古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

上原白髭神社

 上原白髭神社が鎮座する上原地区は、文久元年(1868年)猪俣村岡本文書に「榛沢郡上原村、下原村」と見えるところから、元「原」地区であり、その後下原と上原に分かれたと思われる。このうちの下原地区は、地頭岡田氏寛政十年申渡覚(名主宇野文書)に下原村と記述され、室町時代には刀工下原鍛冶の小川氏・田島氏等が居住していたという。
 対して上原地区は、大里郡神社誌に「原村白髪神社(今は白髭)は、当村の開拓者大沢某天正三年茲に勧請せりと称せらる。大沢家は近世に至るまで別当職たり、旧別当職の子孫大沢九平なり」と書かれ、天正年間(1573年~1593年)に大沢氏が創建した社であったことが紀されている。

        
             ・所在地 埼玉県深谷市上原214
             ・御祭神 清寧天皇、武内宿禰
             ・社 挌 旧村社
             ・例 祭 祈年祭 49日 例祭 109日 新嘗祭 1215
             *祭日に関して「大里郡神社誌」を参照
  地図 https://www.google.com/maps/@36.1472463,139.2709267,17z?hl=ja&entry=ttu        
  上原白髭神社は永田八幡神社から国道140号彩甲斐街道に戻り、そのまま熊谷方面に進むと、田中(西)交差点の先で右側に長い松林が見えてくる。この林の中に白髭神社が鎮座しているが、社は国道から直接社に通じる道はなく、社は林の丁度中央に位置するので外周回りで南側の一の鳥居付近に行くしかない。
 神社正面には適当な駐車スペースはないので道路と注連柱の間を通り、舗装されていない長い参道を抜けると広い空間が広がる。
                        
                       上原白髭神社正面鳥居と社号標石

 
  細長い参道。拝殿側から一の鳥居方向に撮影        参道の先には開放的な境内が広がる。
          
                  参道途中、右側に聳え立つ杉のご神木(写真左・右)
                        
                                    拝  殿
            
 
                拝殿上部、向拝部にはさりげなく彫刻が施されている。
 
       社殿の左側で手前にある浅間社              浅間社の並びにある合祀社
                             左から金比羅宮、大神宮、秋葉宮、久壽志神、大山祇神、天神宮

白髭神社は調べると大きく3系統の由来があると思われる。
①滋賀県高島市鵜川にある「白鬚神社」を総本社とする系統。
 主祭神は天狗で有名な猿田彦命であり、容貌魁偉で、鼻は高く、身長は七尺余りという身体的な特徴を持つ。ある説では天津神が国土を統一する以前より豊葦原国を大国主命と共に統治していた国津神、地主神とも言われ、その後瓊瓊杵尊が天孫降臨の際には道案内をしたということから、道案内の神、その後道の神、旅人の神とされ、日本全国にある塞神、道祖神が同一視され、「猿田彦神」として祀られているケースが非常に多い。
②埼玉県日高市に鎮座する「高麗神社」を総本社とする系統。
 高麗神社は別名、高麗大宮大明神、大宮大明神、白髭大明神と称されていたが、その始祖的存在である高麗王若光は白髭をはやしていて「白ひげさん」と言われていたという。この高麗神社を総本社とする「白髭」「白髪」神社は高麗郡を中心として入間川流域に数多く鎮座している。
③清寧天皇を御祭神とする系統。
 清寧天皇は雄略天皇と葛城韓媛との子で,生まれながらに白髪であったことから,白髪皇子と呼ばれた。和風諡号は白髪武広国押稚日本根子天皇、白髪大倭根子命(古事記)。吉田東伍は清寧天皇の御名代部である白髪部にゆかりのものだろうと考察している。
            
