古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

中瀬神社

 
所在地  深谷市中瀬650
御祭神  市杵嶋姫命 外十四柱
       又は弁才天、十五童子
社  挌  旧村社
由  緒
 当社は、古くは十五社大明神と称し、吉祥寺の持であった。祭神は弁才天と、その眷属である十五童子を祀っている。弁才天は古代インドの神話に出てくる神で、河を神格化し豊穣をもたらす神である。十五童子は、後世、弁才天を弁財天とも書き、福徳の神と信じられるようになった時、その神徳を表現したものである。才天が水辺や池中の小島に祀られている例が多いのは、
  河の神格化の考えが残っているためであり、当社の場合も、文亀年間(1501-04)、河田義光による開発と共に、利根川辺りに祀られたと考えられる。
 大正二年に村内の神社を合祀し、社名を中瀬神社と改めた。
                                         「埼玉の神社・埼玉県神社庁発行」より
例  祭  11月23日 新嘗祭


        
 中瀬神社は群馬・埼玉県道14号伊勢崎深谷線の上武大橋(南)交差点を右折した中瀬地区内にある。ただ上武大橋(南)交差点を右折し真っ直ぐな道であるわけではないので注意は必要だ。交差点から真東方向に約1km弱位にこの社は鎮座していると考えてくれれば良いと思う。駐車場は一の鳥居の右側に駐車スペースがあり、そこに停め参拝を行った。
            
           
                              拝   殿   
            
                           拝殿の奥にある本殿
 本殿は深谷市の文化財に指定されており、木造銅板葺平屋建で「天保十一年(1840)五月一日上棟 宮大工河田主計千豊」の書付が有るという。残念ながら現在覆い屋があり見ることはできない。

 この社が鎮座する中瀬地区はすぐ北に利根川があり、過去何度も洪水による被害を受けたであろうことは想像に難くない。社殿の基礎が数十センチ高く積まれているのも洪水対策用に造られたものだろう。のどかな田園風景の陰に隠れている歴史の別の一面も感じずにいられない。
             
 

 中瀬神社の創立年代は不詳だが、古く中瀬村の鎮守と崇め、弁財天と十五童子がまつられた。元は「十五社大神社」(十五社様)の名で、字西原に鎮座していたが、大正2年に現在地に遷された。社宝の十五童子木像は、もとは十五社神社の神体だったという。
 明治41年、村長及び氏子惣代が、忠魂碑と征露記念碑の揮毫御礼のために、乃木大将邸を訪問した折りに、静子令夫人から寄贈された硯箱を、宝物として保存する。
 
 祭神である市杵嶋姫命(いちきしまひめ)

 日本神話に登場する水の神で、『古事記』では市寸島比売命、『日本書紀』では市杵嶋姫命(さよりびめのみこと)とされており、スサノオの剣から生まれた五男三女神(うち、三女神宗像三女神という)の一柱とされている。市杵島姫命は天照大神の子で、皇孫邇邇芸命が降臨に際し、養育係として付き添い、邇邇芸命を立派に生育させたことから、子守の神さま、子供の守護神として、崇敬されている。後に仏教の弁才天と習合し、日本の八百万の神々は、実は様々な仏(菩薩や天部なども含む)が化身として日本の地に現れた権現(ごんげん)であるとする考えられている。



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荒川神社

 埼玉県は新井、荒井、新居、荒居等「アライ」姓名が多い県として有名である。特に「新井」姓は埼玉県第一位の大姓であるという。この「アライ」姓を分割すると「アラ」+「イ」となり、そのうち「イ」は国、村、集落を意味し、本来の主語は「アラ」である。そしてこの「新」や「荒」の語源は「埼玉苗字辞典」では古代朝鮮半島の国「安羅」(アラ)から来ているという。

荒 アラ 安羅の神を荒神社と称す。神無月(旧暦十月)に荒神様が馬に乗って出雲の社へ出かけるので絵馬を飾る伝承が東国にある。特に氷川社のある埼玉県南部に此の風習が残っている。また、荒は粗鋼で製鉄神となり、タタラのカマド神となる。奥州太平洋岸の鍛冶師・荒一族は此の荒神を祀っている。荒氏は、福島県相馬郡鹿島町三十戸、新地町百六戸、双葉郡浪江町二十四戸、原町市七十六戸、相馬市二百十三戸、宮城県伊具郡丸森町二十五戸、亘理郡山元町二十三戸、亘理町十二戸、遠田郡涌谷町十八戸あり。

