古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

太田袋諏訪神社


        
             
・所在地 埼玉県久喜市太田袋586
             ・ご祭神 建御名方命
             ・社 格 旧太田袋村鎮守 旧村社
             ・例祭等 祈年祭 410日 灯籠 710日 秋祭り 1010
                  大祓 630日 1231
 久喜市太田袋地域は、同市南東部にあり、南北の境を備前前堀川・備前堀川が並行して流れ、東西域が長い区域となっており、その地域の大部分は田畑地区が占めていて、住宅地は地域中央に点在する長閑な農業地域である。
 当地名である「太田袋」は河川に関連する地名と思われるが、「嵐山町web博物誌」によると、杉山地域にも「川袋」と「大袋」があり、どちらも市の川と粕川の合流点の上の部分で、川に挾れて「袋」のような形であるから、この名前が出たと考えられている。また、「池袋」「沼袋」など袋のつく地名は、大てい水辺で二面以上が水で囲まれている所であるという……と特殊な地形や地物の地名として「袋」が紹介されている。
        
                 太田袋諏訪神社正面
『日本歴史地名大系』 「太田袋村」の解説
 北は備前前堀川を境に下早見村、北から西は古新(ふるにつ)川を境に青柳村と対する。袋村とも称された。百間領に所属。寛永五年(一六二八)岩槻藩阿部氏の検地があり(風土記稿)、田園簿によれば田高一一二石余・畑高一三九石余、同藩領。同藩の城付地で高岩筋に属し、延宝八年(一六八〇)の家数二六(うち本百姓一七)、人数一九七(「岩付領内村名石高家数人数寄帳」吉田家文書)。貞享三年(一六八六)の岩槻藩領郷村高帳では高三二七石余、ほかに新田三五石余・野銭永三四〇文・藍瓶役鐚七二文・見取場田畑三反余があった。

 
    入口正面の一の鳥居の社号額には        一の鳥居の先に見える二の鳥居     
 しっかりと「琴平神社」と表記されている。  この鳥居には「諏訪神社」と刻印されている。
 当社は古くから村の鎮守として崇敬されてきた。一方、元々この地に鎮座していた琴平神社も霊験あらたかな神様として、古くから地元の農民や商売人から崇敬を受けていた。このため現在でも地元の人々は、当社を「こんぴら様」と称して親しんでいる。また、境内社の琴平神社は「隠居こんぴら」と称されている。
 
      参道左側にある手水舎                   社殿脇にある力石
 この力石には、
市内で最も重い百貫石や、江戸時代の力持興行「御上覧力持」の東西の両大関「三ノ宮卯之助」と「肥田文八」その他の名を記した全国的にも貴重な石等があるという。年代別では、三十六貫石の宝永三年(1706年)から天保十一年(1840年)迄の石との事だ。
        
       社殿左側脇にある
合祀記念之碑  社殿右側にある伊勢参宮記念碑
 合祀記念之碑
 武藏國南埼玉郡江面村大字太田袋
     諏訪神社淺間神社
 右二座以明治十三年三月十四日奉遷干琴平神社殿内而合祀之改社號稱諏訪神社
 大正二年四月三日建之

        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 太田袋村』
 諏訪社 村の鎭護にて、諏訪院の預る所なり、
 普門院 新義眞言宗、葛飾郡内國府間村正福寺の末、龍光山法雲寺と稱す、開山弘尊慶長二十年四月八日寂す、本尊正觀音、行基の作と云、 熊野社 彌陀堂
 諏訪院 本寺前に同じ、藥師を本尊とす、〇寮 正觀音を安ず、行基の作と云、村民の持、

 諏訪神社(こんぴらさま)  久喜市太田袋五四八(太田袋字地蔵)
 鎮座地の太田袋は「大田袋」とも書き、中世は太田庄に属していた。
『埼玉県地名誌』におれば、「袋」とは平地を流れる河川が蛇行したり、合流することで形成された袋状の地形を指すという。このことから、当地の地名の由来も、備前堀川と備前前堀川がいずれも古利根川に合流し、袋状の地形を成していたことによるものであろう。
 口碑によると、当社は江戸時代初めに字沙汰の備前堀川の辺りに作神として祀られたことに始まるという。『風土記稿』太田袋村の項には「諏訪社 村の鎮守にて、諏訪院の預る所なり」と記されている。これに見える別当の諏訪院は葛飾郡内国府間村(幸手市北町一丁目)の真言宗正福寺の末寺であった。
 神仏分離後、諏訪院は廃寺となり、当社は村社に列した。その後、明治四十年に字沙汰の社地から村の中央に位置する字地蔵の無格社琴平神社の境内地に遷座され、合わせて琴平神社と字浅間の無格社浅間神社を合祀し、ここを当社の新たな境内地とした。遷座の理由は、琴平神社の境内地が村の中央で面積も広く、氏子が参詣しやすかったこと、更には琴平神社が当社に増す信仰を集めていたことが挙げられよう。合祀後、氏子の間から「昔から祀ってきた琴平神社を粗末に扱うと祟りがある」との声が上がり、大正四年に本殿に祀っていた琴平神社の分霊を境内に新たに建立した祠にも祀るようになった。
                                   「埼玉の神社」より引用
 氏子の間では古くから「こんぴら様には天狗が住んでいる」といわれ、当社の社殿にも往時に奉納された多数の天狗面が残されている。昔は子供を叱る時に「いたずらをすると天狗様に連れていかれるぞ」と言うと、子供は怖がっていたずらを止めたものであったという。拝殿壁には天狗信仰と関連があるからか、天狗面が二対掛けられている。
 また、かつては毎月十日を「こんぴら様の縁日」といい、氏子が三々五々参拝するほか、遠方からも主に商売人が多数参拝した。先の大戦以前までは、この縁日当日は、香具師が境内に露店を出し、大変賑わったというが、その後は急速に衰え、現在縁日に参拝するには往時のにぎわいを知る古老の人々のみとなっているという。
  
