古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

外野香取神社


        
             
・所在地 埼玉県久喜市外野66
             
・ご祭神 経津主大神
             ・社 格 旧外野村鎮守 旧村社
             
・例祭等 初会合 11日 春祭り 415日 夏祭り 719
                  秋祭り 1019
 久喜市外野地域は、旧利根川である中川と葛西用水に挟まれた低地帯で、元来、稲作が主体とした農業地域であり、氏子も数十戸あまりと少なかったのだが、昭和30年代以降は、東鷲宮駅ができたことにより転入者が相次ぎ、また、従来水田であった地域北部には、近年東鷲宮ニュータウンが造成されたことにより、昔からの景観も大きく変わってきているという。
 外野の鎮守社である外野香取神社は、JR東日本・東鷲宮駅から直線距離にして1㎞程南側にある「成立学園鷲宮グランド」に隣接してひっそりと鎮座している。
       
                  外野香取神社正面
『新編武蔵風土記稿 葛飾郡外野村』
 外野村は、古へ西大輪村の内なり、元祿の改に始て西大輪村の枝鄕と載たり、其後又枝鄕の唱をすてゝ、全く別村となれり、
『日本歴史地名大系』 「外野村」の解説
 西大輪村の南東にある同村枝郷。元禄一〇年(一六九七)に分村したという(郡村誌)。元禄郷帳に高二八三石余とあり、国立史料館本元禄郷帳によれば旗本三浦領。
 
    左側の狛犬の隣に祀られている弁才天       右側の狛犬の隣に
祀られている稲荷大神社
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 葛飾郡外野村』
 香取社 村の鎭守なり、勝藏院持、下同じ、 末社稻荷 辨天
 勝藏院 新義真言宗、東大輪村密藏寺末、慈光山と號す、本尊不動、辨天社

 香取神社  鷲宮町外野六六(外野字前)
 鎮座地の外野は、中川と葛西用水(いずれも旧利根川)に挟まれた低地であるため、太平洋戦争後、河川改修が行われるまでは、しばしば洪水に悩まされた。しかし、その洪水は当社の創建と深くかかわっており、氏子の間では次のような話が伝えられている。
 当社の南側を流れる川(葛西用水)が、まだ利根川の本流だったころのある年、大水があった。その後、下総国の香取神社から神体が丸木舟に乗って川を遡り、この地に漂着した。村人は有り難く思い、その神体を、当時はまだ真菰(まこも)の生い茂る原野であったこの地の中でも最も高い所を選んで、小さな茅葺きの祠を建ててお祀りした。これが香取様の創祀である。当時の外野は、家がたった六軒しかない小さな村であったが、開発が進んで村が大きくなるにつれて家数が増え、社殿も大きくなって今日のようになった。
 この話がいつごろのことで、また、漂着した神体がどんなものであったかはわからないが、『風土記稿』には「香取社 村の鎮守なり、勝蔵院持、下同じ、末社稲荷 弁天」とあることから、江戸中期には現在のような姿で祀られていたものであろう。また、本殿には幣束のほか、神祇管領により調進された「香取大明神勧請安鎮座」の霊璽が納められている。この霊璽に年紀は見られないが、卜部兼雄の名が記されていることから、江戸中期に受けたことがわかる。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                    本 殿
 当社は村の鎮守として氏子からの信仰も厚く、祭典に当たっては五穀豊穣・家内安全が祈願されている。また、婦人からは安産の神としても信仰されており、祭典で使用されたろうそくの燃え残りは安産のお守りとされているようである。
        
                  境内の一風景



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等
    
        


 