安羅 アラ 阿羅とも記す。安羅は、安邪(あや)、安耶(あや)、漢(あや)とも称す。また、安那(あな)、穴(あな)と称し、阿那(あな)はアダとも称す。韓半島南部の古代は、北方の燕(えん)が遼東方面に進出するにおよんで、遼河・遼東半島方面の辰韓(しんかん)と、鴨緑江・清川方面の弁韓(べんかん)の韓族が南下移動を開始し、辰韓・弁韓族が漢江以南に辰国を建てる。しかし、馬韓(ばかん)族が南下移動を開始した為に、辰国は半島東南部の慶尚道地方に移動して定着し、おのおの辰韓国(後の新羅)、弁韓国(後の伽耶諸国)を建てる。馬韓族は漢江西南に目支国(もくし)を建てた。後の馬韓国(全羅北道益山付近。後の百済)である。目支国の君長は代々辰王を称し、辰韓・弁韓の三韓連盟体を組織する。魏志東夷伝に¬辰韓は馬韓の東に在り。弁辰韓・合せて二十四国、其の十二国は辰王に属す。辰王・常に馬韓の人を用ひて之をなす。世々相継ぐ。辰王自ら立って王たる事を得ず」と見ゆ。後世、高句麗に追われた夫余族の温祚(おんそ)部族の伯済(はくさい)が広州(京畿道)に土着し、目支国を征服して馬韓を支配したのが百済王国の土台となった。梁書・百済伝に¬邑を檐魯(たんろ)と謂ふ。中国の郡県を言ふが如し。其の国、二十二檐魯あり」と見ゆ。百済のクはオオ(大)、ダラは檐魯で、クダラとは¬大邑、大国」と称した。大ノ国は辰王の支配下である韓半島南部の三韓を云う。オオ、オホ、オは阿(お)と書き、阿羅(あら)、安羅(あら)とも称した。此地の阿部(おべ)族渡来集団を阿部(あべ)、安部(あべ)と云う。日本書紀・神代上に¬天照大神、素戔鳴尊と天安河を隔てて相対ひ」。また、¬時に八十万神、天安河辺に会合し」とあり。天安河辺(あまのやすのかわら)の、天は朝鮮国、安(あ、やす)は安羅国、河辺は人の集まる都を云う。また、アラは安羅(あらき)と称し、荒木、新木(あらき)とも書く。新木(いまき)とも称し、今来(いまき)とも書く。安羅国(安耶)の漢(あや)族坂上氏は大和国に渡来して、居住地を母国の今来郡を地名にした。また、出雲国意宇郡出雲郷は、大ノ国の渡来地にて、意宇(おう)郡と地名を付ける。出雲郷は安那迦耶(あだかや)と称し、イヅモとは読まない。大穴持命の子阿陀加夜努志多伎吉比売命を祭る阿陀加夜社の鎮座地なり。安羅(安那)の迦耶人である阿陀族は此の地より、武蔵国へ移住し、居住地を阿陀地(足立)と名付け、其の首領は武蔵国造となり、大宮氷川神社の祭神に大穴持命(大巳貴命)を奉祭す。大穴持命の別名は大ノ国の大ノ神である大国主命である。前述の如く、大ノ国の別名である安羅国は馬韓・弁韓・辰韓の三韓である韓半島南部全域を称す。また、大和国は日本国を指す場合と、奈良県のみを指す場合とがある。是と同じで、三韓全域の安羅国の内に安羅迦耶と云う小国がある。今の慶尚南道の咸安の地で、任那(みまな)国と呼ばれた地方である。垂仁天皇二年紀に¬意富加羅(おほから)の王の子、名は都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)、本土(もとのくに)に返しつかはす。故、其の国を号けて彌摩那国(みまなのくに)と謂ふ」と。姓氏録に¬芦屋村主、百済国意宝荷羅支王より出づるなり」と見ゆ。意宝荷羅(おほから)王の任那国は百済国の内なり。また、継体天皇六年紀に¬任那国の上哆唎、下哆唎、娑陀、牟婁、四県を百済に賜ふ」とあり。全羅南道栄山江の東に哆唎(たり)があり、西に牟婁(むろ)があり、娑陀(さだ)も近くにある。此の辺までの任那国は百済国と称す。また、応神天皇三十七年紀に¬阿智使主は都加使主を呉に遣し、縫工女(きぬぬいめ)を求めしむ。呉王、是に工女の兄媛(えひめ)・弟媛(おとひめ)・呉織(くれはとり)・穴織(あなはとり)、四婦女を与ふ」と。雄略天皇十二年紀に¬身狭村主青等、呉国使と共に、呉の献れる手末(たなすえ)の才伎(てひと、技術職人)、漢織・呉織と衣縫の兄媛・弟媛等を率いて、住吉津に泊る」と。継体天皇二十四年紀に¬久礼牟羅(くれむら)の城(さし)」と見ゆ。呉は中国南部にあった呉国では無く、慶尚北道達城郡苞山の求礼の地にあった国である。呉織、穴織、漢織は同国の人で安羅国の出身である。また、阿羅の阿はクマと称し、阿部族は武蔵国へ移住して居住地を熊谷郷と称した。谷(がい)は垣戸で集落の意味。奥州へ移住した阿部族は熊谷氏を名乗り多く存す。武蔵国の阿部族安羅一族は、新(あら、あらい)を二字の制により新井と記す。

 
荒川は通説では「流れの荒い川」という意味から「荒」が語源になっているというが真相はどうであろうか。荒川は奥秩父に源を発し、奥秩父全域の水を集めて、秩父盆地、長瀞を経て、寄居町で関東平野に出る。熊谷市久下で流路を南東に変え、さいたま、川越両市の間で入間川と合流し、戸田市付近で東に転じて埼玉県と東京都との境をなす。その後隅田川と本流の荒川に分かれて東京湾に注ぐ、延長169km、流域面積2940平方kmの関東第二の大河川であり、埼玉県民にとっていわば母なる川である。

  上記の「荒」、「安羅」の説明を踏まえて考えてみると、荒川の本来の意味は「アラ族が信奉する聖なる川」ではなかったのではないだろうか。埼玉県に非常に多い「アライ」姓と似通った名前の「荒川」にはなにか共通点があるように思えるのだが。

      
所在地     深谷市荒川985
御祭神     天児屋根命、 倉稲魂神、 菅原道真 
社  挌     旧村社
例  祭     10月14日 例大祭  (7月14日 境内社八坂神社、八坂祭)

 荒川神社は関越自動車道・花園ICを出てすぐの花園橋北信号で右折。300m先の寿楽院手前を右折すると、左手に鎮座している。大里郡神社史には、もと大明神社と呼ばれ、大里郡花園村大字荒川字寺ノ脇に鎮座していたという。
         
                        荒川神社正面より撮影
 この社の一の鳥居前には寄居町の波羅伊門神社男衾の小被神社も以前はこんな造りだったが、鳥居の前が交通止めのように石垣造りになっている社はそれほど多くない。同じ一族の共通した建築方法だろうか。

