古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

古櫃神社

 古櫃神社が鎮座する深谷市新戒は「新開」とも書き、鎌倉右府の時(源頼朝の時代)、秦河勝の末、新開荒次郎忠氏が、この地に要害を築き、祖神大荒明神を勧請し、伝来の武器を刀櫃に入れ社の下に納めたものという。旧称「明神宮」または「新開神社」という。
 新開氏は秦河勝の後裔といわれ、もとは信濃国が本領で同国佐久郡および近江国新開荘が所領地とされる。佐久を本貫地とするこの新開氏の一派は武蔵国の新戒(榛沢郷大寄郷)に移住し、古櫃神社を創建した。信濃国佐久郡の内友荘田口郷に新開大明神が祭られたとき、松皮菱を紋とし、同様に移住先の古櫃神社の神紋も同じ松皮菱であるという。

 佐久郡
新戒地名と開荒次郎忠氏が繋がっていてしかもそれらは秦河勝、つまり古代朝鮮新羅系渡来人一族である秦氏とも繋がっている。歴史とはこのように深いものなのか、感慨深いものがあった。

所在地  埼玉県深谷市新戒300
御祭神  大荒明神(大荒彦命)
社  挌  旧村社
例  祭    11月15日 秋祭り  11月23日  新嘗祭
 

    
  古櫃神社は国道17号バイパス線を深谷方向に進み、深谷署前交差点を右折し、そのまままっすぐ進み、小山川を越え新戒交差点を右折し(この道は埼玉県道45号本庄妻沼線)約1km位で到着する。進路方向に対して右側にあり、駐車場もその道路上に数台駐車スペースがある。ただ社殿は南向きなので、駐車場は社殿正面の真逆に位置するため、いったん回るようにしなければ参拝できない。といってもそれ程大きい社ではないので苦にはならないが。
 
    
       古櫃神社 一の鳥居と社号標               一の鳥居の左隣にある案内板
古櫃神社(新戒)
  全国で唯一の社名をもつ当社は、新戒の鎌倉街道北側に鎮座している。
創建は鎌倉期秦河勝の裔で、新開荒次郎忠氏が肥沃な当地に館を構え、祖神の大荒明神を勧請し、伝来の社器を櫃に入れて社の下に納め、館の守護神としたことによると伝える。
新開荒次郎忠氏は鎌倉時代丹党の旗頭で、源頼朝の重臣なり。
 永禄年中深谷上杉氏に属す。深谷上杉氏は北条氏に協和しており、北条氏が滅ぶと新開氏も深谷上杉氏とともに滅んだが、四国に移った一族は阿南市牛牧城主となり、地域発展に貢献し、城跡には新開神社がある。
 年間の祭事は、春・秋の祭りなどあり、五穀豊穣と奉賽の祭りが行われ、七月の八坂祭は特に盛大に行われ、市内最大の神輿を渡御して健康を祈る
 
     
                   参道から見た拝殿と両側にある銀杏の大木
 拝殿の両側にある銀杏はどちらも深谷市指定保存樹木第13号(左側)、14号(右側)で、どちらも平成二年十月二十日に指定されている。
         
                              拝    殿
         
                              本    殿
 
              
輿庫                         手前、奥共に猿田彦大神
   
      境内社 左側不詳                      稲荷社                  大杉神社
        右側八坂神社             
        
                             浅間神社
祭神 木花佐久夜毘売命
由緒

  
源頼朝の富士の巻狩のころ、新開荒次郎忠氏は、駿河の富士山に向かって当地に丘を築き、富士浅間神社を祀って武運長久を祈ってのち、参向したという。明治初年より明治20年頃まで、富士講の盛んだった時代があった。当事3月3日の大祭には、社殿は御篭りと称して参篭する者で溢れたため、富士講先達たちにより篭り堂が建設されたほか、数々の奉納があった。

 この古櫃神社は全国的に見ても唯一の名「古櫃」を使用した神社で、名前の由来も新開荒次郎忠氏が、この地に要害を築き、祖神大荒明神を勧請し、伝来の武器を刀櫃に入れ社の下に納めたものと言われているが、真相は違うところにあるのではないだろうか。というのも境内社 浅間神社の石垣の中に奇妙な石碑があるのだ。
 
 この石碑の築造年代は不詳だが、石碑表面の研磨状態等、一見したところ新しく感じた。この石碑には中央に4文字しっかりとした字体で彫られている。1文字目は上部が欠けているので判別できない。また書体が3文字目、4文字目の部首が「しめすへん」でそれぞれ「神」、「社」の篆書体のようにも見える。そして一番難しいのが2文字目だ。
 そこで都合がいいことは承知の上で、この石碑がこの神社の境内にあることから単純に「こひつ(びつ)じんじゃ」と書かれていると仮定した。そしてこの4文字を現代書体で書くとおおよそこのようになると推定した。以下の通りだ。

