を同時期に2名も輩出したことの意味は大変大きい。埼玉県民はこのことをどのくらい知っているのだろうか。

所在地    埼玉県埼玉県比企郡嵐山町菅谷608 
主祭神     大山咋命 保食命亦名稲倉魂命 素盞鳴尊 市杵島姫大神 畠山重忠命
社   格  旧村社 
例   祭   10月17日
                 

 菅谷神社は埼玉県道69号深谷嵐山線を嵐山方向に進み、国道254号と接する1つ手前の交差点を左折すると、右側約100m位先に社が鎮座する。入口の手前に若干車が駐車できるスペースがあったのでそこに駐車し、参拝を行った。地理的には武蔵嵐山駅の南方向、菅谷小学校の北西に位置している。 
 
               菅谷神社の入口付近を撮影                            境内に建つ鳥居
                                      畠山重忠の舘,菅谷館の北方にある。              
                      
由   緒
  祭神 大山咋命 保食命 菅原朝臣道真公命 須佐之男命 畠山重忠命
  由緒 本社大山咋命は元日枝神社なり是は畠山重忠年十七才にして治承四年十月武蔵国長井の渡しの頼朝の御陣所に参し頼朝公に属して先鋒の将となり各地の戦争に大に軍功あって此の菅谷の地を賜り依て此に新城を築き居住となし武運長久の守護神として近江国日吉山に鎮座なす(現今滋賀県滋賀郡坂本村官幣大社日吉神社此の御分霊は日本国中即ち三府弐拾県の内に五百社之あり其の一社の内の御分社)日吉山王権現の御分霊を畠山重忠請願に依建久元年九月十九日に奉遷勧請す故に日吉山王大権現と称せしを明治四年神社取調の節村社に列せられ社号を日枝神社と改称す是より本社境内に須賀神社及秩父神社の二社ありしを以て左に列記す須佐之男命は須賀神社と称して創立不詳なれども本村成立と同時に勧請せしものと伝う

         
                         参道の風景 社殿から撮影
             
嵐山町菅谷神社社叢ふるさとの森
 平成四年三月三十日指定
 身近な緑が姿を消しつつあるなかで、埼玉らしい豊かな緑を私たちの手で守り、次代に伝えようと、四季折々の風情に富んだ菅谷神社の杜が「ふるさとの森」に指定されました。
 この神社は、源頼朝公に菅谷の地を賜った畠山重忠公が、武運長久の守護神として近江国日吉山の日吉山王権現の御分霊を請願して建久元年(一一九○年)に、日吉山王大権現として奉還勧請し、明治期になって日枝神社、さらには、菅谷神社と改称されたものです。
 社の周囲はスギ林で、四季をとおして人々の憩いの場として親しまれていますが、この中でもひときわ大きなスギの御神木は、町の保護樹木にも指定されています

                                                                                             拝 殿
            
                                本 殿
                          

  当社は畠山重忠が、武運長久の守護神として建久元年(1190年)に近江の日枝神社から勧進し「日吉山王大権現」と称していた。明治4年に村社に列格すると、日枝神社、さらには菅谷神社と名称変更したという。

                     
     
          神社向い側に菅谷公園があり、その中の池に厳島神社が祀られている。


               

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鎌形八幡神社

 嵐山町は埼玉県中央部に位置する人口約2万人の町である。町の中央部と北部には東松山台地が広がる。北東部は比企丘陵の西端部に位置し、南部は岩殿丘陵の北端に位置する。西部は外秩父山地の外縁となっており、南北に八王子構造線が貫いている。日本の国蝶オオムラサキが生息する地としても有名である。また1928年(昭和3年)に、本多静六が当地を訪れ景観を眺めたところ、京都の嵐山(あらしやま)の風景によく似ていることから、武蔵嵐山と命名され評判になり、多くの観光客が訪れている。町は比企丘陵の一角にあり,自然の美しさを四季折々に見ることが出来き、槻川や都機川は絶好の釣り場や川遊びの場になっている。又,菅谷館跡を始めとして多くの文化財や伝説も残されている町でもある。
 嵐山町の大蔵地区には木曽義仲(1154~1184)の父源義賢の館跡とされる埼玉県指定史跡大蔵館跡があり、土塁の跡が残されている。義賢は畠山重忠の曽祖父重綱の子である重隆の婿となったが、久寿2年(1155)8月、鎌倉を拠点に関東の制覇を目指していた源義朝の長子義平(頼朝の兄)に急襲されて、ともに討ち取られてしまった。義仲はこのとき2歳だったが、畠山重能、斉藤実盛の計らいによって信濃へ逃げのびることが出来た。
 この義仲は成人すると、武力を蓄えて平氏打倒に立ちあがり、倶梨伽羅峠の合戦に勝利し、京都から平氏を追い出すことに成功するが占領軍の乱暴狼藉によって、後白河法皇の怒りを買い、源頼朝の派遣した追討軍によって、近江国(滋賀県)粟津原で戦死した。享年31。太く、短く一直線に生きた人生といってよい。


