古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

北中曾根久伊豆神社

 北中曾根地域は、川妻(かわづま、上ともいう)・前(中前ともいう)・裏(中裏ともいう)・下の四集落で構成されていて、これら四つの集落のうち、川妻は愛宕社・裏は金山社・前では諏訪社・下では久伊豆社を祀っている。明治十二年までは中曾根村と称し、『郡村誌』によれば戸数一三五、人口七〇六というかなり大きな村であった。そのためか、全体で一つの神社を鎮守として祀るのではなく、村内にある村組が各々神社を持ち、それぞれの鎮守として祀ってきた。
『風土記稿』中曾根村の項に「久伊豆社 村の鎮守なり、〇諏訪社〇愛宕社〇金山社 四社共に観音院持」とあるのは、そうした状況が江戸時代から続いていることを示すものである。ここでは下の久伊豆社が村の鎮守となっており、明治の社格制定に際しても同社が村社となったが、それは久伊豆社の規模が四社の中では最も大きい神社であったためであり、信仰の上では四社共に同格といえる。
        
            
・所在地 埼玉県久喜市北中曾根1797
            
・ご祭神 大己貴命 猿田彦命
            
・社 格 旧北中曾根村鎮守 旧村社
            
・例祭等 初詣 11日 追花 319日 二百十日 91
                 二百二十日 911日 お日待 1019日 大祓 1225
 北中曾根金山神社から埼玉県道12号川越栗橋線に戻り、東行すること約500m先の丁字路を右折、更に南下した突き当たりを左折するとすぐ左手に北中曾根久伊豆神社が見えてくる。
 社周辺には適当な駐車スペースもないため、東側に隣接する民家の更に先に「北中曽根下集会所」があるので、そこの駐車スペースの一角をお借りしてから参拝を開始した。
        
                北中曾根久伊豆神社正面
『日本歴史地名大系』「中曾根村」の解説
 東は備前前堀(びぜんまえぼり)川を境に六万部(ろくまんぶ)村・所久喜(ところぐき)村小河原井(こがわらい)、南は備前堀川を境に台・三箇(現菖蒲町)の二村と対する。騎西領に所属。正保四年(一六四七)川越藩松平氏の検地があり(風土記稿)、田園簿によると田高二四二石余・畑高一八二石余、同藩領。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高八四〇石余、反別は田方四三町余・畑方五五町一反余、ほかに新開高三三六石余、田方一七町三反余・畑方二二町余があった。元禄郷帳では高一千一九五石余、幕府領(国立史料館本元禄郷帳)。明和七年(一七七〇)と推定されるが川越藩領となり、文政四年(一八二一)上知(松平藩日記)。
 
    鳥居の左側手前にある力石2ケ     力石の奥に祀られている道祖神らしき祠一基
        
             力石や祠と共に設置されている当社の案内板
 当社の創建の経緯は明らかではないが、北中曾根地域において「下」の人々によって祀られてきた社であり、『風土記稿』には観音院持ちの四社のうちの一社としてその名前が見えている。江戸時代、当社の別当である観音院は、天正17年(1579)入寂の法印照宥によって開かれた真言宗の寺院で、当社の300m程西方にあり、『風土記稿』では「本尊地蔵菩薩」となっているが、現在の本尊は「聖観世音菩薩」である
『新編武藏風土記稿 埼玉郡中曾根村』
 觀音院 新義眞言宗、正能村龍花院末、救世山と號す、開山照宥天正十七年十一月十五日寂す、本尊地藏を安ず、弘法大師の作、長三尺餘立像なり、 觀音堂 正觀音を安ず、立像にて長八寸七分、聖德太子の作なり、
 その後、神仏分離を経て明治3年に、近代社格制度に基づく村社となり、大正10年の神社合祀により、字森下の無格社・道祖神社を合祀したことにより、猿田彦命を祭神に加えた。更に昭和58年には字薬師前の八幡神社を合祀したという
        
