古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

本田春日神社、大天白神社

所在地   埼玉県深谷市本田2025
社  格   旧村社 
祭  神   武甕槌命、経津主命
由  緒   天平20年第四十五代聖武天皇の御代748年の昔より
        下本田の鎮守として氏子の信仰の篤い神社。
例  祭   10月15日 秋祭



地図リンク
 春日神社は埼玉県道69号線を嵐山方向へと進み、本畠駐在所交差点を左折、そこから約1km先に鎮座する。
  
     社号標柱 参拝日平成24年4月25日         社殿や境内社も良く手入れされている。

                    拝   殿
 
                                         本     殿
     拝殿も本殿も比較的新しい。つい最近再建したのではないのか。

  ちなみに本田春日神社は天平20年(748)に河内国の枚岡神社を勧請したものといい、古くは「枚岡神社」と称したという。奈良遷都のとき、藤原氏は氏神として同神社を奈良春日山にまつって春日神社としたことから、当社も「春日神社」と改称したという。

 
       左より鹿島神宮、稲荷大明神、社日神社                                    八坂神社
  
         天満天神社(右)と天満自在天神碑                      合祀社、左から古峯神社、八幡神社
                                                                               雷電神社、山之神社、冨士浅間神社
 
  この社は、道路沿いから一本細い路地に入った場所に鎮座していた。決して目立たない位置にありながら、境内はきちんと整備されていて居心地の良い空間がこの一帯に存在していた。このような地域に根付いた社が、これからも地方の文化財として後世に長く伝えてもらいたいと参拝中感じさせてくれる、趣のある良い神社だった。


 川本春日神社からほぼ真東に約1km程、また鹿島古墳群の南東約400mほどの場所に大天白神社がある。残念ながらこの社に案内は無く、御祭神・勧請年月・縁起・沿革等は全て不明だ。

大天白神社
地図リンク


                   拝   殿
        
               拝殿内にある本殿                                       合祀社  詳細不明

 祭神は北に荒川、西に吉野川が流れていることから水神なり河川神なりであるのではないか。すると瀬織津姫命など祓戸神あたりと推測される。


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町田八幡神社

 深谷市字町田に鎮座する町田八幡神社は第73代堀河天皇の御代、源義家が 奥州征伐の帰途にこの地に立寄り、東方鎮護のため金幣を奉って祈願したという。以来、土地の人々は、鎌倉の八幡宮を深く崇敬し、土地の開拓の産土神として当社を創建して、今に至るという。
 字砂田に,岡部六弥太忠澄の家老の一人が陣屋を築くに際して、八幡社をその鬼門除の神と崇めて、現在の社地に移転されたともいう(12世紀頃?)。
 また、字八幡裏八五番地にあった当社だったが、後土御門天皇の御代(15世紀末)に、現在地に遷祀されたという。

所在地  埼玉県深谷市町田146
御祭神  誉田別命
社  挌  旧村社
例  祭  10月15日 秋祭   11月23日 新嘗祭葦
  

       
 葦原大神社から埼玉県道45号本庄妻沼線を西へ走って行くと、埼玉直産センター第二集荷場の向かい側に町田八幡神社が鎮座している。駐車場は参道内に駐車スペースがあったが、神域にはなるべく車を停めたくないので参道東側に集積場の駐車場らしい場所があり、参拝時間の少しの時間中のみ停めさせて頂き、急ぎ参拝を行った。

