古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

川越氷川神社

 川越市は、埼玉県の中央部よりやや南部、武蔵野台地の東北端に位置し、109.13平方キロメートルの面積と35万人を超える人口を有する都市である。遠く古代より交通の要衝、入間地域の政治の中心として発展し、平安時代には河越館に豪族の河越氏が興り、武蔵国筆頭の御家人として鎌倉幕府で権勢を誇った。室町時代に上杉氏の家宰・太田道灌によって河越城が築城され、上杉氏、次いで北条氏の武蔵国支配の拠点となり、江戸時代以前は江戸を上回る都市であり、「江戸の母」と称された。
 江戸時代には親藩・譜代の川越藩の城下町として栄えた都市で、「小江戸」(こえど)の別名を持つ。城跡・神社・寺院・旧跡・歴史的建造物が多く、文化財の数では関東地方で神奈川県鎌倉市、栃木県日光市に次ぐ。川越城を擁する川越藩は江戸幕府の北の守りであり、武蔵国一の大藩としての格式を誇り、酒井忠勝・堀田正盛・松平信綱・柳沢吉保など大老・老中クラスの重臣や御家門の越前松平家が配された。そのため江戸時代から商工業や学問の盛んな城下町であり、今日でも多くの学校を有す文教都市でもある。
 埼玉県下随一の城下町(川越藩の石高は武蔵国で最大、関東でも水戸藩に次ぐ)であったため、明治期の廃藩置県では川越県、次いで入間県の県庁所在地となった。埼玉県成立後で、大正111922)年には埼玉県内で初めて市制を施行し、昭和301955)年には隣接する9村を合併し現在の市域となる。
 因みに「川越」という地名は、古来より諸説ある。川越は古来より武蔵国の中枢で、諸方に交通の便が拓けていたが川越市街地を川が囲む形となっており、入間川を越えないとたどり着けない地であることから「河越」と称されたという説や、養寿院にある銅鐘(国の重要文化財)に「武蔵国河肥庄」という銘があり吾妻鏡にも文治2年(1186年)の記述に既に「河肥」の文字があることから入間川の氾濫によって肥沃な地であるからという説、などである。
        
             ・所在地 埼玉県川越市宮下町2113 
             ・ご祭神 素盞嗚尊 奇稲田姫命 大己貴命 脚摩乳神 手摩乳神
             
・社 格 旧川越総鎮守・旧県社
             ・例祭等 例大祭 10月第3土・日曜日 他 
 川越市を左右に分断するように南北に走る国道254号線の「氷川町」交差点を右折し、埼玉県道51号川越上尾線を西南方向に進行、新河岸川に架かる「宮下橋」を越えると、そのすぐ先に川越氷川神社の朱色の大鳥居が見えてくる。地形を確認すると、武蔵野台地の東北端、入間川及び荒川低地に半島状に突き出た川越支台上に鎮座しているという。
        
             まずは南側の正面鳥居から参拝を開始する。
       参拝日は「川越祭り」前の14日で、街中に紅白の垂幕が飾ってあり、
           祭りのムードが徐々に高まっている時期といえよう。
        