                 すっきりとした境内
 
    参道左側に祀られている境内社       八幡神社の右側並び奥に祀られている
     左側から不明・八幡神社             境内社・八坂神社
        
                    拝 殿
 久伊豆神社  御由緒 久喜市北中曾根一七九七
 □御縁起(歴史)
北中曾根は、明治十二年までは単に中曾根村と称していた。当社はその鎮守として祀られてきた神社であり、『風土記稿』中曾根村の項にも「久伊豆社 村の鎮守なり」と記されている。往時の別当は観音院であった。観音院は当社の三〇〇メートルほど東に位置する真言宗の寺院であり、正能村(現騎西町)竜花院末で、開山の照宥が天正十七年(一五八九)に入寂したと伝えられる。
 当社の創建の経緯については明らかではないが、三間社の本殿には当社の歴史を伝える幾つもの貴重な資料が奉安されている。本殿の中央には全高三三センチメートルの木造の久伊豆明神像及び一対の矢大臣、宝暦九年(一七五九)銘の金幣、神鏡、延享二年に神祇管領吉田家から拝受した宗源祝詞・幣帛などがある。また、向かって左には天保五年(一八三四)の社殿再建の棟札がある。ただし、向かって右は空殿である。当社の主祭神は古くから大己尊命一柱だけで、三間社の形式となっている理由は定かではない。
 別当の観音院は、天保五年に社殿を再建した時には無住になっていたらしく、棟札には「別当観音院無住付江面村善徳寺住法印来賢記」とある。神仏分離を経て、当社は明治三年に村社となり、大正十年に字森下の無格社道祖神社を合祀したことによって、猿田彦命を祭神に加えた。更に、昭和五十八年には字薬師前の八幡神社を合祀した。
                                    境内案内板より引用

        
                  社殿からの眺め


【北中曾根諏訪神社】
 北中曾根久伊豆神社から300m程西行すると、同地域の諏訪神社が鎮座している。地図を確認すると、観音院のすぐ南側に社はある。
        
             ・所在地 埼玉県久喜市北中曾根1906
             ・ご祭神 建御名方神
             ・社 格 旧中曾根村前組鎮守
             ・例祭等 新年のお神酒上げ 11日 大祓 1220
 北中曾根地域の中の一集落である「前」の地内は、更に矢足(やだれ)・小林(おばやし)・立山・新屋・森下第一の五つの耕地に分けられ、当社の氏子の数は五五戸である。
 近年の農地改革が実施されるまでは、社の周囲の約一千坪は社の所有地で、そのうち、社の後方は一面森林であったが、昭和10年頃に畑に変わったため、景観は大きく変わった。現在の社殿は、昭和59年に氏子一同の協力により建て替えられたもので、地域の集会所の役目も果たしている。
        
                          
北中曾根諏訪神社正面
 当社がどのような経緯でこの地に祀られるようになったかは不明であるが、氏子の間では、信濃国一之宮である諏訪大社の下社が当社の本社であるとの伝えがあり、昭和59年の社殿再建の際には、これを記念して諏訪大社の下社に参詣を行っている。
氏子の間では、当社の祭りと並んで、すぐ北側にある観音院の灯籠が大きな年中行事とされていた。89日に行われる観音院のこの行事は、前集落と裏集落が合同で行っている行事とされ、双方の集落から登板で5名ずつ出てその世話をするようである。

 また、北中曾根地域では疫病除けの行事として510日には「お獅子様」があり、騎西の玉敷神社から借りて来たお獅子様が川妻・裏・前・下の各集落順に回っていくが、下は近年行事を中止した。前では、今もお獅子様が全戸を回っていて、そのうちの約半数の家では、昔ながらにお獅子様が座敷に暴れ込み、一家の悪疫を祓うという。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」Wikipedia
    「境内案内板」等
 

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北中曽根金山神社


        
                          ・所在地 埼玉県久喜市北中曽根1325
                          ・ご祭神 金山彦命
                          ・社 格 旧北中曽根村裏組鎮守
                          ・
例祭等 春祭り 412日(近年では12日近くの日曜日) 
                                    秋祭り(お日待) 
1019
 久喜市旧菖蒲町にあるショッピングモールである「モラージュ菖蒲」北側に沿って通じる国道122号騎西勝負バイパスの「菖蒲北」交差点を左折し北行、埼玉県道12号川越栗橋線に合流し、備前堀川に架かる「笊田橋」を越えて右側にカーブし終えた先の路地を左折、そのまま道なりに進むと、北中曾根金山神社が見えてくる。
 境内も含めて小さな社。道幅も狭く、隣接する「北耕地自治会集会所」にも駐車スペースはなく、路駐をしてから急ぎ参拝を行う。
        