     拝殿の軒下部(言い方が間違ったら申し訳ありません)に掲げてある扁額3枚
      当社の社号がまだ琴平(金毘羅)神社だった頃の名残がここにある。
        
                    本 殿
        
               本殿の左側奥に祀られている境内社
    左側から琴平神社(隠居稲荷と呼ぶ)・稲荷神社・一番右側の石祠は雷電社か?
        
            境内の様子。右側に見える建物は太田袋集会所。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「
嵐山町web博物誌」
    「
ウィキペディア(Wikipedia)」「境内記念碑文」等

拍手[0回]


吉羽稲荷社及び天神社

【吉羽稲荷神社】
        
             ・所在地 埼玉県久喜市吉羽2220
             ・ご祭神 宇賀之御魂命
             ・社 格 旧無格社
             ・例祭等 元旦祭 初午 3月第1日曜日 甘酒祭 10月第1日曜日
 吉羽千勝神社の北で道路を隔てて「吉羽公園」があり、この公園に接して通る通称「図書館通り」を南東方向に1㎞程進んだ先が左方向にカーブするようになっており、そのまま直進。その後、青毛堀川に架かる「江口橋」を越えた進行方向右手に吉羽稲荷神社は鎮座している。
        
                  吉羽稲荷神社正面
 当社の氏子区域は、大字吉羽のうち字壱番方を中心とした高野新田と呼ばれる地域である。氏子数は先の大戦後、分家や他所からの転入によって漸次増加して、現在は45戸程である。氏子の間では、明治10年という早い時期から活動会が組織され、当稲荷神社の貴重な文化遺産の維持・保存を目的に活動が進められてきた。これを、新住民の増加に対応し、会則を整備して平成4年に再発足したのが現在の氏子会で、高野新田の住民は居住年数に関わらず、原則として会員となるそうだ。
 
   境内の隅に設置されている案内板      境内には力石も整然と展示されている。
        
                    拝 殿
 稲荷神社  久喜市吉羽二二二〇(吉羽字壱番方)
 吉羽は、古利根川と中落堀川に囲まれた低地に位置し、水田を主体とした農業地域として発展してきたが、東武伊勢崎線・JR宇都宮線の久喜駅に近いため、近年では住宅地となりつつある。当社の鎮座地である宇壱番方は、吉羽の中でも最も西にある字で、一般に高野新田と呼ばれ、吉羽の他の地域とは青毛堀川で隔てられていた。このため、明治末期に橋が架けられるまでは、村内でも舟で行き来しなければならないという不便な状況であった。
『風土記稿』吉羽村の項には、「千勝八幡鷲宮合社三神合祀りへ三社大明神と呼ぶ、村中の鎮守なり、密蔵院持、下二社、持同じ、○天神社○稲荷社」 とあり、千勝八幡鷲宮合社(明治期に千勝神社と改称)を村中の鎮守としている。しかし、交通の不便な地域である当地の人々は、組の鎮守である当社を、千勝神社以上に大切にしてきた。特に明治四十年ごろ、無格社であった当社を村社であった千勝神社に合祀しようという動きがあった時も、当社が遠くの神社に移されては氏子の心の拠り所が失われるとして、これを退けた。
 かつては、当社は、現在の境内から北東に三〇〇メートルほど離れた「元稲荷」と呼ばれる所に鎮座していたが、集落から離れた寂しい場所であったため、氏子の参詣の便を図り、明治期に現在の場所に遷座した。その後、昭和三年と同十年に拝殿の修理を行った。
                                   「埼玉の神社」より引用



【吉羽天神社】
        
                        ・所在地 埼玉県久喜市吉羽358
                        ・ご祭神 菅原道真公
                        ・社 格 吉羽下宿守護社 旧無格社
                        ・例祭等 元旦祭 祈年祭 225日 例祭 725
                            