 ・ ①古 +②羊 +③神 +④社



 新開荒次郎忠氏の祖先神である秦河勝6世紀後半から7世紀半ばにかけて聖徳太子の側近として大和朝廷で活動した秦氏出身の豪族と言われている。そして秦河勝の子孫は信濃国の佐久地方に東国の根拠地を置いてその一派がこの新戒にも移住したというが、その移住ルートは間違いなく東山道だろう。

 対して羊一族といえば多胡羊太夫だが、この人物(人物ではない説もあるがここでは人物としてあえて詮索しない)は養老5年=721年までは生存していた、と言われている。埼玉名字辞典では「羊」について以下の記述をしている。

羊 ヒツジ 中国では北方の羊を飼う異民族を蕃(えびす)、胡(えびす)、羌(えびす)と称し、あごのたれさがった肉、転じて胡髯(あごひげ)と云い、羌(ひつじ)、羊(ひつじ)はその蔑称である。大和朝廷は中華思想により大ノ国(百済、伽耶地方)の渡来人を蕃、羊と蔑称した。オオ条参照。大ノ国の胡(えびす)居住地を大胡(おおご)、多胡(おおご)と称し、タコとも読んだ。百済(くだら)も管羅(くだら、かんら)と称し、甘楽(かんら)、甘良(かんら)と読んだ。上野国多胡郡池村(多野郡吉井町)の多胡碑に「和銅四年三月九日、弁官、上野国に符し、片岡郡緑野郡甘良郡并せて三郡の内三百戸を郡となし、羊に給して多胡郡と成す。左中弁正五位下多治比真人、太政官二品穂積親王、左大臣正二位石上尊(麻呂)、右大臣正二位藤原尊(不比等)」とあり。多胡郡百済庄は吉井町池、片山、長根、神保附近一帯を称し、羊は和銅より数百年前から居住していた百済人を指す。また、和銅四年より五十数年後の天平神護二年五月紀に「上野国に在る新羅人子午足等一百九十三人に、姓を吉井連と賜ふ」とあり。新羅人も入植していた。上毛古墳綜覧に多胡郡黒熊村字塔ノ峰(吉井町)より「羊子三」とへら書した古代の瓦が出土したという。群馬県古城塁址の研究に「黒熊村の延命寺の地域は伝説に羊太夫の臣黒熊太郎の古跡なり」と見ゆ。また、甘楽郡天引村(甘楽町)の天引城は羊太夫の砦と伝へる。緑野郡上落合村(藤岡市)七輿山宗永寺は羊太夫家臣長尾宗永の居所で、羊太夫の死後その婦妾七人が宗永に救助を求めて輿中で自害し、のち墳墓を七輿山宗永寺としたと伝へる。

 少なくとも秦一族が佐久を東国の本拠地として領有していた時期と、羊一族が多胡地方に生活の基盤を構築した時期はそれほど変わらないように感じる。そして秦一族は東山道を通して幡羅郡新戒に移住する。そしてそのルートの途中に多胡が存在し、加えて古櫃神社の境内の片隅にある「古羊(?)神社」の石碑。偶然として関連性がないと断言することはいささか早計なことではあるまいか。


 

 

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小前田諏訪神社

 村上天皇の応和年中(961~964)、奥羽地方より藤田郷に移住した鈴木氏等は、「上の原」の地に祖神の諏訪神社を祭って、土着した。彼らの遠祖は、田村麻呂将軍に従って当国より奥州征伐に行ったものという。土着に際し、信州諏訪神社大前の水田にちなみ、社前の平野を御前田原と呼んだ。「御前田」または「小前田」の地名は、この時に始まる。
  文明年中(1469~87)花園城主・藤田掃部左衛門氏家公が、領地住民の為、信濃の国諏訪より正一位南宮法性大明神を分霊勧請し、社殿を整えた。その後藤田家の離散、鉢形北条氏の滅亡により神社は荒廃したが、永禄5年(1562)小前田の住人長谷部兵庫吉長が現在地に遷座し、小前田の鎮守となった。安政5年には現在の本殿が造立。


所在地    埼玉県深谷市小前田1
主祭神    建御名方命
          八坂刀売命
          大国主命
社  格    旧村社 

創  建    応和3年(963)
由  緒    
この一帯を支配していた花園城主藤田藤田掃部左衛門氏家が、領地領民の安寧の為に、
         信濃の国の諏訪大社より分霊を勧請し、お祀りしたのが始まりとされている。

例  祭         10月第2土曜日、日曜日 諏訪神社祭礼(小前田屋台まつり)

            
  地図リンク
  小前田諏訪神社は秩父鉄道・小前田駅の南西約200mの場所に鎮座している。久喜市鷲宮の鷲宮神社と同じく、住所が小前田1ということはこの神社を中心として町が形成されたのではないかと推測する。
 当社は桓武天皇の御代、坂上田村麻呂の蝦夷征討に際し、当地から徴募された軍士の中には、彼地に永住するものもあった。その子孫が、応和3年(963)、同族と共に当国に戻り、安住するに当り、塚を築き、その上に自ら信仰する諏訪の神を祀ったのが、その始まりであるという。
     