                         上原白髭神社 参道の一風景
                      
                                       
 上原白髭神社の社殿の前にある案内板にはハッキリと「高麗明神」と明記され、高麗神社の系列に含まれると案内板の編集者は考えたのだろうが、実際の御祭神は清寧天皇とされている。この矛盾は何であろうか。
 また、男衾郡赤浜村、風土記稿赤浜村条に「小名塚田の辺に鎌倉古街道の蹟あり、村内を過て荒川を渡り榛沢郡に至る、今も其道筋荒川の中に半左瀬川越岩と唱ふる処あり。半左瀬といふは昔鎌倉繁栄の頃、この川縁に関を置て、大沢半左衛門と云者関守たりしゆへ此名残れり」という記述がある。畠山重忠の臣で、関守である大沢半左衛門の墓は塚田にあるともいう。
 この塚田の地は南北朝末期から室町初期にかけて、関東各地の寺院の梵鐘を鋳造した 塚田鋳物師集団の存在があった。加えて、上原白髭神社の創始者は大沢某といい、畠山重忠配下の武将にも大沢氏が多数いて、その一族の後裔である可能性も高い。地理的にも畠山地区から荒川を挟んで真北に上原地区はある。関連性がないほうがおかしいのではないだろうか。




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永田八幡神社

 深谷市旧花園町は荒川中流域左岸に位置しており、町の殆どがなだらかな櫛引台地上にあり、辺り一面のどかな田園風景が続く地域である。豊榮神社が鎮座する黒田地区の東側は永田地区で、荒川扇状地に位置するこの地域には豊かな湧き水が多く存在している。かつて6つの湧水池があり、柳出井池・代次郎池・弁天池・宮下の池・中清水池・清水池等という。いずれも永田地区の水田を潤してきた湧水池で、前述の「永田地区湧水池池下図」によると、その受益面積はあわせて19.8haにも達した。現在でも水が湧き出し、水辺空間として最もよく整備されているのが柳出井池である。
 永田八幡神社が鎮座する「永田」地区は慶長9年名主野辺文書に「長田村」と記載されている。つまり「長田」が本来の地名であり、後代において「永田」に変わったとみられる。
 和名抄に長田郷を奈加多、奈加太(ナカタ)と訓じている。ナカタの元は「中田」といい、その転訛、つまり、本来の発音がなまった変化形である。この「中田」にしても、基本形は「中」であり、「中+田」、つまり本来は「中」が発展して「中田(仲田)」「永田(長田)」、または「長井」「中井(中居)」「中村」「中山」「長尾」「中野」「長野」等と称したという。
所在地   埼玉県深谷市永田664
御祭神   誉田別命(推定)
社  挌   旧村社
例  祭   4月15日 春祭り、永田神代神楽

       
 永田八幡神社は黒田豊榮神社から140号バイパスに戻り、黒田交差点を過ぎて秩父鉄道の高架橋を越えると左側に永田八幡神社の社叢が見えてくる。但しバイパスから見える社叢は2か所あり、手前南側のは長楽寺である。ちなみにこの長楽寺と永田八幡神社は南北に隣接しているような配置となっている。
  南側にある正面参道はあぜ道となっていて車での走行はできないようなので、北側、つまり神社の後ろ側から入って境内に車を停めて参拝を行った。(参拝日平成26年1月)
  境内には数多くの境内社や合祀社があったが詳細等は調べても解らなかったので、今回写真の紹介はなしとした。
           
                        永田八幡神社正面一の鳥居
           
                  一の鳥居を過ぎて、手水舎の奥にある御神木
 調べてみると永田八幡神社が鎮座するこの地の字名は「中居(ナカイ)」という。「永田」と「中居」。この地は「中」の関連する地である。
 
      社殿の手前で右側にある神楽殿              神楽殿の並びにある案内板

 永田の神代神楽   所在地  花園町大字永田地内
 永田の神代神楽は、この八幡神社に古くから伝わるものといわれ、口伝によるとその起源は約百五十年前頃までさかのぼるという。
 当初の形態については記録が残っていないために詳らかではないが、概ね氏子衆による里神楽に近いものであったと思われる。しかし明治時代になると、明治十五年(1882年)に演劇取締令が公布され、里神楽が禁止されたために一時的に衰退したものが、児玉郡神川村の金讃神社に伝わる神代神楽十三組のうちの一組、金讃神楽長島組として再興し、以後金讃神楽永田組として継承され、現代に至っている。
 神楽は全部で25座(曲)が伝承されているが、現在上演が可能なものはそのうち11座である。
 神楽は毎年四月十五日の八幡神社の春祭の際に境内神楽殿で上演される。
 現在は保存団体として金讃神楽長島組が保存伝承にあたっている。
 昭和五十二年、この神楽を町指定無形文化財に指定した。
 昭和六十二年三月     深谷市教育委員会
                                                             案内板より引用
           
