古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

下三沢諏訪神社


        
             
・所在地 埼玉県秩父郡皆野町三沢726
             ・ご祭神 建御名方神 八坂刀賣神 菊理媛命
             ・社 格 旧下郷鎮守
             ・例祭等 建国祭 211日 春祭り 47日 大祓式 630
                  例大祭 107日 新穀感謝祭127
 国道140号彩甲斐街道を長瀞町から南下し、荒川を越えた「道の駅みなの入口」交差点を左折、埼玉県道348号下戦場塩貝戸線、続いて同県道82号長瀞玉淀自然公園線を道なりに3㎞程進むと、進行方向左手にある非常駐車帯の南側隅に、山裾へ通じる石段の入口が見え、そこを登ると下三沢諏訪神社の境内に達することができる
         
                                                          下三沢諏訪神社正面
『新編武蔵風土記稿』によると、三沢村は行政上においては一村ではあっても、実際には「上郷」「中郷」「下郷」に分れ、諏訪神社は下郷に属していた。それ故に名主(里正)も各郷に一名おり、また上郷に牛沢、中郷に宮沢、下郷に茗荷沢と三つの大きな沢があって、このことが村名の由来ともいわれている。
         
                                              入り口付近に設置されている案内板
 諏訪神社 御由緒   皆野町三沢七二六
 ◇雨乞いで人々を救った諏訪の神
 当社の鎮座する三沢の地名が記録上に現れるのは、正平七年(一三五二)のことで、同年二月十六日の足利尊氏袖判下文(安保文書)に「武蔵国秩父郡三沢郷」とある。また、同地の小根からは文保年紀(一三一七~一八)の板碑が発見され、茗荷沢には室町期の竜ヶ谷城址がある。
 社伝によると、創始については、後白河天皇の元仁元年(一二二四)に当地が大干ばつに見舞われた折、信濃国から覚桑法印が訪れ、諏訪明神二柱(建御名方神・八坂刀賣神)を諏訪平の地に勧請して祈雨の祭りを奉仕すると、たちまち験が現れたと伝えられ、以来諏訪明神と号するという。『武蔵風土記稿』には「諏訪社 下郷の鎮守なり、村民持、例祭七月廿七日、小社四十一ヶ所」とあり、また、覚桑法印については地長福寺の項に「開山覚桑寂年を伝へず」と ある。口碑に「江期に当社は諏訪平から今の社地芳ノ入に移った。理由や詳しい年月は不明」とある。
 なお、当社は明治四十五年(一九一二)に中郷の村社瑞穂神社に一度合祀されたが、昭和二十二年(一九四七)に瑞穂神社から分祀を行い、名実ともに旧に復した。
 また、当地には江戸期より獅子舞が伝えられており、寛延三年(一七五〇)にはすでに三沢の獅子舞は「雨乞いざさら」の名で通っていたという。現在でも、秋の例大祭には三沢諏訪神社獅子舞団による獅子舞が奉納されている。(以下略)
                                      
案内板より引用
         
                   参道から境内を望む。
 直ぐ下には県道が通っていながら、斜面を上がった瞬間から異世界に迷い込んだようで、荘厳さすら感じてしまうような雰囲気。参道の先にある境内には玉砂利が敷かれているが、その周りには杉の大木等に覆われていて、邪悪なものが近づこうものなら、忽ち浄化してしまうような神聖性が辺り一帯に漂っているようで、自然と身が引き締まるような心持ちとなる
 
   参道左側に祀られている大黒大神の石碑    石碑の右並びに設置されている社の由来書
 諏訪神社由緒
当社は武蔵国秩父郡三沢郷下三沢の鎮守社なり 信濃国一之宮諏訪大社より勧請し奉れり 御祭神は建御名方神と八坂刀売神の御二柱を奉斎し 菊理媛命を配祀す
 建御名方神は大国主神と沼河比売命の御子神にして事代主神の御弟神なり八坂刀売神は建御名方神の御妃神なり
 当社の御創始は鎌倉時代に遡り後堀河天皇の元仁元年(一二二四年)当地方大旱魃に見舞はれし時 信濃国の人覚桑なる者当地に諏訪の神を祀り雨を祈るや忽ちにして大雨沛然と降り注ぐ 里人歓喜し諏訪の平に社を建て二柱大神を鎮斎し後にこの地に移りしまつりしものと云ふ 爾来祀り来りて尊崇すること七百六十五年 国土開発 農耕生産 風雨水の龍神信仰 開運招福 近くは交通安全の守護神として霊験極めてあらたかにその御加護を蒙りつつ今日に至れり
 ここに御社運の長久を祈り奉りその由緒を記し子孫に伝へ氏子崇敬者の弥栄を祈念し一碑を奉献して神恩に報ひまつらんとするものなり。(以下略)
                                                                          由緒碑文より引用
         