           鳥居の左側にある立派な社号標                                  入口にある靖国鳥居
 小前田諏訪神社は鳥居を潜ってしばらく参道を歩くが正面には社殿はなく、途中右に90度曲がっている。その曲がった先に社殿が存在する。
 
         

  文明年中(1469~87)この一帯を支配していた花園城主十一世藤田藤田掃部左衛門氏家が、領地領民の安寧の為に、信濃の国の諏訪大社、正確には諏訪神社上社より分霊を勧請し、お祀りしたのが始まりとされている。永禄5年(1562)小前田の住人長谷部兵庫吉長が現在地に遷座し、小前田の鎮守となった。安政5年には現在の本殿が造立される。明治15年には蚕影神社が合併されている。
       
          
                                  拝   殿
           
                                                                  本  殿
  当社を支配していた花園城主藤田氏は、武蔵七党の猪股党の出で、猪俣野兵衛尉時範の子政行が武蔵国榛沢郡藤田郷に拠って藤田を称したことに始まる。
 武蔵七党は、武蔵国に本拠をおいた同族的武士団の総称で、坂東八平氏と称される平氏の一門とともに坂東武者と称され、弓馬に通じて武蔵・相模二州の兵は、天下の兵に匹敵すると賞賛された。 七党の数え方は一定しないが、野与党・村山党・横山党・児玉党・西党・丹党・私市党などが挙げられる。猪股党は横山党と同族で、小野篁の後裔で武蔵守として下向土着した小野孝泰の孫時範が児玉郡猪俣に居住したことに始まる。

 藤田氏の祖藤田五郎政行は平安時代末期、保元の乱源氏勢として戦に参加し、その嫡男三郎行康も源平合戦では源氏勢として参加して元暦元年(1184)の一の谷生田森の合戦で先陣をはたし戦死した。頼朝は行康の功を賞し、嫡男の能国に遺跡を安堵している。鎌倉時代を通じて常に藤田氏は時の幕府から信頼を受け、幕府問注所の寄人に召されて幕政にも参加、建治三年(1277)、問注所の寄人に召し出された藤田左衛門尉行盛は奉行人として活躍した。その後元弘元年(1331)、後醍醐天皇による元弘の変が起り、その後の動乱によって鎌倉幕府は倒れ北条氏も滅亡した。元弘三年のことで、後醍醐天皇親政による建武の新政が開始された。その間、藤田氏がどのように行動したのか、その動向は明確ではない。
  南北朝の争乱期に藤田氏がどのように行動したかは史料が少なく、必ずしも明確ではないが当初は新田義貞を大将とする尊氏討伐軍に藤田六郎左衛門、三郎左衛門、四郎左衛門らが従っていたが、尊氏方に属した者もいたようで藤田一族は二派に分かれたようだ。ただし、当時の武士団の一般的な傾向で、その背景には惣領制の崩壊がもたらした嫡庶の対立があり藤田氏もその例外ではなかったのである。その後、関東に幕府の出先機関ともいうべき鎌倉府が置かれ、藤田氏は上杉方として行動したものと見られる。
  応永二十三年(1416)、前関東管領上杉禅秀が関東公方足利持氏に反乱を起した。禅秀の乱で、上野・武蔵の武士の多くが禅秀に味方し、藤田氏一族と思われる藤田修理亮も禅秀方に属して所領を没収されている。関東は永享の乱、結城合戦と戦乱の時代を迎え、翌嘉吉元年(1441)ようやく終結する。

 藤田氏はそれ以降後北條氏の関東進出まで、山内上杉勢の四家老の一家として参加した。その勢力は現在の寄居町の天神山城を拠点として、最盛期には大里・榛沢・男衾・秩父・那珂・児玉・賀美に及ぶ広範囲であり、小前田諏訪神社もその所領内に入る。

    
八衢比賣神、久那斗神、八衢比古神             浅間神社                            天手長男神社

                           
                                     
白山神社                          その他本殿の奥の祠群

  その他和魂神社、八坂、琴平神社、蚕影神社、神明社、春日神社等が諏訪神社境内に鎮座している。

 戦国期、ついに後北條家の関東進出が顕著になる。北條氏綱・氏康親子による天文六(1537)年の川越城夜戦では、関東管領・山内上杉憲政、扇谷上杉朝定と、古河公方・足利晴氏の軍総勢八万の軍勢の一軍として参加し、敗北を喫する。これにより主家を失った藤田重利は北条氏の軍門に降り、氏康四男・氏邦を養子に迎え、その家督を譲った。同時に名も「康邦」と改めたという。北條氏邦は1560年(永禄3)以降、鉢形城(大里郡寄居町)を整備して天神山城から居城を移し、北関東の最前線の拠点として、また甲斐・信濃からの侵攻への備えとして重要な役割を担った。

