古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

富田上郷天神社


        
             
・所在地 埼玉県大里郡寄居町富田32831
             
・ご祭神 菅原道真公
             
・社 格 無格社
             
・例 祭 初天神 125日 春祭り 415
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1083562,139.220457,18z?hl=ja&entry=ttu
 富田上郷天神社は寄居町富田地域北西部の国道254号線及び埼玉県道30号飯能寄居線南部に鎮座する。因みに国道254号線と埼玉県道30号飯能寄居線は、比企郡小川町から大里郡寄居町まで重複している路線で、寄居町露梨子地域との境付近から数百m程県道と表記されている。
 途中までの経路は鉢形八幡神社を参照。そのまま国道254号線を南下、そのうち左カーブし東行に転じ、650m程進み「塩沢」交差点を右折して暫く進むと、左側に富田上郷天神社が員坐する場所に到着できる。
 社の西側に隣接している上郷南区公会堂には駐車スペースも数台分あり、そこに停めてから参拝を開始した。
        
                         道路沿いに鎮座する富田上郷天神社
 
鳥居右側にある石碑と「天神社の石碑」案内板      「天神社の石碑」案内板

 天神社の石碑  新堀定二
 富田上郷区の鎮守天神社は通称一之字山と呼ばれ、富田を東から西へほぼ一直線に走りその西端山頂に鎮座していた。明治初年に「富田村の各字の神社を小被神社へ統合せよ」との布令が出た。然し天神社は「天神田入」と言う地名の付いた水田を、又山林を境内地続きに若干所有していた為、それによって十分な運営がなされ無格社乍ら統合しなかったと言われる。その後日支事変から第二次世界大戦へと戦争が拡大して行くのに伴い一之字山を含む三ヶ山二百町歩に及ぶ田畑を含む山林が軍用地として陸軍省に接収された。四方を見渡せる位置に鎮座する天神社も当然移転を余儀なくされ現在地へ移った。然し鎮守様が身近になった事は氏子にとっては勿怪の幸であろう
 この無格社の天神社氏子は三~四十名程で鄙びた社であった。その社にそぐわない立派な鳥居と石碑があり、幟が元日を含め年四回程立てられ祭典が行われていた。
 然し乍らこの石碑が何の為の物であり何を意味する物か当時を知る人が居なくなっている。何等かの手を打って読み解かなければならないと思っていた。遇々元町長丸橋安夫さんに話した所「拓本にとって然る可く方法を講ずれば」との助言を頂いた。又拓本は丸橋さんの義兄に当る岡部町の大野政勝さんを紹介して頂き次に掲げる立派な文章が浮彫された。

 碑文  男衾村天神社修華表新作幟石牀碑
男衾邨西南隅富田天神社山高三町余盤廻而上
松杉雑樹蓊鬱夾路遠望之如蛇背頂上廓清過一
華表社殿位其西老樹繞之大皆数圍森龍際天以
阪路從北人喚言北向天神遠近之人賽甚多矣而
隙跳二毛信越諸峰朝輝夕陰嶕嶢入雲窈宨
吐靄凝然獨立欲使人羽化焉村人改造華表經始
於明治十一年落成其十五年匾額之書故前田侯
爵齋泰卿也二十二年新作幟至三十年造石牀而
樹竿以謀不朽也守田寶丹書之布長十有五尺横
長四尺隣近不見其比也嗚呼以僅々三十余家十
為此盛事感戴神德不深且厚能若斯耶今
又将紀其事于石之貼永遠使子孫継承遺志重脩
朽腐可謂用意周到也項日介社掌石田親春嘱記
於余ゝ賤陋寡聞非其任亦不得辭遂不顧謭劣述
数記以付焉
 明治三十五年十月菅公一千年祭日  
春潭漁樵撰併書