二百十日 91
 久喜市吉羽地域は、東武伊勢崎線・JR宇都宮線の久喜駅に近いため、吉羽1丁目から5丁目は、都市計画道路 345 幸手久喜加須線の東側及び青毛堀川に囲まれた土地区画整理事業の区域が大半をしめており、道路、公園、河川等の公共施設についても、計画的に整備を図るように土地区画整理事業が行われている地域である。
 但し吉羽地域南部は、古利根川と中落堀川に囲まれた低地に位置した、水田を主体とした長閑な農業地域が未だに残っている自然豊かな場所である。
        
         文字通りの砂利道を進むと見えてくる吉羽天神社の社叢林
 吉羽稲荷神社から一旦道路を南下し、「図書館通り」に戻り、「けやき通り」の先にある丁字路を左折する。当初は舗装されている道路もいつしか砂利道へと変わり、そのまま南下するように道なりに進むと、正面にこんもりとした吉羽天神社の社叢林が見えてくる。
        
                 吉羽天神社正面鳥居
 筆者の勝手な想像であるが、久喜市在住の方々も、このような場所に社があること自体、あまり知らないのではなかろうか。境内は鬱蒼とした森に囲まれ、参拝時間は昼間であるにも関わらず、暗く、物寂しい印象。逆に地域の外れにヒッソリと佇む感があり、趣きという点においては抜群の存在感ある社であろう。
 
    なかなか味のある天神社の社号額      入り口付近に設置されている案内板
        
              鬱蒼とした森の中に静かに佇む社
        
                    拝 殿
 天神社 御由緒  久喜市吉羽三五八(吉羽字前)
 □御縁起(歴史)
 鎮座地の吉羽は、古くは太田庄に属する村の一つであり、群馬県勢多郡富士見村の萩林(しゅうりん)庵が所蔵する銅造阿弥陀如来立像の応永三十四年(一四二七)五月十五日背面銘に「武蔵国太田庄南方吉羽郷」と見えるのが、その地名の初出と思われる。吉羽では、村全体で鎮守として千勝八幡鷲宮合社(現千勝神社)を祀ってきたが、これと別に、村組などで祀る神社もあった。
 当社は、吉羽のうちの「下宿」の人々が組内の守護神として祀ってきた社で、『風土記稿』羽村の項にも密蔵院持ちの社としてその名が載る。創建についての伝えはないが、下宿で一番の旧家である折原栄家は当社で二十代ほど続いていることから考えると、吉羽郷と呼ばれていた時代に、同家の祖たちが開発した際に勧請したものではないかと思われる。そのためか、住民の信仰は厚く、社格は無格社であったが、明治末期に政府の合祀政策が強く進められた時期にあっても、村社の千勝神社へ合祀するといった声は全く聞かれなかった。
 なお、神仏分離まで別当であった密蔵院は、真言宗の寺院であったが、明治三十三年に焼失し、同四十年に妙智寺と合併して、高輪寺となった。一方、当社では明治二十九年に社殿の大規模な修復を行ったが、その際、一時千勝神社に仮殿を作って遷座していた。現在社殿の北東にある建物は、その時仮殿として使われていた建物である。
                                      
境内案内板より引用
 
  社殿左側に祀られている稲荷神社の石碑        社殿の奥にある「裏天神」
        
               精巧な彫刻が施されている本殿
 当社の祭神は菅原道真公で、本殿の内陣には美しく彩色された木造天満天神像が安置されており、その像の台座には「文政二己卯年(一八一九)二月再興之」「明治十四年巳七月粉色之」といった銘文がある。今では、天満天神は学問の神といわれ、受験時期には合格を祈って参詣する中学生や高校生の姿をよく見かけるが、昔は針子(はりこ)が裁縫の上達を願って信仰し、毎月五日に針子が参詣する習わしがあったようだ。拝殿に掛かる針子の図の絵馬は、当時の針子の師匠が奉納したものであるという。
 
    社殿手前右側に祀られている       妙義山神社等の手前に設置されている 
  妙義山神社とその右側奥にある観音堂          「吉羽天神社碑」
 
   境内北側で塚上に祀られている浅間神社    浅間神社の塚下に祀られている猿田彦大神
        
                社殿から見た境内の一風景
 725日(現在では725日近くの日曜日)に行われる当社の例祭には獅子舞が奉納されているが、口碑によれば、江戸時代の中頃に京都から神勅を受けて始められたものといい、大獅子・雄獅子・雌獅子の三頭が五穀豊穣・天下泰平・家内安全を願って毎年舞ってきたが、先の大戦後は次第に衰退し、昭和34年頃を最後に途絶えてしまったそうだ。その後、1962年(昭和37年)頃の獅子舞に関する録音テープが発見され、1982年(昭和57年)より徐々に復興され現在に至っている。この獅子舞は久喜市の無形民俗文化財の一つである。
 