 天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めの際には、後北条氏の重要な支城として、前田利家・上杉景勝等の北国軍に包囲され、激しい攻防戦を展開した。1ヶ月余りにおよぶ籠城の後、北条氏邦は、6月14日に至り、城兵の助命を条件に開城し北條小田原家は滅亡する。そして同時に藤田氏本流としての400年の歴史が終結することを意味していた。
         

                                  諏訪神社祭り屋台の案内板が道路沿いにある。
 諏訪神社で例年催される例祭は「小前田屋台まつり」別名「アルエット祭り」といい、その屋台は3台ながら秩父市の秩父神社に負けず素晴らしいものだ。   
 
諏訪神社祭礼(小前田屋台まつり)
  旧花園町小前田地区には3台の屋台があり、いずれも明治初期に造られたもので、その雄大な造りや彫刻により、昭和52年には有形民俗文化財に指定されています。この3台の屋台を毎年10月の第2土曜・日曜日に引き出し、国道140号線の秩父往還で屋台囃子を演じながら曳(ひ)き回します。また、祭礼期間以外でも「道の駅はなぞの」にて、常時屋台を展示しています。
                                                                                                     深谷市観光協会より引用


                                                                                                                 

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瀧宮神社

 滝宮神社が鎮座する幡羅郡の郡範囲は、江戸時代の新編武蔵風土記稿によれば、今の深谷市東部(旧幡羅村、明戸村)、熊谷市北西部(旧別府村、三尻村、玉井村、奈良村、大幡村の一部)、妻沼町全域とされる。
 しかし西の榛沢郡との境界にかんしては、深谷市大字国済寺の国済寺の梵鐘(康応二年、1390年)に刻まれた「幡羅郡深谷庄」の文字から、時代によっては旧深谷町も幡羅郡に含まれていたようだ。

 滝宮神社の鎮座する西島地区は櫛引台地と妻沼低地の境目に位置し、その豊富な湧水から唐沢川の谷に流れ落つるが如く瀧に因んで、 いつしか「瀧の宮」と称して神社を祀ったという。

所在地     埼玉県深谷市西島5ー6-1
主祭神     天照大神
          豊受大御神
          彦火火出見尊
例  祭          11月3日 例大祭、12月5日 酉の市  

          
 
  深谷駅のすぐ南側に鎮座する瀧宮神社。境内は駅南口の立地にありながら広く静寂な空間が広がる。駐車場も数台止めることができるスペースが道を隔てた向かい側にある。
 
    唐沢川をはさんで南側に鎮座する     春の唐沢堤は桜で満開になる。深谷市では有名だ
       実は北向き社殿でもある
 
      一の鳥居の左側にある案内板               
拝殿に続く参道 広い空間がそこにある

滝宮神社
 古くは滝宮大明神といわれ、御祭神は天照大神、豊受媛命、彦火々出見命です。康正二年(1456)上杉房憲が深谷城を築いてより代々この神社を崇敬し、江戸期になっても代々の城主が尊信しま した。 西土手にあった八幡神社、豊受神社、侍町にあった天神社も合祀されています。
 御嶽神社
  旧城内越中曲輪になった御嶽神社を近郷近在の信者の協力によって奉遷されています。
 八坂神社
  旧城内の三社天王を天和元年(1681)宿民の総意で市神様として中山道上に奉祀されていましたが、時勢の変遷により御遷宮。昭和二十七年小学校庭より現在地に奉安。旧来の通り毎年七月二十七日深谷のぎおんと称され盛大な神輿の渡御が行なわれています.                                                                                                                                                                                                         案内板より掲載
                  
           
                               拝     殿
 創立年代は不詳。北武蔵を支配していた庁鼻和上杉氏が古河公方の度々の攻撃に本拠を移転させ康正2年(1456)に4代目の上杉房憲が深谷城を築城して以来、城の裏鬼門の守護神として深谷上杉氏が代々信仰されたという。
 境内には瀧宮神社のほかに深谷城内に鎮座していた御獄神社・深谷祭りで有名な八坂神社などが両側に祀られている。


