古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

栗原諏訪社


        
             
・所在地 埼玉県久喜市栗原242
             ・ご祭神(主)建御名方命
                 (合)伊弉冉命 速玉男命 事解男命 菅原道真公 市杵島姫命
             ・社 格 旧栗原村鎮守 旧村社
             ・例祭等 春祭り 421日 例祭(甘酒祭り) 1027
 久喜市栗原地域は、JR東日本・東武鉄道の2路線が乗り入れている久喜駅から東側に在り、北東方向に流れている葛西用水路が右方向に楕円を描いて南側方向に流路を変える右岸側に位置する平均標高9m程の低地帯地域である。この地域は久喜駅から近いこともあり、大部分住宅街が建ち並んでいるのだが、地域南部は住宅地が途切れて「栗原なかよし広場」というグランドゴルフに適した広場や、その周囲には田畑等の農地が未だに広がっている場所もある。
       
                  栗原諏訪社正面
               すぐ北側が住宅街とは信じられない程静かで雰囲気のある社
 因みに社の左側にあるのは嘗ての別当であった多門院の墓地。今でも寺院と社は隣接している。

久喜駅東口の北側に久喜から幸手方面へと伸びる埼玉県道153号幸手久喜線がほぼ東西に走り、幸手方向に東行し、青毛堀川、青葉公園を過ぎて700m程進んだ十字路を右折、その後は道なりに真っ直ぐ南下すると、それまでの軒を連ねていた住宅街から田畑風景が主となり、進行方向左手に栗原なかよし広場と同時に「諏訪神社入口」の看板が見えてくる。その看板通りに左方向に舗装されていない路地を進むと、広場に対して反対側にこんもりとした社叢林が見えて来て、その中に社がポツンと鎮座している。
 
 一の鳥居の社号額には「諏訪大明神」と刻印     周囲一帯広場や田畑風景が広がる中、
社号額の周囲には精巧な龍の彫刻が施されている     孤高な存在感ともいえる社叢林
       
            参道を進んだ先の社叢林の中に建つ二の鳥居
『日本歴史地名大系』 「栗原村」の解説
 青毛(あおげ)村、下川崎村(現幸手市)の南にあり、東は葛西用水を境に上高野村(現同上)。騎西領に所属。元禄八年(一六九五)上野前橋藩酒井氏の検地があった(風土記稿)。田園簿によれば田高三二石余・畑高九七石余、幕府領。国立史料館本元禄郷帳では幕府領。延享三年(一七四六)三卿の一家である一橋領となり、幕末に至る(「風土記稿」・改革組合取調書など)。東村境を流れる葛西用水に琵琶溜井がある。長さ四七五間・幅四七間、三分の二は当村、三分の一は上高野村の所有であった。万治三年(一六六〇)に関東郡代伊奈忠克によって幸手領用水が利根川から取水、会の川筋に合流されたが、この時に溜井が造成され、享保四年(一七一九)に伊奈忠逵・石川伝兵衛らにより掘広げられている。 

        
        二の鳥居を進んだ先で参道右側に祀られている稲荷大明神・天満宮の石碑
                 石祠の右側にある力石
 久喜市栗原に鎮座する諏訪社の創立年月は不詳だが、口碑によれば、江戸期に多門院の境内に村の鎮守として祀られていて、名主の高橋家と組頭の宮崎家の両名が代官所に願い出てお諏訪様を祀ったのが始まりという。明治6年(18736月村社に列し、明治40年(1907530日に行われた合祀では、熊野社(字前)・天神社(字川原)が集められ、大正元年(19121213日には厳島社(字川原)が合祀された。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 栗原村』
 多門院 新義眞言宗、葛飾郡内國府間村正福寺末、明王山と號す、本尊不動を安ず、本堂の軒に、安永年中鑄造の鐘をかく、 諏訪社 村の鎭守なり、稻荷社 阿彌陀堂


