石田藤宮神社
・所在地 埼玉県川越市石田783
・ご祭神 天児屋根命 藤原鎌足公
・社 格 旧石田、石田本郷、菅間、谷中各村鎮守・旧村社
・例祭等 元旦祭 筒粥神事 1月15日 春祭り 4月8・9日
夏祭り 7月14・15日 秋祭り 10月14・15日
山田八幡神社から東西に通じる道路を500m程東行すると、埼玉県道12号川越栗橋線に交わる信号のある十字路に達するので、そこを右折する。その後150m程で左折すると、すぐ左手に「石田防災倉庫」が見え、その奥に石田藤宮神社の鳥居が見えてくる。
交通量の比較的多い県道から一本外れた静かな場所に鎮座しているからか、境内一帯物寂しさも漂う雰囲気を醸し出しているが、当社に奉納される「筒がゆの神事」「石田の獅子舞」は川越市無形民俗文化財に指定されていて、また、旧石田・石田本郷・菅間・谷中の4村の総鎮守社でもある事からも、豊かな社叢林に囲まれた古い歴史と格式を持ち合わせている社なのであろう。
石田藤宮神社正面
『日本歴史地名大系』 「石田村」の解説
府川村の南東、入間川右岸の低地に立地。北方石田本郷村と谷中村の間に一一町余の飛地があった(郡村誌)。小田原衆所領役帳に諸足軽衆の富嶋某の所領のうちとして「河越筋石田」とみえる。検地は慶安元年(一六四八)に実施されたという(風土記稿)。田園簿に村名がみえ、田高三五六石余・畑高一一一石余、川越藩領(幕末に至る)。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高四六九石余、反別田三四町七反余・畑一三町九反余、ほかに開発分高二七石余(反別田二町余・畑八反余)。元禄一五年(一七〇二)の河越御領分明細記では高四四六石余・外高二三石余、名主二名。
『日本歴史地名大系』 「菅間村」の解説
石田村の北、入間川右岸低地に立地。同川を隔てて対岸は比企郡釘無(くぎなし)村(現川島町)。戦国期府川郷の代官を勤めた竹谷氏が当地に居住、古くは下府川と称したという(芳野村郷土誌稿)。慶長一二年(一六〇七)の河越領菅間郷地詰帳(同書)では反別田四一町余・畑二二町三反余・屋敷一町六反余。このほか慶安元年(一六四八)にも検地が実施された(風土記稿)。
『日本歴史地名大系』 「谷中村」の解説
石田村の東、入間川古川の右岸の低地に立地。小田原衆所領役帳に江戸衆の富永弥四郎の所領として「廿五貫文 川越谷中」とみえる。戦国期府川郷代官に任じられていた大野氏が村内に居住したという(芳野村郷土誌稿)。慶安元年(一六四八)の検地帳では名請人三三名、うち屋敷持二七。二町―一町所持八 名、一町―五反所持六名、五反以下一五名(川越市史)。
石田藤宮神社 社号標柱
不思議と石田藤宮神社は石田地域の最北端に鎮座している。当初はその位置関係が理解できなかったが、嘗て石田・石田本郷・菅間・谷中の4村の鎮守社であることを考慮すれば、その地域内を総括できるこの地は絶好な位置関係といえよう。
長い参道の先に社殿が鎮座している。
当社の創建年代は不明である。口伝によれば、かつて当地には藤の大木があり、神がその藤を愛でて下界に降臨したことから、神社を創建したという。「大正寺」が別当寺であった。大正寺は天台宗の寺院であったが、明治初期の神仏分離により、廃寺に追い込まれた。
1872年(明治5年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられ、1908年(明治41年)の神社合祀により周辺の14社が合祀された。しかし、これらの合祀された14社のうち2社は、1952年(昭和27年)に復祀されている。
参道右側に倉庫のような建物が見えるが、これは山車庫である。
拝 殿
『新編武蔵風土記稿 石田村』