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上清久白幡雷電神社

 かつて葛飾郡大川戸村(松伏町)は大河戸御厨(伊勢神宮領)の地であった。吾妻鑑卷三に「寿永三年正月三日、武蔵国崎西・足立両郡の内にある大河土の御厨あり、外宮に寄進す」とあり、建久三年伊勢大神宮神領注文写に大河土御厨給主外宮権神主光親と載せている。
その後、平安時代末期に藤原秀郷流である下野国都賀郡三毳崎太田村(藤岡町)出身の大田行広がこの地を本拠地としたため大河戸氏と称したという。
『尊卑分脈』
「大田大夫行尊―大田大夫行政(改宗行)、弟大田四郎行光(或行政子)―行方(号大河戸、下総権守、母秩父太郎重綱女)―太郎広行、弟清久二郎秀行、弟高柳三郎行基、弟大川戸四郎行平(神人の頸を切るにより大田庄を召放たる)、行方の弟大河戸次郎行広―小次郎行朝―四郎行茂―兵部光基」
 大河戸行方(重行)には4人の子供がいて、長子広行が大河戸氏を継ぎ、その三人の弟はそれぞれ本貫とした地の名をとり、おのおの清久氏(次郎秀行)、高柳氏(三郎行基)、葛浜氏(四郎行平)を名乗った。
 清久郷を領して清久氏の祖となった二男次郎秀行は、頼朝の二度の上洛に随従するなど近習として名を残しており、子孫には承久の乱(1221)の宇治橋の合戦で活躍した清久左衛門尉秀綱、丹波国私市荘(京都府福知山市)を恩賞として与えられた清久小次郎胤行などの名を見ることができ、幕府の御家人として活躍したことが記録されている。また清久氏の館は、現在の常徳院と上清久白幡雷電神社がある楕円形の台地付近に構えられていたと伝えられている。
        
             
・所在地 埼玉県久喜市上清久668
             
・ご祭神 別雷命
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 雷除祈願 41日 初山 71日 例祭 1125日 他
 上早見千勝神社から埼玉県道146号六万部久喜停車場線を西行し、「六万部橋(東)」交差点を右折する。その後、進行方向右手奥に埼玉県立久喜特別支援学校が見えてくる先の路地を左折したそのすぐ東側に上清久白幡雷電神社は鎮座している。
        
               
上清久白幡雷電神社正面附近
     社号標柱があるその北側にある白壁は、
常德院持ちの白幡山墓地である。
        
               
上清久白幡雷電神社正面鳥居
『日本歴史地名大系 』「上清久村」の解説
 六万部村の北東に位置し、北は新川用水を境に中妻・久本寺(現鷲宮町)の二村と対する。東は下清久村、六万部村の南部に飛地がある。上・下の清久村一帯は「吾妻鏡」養和元年(一一八一)二月一八日条などにみえる大河戸次郎秀行(清久氏)の本貫地であった。建長年間(一二四九〜五六)と推定される年不詳の某陳状(中山法華経寺「双紙要文」裏文書)に武蔵国清久とみえる。天正八年(一五八〇)三月二一日、足利義氏は北条氏照に対し、清久郷など五郷から人夫を毎年五〇人・二〇日間出させることとし、今回は四月二日と三日に下総古河に参集させるよう命じている(「足利義氏印判状写」喜連川家文書案)。騎西領に所属(風土記稿)。