 諏訪社  久喜市栗原二四二(栗原字前)
 栗原の村の開発にすいては明らかでないが、慶安二-三(一六四九-五〇)の『田園簿』には、既に一村として記されている。
 当社は『風土記稿』栗原村の項に「多門院 新義真言宗、葛飾郡内国府間村正福寺末、明王山と号す、本尊不動を安ず、本堂の軒に、安永年中(一七七二-八一)鋳造の鐘をかく、諏訪社 村の鎮守なり、稲荷社 阿弥陀堂」と記されており、江戸期に多門院の境内に村の鎮守として祀られていたことがわかる。その創建の年代は明らかでないが、口碑によれば、名主の高橋家と組頭の宮崎家の両名が代官所に願い出てお諏訪様を祀ったという。高橋家・宮崎家はいずれも当主で一一-一二代を数える。
 本殿には甲冑を着けた神像が奉安されている。これは「諏訪□(大カ)明神 奉納主 武蔵葛飾郡幸手領栗原村 施主大久保惣右衛門・同汰良兵衛・勧施伊藤吉之蒸 元禄十四年辛巳(一七〇一)九月卄七日」の墨書が見られる。また、境内の石碑には「天下泰平五穀成就 鎮守安政四丁巳(一八五七)季再建四月吉祥日 武州埼玉郡栗原村」と刻まれ、この年に社殿が再建されたことがわかる。
 明治初年の神仏分離により多門院の管理下を離れ、明治六年に村社となった。更に同四〇年には字前の無格社熊野社と字川原の無格社天神社を合祀し、大正元年には字川原の無格社厳島社を合祀した。
                                                                      「埼玉の神社」より引用
        
    社殿の手前で「天下泰平五穀成就 鎮守安政四年(1857)」と刻まれている石碑
        
                      本 殿
             
              精巧な彫刻が施されている本殿
       
                    社の遠景
 当社で1027日に行われる祭典(例祭)は「甘酒祭り」とも呼ばれ、この行事は前日から当番に当たった耕地(村組)では各戸から米を集めて麹屋から麹を購入し、四斗樽二本に甘酒を仕込む。こうして出来上がった甘酒を神社へと運び、神事の後、夕刻4時頃に鉦を叩き氏子を集める。氏子はお参りをした後に当番の家で甘酒と大豆・鰌・蒟蒻の煮物をいただくというものである。

 また、氏子の間では、春秋の祭りのほか、元旦のお神酒・オオヤ(七月初酉の日)・二百十日のお神酒(9月1日)・晦日お神酒(12月31日)がある。
 特にオオヤは、当番が社頭に二基の行灯を立てて神前にお神酒を供える行事であるが、元は境内に五〇ほどもの行灯を飾り付けたという。また、この日は、氏子の各家ではうどんを打って葦(よし)の箸で食べるのが習わしであったという。その由来は、昔ある侍が戦に敗れて当地の葦の生い茂る中に逃げ込んだ際、村人がこの侍にうどんを食べさせた。その時に箸を忘れたので、そこに生えていた葦を折って代用とした。以後、七月初酉の日に氏子は葦の箸でうどんを食べるようになったと伝えられている。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「ウィキペディア(Wikipedia)」
    「境内石碑文」等

  

            

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樋ノ口八幡神社


        
             
・所在地 埼玉県久喜市樋ノ口502
             ・ご祭神 応神天皇
             ・社 格 旧樋ノ口村鎮守 旧村社
             ・例祭等 元旦祭 二月初午 騎西の獅子 422日 大祓 630
                  例祭 914日 二百十日 9月1日 お日待 1019
 原日枝神社の南側に面する東西に流れる道を東行し、400m程進んだ三叉路を左折する道路沿いで右手に樋ノ口八幡神社は鎮座している。道を挟んだ反対側には真言宗三寶寺があり、江戸時代期の神仏習合の名残が寺社の配置からも垣間見られよう。
 
     樋ノ口八幡神社正面鳥居          鳥居の手前に建つ社号表柱
『日本歴史地名大系』 「樋ノ口村」の解説
 原村の西にあり、北は姫宮落川を境に野牛村(現白岡町)、東は篠津村(現同上)、南は星川を境に同村と下大崎村(現同上)。篠津村に飛地がある。天正一八年(一五九〇)八月の徳川氏関東入国後、柴田康忠が菖蒲五千石を領し(三千石以上分限帳「天正慶長諸大名御旗本分限帳」内閣文庫蔵)、当村に陣屋を置いたという(風土記稿)。騎西領に所属。
        