 
 参道入口左脇には大黒天の石碑があり、右側には八幡社の標石が立っている。 
          
                       綺麗に整備された参道正面
          
              鳥居の手前左側にある八幡神社幣殿拝殿改築記念碑

八幡神社幣殿拝殿改築記念 碑文

 深谷市町田字八幡前に鎮座する村社八幡神社は、旧榛沢郡町田村の総鎮守である。古くは八幡宮と称し、祭神として誉田別命を祀る。昭和五年刊行の大里郡神社誌によれば、創立年代は不詳であるが、社伝及び古老の口碑に、源義家が奥州征伐の帰途にこの地に立ち寄り東方鎮護のために金弊を進奉して祈願し、爾来この地の豪族が鎌倉の八幡宮を信仰していたため、この地に勧請して産土神として深く崇敬したと伝えられる。また、字砂田に岡部六弥太の家老が陣屋を築くに際し、当社を鬼門除けとして崇め現在の社地に移転したとも、現本庄市の滝瀬村字元八幡から現地へ遷祀されたとも伝えられている。
 その後当社は永く近隣住民の厚い尊崇を集め、郷土の先人渋沢栄一翁や尾高惇忠翁との縁も深く、渋沢翁揮毫の扁額や尾高翁揮毫の幟などが残されている。
 幾星霜の風雨に耐えた社殿は、大正三年に修復工事が実施されたが、昭和の後期に入り老朽化が著しく進行し、放置し難い事態となった。そこで氏子一同が協議を重ね、取り合えず本殿のみを修復する事に決し、資金は氏子並びに篤志者の寄付金によって賄われた。
 世は平成となり、残された幣殿拝殿の老朽化が更に進み、事態を憂慮した総代会は協議を重ね、既に修復の段階ではなく新築以外の方法はないことで意見の一致をみた。しかし新築費用の捻出方法が大きな課題となり、議論百出の状態となった。その中で建設委員会の設置が承認され、委員会では近郊の新築された神社の視察を行い、規模と予算を見積もるとともに資金捻出の方法を検討した。その結果、氏子八十七戸から五年間積み立て寄付金として徴収するとともに篤志者を募るという案が総代会で承認され、幣殿拝殿の新築が正式に決定した。
 その後、時の経過とともに当社への崇敬の念が大いに高まり、寄付金の前納者や篤志者も多く現れ、資金問題も杞憂となり、当初の計画を早めて平成十六年一月に旧幣殿拝殿を解体し、十月吉日に新幣殿拝殿の完成をみた。なを、併せて境内に合祀される天満宮並びに天王様社宮司稲荷神社も新築した。
 当社が地域住民の精神的な拠り所として、未来永劫尊崇されることを願うものである。
 平成十八年四月吉日
                                                      案内板より引用



              拝   殿                       拝殿の奥には本殿

 由緒によると例祭には古くより獅子舞の行事がある。徳川時代中期より、剣道太刀打の行事もあるとの事だ。この獅子舞は安土桃山時代から伝わる伝統芸能で、昭和48年11月3日深谷市指定文化財、無形民俗文化財に指定されている。 

 
  社殿の左側にある境内社天満宮、八坂神社     社殿正面やや手前にある社宮司稲荷神社と社日                                                                                                                          神社 
                
       社宮司稲荷神社と社日神社の先にある二十六夜愛染明王と石祠群、詳細不明。
                    

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葦原大神社

 所在地  埼玉県深谷市南阿賀野276
 御祭神  葦原醜男命
 社  挌  不詳
 例  祭  4月10日 春季大祭、10月19日 秋季例祭


       
 葦原大神社は血洗島 諏訪神社の通りを面したすぐ西側に鎮座している。参道の入り口から右側に諏訪神社の本殿が見えるくらいの近さだ。駐車場は社の東側に真言宗智山派蘆原山観音寺大福院が隣接しておりそのの駐車場を借りて参拝を行った。

 まず参道入口脇には庚申塔や大黒天、青面金剛が並んでいる。
          

          
            拝殿。これは隠岐造と書いてあるサイトを見つけたが詳細は不明

 葦原大神社の獅子舞は、子授けの御利益があり、当地出身で、長い間、子宝に恵まれなかった人が、子供が授かるように当社に祈願し、妻に獅子頭をかぶせてみたところ、程なく懐妊したことが評判となったことに始まる。秋の祭りの前日は、獅子頭をかぶりに遠方から毎年十数組の夫婦が訪れ参詣しており、そのほとんどに子供が授かっているという。
 しかし、祭神の葦原醜男命は大国主神の別名で武神としての性格を現す名であり、荒々しいイメージがあるのに対して神徳が女性の守り神であり、子授け及び安産の神というのはやや苦しい解釈ではないだろうか。