 鎌形八幡宮には義仲産湯の清水が今も枯れずに湧き出して、いまも水が湧き出ている
    
所在地      埼玉県埼玉県比企郡嵐山町鎌形1993
主祭神      誉田別尊 比売大神  神功皇后  
社  格      旧郷社 
創  祀      坂上田村麻呂
創  建      延暦年間 (782~806年)

                          

  鎌形八幡神社は、平安時代初期の延暦年間に、坂上田村麻呂が、九州の宇佐八幡宮の御霊をここに迎えて祀ったのが始まりであると伝えられている。所在地は都幾川の左岸、神社は延歴年間の創建と言うから歴史は古い。決して参拝客は多くないが境内は綺麗に整備されている。
 源義賢、義仲、義高三代に関する伝説がこの地には多く、源氏の氏神として仰がれていたといい、また、武門武将の神として仰がれ、「源頼朝及び尼御前の信仰ことのほか篤く」と、縁起の中にある。なお、「木曽義仲産湯の清水」や、嵐山町指定文化財の二枚の懸仏、徳川歴代将軍の御朱印状他多数の文書等が保存されている。

 また鎌形という名の由来として、鎌倉の鶴岡八幡宮に社殿が似ているから鎌倉の形・・・鎌形となったともいう
                                            一の鳥居から社殿方向を撮影                               
 

 町指定有形文化財 工芸品
 貞和の懸仏
 指定 昭和三十六年八月三十一日   所在 大字鎌形 鎌形八幡神社
 時代 貞和四年(一三四八) 南北朝時代 大きさ 直径約十七センチメートル
 懸仏は建物の内側(内陣)にかけて、礼拝の対象などにしたもので、立体的な尊像や吊り懸けるための金具が設けられている。本来は御正体といい、神仏習合により神の本地として各種の仏が表現されることか多い。
 この懸仏は、県内に所在する仏のなかで最も古い紀年銘をもち、中央には阿弥陀坐像が鋳出されている。
 大工兼泰の懸仏は、東京国立博物館にもあり、大きさや紀年銘が一致し、ともに渋河の文字が刻まれていて、関連性が指摘されている。
 平成九年三月 嵐山町教育委員会

 鎌形八幡神社
 鎌形八幡神社は、平安時代初期、延暦年間に坂上田村麻呂が九州の字佐八幡宮の御霊をここに迎えて祀ったのが始まりであると言い伝えられている。武門、武将の神として仰がれ「源頼朝及び尼御前の信仰ことのほか厚く」と縁起の中にもある。
 源義賢、義仲、義高三代に関する伝説がこの地には多く、源氏の氏神として仰がれていたという。
 また、嵐山町指定文化財である懸仏が二枚保存されている。
 安元二年(一一七六年)の銘がある懸仏は径十八センチメートルで、中央に阿彌陀座像が鋳出されていて、「奉納八幡宮宝前 安元二丙申天八月之吉 清水冠者源義高」と陰刻されている。(但し、源義高は安元二年には生まれていない) もう一つの貞和四年(一三四八年)の銘がある懸仏は、径十七センチメートルで、薬師座像が鋳出されていて、「渋河閑坊 貞和二戊二子七月日施主大工兼泰」と刻まれている。
 その他、木曽義仲産湯の清水や、徳川幕府歴代将軍の御朱印状などの多数の文書がある。
 埼玉県 昭和五十五年三月
                                   それぞれ案内板より引用