この他に、かつて火渡り行事が125日に行われていたが、今日では行われていない。この行事には「火渡りをすると長生きをする」という伝承があるということだ。

「久喜市HP」吉羽天神社の獅子舞
 吉羽天神社の獅子舞は、いい伝えによると250年ほど前に京都より神勅を賜り始められたといいます。戦後になり一時中断していましたが、昭和57年から部分的に復活されるようになりました。725日の直前の日曜日に行われます。
 獅子は、大獅子・雄獅子・雌獅子と呼ばれます。獅子のほかに、天狗・万灯持ちなどの諸役があります。
 神社での「シメ飾りの舞」の奉納が済むと、村まわりに出発します。そして、村の辻々で棒術と「入庭の舞」を奉納します。


 吉羽天神社から東方向には同じ地域の諏訪神社が鎮座している。同じ砂利道で、道幅は狭いが、社自体はつい最近改築されて綺麗であり、境内も程よく手入れされている。
        
               ・所在地 埼玉県久喜市吉羽1029
               ・ご祭神 建御名方神
               ・社 格 旧無格社

   境内に設置されている伊勢参拝記念碑            本殿二基
       と改修築記念碑             どちらも諏訪神社でろうか。
 当社は、祭礼の際に立てる幟に「三落鎮護之神」とあるように、吉羽の中でも沼向(現在は諏訪と称する)・高田・腰巻(現在は高田に合併)の三集落の鎮守として祀られてきた。
 吉羽では、地区ごとに神社を祀っているが、社格制定に際しては、 最も規模の大きい千勝八幡・鷲宮合社が村社となったため、当社は無格社となった。更に明治40年ごろ、吉羽の中心に近い方がよかろうとの判断から、当社は一旦字高田に移されたが、その後、疫病が氏子の間に蔓延したため、字諏訪の旧地に復することになったという。 
       
                 吉羽諏訪神社全景
       
       社の東側を縦断するように走る首都圏中央連絡自動車道(圏央道) 


参考資料「新編武蔵風土記稿」「久喜市HP」「埼玉の神社」「ウィキペディア(Wikipedia)」
    「境内案内板」等

拍手[0回]


吉羽千勝神社

 久喜市吉羽地域は、東武伊勢崎線・JR宇都宮線の久喜駅の東側に位置していて、『久喜市HP』によれば、久喜市吉羽地域の中でも特に吉羽1丁目から5丁目は、都市計画道路 345 幸手久喜加須線の東側及び青毛堀川に囲まれた土地区画整理事業の区域が大半をしめており、道路、公園、河川等の公共施設についても、計画的に整備を図るように土地区画整理事業が行われている地域であるようだ。この土地区画整理事業の効果の推進増進、並びに快適な住宅環境の形成、維持、保全することを目標とすると記述されている。
 この吉羽地域の住宅街区の一角に静かに社は鎮座している。鑑みるに、戦後、時代の推移に伴い久喜市が特に首都圏域内の市街化区域との指定を受けて以来、急速に都市計画化が進められ、住宅地の開発、土地区画整理事業の実施に伴い、昭和五十年から二年余にわたり神社々殿、境内諸施設および参道の石鳥居の移設等々の工事、整備が行われ、現在に至っているという。
        
             
・所在地 埼玉県久喜市吉羽131
             
・ご祭神 千勝大神(大己貴命)八幡大神 鷲宮大神
             
・社 格 旧吉羽村鎮守 旧村社
             
・例祭等 初午 221日 青屋祭 7月第一日曜日 他
 JR東日本鉄道及び東武伊勢崎線が乗り入れ、接続駅となっている久喜駅の「東口大通り」を700m程東行した先にある交差点を左折、その後、通称「太田小通り」を北上するように進むと、「吉羽公園」の南側手前に吉羽千勝神社は見えてくる。
        
                  吉羽千勝神社正面
『日本歴史地名大系』 「吉羽村」の解説
 野久喜・古久喜・青毛の三ヵ村の南にある。南は中落堀川を境に和戸・国納(現宮代町)の二村。現群馬県勢多郡富士見村萩林(しゅうりん)庵所蔵の銅造阿弥陀如来立像の応永三四年(一四二七)五月一五日付背面銘に「武蔵国太田庄南方吉羽郷」とみえる。永禄一三年(一五七〇)正月六日の梶原政景書状(三戸文書)にみえる「吉場」は当地と考えられ、梶原政景から三戸駿河守に宛行われている。百間領に所属。元禄八年(一六九五)上野前橋藩酒井氏の検地があった(風土記稿)。田園簿によると田高三六六石余・畑高三二八石余、幕府領。
『日本歴史地名大系』 「西村」の解説
「風土記稿」に「吉羽村ノ内に差入リタレハ、村ノ広サ及四境ノ村々別ニイヒカタシ」とあるように、吉羽村の中に点在する。百間もんま領に所属。検地は吉羽村に同じ(同書)。田園簿によれば田高八二石余・畑高八七石余、幕府領。国立史料館本元禄郷帳では旗本三上領で、同領として幕末まで続いたと考えられる(改革組合取調書など)。
『日本歴史地名大系』 「吉羽西村新田」の解説
 吉羽・西両村地先の古利根川西畔にあった。三方が吉羽・西の二村に接し、両村と複雑に入組んでいた。当村は寛延二年(一七四九)茨島村(ばらじまむら・現杉戸町)の佐右衛門が開発、同一一年神尾若狭守春央が検地のうえ流作場新田と称した。吉羽・西の両村の持添新田であったが、安永元年(一七七二)久保田十左衛門が再び検地を実施して一村として村立てし、幕府領に組込まれた(風土記稿)。
        