 
        御嶽神社                演舞台                八坂神社

 今から五百有余年前の康正二年上杉房憲氏が深谷城を築造するにあたり、重臣秋元越中守の進言により城地鎮護の守護神として天地開闢の尊神、国常立尊を奉斎して城内に御嶽社を祀る。その尊厳神域はいつか城跡と共に、人々の念頭から去り荒廃その極みに達し年度の祭祀をすることさえ能わず、明治三十八年勅命により之を瀧宮神社の末社に遷座する。昭和九年深谷小学校新築敷地になり現在小学校東端の塚はこの所である。昭和二十六年GHQの神道指令により「ツゲ」の古木に神秘を留めた御嶽神社を百日潔斎の修法の下に、瀧宮神域に本殿拝殿を建設し奉斎遷座して五十一年。以来信奉者は日に日に増し霊験次々と顕れ普く御神徳を浴するものが多くありました。しかし平成十四年一月二十六日、心無い何者かによる不祥事で神社を焼失してしまいました。火災の折には、瀧宮神社、近隣の皆様をはじめ信奉者各位に多大のご迷惑をおかけしましたが、温かくその後の再建に物心両面でご協力を頂きましたことが再建の励みとなりました。以来信奉者の方々から早く再建をとの声が高まり、御嶽神社再興の主旨をご理解いただき多くの方々に過分なる御浄財の奉納を賜りました。お蔭様で茲に立派な本殿、拝殿を完成することが出来ましたので皆様の御篤心に感謝申し上げ記念碑を建立致します。
 平成十七年五月吉日
                                            御嶽神社完成記念碑より引用                                                                                
                      
      境内社殿の奥には大山阿夫利大神、八意思兼命、富士浅間大神、稲荷神ほか多数の柱、石祠が並ぶ。また社殿の手前階段右側にも多数の境内社が存在する。 
 
             
豊受神社                       左八幡神社、同右天神社
 ところで滝宮神社が鎮座する深谷市西島は利根川が運んだ土砂等でできた肥沃な低地(妻沼低地)と、荒川が運んだ土砂等でできた乾燥した台地(櫛引台地)との境界に位置していて、低地と台地の境界付近にJR高崎線が東西に走っている。滝宮神社はJR高崎駅のすぐ南にあり、この櫛引台地の北端部に位置していて古来から湧水が豊富な地として「霊泉の社」、そして「瀧の宮」と言われるようになったという。
            
  この櫛引台地は、構造的には武蔵野面に比定される櫛引面(櫛引段丘)と、南東側の立川面に比定される寄居面(御稜威ヶ原(みいずがはら)段丘)とで段丘状に形成されている。

 櫛引面は、JR高崎線沿いの崖線で比高差5~10mをもって妻沼低地と接しているが、寄居面は高崎線より北へ1.5~1.8mほど延びていて、比高差2~5mをもって妻沼低地と接している。接線付近での標高は櫛引面が40~50m、寄居面が32~36m、妻沼低地が30~31mである。
櫛引面は標高70m付近より発する上唐沢川、押切川、戸田川、唐沢川あんどが北に向かって流れしていて、櫛引面北端部は南北に台地を開析する浅い谷が発達したものと考えられる。
 その一方滝宮神社は櫛引台地と妻沼低地との境界線、つまり言い方を変えると「活断層」の境界線上に鎮座しているとも言える。事実この一帯は有名な「深谷断層」、正式名称では「関東平野北西縁断層帯」が存在し、その断層帯の一つがこの深谷断層であるとのことだ。深谷市による地震ハザードマップには「関東平野北西縁断層帯主部」において、全体が1つの区間として活動する場合、マグニチュード8.0程度の地震が発生する可能性があり、また、その際には南西側が北東側に対して相対的に5~6m程度高まる段差や撓みが生じる可能性も指摘されている。
 またこれも関東平野北西縁断層帯のうちの一つの断層帯である平井-櫛挽断層帯では、全体が1つの区間として活動する場合、マグニチュード7.1程度の地震が発生する可能性があり、またその際には2m程度の左横ずれを生じ、北東側が南西側に対して相対的に高まる段差や撓みを伴う可能性があるとのこと。

 本断層帯の最新活動後の経過率及び将来このような地震が発生する長期確率は不明という。日本は温泉や湧水など自然の恩恵を受ける利点だけでなく、火山大国であり、地震大国であるマイナスファクターもこの社を散策するによって学ぶことができる。なんとも複雑な気持ちだ。


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横瀬神社

 上野国史によると、武州杉山、新井、都島、山王堂、沼和田、仁手等の数村は、古へ上野国那波郡に属していたが、寛永中の洪水で流路が変わり、武蔵国に編入したと記されている。また武蔵風土記によると横瀬村華蔵寺大日堂天正十一年の棟札に、上野国新田庄勢多郡横瀬郷とあるし、又和名抄賀美郡郷名に載せてある小島は、今の小島村と考えられるから、烏川の流路は寛永年中に賀美郡忍保から現在の八町河原に移ったものと考えられる。
  埼玉県深谷市横瀬の横瀬神社別当寺であった華蔵寺大日堂建立時に記録された棟札は、横瀬がかって上野国(現在の群馬県)であったことを証明する貴重な資料となっている。当時の武蔵国と上野国の境は、豊里中学校裏手あたりと思われる。

 明治維新の時慶応4年(1868年)太政官布告「神仏分離令」から起こった廃仏毀釈運動が各地でおきた。仏事の廃止、仏具の破壊、僧侶の神職転向等の嵐が吹き荒れた。横瀬では新田公ゆかりの古刹を保護するために、他所から神社を山門の前に移築して、村社 横瀬神社として華蔵寺は寺院の一部だとごまかした。「横瀬神社は以前別なところに在った」「無住の時があった」との伝承はその証明であろう。