                      拝 殿
  当地には江戸期より獅子舞が伝えられており、慶安2年(1649)に当地に伝えられたといわれる下妻流獅子舞。寛延三年(一七五〇)にはすでに三沢の獅子舞は「雨乞いざさら」の名で通っていたという。現在でも、秋の例大祭には三沢諏訪神社獅子舞団による獅子舞が奉納されている。
  曲目は、弊掛り、割ザサラ、奥ザサラ、花割り、竿掛り、四ツ替り、段づく、四句割り、下妻、瓢箪廻し、四庭寄せである。四句割り、下妻、瓢箪廻しを3役と言い、祭り最高潮の時に舞われ、最終の四庭寄せは、獅子2組、仲立ち2人の合わせて8人で舞う。
 この「下三沢諏訪神社獅子舞」は、昭和5941日町の無形民俗文化財の指定を受けている。
        
         
社殿の手前で県道側に聳え立つ「夫婦杉」のご神木(写真左・右)
  ご神木の前には立札があり、それによると、このご神木は「常若(とこわか)の樹という。
人の世が生まれてこの方、人の世は常に輪廻を繰り返し、常若(とこわか)を保って来た。この世の森羅万象は全て自然の理。境内に摩訶不思議な樹が存在した。これもまた自然の理が与え賜えたもの。
人の命が生まれる営みは今も昔も変わらない。
此の樹は「旺盛なエネルギー」を発散している。
どうかそっと触って見て下さい。あなたの身体に「旺盛なエネルギー」で満たされることでしょう」
                 
         
                   境内の一風景




参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「
皆野町HP」
    
「境内案内板・記念碑文」等

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大淵熊野神社

 皆野町・大淵地域は、その地名が示すように赤平川が落合って大きな淵となっているところに位置しているため、上流から流れて来た材木がここに溜まったものであったという。
赤平川沿いに信州に通じる道と荒川水系の金沢(かねざわ)川沿いに北上して上州へ通じる道の起点で、また荒川の対岸東方皆野村との間には秩父巡礼道の「栗谷瀬(くりやせ)」の渡がある。
『新編武蔵風土記稿 大淵村』
 渡船場 
 荒川の渡なり、是をくりや瀬の渡と云、皆野村への通路にて、札所觀音順體道にて、皆野村持なり、但古来より、午歳の開帳年には、皆野村と當村にて渡す事をなせりと云ふ、

 そのため、大正期までは地内の郷平橋近くに櫓を組んで溜まった樹木を集めて河原に引き上げ、そこから石原駅前(熊谷市)の和吉宅や熊谷駅前の大和屋まで運送屋が馬で運んでいた。なお、橋場の御嶽神社には、古くは荒川の岩上に祀られていたという水神様が合祀されており、この川にかかわる筏士を中心に「筏乗り日待」が行われていたという。
        
             
・所在地 埼玉県秩父郡皆野町大淵82
             
・ご祭神 権現様(速玉之男神 伊弉み尊 事解之男神)
             
・社 挌 旧無格社
             
・例祭等 元旦祭 11日 節分祭 23日 春の大祭 415 
                  
ふせぎ 7月最終土曜日 秋季例大祭 1017日 
                  新嘗祭 
1124
 皆野町国神神社が鎮座する埼玉県道44号秩父児玉線と同37号皆野両神荒川線との交わる信号のある丁字路を南西方向に進行する。450m程進んだ丁字路を右折し、皆野高校や国神小学校を過ぎた先の、一面山森に覆われた寂しい農道を進むと、左側に大淵熊野神社が背を向けたような形で見えてくる。
 本来ならば、上記の丁字路を直進し、県道を200m程先まで進んだそのすぐ右手の道幅の細い路地を直進すれば社の正面に達するのだが、周辺には適当な駐車スペースが見当たらなかった為、社の後ろ側に達するルート説明をした次第である。
 社の北側にある道路脇には、路駐ができる空間があり、また裏側から社殿へと通じる道もあったので、そこの一角に車を停めてから、参道正面まで回り込み、改めて参拝を開始した。
        