                 白を基調とした拝殿
『新編武蔵風土記稿 樋ノ口村』
 八幡社 村の鎭守なり、此處は今の末社稻荷の地なりしが、萬治三年当社を勧請してより、稻荷は却て末社となれり、三寶寺の持、 末社 稻荷
 三寶寺 新義眞言宗、戸ヶ崎村吉祥院の門徒、阿彌陀山と號す、開山秀範寛永二年三月寂せり、本尊阿彌陀、
 八幡神社  久喜市樋ノ口五〇二(樋ノ口字表)
 当社の「樋ノ口」は「樋口」とも書き、庄兵衛堀川右岸の台地低地からなる村で、古くからの集落は、地内中央の台地上にある。『埼玉県地名誌』によれば、地名の由来は、当地が星川から引いた用水路の樋の口に当たるためであるという。
 当社は古い集落の中央に鎮座しており、『風土記稿』樋ノ口村の項には「八幡社 村の鎮守なり、此辺は今の末社稲荷の地なりしが、万治三年(一六六〇)当社を勧請してより、稲荷は却て末社となれり、三宝寺の持、末社 稲荷」とある。口碑によれば、当社は元々小田原北条氏の家臣で永禄年間(一五五八-七〇)に当地に土着した岡安兵庫介の孫である岡安三右衛門が万治三年に村の鎮守として、稲荷社の境内に勧請したのが始まりであるという。岡安家は江戸期を通じて代々当村の名主を世襲した。別当の三宝寺は、戸ヶ崎村(菖蒲町菖蒲)真言宗吉祥院の門徒で阿弥陀山と号した。
 神仏分離により、当社は三宝寺の監理下を離れ、明治六年六月十三日に村社に列した。社殿の屋根は元々草葺きであったが、老朽化したため、氏子の間から改修しようという声が上がった。しかし、工事資金が不足したため、氏子が協議した結果、やむなく末社である稲荷神社の神木の欅を伐採し、売却して資金の一部とすることになった。工事は昭和三十八年に行われ、瓦葺きの屋根に改修された。
                                   「埼玉の神社」より引用 
 当社の行事に「騎西の獅子」がある。この行事は古くから当地を挙げて行われてきた疾病除けの祭りで、当日は、早朝に当番が車で騎西の玉敷神社へ行き、「お獅子様」と称される筥を借りて当社へ帰り、拝殿に「お獅子様」を安置して詰める。氏子は銘々で灯明料を納めて参拝し、「お獅子様を頂戴します」と言って、当番から「お獅子様」でお祓いを受けるとの事だ。かつては、当番が「お獅子様」を持って各戸を回り、縁側で土足のまま家に上がり悪魔祓いをしたが、新築の家が増え、土足では上がりにくくなったので、昭和50年頃に現在の形と改められたという。
 また、かつては914日の例祭の余興として万作踊りが行われていた。しかし太平洋戦争勃発で、出征兵士が増加し万作踊りを行う男性が不足したため、こちらの行事は中止となった。
 拝殿の前面には適度な空間があるのだが、このような行事のために使われるスペースなのではないかと勝手に想像してみた。
        
                    本 殿
 
社殿の左側奥に祀られている三峯大権現の石祠    社殿右側奥に祀られている稲荷神社
                          赤い鳥居の脇には旧稲荷社がある。
 当地で古くから行われている年中行事に「初午」がある。初午は、昔から作神として地元の人々から崇敬されている境内社の稲荷神社の祭りで、当日、早朝から各戸でスミツカリを作り、藁苞(わらつと)に入れて銘々で稲荷神社の神前に供えて参拝する。午前11時からは神職の奉仕による祭典も執り行われるという。
        
            社の西側で、道路を挟んである真言宗三寶寺



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」
    「ウィキペディア(Wikipedia)」等
                    

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原日枝神社

 
        
             
・所在地 埼玉県久喜市原222
             ・ご祭神 大山咋神
             ・社 格 旧原村鎮守 旧村社
             ・例祭等 元旦祭 夏祭り(灯籠) 714日 秋祭り 1018
 久喜市除堀地域の東側で、埼玉県道78号春日部菖蒲線沿いに鎮座する七社神社を過ぎた次の十字路を左折、県道から中にある東西に伸びる道に入ってすぐ先に原日枝神社は鎮座している。
 当社の創建年代は不明であるが、別当寺だった東雲院は、菖蒲城の城主佐々木氏の家臣によって創建されたものであり、佐々木氏発祥の地である近江国(現・滋賀県)の日吉大社から分霊を勧請したものと推測される。
 1873年(明治6年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられ、1908年(明治41年)の神社合祀により、「稲荷神社」が合祀されたという。
        
