古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

河原代香取神社・河原代諏訪神社・河原代上香取神社

河原代香取神社】
        
            
・所在地 埼玉県久喜市河原代683
            
・ご祭神 経津主神
            
・社 格 旧河原代村鎮守
            
・例祭等 春祭り(お日待) 415日 秋祭り 1015
 佐間八幡神社から埼玉県道316号阿佐間幸手線を東南方向へ2.4㎞程進行した先の信号のある丁字路を左折すると、すぐ右手側に規模は小さいながらも河原代香取神社の鮮やかな社殿が見えてくる。駐車スペースはないため、丁字路側にあるコンビニエンスに駐車後、参拝を行う
        
          道路沿いに鎮座する開放感あふれる
河原代香取神社
『日本歴史地名大系』 「河原代(かわらだい)村」の解説
新井村の北に位置し、正保国絵図・田園簿には川原代新田などとみえる。田園簿によれば田高二三〇石余・畑高二四一石余で、幕府領。元禄郷帳では高三一三石余、国立史料館本元禄郷帳では旗本榊原・久津見二氏の相給。天保三年(一八三二)の島中川辺領拾三ヶ村高書上帳(小林家文書)・旧高旧領取調帳などでも同じ。助郷は日光道中中田宿(現茨城県古河市)・栗橋宿に出役している(天保一〇年「栗橋中田両宿助郷帳」小林家文書)。
        
                    拝 殿
 本殿内には稲荷大明神も一緒に祀られている。「グーグルマップ」において河原代香取神社稲荷大明神と表記されているのもそのためと思われる。
『新編武蔵風土記稿 河原代村』
 香取社 伊坂村迎盛院持、村内の鎭守なり、

 福壽院 新義眞言宗、東大輪村密藏寺門徒、本尊不動、運慶の作、不動山と號す、開山宥海元和五年四月寂、

 香取神社  栗橋町河原代六八二(河原代字下分)
 当地は利根川と中川との間にあり、地名の河原代も河川沿いの台地の意味であるという。
 開発は 元和年間(一六一五-二四)であると伝え、氏子の池田家の過去帳には「当所開発元和九亥年(一六二三)当家先祖池田四郎右衛門、武州埼玉郡忍領須戸村より移る」と記されている。口碑によると、移住したのは荒堀の関羽家・武井家・渡辺家・下の平井家・池田家など五軒ほどで、真菰(まこも)の茂る沼地を開拓したという。
 当社の創建については不明である。『風土記稿』には「香取社 伊坂村迎盛院持、村内の鎮守なり」とある。また『明細帳』には「往古ヨリ当地二勧請シ村内鎮守二信仰ス、元禄十丑年(一六九七)二検地其ノ前ヨリ除税地ナリ、年月不詳社殿再建、其ノ後大破二及ビ慶応元年(一八六五)三月中氏子尽力シテ再ビ社殿ヲ建立」とある。
 明治四十三年三月二十五日には、同村上分の香取神社、下分の諏訪神社・香取神社を合祀する旨が『明細帳』に記されているが、各社とも現在まで移動はない。上分の香取神社は正保二乙酉年(一六四五)九月の創建と伝え、河原代上分と北広島の一部二七戸で祀っている。また、下分の諏訪神社は荒堀の一六戸で祀っている。同じく下分の香取神社は下組の共有で、香取・鹿島神社と号して、下組一七戸で祭りが行われている。
                                   「埼玉の神社」より引用
 因みに本殿内には稲荷大明神も一緒に祀られている。「グーグルマップ」において河原代香取神社稲荷大明神と表記されているのはそのためと思われる。
 字河原代は、上分一四戸、荒堀一八戸、下分二二戸である。氏子区域を一応河原代全域としているが、これは、明治四十三年に村内の神社を合祀したときに成立したものであり、戦後の社格制度廃止を機に、本来の氏子区域である下分の人々が実質的な氏子となっているという。
        
            社殿の右側にある記念碑二基と十九夜供養塔
       その手前には「香取神社 稲荷大明神 本殿落慶記念碑」が建つ。

 左側に建てられている「
社殿改築記念」では、昭和22年9月15日に発生した「カスリーン台風」によって、北埼玉郡東村で決壊し、濁流が下流域に及び、旧栗橋町のほぼ全域が水没、社も壊滅的な被害を受けた。その後連年の不作が続き、社の再建も進まない状況であったが、昭和269月の「サンフランシスコ講和条約」締結を記念し、また、その年は豊作にも恵まれたので、寄付者の氏名を後世に残すために記念碑を立てたという事だ。
またその右側には「
地所奉納記念碑」があるが、この記念碑は当地から東京へ出て成功した方が、故郷の鎮守を信仰して昭和九年六月一日に建立、奉納したものであるという。
 