                        
                                      境内社、左は天神神社、右は手長神社               

 葦原大神社の祭神である葦原醜男命は別名大国主命という。
 この大国主命は多くの別名を持つ。
  • 大国主神(おおくにぬしのかみ) - 大国を治める帝王の意
  • 大穴牟遅神(おおなむぢ)・大穴持命(おおあなもち)・大己貴命(おほなむち) - 大国主の若い頃の名前
  • 大汝命(おほなむち)-『播磨国風土記』での呼称
  • 大名持神(おおなもち)
  • 八千矛神(やちほこ) - 矛は武力の象徴で、武神としての性格を表す
  • 葦原醜男・葦原色許男神(あしはらしこを) - 「しこを」は強い男の意で、武神としての性格を表す
  • 大物主神(おおものぬし)-古事記においては別の神、日本書紀において別名
  • 大國魂大神(おほくにたま)- 国の魂、国を作った神、開拓者
  • 大國主大神
  • 顕国玉神・宇都志国玉神(うつしくにたま)
  • 国作大己貴命(くにつくりおほなむち)・伊和大神(いわおほかみ)伊和神社主神-『播磨国風土記』での呼称
  • 所造天下大神(あめのしたつくらししおほかみ)- 『出雲国風土記』における尊称
  • 幽冥主宰大神 (かくりごとしろしめすおおかみ)
  • 杵築大神(きづきのおおかみ)

 葦原醜男命の名称を考えるに、「葦原」は葦原中津国や豊葦原瑞穂の国、つまり日本の美称であり、「醜男」は醜い男という意味ではなく、荒々しい男といった意味だそうだ。この神名から想像されるイメージは出雲神話で心優しい神として描かれているものとは違い、どちらかと言えば素戔嗚に近い。これは神徳の高さを現すと一般には説明されるているが、元々別の神であった神々を統合したためこのように多くの名前が存在すると思われる。出雲神の祖であるスサノオと共に、この神は記紀神話に登場する神の中で、最もポピュラーな神でありながら、最も謎が多い神の一人だ。

 また大国主は色々な女神との間に多くの子供をもうけている。子供の数は『古事記』には180柱、『日本書紀』には181柱と書かれている。別名の多さや妻子の多さは、明らかに大国主命が古代において広い地域で信仰されていた事を示している。そして信仰の広がりと共に各地域で信仰されていた土着の神と統合されたり、あるいは妻や子供に位置づけられた事を意味している。
 そういう意味において南阿賀野に鎮座する葦原大神社の神徳が女性の守り神であり、子授け及び安産の神というのはそのような経緯からきているのではないかと思われる。
 

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血洗島 諏訪神社

 諏訪神社は血洗島の鎮守社で、古来より武将の崇敬が厚く源平時代に岡部六弥太忠澄は戦勝を祈願したといわれ、また、この地の領主安部摂津守も、参拝したと伝えれれている。
 現在の拝殿は、大正五年(1916)渋沢栄一が喜寿を記念して造営寄進したものである。
 栄一は帰郷の際、まずこの社に額づいた。
 そして、少年時代に自ら舞った獅子舞を秋の祭礼時に鑑賞することを楽しみとしていた。
 栄一が奨励したこの獅子舞は、現在も大事に受け継がれている。
 境内には、栄一手植えの月桂樹と長女穂積歌子が植えた橘があり、その由来を記した碑がある。
 なお、村民は栄一への報恩のため、建立した喜寿の碑が境内にある。
                                                      案内板より引用
所在地  埼玉県深谷市血洗島117-6
御祭神  建御名方命
社  挌  旧村社
例  祭  不明