                 北中曾根金山神社正面
      社は規模こそ小さいものの、手入れも行き届いて、綺麗に纏まっている。
                          
               境内に建つ「神社移轉記念之碑」
                  神社移轉記念之碑
                 當金山神社ハ元南埼玉郡北中曽根村字戸崎現今ノ北埼玉郡
                 水深村大字割目字戸崎権現宮耕地ニ鎮座マシマセシガ明治
                        廿二年七月廿四日當地ニ移轉シタルモノナリ
                 〇神〇〇〇地タリシ戸崎耕地拾町四段七畝廿二歩〇當地中
                 曽根〇飛地ナリ〇ガ明治廿二年地〇制度〇施ニ伴〇〇〇〇
                 〇〇〇〇飛地組換ノ處分ニ依リ大字割目ニ編入神〇〇〇〇
                 〇〇〇〇〇〇〇〇〇割目〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇北相ノ
                 道西浦耕地氏子ハ從來金山神社ヲ以テ耕地鎮守氏神トナシ
                 〇仰シ來リシ関係上如何ニモシテ該神社ヲ當耕地ニ移〇奉
                 リ耕地氏子守護神トシテ尊崇致シ度協議ノ結果遂ニ信徒總
                 代土屋喜藏岩瀬歌之助岩瀬佐兵エ小林庄右エ門大熊傳五右
                 エ門増田彌五郎土屋八五郎出願人トナリ地〇長官ノ許可ヲ
                 得タリ偶々土屋政三郎ノ敷地寄附アリ現地ニ移轉セラルル
                         ニ至ル茲ニ概歴ヲ誌シ記念トス(以下略)
「神社移轉記念之碑」に載る出願人の一人に「岩瀬氏」がいる。この「岩瀬氏」は嘗て別当である観音院の住職を一時期務めていた。この岩瀬家は屋号を「たたみや」といい、先祖が小田原城落城の際にこの地に落ち延び、飛び地(現在の加須市。当社の旧社地付近)に住み着いたが、ここに至る前に一旦騎西の一向宗の寺に寄り、その寺の紹介で観音院の僧になったという。
        
                                  金山神社境内
        
                           拝 殿
 金山神社  久喜市北中曾根一三二五(北中曾根字森下)
 北中曾根は、明治十二年までは中曾根村と称し、『郡村誌』によれば戸数一三五、人口七〇六というかなり大きな村であった。そのためか、全体で一つの神社を鎮守として祀るのではなく、村内にある村組が各々神社を持ち、それぞれの鎮守として祀ってきた。村組は、川妻(かわづま、上ともいう)・前(中前ともいう)・裏(中裏ともいう)・下の四つであり、当社はその中の裏組で祀っていつ神社である。ちなみに、川妻は愛宕社、前では諏訪社、下では久伊豆社を祀っている。
『風土記稿』中曾根村の項に「久伊豆社 村の鎮守なり、〇諏訪社〇愛宕社〇金山社 四社共に観音院持」とあるのは、そうした状況が江戸時代から続いていることを示すものである。ここでは下の久伊豆社が村の鎮守となっており、明治の社格制定に際しても同社が村社となったが、それは久伊豆社の規模が四社の中では最も大きい神社であったためで、信仰の上では四社共に同格といえる。なお、観音院は久伊豆神社の近くにある真言宗の寺院である。
 当社境内は、元来は字戸崎の権現宮耕地にあったが、明治二十二年七月二十四日に字森下に移転した。この移転は行政区域の変更に伴い、境内地と氏子二戸が水深村割目(現加須市)に編入されたため、これを遺憾とした当時の信徒総代七名が地方長官に出願して行ったもので、現在の社地は氏子の土屋政三郎が寄附したものである。
「埼玉の神社」より引用



【北中曾根愛宕山神社】
        
              ・所在地 埼玉県北中曾根1024
              ・ご祭神 火迦具土神(推定)
              ・社 格 旧北中曾根村川妻鎮守
              ・例祭等 不明
 北中曾根金山神社から一旦県道12号線に戻った後左折し、左カーブし終えた丁字路を右折する。その後、500m程道なりに進むと、道路脇に北中曾根愛宕山神社が見えてくる。
 道路端に旗立柱と朱色の両部鳥居(?)が建ち、その後に円墳なのか塚の様な小さな丘があり、頂上部に社殿が建っている。
        
                     小さな丘上部に拝殿は鎮座する
『新編武蔵風土記稿』中曾根村の項に「久伊豆神社 村の鎮守なり、諏訪社・愛宕社・金山社 4社とも観音院持」とあり、近世以来北中曾根では、鎮守として久伊豆神社を祀る一方で、村組ごとにも神社を祀ってきた。北中曾根地域は、川妻(かわづま、上ともいう)・前(中前ともいう)・裏(中裏ともいう)・下の四集落で構成されていて、これら四つの集落のうち、川妻は愛宕社・裏は金山社・前では諏訪社・下では久伊豆社を祀っている。
 当社もまた、そうした村組で祀る神社の一つであり、創建以来、川妻地区の守り神としてその地域の住民の方々から信仰されている。
 
  石段の手前で右側にある青面金剛二基     丘上に聳え立つイチョウの大木
                                    久喜市の保存樹林に指定