                    
                             拝   殿
                     
                             本   殿
 明治43年、村内数社を字川端の地へ移転合祀して、土地の名により荒川神社とした。その地にあった天満天神社は境内神社となった.
 この天満天神社の御神体は、衣冠束帯の菅公座像という。もとは甲府城主 武田家に代々祭られたもので、武田信玄の自作ともいう。天正年間(1573~92)の天目山戦役の折り、武田勝頼から侍臣小宮山内膳正友信に賜わったもので、友信の弟の又七郎久太夫又一らが当所に落居し、天満天神社として祀ったものという。
 荒川神社は大正4年に字寺ノ脇の現境内へ移転され、同6年に天満天神社は本殿へ合祀された。当神社の通称を「天神様」ともいう。
 
         社殿左側にある境内社 山ノ神社                                 社殿右側にある八坂神社



 さて冒頭「荒」や「安羅」について「埼玉苗字辞典」の記述を紹介した。「荒」の項では「荒」とは安羅の荒神であり、また古代鍛冶集団である製鉄神タタラのカマド神でもあるという。そして「安羅」の項では、古代朝鮮半島の百済国の別名「大ノ国」の「大」をオオ、オホ、オは阿(お)と書き、阿羅(あら)、安羅(あら)ともいい、渡来してから阿部(おべ)族渡来集団を阿部(あべ)、安部(あべ)と称した。
 

 また、アラは安羅(あらき)と称し、荒木、新木(あらき)とも書く。新木(いまき)とも称し、今来(いまき)とも書く。安羅国(安耶)の漢(あや)族坂上氏は大和国に渡来して、居住地を母国の今来郡を地名にした(安羅国の漢(あや)族坂上氏は大和国に渡来して、居住地を母国の今来郡を地名にした為)。そして阿羅の阿はクマと称し、阿部族は武蔵国へ移住して居住地を熊谷郷と称した。谷(がい)は垣戸で集落の意味。奥州へ移住した阿部族は熊谷氏を名乗り多く存す(現在でも「熊谷」姓は岩手、宮城両県に多い)。武蔵国の阿部族安羅一族は、新(あら、あらい)を二字の制により新井と記す、と記されている。

荒井 アライ 安羅国の渡来人にて、荒(あら)を二字の制により荒井とす。此の氏は武蔵国に多く存し、奥州に少ない。
新井 アライ 新(あら)は、安羅(あら)ノ国の渡来人安部族にて、二字の制により、新井と記す。此の氏は埼玉県第一位の大姓なり。安部族は、奥州にては阿部氏及び熊谷氏を名乗り、新井氏は殆ど無し。
荒木 アラキ 新羅(しら)をシラギ、百済を百済木、邑楽を大楽木と称するように、安羅国(後の百済)の安羅(あら)をアラキと称す。安羅の渡来集団は、山陰・山陽地方及び武蔵、出羽方面に移住す。
新木 アラキ
 荒木と同じにて、安羅(あらき)の佳字なり。新木はイマキとも称す。

      


 また氷川神社が鎮座する大宮地方一帯は嘗て「足立郡」と呼ばれていた。この足立郡の由来もこの「安羅」からきているという。

足立 アダチ 此の氏は、豊後国及び出雲・但馬・丹波の山陰地方、また美濃国に多く存す。平安時代の貴族達は百済僧を豊国僧と呼んでいた。豊ノ国から渡来した人々の居住地を豊国(福岡、大分の両県)と称す。神武東征以前の神代の時代に渡来する。大ノ国(後の百済)のオオ・オウ・オホの原語はウと称し、鵜のことをアタと云う。大ノ国は安羅(あら)とも称し、其の渡来集団を安部・阿部と称した。豊前国企救郡足立村(福岡県小倉北区)、大和国宇陀郡足立村(榛原村大字足立)は阿部集団の阿陀族が渡来土着し地名となる。また、近江国浅井郡大井郷(和名抄に於保井と註す)あり、今の虎姫町なり。古代は於保を鵜と呼び、阿陀と云い、大井郷付近を別名足立郡大井郷と称す。当国佐々木氏系図に¬西条貞成(観応勲功・給足立郡大井江地頭)」とあり。また、大ノ国の渡来地を意宇(オウ)と称す、出雲国意宇郡出雲郷の出雲郷は阿陀迦耶(アダカヤ)と称し、イヅモとは読まない。此の地に阿陀加夜社あり、迦耶人の阿陀族の氏神なり。此の地方の出雲族阿陀集団は神武東征に追われ、武蔵国へ移住して、其の住地を足立郡と称した。其の一部は陸奥国安達郡に土着する。日本霊異記下巻七に¬賊地(あたち)に毛人(えみし)を打ちに遣さる」と見え、大和朝廷は東国の阿陀族を蔑視していた。

 「新」は「アタラシ」と読むと同時に「イマ」と読むことができる。前述「新木」を「イマキ」と解釈すると、児玉郡上里町忍保に鎮座する今城青坂稲実池上神社の真の素顔もおぼろげながら見えてくるような気がするが、長くなりそうなのでこのことはいずれ別項を設けて述べたいと思う。