         静まり返った境内          参道左手に設置されている案内板

 常徳院は「曹洞宗 白幡山権現寺」と号し、当院から雷電神社にかけての境内は楕円形の小高い台地の上にある。周囲は構え堀のごとく水路がめぐり、戦前までは白幡沼と呼ばれる広大な湿地帯が南東方向に広がっていた。
 中世には奥州へと伸びる鎌倉街道(奥大道)が南北につらぬき、また武蔵国と下総国の国境であった川口の渡し(旧利根川)を北方4kmに臨んでいた。天然の要害・交通の要衝を兼ねたこの地に、平安時代末期から南北朝時代までの約170年間、在地領主であった清久氏が館を構えていたとされている。
 清久氏は平将門の乱を平定した藤原秀郷の後裔・太田氏を祖とする大河戸氏の庶流で、下野国の小山氏・下総国の下河辺氏とは同族にあたる。大河戸御厨(松伏・吉川・三郷・八潮)を治めた大河戸行方(重行)の子息で太郎広行が大河戸氏を継ぎ、次郎秀行は清久氏〈久喜〉を、三郎行元は高柳氏を〈加須〉、四郎行平は葛浜氏〈羽生〉をそれぞれの領地名から名乗った。治承五年(1181)大河戸四兄弟は三浦介義澄に伴われて源頼朝に拝謁、「皆勇士の相を備えている」と頼朝に気に入られたと『吾妻鏡』に記されている。清久次郎秀行は頼朝の二度の上洛に随従するなど近習として名を残しており、子孫には承久の乱(1221)の宇治橋の合戦で活躍した清久左衛門尉秀綱、丹波国私市荘京都府福知山市を恩賞として与えられた清久小次郎胤行などの名を見ることができる。
 また『太平記』には中先代の乱(1335)で北条氏に従い奮戦した清久山城守、足利尊氏に仕えた清久左衛門次郎泰行が登場する。
 その後は阿波国(徳島県)に本拠を移したとされ『阿波國古城諸将記』によると、天正十年(1582)中富川の戦いで十河存保に従って長宗我部元親に敗れた清久三之丞、その嫡子で知恵島城主の知恵島源次兵衛重綱の名がみえる。
 常徳院に残る永仁六年(1298)銘の板石塔婆や応安元年(1368)銘の宝篋印塔の残欠などは清久氏一族の供養塔とされ、旧本尊の阿弥陀如来は鎌倉時代末期から南北朝時代の造像で清久氏の守本尊と伝わっている。
       
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 上清久村』
 白幡權現社 白幡光明雷王大權現と號す、古へ足利高興白幡を納めしより、かく號せし由をいへど、高興の名聞くことなし、傳への訛りしならん、祭神は雷電神本地十一面觀音、立像にて丈七寸餘、行基の作、常德院の持、
什物 雷槌一本 龍ノ牙一 石一 弘法大師、雨乞の石と云、
 常德院 禪宗曹洞派鷲宮村靈樹寺の末、白幡山權現寺と號す、開山起屋庭宗天正十五年四月七日示寂、本尊彌陀は慈覺大師の作にて、立像一尺餘、此外聖德太子自作の壽像及虛空藏、且運慶の作、毘沙門天春日の作、千壽觀音を安ず、當寺境より白幡權現社地の邊、淸久次郞城蹟なりし由、今もこの邊を掘れば、矢の根など出ることありと云、

 雷電神社
 祭神 別雷命―気象と五穀を護る神
 神社起源、由来
 言い伝えによればその昔、行基菩薩が、この地に自作の十一面観音像を祀ったのが始まりとされる神仏習合の神社といわれる。その後、八幡太郎源義家が、奥州征伐の途中戦勝を祈願し、奧州を平定した義家は、戦のお礼に源氏の白幡を奉納したという。
 雨乞、雷除、虫封じ、子孫繁栄の祈祷神社と知られ「光明電王宮・白幡権現社」と称し、地元近隣はもとより、遠方の人々からも大いに信仰された。明治初年の神仏分離令により、雷電神社と隣の常德院に分離された。 義家白幡奉納伝や地名が白幡であることから、地元や近隣の人々から白幡さま白幡神社と呼ばれた。(十一面観音像は常德院に祀られている)
昭和二十年代頃までは、社寺の三方は田んぼと沼(白幡沼)
に囲まれ、神社は小高い台地の杜のなかに鎮座していた。周囲は開発され今は昔日の面影はない。
 最後の雨乞
 大正十三年夏、日本全国は大干ばつにみまわれ、この地方も深刻な被害があり七月十九日から一週間の雨乞が行われ、満願の二十五日雷鳴とともに恵みの雨が降り農作物は甦り豊作となったと云われている。 (徳富蘇峰揮毫記念碑あり)
 白幡城と赤幡城
 むかし、沼に囲まれた白幡城の対岸に赤幡城があり、ある時戦いがおこり白幡側が不利になった時、突然大蛇が現われ、赤幡側の舟と兵を攻撃し白幡側が勝利したと言う。(旧久喜市の唯一の民話)
 境地末社  浅間神社、厳島神社、弁財天社(以下略)            境内案内板より引用
        