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「境内懸念碑文」等
 

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菖蒲町小林神社

 久喜市菖蒲町の元荒川の左岸には「小林」という地域名がある。全国的にも有名なこの名称であるのだが、この「小林」という名称を調べてみると、苗字に関して、全国で苗字ランキング第9位の大姓で、中部日本を代表する苗字である。特に、関東・甲信越地方に多く、そのほとんどの県でベスト5に入っている(埼玉県でも4位)との事。なかでも長野県では第1位の苗字、長野県発祥の小林氏も確認されていて、江戸時代の俳人小林一茶も長野県の北国街道柏原宿(現信濃町)の農家の生まれである。
 その由来として、『地形』や『地名』由来からでは、「小林」という名称は、「小さな林」や「林の近くの土地」に由来すると考えられていて、日本は森林が多い国であり、古くから「林」に関連する地名が各地に存在していた。そのため、全国のさまざまな地域で独立して「小林」という地名や苗字が生まれたという。
 因みに、当地域名では「小林」と書いて「オバヤシ」と読むのだが、この「オバヤシ」の「小」=「オ」は「御」のことともいわれることから、「小林」とは「御林」つまり、神聖な林という意味で、森や林を切り開いて土地を開拓するとき、土地の神様の住処(すみか)として「鎮守の森」を残し、そこには神社が建てられた。小林氏には神官が多いといわれているが、それは小林という地名が神様の森に由来していることと関連性があるのかもしれない。
 祭りのお囃し(おはやし)に由来する「小囃子(こはやし)」にも「小林」と音が共通し、何かしら語源と関連あるそうだ。土地や家が栄えることをあらわす古代語の「栄し(はやし)」から来るものもあり、「小林」に関する由来にはとてつもなく深い日本独自のおくゆかしさを感じたものである。
        
             
・所在地 埼玉県久喜市菖蒲町小林2482
             
・ご祭神 菊理媛命 伊弉諾命 伊弉冉命
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 慰霊祭 211日 春例祭 48日 灯籠 78
                  
秋季例祭 108日 新穀感謝祭 1123日 他
 上栢間神明神社から埼玉県道312号下石戸上菖蒲線を北西方向に進み、久喜市立小林小学校のある「小林小学校前」交差点を左折する。同県道310号笠原菖蒲線に合流し、350m程進むと、進行方向右側に菖蒲町小林神社の正面入口が見えてくる。
 県道周辺には専用駐車スペースはないので、社の正面入り口の東側手前の路地を右折し、その後左側に回り込むと、その正面に社の一の鳥居が見える。当初、県道沿いから見る正面入り口は民家に挟まれ、その奥も石壁によって見えないため、あまり期待していなかったのだが、一の鳥居から北側にかけて続く長い参道と深い社叢林に囲まれた荘厳な雰囲気が漂う境内が広がっていて、まさに地域の方々に大切に祀られている鎮守様という印象がピッタリなお社であった
        
                 
菖蒲町小林神社正面
『日本歴史地名大系』「小林(おばやし)村」の解説
見沼代用水の右岸、栢間村の北に位置する。菖蒲領のうち(風土記稿)。西側に小林沼がある。慶長一二年(一六〇七)に徳川家康の鷹狩があった折、鴻巣宿から笠原村(現鴻巣市)を経て騎西町場(現騎西町)への道筋を当村など九ヵ村の百姓が開いたという(風土記稿)。同一七年・寛永八年(一六三一)検地があり(同書)、田園簿によると田高七九五石余・畑高五八三石余、旗本内藤・天野の相給。ほかに正眼寺領一二石・妙福寺領二一石余がある。
              
                                神橋の右隣に建つ社号標柱
                            その手前には伊勢参宮記念碑がある。
        
        入口を越えると、まず神橋があり、その先に一の鳥居が見える。

 久喜市菖蒲町小林地域は「おばやし」と称しているが、当地には「こばやし」苗字が数十戸住んでいて、周辺地域にもこの苗字は多い。
『新編武蔵風土記稿 小林村』には「小田原北條家分國の頃は、小林周防守が領せしよしを傳へ、且村内妙福寺の鬼薄にも、小林周防守法名蓮心居士、小林圖書頭法名蓮宗居士とのせたるをもて見れば、是等當所を領し、則ちこヽに居住し、在名を稱せしなるべし、今村民に小林を稱するもの五軒あり共に周防守が家より分れしものなりと云、又成田分限帳に百貫文小林監物、拾貫文小林圖書などのせたり、是等も周防守が一族にて、當所に住せしなるべし」と「小林周防守」が領有・居住し、、その子孫がこの地域に今でも存在していることが記載されている。
          
                       一の鳥居の先で、参道左側にある青面金剛像 
 嘗てその地域内には京手・下野寺・上手・木間ヶ根・本村・中上・大上・北東・小下・野々宮といった11の組がある。村の開発の時期はハッキリと分かっていないが、地内にある妙福寺は、応安元年(1368)に真言宗から日蓮宗に改宗したと伝えることから、当時既にこの地には相応の村が開かれていたものと推測される
 氏子の各組には、各々組で祀る神社があったが、それが大正二年に統合されて当社が誕生した。しかし、統合された後も、実際には旧地に社殿が残されたり、集会所に改築されたりして、各組の人々の拠り所となっていたようだ
 