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岡部神社、岡部六弥太忠澄之墓、岡廼宮神社

 埼玉県旧岡部町、現深谷市岡部地区は、深谷市と本庄市に挟まれ、荒川北岸に広がる櫛挽(くしびき)台地上を占める。緑緑豊かな田園が広がる農業地帯で、ブロッコリーやトウモロコシが特産品だ。伝統の地場産業は「お漬物」が有名で、数十年前岡部地区に近い高校に通っていた当時、部活動で周辺をランニングするとお漬物の匂いが辺りから漂っていた事を今でも思い出す。地域のシンボルは、一年を通じて利用客でにぎわう「道の駅おかべ」と、「コスモス街道」で、このコスモス街道は長さは4㎞にも及び、秋の風物詩にもなっている。
 律令時代この一帯は榛沢郡と呼ばれていた郡域で、古くは榛沢郡岡村)は榛沢郡郡衙跡が発見され、旧榛沢郡の中心であったことが判明した地域である。古墳時代から開けていた所で、郡衙周辺には四十塚古墳群熊野古墳群白山古墳群が分布している。

 また平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて岡部町を代表する武将として猪俣党の岡部六弥太忠澄がおり、町名にもなっている。
 ちなみに岡部町に榛沢の地名が残っていて(榛沢、榛沢新田、後榛沢)、『和名抄』は「伴(波牟)佐波」と訓じている。

所在地    埼玉県深谷市岡部705

主祭神    伊弉諾尊 伊弉冉命 (合祀)大山祇命 建御名方命
創  建    弘仁(こうにん)年間(810~24年)
社  格    不明        
        3月17日

地図リンク
 国道17号を岡部駅方向に進み、その手前岡部北交差点のそばに岡部神社の鳥居があり、その鳥居の奥の参道の突き当り左側に岡部神社が鎮座している。この参道は結構長い。残念ながら駐車スペースは無いので、南側の曹洞宗源勝寺の駐車場をお借りして参拝を行った。
 ちなみに岡部神社北下の地は、岡部六弥太忠澄が館を構えた地で、「古城」「本屋敷」などの小字名が残っている。ここから南方の当社まで、幅八間の参道があったという。六弥太忠澄が一の谷の戦功の報賽に社前に植えたといわれる杉は、「鉢杉」と呼ばれて周囲一丈八尺余、高百尺以上の老木となった。
 江戸時代の宝永2年(1705)、岡部城の城主となった安部摂津守以来、代々の城主の崇敬があった。明治の居城返還に際し、城主より金馬簾・陣太鼓・保良貝などが奉納された。鎮座地の小字「上」は、もとは「城上」といっていたのが省かれたものである。
 旧称は「聖天宮」(聖天様)といい、本殿には歓喜天の本像が安置されている。

 
   国道沿いにある両部鳥居形式の一の鳥居       一の鳥居のすぐ後ろに二の鳥居がある
 
岡部神社
 沿革 
 従来は聖天宮と称されており、本殿には歓喜天の木像が安置されている。明治十二(1879)年、岡部神社と改称し、現在に至る。祭神は伊弉諾尊・伊弉冉尊という。
 岡部六弥太忠澄の祈願所とも言われ、寿永年間(1182-1183)、忠澄は一の谷の戦功を感謝し、記念に杉を植栽したと伝えられている。
 後に、徳川家康の関東入国とともに、岡部の地を領地とした岡部藩主安部氏は、当社を崇拝し、代々祈願所として、毎年三月十七日の例祭には参拝した。
 祈願者は近郷より集まり、縁結び、家内安全、五穀豊穣、夜盗除等を祈願した。昭和二十年代以前の夏祭りには、神輿が出てたいへん賑やかなものであったと言う。
 この神輿は、町指定文化財となっており、現在は、神社境内の倉庫(神輿やどり)に保管されている。神輿は、大中小と三種類あり、いずれも四角形、木製無地で、鉄の金具がつき、屋根は銅板ぶきとなっている。このうち最も大きなものは、屋根の中央に鳳凰がつき、屋根下の欄間四方に、鶴、ひばり、昇り龍等の彫刻が繊細に施され、四隅に獅子二頭ずつが彫刻されており、たいへん豪華なつくりとなっている。
 平成三年三月
                                                      
案内板より引用

                   岡部神社拝殿

拝殿右側、北方向にあたる方向に多くの境内社が存在する。
 
             
八坂神社             左から諏訪稲荷神社額部分に「富士」と彫

                            られた石祠、そして社日
 
  馬頭観世音菩薩、三申、二十二夜待塔等

諏訪稲荷大明神
 神社は昔安部藩主陣屋内現在中山栄太郎様屋敷内東郵便局西方に鎮座ましせり。藩主代々二万参千石の安泰と領民の健康、五穀豊穣を祈願?氏神稲荷様なり時の流れにより大正年間当社に合祀。現在に至る。

 昭和四十九年壱月吉日

 
 深谷市の「遺跡 データベース」を見ると岡部地区は先史時代から人々が生活していた数多くの遺跡が存在する。約1万4千年前の後期旧石器時代の遺跡である白草遺跡があり、多数の細石刃や彫刻刀形石器が出土している。縄文時代になると、台地上に数多くの遺跡が出現し、土器を用いて定住するようになる。それに対して弥生時代の遺跡が意外と少なく、縄文時代からいきなり古墳時代に移行したような歴史的な流れがある。
 また榛沢郡の郡衙跡とされる中宿遺跡では郡衙の倉庫が復元されているのに郡庁(郡衙の庁舎)の比定資料が存在しない。榛沢郡は律令時代以前から隣接する幡羅郡と共に豊かな米穀産地で、従事人口も多かったはずであったであろう。
古墳は築造当時の地域の豊かさの目安の一つとなるが、古墳の数、規模において榛沢郡内の古墳は幡羅軍郡のそれと遜色ないか、むしろ古墳の単体規模において優っていたと思われる。それが時代が下ると豊かさの形勢は逆転してしまう。例えば幡羅郡は延喜式神名帳において式内社が4社を数えているに対して、榛沢郡には式内社が全く存在しない。
 東山道武蔵路の開通によって幡羅郡内にその路線が組み込まれたことで幡羅郡の存在が時の権力者にとって大きくクローズアップされたことは大きいだろう。