                   原日枝神社正面
        境内は決して広くはないが、手入れはしっかりとされていて、
         地域の氏子の方々から崇敬されていることが見て取れる。

『日本歴史地名大系 』「原村」の解説
 北は笠原用水を境に下早見村の飛地、南は星川を境に下大崎村(現白岡町)。菖蒲領に所属。正保年中(一六四四―四八)川越藩松平氏の検地があり(風土記稿)、田園簿によれば田高一一八石余・畑高一六一石余、川越藩領。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高三一一石余、反別は田方一三町三反余・畑方二三町二反余、ほかに新開高一二四石余、田方五町三反余・畑方九町四反余があった。
        
                    社殿の手前で参道左手にある旧拝殿
      旧拝殿の手前にある石碑は「榛名山満行宮」で、榛名山講による建立
 
 拝殿手前で参道左手に祀られている稲荷神社   参道を挟んで右側に祀られている三峰神社
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 原村』
 山王社 鎭守なり、東雲院の持、〇稻荷社 村民持
 東雲院 禪宗曹洞宗派、白岡村興禪寺末、龍松山と號す、本尊は釋迦脇士文珠普賢を安ず、開山孝天存舜元龜二年三月寂せり、〇觀音堂 東雲院持

 日枝神社(さんのうさま)  久喜市原二二二(原字松場)
 当地は庄兵衛堀川と星川に挟まれた農業地帯である。
当社は『風土記稿』に「山王社 鎮守なり、東雲院の持」とある。口碑によれば、近江国の一宮日吉大社の分霊を鎮守として祀ったのが始まりであるという。別当の東雲院は、白岡村曹洞宗興禅寺末で、開山の孝天存舜和尚は元亀二年(一五七一)三月の入寂であるという。東雲院の伝えによれば、近江国の武将佐々木源左衛門氏綱は康正二年(一四五六)に武州新堀の菖蒲城に移り、その玄孫佐々木信濃守頼綱は当地に大雲庵を構えて隠居し、永正十六年(一五一九)五月十日に没した。その後、家臣たちが頼綱の菩提を弔うために大雲庵の跡地に一寺を建立し、東雲院と号したという。
 東雲院を建立したのは岡安氏をはじめとする八名で、その後、当地に土着し、村の草分けとなった。恐らく当社は、これら草分けの人々によって、かつての主君佐々木氏の出自である近江国から一宮日吉大社の分霊を勧請したものであろう。社殿に掲げられた享和二年(一八〇二)銘の「(日)吉大社」の社号額は当社が日吉大社の分霊を祀る社であることを物語るものといえよう。
 当社は神仏分離により東雲院から離れ、明治六年六月に村社に列した。その後、明治四十一年三月に字天沼の無格社稲荷神社を合祀した。
                                                                      「埼玉の神社」より引用
 当社は、古くから「山王様」と称されると共に「山王様は霊験あらたかな地主神様である」といわれ、崇敬されている。
 氏子区域は、近世の原村を引き継ぐ大字原であり、村組は「上」「中」「新田」の三組で構成されている。総代は各組から一名ずつ計三名を選出し、任期四年で神社運営に当たる。年番も各組から家並み順で一名ずつの計三名が出て、祭典の準備などを行う。
        
           境内の一角には紙垂にて祀られている力石がある。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」
    「
ウィキペディア(Wikipedia)」等
 

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河原井稲荷神社


        
             
・所在地 埼玉県久喜市菖蒲町河原井140
             
・ご祭神 倉稲魂命
             
・社 格 旧河原井村氏神(推定)
             
・例祭等 元旦祭 春の祭礼 411日 夏の祭礼 629
                  
灯籠祭り 81日 秋の祭礼 1011日 大祓 1229
 久喜市菖蒲町河原井地域は、久喜市の南部にあり、菖蒲町台、除堀各地域の南側に位置し、埼玉県北東部を流れる利根川水系の一級河川である星川の自然堤防上に集落は形成されている。因みに『新編武蔵風土記稿 河原井村』では菖蒲領に載っているが、嘗ては騎西領に属する村の一つであったという。
 除堀久伊豆神社から埼玉県道78号春日部菖蒲線を東行し、すぐ先の丁字路を右折、そこから500m程南側の道幅の狭い十字路を左折すると、幸福寺の東に隣接して河原井稲荷神社は静かに鎮座している。後日、地図を確認すると、かつて参拝した白岡市・下大崎住吉神社の北側に位置していた。
        