             鳥居の左側手前に設置されている社の掲示板
 吉羽千勝神社の歴史
 いつの時代に造られたかは不詳ですが、吉羽の中でも一番の高地に村の鎮守として創建され、吉羽村・西村の人々によって祀られてきました。
元来は千勝・八幡・鷲宮三社合祀のため「三社大明神」と号していましたが、神仏分離を経た明治3年に「千勝神社」となり明治6年に村社となりました。
 1946年(昭和21
年)の「神社の国家管理解除」により無格となりましたが、現在も地域住民の心の拠り所として崇められています(以下略)。
                                    「掲示板」より引用
        
             手入れも行き届いていて広々とした境内
 千勝神社はかつて埼玉郡吉羽村(明治合併以後は大字吉羽)の村社であり、所在地は吉羽土地区画整理事業が行われる以前は大字吉羽字西1545であったが、2002年(平成14年)1026日の町名変更により吉羽1丁目311と改められた。吉羽土地区画整理以前の境内地面積は1948年(昭和23年)の時点で1042坪を有していた。神社は本来現在地よりも南に位置し、参道も100m以上あったが、1970年(昭和45年)頃の神社東側道路の拡幅工事や周辺開発などで、神社そのものを北方へと移動させるなどの工事が行われたという。
 
  参道左側に祀られている境内社・八坂神社   八坂神社の並びに祀られている雷電宮の石祠
        
                    拝 殿
 千勝神社(さんじゃさま)  久喜市吉羽一五四五(大字吉羽字西)
 吉羽の中でも一番の高地に村の鎮守として創建され、吉羽村及び隣接する西村の人々によって祀られてきた当社は、元来は三社大明神と号していたが、神仏分離を経た明治三年、社名を現行の千勝神社と改め同六年に村社となった。
 そのため比較的若い人や戦後に他所から転入して来た人は、当社を「千勝様」と呼んでいるが、年配の人は「三社様」と呼んでいる。こうした経緯にも示されているように、当社は、実際は千勝神社・八幡神社・鷲宮神社の三社合殿なのである。
『風土記稿』吉羽村の項の「千勝八幡鷲宮合社 三社合祀ゆへ三社大明神とよぶ、村中の鎮守なり、密蔵院持」という記事は、このような当社の祭祀状況を端的に示しており、本殿の内陣には今もこの三社の神像と宝暦十三年(一七六三)十二月に神祇官領吉田家から受けた三社の幣帛が安置されている。神像は、墨書によれば三体共に氏子によって文化十年(一八一三)六月に奉納されたもので、千勝大明神像と鷲宮大明神像は座像で、八幡大明神像は騎乗の像である。
 また、江戸時代に当社の別当であった密蔵院は、真言宗の寺院で、当社の東側に隣接していたが、神仏分離後は廃寺になった。その後、密蔵院の堂は焼失したといわれ、その跡地には太田村の役場が置かれていた。久喜市への合併後は役場も廃され、跡には、現在の太田集会所が建設され、地元住民の集いの場として活用されている。
                                   「埼玉の神社」より引用
        
                    本 殿
 祭礼は7月最初の酉の日とされている。酉の日に行われる理由として、この吉羽の千勝神社に鷲宮神社が合祀されていることに由来し、「昔、鷲宮神社の祭神が沼の向こうから賊に追われ、逃れる途中で千勝神社に宿泊し、この日が酉の日であったため酉の日に祭事が行われるようになった。」という伝承もある。行事としては大字吉羽字西地区(今日では区画整理により町名変更されている)の各家で朝に赤飯を炊き、それを子供が親戚の家に配り、昼には小麦饅頭を作り、夜にはうどんを打ち食す、晩には神社の境内および周辺の家々の道沿いに当番の人が作った灯籠が立てられ明かりがともされる、というものであった。
 この祭礼の翌日に、大字吉羽字西地区(今日では区画整理により町名変更されている)では「ナイダー」という行事が行われており、流行病が地区に入らないよう悪魔除けを目的にした行事である。午前10時に男手が集まり、神社より長い数珠を皆で運び、高輪寺に置かれている鉦を先頭に叩きながら「ナイダー ナイダー」と唱え耕地を巡回するというものである。1979年(昭和54年)頃までは名主・地主・大尽の順に廻り、その後は道なりに全戸を巡回していたが、次第に戸数が増えた関係上、全戸巡回は取り止め、8か所の辻を回り最終的に中落堀川に至り行事の終着地とするようになったという。
 