                   南側正面鳥居
新編武蔵風土記稿』では「河越城并城下町」の一字である「宮ノ下」にて社を載せている。
『新編武蔵風土記稿 河越城并城下町 宮ノ下』
 宮ノ下は城北の屋敷町の東の端を云、こゝに氷川社ある故にこの地名あり、これも十町の外なり、
 氷川社 祭神は五座素盞嗚尊・寄稻田姫命・大國主天神・脚摩乳神・手摩乳神今は手摩乳神を除きて四座なり、人皇三十代欽明天皇卽位八年辛酉の秋、當社氷川を勧請すと云と、いかゞはあるべき、例祭正月十五日・九月十五日行はる、中にも九月は十日より氏子のもの、よりつどひて頗るにぎはへり、昔は田樂・角力などを興行せしが、慶安元年より神輿をわたし同四年より萬度をいたし、又屋臺など云ものを大路をわたすとなり、元祿の後は彌さかりにして、上五町、下五町とわかち、きそひて種々の造物を出し、祭禮終りて十六日に至れば、各町々にて踊り舞ふことあり、これを俗に笠脱と云、これらの故事今に至るまでかはらず、當社古より始終おとろへずして、神徳さかりなりしにや、昔太田道灌沙彌當社に在城せし頃、社頭にまふでてよめる歌の詞書に、氷川の社に奉納の和歌をすゝめられて、老らくの身をつみてこそ武藏野々、草にいつまで殘るしら雪、
 神輿藏、神樂殿、供所 末社 天王社 三峰社 子權現社 天神社 八幡社 春日社 疱瘡神社 稻荷社 山王社 雷神社 人丸社 神職山田伊織 吉田家の支配なり、
  鳥居を過ぎたすぐ右側に設置されている      案内板のすぐ先にある手水舎
  「川越氷川祭の山車行事」の案内板
        
                    拝 殿
 境内には、平日にも関わらず、通常の参拝客の他に、七五三の宮参りの御家族も多数見られた。当社のご祭神は、「素盞嗚尊」「奇稲田姫命」と夫婦の神様を祀っていることから、昔から縁結びに御利益があるといわれている。最近では縁結びのパワースポット、恋愛パワースポットとして有名なのだそうだ。なお、カップルでお参りするとより幸せになるといわれている。

 氷川神社  川越市宮下町二-一一-三(川越字宮下町)
 創建については、氾濫を繰り返し幾度も流れを変えて来た入間川を畏怖するとともに神聖視し、出雲の簸川にこれを見立て大宮の氷川神社より勧請したものと伝える。正徳年間の『氷川大明神縁起』には「人皇三十代天國押波流岐廣庭天皇(欽明天皇)即位八年辛酉之秋」に「入間之河中与利異晃夜々照ル」とあり、これは「当国足立郡之氷川大明神之為霊光」と人々は恐れ畏み、一社を設けて年ごとの祭事を行い、ここを里宮と定めたと伝えている。
 祭神は、素盞鳴尊・奇稲田姫尊・大己貴尊・手摩乳尊・脚摩乳尊の五柱である。神像は正徳年間町年寄榎木家より奉納された。
 中世に入ると長禄元年当地の要害を利用して太田道真、道灌父子の手により川越城が築城された。(中略)
 天文六年、川越城をめぐって一北条氏と上杉氏の間で、川越合戦が行われたことが『河越軍記』に記されている。この軍記に、当時の氷川神社の信仰を知ることができる記事があり「ここに日川の明神として戌亥にあたれる社なり、則人民惣社にあがめて往詣する事さりもあへず」とある。これにより、当時すでに川越の総社であったことが知られる。
 天正一八年、徳川家康関東移封以来川越城は江戸城の備えとして重要な位置を占め、歴代の城主も幕府の重職が当たり、また、これらの城主は川越の総社として当社を崇敬し、代替りごとに社参して太刀や白銀などを奉納した。なお、毎年、元旦は奉幣の儀が行われ、神主は登城して城主に目通りの上賀儀を申し述べることを恒例としている。
 社領については、文禄四年川越城主酒井与七郎忠利、慶長六年本多形部左衛門、寛永一八年老中松平伊豆守信綱、元禄元年松平信輝と次々に寄進状が発給され、社禄一五石二斗六升、社地四反三畝十歩は、歴代の城主に安堵されている。このほか、家中並びに町方氏子より寄進された水田一町五反八畝四歩を所有していた。(中略)

 明治六年には郷社となり、同四一年神饌幣帛料供進社に指定され、大正一二年には県社に昇格した。
*「埼玉の神社」による川越氷川神社の由緒は、あまりにも長すぎるので、ブログの字数制限の関係で、省略する所あり。
        