 一の鳥居の先に朱を基調とした二の鳥居あり   境内には久喜市保存樹木であるクスの木
                          が聳え立つ。平成2年度指定を受けた。

     朱を基調とした二の鳥居          二の鳥居のすぐ先にある手水舎
 手水舎は古いが、柱に施された彫刻、木鼻の龍等の彫刻が素晴らしい。日本人の職人気質である匠の技が、このような場所にもさりげなく垣間見られる。
       
                    拝 殿
 小林神社(おばやしじんじゃ)  菖蒲町小林二四八二(小林村字京手)
 鎮座地の小林は、江戸時代には菖蒲領のうちで、慶長十二年(一六〇七)に徳川家康の鷹狩りがあった際、鴻巣宿から笠原村を経由して騎西に至る道筋を開いた九ヶ村のうちの一つであった。また、その地内にある妙福寺は、小林周防守忠宜を開基とし、三代将軍徳川家光から寺領二一石の朱印を受けた日蓮宗の大刹である。
『風土記稿』小林村の項によれば、村の鎮守は妙福寺の三十番神堂で、ほかに天神社・客人明神社(明治以降は白山社と改称)・三上明神社・稲荷社・平野明神社・八幡社・愛宕社・雷電社があった。これらの神社のうち、明治維新後の社格制度に当たり、三上明神社が三上神社と改称し、村社になった。一方、『風土記稿』で村の鎮守とされていた三十番神堂は、堂宇として扱われ、無格社にもなっていない。
 小林では、政府の合祀政策に従い、一旦は三上神社に村内の無格社を合祀したが、諸般の事情から大正二年二月二十日に改めて無格社白山社に字本村の村社三上神社、字森下の八幡社、字北東の稲荷社、字宮後の平野社、字小下後の水神社、字木間ヶ根の天神社、字中上の本宮社、字北東の雷電社・第六天社・稲荷社・妙見社、字野々宮後の愛宕社、字野々宮前の八雲社を各々の境内社と共に合祀し、社号を小林神社と改め、村社とした。このような経緯により当社は成立し、大正四年四月には境内を拡張、整備し、本殿及び拝殿が改築された。
*平成の大合併の為、現在の住所は違うが、敢えて文面は変えずに記載している。
                                  「埼玉の神社」より引用
『新編武蔵風土記稿 小林村』
「客人明神社 元白山を勧請せしが いつの頃よりか 客人神に祀りかえしと云 是も妙福寺持なり」

        
          拝殿の右隣には廊下によって繋がれている社務所がある。
             旧村社レベルでは初めて見る配置である。
        
                    本 殿
 小林地域で古くからある伝統行事が春秋の例祭と灯籠で、春季例祭には氏子による獅子舞である「水ささら」が奉納されている。春季例祭の48日という祭日については諸説があるが、江戸時代からこの日には妙福寺の三十番神堂の前でササラの奉納があったというところから、三十番神堂の祭日を継承したものと思われる。
 春季例祭に奉納されるササラ獅子舞の起源は、口碑に「安政六年(1859)の大水害の際に、上流から三頭の獅子頭を納めた箱が流れてきて、これを妙福寺に奉納しておいたところ、いつのころか村人が摺(す)り方(舞い方)を覚え、三十番神堂の前で行うようになった」といい、「水ささら」の「水」とは、言い伝えにある獅子頭が流れ着く原因となった洪水に由来するものと考えられているという。
        
                              社殿から眺める境内の風景
 かつて小林神社の獅子舞「水ささら」は、戦前まで法眼(ほうげん)・中獅子(なかじし)・女獅子(めじし)の3頭獅子による庭場舞(にわばまい)、付属芸能の居合抜き・棒術、村内を摺り歩く道中舞(どうちゅうまい)が行われていたという。その後、昭和30年代以降に一時期途絶えたが、平成元年に復興し、現在は小学生を含む幾多の有志が稽古に励んでいるという。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」等

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菖蒲町三箇神社

 久喜市菖蒲町三箇地域は星川の左岸に位置し、古くから稲作を中心とした農業地帯である。今でも旧国道122号線や埼玉県道5号さいたま菖蒲線沿いの周辺域等を除けば広大な田畑風景が広がる地域である。因みに三箇地域の北側境で122号線沿いには大型ショッピングモールである「モラージュ菖蒲」がある。
 地域名「三箇」は「さんが」と読み、『新編武蔵風土記稿 三ヶ村』の項に「此地明應の頃辻・寺中・大藏といへる三ヶ所を合て一村となせし故の村名なりと云、今も是等の名殘村内小名にあり」とあり、辻・寺中・大蔵の三か所を合わせて一村にしたことによるという。
        
             
・所在地 埼玉県久喜市菖蒲町三箇857
             
・ご祭神 木花咲耶姫命
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 春祭り 415日 初山祭 71日 夏祭り 77
                  