                  大淵熊野神社正面 
『日本歴史地名大系』 「大淵村」の解説
 北流する荒川の左岸、東流する赤平川の合流点北方に位置する。北は金崎村、南西は野巻村、南は赤平川を境に小柱(おばしら)村(現秩父市)。
 現東京都青梅市の塩船(しおふね)観音寺蔵の応安六年(一三七三)閏一〇月五日の年紀をもつ大般若経奥書に「秩父郡大淵郷長楽寺書写畢」とある。また児玉党系図(諸家系図纂)によると秩父平四郎行高の子高重が大淵平二郎を名乗っている。

『日本歴史地名大系』にも記載されているが、武蔵七党・児玉党・秩父平氏の系図等によれば、秩父平四郎行高の第二子の平二郎高重は大淵氏となり大淵に館を構えたとされている。
 武蔵七党系図
「秩父平四郎行高―大淵平二郎高重―四郎基重―四郎太郎重信―弥太郎重実―又太郎有重、弟孫四郎行実、其弟五郎実行、其弟家光」
 その後、大淵氏は上野あるいは越後の小千谷に移り住み、そのあとには後北条氏の家臣となった金室(かなむろ)氏が居館を構え代々里正(名主)をつとめたとされている。
 その後、大淵氏は上野あるいは越後の小千谷に移り住み、そのあとには後北条氏の家臣となった金室(かなむろ)氏が居館を構え代々里正(名主)をつとめたとされている。
 この江戸時代初期から代々大淵村の名主を勤めていた「金室家」は、鉢形北條家家臣の落居とされ、古くは加治姓を名乗ったとも、鍛冶を営んだとも伝えられ、字天神の金山神社を祀っている。117日がその祭礼で、金室マケのお日待と呼ばれ、同家の先祖で能筆であった杢兵衛筆の幟が立てられたという。
        
        小学校がすぐ東側にあるにもかかわらず静まり返っている境内
 
  参道向かって右側に設置されている案内板   案内板の右隣に並んである石碑、灯篭等
 熊野神社 御由緒  皆野町大淵八二
 ◇「滝之宮」とも呼ばれる大淵地域の氏神社
 当地は荒川と赤平川が合流する台地に開け、かつては江戸に木材を供給する材木業等で大いに栄えた地域である。地には古墳時代後期の大淵古墳があるほか、荒川に露出した「前原の不整合」は秩父盆地を構成する一千五百万年前の地層が露出したもので国の天然記念物に指定されている。
 大淵の地名は、青梅市にある真言宗醍醐派の別格本山である塩船観音寺所蔵の大般若経奥書(銘記集)に、「応安六年癸丑(一三七三)閏十月五日於武州秩父郡大淵郷長楽寺書写畢」とあり、 古くからある地名と考えられている。
 口碑によれば、平安時代末期に近くの滝を御神体として熊野修験の山伏が熊野権現を勧請したことに由来し、古く「滝之宮」と呼ばれていた。現在の社殿は昭和三年に創建されたものであるが本殿に残る三体の大幣串には元禄二年(一六八九)二月二十八日の墨書があり江戸時代初期には既に社殿を有していたことを伝えている。
 旧名主である金室家が保管していた「正一位熊野権現 右奉授極位者神宣之啓依如件」の古文書には、享保八年(一七二三)二月八日付の宗源宣旨と宗源祝詞が納められているほか、熊野権現の御神位を授かるために七両壱分弐朱四百文を氏子から集めたことなどが記されている。現在は、大淵地域の氏神神社として地域住民の崇敬を集める御社である。(以下略)
                                      案内板より引用

        
                     拝 殿
       
          境内に一際目立ち聳え立つ杉のご神木(写真左・右)
        
               本殿とその左側にある石祠二基。
 実のところこの石祠は、大淵熊野神社の境内社なのか、それとも合祀の際に集めた各地の社なのか、詳しいことは分かっていない。神社明細帳には境内社として稲荷神社・天満天神社・秋葉神社・疱瘡神社の記述があり、それらの神社である可能性もあろう。
        
                              
社殿から見る参道方向の眺め
 ところで、大正12年秩父郡誌編纂の際、金室家の神棚から「宗源宣旨(そうげんのせんじ)」が発見された。金室家では「神棚を開けると目がつぶれる」と言い伝えられていたため、大正末期まで発見されず神棚の中にあった。
 この宗源宣旨には享保828日付で「正一位熊野権現 右奉授極位者神宣之啓依如件」と記されており、金室家にはこの神位を受けるために7両1分2400文を氏子から集めた文書も残されている。
 宗源宣旨の発見後、人々はこれを御位様(みくらいさま)と呼び、春の大祭に神社にお迎えする行事が始まった。戦前には、神職・総代が行列を作って御位様をお迎えしていたが、戦時中に行列がなくなり、現在ではお迎えする行事も行われなくなったという。
        