                    本 殿
 
   社殿左手奥に祀られている弁財天社      社の手前に設置されている弁財天碑

 かつて、氏子・崇敬者の間で「雨乞い組合」が結成される程、当社への信仰は厚いもので、旱魃が続くとしばしば雨乞いが行われたようだ。中でも大正13年7月の雨乞いは、6月初旬から降雨がなく、深刻な状況の中で行われた。7月25日を満願の日と定め、19日から一週間にわたり祈願を続けた。この時の祈願は、当社で神職が降雨を祈ると同時に常德院でも住職が本堂で読経をし、若い者たちは褌(ふんどし)一つで当社の裏手にある弁天様の池に入り、バケツでその水をくみ出して本社めがけて浴びせかけるというものであったという。
        
               弁財天社の隣に祀られている厳島神社 
       
               本殿奥に祀られている浅間神社 



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「埼玉苗字辞典」
    「境内案内板」等 
        

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下清久諏訪神社

 久喜市下清久地域で、近年まで行っていた氏子の年中行事の一つに「鎌どっかえ」があり、参拝者に甘酒を振る舞ったことから「甘酒祭り」とも称されていた。
 氏子は毎年927日になると、それまで一年間、自宅の神棚に飾っておいた当社の「鎌」に新しく作った「鎌」を添えて当社に返し、再び別の「鎌」を借りて、五穀豊穣を祈り自宅の神棚に飾った。「鎌」は、竹の柄に柘植(つげ)で作った刃を付け、刃の内側を墨で黒く塗ったものであった。また、体に出来物ができた時は、この「鎌」でその箇所を刈り取る仕草をすると治るといわれた。
 このように嘗ては盛んに行われた「鎌どっかえ」も、氏子に勤め人が増えたことによる農家の減少や医療技術の発達により、昭和
30年を境に徐々に衰退し、更に、勤め人が一層増加したことにより甘酒を作る人手が不足するようになり、昭和60年に甘酒作りを中止すると、ほとんど行われなくなった。このため、総代・役員・行事が話し合い、平成6年に正式に「鎌どっかえ」の中止を決めたという。
        
             
・所在地 埼玉県久喜市下清久599
             ・ご祭神 建御名方命
             ・社 格 旧下清久村鎮守・旧村社
             ・例祭等 夏祭り(行灯祭り) 726
 久喜市下清久地域は、古利根川の乱流期に形づけられた自然堤防上に位置していて、青毛堀川と備前前堀川の間の低地・台地に位置する農耕地帯である。地域東側には南北方向に蛇行しながら流れる新川用水が上早見地域との境となっていて、地図を確認すると、上早見千勝神社から新川用水を隔ててほぼ真北に下清久諏訪神社は鎮座している位置関係となっていて、この二社は直線距離にして200mも離れていない。
        
              道路沿いに下清久諏訪神社は鎮座
    社の正面となる社号幟を立てる柱から見ると、鳥居はやや西向きとなっている。
           後日地図を確認すると、南西方向に向いている社
『日本歴史地名大系 』「下清久村」の解説
 上清久村の東に位置し、北は新川用水を境に久本寺(くほんじ)村。天正一八年(一五九〇)八月の徳川氏関東入国にあたり、松平康重は忍(現行田市)から騎西(現加須市騎西)へ移ったが、所領二万石のうち四千石不足であったため、検地と下清久二千石で補充したという(石川正西聞見集)。村高から考えても下清久村一村ではなく付近一帯が含まれていたと思われる。騎西領に所属し、検地は上清久村に同じ(風土記稿)。田園簿によれば川越藩領で、田高一七七石余・畑高一五九石余、ほかに野銭永七〇文があった。
        