 然し明治三十五年春潭漁樵撰併書とある漢字文では読めず、これ又丸橋さんの労を煩わし「川の博物館」主任学芸員の針谷浩一氏にその読み解きを依頼して頂いた。
 (読み下し文)
 男衾邨の西南隅、富田天神社は山高三町余にして盤廻して上る。松杉雑樹蓊鬱として路を夾む。これを遠望すれば蛇の背のごとし。頂上は廓清され、一つの華表を過ぐ。社殿はその西に位す。老樹これを繞りて大いに囲む。森龍天に際す。阪路北に従う人は北向天神と換言す。遠近の人賽甚だ多し。隙を摂りて二毛信越の諸峰を眺む。朝には輝き夕にはかげる。嶕嶢雲に入り、 窈宨として靄を吐く。凝然として独立し、人をして羽化せしめんと欲す。村人華表を改造せんと明治十一年に経始して其の十五年に落成す。匾額の書は故前田侯爵齋泰卿なり。二十二年幟を新作し三十年に至りて石牀を造る。樹竿朽ちせざる謀なり。
 守田寶丹書の布は、長さ十有五尺、横長四尺なり。隣近に其の比を見ざるなり。嗚呼、僅々三十余家、十餘歳をもって此の盛事を為すこと、神徳の深く且つ厚能ならざれば斯くのごときかと感戴す。今また将に其の事を紀して石に貼り永遠に子孫に遺志を継承し朽腐を重脩せしめんとするは用意周到と謂うべきなり。頃日社掌石田親春を介して余に記するを嘱す。余賤陋寡聞にして其の任にあらずも辞するをえず。遂に謭劣をも顧みず、数を述し記し付けたり。
 明治三十五年十月菅公一千年祭日 春潭漁樵撰併書
 その訳文に当天神社は集落から三町余(三三〇米) 離れた山上に在って見晴らしよく信仰篤ったとの事。祭神菅原道實公一千年を記念して氏子が十年かけて鳥居を改造その扁額の書は侯爵前田齋泰卿である事。それに続いて幟は守田寶丹が書いた事等が記されていた。幟の文章は右に勲業長祭千古祠当所氏子中左に寛仁慈惠民懐之 明治二十一年 戊子 孟夏吉日 守田寶丹拜書」
又守田寶丹なる人は筆者の不勉強故どんな人物であったかは分からないが成田山新勝寺裏山にある社に浅草講中寄進の立派な石碑を書いている所からかなりの人物であった事がうかがわれる。
 現在の位置にこの石碑がある事はあの忌まわしい戦争の犠牲であったと考える。今後如何なる事があっても戦争等してはならない、世界が平和でなければならないと言う事を肝に銘じながら筆を置く。
 ご協力いただいた皆さまに改めて御礼申し上げます。
                                    境内掲示板より引用
 
      鳥居に掲げてある立派な社号額            境内の様子
        
                     拝 殿

 天神社 寄居町富田三二八三-一(富田字浅ヶ谷戸)
 当社は、富田の一集落である上郷の鎮守として祀られている。創建年代は明らかでないが、『風土記稿』には不動寺持ちの社として載せている。
元来の鎮座地は、天神山と呼ばれる小高い山の頂であった。その様子は、新堀定二家所蔵の「天神社絵図」に詳しく描かれており、急坂を登り詰めた平地に設けられた境内には、大樹が生い茂り、その中に茅葺きの堂々とした社殿が東向きに建っていた。
 しかし、この山が、昭和十六年に陸軍の用地として接収されることになったため、移転を余儀なくされた。新たな境内地は、麓の会所が古くから祭りの準備などに利用されていたことから、この隣接地が選ばれた。当時の模様を知る古老によると、本殿・拝殿・鳥居・灯龍などの建築物は牛車に載せて運び、神体は時の神職石田四郎左衛門によって真夜中に遷座したという。またこの移転に合わせて、上郷の地内にあった字西前耕地の八坂神社と字寺ノ上の秋葉神社の二社を境内に合祀した。
 なお、本段に納められている天満天神座像の台座銘文には「天神宮御守文化八未年(一八一一)正月吉日 遠州山名郡浜松大佛師幸石甚衛門」とある。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                     本 殿

  境内に祀られている
「富士岳大神」の石碑             「上郷天神社境内社」
                                         真ん中の石碑は「秋葉神社」


参考資料「新編武蔵風土記稿」「大里郡神社誌」等
  

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