 この岡部神社の近くに「岡部六弥太忠澄の墓」と言われる墓所がある。墓は、普済寺地区の一角にあり、残りの良い五輪塔が3基並んでいる。このうち最も大きいものが六弥太のものとされている。六弥太の墓石を煎じて飲むと子宝に恵まれるという伝承があり、このため五輪塔が一部削られ変形している。岡部六弥太墓は埼玉県指定史跡に指定されている。

岡部六弥太忠澄之墓
 
地図リンク
 
岡部六弥太忠澄の墓は岡部神社から北西方向、国道17号線を岡部駅交差点手前で右折すると左側に見えてくる。岡部六弥太忠澄は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した武将で御家人。先祖は武蔵七党の一つである猪俣党の庶流で、猪俣野兵衛時範の孫、六太夫忠綱が岡部の地 に館を構えたのを機に岡部氏と称するようになった。忠澄は、忠綱から数え三代目にあたり、保元の乱で源義 朝に仕え、平治の乱では源義平の下で軍功をあげた十七騎の雄将として知られている。また治 承・寿永の乱の際には、源頼朝・源義経にも仕え源氏方につき出兵して、特に一の谷の戦いで、平家方の名将として名高い平忠度を打ち取る軍功を上げた。この場面は「平家物語」にも登場している

 
岡部六弥太忠澄の墓
 岡部六弥太忠澄は、武蔵七党のひとつ猪俣党の出身で、猪俣野兵衛時範の孫、六太夫忠綱が榛沢郡岡部に居住し、岡部氏と称した。
 忠澄は忠綱の孫にあたる。源義朝の家人として、保元・平治の乱に活躍した。六弥太の武勇については、保元・平治物語、源平盛衰記に書かれており、特に待賢門の戦いでは、熊谷次郎直実、斎藤別当実盛、猪俣小平六等源氏十七騎の一人として勇名をはせた。その後、源氏の没落により岡部にいたが治承四(1180)年、頼朝の挙兵とともに出陣し、はじめ木曽義仲を追討し、その後平氏を討った。特に一の谷の合戦では平氏の名将平忠度を討ち、一躍名を挙げた。恩賞として、荘園五ヶ所及び伊勢国の地頭職が与えられた。その後、奥州の藤原氏征討軍や頼朝上洛の際の譜代の家人三一三人の中にも六弥太の名が見える。忠澄は武勇に優れているだけでなく、情深く、自分の領地のうち一番景色のよい清心寺(現深谷市萱場)に平忠度の墓を建てた。
 現在地には鎌倉時代の典型的な五輪塔が六基並んで建っているが(県指定史跡)、北側の三基のうち中央の最も大きいものが岡部六弥太忠澄の墓(高さ一・八メートル)、向かって右側が父行忠の墓、左側が夫人玉の井の墓といわれている。
 六弥太の墓石の粉を煎じて飲むと、子のない女子には子ができ、乳の出ない女子は乳が出るようになるという迷信が伝わっており、このため現在、六弥太の五輪塔は削られ変形している。
 平成三年三月
                                                      案内板より引用

  

 忠度を討ち取った忠澄であったが、忠度の死を惜しみ、その霊を慰めるために所領の岡部原に五輪の塔を建立した。その後、五輪の塔は慶安2年(1649年)に、清心寺(深谷上杉氏家臣岡谷清英創建)に移築された。


岡廼宮神社
 
地図リンク
 埼玉県道259号線と国道17号線が交差する岡部駅入口交差点から17号線を西へ向かって行くとその内に岡廼宮神社が見えて来る。雨覆屋根の付いた鳥居に鳥居に掛けられた額には「聖天宮」の文字が刻まれている 。岡部神社と同じ系統の神社だろうか。
 
岡廼宮神社

沿革 大正十(1920)年、諏訪神社、久呂多神社、稲荷神社を合祀し、岡上神社を岡廼宮神社と改称した。祭神は伊邪那岐命・伊邪那美命という。江戸時代の初め、村の鎮守であった聖天社は建物の腐朽甚だしかったが、池田三郎左衛門貞長という武士により改築された。貞長は、高崎城主安藤右京進にお預けの身となった徳川忠長(徳川家光の弟)の側近であったが、何者かの讒言にあい側近役の地位を追われ、岡村に蟄居していた。忠長は、自害する前に、讒言に惑わされ貞長を追放したことを後悔し、「自分の死後、菩提を弔うように」との遺命を貞長に下した。この遺命により、貞長は岡村に全昌寺を建立し、また当社も改築した。落成すると貞長は、神前において主君の後を追い切腹した。
 また当社では、獅子舞いが行われており、町指定文化財になっている。獅子舞いの構成は、法眼、女獅子、男獅子の三人と、花笠、笛方、歌方等からなり、舞手は、袴にワラ草履、腰に小太鼓をつけて打ちながら舞う。江戸時代から伝承されている貴重な無形文化財である。

                                                                                                                     
岡上屋台囃子
 深谷市無形民俗文化財
 平成17年10月1日 指定
由来
 旧岡村に古来より伝承されている屋台囃子、時代を遡ること十八世紀末、天明・寛政年間と伝えられている。昔は、毎年のように日照と悪疫に悩まされた里人たちが、雨乞いと病疫消除を祈願するため時の領主や役人に嘆願し、中山道岡村の入り口にある丘陵地に八坂神社を勧請し、祠を建立し、お囃子を奉納したことに始まったと伝えられている。
 囃子の構成は、大太鼓1・小太鼓3・摺鉦3~4・笛3~4・外につづみ2・三味線1(囃子の曲目により演奏する)。次に囃子の技名は、ぶっつけ・切返し・転がし・ぶっきり等。次に笛の曲目は1.旧ばやし・2.新ばやし・3.靜門・4.通りばやし・5.夜神楽・6.ひょっとこ囃子の曲目がある。特に、岡上・岡下には屋台があり祭りを行っていた。
 また、岡上は、熊谷市の本町三丁目・四丁目に頼まれて、教えに行ったりしていた。
 現在もなお、八坂神社の夏祭りに演奏し、昔ながらのお囃子を継承しながら、屋台を中心とした保存会が発足されており、伝統文化を後世に伝えるために努力している。
 これは、江戸時代から伝承されている貴重な無形文化財である。