拝殿には「炭疽病除・大願成就」の奉納額が掛かっている。銘文によると、昭和12年の7月から8月にかけて馬の炭疽病が流行し、付近で倒れた馬は160頭にも達したが、当地では馬持ち一同で三七日(さんしちにち)の祈願を行ったので、一頭も発病しなかったという。

 香取神社稲荷大明神本殿落慶記念碑
 本神社は栗橋町施行の町道幹線二号線整備事業の実施に伴い築造用地として町の要請に応じ境内地及び参道の一部を協力をしこれを機に氏子一同に相諮り買収費並びに河原代地蔵尊の浄財を建築費に充て天皇陛下即位十周年を記念して境内地内の整備と本殿の新築を行い諸社を安置し奉る
                                      記念碑文より引用

【河原代諏訪神社】
        
             ・所在地 埼玉県久喜市
河原代609
             ・ご祭神 
建御名方神(推定)
             ・社 格 河原代下分荒堀鎮守
 河原代香取神社から埼玉県道316号阿佐間幸手線を北西方向に進むと、進行方向右手に河原代諏訪神社が見えてくる
        
                 石段上に鎮座する社殿
       石段手前の左右には一対の石灯籠、また、伊勢参宮記念碑が並ぶ。
「埼玉の神社」によると、当社は河原代下分の荒堀一六戸で祀っていて、本来ならば明治四十三年三月二十五日に河原代香取神社に合祀される旨が『明細帳』に記されているが、現在まで移動はされていない。
 
   境内西側にある力石とその案内板       社殿手前左側に祀られている境内社
「力石」河原代諏訪神社
「力石」の由来は中世の若者の力比べから広まったという説、もっと古くは「石占い」からという説があり、江戸時代からの「力石」はもっぱら力試しが行われた。
 享保十八年(一七三三年)
 力石三十二貫目(120㎏)渡辺氏
 令和四年四月 (以下略)                           案内板より引用

河原代上香取神社】
        
             ・所在地 埼玉県久喜市河原代41-2 
             ・ご祭神 経津主神(推定)
             ・社 格 河原代上分鎮守
 河原代諏訪神社から埼玉県道316号阿佐間幸手線を北西方向に200m程進んだ先にある丁字路を右折し、しばらく道幅の狭い農道を進むと、進行方向斜め左側に河原代上香取神社の境内全体が見えてくる。民家が数軒見える程度の田畑風景の中にポツンと祀られていて、周囲に適当な駐車スペースもないため、路駐にて急ぎ参拝を行う
        
                 河原代上香取神社正面
 この社も河原代諏訪神社同様に、明治四十三年三月二十五日に、河原代香取神社に合祀する旨が『明細帳』に記されているが、各社とも現在まで移動はしていない。上分の香取神社は正保二乙酉年(一六四五)九月の創建と伝え、河原代上分と北広島の一部二七戸で祀っている。
        
                    拝 殿
 境内碑
 抑当社は正保二年乙九月始経営し、爾後洪水の為に毀壊され因て安永二亥己歳本社を営造し、弘化四未十二月両家を再建。其の後明治八乙亥歳九月新たに拝殿を造立し、今明治十丁丑九月内殿并右本社、鳥居両様根続き屋根共に改め修復に及びうやまつて奉拝すべく者なり
 
    参道左側にある力石の案内板       参道右側で鳥居のすぐ先にある庚申塔
  享保13年(1728)、重さ32貫目(120㎏)


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「境内案内板」等

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佐間八幡神社

 栗橋町(くりはしまち)は、かつて埼玉県の利根地域に存在した人口約27千人の町で、北葛飾郡の北端にあり、首都圏から約50kmに位置し、周囲を利根川・中川・権現堂川の3河川に囲まれている。
 江戸時代には日光街道が利根川を越える要地として箱根・碓氷と並び関東三大関所の「栗橋関所」がおかれた水陸交通の要衝の宿場町(栗橋宿)であり、古くから人やもの、情報が行き交う場所として発展し、明治2年に関所が廃止されるまでの間、宿場町として、また舟運の町として栄えていた。現在も日光や東北へ至る鉄道は新幹線も含め栗橋を経由する。
 関東平野のほぼ中央部に位置し、山や丘陵はなく、利根川・中川の沖積平野にあって中川低地と呼ばれる低地が中心の地形であるが、中心市街地、高柳や佐間などの町西部、権現堂川沿い及び南栗橋地区には、自然堤防や旧堤防など微高地になっている場所もある。また、ほぼ平坦の地形のため土砂災害等の危険性は低い。
 2010年(平成22年)323日、久喜市、南埼玉郡菖蒲町および北葛飾郡鷲宮町との新設合併により消滅した。現在でも旧栗橋町域を総称して栗橋地区という。
        