            因みに社の北側にある道路から見た社の全景
 大淵熊野神社の創建に関しては詳細なことは分からないが、元禄2年に奉献された幣帛があることから、この頃には神社があったといえる。また、熊野神社を「滝之宮」と呼び、神社近くにある滝を御神体として熊野山伏が祀ったのが始まりで、元禄期以前の創建とする説や鎌倉時代の文歴年間に神道卜部氏がこの地に来て祀ったのが神社の創建という説もある。
 御祭神のうちの伊弉冉尊は多くの神々を生んだ神であり、「熊野神社は伊弉冉尊を祀っているので、大渕ではお産で亡くなる人はいない」と言われてきた。昭和末頃までは旧暦1015日に産土講が行われていたという。  



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「埼玉苗字辞典」
    「境内案内板」等
  

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金沢萩神社

 皆野町金沢地域は、古代人の集落や古墳が点在し、先住民や豪族が居住していたとされている皆野町の北西部に位置する。旧金沢村では、「たたら製鉄」(日本古来の製鉄法)が行われていたと伝えられていることから、金沢地区は「たたらの里」と呼ばれている。
 嘗て中山道から秩父へ入る玄関口の宿場としてにぎわった当地域は、現在は少ない耕地と山間地をいかし、シイタケ栽培が行われている。春はツツジとカタクリ、初夏にはアジサイとヘメロカリス、冬はロウバイなど多くの花が地域を彩り、訪れる観光客を和ませる景観のすばらしい集落である

                         「金沢たたらの里を愛する会PDF」より引用
        
             
・所在地 埼玉県秩父郡皆野町金沢2647
             ・ご祭神 素盞鳴尊
             
・社 格 旧村社
             ・例祭等 節分祭 23日 祈年祭 215日 例大祭 415
                  つつじ祭 55日 新嘗祭 1125
 金崎神社から荒川左岸に沿って西行する一本道は同町・国神地域に鎮座する国神神社へと通じるルートである。その後「国神」交差点を右折し、埼玉県道44号線秩父児玉線に合流後4.5㎞程進むと、進行方向左側に金沢萩神社の鳥居が見えてくる。
 皆野町金沢地域は、同町北西部に位置し、北は本庄市児玉町太駄地域と接しているので、県道を3.6㎞程北上すると本庄市太駄岩上神社に到着する位置関係にある。
        
                  金沢萩神社正面鳥居
 現在の埼玉県道44号線秩父児玉線そのままが古代から近世における交通の主体を成していて、この主要な道路の他にも、太駄から神川町阿久原へ通じる道路や長瀞町に至る古道があった。
 古代から近世においては寄居町の風布や東秩父村の定峰峠越えの道路が用いられており、秩父・吉田・皆野を経て太駄地区を通り、上野国や児玉郡へ出るのが一般的であったらしい。

        
              鳥居の左側に設置されている案内板
 萩神社 御由緒 皆野町金沢二六四七
 ◇たたらの里金沢の総鎮守
 人皇第十二代景行天皇の第二皇子である日本武尊が宝登山を経て当地を訪れた際、秋の長雨で身馴川が増水し渡ることができずに難儀していたところ淵の中から一頭の黒牛が現れ、尊を背負い対岸までお導きしたことから「出牛」の地名が生まれたと伝えられる。
 尊は当地一帯に萩の花が美しく咲き乱れている様子を愛で「あなうまし萩よ萩」と仰せられ素戔嗚尊をお祀りしてより、久しく「萩宮」と呼ばれるようになった。
 口碑によれば、建久二年(一一九一)鎌倉幕府の有力御家人であった畠山重忠公が当社を篤く崇敬され、社殿や社領を寄進したと伝えられるほか、境に残る石鳥居は上杉謙信公が松山城攻略の折に奉納したものと伝えられ、大正五年に出版された『北武蔵名跡志』にも「出牛村萩宮石鳥居永禄十丁卯(一五六七)九月」とあり、現在は皆野町の文化財に指定されている。
 当地は中山道から秩父へ至る交通の要所であり、江時代までは宿場町としても栄えた。明治五年(一八七二)に旧金沢村の村社に列し明治四十年(一九〇七)には近郷五社を合祀して旧社地から現在の社地である天沢へ遷座を果たし現在に至っている。
 毎年、例大祭の付祭りとして行われる五月五日の「つつじ祭」では埼玉県の有形民俗文化財に指定される「出牛人形浄瑠璃」の特別上演などが賑やかに開催されている。(以下略)
                                      案内板より引用
 