            道路沿いに移動すると下清久諏訪神社正面となる
                                          社の正面としてしっくりとするアングルだ。
 創建年代は不明である。ただ下清久村が清久郷から分村したのが1596年(慶長元年)以前であり、分村時に信濃国一宮の諏訪大社から分霊を勧請したものという。近くの清福寺が別当寺であった。1873年(明治6年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられた。
 氏子区域は近世の下清久村を引き継ぐ大字下清久で、総代は、氏子を「上」「中」「本村」「宮守」「新田」の五つの村組に分けて、各一名ずつの計五明で選出され、人気三年で神社運営に当たるという。このほか「行事」と呼ばれる当番が、家並み順に二名ずつ計一〇名選出され、夏祭りの準備や境内の清掃を担うとのことだ。
        
            正面東側手前側にある青面金剛と(石)橋供養塔
        
          鳥居を過ぎてすぐ左側にある「諏訪大社参拝記念碑」
           その並びに祀られている熊野大神と神明宮の石祠
        
            「諏訪大社参拝記念碑」の左側にある力石二基
       
                    拝 殿
 諏訪神社  久喜市下清久五九九(下清久字宮浦)
『風土記稿』によれば、往古、当地が属していた清久郷は、慶長元年(一五九六)までに上清久・下清久に分けられ、それぞれ一村となった。『埼玉県地名誌』によれば、清久という地名の由来は、古利根川の乱流期に形づけられた自然堤防上に位置していることによるという。鎮座地の下清久は、青毛堀川と備前前堀川の間の低地・台地に位置する農耕地帯で、東の境には新川用水が流れている。
 当社はこの新川用水のすぐ西側に鎮座しており、『風土記稿』下清久村の項には「諏訪社 村の鎮守なり、清福寺持、下二社同持、〇熊野社〇神明社」とある。口碑によれば、創建は、清久郷が分村するに当たって、信濃国一宮の諏訪大社の分霊を下清久村の鎮守として勧請したものであるという。別当の清福寺は久喜町真言宗光明寺末で瑠璃山と号し、中興開山の法印宥源は延宝五年(一六七七)に入寂した。
 神仏分離により、当社は清福寺の管理下を離れ、明治六年五月に村社となった。
 本殿内には「大明神勧請安鎮座」と墨書された神璽をはじめ、三重の厨子に納められた、神体とされる諏訪大明神立像や、「諏訪大明神 願主斎藤幸右衛門献謹拝 明治二巳年十二月吉日」と墨書された金幣が奉安されている。
                                                                   
「埼玉の神社」より引用

       境内に祀られている稲荷社              本 殿

 社の祭事は7月26日の夏祭りの年1回である。この夏祭りは「行灯祭り」とも称し、氏子が分担して作った行灯を当日の朝、「行事」と称する当番が境内や当社に至る道筋に100基ほど飾る。午前中に神職の奉仕により祭典が執り行われ、終了後、樽神輿を子供が担ぎ、各耕地ごとに受け継ぎながら、二時間ほどかけて氏子区域を一巡し、当社に戻るという。その後、午後七時に行事が行灯をともすと、氏子が銘々で参拝する。
 夏休み中ということもあって、境内は家族連れの参拝者や、連れ立って遊びに来る子供たちで終日にぎわい、午前中から境内ではカラオケ大会や、境内に設営された綿飴や金魚すくい等の模擬店で盛り上がるという。
 地域の重要な祭事と同時に、近隣住民同士のコミュニテーに欠かせない仲間意識が芽生える伝統行事は、今後も大切にしてもらいたいとつくづく感じる次第だ。
        
             境内にひときわ目立ち聳え立つご神木



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」

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上早見千勝神社


        
              
・所在地 埼玉県久喜市上早見583
              
・ご祭神 大己貴命
              
・社 格 旧村社
              
・例祭等 春例大祭 412日 秋祭り 725
 前項上清久長宮神社と同様に、六万部愛宕神社から一旦南下し、埼玉県道12号川越栗橋線との交点を東行し、東北自動車道を過ぎた「六万部橋(東)」交差点を更に直進する。埼玉県道146号六万部久喜停車場線と県道は変更となるが、900m程道なりに進むと、進行方向左手に上早見千勝神社が見えてくる。
        