             
・所在地 埼玉県久喜市佐間577
             ・ご祭神 誉田別命
             ・社 格 不明
             ・例祭等 春の祭礼 415日 天王様 77日・15
                  秋の祭礼 1015
 国道125号線と埼玉県道316号阿佐間幸手線の交わる「佐間(西)」交差点の東、真言宗豊山派八幡山定福院の西隣に佐間八幡神社は鎮座する。
        
                  佐間八幡神社正面
『日本歴史地名大系 』「佐間村」の解説
 間鎌(まがま)新田の南西にあり、村の北を古利根川が流れ、川沿いに堤防がある。鎌倉街道であったと伝える古道、また日光御廻(おまわり)道が通る。地内の小草原(こくさばら)では中世墓地が発掘され、蔵骨器として使用された一四世紀中頃と推定される瀬戸瓶子や常滑大甕、また板石塔婆三七基が出土している。中世において水陸交通の発達した地であったと考えられる。また小字に陣屋・陣屋屋敷添などがあり、佐竹氏の陣屋があった所という(郡村誌)。
『日本歴史地名大系』 「佐間新田」の解説
 佐間村の東に位置したとみられる(風土記稿)。田園簿に村名がみえ、田高一七石余・畑高一二七石余で、幕府領。元禄郷帳・天保郷帳では高一八一石余。「風土記稿」成立当時には三卿の一橋領となっており、家数二五。天保三年(一八三二)の島中川辺領拾三ヶ村高書上帳(小林家文書)、幕末の改革組合取調書などには記載がなく、幕末までには佐間村に含まれて把握されることが多くなったものと思われる。
        
            参道先の境内は開放感ある空間が広がっている。
 当社の氏子区域は、大字佐間のうち前・後ろの全域と、河原代の一部である。前を陣屋・下手・前新田の三組に分け、後ろを上手・中組・道下・北新田の四組に分けている。氏子区域の住民は、ほとんどが氏子区域の住民は、ほとんどが氏子となり、現在は二四〇戸であるとの事。
 
      境内左側にある手水舎         手水舎の先に祀られている青龍権現社
                           権現社の左側の石碑は稲荷社
        
               一段高い場所に社殿が鎮座する。
 
 石段の左側にある案内板や伊勢参宮記念碑    石段右側にも伊勢参宮記念碑が3基あり。
                          その手前に置かれている力石2基
        
                久喜市指定文化財「八幡神社歌舞伎絵馬」の案内板
 久喜市指定有形文化財。  八幡神社歌舞伎絵馬
 指定年月日 昭和53329
 所 在 地 久喜市佐間五七七
 歌舞伎絵馬は、野郎(やろう)歌舞伎風の踊りが杉板八枚に描かれている。縦150センチメートル、横180センチメートルに達する大形の絵馬で、左方の墨書から絵師は村上義勝で、正徳六年(一七一六)丙申(ひのえさる)三月に奉納されたことがわかる。
 歌舞伎の元祖は、慶長八年(一六〇三)に北野天満宮で興行を行い、京都で評判となった出雲阿国といわれている。阿国が評判になると多くの模倣者が現れ、遊女が演じる女歌舞伎や前髪を剃り落としていない少年の役者が演じる若衆歌舞伎が行われていたが、風紀を乱すとの理由から女歌舞伎は、寛永六年(一六二九)に禁止され、承応元年(一六五二)には若衆歌舞伎も禁止された。その後、現代に連なる野郎歌舞伎となった。絵馬が奉納された正徳六年頃には、野郎歌舞伎が盛んに行われていたようである。
 この絵馬はその当時のようすをよく表し、絵画としても巧みな鉄線描の輪郭に着色の工合も舞手の顔や姿をできるだけ変化させて描かれている。
 当時の風俗画として、また演劇の資料としても貴重なものである。
 平成二十五年三月四日 久喜市教育委員会                    案内板より引用
       