    南側鳥居の左側にある神札授受所の北側に隣接して祀られている柿本人麿神社
 この社は「埼玉の神社」によると、戦国時代に丹波の綾部から近江を経て移住した綾部家の遠祖柿本人麻呂を祀っている。社殿は、寛永年間に堀田正盛の手により修覆されたと伝え、更に宝暦二年には、川越在住の文人たちにより再建される。神像は吉野朝の歌人であり、彫刻家でもあった頓阿上人の作と伝える。また、宮形厨子は明治初期の工芸家柴田是真の作である。頓阿上人は、人麻呂像百体を刻んで住吉神社に奉納したといわれ、当社の神像はこの内の一体と伝える。文久二年、神像は盗難にあったが盗人は急に眼がくらんで動けず田の中にひれ伏したといい、危うく難を逃れた。祭典は、四月一八日が人丸忌に当たるとして、綾部一族が集まって氏神祭りを行うという。
        
            柿本人麿神社の北側並びにある神楽殿(舞殿)
        
                  拝殿の左側に鎮座している境内社・八坂神社
        
                 八坂神社社殿の案内板
 県指定・建造物 八坂神社社殿
 八坂神社社殿は寛永十四年(一六三七)に江戸城二の丸の東照宮として建立されたが、後に空宮となったので明暦二年(一六五六)川越城内三芳野神社の外宮として移築された。
さらに明治五年(一八七二)現氷川神社の境内に移され八坂神社社殿となった。この社殿平面は凸字型であって、屋根は銅版本葺入母屋造、建坪六坪八合(二二・四八㎡)、拝殿の部分は桁行二間、梁間三間と細長く突出た平面である。建立の当初は相当の規模であったものを明暦の移築の際縮小したものとおもわれる。内陣格天井の天井板にある草花の絵は江戸初期のものであり、各斗栱などよく当初の木割を示している。江戸城内の宗教的建造物の遺構としては、全国唯一のものとして、その歴史的価値が高く評価されている。(以下略)

          本 殿               「氷川神社本殿」の案内板
 本殿は、川越城主松平斉典を筆頭として、同社氏子の寄進によって天保十三年(一八四二年)に起工され五ヶ年の歳月を要して、建立されたもので、間口十三尺五寸(四・〇八m)・奥行八尺二寸(二・四八m)の三間社・入母屋造で前面に千鳥破風及び軒唐破風の向拝を付した銅瓦ぶきの小建築であるが、彫刻がすばらしく、当代の名工嶋村源蔵と飯田岩次郎が技を競っている。構造材の見え掛りは五〇種におよぶ地彫が施され、その間江戸彫と称す精巧な彫刻を充填し、十ヶ町の山車から取材した彫刻や、浮世絵の影響をうけた波は豪壮華麗である。県指定・建造物

 社殿左側奥には、「絵馬参道」と呼ばれる沢山の絵馬が飾られている。(残念ながら写真に納めていない)その絵馬の更に奥には数多くの末社が祀られている。南側から北側へと並んで祀られている社をざっくりと紹介する。
 
 左から稲荷神社・日吉神社・加太栗嶋神社       松尾神社・馬頭観音石碑・〇・八幡神社・〇
          菅原神社                 小御嶽神社石碑   
       稲荷神社・春日神社         子ノ権現社・疱瘡神社・厳島神社・〇・〇
        
                    水神社・嶋姫神社・雷電神社・江戸町三峰神社 
        
                          社殿の右側奥に祀られている護国神社
       
        本殿右側奥に聳え立つ樹齢約600年の欅の御神木(写真左・右)
 ご神木の傍にある案内板によると、平成23年9月に関東地方を襲った台風12号の暴風雨を受け、ご神木の幹先10m程の部分が倒壊した。がこの倒壊した部分は、奇跡的に傍らの本殿等や参拝者を傷つけることなく、神社裏の細い参道に横たえたとの事だ。
       
         大鳥居のある境内南側にもご神木が屹立している(写真左・右)
       
          境内東側境内入口にある木製15mの巨大な明神型の鳥居



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「川越市HP」「川越氷川神社公式サイト」
    「Wikipedia」 「境内案内板」等
           

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