藤宮社 祭神詳ならず、神體は秘して人の見ることを許さず、本地佛彌陀・藥師の二軀を安ず、當村及び石田本郷・菅間・谷中の村々、古へは府川村の八幡社を鎭守とせしが、何の頃にや當社を勸請して、今は此四村の鎭守となせり、村内大正寺の持なり、末社 辨天社 天王社
神明社 前と同じ持、
大正寺 天台宗、仙波中院の門徒なり、光明山遍照院と號す、本尊阿彌陀を安ぜり、
藥師堂
大日堂
地藏堂 以上二宇大正寺の持、
藤宮神社 川越市石田七八三(石田字清蔵町)
当地は口碑によると、往古、藤の大木があり毎年一丈もの花房を付けていた。ある時、この藤の花を神が愛でてそろりそろりとこの木を伝わり降りてきた。以来、村人は社を建て藤宮と名付け祀ったという。また、村人は豊かに下がる藤の花を稲の実りに見立て古くから作神として信仰したとも伝えている。
『風土記稿』によると、この藤宮は藤宮社と記され「祭神詳ならず神体は秘して人の見ることを許さず、本地仏は阿弥陀、薬師の二体を安ず」とあるが、現在の祭神は、天児屋根命・藤原鎌足公である。
別当は、天台宗大正寺で神仏分離まで当社を管理していたが、その後、廃寺となった。大正寺跡は現在、社殿向かって右側のゲートボール場である。
神仏分離直後の祀職については、明治三年の社蔵銅鈴に「奉納藤宮社ムサシノクニ入間郡 石田 菅間 谷中 石田本郷 右産土中 神主府川胤代」と刻まれている。
明治五年に当社は、石田・谷中・菅間・石田本郷の四カ村の鎮守であることから村社となり、同四一年には四カ村に祀る一四社が合祀される。その内、石田本郷の稲荷社、同境内社の天満神社は、昭和二七年に旧氏子の要望により旧地に戻され、氏子より離れた。
「埼玉の神社」より引用
境内社・稲荷神社
稲荷神社の奥には広い空間があり、今は児童公園となっているが、
嘗ては別当大正寺があったという。
境内に設置されている「筒がゆの神事」「石田の獅子舞」の案内板
筒がゆの神事(川越市指定無形民俗文化財)
毎年一月十五日の早朝に行われる。一年の作柄と天候を占う正月の行事である。大釜に小豆一合・米一升・水一斗の割合で入れて煮、その中に十八本のヨシヅツを束ねたものを入れる。先端に団子をはさんだカユカキボウでかき回してヨシヅツを取り出し、それぞれのヨシヅツに入った米粒の数を数える。それらは大麦・小麦・大豆・小豆・大角豆・早稲・中手・晩稲・あわ・ひえ・木綿・芋・菜・大根・そば・雨・風・日の出来不出来を表わしている。
ヨシヅツを取り出した後の小豆粥は、食べると虫歯ができないと言われ、参加者にふるまわれる。
昭和四十七年二月八日指定
石田の獅子舞(川越市指定無形民俗文化財)
四月第二日曜日(昔は四月八日)、七月十四日、十月十四日に行われる。獅子は大獅子・小獅子・女獅子の三頭で、山の神(ハイオイ)一人、ササラッコ四人で、提灯持ちとホラ貝吹きが付く。それに笛方と歌方数名が加わる。曲目は入端・岡崎・女獅子隠し・出端などで、農作物を干すような動作で舞うことから「干し物獅子」とも呼ばれている。舞の途中で「誉め言葉」「返し言葉」のやり取りが行われるのも特徴である。
平成十六年三月二十四日指定
また、当社所蔵の算額は、市の指定文化財で明治四年一二月に奉納されている。これは氏子の谷中住人大野旭山によるものである。大野旭山は名を大野佐吉といい、最上流算術指南として川越城主松平斉典に仕えた。また、川越藩の宮沢熊五郎一利からも学び、川島領新川堀の河川工事などに大きな功績を残したという。
川越市指定有形文化財 書跡・典籍・古文書 石田藤宮神社の算額
昭和四十七年二月八日指定
静かに佇む社
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「川越市HP」
「Wikipedia」「境内案内板」等