古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

杉山八宮神社

 嵐山町・杉山地域は、その行政地域北端が嵐山小川IC周辺、そこから南東方向に流れる市野川左岸地域が西、及び南端部側となり、その北側から埼玉県道69号深谷嵐山線に沿って最終的に市野川に合流する粕川(一級河川)右岸一帯が東・南側端部となる三角地帯を形成する地域である。
 
北、及び南側には市野川、そして粕川の両河川に挟まれている地域ながら、微高地という特性もあり、道を挟んで南西方向約1㎞の所には、室町・戦国時代に築城されたという杉山城も存在する。
 杉山城は鎌倉街道を見下ろす丘陵の南側の突端に10の郭を配置した山城で、実に細かく様々な工夫が凝らされており、その芸術的とも言える高度な築城技術から「築城の教科書」「戦国期城郭の最高傑作のひとつ」という評価がなされている城跡で、国史跡にも指定されている。しかしこれほど見事な縄張りを形成しているこの城の築城者は不明で、年代に関しても、従来は縄張りが極めて緻密で巧妙なため、「土の城を極めた」と称賛された「小田原北条氏」の時代に造築されたものと言われていたが、発掘調査にもとづく考古学的な知見からは、山内上杉氏時代の城である可能性が強く、縄張りを主とする城郭史的観点と考古学的観点の見解の相違から「杉山城問題」と呼ばれる謎を生んでいるという。
 杉山城跡の築城者は不明とされるものの、城の立地に関して北方で四津山城(高見城)越畑城に連絡し、南方に鎌倉街道を見下して、その遠方に小倉城を臨むという絶好の条件を備えている。当時の社会情勢から判断して松山城と鉢形城を連絡する軍事上の重要拠点であったと考えられる。 
        
             ・所在地 埼玉県比企郡嵐山町杉山671
             ・ご祭神 建速須佐之男命・大己責命・稲田比責命
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 春祭43日 例大祭1017
 杉山八宮神社は嵐山町北東部、関越自動車道・嵐山小川ICの南西側に鎮座する。当社は
粕川右岸の周囲の標高が平均65mのなだらかな起伏のある微高地からも一段高い82.2mの山頂に鎮守する。その西方にはかつて鎌倉街道上道が走り、南西方向約1㎞の所には、鎌倉期の武将金子十郎家忠の居城と伝え、戦国期には松山城主上田案独斎の家臣杉山主水が居城したという杉山城祉があり、山頂からはその風景も眺める事も出来る絶好な要衝地に社は鎮座している。
 社務所や駐車場等なく、道路に面した路肩のような場所に駐車し、急ぎ参拝を行う。
        
 
            
杉山八宮神社は嵐山町立玉ノ岡中学校の北側丘陵部に鎮座する。
        
                                         参 道
        
                     拝 殿
 神社明細帳(嵐山町web博物誌より引用)
 一、由緒
 往古勧請四十五代聖武帝ノ御宇ト申。其后六十一代朱雀院ノ御宇天慶二年二月平将門関東ニ在リテ謀反ヲ起シ朝意ニ叛キ、此時六孫王経基公当村ノ旧城ニ御出陣在テ、藤原秀郷平貞盛ヲシテ當國ノ精兵ヲ募リ将門ヲ討ス。時陣中疫癘流行シ斃者不少、依テ社頭ニ於テ朝敵征討疫癘消除ノタメ御意、頗ル有之靈驗著ク、反賊忽チ伏誅シ、疫頓ニ愈。依テ経基王再ニ當社ヲ修繕シ四方四種ノ村落ニ祀テ八宮神社ト号シ、法施トシテ仁王會六万部御修行有、之今ニ六万塚・六万坂ト申所アリ、城跡モ僅ニ存ス。此言詳ナラスト雖モ傳テ有之今ニ春秋両度祭典ヲ成シ、皇國安全ノ祠祝ヲ奉ス。依テ前摘ヲ記載ス。
 明治四十一年三月三日上地林四畝十三歩境内編入許可

 上記「神社明細帳」の由緒によると、杉山八宮神社は第45代聖武天皇の御代(72448)の勧請である。また天慶2(939)には、平将門の乱の沈静のため当地の旧城に出陣した経基王が、朝敵征討・疫病消除を当社に祈願したところ霊験あらたかであったので、社殿を修繕し、四方四種の村落に分祀して八宮神社と号し、法施として仁王会六万部を行った。当社南西の六万部塚・六万部坂の地名は、これにちなむものであるという。確認は必要だが、社伝のいう箏を信じれば、かなり古くから信仰されている社となる。
                  
                               境内にある「
杉山寶齋退筆塚銘」
        
                    参道の様子
『新編武蔵風土記稿』比企郡杉山村条には「中古上田氏の臣にて庄主水(或は杉山主水とも)と云ふ者住せし所とも云へり」と記載されていて、松山城主上田案独斎の家臣杉山主水が杉山城に居城していたという。
 尚この杉山主水という人物は「庄」氏であるという。武蔵七党のひとつであり、諸々の武士団の中では最大勢力の集団を形成していた「児玉党」の棟梁的な立場であった阿保姓庄氏であり、その一派が旧鎌倉街道を利用してこの旧杉山村に移動・定住し、「杉山」姓と名乗ったという箏なのだろうか。
        
           杉山八宮神社近郊にある「杉山城跡」の掲示板。                
               

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