                             拝    殿

        拝殿向背部等の見事な彫刻                    本    殿

 
 冒頭で紹介したが、この永田地区、またはその周辺には多数の湧水があり、永田八幡神社の境内にも「宮下の池」という湧水池がある。
                 
                             宮下の池
 永田八幡神社の裏手から西側に通じる道路があり、そこを道なりに進むと、十字路にぶつかる。十字路の左側向かい側に小さい公園があり、ここはかつて永田の弁天池「代次郎池」という大きな湧水池があったところで、公園の一角にはその由来を記した記念碑が建てられている。

 この道をさらに道なりにしばらく進み、右手にある民家が途切れはじめ、道路の左側も水田風景が広がり、その中の一角にポツンと「柳出井池」という小さな湧水池が見えてくる。この八幡神社から柳出井池までの東西に走る道は、道路を境界線として、その左手に広がる水田地帯が、小さな段丘崖であるらしい。この崖下に位置する左手の水田地帯には、かつて6つの湧水池があったという。
            
                              柳出井池
 池に接した東側の空き地には、5基の石碑が一列に並んでいる。道祖神や大黒天・庚申塔・水神等。この永田の地域の人々が祈りを込めて造立したものだ。この碑の中に水神があるが、もちろんこの柳出井池を指すものであろう。この地に代々住んでいる人々にとってかけがえのない水源だったはずだ。柳出井池を水源として水田耕作をしていた人々が、この池の神に水の恵みを感謝し、豊かな水が末代まで湧き出るように祈って造立したものであろうことは容易に考えられる。







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菅沼天神社

弓で的を射る弓神事は、現在も各地で行われているが、形式的には、主として乗馬した射手が馬を馳せながら射る流鏑馬、その場で射る歩射の二種類であろう。民間の弓神事として行われるのは、ほとんどが後者のほうであり、地域によりさまざまな言い方がある。
 
関東地方では一般的にオビシャと称し、埼玉、千葉、茨城各県の利根川流域の各村落で行われる春の行事であり、特にこの3県において濃密に分布している。漢字では、「奉射」「奉謝」「奉社」「備射」「備社」「毘舎」「毘者」「毘沙」「御歩射」等いろいろ言われている。関東地方で現在も行われている弓神事は、新暦の1月あるいは2月に集中していて、元来は弓を射てその年1年の作物の作柄など、神意を占う予祝行事であったと思われる。
 
深谷市菅沼地区に鎮座する天神社にもオビシャ神事の一形態である「的場の儀」が例年初午の日である225日に行われている。
所在地   埼玉県深谷市菅沼480
御祭神   菅原道真
社 挌   不明
例 祭   2月25日「的場の儀」を含む春の例大祭

     
 菅沼天神社は国道140号線を熊谷警察署から旧川本町方向に進み、知形神社がある植松橋の下流約1kmの荒川の段丘崖上に鎮座している。国道140号から左折した先に鎮座しているが、手作りの看板があるので見落とさなければこの小さな社に着くことができる。社叢に接して社務所があり、そこには駐車スペースがあるのでそこに停めて参拝を行った。

 菅沼天神社正面参道。この参道を真っ直ぐ進む先に天神社は鎮座しているが、社殿は南側、つまり進行方向に対して横を向いている為、鳥居からは左側90度曲がって進むことになる。その曲がった先に天神社社殿が存在する。
              