  
                    一の鳥居より撮影                                                            殿
 
                                              殿
 
岡廼宮神社決して大きな社ではないが、拝殿には色塗りされた通称岡の聖天さまの龍が彫刻されていた。制作年は新しいようで、小ぶりだが気品がある。龍は聖天信仰の一つの信仰形態と言われているし、その流れだろうか。また本殿も壁には美しい彫刻があり、暫しの時間見入っていた。この社には全体的に品を感じた。

 
          正一位稲荷大明神            三郎左衛門稲荷神社と秋葉神社                   石    祠

 




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古櫃神社

 古櫃神社が鎮座する深谷市新戒は「新開」とも書き、鎌倉右府の時(源頼朝の時代)、秦河勝の末、新開荒次郎忠氏が、この地に要害を築き、祖神大荒明神を勧請し、伝来の武器を刀櫃に入れ社の下に納めたものという。旧称「明神宮」または「新開神社」という。
 新開氏は秦河勝の後裔といわれ、もとは信濃国が本領で同国佐久郡および近江国新開荘が所領地とされる。佐久を本貫地とするこの新開氏の一派は武蔵国の新戒(榛沢郷大寄郷)に移住し、古櫃神社を創建した。信濃国佐久郡の内友荘田口郷に新開大明神が祭られたとき、松皮菱を紋とし、同様に移住先の古櫃神社の神紋も同じ松皮菱であるという。

 佐久郡
新戒地名と開荒次郎忠氏が繋がっていてしかもそれらは秦河勝、つまり古代朝鮮新羅系渡来人一族である秦氏とも繋がっている。歴史とはこのように深いものなのか、感慨深いものがあった。

所在地  埼玉県深谷市新戒300
御祭神  大荒明神(大荒彦命)
社  挌  旧村社
例  祭    11月15日 秋祭り  11月23日  新嘗祭
 

    
  古櫃神社は国道17号バイパス線を深谷方向に進み、深谷署前交差点を右折し、そのまままっすぐ進み、小山川を越え新戒交差点を右折し(この道は埼玉県道45号本庄妻沼線)約1km位で到着する。進路方向に対して右側にあり、駐車場もその道路上に数台駐車スペースがある。ただ社殿は南向きなので、駐車場は社殿正面の真逆に位置するため、いったん回るようにしなければ参拝できない。といってもそれ程大きい社ではないので苦にはならないが。
 
    
       古櫃神社 一の鳥居と社号標               一の鳥居の左隣にある案内板
古櫃神社(新戒)
  全国で唯一の社名をもつ当社は、新戒の鎌倉街道北側に鎮座している。
創建は鎌倉期秦河勝の裔で、新開荒次郎忠氏が肥沃な当地に館を構え、祖神の大荒明神を勧請し、伝来の社器を櫃に入れて社の下に納め、館の守護神としたことによると伝える。
新開荒次郎忠氏は鎌倉時代丹党の旗頭で、源頼朝の重臣なり。
 永禄年中深谷上杉氏に属す。深谷上杉氏は北条氏に協和しており、北条氏が滅ぶと新開氏も深谷上杉氏とともに滅んだが、四国に移った一族は阿南市牛牧城主となり、地域発展に貢献し、城跡には新開神社がある。
 年間の祭事は、春・秋の祭りなどあり、五穀豊穣と奉賽の祭りが行われ、七月の八坂祭は特に盛大に行われ、市内最大の神輿を渡御して健康を祈る
 
     
                   参道から見た拝殿と両側にある銀杏の大木
 拝殿の両側にある銀杏はどちらも深谷市指定保存樹木第13号(左側)、14号(右側)で、どちらも平成二年十月二十日に指定されている。
         
                              拝    殿
         
                              本    殿
 
              
輿庫                         手前、奥共に猿田彦大神
   
      境内社 左側不詳                      稲荷社                  大杉神社
        右側八坂神社             
        
                             浅間神社
祭神 木花佐久夜毘売命
由緒

  
源頼朝の富士の巻狩のころ、新開荒次郎忠氏は、駿河の富士山に向かって当地に丘を築き、富士浅間神社を祀って武運長久を祈ってのち、参向したという。明治初年より明治20年頃まで、富士講の盛んだった時代があった。当事3月3日の大祭には、社殿は御篭りと称して参篭する者で溢れたため、富士講先達たちにより篭り堂が建設されたほか、数々の奉納があった。

 この古櫃神社は全国的に見ても唯一の名「古櫃」を使用した神社で、名前の由来も新開荒次郎忠氏が、この地に要害を築き、祖神大荒明神を勧請し、伝来の武器を刀櫃に入れ社の下に納めたものと言われているが、真相は違うところにあるのではないだろうか。というのも境内社 浅間神社の石垣の中に奇妙な石碑があるのだ。
 