秋祭り 1019
 菖蒲神社から埼玉県道5号さいたま菖蒲線を450m程南下し、細い路地を左折すると、すぐ進行方向左手に菖蒲町三箇神社が見えてくる。街中の住宅街に鎮座する社。
        
                 菖蒲町三箇神社正面
『日本歴史地名大系』 「三箇村」の解説
 星川の左岸、新堀村の南東に位置する。菖蒲領のうち(風土記稿)。三ヶ村とも記した。地名は明応年間(一四九二―一五〇一)に辻・寺中(じちゆう)・大蔵の三ヵ所を合せて一村としたことによるという(風土記稿)。昭和三九年(一九六四)に島根県大田市鶴岡南八幡宮境内の鉄塔内から発見された大永二年(一五二二)七月二〇日銘の経筒筒身に「武州崎西郡大蔵住本願春海」などと陰刻されていた。大蔵は野与党大蔵氏の本貫地である。
 大蔵氏は野与基永の曾孫行高を祖とし(「野与党系図」諸家系図纂)、曾孫二郎兵衛尉時季の代から「吾妻鏡」などで一族の動向が知られる。宝治元年(一二四七)六月の宝治合戦で敗れた三浦氏与党探索のため、武蔵国に派遣された大倉(大蔵)次郎兵衛は時季にあたる(「吾妻鏡」同年六月六日条)。

『野与党(のよとう)』は、武蔵七党の1つで、平安時代後期から鎌倉時代にかけて、武蔵国埼玉郡(現・加須市付近)の野与庄を中心に勢力のあった武士団であり、足立郡・比企郡などにも同族がいた。桓武平氏の平忠常の子・胤宗の子の基宗を祖とするとされていて、一族は、23家に分かれている。
 その中で野与党大蔵氏は埼玉郡大蔵村(旧菖蒲町)より起る野与党系列の武士団であり、野与基永の曾孫行高を祖としている。
武蔵七党系図
「忠恒―恒将―千葉小大夫常永―周防八郎元宗―野与庄司近永―恒永(奥州之役戦死)、弟大蔵二郎恒宗。〇恒将の弟胤宗―元宗―野与六郎基永―九郎大夫経長―新大夫行長―大蔵二郎行高―太郎経重―小太郎経門―左衛門太郎盛門。太郎経重の弟経清―中務丞経季―二郎兵衛尉時季―二郎左衛門尉頼季(文永九年九月二日斬於鎌倉)、弟四郎左衛門尉頼行、其の弟五郎宗季。二郎兵衛尉時季の弟九郎兵衛尉季綱―二郎季光―弥二郎宗光」
 またこの一族の名は、『吾妻鑑』にも登場する。
 吾妻鑑卷三十八「宝治元年六月六日、大倉次郎兵衛尉は、武蔵国に発向す。三浦残党の隠居するところを尋ね求めんがためなり」
 吾妻鑑卷五十「文応二年正月一日、年始の儀に大倉二郎左衛門尉」
          
                       正面鳥居のすぐ左側に祀られている弁財天   
                        冬時期なので弁天池の水は抜かれていた。
       
           鳥居の先で参道左側に並んで祀られている石祠等
         左から(?)・稲荷大明神・三峯神社・三峰大権現・秋葉社
       
                 綺麗に整えられた境内 
 菖蒲町三箇神社の創建年代は不明ながら、当初は「富士浅間社」と称しており、富士講が盛んになり始めたのが江戸時代中期以降であることから、その頃に創建されたものと推測されている。
 1872年(明治5年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられ、1913年(大正2年)の神社合祀により、周辺の25社が合祀された。その際に、「三箇神社」と改称したという。
        
                    拝 殿
 三箇神社(せんげんさま)  菖蒲町三箇八五七(三箇字辻)
 三箇村は三ヶ村とも記し、地名の起こりは『風土記稿』によれば、明応年間(一四九二〜一五〇一)に辻・寺中・大蔵の三か所を合わせて一村にしたことによるという。
 当社は元来富士浅間社と称し、三箇村の辻に鎮座した。『風土記稿』三ヶ村の項に「富士浅間社 東光院持」と載り、別当を務めた東光院は「新義真言宗、戸ヶ崎村吉祥院末、医王山と号す、開山真慶元禄九年(一六九六)二月十五日寂せり、本尊不動を安ず」とある。
 当社の創建は伝えられていない。しかし、江戸後期に富士講の活動が盛んとなり県内に富士山に対する信仰が広まったこと、別当寺の開山が元禄年間からあまりさかのぼらない時期であること、また、村の鎮守は当山ではなく金山明神社であることなどを考え合わせると、当社の創建は江戸中期以降であると推測される。
 明治初年の神仏分離により当社は東光院の管理下を離れ明治五年に村社となり、東光院は同九年に廃寺となった。大正二年には金山明神社をはじめとして地内に祀られていた二五社を合祀して、これを機に社名を三箇神社と改めた。
*平成の大合併の為、現在の住所は違うが、敢えて文面は変えずに記載している。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
     拝殿上部に掲げてある扁額          境内にある社務所であろうか。
        