 参道を進むと左側に「的場の儀」の案内板と石像がある。「的場の儀」は深谷市指定無形文化財。

  天神社の「的場の儀」を始め、関東3県(千葉、茨城、埼玉)に多く民間伝承されている「オビシャ」神事は、淵源を辿ると「射日神話」にたどり着く。菅沼天神社のように白い紙に同心円を描いた一般的な的もあるが、中には、墨で「鬼」の宇を書いた的や、三本足の烏や兎などを描いた的もある。古来、中国や朝鮮半島、日本では、三本足の烏は太陽を、兎や蛙は月を象徴する動物として描かれてきた。この三本足の烏は八咫烏とも言われ、日本神話において神武東征の際、高皇産霊尊 によって神武天皇のもとに遣わされ、熊野国から大和国への道案内をしたとされる神聖な烏であり、賀茂氏が持っていた「神の使いとしての鳥」の信仰と、中国の「太陽の霊鳥」が習合したものともされる。このためオビシャは、「日射」すなわち象徴的に太陽を射て、新たな年の活性化を図る行事であったのではないか、とする考え方もある。
 
                                            
                    天神社社殿
『隋書』倭国伝の一節にこのような記述がある。

 
毎至正月一日、必射戲飲酒、其餘節略與華同。好棋博、握槊、樗蒲之戲。氣候温暖、草木冬青、土地膏腴、水多陸少。以小環挂鸕○項、令入水捕魚、日得百餘頭。俗無盤俎、藉以檞葉、食用手餔之。性質直、有雅風。女多男少、婚嫁不取同姓、男女相悅者即為婚。婦入夫家、必先跨犬、乃與夫相見。婦人不淫妒。

(現代語訳  
毎回、正月一日になれば、必ず射撃競技や飲酒をする、その他の節句はほぼ中華と同じである。囲碁、握槊、樗蒲(さいころ)の競技を好む。気候は温暖、草木は冬も青く、土地は柔らかくて肥えており、水辺が多く陸地は少ない。小さな輪を河鵜の首に掛けて、水中で魚を捕らせ、日に百匹は得る。俗では盆や膳はなく、檞葉を利用し、食べるときは手を用いて匙(さじ)のように使う。性質は素直、雅風である。女が多く男は少ない、婚姻は同姓を取らず、男女が愛し合えば、すなわち結婚である。妻は夫の家に入り、必ず先に犬を跨ぎ、夫と相見える。婦人は淫行や嫉妬をしない。)

 
ここで書かれている「射戯」とはオビシャ神事ではないかという人もある。とすると、このオビシャ神事の淵源は考えられている以上に太昔に遡るかもしれない。

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武蔵野八幡神社

  武蔵野と呼ばれる地域は旧武蔵国に居住地のある筆者にとって妙に郷愁をそそられる名前である。この武蔵野の範囲について明確な定義はないようだが、広辞苑によれば「埼玉県川越市以南、東京都府中市までの間に拡がる地域」であり大略において今の武蔵野台地にあたる地域とも、また広義には「武蔵国全域」を指すこともあるとされている。
 
埼玉県深谷市にもその「武蔵野」という地域が存在する。元々は旧花園町に属し、2006年(平成18年)1月に深谷市に合併された一面のどかな田園地帯が続く地域だ。町の殆どが櫛引台地上にある。『新編武蔵風土記稿』によれば、江戸初期、この辺りを飯塚村といい、上飯塚と下飯塚とに分かれていたらしく、武蔵野村に改称したのは明治期になってからのことらしい。
 
武蔵野=雑木林のイメージには全く似つかわしくない水田地帯であるが、この地に華麗な装飾に飾られた社が存在している。
所在地    埼玉県深谷市武蔵野1862
御祭神    誉田別命(推定)
社  挌    旧村社
例  祭         不明
         
 
 武蔵野八幡神社は旧花園町、現深谷市花園地区武蔵野の埼玉県道175号小前田児玉線の北側に鎮座している。同県道は秩父鉄道小前田駅を起点にして最初に西方向に進むが、途中踏切を越える手前から北西方向に進路を変え、その道を真っ直ぐ進み、原宿交差点の先約300mで進路に対して右側にこの社はある。
 駐車場は道路沿いにはなく、社をぐるっと回った本殿の奥に武蔵野自治会館があり、そこの駐車スペースに停めて参拝を行った。
           