 この石碑の築造年代は不詳だが、石碑表面の研磨状態等、一見したところ新しく感じた。この石碑には中央に4文字しっかりとした字体で彫られている。1文字目は上部が欠けているので判別できない。また書体が3文字目、4文字目の部首が「しめすへん」でそれぞれ「神」、「社」の篆書体のようにも見える。そして一番難しいのが2文字目だ。
 そこで都合がいいことは承知の上で、この石碑がこの神社の境内にあることから単純に「こひつ(びつ)じんじゃ」と書かれていると仮定した。そしてこの4文字を現代書体で書くとおおよそこのようになると推定した。以下の通りだ。

 ・ ①古 +②羊 +③神 +④社



 新開荒次郎忠氏の祖先神である秦河勝6世紀後半から7世紀半ばにかけて聖徳太子の側近として大和朝廷で活動した秦氏出身の豪族と言われている。そして秦河勝の子孫は信濃国の佐久地方に東国の根拠地を置いてその一派がこの新戒にも移住したというが、その移住ルートは間違いなく東山道だろう。

 対して羊一族といえば多胡羊太夫だが、この人物(人物ではない説もあるがここでは人物としてあえて詮索しない)は養老5年=721年までは生存していた、と言われている。埼玉名字辞典では「羊」について以下の記述をしている。

羊 ヒツジ 中国では北方の羊を飼う異民族を蕃(えびす)、胡(えびす)、羌(えびす)と称し、あごのたれさがった肉、転じて胡髯(あごひげ)と云い、羌(ひつじ)、羊(ひつじ)はその蔑称である。大和朝廷は中華思想により大ノ国(百済、伽耶地方)の渡来人を蕃、羊と蔑称した。オオ条参照。大ノ国の胡(えびす)居住地を大胡(おおご)、多胡(おおご)と称し、タコとも読んだ。百済(くだら)も管羅(くだら、かんら)と称し、甘楽(かんら)、甘良(かんら)と読んだ。上野国多胡郡池村(多野郡吉井町)の多胡碑に「和銅四年三月九日、弁官、上野国に符し、片岡郡緑野郡甘良郡并せて三郡の内三百戸を郡となし、羊に給して多胡郡と成す。左中弁正五位下多治比真人、太政官二品穂積親王、左大臣正二位石上尊(麻呂)、右大臣正二位藤原尊(不比等)」とあり。多胡郡百済庄は吉井町池、片山、長根、神保附近一帯を称し、羊は和銅より数百年前から居住していた百済人を指す。また、和銅四年より五十数年後の天平神護二年五月紀に「上野国に在る新羅人子午足等一百九十三人に、姓を吉井連と賜ふ」とあり。新羅人も入植していた。上毛古墳綜覧に多胡郡黒熊村字塔ノ峰(吉井町)より「羊子三」とへら書した古代の瓦が出土したという。群馬県古城塁址の研究に「黒熊村の延命寺の地域は伝説に羊太夫の臣黒熊太郎の古跡なり」と見ゆ。また、甘楽郡天引村(甘楽町)の天引城は羊太夫の砦と伝へる。緑野郡上落合村(藤岡市)七輿山宗永寺は羊太夫家臣長尾宗永の居所で、羊太夫の死後その婦妾七人が宗永に救助を求めて輿中で自害し、のち墳墓を七輿山宗永寺としたと伝へる。

 少なくとも秦一族が佐久を東国の本拠地として領有していた時期と、羊一族が多胡地方に生活の基盤を構築した時期はそれほど変わらないように感じる。そして秦一族は東山道を通して幡羅郡新戒に移住する。そしてそのルートの途中に多胡が存在し、加えて古櫃神社の境内の片隅にある「古羊(?)神社」の石碑。偶然として関連性がないと断言することはいささか早計なことではあるまいか。


 

 

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小前田諏訪神社

 村上天皇の応和年中(961~964)、奥羽地方より藤田郷に移住した鈴木氏等は、「上の原」の地に祖神の諏訪神社を祭って、土着した。彼らの遠祖は、田村麻呂将軍に従って当国より奥州征伐に行ったものという。土着に際し、信州諏訪神社大前の水田にちなみ、社前の平野を御前田原と呼んだ。「御前田」または「小前田」の地名は、この時に始まる。
  文明年中(1469~87)花園城主・藤田掃部左衛門氏家公が、領地住民の為、信濃の国諏訪より正一位南宮法性大明神を分霊勧請し、社殿を整えた。その後藤田家の離散、鉢形北条氏の滅亡により神社は荒廃したが、永禄5年(1562)小前田の住人長谷部兵庫吉長が現在地に遷座し、小前田の鎮守となった。安政5年には現在の本殿が造立。


所在地    埼玉県深谷市小前田1
主祭神    建御名方命
          八坂刀売命
          大国主命
社  格    旧村社 

創  建    応和3年(963)
由  緒    
この一帯を支配していた花園城主藤田藤田掃部左衛門氏家が、領地領民の安寧の為に、
         信濃の国の諏訪大社より分霊を勧請し、お祀りしたのが始まりとされている。

例  祭         10月第2土曜日、日曜日 諏訪神社祭礼(小前田屋台まつり)

            
  地図リンク
  小前田諏訪神社は秩父鉄道・小前田駅の南西約200mの場所に鎮座している。久喜市鷲宮の鷲宮神社と同じく、住所が小前田1ということはこの神社を中心として町が形成されたのではないかと推測する。
 当社は桓武天皇の御代、坂上田村麻呂の蝦夷征討に際し、当地から徴募された軍士の中には、彼地に永住するものもあった。その子孫が、応和3年(963)、同族と共に当国に戻り、安住するに当り、塚を築き、その上に自ら信仰する諏訪の神を祀ったのが、その始まりであるという。
     
           鳥居の左側にある立派な社号標                                  入口にある靖国鳥居
 小前田諏訪神社は鳥居を潜ってしばらく参道を歩くが正面には社殿はなく、途中右に90度曲がっている。その曲がった先に社殿が存在する。
 
         

