古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

大橋黒石神社

 鳩山町亀井地区は社号「黒石神社」が4社現存している。「熊井」「竹本」「須江」そして今回取り上げる「大橋」地域は、いずれも鳩川及びその支流沿いにあり、現代で言う「地域密着型」の社といえよう。
 この大橋地域、並びにその周辺一帯からは、古墳期から奈良・平安期にかけての窯跡群が発見されており、武蔵国分寺瓦の産出地の一つであった。『南比企郡窯跡群』と云われる窯跡群と、黒石神社の創建に至る経緯に何らかの関連性が伺われよう。何より「黒石」という「古代鉱山採掘」に関連しそうな意味深き社名が、無言で何かを語るかのようだった。
        
             
・所在地 埼玉県比企郡鳩山町大橋619
             
・ご祭神 天照大神 春日神 八幡大菩薩
             
・社 格 旧大橋村鎮守・旧村社
             
・例祭等 不明
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9925049,139.3308729,17z?hl=ja&entry=ttu
 須江黒石神社・舛井戸遺跡から一旦南下し、埼玉県道171号ときがわ坂戸線合流後、進路を南東方向に1㎞程進むと「大橋交差点」に達し、そこを左折する。すぐ先の路地を右折、通称「水穴通り」を道なりに400m程進み、十字路を右折すると、大橋黒石神社が進行方向右手に見えてくる。
 社の東側に隣接して「大橋集会所兼黒石神社社務所」があるが、そこの駐車スペースには長いロープが敷かれていていたので、適度に広い路地に駐車し、ここでも急ぎ参拝を行った。
        
                            社叢林の外れにある入口付近
                       この社には鳥居が存在していないようだ。
 鳩山町・大橋地域は、赤沼地域の北側に位置し、地域の中央を鳩川支流の
大橋川が流れている。『新編武蔵風土記稿』編集当時は松山領に属していた。古くは上泉井村・下泉井村と一村で泉井村と称していたが、正保年間(一六四四―四八)以降、泉井村は三村に分村したと伝えている。
「風土記稿」によれば村内に架かる橋が「近村には是程の橋もなければ」との理由で「大橋」とよばれていて、分村の際の村名になったという。

 参道は真っ直ぐに伸び、正面に拝殿が見える。   巨木に注連縄を張って鳥居の代わりに
舗装されていないこの昔ながら感がたまらない。       しているようだ。
        
                     拝 殿
 黒石神社 鳩山町大橋六一九
 当社は『明細帳』に「武蔵国足立郡大宮氷川神社ヲ遷シ奉リタルナリト云伝フ其勧請不詳」とあり、創建の背景に氷川信仰があったことをうかがわせる。
 最も古い史料に安永九年(一七八〇)の棟札がある。これには中央に「黒石大明神社」、左右に「春日大明神社」「八幡大菩薩」と記されているほか、「泉井村別当本明院」の名が見える。口碑によれば、安永のころ、別当本明院の法印が黒石大明神の託宣を受け、社宝であった鏡・刀・矢を乾(北西)・坤(西南)・巽(南西)の三方の地に埋めて当社の鎮座地を定めた。
 鏡が天照大神を、万と矢がそれぞれ春日大明神・八幡大菩薩を表すという。室町末期から江戸期にかけて広く庶民に流布した神祇管領長上吉田家の三社託宣の影響が考えられる。
 明治四年に村社となり、同四十年には宇山下の琴平社を合祀した。
 境内の末社は愛宕社・稲荷社・蚕影社の三社がある。『明細帳』によれば、愛宕社は享保九年(一七二四)に江戸の愛宕を勧請したという。また、稲荷社は本村の福島関右衛門なる者が西国を回って京都の稲荷神社の神体を請いて帰国した後、天明四年(一七八四)に至り社殿を建立したという。更に、蚕影社は明治十五年に当村の桑葉が雹により甚大な被害を被ったため、村内の蚕を埋めて跡地に常陸国(現茨城県)の蚕影山を勧請したと伝える。
                                   「埼玉の神社」を引用
        
                                境内に祀られている合殿社
 七柱が祀られている合殿社には御幣(ごへい)があり、その右側にはご祭神の名称が記された木製の札があるのだが、かなり薄くて解読がほぼ不可能。左側2番目と右から2番目が僅かに「倉稲魂神」「保食神」と読めた程度だ。(因みに一番右側はそのお札もない)
       
                猿田彦大神の石碑      「黒石神社誕生遺跡」記念碑
 黒石神社誕生遺跡
 安永九年(一七八〇)泉井村当本明院の法印が黒石大明神の託宣を受け社宝の鏡・刀・矢を埋めて神社の鎮座地を確定した
 後世に残すべく寄付を募り永く記録を保存する(以下略)
                                     記念碑文より引用

 大橋黒石神社は本来大宮氷川神社から勧請してきた氷川系統の神社であったが、この「黒石神社誕生遺跡」石碑によると、法印が黒石大明神から霊感を受けて現在のご祭神となり、祭祀系統が変わったという。鏡が天照大神を、万と矢がそれぞれ春日大明神・八幡大菩薩を表すという祭祀方法は、室町末期から江戸期にかけて広く庶民に流布した神祇管領長上吉田家の「三社託宣」の影響が濃く受けているようだ。
石日に記されている「法印(ほういん)」とは、僧侶(そうりょ)の位階(僧位)の最上位で、僧綱(そうごう)位(僧階)の僧正(そうじょう)にあたり、法印大和尚(だいわじょう)位僧正という。その下が法眼(ほうげん)和尚位僧都(そうず)、法橋上人(ほっきょうしょうにん)位律師(りっし)である。したがって本来は僧侶の取締りにあたる役人的僧侶の敬称で、定まった定員があったが、時代とともにその数を増し、のちに仏師や絵師の敬称にまで用いられるようになった。
 特にこの僧位を乱用したのは修験道
(しゅげんどう)であって、先達(せんだつ)であれば法印権大僧都(ごんだいそうず)を許された。したがって山伏の別称としていまも「法印さん」とよばれている。
『黒石神社誕生遺跡』に記されている「法印」は「泉井村当本明院」に所属する僧侶であろうが、同時に「山伏・修験道」の僧でもあったのであろうか。但し「泉井村当本明院」は現在のどの寺であるかは、風土記稿等調べても該当した寺院はなかった謎のお寺である。

*『新編武蔵風土記稿』に記されている寺院
上泉井村 寶泉寺 寶珠山と號す、新義眞言宗、入間郡今市村法恩寺の末、
下泉井村 金澤寺 禪宗曹洞派、入間郡龍ヶ谷村龍穩寺の末、泉井山と號す、 


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「日本大百科全書(ニッポニカ)」
    「境内記念碑文」等

         

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