                 
河原井稲荷神社正面
『日本歴史地名大系』「河原井村」の解説
 星川の左岸、台村の南に位置する。菖蒲領のうちで、古くは騎西領に属したという(風土記稿)。正保四年(一六四七)川越藩の検地があり(同書)、田園簿では同藩領で、田高三六石余・畑高一三六石余。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高一八五石余、反別は田方四町五反余・畑方一四町八反余、ほかに新開高四五石余、田方一町一反余・畑方三町六反余があった。
 
  境内南西部で丁字路角にある青面金剛     拝殿手前で左側に祀られている山王社

 『新編武蔵風土記稿 河原井村』に載る「
稲荷社〇山王社〇大六天社 以上村民持」の一社である山王社は、長く黒沼笠原用水の端に祀られていたが、昭和45年頃、社のそばに水道小屋を作る事になったため、移転を余儀なくされ、以後は当社の境内に移され、末社として祀られるようになったという。
 なお、大六天社に関しては、廃社になってしまったものか、今では社があったという話さえ残っていない。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 河原井村』
 稻荷社 〇山王社 〇大六天社 以上村民持、
 光福寺 曹洞宗、白岡村興禪寺末、天得山と號す、開山は本寺三世の僧存舜元龜二年三月寂す、本尊地藏を安ぜり、


 稲荷神社  菖蒲町河原井一四〇(河原井字川棚)
 河原井は、地元では「かわはらい」と呼ばれ、古くは騎西領に属する村の一つであった。その地名は、河原居の意であると解され、星川の自然堤防上に形成された集落であろうと考えられている。『風土記稿』河原井村の項に「稲荷社〇山王社〇大六天社 以上村民持」と載るように、河原井の村内には古くから稲荷・山王・大六天の三社が祀られていたが、その中でも当社は、村のほぼ中心にあり、村の氏神として信仰されてきた社である。
 当社は、恐らくは村の開発と相前後して祀られたものと推測されるが、勧請された時期は定かではない。しかし、当社の西に隣接する曹洞宗天得山幸福寺(『風土記稿』には「光福寺」と記載)の開山の僧である存舜が元亀二年(一五七一)に寂していることや、旧家の関根家は四〇〇年以上続いているといわれていることから、村の開発や当社の勧請は、室町時代の末期ごろのことではないかと考えられる。なお、鳥居に掛かる「正一位稲荷大明神」と刻まれた石額には、文政九丙戌(一八二六)十一月吉祥日」の銘があり、恐らくこのころに、改めて伏見稲荷より分霊を勧請したものと思われる。
 当社の境内には、かつたは鬱蒼と松が生い茂り、昼間でも薄暗いような所であったという。しかし、今では境内に河原井集会所もでき、明るく見通しのよい雰囲気に整備され、往時の面影は薄れてしまった。
                                   「埼玉の神社」より引用
 河原井地域に住む五六戸程の人々が、当社の氏子である。当社のご祭神は倉稲魂命で、本殿には明治28年に納められた勾玉がご神体として安置されている。
 河原井地域は大きく川棚(かわたな)と武井(ぶい)の二組に分かれていて、武井は星川の後背湿地であるために田んぼが多いのだが、川棚は土嚢が砂質のために特産物である梨や柚子などの野菜や桑などを栽培している農家も多いという。
        
            社の道を隔てた西側隣にある曹洞宗・幸福寺 
        
                  子安観世音菩薩
                 河原井村女講中による奉納

 この幸福寺の角にある地蔵は、かつては霊験あらたかな子安地蔵として有名で、近在の諸地域では女人講が結成される程であったという。現在はこうした講こそなくなったが、安産・子育てや子授けを願って多くの参詣者があるという。
 毎年7月23日の縁日には「寺の灯籠」と称して神社の当番が祭りを行ってきたが、平成4年からは、寺の行事として寺総代と相談役が祭りを行っているとの事だ。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等
        