  文明年中(1469~87)この一帯を支配していた花園城主十一世藤田藤田掃部左衛門氏家が、領地領民の安寧の為に、信濃の国の諏訪大社、正確には諏訪神社上社より分霊を勧請し、お祀りしたのが始まりとされている。永禄5年(1562)小前田の住人長谷部兵庫吉長が現在地に遷座し、小前田の鎮守となった。安政5年には現在の本殿が造立される。明治15年には蚕影神社が合併されている。
       
          
                                  拝   殿
           
                                                                  本  殿
  当社を支配していた花園城主藤田氏は、武蔵七党の猪股党の出で、猪俣野兵衛尉時範の子政行が武蔵国榛沢郡藤田郷に拠って藤田を称したことに始まる。
 武蔵七党は、武蔵国に本拠をおいた同族的武士団の総称で、坂東八平氏と称される平氏の一門とともに坂東武者と称され、弓馬に通じて武蔵・相模二州の兵は、天下の兵に匹敵すると賞賛された。 七党の数え方は一定しないが、野与党・村山党・横山党・児玉党・西党・丹党・私市党などが挙げられる。猪股党は横山党と同族で、小野篁の後裔で武蔵守として下向土着した小野孝泰の孫時範が児玉郡猪俣に居住したことに始まる。

 藤田氏の祖藤田五郎政行は平安時代末期、保元の乱源氏勢として戦に参加し、その嫡男三郎行康も源平合戦では源氏勢として参加して元暦元年(1184)の一の谷生田森の合戦で先陣をはたし戦死した。頼朝は行康の功を賞し、嫡男の能国に遺跡を安堵している。鎌倉時代を通じて常に藤田氏は時の幕府から信頼を受け、幕府問注所の寄人に召されて幕政にも参加、建治三年(1277)、問注所の寄人に召し出された藤田左衛門尉行盛は奉行人として活躍した。その後元弘元年(1331)、後醍醐天皇による元弘の変が起り、その後の動乱によって鎌倉幕府は倒れ北条氏も滅亡した。元弘三年のことで、後醍醐天皇親政による建武の新政が開始された。その間、藤田氏がどのように行動したのか、その動向は明確ではない。
  南北朝の争乱期に藤田氏がどのように行動したかは史料が少なく、必ずしも明確ではないが当初は新田義貞を大将とする尊氏討伐軍に藤田六郎左衛門、三郎左衛門、四郎左衛門らが従っていたが、尊氏方に属した者もいたようで藤田一族は二派に分かれたようだ。ただし、当時の武士団の一般的な傾向で、その背景には惣領制の崩壊がもたらした嫡庶の対立があり藤田氏もその例外ではなかったのである。その後、関東に幕府の出先機関ともいうべき鎌倉府が置かれ、藤田氏は上杉方として行動したものと見られる。
  応永二十三年(1416)、前関東管領上杉禅秀が関東公方足利持氏に反乱を起した。禅秀の乱で、上野・武蔵の武士の多くが禅秀に味方し、藤田氏一族と思われる藤田修理亮も禅秀方に属して所領を没収されている。関東は永享の乱、結城合戦と戦乱の時代を迎え、翌嘉吉元年(1441)ようやく終結する。

 藤田氏はそれ以降後北條氏の関東進出まで、山内上杉勢の四家老の一家として参加した。その勢力は現在の寄居町の天神山城を拠点として、最盛期には大里・榛沢・男衾・秩父・那珂・児玉・賀美に及ぶ広範囲であり、小前田諏訪神社もその所領内に入る。

    
八衢比賣神、久那斗神、八衢比古神             浅間神社                            天手長男神社

                           
                                     
白山神社                          その他本殿の奥の祠群

  その他和魂神社、八坂、琴平神社、蚕影神社、神明社、春日神社等が諏訪神社境内に鎮座している。

 戦国期、ついに後北條家の関東進出が顕著になる。北條氏綱・氏康親子による天文六(1537)年の川越城夜戦では、関東管領・山内上杉憲政、扇谷上杉朝定と、古河公方・足利晴氏の軍総勢八万の軍勢の一軍として参加し、敗北を喫する。これにより主家を失った藤田重利は北条氏の軍門に降り、氏康四男・氏邦を養子に迎え、その家督を譲った。同時に名も「康邦」と改めたという。北條氏邦は1560年(永禄3)以降、鉢形城(大里郡寄居町)を整備して天神山城から居城を移し、北関東の最前線の拠点として、また甲斐・信濃からの侵攻への備えとして重要な役割を担った。

 天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めの際には、後北条氏の重要な支城として、前田利家・上杉景勝等の北国軍に包囲され、激しい攻防戦を展開した。1ヶ月余りにおよぶ籠城の後、北条氏邦は、6月14日に至り、城兵の助命を条件に開城し北條小田原家は滅亡する。そして同時に藤田氏本流としての400年の歴史が終結することを意味していた。
         

                                  諏訪神社祭り屋台の案内板が道路沿いにある。
 諏訪神社で例年催される例祭は「小前田屋台まつり」別名「アルエット祭り」といい、その屋台は3台ながら秩父市の秩父神社に負けず素晴らしいものだ。   
 
諏訪神社祭礼(小前田屋台まつり)
  旧花園町小前田地区には3台の屋台があり、いずれも明治初期に造られたもので、その雄大な造りや彫刻により、昭和52年には有形民俗文化財に指定されています。この3台の屋台を毎年10月の第2土曜・日曜日に引き出し、国道140号線の秩父往還で屋台囃子を演じながら曳(ひ)き回します。また、祭礼期間以外でも「道の駅はなぞの」にて、常時屋台を展示しています。
                                                                                                     深谷市観光協会より引用


                                                                                                                 

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