 本殿左側奥に祀られている境内社・稲荷神社  稲荷神社の右側並びに八王子大権現の石祠あり
        
          雷電宮に対して参道の向かい側に祀られている妙見宮
        
                    妙見宮近郊に聳え立つご神木の如き巨木




参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「ウィキペディア(Wikipedia)」
    「社前掲示板」等


拍手[0回]


西大輪神社(雷電社)

 鷲宮砂丘は新井砂丘・西大輪砂丘とも称され、内陸河畔砂丘・内陸砂丘・河畔砂丘と区分されることもある砂丘である。中川低地の河畔砂丘群の1つである。砂丘は古利根川(現:葛西用水路)の旧河道沿いに発達している。この砂丘は全体として北北西より南南東へと発達し、微高地は主に二条あり、1つは長さ約1000 m・幅約200 m・高さ約5 m、もう1つは長さ約700 m・幅約250 m・高さ約5 mのものとが所在している。これらはその形状と構成する物質から三ヶ月形の河畔砂丘とされている。これら二条の砂丘の他に、この西方にも小規模かつ未発達な三ヶ月形砂丘が確認されている。鷲宮砂丘の断面の勾配は風上側(北西側)は約30度、風下側(南東側)が50度〜60度となっているが、西方の未発達砂丘についてはこの特徴は確認されていない。鷲宮砂丘は中世の時期より形成期に入ったと推定されている。
 この砂丘上に西大輪神社(雷電神社)等は鎮座している。
 

        
             
・所在地 埼玉県久喜市西大輪243
             
・ご祭神 別雷命
             
・社 格 旧西大輪村鎮守
             
・例祭等 獅子舞 7月25日(近日の日曜日) 神幸祭 1015
 西大輪稲倉魂神社から一旦東行し、埼玉県道3号さいたま栗橋線に合流後右折、400m程北上した先の路地を左折すると、なだらかな斜面の砂丘上に西大輪神社(雷電社)は鎮座している。
        
                西大輪神社(雷電社)正面
『日本歴史地名大系』 「西大輪村」の解説
 鷲ノ宮村の南東、久本寺(くほんじ)村の東方にある。天文二三年(一五五四)一二月二四日の足利梅千代王丸印判状(野田文書)に「大輪」とみえ、古河公方義氏が重臣の野田左衛門大夫に御料所とされる当地を宛行っている。もと東大輪と併せ大輪と称していたことが知られるが、その西端は利根川の旧流路筋で、古くから奥州道の渡場で霞ヶ関という関所が設けられていた。対岸が鷲ノ宮であるため鷲ノ宮関所とも称された(「萱氏系図」鷲宮神社文書)。田園簿に村名がみえ、田高四五二石余・畑高四六七石余で、幕府領。
        
                   境内の様子    
   境内は明るく、手入れも行き届いていて、快晴の天候の中気持ちよく参拝ができた。
       
             境内の設置されている「西大輪神社由来記」 
西大輪神社由来記
当社 寛永十八年大輪村 東西に分村の後 西大輪村鎮守鷲大明神御仮屋として建立すと伝う 嘉永二年御仮屋再建棟札に元禄六年頃建立とあり 例祭として東より御神霊お迎えし 村内安全 子孫繁栄を祈念し 旧暦九月十四日より十九日ににわたり氏子当番にて執り行う
明治八年からは御神輿造営し行い三百六十有余年にわたり引き継がれ氏子の拠所となれり
時代の変遷に伴い次第に御祭礼の簡素化やむなく 平成に入り継続し難きに至る 一方 御神霊勧請の声高まり 平成十七年三浦宮司指導のもと西大輪三区役員氏子崇敬者等四十有余名によりなる西大輪神社氏子役員会を結成し推進す 西大輪神社増改築 御神輿修繕神社飛び地境地へ交換等なす
平成十九年十月二十八日大輪神社より御神霊を勧請 粛々と分祀し遷座祭齋行す 氏子永年の悲願果せり
ここに勇壮華麗なる西大輪獅子舞を奉納し御祝儀とす(以下略)
                                     記念碑文より引用
        
           
西大輪神社由来記に並列されて設置されている
      「
中川低地の河畔砂丘群  西大輪砂丘」と「西大輪の獅子舞」の案内板
 埼玉県指定天然記念物  中川低地の河畔砂丘群  西大輪砂丘
 指定年月日  平成二十八年三月十五日
 所在地 久喜市西大輪
 西大輪砂丘は、榛名山や浅間山の火山灰等に由来する大量の砂が、寒冷期の強い季節風により、利根川の旧河道沿いに吹き溜められて形成された内陸性の砂丘である。平安時代から室町時代にかけて形成されたと考えられており、羽生市から越谷市にかけての中川低地に点々と分布する内陸性の河畔砂丘群は、全国的にみても珍しい。
 西大輪砂丘は、利根川の旧河道東側に分布する四列からなる大規模な砂丘列であり、東側の二列の規模が特に大きい。東から順に、長さ千六百メートル・幅百五十メートル、長さ九百八十メートル・幅二百メートルの大きさを誇る。
 指定地は標高約十四メートルに位置する西大輪神社・雷電社の境内であり、西大輪砂丘中で最も保存状態の良い場所の一つである。周辺の低地部との高低 差は約六メートルあり、砂丘の高まりや砂の堆積状況を明確に観察することができる。
 平成二十九年三月二十二日  久喜市教育委員会  
埼玉県教育委員会