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除堀久伊豆神社

 久喜市除堀地域。この「除堀」という地名は「よけぼり」と読むのだが、いかにも地形が関連する難解地名であろう。『埼玉の神社』による解説によれば、「当地は、かつての荒川の乱流に削られて残った小さな台地上にあり、除堀の地名は、当社の二百㍍ほど東側で、この台地を東西に分断している江川が、水害除けのために開削されたことによると考えられる」との事だ。
        
                         ・所在地 埼玉県久喜市除堀474
                         ・ご祭神 大己貴命(推定)
                         ・社 格 旧除堀村鎮守 旧村社
                         ・例祭等 元旦祭 祈年祭 45日 例祭 419
                              塞神祭 51日 大祓 71日 秋祭 1019
 菖蒲町台久伊豆神社から一旦南下して旧国道122号線を南東方向に400m程進んだ三叉路を左折、その後、国道122号線との交点である「台九宮」交差点を直進する。埼玉県道78号春日部菖蒲線に合流後東行すること450m程で、進行方向左手に除堀久伊豆神社の鳥居が見えてくる。但し県道沿いからは少し離れた場所に鳥居はあり、注視しなければそのまま通り過ぎてしまうので、その点注意は必要だ。
        
                 除堀久伊豆神社鳥居
『日本歴史地名大系』 「除堀村」の解説
 東は笠原沼用水を境に原村、北は庄兵衛堀川を挟んで河原井沼新田、南は星川を境に下大崎村(現白岡町)。騎西領に所属(風土記稿)。寛永一一年(一六三四)の年貢割付状(茂木家文書)によると、田方二一町三反余・畑方五四町三反余、屋敷一町五反余(以上新田分も含む)、幕府領。同一六年川越藩領になり(同年「年貢割付状」同文書など)、田園簿によると田高一五六石余・畑高三九九石余。
        
       鳥居の右側手前には庚申塔が建ち、それに対してその向かい側には
             「諏訪神社・久伊豆神社・七社神社」と刻印された社号碑がある。

 当地では、明治六年に当社を村社とし、字江川東にある諏訪神社と字小中瀬の七社神社は無格社となった。更に同四十年八月には、政府の合祀政策に伴い、無格社の二社は当社に合祀された。ところが、合祀後、村内に病人や災いが相次いだため、占いをしたところ諏訪神社の合祀が原因とされたことから、昭和十年、畑となっていた元地に社殿を建て、改めて諏訪神社を祀ったので災いも治まったという話がいい伝えられている。
        
          鳥居から一般道を北上すると、社の境内が見えてくる。
                社殿の右側に見える綺麗な建物は社務所
        
          境内に設置されている「
除堀の獅子舞」の案内板
 除掘の獅子舞は、3頭の獅子が笛の音色にあわせて、お腹に付けた太鼓を鳴らしながら舞う。一般的に「ささら」と呼ばれ、毎年419日に近い日曜日(平成24年は422日)に行われる。平成20年までは、毎年419日に行われ、花宿(はなやど・当番の家)で式典を行い、村回りをしていたが、久伊豆神社の社務所の改築に伴い、平成21年からは神社で式典を行い、村回りをするようになった。
 舞を行うのは、穀物が豊かに実り、流行り病が退散し、災いを消し去ることなどを願うためである。当日は、久伊豆神社を出発し、稲荷神社・七社大権現・不動寺・諏訪神社・久伊豆神社の順で舞を行いながら村を回る。獅子は朋冠・大獅子・雌獅子の3頭で、そのほか笛方・天狗・道化等の役割があり、この獅子舞には、笹がかり・梯子がかり・花がかり・綱がかりの4種類の舞がある。
 除堀の獅子舞の起源は、約400年前に村の西の方にある池に雌獅子が1頭浮かびあがり、村人が救いあげて医王院に安置し、その年の雨乞い祈願に獅子頭をかぶり、太鼓と笛の音に乗って舞ったのが始まりと伝えられている。
 除堀の獅子舞は、昭和51年3月26日久喜市指定無形民俗文化財に指定されている。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 除堀村』
 久伊豆社 村の鎭守なり、護寶院持、〇諏訪社 これも鎭守なり、光明院の持、〇七社權現社 不動寺持、
 〇光明院 新義眞言宗、戸ヶ崎村吉祥院末、田中山と號す、大日を本尊とせり、
 〇護寶院 當山派修驗、牛重村般昌院配下、本尊不動を安ず、