                社殿から見る境内の様子
 
拝殿に通じる石段の右側に祀られている日枝神社     日枝神社の右隣にある神興庫

 年間の行事の中で最もにぎやかなのは、末社日枝神社の祭礼である夏祭りで、「天王様」と呼ばれている。因みに日枝神社には「山王様」と呼ばれている猿の石像が納められている。
 祭礼当日には朝から神職が祭典を執行し、終えると神輿渡御(とぎょ)が行われる。総代
2名が先導し、神輿と太鼓を載せた耕運機に当番者が同乗して太鼓を叩きながら続き、上・中・下・裏方の四地区を一周する。なお、祭りを終えた一週間後には「天王講」と称して宮司・総代・当番が社務所で慰労会を兼ねて祝宴を催す。
 かつては、地元の青年団によって神輿が担がれ、地区内を練り歩いていた。道の途中で小字ごとに休憩所を設けて酒や肴を用意して待ち受けたので、担ぎ手は次第に酔いが回り、勢い余って道から外れて民家の庭先や田畑に担ぎ込んだもので、近隣では「暴れ天王様」の名で有名であったらしい。また、村内を回り終えると、当社の神橋の手前で用水に神輿を投げ込んで洗い清めてから神輿庫に納めた。しかし、昭和40年代に青年団が解散し、担ぎ手が不足してしまったことから、現在では現行の形となったという。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」




           


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菖蒲町台久伊豆神社


        
             
・所在地 埼玉県久喜市菖蒲町台8551
             
・ご祭神 大己貴命
             
・社 格 旧騎西領台村鎮守・旧村社
             
・例祭等 春祭礼 415日 天王様 77日-14日 秋祭礼 1018
 久喜市菖蒲町台地域は、北は備前堀川が境となり、南は星川の左岸地域の間に位置する農業地域である。埼玉県白岡市下大崎地域にある首都圏中央連絡自動車道(圏央道)のインターチェンジのすぐ北側で、また久喜菖蒲公園西側近郊に位置するのだが、筆者も嘗て仕事の関係で、この公園には何度か利用し、楽しませて頂いた思い出のある場所でもある。
 途中までの経路は大崎神社を参照。大崎神社から北西方向に進路をとり、星川を越えた「三崎の森公園」を右側に見ながら道なりに進み、旧国道122号線との交点となる「三箇小学校入口」交差点を直進、すぐ先の丁字路を右折するとすぐ正面に久喜市立三箇小学校が見え、その東側隣に台久伊豆神社が鎮座している。
 加須市騎西の玉敷神社を総本社とし、元荒川流域を中心に分布する久伊豆神社の一社。平安時代末期の武士団である武蔵七党の野与党・私市党の勢力範囲とほぼ一致しているともいう。
        
                  台久伊豆神社正面
『日本歴史地名大系』 「台村」の解説
 星川左岸、三箇(さんが)村の南側に位置する。東側を備前堀が流下する。東側の河原井(かわらい)沼は台沼ともよばれ、享保一三年(一七二八)に開発されて七ヵ村持添新田と武助(ぶすけ)新田となった(見沼代用水沿革史)。騎西領のうち(風土記稿)。慶長六年(一六〇一)陸奥仙台伊達氏の鷹場に指定されている(貞享元年「久喜鷹場村数覚」伊達家文書)。
 
 鳥居の社号額に「正一位久伊豆大明神」と表示  参道左側に「平和記念碑」が設置されている。
 
 平和記念碑の並びに祀られている石祠等灯       石祠等の並びに祀られている合祀社
  左から辨財天・不動尊・出世石尊宮等   左から神明神社・天神社・九ヶ所神社・熊野神社
        