      
 諏訪神社は下手計鹿島神社の西約1km、車で5分位の場所に鎮座している。日本の近代経済国家の基に多大な力を発揮し日本資本主義の父といわれ、銀行や企業の設立、国際親善、社会福祉等に尽力した渋沢栄一氏の生家が近くにあり、幼き日の氏もこの境内で遊び、獅子舞を踊ったという。
 1916年に造営した社殿は、氏の喜寿を記念して寄進によって建て替えられたものだそうで、開放感ある社の雰囲気、また参道も綺麗に整備され、鹿島神社等周辺の神社とまた違った別世界の空間がそこにはあった。
         
                    整備の行き届いた諏訪神社 参道
         
           
                                                           拝   殿
                   
                            本   殿

 諏訪神社の創建年代は明かでない。『大里郡神社誌』には、以下の伝説が記載されている。
  ・ ヤマトタケルノミコトが東征凱旋の時にこの地を通過し、社前に記念の植樹をした。
  ・ 平安中期の平将門の乱に源経基が竹の幌に布陣した際に、この神社で先勝祈願を行った。
  ・ 源平合戦の折り、岡部六弥太忠澄が戦勝祈願を行い、戦功を奏した。
 また慶長19年(1614)、この地は岡部領となり、領主安部摂津守は代々諏訪神社を武の神として崇敬し、正月には武運長久を祈願したといわれている。

 社殿の左側にある開放的な社叢とは全く異なったこの社の古の雰囲気のある空間があった。 写真左側の2社は境内社か、写真右側は末社だろうがどちらも詳細不明。


 諏訪神社は渋沢栄一氏の喜寿を記念して寄進によって建て替えられたものだから、ことさら氏の偉業を称える記述が多い。渋沢青渕翁喜寿碑や手水舎近くにある案内板も同様である。郷土の英雄に対して誇りをも持つ気持ちは大変素晴らしいことだが、純粋に神社参拝を行い、由緒等を真剣に学ぶ者にとってはそれが時として大きな壁になる時もある。難しいことだ。


 ところで諏訪神社が鎮座するこの血洗島という一風変わった地名の由来を調べてみると定説はなく、以下の諸説があるようだ。

 1  赤城の山霊が他の山霊と戦って片腕をひしがれ、その傷口をこの地で洗ったという。
 2  八幡太郎義家の家臣が、戦いで切り落とされた片腕を洗ったところからその名がついた。
 3  「血洗」(けっせん)は当て字で、アイヌ語の「ケシ、ケセン、ケッセン」(岸、末端、しものはずれ、尻などの意)など、東北・北海道に気仙(ケセン)沼・厚岸(あつケシ)などと共通する同意語で、その地が利根川の洪水による氾濫原であることから、もとは「地洗」(ちあらい)、「地荒」(ちあら)だったのが「地」の字がいつの間にか「血」となった。


 いずれも想像の域を越えないものであるが、気になる説として赤城の山霊をあげたい。「戦場ヶ原神戦譚」と呼ばれる伝説があり、神代の昔、下野の国(栃木県)の男体山の神と上野の国(群馬県)の赤城山の神が領地の問題(中禅寺湖の領有権)で戦った。男体山の神は大蛇、赤城山の神は大百足に姿を変えて戦場ヶ原で戦った」という神話の中での戦いというが、これを神話上の空想の話とみるかどうかで展開が大きく変わる。
  筆者はこの話はある史実を遠い過去の神話に脚色したものである、と睨んでいるがどう思われるであろうか。