                 
上早見千勝神社正面
『日本歴史地名大系』による 「上早見村」の解説
 久喜本町の西に位置し、北は久本寺(きゆうほんじ)村(現鷲宮町)、南東は下早見村。南は新川用水を境に江面(えづら)村。騎西領に所属(風土記稿)。現市域に現存する最古の検地帳である元和七年(一六二一)の武州騎西領上早見村地詰帳(野房家文書)によると、畑三三町余が打出され、分付百姓の記載もみられる。検地奉行は私市(きさい)城の城主大久保氏の家臣。正保四年(一六四七)にも検地があり(風土記稿)、田園簿によれば田高一九九石余・畑高二八五石余、川越藩領。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では反別は田方二三町三反余・畑方三二町八反余、ほかに新開高三五石余、田方一町六反余・畑方二町三反余があった。
 
   参道途中に設置されている案内板     社号標柱には「武蔵国上早見」と刻まれている。 
       
             鳥居は参道を進み、境内との境に建つ。
      参道周辺には綺麗に玉砂利が敷かれ、手入れも行き届いているようだ。
 千勝社の創建時期等は不明であるが、かつて埼玉郡上早見村(明治合併以後は大字上早見)の村社であり、1950年(昭和25年)時点での境内地面積は293坪であった。1909年(明治42年)72日に行われた合祀では、浅間社(字本田)・十二社(字本田)・神明社(字本田)・天神社(字本田)・厳島神社(字本田)・稲荷社(字本田)が集められている。 
        
         鳥居の手間で、参道右側に祀られている境内社・稲荷神社
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 上早見村』
千勝社 觀喜院の持
觀喜院 新義眞言宗、久喜町光明寺の末、無量山と號す、本尊不動
聖天社 阿弥陀堂 〇金勝寺 同末、如意山と號す、本尊隨求明王

 千勝社 御由緒  久喜市上早見五八三
 □御縁起(歴史)

 上早見村は古くは下早見村と一村であり、上と下に分村した時期は伝えられていないが、元和七年(一六二一)の「武州騎西領上早見村地詰帳」(野房文書)が現存するので、分村はこれ以前と思われる。
 当社は、上早見村の字新田に鎮座する。『風土記稿』上早見村の項に「千勝社 歓喜院の持」と載り、歓喜院については「真義真言宗、久喜町光明寺の末、無量山と号す、本尊不動」とある。本寺である光明寺は白鳳十年(六八一)に行基が開基し、建長四年(一二五二)に法印賢信が中興開山したと伝わる古刹であり、境内には久喜町の鎮守である千勝社を祀っていた。恐らくは、新田開発が進められる中で、歓喜院の住職が本寺に祀る干勝社を当地に勧請したのであろう。その年代については定かではないが、久喜町の千勝神社が永正十四年(一五一七)に足利政氏により勧請されたと伝えられることから、これ以降のことと思われる。
 本殿には、明和七年(一七七〇)に神祇管領吉田家から「千勝大明神幣帛」を拝受した際の祝詞が保管されている。
 当社は、明治に入り歓喜院の管理下を離れ、明治六年に村社となった。現在、歓喜院の本堂内には本尊と並んで高さ二六センチメートルほどの木製虚空像菩薩立像が祀られている。これは、江期に当社に祀られていたが、明治初年の神仏分離により歓喜院に移されたものと伝えられる。
                                      案内板より引用
        
              綺麗に整えられた境内及び参道一帯
 


参考資料「新編武蔵府独港」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」等  
    

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上清久長宮神社

 新川用水は埼玉県北東部を流れる農業用水路であり、上流部では騎西領用水(きさいりょうようすい)と呼ばれる。埼玉県加須市外田ヶ谷の星川(見沼代用水)より分水し、加須市・久喜市・南埼玉郡宮代町を流れ、久喜市・南埼玉郡宮代町との境界付近で備前前堀川に合流する。久喜市内ではかつての南埼玉郡久喜町・江面村との町村界の一部を成していた。また、久喜市(六万部、上清久)・北葛飾郡鷲宮町(中妻・久本寺)の市町界を成していた。備前前堀川との合流地点には「万年堰」という堰がある。
 上清久長宮神社は上清久地域の北西部に鎮座し、すぐ北には新川用水が流れている。
        