                 境内に設置されている「台久伊豆神社 絵馬十一面」の案内板
 久喜市指定有形民俗文化財 台久伊豆神社 絵馬十一面
 指定年月日  平成四年三月二十三日
 所有者 台久伊豆神社
 台久伊豆神社は、江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』によると「村の鎮守なり、 久伊寺持ち」とあります。同じく久伊寺は「新義真言宗、戸ヶ崎村吉祥院末、蓮臺山無量壽院と号し、多聞坊と云う、開山秀深寛文八年十月七日寂す、本尊阿弥陀を安ずる」とあります。
 このことから、台久伊豆神社は江戸時代初期には既に存在じていたものと考えられます。
 現在、台久伊豆神社には「繭額」一面を含む十一面の大絵馬があります。これは町内で二番目に多い数です。
 画題としては『伊勢大々神楽』・『楠公桜井駅の別れ』・『岩国錦帯橋』・『桃園の誓い』・『獅子』などです。
『伊勢大々神楽』の絵馬は、明治二十年(一八八七・松林斎亀山画)と明治二十九年(一八九六・貴重画)の二面があります。どちらも保存状態は良好で、赤・白・紫・緑・水色の色彩鮮やかな絵馬です。松林斎亀山は幸手に在任した絵師で、本名を大久保謙吉といい狩野探妙の弟子にあたります。亀山の作品は、千葉県・茨城県方面に多く残されています。
 文久二年(一八六二)の『岩国錦帯橋』は絵馬の画題としては珍しいもので、土産用の版画をもとに描かれています。伊勢参宮を済ませた一行が錦帯橋まで足を延ばし、無事に帰ったお礼として奉納したものと思われます。
 文化十三年(一八一六)『獅子』、弘化二年(一八四五)『楠公桜井駅の別れ』、安政二年(一八五五))『武者絵』はともに伊白栄厚の作品です。 安政二年の『武者絵』には「行年六十五翁」の添書があり、これから計算して「獅子」文化十三年は二十六歳、『楠公桜井駅の別れ』弘化二年は五十五歳の時の作品とわかります。
 伊白栄厚は法眼の位を受けた狩野派の絵師ですが、同じ形の絵馬は一つもありません。狩野派絵師としての意地でしょうか、特別な板面に描いています。
『桃園の誓い』文政四年(一八ニー)は、三国史の蜀漢の創始者である劉備と関羽、張飛がその昔桃園で義兄弟の契りを結んだ故事を題材としたものです。
 平成九年三月十五日 久喜市教育委員会
                                      案内板より引用

        
                    拝 殿
 久伊豆神社(くいずじんじゃ)  菖蒲町台八五五-一(台字南)
 鎮座地の大字台は、星川の左岸に位置する農業地で『風土記稿』台村の項によると、化政期(一八〇四-三〇)には一八八戸の大きな村になっていたことがわかる。更に、当社について「久伊豆社 村の鎮守なり、久伊寺持」と記していることから、江戸期は、当社に隣接していた久伊寺が別当として社務にあたっていたことがわかる。
 本殿は三間社流造りであるため、古くは三柱の神を祀っていたと思われるが、『明細帳』に記された主祭神は、大己貴命の一柱である。内陣には「正一位久伊豆大明神神号」と墨書のある筥(はこ)に納められた神牌(しんぱい)一体が奉安されているが、年紀などがないものの、形態から推して江戸時代に京都の神祇管領吉田家から受けたものと思われる。
 また、当社は、かつて広い境内地を有していたことから、この土地を利用して、地域のために三箇小学校を建設することになり、明治四十二年十一月十八日に当時の境内地の中で南側の現在地に社殿を移転した。しかし、社殿の東脇にあった銀杏だけは、神木であったことから伐られることなく残された。今も校庭にそびえる姿は神木としての威厳を保ちながらも、小学校のシンボルとして児童を見守っている。
 なお、この移転に際して、この時期に進められた政府の合祀政策に従い、村社であった当社に地内の字南の八坂社、字向野の熊野社、字九ヶ所(くかせ)の九ヶ所社及び浅間社を合祀した。
*平成の大合併の為、現在の住所は違うが、敢えて文面は変えずに記載している。
                                  「埼玉の神社」より引用

 社の社名に関して、「ひさいず」「くいず」と両方の読み方が伝えられ、人によっては呼称がまちまちであるが、近年、特にテレビ等のクイズ番組に紹介されて以降、正式な場では「くいず」と呼ぶことが多くなっていることから、中年層より若い人たちは、「くいず」と呼ぶ人が多くなっているようだ。
        
                    本 殿
 元々台地域内は、上下の二組に分かれていて、古くは別々に久伊豆神社を鎮守として祀っていたという。当社は、そのうちの上の久伊豆神社で、下の久伊豆神社は字九ヶ所(くかせ)にあったが、後に除堀(よけぼり)村に譲渡し、村全体で当社を祀るようになったという。村の開発について伝えはないが、一番の旧家は「さなえ様」と呼ばれる松本家で、同家には新田義貞の家来が立ち寄ったとの話があることから、中世には既に村が開かれていたものと推測される。
 また、現在では久喜菖蒲工業団地になっているが、河原井沼もしくは台沼と呼ばれている所は、享保
13年(1728)に開発されて七ヵ村持添新田と武助(ぶすけ)新田となり、そのうち武助新田は幕末までに台に合併されたという。
       
             社殿の右側に祀られている境内社・八坂神社
             
          久喜市保存樹木である「クス」の巨木。平成12年度指定



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」
    「境内案内板」等
 

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