所在地    埼玉県深谷市横瀬1358
社  格    旧村社
主祭神    伊弉諾命、伊弉冉命二座。 (配祀)豐受姫命
例  祭    4月10日

地図リンク
  横瀬神社は国道17号深谷バイパスを岡部方向に進み、道の駅おかべを越えた岡東交差点を右折する。群馬・埼玉県道259号新野岡部停車場線を道なりに真っ直ぐに北上し約2km進むと右側にこんもりとした林と道沿いに沢山の墓地、そして大日堂が見え、そこを右折してそのまま進むと左手に華蔵寺の駐車場があるのでそこに駐車することが出来る
横瀬神社は前記華蔵寺敷地内南側に静かに鎮座し、一見すると寺院の一施設の様に感じるくらい目立たない位置にある。まるで華蔵寺側がこの社を隠しているような印象だ
 
       横瀬神社 社号標             参道 東西に長く伸びていて正面に小さく
                                          一の鳥居が見える。

               立派な横瀬神社拝殿 
  屋根瓦には五七の桐が浮き彫りにされているが、これは横瀬氏及びその子孫である由良氏の家紋という。またよく見ると狛犬が異様に高い位置にある。洪水対策用に作られたものか。

                             拝殿とその奥には本殿鞘殿
              

       鞘殿内には彩色豊かで見事な壁面彫刻の本殿
                深谷市指定文化財


 当社は、後深草天皇の御代の建長年中(1249~56)に、土地の豪族・横瀬三郎為清の勧請によるもので、「聖天宮」の名で、横瀬七郷(横瀬、新戒、古市、大塚、中瀬、高島、石塚)の総鎮守として崇敬された。
 一説に、建武年間(1334~)、武蔵守新田義宗の子の国寿丸が、難を避けて、僧となり密かに横瀬村に移住し、二体の尊体を安置して聖天宮を勧請したという。国寿丸は、当社神前において還俗し、横瀬新六郎貞氏と名のり、後に上野国金山城主となって近地を領した。以来七代にわたる城主の厚い崇敬があった。
 
 徳川幕府時代に至り、横瀬三郎の後裔たる横瀬信濃守は、幕府の高家衆となって江戸神田於玉ヶ池に住んだが、祖先の縁故により、同家からは毎年初穂料として金百疋づつの奉納があり、代々の慣わしとなった。別当の華蔵寺の住僧は、毎年正月元旦に神前に於て横瀬家の武運長久の御祈祷を修行した神札・神供を、利根川の便船を使って届けた。
 明治維新の後、土地の名により横瀬神社と改称した。
 
      本殿の左側には境内社 稲荷社       明治43年大洪水の水標が拝殿前にある。

  自分自身、この地域には思い入れがある。この横瀬地域は母方の実家があり、華蔵寺には先祖代々の墓所が実際にある。母方の姓は「三友」と言い、幼少の時期、新田氏についてよく話を聞いていた。この地域は鎌倉時代末期、清和源氏新田氏の所領であり、横瀬地域は通称「横瀬六騎」と呼ばれる新田家家臣団が存在していたという。

横瀬六騎 
 金山城主横瀬氏の出身地である横瀬郷の富田・栗田・須長・荻野・古氷・三供(三友)の六氏は、宗悦の一門に加へられ横瀬氏を名乗り、宗虎が金山城主として安定した頃に全員本名に復姓した。
 新田正伝或問に「○富田左京兼昌(応永九年卒)―横瀬右近大夫時昌(永享五年卒)―大次郎信昌―左膳重昌―左近之助清昌―左近太郎清宗―大次郎清信(天文九年卒)―富田大三郎清定(天正二年卒)。○栗田平蔵吉久(応永三年卒)―横瀬平七吉勝(永享六年卒)―平馬常吉―助之進常友―孫四郎常記―新次郎常周(弘治元年卒)―栗田孫三郎繁常(元亀二年卒)。○須長幸三郎行幸(応永十一年卒)―横瀬隼人孝棟(嘉吉二年卒)―内蔵助孝林―隼人孝敬―兵庫助孝至―隼人孝泰―内蔵助孝美(天文十五年卒)―須長隼人助繁孝(天正九年卒)。○荻野伊三郎道朝(応永十五年卒)―横瀬掃部道春(永享十二年卒)―織之助道定―縫之助道村―縫之助道吉―枩之助道忠―七三郎道隆(天文十年卒)―荻野丹下道種(天正五年卒)。○古氷図書之助行直(応永七年卒)―横瀬治部行忠(嘉吉三年卒)―半十郎行温―七郎左衛門行恒―図書之助政恒―久米之助道政―古郡丹後政方(永禄十年卒)。○三供右太郎村房(応永十二卒)―横瀬加賀房利(文安二年卒)―新右衛門房保―主計房教―新太郎房茂―新右衛門房次―彦右衛門房賀(弘治元年卒)―三供新右衛門繁房(元亀二年卒)」と見ゆ。金山城主横瀬氏の本名はわからず。