             
・所在地 埼玉県久喜市上清久333
             
・ご祭神 息長足姫命
             
・社 格 旧上清久村鎮守・旧村社
             
・例祭等 元旦祭 春祭り 419日 天王様 715日に近い日曜日
                  
秋祭り 1019
 六万部愛宕神社から一旦南下し、埼玉県道12号川越栗橋線との交点を東行する。東北自動車道を過ぎた「六万部橋(東)」交差点を左折し、北上すること1㎞程で「上清久」交差点に達し、そこを左折する。埼玉県道151号久喜騎西線を暫く西行すること500m程で、上清久長宮神社の鳥居が進行方向右手に見えてくる。
 境内には本村集会所があり、駐車スペースも確保されている。
        
                 上清久長宮神社参道
 社は県道沿いに鎮座しているが、参道は南側にも伸びていて、古い鳥居の台座が道路脇に置かれていることからも、嘗てはこの場所に鳥居が置かれていたのではなかろうか。
 
『日本歴史地名大系 』「上清久村」の解説
 六万部村の北東に位置し、北は新川用水を境に中妻・久本寺(現鷲宮町)の二村と対する。東は下清久村、六万部村の南部に飛地がある。上・下の清久村一帯は「吾妻鏡」養和元年(一一八一)二月一八日条などにみえる大河戸次郎秀行(清久氏)の本貫地であった。建長年間(一二四九〜五六)と推定される年不詳の某陳状(中山法華経寺「双紙要文」裏文書)に武蔵国清久とみえる。天正八年(一五八〇)三月二一日、足利義氏は北条氏照に対し、清久郷など五郷から人夫を毎年五〇人・二〇日間出させることとし、今回は四月二日と三日に下総古河に参集させるよう命じている(「足利義氏印判状写」喜連川家文書案)。騎西領に所属(風土記稿)。
        
                 上清久長宮神社正面
              開放感のある明るい社という印象
 11世紀末の平安時代末期頃、久喜市域には清久(きよく)次郎秀行という武士がいた。この清久氏は鎌倉~南北朝時代に現在の久喜市上清久一帯で活躍した武士団である。藤原秀郷の子孫大河戸行方(重行)の二男秀行が、当地「清久」に居住して清久氏を名乗り、現在の久喜市清久に居住したと伝わっている。秀行は源頼朝に仕えた御家人で『吾妻鏡』等の書物や書簡等にもその名が見られる。
『新編武蔵風土記稿 上清久村』
「古へ當所に清久次郎といへる人住せし故起りし名にて、【太平記】清久山城守など見えたるも、當所に住せし人ならんと云へり、」
『秋田藩太田系図』
「太田四郎行光―大河戸下総権守行方―清久二郎秀行(兄太郎広行)―小二郎左衛門尉秀綱(弟鬼窪五郎行盛)―次郎胤行―弥二郎秀胤―又次郎左衛門尉祐行―小次郎左衛門尉秀言。胤行の弟下清久四郎師綱―四郎二郎行氏(弟寺崎四郎三郎行茂)―小次郎行綱―孫次郎国行」と。尊卑分脈に「大河戸行方―清久三郎秀行―三郎兵衛尉秀綱―弥二郎秀胤」
『清久村郷土誌』
清久次郎・根拠を此処に定むるや、その臣瀬田五郎をして加吾宿(水深村字籠宿)の地を、藤本太郎をして藤本(上清久村字藤本)の地を、小河原某をして赤旗(下清久村鎮守赤幡社)の地を開かしむ。元弘三年北条氏滅亡するや清久氏また滅びて、瀬田・藤本・小河原某等皆農に帰す。
吾妻鑑卷二十五』
・承久三年六月十四日宇治合戦に敵を討つ人々に清久左衛門尉。同年八月二日、清久五郎行盛・子息太郎は下向す
吾妻鑑卷四十』
建長二年三月一日、清久左衛門が跡
吾妻鑑卷四十一』
建長三年正月二十日、北条時頼の随兵に清久弥二郎秀胤
吾妻鑑卷四十三』
建長五年八月二十九日、下総国下河辺庄の堤防修築の奉行に清久弥次郎保行
太平記卷十三』
中先代蜂起の時、北条時行に従ふ兵に清久山城守あり
太平記卷二十四』
康永四年八月二十九日、足利尊氏天龍寺供養の従兵に清久左衛門次郎
        
