深谷市の中部から南部にかけては荒川によって形成された櫛引台地が存在する。海抜約50mから100mにかけてのなだらかな台地だが、その北端に仙元山が存在する。この仙元山は6,340万年前から260万年前の第三紀層の残丘と言われ、長年の断層運動や河川の浸食によって周囲から取り残され孤立した丘と言われている。
この周囲から突出した仙元山は古くは人見山とも言われ、古来からの霊地であったという。 伝説には、源頼朝の富士の巻狩に際し、関東に浅間大神を八社まつったうちの一つだというのがある。仙元山という名前は山頂付近に人見浅間神社は鎮座している関係でつけられた名前とも言われている。
現在では仙元山周辺は仙元山公園として綺麗に整備され、陸上競技場、野球場、 テニスコート、多目的グラウンドなど、多数の屋外スポーツ施設の他、遊園地も併設されているレジャースポットとして、深谷市内外の人々も多数利用され、憩いの場所になっている。
所在地 埼玉県深谷市人見1404
御祭神 木花開耶姫命
(合祀)伊邪諾命 伊弉冉命 大物主命 倉稻魂命 別雷命 建御名方命
社 挌 旧郷社
例 祭 10月19日 新嘗祭 (秋祭)
人見浅間神社は深谷駅の南側約2kmの所に仙元山があり、その山頂に鎮座している。埼玉県道62号深谷寄居線を深谷市から南方向に真っ直ぐ進むとほぼ前方に平たな小高い緑の丘があり、そこに向かって進めば大体間違いなく仙元山に到着することができる。ある意味仙元山は深谷市の中で一番解りやすい目標地点の一つともいえる。
人見浅間神社専用の駐車場はないので、千元山公園内の運動場の駐車スペースは広く確保されているのでそこを利用して参拝する。
浅間神社正面参道にある一の鳥居
一の鳥居の手前右側にある社号標 左側には案内板
浅間神社
仙元山の頂上にまつられ、祭神は木花開耶姫命ほか六神である。古来より安産守護神として遠近の人々の信仰をあつめてきた。
この社の創立は不詳だが、この地の豪族、大夫四郎家守が境内に建てた宝篋印塔の延文二年(1357)の彫銘により、南北朝時代にはすでに存立していたと思われる。
室町時代、この神社は人見館(上杉館)の鬼門に位置していたので、館鎮護としてまつられた。深谷城を築造した上杉房憲は、南麓に昌福寺を開基したが、四代後の氏憲もこの社を崇敬し寄進状の中の富士山とは当社のことである。
江戸時代、元和元年徳川秀忠の近臣岡田太郎右衛門利永がこの地を領し代々この社を崇拝し、社殿などを寄進した。
額には「富士山」と書かれた二の鳥居
雨に濡れた社殿風景。社はこのような景色もまた良い。
拝 殿
浅間神社の由来
浅間神社は、深谷駅の南方2kmに位置する標高98mの丘陵型ミニ森林公園・仙元山の頂上にあり、 緑豊かな環境に囲まれて自然と共存する由緒ある古社です。
創建年代は不詳ですが、南北朝時代にはすでに存在したようであり、また、縄文時代の昔から眺めの良い場所や水の湧く場所などは聖地として崇められ、 それが後代神社になった例もあるため、霊山としての起源は相当古い昔に遡る可能性があります。
御祭神は、天孫「ニニギの尊(みこと)」の妻で、海幸彦と山幸彦の母の「木花開耶姫命(このはなのさくやひめのみこと)」であり、 ほかに6柱の神が祀られています。
古くから安産の神として、近在ばかりか相当遠くの人たちの厚い信仰を集めて、安産講の組織も存在したと言われ、また、 養蚕守護の御利益もあったといわれています。
人見館(上杉館)の鬼門に位置したため、室町時代は館鎮護の役割を果たしたようで、平家物語の一の谷の合戦に源氏方で登場する「人見四郎」、 その子孫で、太平記の赤坂城の合戦に73歳の高齢の身ながら白髪を染めて出陣した同名の人見四郎も、この地の出身の可能性が高く、 今でも仙元山の近くに史跡・人見館跡が保存されています。
鳥居の神社名を記した文字は、昭和9年に皇太子として誕生された現在の平成天皇のご誕生記念として、当時の文部大臣、鳩山一郎が謹書したものです。
仙元山公園 ビッグタートル ホームページより引用
本 殿
社殿左側にある二柱神社の由緒の案内板 二柱神社