 

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井椋神社、畠山重忠史跡公園

  井椋神社が鎮座する荒川中流域一体は櫛引台地、江南台地が南北に展開し、荒川南岸の台地上には鹿島古墳群、出雲乃伊波比神社、塩古墳群、小被神社、鉢形城、稲乃比売神社等、多数存在する。荒川は「荒い川」と古来からの呼称だが、この中流域南岸は比較的平穏な場所だったようで、名社、式内社が点在し、古代において発達した地域だったと思われる。
 郷土の歴史上の人物が少ない埼玉県内にあって、井椋神社は畠山重忠ゆかりの神社であり、畠山重忠は日本史上燦然と輝く人物である。この深谷市川本地区ではこの人物が郷土を代表する歴史的有名人であることに違いなく、坂東武士の鏡として今日まで崇敬され、忠義に篤く、質素を好み、礼儀正しく廉直、桁外れの怪力、先を読み機を見るに敏な知略、頼朝の大きな進軍の先陣をことごとく務めた風格、資料からは欠点など微塵も見当たらない正に伝説の名将である。この人物が生まれ、成長した場所が深谷市「畠山」なのだ。
所在地    埼玉県深谷市畠山942
主祭神    猿田彦大神他四柱(武甕槌命 経津主命 天児屋根命 比売神)
社  格    旧村社 
       
由  緒    江戸時代享保十三年第百十四代中御門天皇の御代に建築されたと推定
例  祭    10月15日 秋祭り 、浦安舞

  
地図リンク
 井椋神社は県道69号深谷嵐山線を嵐山方面に進み、荒川を超え、最初の信号を右折する。そして約500メートル位道なりにまっすぐ進むと、右側に井椋神社の鳥居が見えてくる。深谷市(旧川本町)畠山にある畠山重忠ゆかりの神社だ。駐車場は周辺を見回してもなかったので、鳥居の脇の農道に一時駐車して参拝した。

 ちなみにこの「井椋」という神社名の由来は本社である秩父市下吉田にある椋神社に関連している。

 景行天皇の時、日本武尊東征の際、矛を杖にして山路を越え、この吉田町の赤柴まで来ると、矛が光を放って飛んでいった。尊は不思議に思って光が止まったところまで行ってみると、井の辺のムクの木陰から猿田彦命が現れ道案内をしたという伝説から、尊は持っていた矛を神体として猿田彦命を祀ったことに始まる。ゆえに現在、井椋様と呼ばれ親しまれているという。
 
   一の鳥居は満福寺の東側にあり、そこから二の鳥居まで北方向に300m程参道がまっすぐ伸びている。この満福寺は白田山観音院満福寺といい、真言宗豊山派のお寺で、鳥羽天皇の御代に弘誓房深海上人が開いたと伝えられていて、後に畠山重忠が寿永年間に再興して菩提寺としたという。畠山重忠の菩提寺として実山宗眞大居士の位牌があり、寺宝として茶釜、茶碗、太刀、長刀、大般若教、御朱印状等が伝えられているそうだ。この井椋神社と満福寺両社寺は神仏習合の時代には神宮寺、境内社の関係にあったものと思われる。

              二の鳥居の横にある案内板
井椋神社(いぐらじんじゃ)
 井椋神社は、畠山氏の先祖である将恒から武基、武綱、重綱、重弘、重能の代に至る間、秩父吉田郷領主として井椋五所宮を敬ってきた。その後、重忠の父重能が畠山庄司となって館を畠山に移した時、祖父重綱が勧請(分祀)したものである。
 初めは、井椋御所大明神、井椋五所宮と号していたが後に井椋神社と改称したものである。
 祭神は、猿田彦大神のほか四柱である。そのほか境内には近所の各神社が合祀され、蚕の神様である蚕影神社、源氏の白旗を祭った白旗八幡神社等がある。
 また、社殿の裏の荒川断崖に鶯の瀬の碑が建立されている。

 荒川のすぐ南岸に位置する地形のためか、洪水対策のための石垣が至る所に組まれている。が、拝殿には特に頑丈な土台はない。

                     拝   殿
 畠山重能が秩父から畠山に移ったとき、秩父市吉田にある椋(むく)神社を勧請したと伝えられていて、椋神社は代々の秩父氏の守り神として尊敬され、井椋神社も畠山氏の守護神であったと推定されている。
 また境内には近所の各神社が合祀され、蚕の神さまである蚕影(こかげ)神社、源氏の白旗を祭った白旗八幡神社などがある。
 
         境内社:蚕影山神社              八坂神社、天神社、日吉神社、諏訪神社
                                               八幡大神
  