                                                        二の鳥居
        
                                         神 門
           
 
  
                  総門を越えると神秘的な空間が広がる。

   木曽義仲の父は帯刀先生義賢で、鎌形の隣の鎌倉街道上道の通っていた大蔵に館を構えていた。当時、義賢の父、源為義と長男義朝は敵対関係にあって、義賢の関東下向も義朝の勢力削減を狙った戦略だった。しかし義賢は義仲(駒王丸)が2歳の時に義賢の甥の悪源太義平に討たれてしまう。その時、駒王丸は母、小枝御前と共に畠山重能、斉藤実盛らの温情により助けられ信州の木曽に逃れた。
 鎌形八幡神社にある木曽義仲産湯の清水は、義賢がこの地に下屋敷をもうけて小枝御前に生ませた駒王丸の産湯の清水なのである。社殿前の階段を下りた所にあり今も御手洗槽の竹筒から清らかな水が零れている。また竹筒の根本の石垣の上には「木曽義仲産湯の清水」の石碑が立っている
  
                 手水社(写真左)とその奥にあるの義仲産湯の清水(同右)

          
                   
拝殿兼本殿覆屋
           嵐山町指定建造物の本殿は覆屋の中なので見られず。
 
      拝殿に掲げてある扁額        拝殿前面には精巧な彫刻が施されている。
        
                             拝殿付近に設置されている案内板

嵐山町指定建築物 鎌形八幡神社本殿
指定 昭和六十年十二月一日
所在 嵐山町大字鎌形八幡神社
時代 時代
正面の建物は拝殿を兼ねた覆屋であり、本殿はその中に納められている。
本殿は、簡素な一間社流造りで、装飾的な彫刻は、正面扉両脇・脇障子・蟇股・向拝木鼻・向拝蟇股などに限られている。彩色もこの彫刻部分にのみ施されている。
本殿の建立年代は、棟札に「奉再建立正八幡宮御神殿于時寛延ニ己巳暦三月朔日遷宮」とあり、「寛延二年(一七四九)である。しかし、新材がかなり含まれ、何度かの修理を経ているものと考えられる。いっぽう、身舎部分に付けられた墓股、頭貫の木鼻などの形状は、簡素な整ったものであり、古式を踏襲したものか、あるいは棟札の年代よりもさらに古いものではないかと思われる。
昭和六十二年三月 嵐山町教育委員会
案内板より引用


 嵐山町大蔵には源義賢の墓や屋敷あとと伝えられている場所(大蔵神社)もある。源義仲の父である源義賢はもともとは上野国を本拠としていたが、源義朝と内訌があり、久寿2年(1155)源義朝長子の当時15歳であった悪源太義平によって大蔵の地で討たれている。
 のちに征夷大将軍ともなった悲劇の武将である木曽義仲は義賢が大蔵館に移り住んだ仁平年間(1153)に鎌形館で産まれたと伝えられており、鎌形の清水を産湯としたとされている。
 木曽義仲長子の清水冠者義高は源頼朝の婿であったが、元暦元年(1184)に入間河原で殺された、とされている。 

 哀愁を帯びた静かな社。 源氏3代の悲劇を公表できないためかなんとなく、人目を忍ぶような雰囲気がこの一体には漂う。                                                      
   境内社・左から瀬戸神社、八坂神社       境内社・左から山の神、天満社
      
               拝殿覆屋の傍らに聳え立つご神木              
 
       境内社・日和瀬神社          手水舎の手前に鎮座する金毘羅社
 
          境内参道左側に並んで鎮座する護国社(写真左・右)
          
 不思議な感動がそこには確かにあった総門をくぐった瞬間から何か異次元に入り込んだような不思議な世界がこの社には確かに存在していた。
 決して知名度がある神社ではない。郷社ではあるが参拝客も例祭以外訪れる人もそう多くはないはずだ。それでいて境内はちゃんと整備されている。何百年の歳月により時の権力者によって変貌していく神社が多いのに対して、この神社にはそれがあんまり感じない。
 
 この奥ゆかしさと素朴さのあるこの鎌形八幡神社がなんとなく好きになったようだ。

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