                    拝 殿
 長宮神社  久喜市上清久三三三(上清久字長宮)
 清久の地名は『風土記稿』によれば当地に清久次郎と名乗る人物が居住していたことに由来するという。建長年間(一二四九〜五六)と推定される某陳情(中山法華経寺「双紙要分」裏文書)に武蔵国清久とあるのが文献上での初見であるが、上下に分村した時期は不明である。当社は上清久村の西端に鏡座し、すぐ北には新川用水が流れる。
 当社の創建については伝えられていないが、当社が鎮座する耕地(村組)を本村と呼ぶことから、村開発の早い時期から村の鎮守として祀られていたと考えられる。
『風土記稿』上清久村の項に「長宮明神社 村の鎮守にて、祭神は大己貴命なり、鷲宮・久伊豆・長官の三社を相殿とす、光明院の持、末社 稲荷三宇 荒神 疱瘡神」と記され、別当を務めた光明院は、「同宗(新義真言宗)にて、下総国前林村東光村の末、瑠璃山地蔵寺と号す、本尊地蔵を置く」と載る。
 三間社春日造りの本殿内には、元文二年(一七三七)に神祇官領吉田家から「正一位長官大明神」の神位・神号を拝受した際の幣帛が奉安されている。元文四年(一七三九)の稲荷大明神の石祠や宝暦堅六年(一七五六)の石灯篭等が境内に建つことから、この時期に村の経済が発展し、それが当社の信仰に結びついていった様子がうかがえる。
 明治に入り当社は光明院の管理を離れ明治三年に村社となった。
                                   「埼玉の神社」より引用
 当社は江戸期には大己貴命を祀っていたが、明治に入ってからは『郡村誌』に「祭神未詳」と載り、『明細帳』には」息長足姫命(神功皇后)を祀ると見え、現在に至っている。こうした変遷の理由は明らかではないが、氏子らは一貫して当社を「長宮様」と呼んで厚く信仰してきたという。
        
  鳥居の脇には常夜灯の石が二基あり、左から「文化九申二月 初午」「文化七年牛九月」
       と刻まれていて、その右側の石祠は稲荷大明神と刻印されている。
       
         参道を挟んで
常夜灯や石祠が並ぶその反対側には、左から
 「力石」「社殿改築記念碑」「手水鉢」「奉造〇〇燈篭」「稲荷大明神」が並列している。

 毎年7月15日に近い日曜日に行われる上清久の「天王様」祭りについては、八坂神社に安置してある御幣台の裏面に元文3年(1738)戊午歳五月吉祥日と墨書きされているのが発見されていることから、この時期より祭りが行われていたと推測されていて、明治以前は、毎年旧暦67日から15日まで行われていたが、その後、現在の日に行われている。
 元は旧騎西町の私市(騎西)城内に祀られていたが、城攻めに遭った際に新川に流され、地内の千勝橋に掛かっていたのを村人が見つけて、橋の袂に祀ったのが天王社の始まりであるという。
 三耕地が一年交代で当番を務め、三名で天王組と称する人たちが祭りの準備を行う。
 祭り当日は、八坂神社を出た神輿が、若者たちの手で上清久地内の各耕地を威勢よく曳き廻す。また、山車3台が曳き廻されるが、これらは地区内の邪気をはらうということだ。昼には、人形を乗せた山車が運行するが、夜になると提燈五百数十個をつけた提燈山車が「提灯祭り」と称して地内の主要道路を曳き回し、午後十時には解散となるという。
        
                 社殿から鳥居の先の参道方向を撮影



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「埼玉苗字辞典」
    「
Wikipedia」等

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