                    拝 殿
『新編武藏風土記稿 葛飾郡佐間村佐間新田』
 八幡天神稻荷合社 定福院の持、古は大社なりし由、元祿の頃改の國圖當村と覺しき邊に八幡社とあり當社のことにや、
 定福院 新義眞言宗、下總國香取郡前林村東光寺末、八幡山と號す、開山行淸、本尊不動を置、

 八幡神社  栗橋町佐間五七五(佐間字陣屋屋敷添)
 佐間の地名は、低湿地にある島状の台地を表すという。また、古くは耕地を島と呼び、これが変化したともいう。いずれにしても、古くから開かれた所である。昭和四十四年、当社後方の字小草原から、偶然、板碑三四基と古瀬戸の壺が発掘された。これは、中世この地に有力な土豪が存在した証拠であろう。
『風土記稿』は、往時の当社を「八幡天神稲荷合社 定福院の持、古は大社なりし由、変録の頃改の国図当村と覚しき辺に八幡社とあり当社のことにや」と記している。別当であった定福院は、山号が八幡山であり、現在本堂わきにある阿弥陀薬師堂は、寛永年間(一六二四-四四)、八幡社の本地阿弥陀如来を祀るために建立された本地堂であると伝えることなどから、当社は、古くは八幡社であったと思われる。
 現在、覆屋内は、中央に大きな本殿を据え、これに騎乗八幡大明神像を安置する。この左右に天神社・稲荷神社・妙義社・琴平神社の小祠を置き、うち天神社と稲荷神社には、それぞれ神像を安置している。なお、天神社の神像には、寛保二年(一七四二)の銘がある。
 以上のことから、当社は、中世、当地の土豪が当時流行した神である八幡社を勧請し、これに江戸時代中期以降に村内の天神社と稲荷社を合祀したものと考えられる。
 大正三年に字内の愛宕社を合祀し、現社名となる。
                                   「埼玉の神社」より引用
 当社は、『風土記稿』に「古は大社なりし由」と載せるように、広く信仰された神社である。これは、多くの絵馬奉納として表れている。絵馬は、大部分が歌舞伎絵馬と呼ばれるもので、中でも正徳六年(一七一六)に奉納された「元禄花見踊り」は優品であるという。
 
    社殿左側に祀られている愛宕社           社殿右側にある神興庫
        
                  社殿からの眺め
        
          因みにかつての別当寺で社の東隣に隣接する定福院
          正面の楼門には「八幡山」の扁額が掲げられている。
        
                   定福院本堂
             境内には多数の羅漢像が置かれている。 
         
           薬師堂               社の境内右側にある観音堂


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「ウィキペディア(Wikipedia)」
    「境内案内板」等
 

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所久喜八幡神社


             
             
・所在地 埼玉県久喜市所久喜145
             
・ご祭神 応神天皇
             
・社 格 旧所久喜村鎮守 旧村社
             
・例祭等 例祭 915
 江面地域の西側で、備前堀川の左岸に位置する久喜市所久喜地域は、江戸時代初期までは江面村と一村であったが、慶安年代に分村した経緯がある。因みに北方1㎞程先に「小河原井(こがわらい)」と呼称する飛地がある。この地域は長さ35町(約3.8km)・横16町(約1.7km)の広大な沼であった河原井沼(現在の久喜菖蒲公園にある昭和沼といわれている)の北東方向にある低湿地地帯で、農耕には適さない場所であったようで、当時開発に携わった方々の苦労は如何ばかりであったと思わずにはいられない。
 江面久伊豆神社から北西方向で直線距離にして700m程という近距離に鎮座している北所久喜八幡神社。地図を確認すると久喜インターチェンジの西側に社は位置している。
        
                 
所久喜八幡神社正面
『日本歴史地名大系』 「所久喜村」の解説
 江面村の西にあり、南から西は同村と河原井沼新田。北方の六万部村と中曾根村に囲まれた所に小河原井(こがわらい)とよばれる飛地がある(郡村誌)。騎西領に所属(風土記稿)。古くは江面村の一部であったが、慶安三年(一六五〇)に分村し(寛政一〇年「江面村明細帳」慶応義塾大学蔵など)、同年の年貢割付状(内田家文書)から「江面村之内所茎村」として当村分だけの割付状となる。
        