              白旗八幡神社              社殿裏手右側にある浅間神社。奥に小御嶽神
                                           社と食行身禄霊神の石碑あり。
  また神社の社殿の裏の荒川断崖には、「鶯の瀬」の碑が建っている。重忠が家臣の元へ出掛けてその帰路、雨に逢い洪水で荒川を渡れずに困っていると、鶯が鳴いて浅瀬を教えてくれて、無事に河を渡ることが出来たと言い伝えられている。その浅瀬がこの辺りで、「鶯の瀬」と呼ばれてきたという。
 
鶯の瀬

 荒川のせせらぎの聞えるこの地を鶯の瀬といい、増水時でも川瀬の変わらぬ浅瀬である。
 ここは、畠山重忠公が榛沢六郎成清のもとに行き、帰路豪雨に逢い、洪水で渡れないでいるときに一羽の鶯が鳴いて浅瀬を教えてくれたと言い伝えられており、その故事を詠んだのが次の歌である。
  時ならぬ岸の小笹の鶯は
   浅瀬たずねて鳴き渡るらん
 また、この上流には、古くから熊谷市・江南村方面にかんがい用水を送ってきた六堰があり、遠く秩父連山を眺めながら鮎、ウグイ(通称ハヤ、クキ)等の釣り場として親しまれている名所でもある。
              


畠山重忠史跡公園
 地図リンク
  井椋神社から南東に1km弱、満福寺から斜めに行くとほぼ2,3分足らずで畠山重忠史跡公園に到着する。大里郡神社誌には「五輪塔 六基あり。その一は重忠の墓にして、その他は家臣隷属の墓なり。傍に嘉元二年(1304)卯月九日の建造に係る追福の碑あり。また明治二三年、里人 重忠公の智勇兼備の徳を追慕し、相謀りて記念碑を建つ。所謂 畠山重忠の館跡と称するものこれなり。今なほ残塁を存す。大正一三年二月二五日、埼玉県より古蹟保存を指定せられたり」と記載されている。

  秩父郡の吉田町を本拠地とする秩父氏の嫡流である一族が男衾郡畠山に居を構えたのは、武蔵国留守所総検校職である秩父権守重綱の孫に当る重忠の父畠山庄司重能の代とされている。重忠は当初はこの地を本拠地としていたが、その後菅谷の館に本拠地を移すこととなったようであり、討ち死にを遂げることとなった二俣川の合戦の際には元久2年6月19日菅谷館から出陣したと吾妻鏡には記されている。

一ノ谷の合戦で活躍したとされる馬を背負う畠山重忠の銅像が駐車場の正面に位置

     畠山重忠がが生まれた時につかったという井戸が残されている。

畠山重忠公産湯ノ井戸

 秩父より進出してきた、秩父荘司重能は武蔵国男衾郡畠山村(元大里郡川本町畠山)に館を構えました。のちの長寛二(西暦一一六四)年、秩父荘司重能と相模の豪族・三浦大介義明の娘眞鶴姫との間に二男として重忠が誕生し、その際用いた井戸として【重忠公産湯ノ井戸】と称され伝えられております。又、この井戸は、江戸時代の記録に残された、古井戸二ヶ所のうちの一つでもあります

             
畠山重忠公の墓
 鎌倉時代の関東武士を代表する武将である畠山重忠公は、長寛二年(一一六四年)秩父庄司重能の二男として、現在のこの地の畠山館に生まれ幼名を氏王丸と言い、後に秩父庄司次郎重忠となった。
 剛勇にして文武両道にすぐれ、源頼朝に仕えて礼節の誉れ高く県北一帯の支配のみならず、伊勢国沼田御厨(三重県)奥州葛岡(岩手県)の地頭職を兼ね、鎌倉武士の鑑として尊敬されたが、頼朝なきあと北条氏に謀られて、元久二年(一二○五年)六月二十二日に二俣川にて一族とともに討たれた。時に重忠四十二歳、子重秀は二十三歳であった。
 この畠山館跡には、重忠公主従のい墓として六基の五輪塔がある。
 また、館跡には嘉元二年(一三○四年)の紀年号のある百回忌供養の板石塔婆、芭蕉句碑や畑和(元埼玉県知事)作詞による重忠節の歌碑などがあり、館の東北方には重忠産湯の井戸などもあって、通称「重忠様」と呼ばれて慕われ、現在は、この地一帯が重忠公史跡公園として整備されている

        板石塔婆(昭和三十九・八・三十一指定)
  主尊は三弁宝珠阿弥陀一尊・種子(キリーク)
 記年銘 嘉元二年甲辰(一三○四年)卯月(四月)九日
 周辺に彫られている文字は、梵字の光明真言である。
 畠山重忠公が元久二年(一二○五年)六月二十二日、横浜二股川で戦死の後、百年忌に当って供養のため建立されたものと伝えられる。


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