 久伊豆神社  久喜市除堀四七四(除堀字江川西)
 除堀は、かつての荒川の乱流に削られて残った小さな台地上にある。
 当地には、当社近くにあった医王院(廃寺)の建治三年(一二七七)の板碑(市指定文化財)のほか、かつては鎌倉街道が通っていたと伝えられ、宿の跡を示す「宿場」、街道に架かる橋の跡を示す「鎌倉杭(ぐい)」などの地名が残ることから、当地の開発は鎌倉時代以前と思われる。
 除堀の地名は、当社の二百㍍ほど東側で、この台地を東西に分断している江川が、水害除けのために開削されたことによると考えられる。
 当社の創建について当地では、記録も伝えもないが、当地の西に隣接する菖蒲町大字台では、昔、台の村には上と下に久伊豆神社があったので、下の久伊豆神社を除堀にあげてしまったという伝承があり、そのため、久伊豆神社の境内地の分だけ除堀から台の方へ突き出た形になっているのだといわれている。『風土記稿』除堀村の項に「久伊豆社 村の鎮守なり、護宝院持、諏訪社 これも鎮守なり、光明院の持、七社権現社 不動寺持」とあり、当社のほか江川の対岸に鎮座する諏訪社も鎮守であることから、台の伝承と考え合わせると、江川の開削で村が分断され、村の西側に神社がないために、村境近くに鎮座していた当社を譲り受けて鎮守としたものと思われる。
 内陣には三体の懸仏、嘉永六年(一八五三)の再建時の幣束二体、元治元年(一八六四)に伯家より受けた勧遷状と神璽筥(しんじばこ)を奉安する。
                                    「埼玉の神社」より引用
 
    境内に祀られている稲荷神社           重厚な雰囲気の本殿

 除堀久伊豆神社のすぐ東隣に不動寺薬師堂があり、そこに久喜指定有形文化財に指定されている建治板石塔婆がある
        
                  
不動寺薬師堂
       
              
建治板石塔婆(二基)とその案内板
        
 久喜指定有形文化財  建治板石塔婆
                     指定年月日 昭和四十八年三月十六日
                     所 在 地 久喜市除堀四七一
 板石塔婆は、卒塔婆(そとば)・塔婆(とうば)と呼ばれる仏教遺物の一種で、主に死者の霊をとむらい供養するための石造(せきぞう)塔婆である。板碑・青石・板仏などと言うこともある。全国的に分布し、その形態や材質はさまざまであるが、埼玉県には特に多く、荒川上流流域に産する緑泥片岩を材料とした武蔵型板石塔婆が約二万余基確認されており、市内では約二百余基発見されている。
 この建治板石塔婆は上部下部が欠損しているが、市内に現存するものでは最大の大きさである。種子は五点具足の荘厳体の梵字で「アーンク」と発音し、胎蔵界(たいぞうかい)大日如来を象徴する。その下には蓮座があり、ともに深く豪快な薬研彫(やげんぼり)である。その下部中央には「建治参季丁丑忌辰八月八日」と紀年銘があり、その左右に「今此三界 皆是我有 其中衆生 悉是我子」と、法華経を出展とする偈(げ)が刻まれている。
 板石塔婆で最大のものは、秩父郡長瀞町野上下郷にある応安二年(1369)銘釈迦一尊種子のもので、高さ五・三五メートルである。市内では、この板石塔婆が最大で、一六七七センチである。また最古のものは、大里郡江南村須賀広の嘉禄三年(1227)銘阿弥陀三尊画像のもので、最新のものは、戸田市妙顕寺の慶長三年(1598)銘題目三尊のものである。
 市内では北1丁目遍照院の建長七年(1255)が最も古く、建治三年(1277)の本例がこれに次ぐものである。最新のものは、本町一丁目光明寺の天正八年(1580)のものである。
 この板石塔婆は、久喜市にとって優れた板石塔婆であり、貴重な資料である。大切に保存したいものである。


除堀久伊豆神社の東側には、諏訪神社及び七社神社が鎮座している。
 
   埼玉県道87号春日部菖蒲線を東行し、江面郵便局北側に鎮座する諏訪神社(写真左・右)

 
除堀地域東側に位置し、埼玉県道87号春日部菖蒲線沿いに鎮座する七社神社(写真左・右)



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「
久喜市HP」「埼玉の神社」
    「境内案内板」等   

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