                   境内の様子
 当社の創建年代は不明であるが、ただ所久喜村の新田開発の際に創建されたものと推測される。近くの善徳寺が別当寺であった。現在の社殿は幕末期に建てられたもので、精密な彫刻が施されている。1873年(明治6年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられた。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 所久喜村』
 所久喜村はもと江面村の内なりしが、正保四年松平伊豆守檢地の時、今の如く別村となれり、戸数六十餘、東は江面村、西は臺村、南は原村、北は六萬部村、坤の方河原井沼新田なり、東西七町、南北十二町(中略)
 八幡社 村の鎭守なり、江面村善德寺持、


 八幡神社  久喜市所久喜一四五(所久喜字用水内)
 鎮座地の所久喜は所茎とも書き、かつては江面村の一部であった。慶安三年(一六五〇)の年貢割附状には「寅歳江面之内所茎村年貢納割付之事」とあり、このころ江面村から分村したのであろう。その開発には折原家や真田家がかわわったと伝えられている。当地は元々河原井沼の北東に隣接する低湿地で、農耕には適さない土地であったため、開発は困難を極めたものと思われる。当社の創建もこの新田開発が進められる中で行われたと推測されるが、その経緯は明らかではない。『風土記稿』所久喜村の項には「八幡社 村の鎮守なり、江面村善徳寺持」とある。別当の善徳寺は、寛弘年間(一〇〇四-一二)に法印隆盛によって開山され、江戸期には、江面村の鎮守の久伊豆社をはじめ白山社・神明社・第六天社・女体権現社の別当も兼ねていた。
 当社は文久二年(一八六二)から慶応二年(一八六六)にかけて社殿が新築され、現在の社殿はこの時に建立されたものである。本殿の外壁には昇り竜・降り竜をはじめ秀麗な彫刻が四面に施され、所々に「真田忠四郎」「折原政八」など、建立に尽力した村の有力者一二名の名が刻まれている。
 明治初年に行われた神仏分離によって、当社は別当の善徳寺から離れ、同六年に村社に列した。
 本殿内には、元禄十五年(一七〇二)銘の金幣が奉安されている。
                                   「埼玉の神社」より引用

  拝殿に掲げてある「八幡宮」の扁額            本 殿
             
                 本殿内の精巧な彫刻 
 当社の氏子区域は、近世の所久喜村を引き継ぐ大字所久喜と河原井町の一部で、総代は、本田と飛び地である小ヶ原井(小河原井 こがはらい)の二つの村組から、それぞれ二名ずつの計四名を選出し、任期三年で神社運営に当たっているという。
 また、氏子の間では「八幡様の祭りは静かにやる」という習わしがあり、915日の例祭には、他社に見られるような奉納芸能や余興などは行われないという。
 かつては百度参りが盛んで、回数を数えるための「数取り札」が設けられていたが、昭和後期より廃れ始め、現在では数取り札は取り外されている。それに反比例するかのように年始の初詣は盛んになっている。

   境内社 左から弁天社・稲荷社         境内東側にある青面金剛の石碑
       
                                  社殿からの眺め



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等 
       

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江面久伊豆神社

 久喜市江面、この「江面」は「えづら」と読み、地名由来として、 「川・入り江などの水面(江)のほとり・広がり」を意味する語から生まれたとされ、特に埼玉県久喜市江面などでは低湿地の水辺地形を表す地名と考えられている。
 この地は、新川用水路と備前前堀川の間に位置する農業地域で、その地内は、北部の本田と南部の新田に二分される。かつては、本田と新田の間には水田が広がっていたが、東北自動車道の久喜インターチェンジがこの水田の中に建設されたため、景観は大きく変わってしまっている。
        
             
・所在地 埼玉県久喜市江面1345
             
・ご祭神 大己貴命
             
・社 格 旧江面村鎮守 旧村社
             
・例祭等 歳旦祭 120日 白山様燈籠 7月第2日曜日 
                  秋季例祭(お日待) 
1018日 大被式  1228
「久喜菖蒲公園」から久喜・菖蒲公園通りを東行し、東北縦貫自動車道に達する信号のある丁字路を右折、その後すぐ先にある右斜め方向に伸びる路地を進むと、ほぼ正面に江面久伊豆神社の入口である一の鳥居が見えてくる。
        