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    鹿島神社

     下手計地区に鎮座する鹿島神社は中瀬神社の南西方向にあり、下手計の鎮守の社である。当社の創建については。二つの経緯が考えられる。まず、第一は、当地に隣接する中瀬の地は、利根川に臨み、かって鎌倉古道である北越街道の通路に当たる渡船場があり、また利根川の舟運にかかわる河岸場が置かれていたことから、古くから要衝であったことがわかる。このような背景から、利根川の舟運にかかわる村人が、日ごろから航海安全の神として信仰する常陸国一ノ宮の鹿島神宮の神を当地に分霊したとする説である。
     第二は、かって隣村の大塚島に鎮座する鹿島大神社の社領であったと伝える下手計・沖・戸森・内ヶ島・田中(伊勢方の小字)などの村々などには「鹿島社」が祀られている。このことから、当社は往時、この鹿島大神社から分霊を受けたとする説である。
     いずれにせよ、鎌倉公方足利基氏御教書に、貞治二年(1363年)に安保信濃入道所領の跡、下手計の地を岩松直国に与えるとあるところから、この時期既に上下に分村していたことがわかり、社の創建もこの時代までさかのぼるのであろうか。
                                             「埼玉の神社・埼玉県神社庁発行」より
    所在地  埼玉県深谷市下手計1143
    御祭神  武甕槌尊
    社  挌  旧村社
    例  祭  11月15日 秋祭り


           
     鹿島神社は中瀬神社から群馬・埼玉県道14号伊勢崎深谷線に戻り南下し、下手計交差点を右折すると約500m位で右側に鹿島神社の社号標石が見えてくる。駐車場は鳥居を潜ると社の広い空間があり、車両の轍の様子から可能とは思ったが、やはりここは思い直して社号標石の近くに車を停めて参拝を行った。 
     
                             鹿島神社の参道の様子
                               鳥居は鹿島鳥居
              
           参道右手側に枯れた御神木の欅があり、歴史を感じさせてくれる威圧感があった。
              
    鹿島神社
     創立年代は不明だが、天慶年代(十世紀)平将門追討の際、六孫王源経基の臣、竹幌太郎がこの地に陣し、当社を祀ったと伝えられる。以降武門の守とされ、源平時代に竹幌合戦に神の助けがあったという。享徳年代(十五世紀)には上杉憲清(深谷上杉氏)など七千余騎が当地周辺から手計河原、瀧瀬牧西などに陣をとり、当社に祈願した。祭神は武甕槌尊で本殿は文化七年(1810)に建てられ千鳥破風向拝付であり、拝殿は明治十四年で軒唐破風向拝付でともに入母屋造りである。境内の欅は空洞で底に井戸があり、天然記念物に指定されていたが、現在枯凋した。尾高惇忠の偉業をたたえた頌徳碑が明治四十一年境内に建立された。
                                              昭和六十年三月 深谷上杉顕彰会
                                                           案内板より引用
                          
                                 拝   殿 
              拝殿には渋沢栄一が揮毫になる「鹿島神社」の扁額が掲げられている。
                          
                      黒が基調の重厚感のある鹿島神社 本殿

     
           社殿の裏手には三峯講社                  本殿裏にある香取神社
                         
                                  神楽殿 
              
                          鹿島神社の右隣にある八坂神社
                      
                   八坂神社の奥に手計不動尊。奥に見えるのは納札所           
        
               

    藍香尾高翁頌徳碑について
     尾高惇忠を敬慕する有志によって建てられたこの碑の除幕式は、明治四十二年(1909)四月十八日に挙行されました。
     おりから桜花満開の当日、澁澤栄一はじめ穂積陳重、阪谷芳郎、島田埼玉県知事など、建設協賛者である名士多数が臨席されました。その際、尾高惇忠の伝記「藍香翁伝」が参列者一同に配布されたのです。
     碑の高さは役四・五メートル、幅は役一・九メートル、まさに北関東における名碑の一つです。石碑の上部の題字は、澁澤栄一が最も尊敬する最後の将軍、徳川慶喜によるものです。碑文は三島毅、書は日下部東作、碑面に文字を刻む細工は東京の石工・吉川黄雲がそれぞれ当たりました。
     郷土の宝物であるこの名碑を大切にし、藍香翁はじめ先人の遺徳を偲び、共に感激を新たにいたしましょう。
                                                          平成十七年十月
                                                           案内板より引用
     

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