 
                                                        武蔵野八幡神社正面
 この社の案内板はなく、その代わりに鎌倉街道(上道)についての看板が鳥居の左側に大きくあった。この地は鎌倉街道の宿駅・原宿があったところで、鎌倉街道は源頼朝は鎌倉に幕府を開いてから(1192)後北条氏が滅びるまで(1590)政治的、軍事的な主要道路の役割を果たしてきたという。現在はほぼ舗装されているこの道を畠山重忠、新田義貞等多くの武将の栄枯盛衰の物語を刻みつけた道と思うと、感慨はまた一入(ひとしお)だ。


    鎌倉街道(上道)のみちすじ」と書かれた案内板                     境内の風景
 
         
                          武蔵野八幡神社拝殿

 
     犬養毅筆の拝殿上部の社号額         拝殿側部には西南戦争で活躍した陸軍元帥

                                           野津道貫の額
        
  今現在は色あせてきているが、築造当時は華麗に装飾され、彫刻も見事だったろうと思われる
                          武蔵野八幡神社本殿

武蔵野八幡神社
 
当社の西側を通る県道小前田・児玉線は、建久三年(1192)源頼朝が鎌倉幕府を開いてから整備した鎌倉街道であると伝えている。頼朝やそれに従った者たちの八幡信仰はよく知られている。
 当社も、この街道を通って、鎌倉に向かった当地の武将が信仰したものなのであろう。江戸期は、当社の北東に位置する浄土宗常光寺が別当で、祭祀を司っていた。その後、明治に入り、政府から神仏分離令、次いで神社合祀政策が打ち出された。当社も、明治四十一年には、字東宿地の無格社大荒神社、字正法寺の無格社諏訪大神社を合祀し、社名を八幡大神社と改めた。更に、翌四十二年には、字宮地の村社十二社大神社及びその境内社八幡大神社を合祀した。この折、字風原の村社足高大神社も合祀する予定であったが、賛同が得られず中止となった。
 このため足高大神社は、合祀された十二社大神社の氏子への配慮から、
社名を大正四年に武蔵野神社に改めた。また、一旦合祀された十二社大神社は、昭和二十八年に地元の氏子の強い要望により、十二社神社の社名で字濡僧の地に分祀され、当社も八幡神社の旧称に復した。
                                       埼玉の神社、埼玉県神社庁発行より引用

 
    武蔵野八幡神社社殿の奥にある合祀社             合祀社に並んである仙元社等 



 



 

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人見浅間神社

 深谷市の中部から南部にかけては荒川によって形成された櫛引台地が存在する。海抜約50mから100mにかけてのなだらかな台地だが、その北端に仙元山が存在する。この仙元山は6,340万年前から260万年前の第三紀層の残丘と言われ、長年の断層運動や河川の浸食によって周囲から取り残され孤立した丘と言われている。
 この周囲から突出した仙元山は古くは人見山とも言われ、
古来からの霊地であったという。 伝説には、源頼朝の富士の巻狩に際し、関東に浅間大神を八社まつったうちの一つだというのがある。仙元山という名前は山頂付近に人見浅間神社は鎮座している関係でつけられた名前とも言われている。
 
現在では仙元山周辺は仙元山公園として綺麗に整備され、陸上競技場、野球場、 テニスコート、多目的グラウンドなど、多数の屋外スポーツ施設の他、遊園地も併設されているレジャースポットとして、深谷市内外の人々も多数利用され、憩いの場所になっている。
所在地   埼玉県深谷市人見1404
御祭神   木花開耶姫命
      (合祀)伊邪諾命 伊弉冉命 大物主命 倉稻魂命 別雷命 建御名方命
社 挌      旧郷社
例 祭      10月19日 新嘗祭 (秋祭)
         
             