 久喜市指定無形民俗文化財 西大輪の獅子舞
 指定年月日 昭和五十二年七月十八日
 所在地   久喜市西大輪
 西大輪の獅子舞は約三百年前から伝わるとされ、七月二十四日には村内の神社や村の境などで、七月二十五日には民家の庭で舞われていた。
 現在では、七月二十五日に近い日曜日に、五穀豊穣・病魔退散・悪病除けを祈念して村回りを行いながら、村の辻々を清め、 西大輪神社・雷電社・胡禄社・金毘羅社・天神社・稲荷社など で舞っている。
 獅子は、大獅子・中獅子・女獅子からなる一人立ち三匹獅子であり、笛方・おか獅子・万灯持ちの諸役がある。
 曲目は、門掛り・すりこみ・もんぜん・花・弓・橋掛り・女獅子隠しとよばれるものなどがあり、躍動感のある勇壮な舞である。
 地元では獅子舞のことを、竹で作った簓という楽器の名にちなみ、「ささら」と呼んでいる。
 平成二十九年三月二十二日 久喜市教育委員会
                                                                    案内板より引用
 この300年の歴史ある旧鷲明神社の獅子舞は、今でも氏子の間に伝えられており、毎年725日(現在ではそれに近い日曜日)に、西大輪地域の三耕地(原・下出・河原)の有志の手により行われている。町指定無形文化財となっているこの獅子舞の詳しい由来はわからないが、五穀豊穣・病魔退散・悪病除け等のために行われるものといわれ、雨が降っても中止したことがないとの事だ。
        
                 西大輪神社 お仮屋
            このお仮屋の中に神興が納められている。
        
                    雷電社
 雷電社(西大輪神社)  鷲宮町西大輪二四三(西大輪字原)
 当社の境内には、社殿が二つある。一つは、別雷命を祀る雷電社のもので、もう一つは大輪神社の「お仮屋」と呼ばれているものである。嘉永二年(一八四九)再建されたと伝えるこのお借り屋は、老朽化が甚だしいかったため、昭和三十年、桜田・鷲宮の町村合併を記念して改築された。その際、同一境内にあるこの両社を総称して西大輪神社と呼ぶことが氏子一同で決議されたが、まだ正式名称にはなっておらず、今も「雷電様」「お仮屋」と各々の通称で呼ぶことのほうが多い。
『風土記稿』西大輪村の項に「鷲明神社 村の鎮守なり、円明院持 末社大六天 天神 雷電 稲荷」とあり、この鷲明神社がお仮屋である。お仮屋の起こりは、明治の合祀によるもので、鷲神社と改称した鷲明神社は、明治四十二年五月五日東大輪の八幡社へ合併し、大輪神社と改称している。この合祀により氏神を失った西大輪では、古くからの祭礼日に大輪神社へ遷された神霊(みたま)を迎えて祭典を行うことを決め、お仮屋として社殿を残したものである。
 したがって、お仮屋とは、例祭の期間だけ東大輪の大輪神社から旧鷲神社の神霊を西大輪の地に奉遷するための建物であり、雷電社は、元来、鷲神社の末社であったが、合祀の際に残されたものである。このほか往時の境外末社である大六天・天神・稲荷も残されているが、これはそれぞれ異なる祭祀組織を持っていたことによると考えられる。
                                  「埼玉の神社」より引用
 雷電社は、古くから雷の神様といわれ、降雨や雷除けなどが祈願されてきた。水田の広がる農業地域である当地では、夏にはよく雷雲が発生し、落雷もしばしば起った。雷の落ちた田には注連縄をめぐらしたり神職にお祓いしてもらう習慣が、かつては広く見られ、こうした雷に寄せる古い信仰から、当社が勧請されたのであろう。但し、雷電社としての恒例の祭事は昔からなく、お仮屋で鷲神社の例祭である神幸祭が行われる時、併せて祭られているという。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「ウィキペディア(Wikipedia)」
    「境内記念碑文・案内板」等

拍手[0回]


西大輪稲倉魂神社

 
        
             
・所在地 埼玉県久喜市西大輪2094
             
・ご祭神 稲荷神(推定)
             