                 江面久伊豆神社正面
『日本歴史地名大系』「江面村」の解説
 北は新川用水を境に上早見村、南から西は河原井沼新田、台村(現菖蒲町)および所久喜村。騎西領に所属(風土記稿)。寛永九年(一六三二)の年貢割付状(内田家文書)によると、田方二四町七反余・畑方三六町一反余・屋敷一町七反余(以上新田分を含む)、幕府領。同一六年川越藩領になり(同年「年貢割付状」同文書)、田園簿によると田高三〇八石余・畑高一五二石余。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高九七六石余、反別は田方六一町三反余・畑方三二町九反余、ほかに新開高三九〇石余、田方二四町五反余・畑方一三町一反余があった。

 
          二の鳥居                       きちんと手入れされた参道
 当社は、加須市騎西の玉敷神社を総本社とし、元荒川流域に分布する久伊豆神社の一社で、大己貴命を祭祀とし、創建以来、江面の鎮守として祀られてきた。古くは、本社の玉敷神社、岩槻と越谷の久伊豆神社と共に四大久伊豆神社の一つに数えられたという。
 創建年代は不明であるが、当地の旧家は平家の落人で、秩父地方から来て土着したという伝説を持っており、これらの旧家によって創建されたものと推測される。近くの善徳寺が別当寺であった。
 明治6年(1873)近代社格制度に基づく「村社」に列せられ、同41年(1908)の神社合祀により、周辺の5社が合祀された。なお、その内2社は後に旧地に戻されている。また合祀された神社に「白山社」があり、その例祭を引き継いでいることから、別名「白山様」とも呼ばれている。
       
                  広々とした境内
             拝殿の右側手前の建物は
江面新田集会所で、元神楽殿。
       
                    拝 殿
「新編武蔵風土記稿 江面村」
 小名 石神井 前谷 合ノ谷 河島 原 小谷 志部 橋爪
 久伊豆社 村の鎭守とす、社傍に庵を結び、社を守る者居れり、〇白山社 〇神明社 〇第六天社 〇女體權現社 以上五社善德寺持、 〇稻荷社 寶光院持ち
 善德寺 新義眞言宗、正能村龍花院末、安養山彌陀院と号す、本尊阿彌陀、鐘樓 天明三年の鐘を掛、

 
  拝殿に掲げてある「久伊豆大明神」の扁額      境内に設置されている案内板

 久伊豆神社(はくさんさま)   
久喜市江面一三四五(江面字宮前)
 越谷・岩槻の久伊豆神社、騎西の玉敷神社と共に「四大久伊豆神社」の一つと並び称されるという当社は、大己貴命を祭神とし、創建以来、江面の鎮守として祀られてきた。江面の旧家は、名主であった伊呂原家をはじめとしていずれも平家の落武者を先祖に持ち、秩父から当地に来て土着したと伝えられており、当社の創建にはこうした家々が大きくかかわっているものと思われる。
「風土記稿」江面村の項を見ると、当社について「久伊豆社 村の鎮守とす、社傍に庵を結び、社を守る者居れり」と記されている。この庵についての詳しいことや、庵のあった位置については今ではわからなくなっているが、現存する文化十年(一八一三)の本殿及び拝殿の再建時の棟札に「別当善德寺住法印来賢代」と記されていることから、江戸時代の当社の祭祀には真言宗の善徳寺の僧が関与していたものと思われる。なお、当社の南側の畑は、この善徳寺の土地になっているため、その土地の一角に庵が営まれていた可能性は高い。
 神仏分離を経て、当社は明治六年に村社となり、村内にあったその他の社は無格社となったため、政府の合祀政策に従って明治四十一年にはそれらの無格社が合祀された。合祀された神社は、字小谷の白山社、字相野谷の神明社、字中河原の厳島社、字川島の第六天社、字志部の女体社の五社で、第六天社と女体社はその後旧地に戻された。
                                   「埼玉の神社」より引用
 当社の氏子区域は、この江面の全域で、本田には上根・橋川(橋詰・川島)、新田には小谷・大原・社宮司といった集落がある。氏子は全体で400戸程。
 古くは、氏子の間では「神様が嫌うから」という理由で、小豆や麻を作る事、昆布を料理に用いることが禁忌とされていたが、江戸時代半ばごろからこの禁忌は一般生活の支障を来すようになり、延享二年(1745)正月に吉田家から発給された宗源祝詞の中に、この禁忌の解除を求める文書が記されていて、当時の氏子の生活の一端が伺えよう。
 