人見浅間神社は深谷駅の南側約2kmの所に仙元山があり、その山頂に鎮座している。埼玉県道62号深谷寄居線を深谷市から南方向に真っ直ぐ進むとほぼ前方に平たな小高い緑の丘があり、そこに向かって進めば大体間違いなく仙元山に到着することができる。ある意味仙元山は深谷市の中で一番解りやすい目標地点の一つともいえる。
 人見浅間神社専用の駐車場はないので、千元山公園内の運動場の駐車スペースは広く確保されているのでそこを利用して参拝する。
 


                    
               浅間神社正面参道にある一の鳥居
 
   一の鳥居の手前右側にある社号標           左側には案内板
浅間神社
 仙元山の頂上にまつられ、祭神は木花開耶姫命ほか六神である。古来より安産守護神として遠近の人々の信仰をあつめてきた。
 この社の創立は不詳だが、この地の豪族、大夫四郎家守が境内に建てた宝篋印塔の延文二年(1357)の彫銘により、南北朝時代にはすでに存立していたと思われる。
 室町時代、この神社は人見館(上杉館)の鬼門に位置していたので、館鎮護としてまつられた。深谷城を築造した上杉房憲は、南麓に昌福寺を開基したが、四代後の氏憲もこの社を崇敬し寄進状の中の富士山とは当社のことである。
 
江戸時代、元和元年徳川秀忠の近臣岡田太郎右衛門利永がこの地を領し代々この社を崇拝し、社殿などを寄進した。


        
             額には「富士山」と書かれた二の鳥居
             
          
          雨に濡れた社殿風景。社はこのような景色もまた良い。      
         
                      拝   殿
浅間神社の由来
 浅間神社は、深谷駅の南方2kmに位置する標高98mの丘陵型ミニ森林公園・仙元山の頂上にあり、 緑豊かな環境に囲まれて自然と共存する由緒ある古社です。
 創建年代は不詳ですが、南北朝時代にはすでに存在したようであり、また、縄文時代の昔から眺めの良い場所や水の湧く場所などは聖地として崇められ、 それが後代神社になった例もあるため、霊山としての起源は相当古い昔に遡る可能性があります。
 御祭神は、天孫「ニニギの尊(みこと)」の妻で、海幸彦と山幸彦の母の「木花開耶姫命(このはなのさくやひめのみこと)」であり、 ほかに6柱の神が祀られています。
 古くから安産の神として、近在ばかりか相当遠くの人たちの厚い信仰を集めて、安産講の組織も存在したと言われ、また、 養蚕守護の御利益もあったといわれています。
 人見館(上杉館)の鬼門に位置したため、室町時代は館鎮護の役割を果たしたようで、平家物語の一の谷の合戦に源氏方で登場する「人見四郎」、 その子孫で、太平記の赤坂城の合戦に73歳の高齢の身ながら白髪を染めて出陣した同名の人見四郎も、この地の出身の可能性が高く、 今でも仙元山の近くに史跡・人見館跡が保存されています。
 鳥居の神社名を記した文字は、昭和9年に皇太子として誕生された現在の平成天皇のご誕生記念として、当時の文部大臣、鳩山一郎が謹書したものです。
                                    仙元山公園 ビッグタートル ホームページより引用
             
                                                                      本     殿


                  社殿左側にある二柱神社の由緒の案内板          二柱神社
二柱神社由緒
「聖天様」の名で親しまれている二柱神社は、もと字瀧ヶ谷戸ほか大字人見内の各所に祀られていたいくつかの同名の小社を合祀して、明治四十年にこの地に遷座したものです。社名の由来は、御祭神に伊弉諾命・伊弉冉命の夫婦二柱の神を祀ったことによるもので、夫婦和睦また縁結びの神様として信仰されて来ました。二柱の神は、浅間神社の御祭神の木花開耶姫命から見て、祖父母の神様になります。
 ここに伊勢の神宮御鎮座二千年の吉き年に当り、安産等の神として長い歴史を持つ本社の浅間神社と並び、末永くこの地に栄え、氏子崇敬者の子々孫々までに御加護と御恵みを蒙りますように、社殿を新たに造り替え、由緒の概略を記すものです。
 平成8年2月19日
                                                      案内板より引用
 