二柱神社由緒
「聖天様」の名で親しまれている二柱神社は、もと字瀧ヶ谷戸ほか大字人見内の各所に祀られていたいくつかの同名の小社を合祀して、明治四十年にこの地に遷座したものです。社名の由来は、御祭神に伊弉諾命・伊弉冉命の夫婦二柱の神を祀ったことによるもので、夫婦和睦また縁結びの神様として信仰されて来ました。二柱の神は、浅間神社の御祭神の木花開耶姫命から見て、祖父母の神様になります。
ここに伊勢の神宮御鎮座二千年の吉き年に当り、安産等の神として長い歴史を持つ本社の浅間神社と並び、末永くこの地に栄え、氏子崇敬者の子々孫々までに御加護と御恵みを蒙りますように、社殿を新たに造り替え、由緒の概略を記すものです。
平成8年2月19日
案内板より引用
平家物語や太平記に登場する武州の人見四郎という名の武将は、当地の出身と思われ、近くに人見氏館跡が保存されている。
人見氏は武蔵七党の一つ猪俣党に属する河匂政経(かわわまさつね) がこの地に住んで人見六郎と名乗ったのに始まる。その子行経は寿永3年(1184年)の一の谷合戦で活躍、建久元年(1190年) 頼朝上洛の際に随行もしている。子孫は、鎌倉幕府の御家人として活躍していて、中でも人見四郎は元弘3年(1333年)2月に楠木正成が籠る河内赤坂城攻めに参戦し、壮絶な死を遂げたことで有名な武将である。
この人見氏の本家筋にあたる猪俣氏は、猪俣党とも呼ばれ、 武蔵国那珂郡(現在の埼玉県児玉郡美里町の猪俣館)を中心に勢力のあった武士団であり武蔵七党の一つ。小野篁の末裔を称す横山党の一族であった。
ところで猪俣氏は小田原北条史料に「猪俣能登守は、天正七年まで富永助盛と称す」と見られるように本名は「富永氏」であったようだ。
富永 トミナガ 那加(なか、なが)の那は国、加は村の意味で、登美族の渡来集落を富永と称す。
猪俣氏の本名富永氏
能登守助盛は猪俣城主となり、猪俣氏の名跡を継承して猪俣能登守邦憲と名乗る。弟に富永勘解由左衛門助重(清兵衛)あり。猪俣文書(本名富永氏)は東京大学史料編纂所が所蔵す。猪俣文書に「三月十四日(天正六年か)、向多留致伏兵(赤城村樽)、城主始牧和泉守次男数多討捕由、対安房守氏邦注進状、富永能登守殿(後の猪俣邦憲)、氏政花押」。「天正七年六月十日、猿ヶ京番衆(新治村)へ可申越旨云々、富永能登守奉之」。富永清兵衛覚書(猪俣文書)に「加リ金の城主倉賀野淡路守殿、是へ働之時、清水と申す観音堂焼申時、我等参やき候へば、敵観音堂迄もち、為焼不申候時、せり合候て鑓に相たうをは焼はらい申候事、同日の晩に惣人数陣場へ引申時、敵出候而、松山上田殿と敵取くみ申所へ我等馬を乗入、鉄砲に中申候。滝川合戦に而、安房守様御供申、御眼前に而高名二つ仕候事」。富永清兵衛は富永勘解由左衛門助重と称し、兄富永能登守助盛は猪俣能登守邦憲と称す。
埼玉苗字辞典より引用
美里町猪俣は地名から窺えるとおり猪俣党の本拠地であるが、この根拠地を中心にして周辺に勢力を伸ばした。関連氏族は「猪俣氏」「人見氏」「男衾氏」「甘糟氏」「岡部氏」「蓮沼氏」「横瀬氏」「小前田氏」「木部氏」など。
男衾郡の延喜式内社の一つである「小被神社(おぶすまじんじゃ)」の由緒は「安閑天皇の御宇、富田鹿(ロク)なる者が、富田村字塚越に小祠を建てて小被の神を祠ったことに始まる。」と書かれていてここにも「富田鹿」という「富」姓をもつ在地の豪族が近隣に存在していて、猪俣氏と関連性があるのではないかと思われる。
このように「人見」は猪俣党出身の一族がこの地に移住して開発した地であり、またこの猪俣党の本来の姓は「富永、富姓」と思われることから「人見」の本当の名前は「日+富」ではなかったのではないかと現時点で推測される。
*「日」の根拠として考えられることは、源頼朝の富士の巻狩に際し、関東に浅間大神を八社まつったうちの一つだというのがあり、古来から地方の霊山として神聖視されたというところから、「日」=祭祀の象徴であると思える。
また猪俣氏の根拠地である美里町から仙元山は、丁度「東側」の方角であり、「東」=「日出づる場所」とも考えられていたのではないだろうか。