 社殿の左側に置かれている奉納石(力石か)  奉納石の奥に石碑等三基が祀られている。
       
        石碑三基の奥に祀られている石祠。左側から女
體宮・社宮神・志羅山。
 
  社殿右側に祀られている稲荷・〇・天神宮     境内北側奥に祀られている弁天社
                          弁天社の左側にある石祠は不明
        
                              社殿からの一風景

 氏子の間で行われる大きな行事に、「お獅子様」がある。これは、疫病除けとして春の伝染病を防ぐ目的で行うもので、騎西の玉敷神社から借りて来た獅子頭と、当社で古くからある獅子頭の二つを持って地内を回るものである。この祭りは、江面が本家と言われており、420日に行われている。また、白山様燈籠 (夏祭り)には、「江面祭囃子」や演武等が奉納されているという
 当社の祭事の中で78日に行われる「白山様」は、当社に合祀された白山社の例祭を引き継いだもので、田植え後に行う豊作祈願の祭りである。当社が久伊豆神社であり、白山社は一合祀社であるにも関わらず、「白山様」と呼ばれるこの祭りが村一番の賑やかな行事で有名であったためであるという。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」
    「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内案内板」等
 

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青毛五柱神社


        
             
・所在地 埼玉県久喜市青毛1140
             
・ご祭神 天穂日命・菅原道真公・誉田別命・倉稲魂命・猿田彦命
             
・社 格 旧青村鎮守
             
・例祭等 元旦 御影供養 425日 大洲(おおや) 7月初酉日
                  
夏祭り 725日 祭礼 1019
 久喜市青毛地域は、栗原諏訪社が鎮座する栗原地域と埼玉県道153号幸手久喜線を境として北側にあり、北東方向に流れている葛西用水路の右岸に位置する東西に長い地域である。栗原諏訪社から一旦北上し、上記県道に戻り久喜市が一方向に西行、「青葉公園」の先にある「青毛橋」交差点を右折し、300m程進んだ突き当たり付近に青毛五柱神社は鎮座している。
 東西に長い青毛地域にあって、県道沿いは宅地化が進んでいるのに対して、社が鎮座する地域西側は葛西用水路がすぐ北側に流れ、周囲一帯長閑な田園風景が広がる地域でもある。
        
                  
青毛五柱神社正面
 久喜市青毛(あおげ・おおげ)地域は、葛西用水路(旧:古利根川)沿いに自然堤防や河畔砂丘(青毛砂丘)などの微高地がみられ、平沼などはその後背湿地の低地となっているが、概しておおむね平坦である。中島と川原に挟まれた低地(流作)は自然堤防と対を成す形で形成されており、古利根川(現:葛西用水路)の旧流路を示している。
              
          一の鳥居の手前で参道右側に建つ「五柱神社改築記念碑」
        
             鬱蒼とした社叢林の中に建つ一の鳥居
 久喜市青毛、この『青毛』の読み方は、今日において行政・郵便などでは「あおげ」が用いられているが、旧来からの住民の間では「おおげ」という発音が定着していて、米作を主体とした農業地域として発展してきた。そのため、地内では農業用水が縦横に走っていて、このうちの一本は当社の境内を横切っている。大字の中には当社のある上育毛をはじめ中村・中島・川原・本郷の五つの耕地があり、現在の氏子数は旧家を中心とした200戸余りである。神社運営も、耕地を単位として行っており、各耕地から総代は一名ずつ、年番は五名ずつ出るという。
 社名を示すように、当社には天穂日命・菅原道真公・誉田別命・倉稲魂命・猿田彦命の五柱の神々が祀られている。本殿には、元々当社の神像であった鷲宮明神像(天穂日命)と天満天神像(菅原道真公)及び弓矢を持った随身像二体と共に、字川原の稲荷神社から移された京都伏見稲荷神社別当愛染寺祈祷札と幣帛を納めた厨子も安置されている。
 
   一の鳥居の先にある青面金剛二基      神橋を越えた先に朱色の二の鳥居が見える。
 左側の青面金剛は寛文12年と刻まれている。     神橋の下には
農業用水が横断している。
       
 神橋を渡った先が境内となり、日を浴びた明るい境内の中に二の鳥居・社殿が見えてくる。

 当社はかつて鷲宮神社・天満宮・八幡様・猿田彦・稲荷神社という5つの神社が、当地域に所在していたものを含め、集められ合祀されているために「五柱」という名称がついた。このうち八幡様(字中村)・猿田彦(字中村)・稲荷神社(字川原)は1907年(明治40年)51日に合祀されている。こうした経緯から、青毛五柱神社は五柱神社(ごはしらじんじゃ)・五柱社(ごちゅうしゃ)・青毛神社(おおげじんじゃ)とも称されている。