平家物語や太平記に登場する武州の人見四郎という名の武将は、当地の出身と思われ、近くに人見氏館跡が保存されている。 
 
人見氏は武蔵七党の一つ猪俣党に属する河匂政経(かわわまさつね) がこの地に住んで人見六郎と名乗ったのに始まる。その子行経は寿永3年(1184年)の一の谷合戦で活躍、建久元年(1190年) 頼朝上洛の際に随行もしている。子孫は、鎌倉幕府の御家人として活躍していて、中でも人見四郎は元弘3年(1333年)2月に楠木正成が籠る河内赤坂城攻めに参戦し、壮絶な死を遂げたことで有名な武将である。
 こ
の人見氏の本家筋にあたる猪俣氏は、猪俣党とも呼ばれ、 武蔵国那珂郡(現在の埼玉県児玉郡美里町の猪俣館)を中心に勢力のあった武士団であり武蔵七党の一つ。小野の末裔を称す横山党の一族であった。
 
ところで猪俣氏は小田原北条史料に「猪俣能登守は、天正七年まで富永助盛と称す」と見られるように本名は「富永氏」であったようだ。

富永 トミナガ 那加(なか、なが)の那は国、加は村の意味で、登美族の渡来集落を富永と称す。
猪俣氏の本名富永氏 
 能登守助盛は猪俣城主となり、猪俣氏の名跡を継承して猪俣能登守邦憲と名乗る。弟に富永勘解由左衛門助重(清兵衛)あり。猪俣文書(本名富永氏)は東京大学史料編纂所が所蔵す。猪俣文書に「三月十四日(天正六年か)、向多留致伏兵(赤城村樽)、城主始牧和泉守次男数多討捕由、対安房守氏邦注進状、富永能登守殿(後の猪俣邦憲)、氏政花押」。「天正七年六月十日、猿ヶ京番衆(新治村)へ可申越旨云々、富永能登守奉之」。富永清兵衛覚書(猪俣文書)に「加リ金の城主倉賀野淡路守殿、是へ働之時、清水と申す観音堂焼申時、我等参やき候へば、敵観音堂迄もち、為焼不申候時、せり合候て鑓に相たうをは焼はらい申候事、同日の晩に惣人数陣場へ引申時、敵出候而、松山上田殿と敵取くみ申所へ我等馬を乗入、鉄砲に中申候。滝川合戦に而、安房守様御供申、御眼前に而高名二つ仕候事」。富永清兵衛は富永勘解由左衛門助重と称し、兄富永能登守助盛は猪俣能登守邦憲と称す。
                                                埼玉苗字辞典より引用



美里町猪俣は地名から窺えるとおり猪俣党の本拠地であるが、この根拠地を中心にして周辺に勢力を伸ばした。関連氏族は「猪俣氏」「人見氏」「男衾氏」「甘糟氏」「岡部氏」「蓮沼氏」「横瀬氏」「小前田氏」「木部氏」など。
 
男衾郡の延喜式内社の一つである「小被神社(おぶすまじんじゃ)」の由緒は「安閑天皇の御宇、富田鹿(ロク)なる者が、富田村字塚越に小祠を建てて小被の神を祠ったことに始まる。」と書かれていてここにも「富田鹿」という「富」姓をもつ在地の豪族が近隣に存在していて、猪俣氏と関連性があるのではないかと思われる。
 このように「人見」は猪俣党出身の一族がこの地に移住して開発した地であり、またこの猪俣党の本来の姓は「富永、富姓」と思われることから「人見」の本当の名前は「日+富」ではなかったのではないかと現時点で推測される。

*「日」の根拠として考えられることは、源頼朝の富士の巻狩に際し、関東に浅間大神を八社まつったうちの一つだというのがあり、古来から地方の霊山として神聖視されたというところから、「日」=祭祀の象徴であると思える。
 また猪俣氏の根拠地である美里町から仙元山は、丁度「東側」の方角であり、「東」=「日出づる場所」とも考えられていたのではないだろうか。



 

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