・社 格 旧西大輪村河原鎮守 旧無格社
             
・例祭等 初午祭 3
 JR東鷲宮駅の西側にある「東鷲宮駅入口」交差点を右折し、埼玉県道3号さいたま栗橋線を250m程北上した先にある「久喜市こかわ歩道橋」手前の路地を左折する。道路幅が狭い上に意外と民家が立て並ぶ道路に対して、運転速度に気を付け、急な子供たちの横断や対向車との接触等気をつけながら安全に進み、「葛西用水路」を越えたすぐ先に西大輪稲倉魂神社は道路に対して背を向けたような配置で鎮座している。
 但し周辺には適当な駐車スペースはなく路駐となり、尚且つ、道路側からは参道正面が見ずらい場所にある。境内はフェンスで仕切られており、よく見ると社の西側に入口に通じる細い道があり、回りこむように進み、参拝を開始した。
        
                 西大輪稲倉魂神社朱面
 氏子は西大輪地域内の河原地区に古くから住む数十戸である。社の規模は決して大きくはないが、氏子の方々からは「お稲荷様」と呼ばれ、河原地区の全てにわたってお守りくださる有難い神様であるといわれている。種々の祈願の中でも特に子供に関わる願い事に霊験あらたかで、ある時、子宝に恵まれない婦人が男の子を授けてほしいと願を掛けたところ、三人の男児に恵まれ、以後この家は栄えたとの話も伝えられている。また、お稲荷様のお使いは白狐であり、何かの霊験を示す際には、必ずその姿を現すといわれている。
        
                    拝 殿
  拝殿の手前には狛犬はなく、その代わりに一対の石碑にそれぞれ狐像が彫られている。

 稲荷神社  鷲宮町西大輪二〇九四(西大輪字向天王)
 天王新堀と葛西用水に挟まれた地に鎮座する当社は、西輪の小大名の一つである河原地区の鎮守として祀られている。その創建については明らかでないが、本殿に納められている古色を帯びた三体の稲荷大明神像により、永い歳月を経てきたことがうかがえる。
『風土記稿』西大輪村の項には「鷲明神社 村の鎮守なり、円明院持、末社大六天 天神 雷電 稲荷」とあり、当社は鷲明神社の末社の内の一つとして載せられている。往時の本社であった鷲明神社は、明治四十二年に東大輪の大輪神社に合祀されたが、社殿はそのまま残され、「お仮屋」と呼ばれて現在に至っている。ただし、その所在地は、当社から北へ七〇〇メートルほど離れているところから、同書の記述は鷲明神社の境外末社であったことを示すものであろう。
 明治初年の神仏分離により円明院の管理から離れた当社は、社格制定に際して無格社となった。更に、明治四十年代に入り、村社大輪神社への合祀問題が生じたが、祟りを恐れた氏子は、特に崇敬の厚い槙島家が丁度神社裏手に居を構えていることから、その氏神として管理していく条件で合祀を回避した。その後も河原地区の人々の厚い信仰を基に祀り続けられ、平成元年には念願であった社殿の再建が行われている。なお、槙島家は、合祀回避の中心的役割を担った縁で、今も祭りの際の祝宴の会場となる習わしである。
                                                                    「埼玉の神社」より引用
        
                  すっきりした境内

 かつて山城国南山城宇治(現在の京都府宇治市槇島町)近縁には巨椋池という巨大な池沼が存在し、槇島はそこに浮かぶ島であった。この地には真木島氏(槇島氏、槇嶋氏、真木嶋氏、牧島氏など様々な表記あり)という豪族が根を張り、城郭を築いていた。それが槇島城である。
 元亀4年(1573年)73日、時の公方・足利義昭は織田信長に対して兵を挙げ、藤原氏の流れで室町幕府の奉公衆の一員であった真木島(槇島)昭光を頼り、槇島城へ籠城した。だが、信長は即座に入洛し、城を包囲して義昭を屈服させた(槇島城の戦い)。その後、義昭は河内若江城へ退去させられ、室町幕府は終焉を遂げた。
 真木島昭光は、室町幕府滅亡後、細川越中守忠興に招かれ1,000石を給され、肥後熊本にて亡くなり、子孫は阿波徳島藩等に仕えたとされている。ところでこの昭光の三弟大膳昭久は、武州幸手郡西大輪邑に移り住んだという。
 一方、『新編武蔵風土記稿 権現堂村』条には「舊家者吉十郎 氏を卷嶋と云ふ。世々里正を勤む、先祖卷嶋主水助北条氏直に仕へ、氏直沒落の後當村に来りて村民となれりと云ふ、氏直より賜はりし感狀に、間釜之内十貫文之地を賜ひしことしらる」と載せていて、ここでの巻島氏は、源姓桃井氏流槙島氏として、一色氏・北條氏に仕え、幸手領に居住していた土着豪族であったようだ。
 槇島性は国内でも埼玉県が一番多く分布し、県内でも久喜・幸手両市周辺に集中して今でも現存しているのは事実である。当然、当社の創建にも深く関与している一族でもある。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「ウィキペディア(Wikipedia)」埼玉苗字辞典」等
    



拍手[0回]