      境内南側にある旧本殿           境内北側には社務所があり、
                        その傍に道祖神が祀られている。 
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 青毛村』
鷲宮天神合殿 村の鎭守なり、常樂寺の持、
常樂寺 葛飾郡内國府間村正福寺の末、護摩山光明院と號す、本尊大日、開山弘賢慶長十七年十月朔日示寂、當寺元は阿彌陀堂にて、行基菩薩彫刻の本尊を置き、大同二年の造立といへど、定かなる傳へはなし、堂の軒に享保三年鑄造の鐘を掛く、 十六羅漢堂

 青毛五柱神社  久喜市青毛一一四〇(青毛字上青毛)
『風土記稿』青毛村の項に「鷲宮天神合殿 村の鎮守なり、常楽寺の持」とあるように、当社は 鷲宮神社と天神社の合殿であったが、明治四十年に地内の無格社三社を合祀したのを機に、現在の名称となった。参道の脇に立つ「五柱神社改築記念碑」には、青毛の村の歴史と当社の由緒が刻まれているが、それを要約すると次のようになる。
 青毛の地名は、この地が古利根川に沿った沃野で、農耕に適し、穀物が青々とよく育つことに由来する。伝説によれば、氏を異にする一七戸の人々がこの地を理想の郷と定め、相互に協力して開拓したのが村の始まりであった。この人々は、古来、敬神の念が厚く、神社を中心としてあたかも一家のように親睦を深めていた。当社の母体となった鷲明神社は、この育毛の村の総鎮守として祀られてきた社で、その創建は鎌倉時代初期以前のことであり、文治年間(一一八五-九〇)に源義経がこの地を通過する際、利根の激流に阻まれて川を越えられなかったため、弁慶に護摩を焚かせて当社に祈願したところ、波が静まり、無事に渡りきれたという。その後、享保五年(一七二〇)三月に荘厳な社殿を建立したのを機に天満社を勧請して鷲宮天満社と改称した。更に、明治四十三年五月一日に字中村の八幡社と猿田彦社、字川原の稲荷社の三社を合祀し、これに伴って社号も青毛五柱神社と再度改められ、現在に至っている。
                                   「埼玉の神社」より引用

五柱神社改築記念碑」の内容も基本「埼玉の神社」と変わらないのだが、追加事項として、大正12年9月1日、南関東(震源地は相模湾北西部)を中心に発生した巨大地震である「関東大震災」において、当社の社殿が倒壊したため、震災の後の数年間は境内も荒廃する一方であったが、人心も落ち着いた昭和11年に再建の準備に取り掛かり、翌年には早くも拝殿の竣功、14年には本殿、15年には幣殿や社務所なども竣功し、盛大に遷座式が執り行われた、という事側も刻まれている。
 氏子の間では、当社は心の拠り所として信仰され、大切にされていたのであろう。このように、短期間で大きな事業を全うすることができたのは、氏子の方々の敬神の念が強かったからなのであろう。
五柱神社改築記念碑 原文一部抜粋」
 大正十二年九月一日午前十一時四十八分突如トシテ関東一帶ノ地大ニ震ヒ本社モ其ノ災害ニ遭フ爾來十有餘年今ヤ著ク荒廢シテ復昔日ノ観ヲ呈セズ氏子一同粛然トシテ神徳ヲ黷サンコトヲ恐レ爰ニ皇紀二千六百年記念トシテ再建ヲ企圖シ昭和十一年三月之ガ資金ノ募集ヲ開始ス遠近傳ヘ聞キ浄財ヲ寄進スルモノ踵ニ接シテ到リ〇ニシテ所要ノ金額ヲ調達スルコトヲ得タリ是ニ於テカ翌十二年二月着工奉告祭次デ地鎮祭執行五月拜殿竣工十三年境内擴張記念植樹并神橋改修十四年二月本社建築ニ着手十二月竣工十五年三月幣殿玉垣等ノ建築ヲ終リ續テ社務所改築更ニ舊本社ヲ改修シテ寶物殿ト為シ貴重品ヲ奉安ス其ノ他御神苑内ノ整備改善ヲ終リ爰ニ本月十五日ヲ以テ盛大ナル正遷座祭ヲ擧行スルコトヲ得タリ
        
                    本 殿
        
              二の鳥居から参道入口方向を撮影


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「
ウィキペディア(Wikipedia)」
    「境内改築記念碑文」等

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