「金沢」という地名は全国に存在する。特に有名な所では、石川県の県庁所在地である金沢市であろう。「金沢市HP」ではその地名由来に関して『昔、山芋を掘って売っていた藤五郎という青年がおり、山で芋をほっていると、芋のひげに砂金がついていました。その砂金を洗った泉が「金洗沢(かなあらいざわ)」とよばれ、それが金沢の地名になったといわれています。現在の兼六園の「金城霊沢(きんじょうれいたく)」が、その泉だということです。』と記してあり、この中の説話は、あくまで「後付けの話」であり、肝心なことは「砂金」に関連した地名であるということだ。現在でも「金沢箔」といわれる伝統技術が継承されていて、その大元はこの地域が「砂金の産地」であったことも関係しているのかもしれない
 この他にも多数存在する「金沢」の地名の由来を調べてみると、面白いことに、そのほとんどが「金の産出」「砂金の産地や砂金貢納地」「金の採掘」等、金や砂金が関係する地名由来となっている。砂金や金等の採掘には当然多数の集団が必要となるが、それは即ち「古代における鍛冶集団」となろう
 また皆野町金沢地域は、昔から銅を採掘して朝廷に献上したことに由来しているとも、「カナサワ」を鉄分で赤味をおびた川と解する説もある。因みに近郊には「金山」という小字もある。

 神奈川県横浜市には「金沢」という地名がある。古くは「カネサワ」と呼ばれていたようだ。鎌倉幕府が開かれると、近くに沢山の刀や槍を製造する地域が必要となるが、この武器製造に欠かせないものが「綺麗な水」で、この条件にあった場所が、この「金澤(金沢)」、特に「釜利谷地域」であって、畠山重患が秩父(皆野町金沢村)より鍛冶集団を呼び寄せ移り住んだ際に、地名も移されたのではないかという説もある。
        
             傾斜地上に境内がある為、石段を登る。
        
         石段を登りきると、そこには古い形式の鳥居が屹立している。
         皆野町指定有形文化財に指定されている「萩神社の石鳥居」
        
                     鳥居の近くに設置されている石鳥居の案内板
 皆野町指定有形文化財
 平成十四年十二月二十六日指定
 萩神社の石鳥居
 萩神社は昔、出牛地区にありましたが、明治の神社合祀令によって、当地に移されました。この鳥居も同時に移されました。
 土地の伝えによると、萩神社は萩宮と呼ばれ、畠山重忠をはじめ多くの人の信仰した、古い社であったといいます。
 出牛の地名は、身馴川に一頭の牛があらわれて、日本武尊を無事に渡したところから出ているといいます。
 嘉永六年(一八五三)の文献に「出牛村秋宮石鳥居は、永禄十年(一五六七)に建てられた。しかし彫りが古くてはっきりしない。」とあります。
 また郷土史家の日下部朝一郎氏も、「柱も割合に太く、県下に数多く見られるやさ形の石鳥居に比べてみると、ずっしりとした落ち着きもあり、武蔵では一級品であろう。」といっています。年号は神社に向かって左側の柱に刻まれています。 皆野町教育委員会
                                      案内板より引用

        
           境内は思いのほか広く、その中央に位置している拝殿
                拝殿も重厚なこしらえだ。
          本 殿                 本殿内部
       
                 拝殿の右側にある神楽殿
 毎年、例大祭の付祭りとして行われる五月五日の「つつじ祭」では埼玉県の有形民俗文化財に指定される「出牛人形浄瑠璃」の特別上演などが賑やかに開催されているという。
 出牛人形浄瑠璃
 所在地 埼玉県秩父郡皆野町大字金沢出牛地区
 出牛人形浄瑠璃は文楽系の3人遣いの人形芝居で、幕末の頃を最盛期として、明治中期には上州方面でも興行したと言います。しかし、大正5年春、萩神社境内での上演を最後に出牛人形座は解散しました。昭和40年、埼玉県立文化会館での埼玉文化祭人形の歴史展に出品を求められ、これを機会に人形芝居復活の気運が起こり、厳しい練習の後、昭和4211月西福寺に掛けられた舞台で復活しました。
 皆野町無形民俗文化財 昭和5941
日指定
        
       斜面上に鎮座する社が好きな筆者にとってこの角度からの撮影はうれしい。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「皆野町HP」「金沢市HP」
    「金沢たたらの里を愛する会PDF」Wikipedia」「境内案内板」等
 

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三沢八幡大神社


        
             
・所在地 埼玉県秩父郡皆野町三沢2844
             
・ご祭神 誉田別尊
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 元旦祭 1月 祈年祭 3月 例大祭 9月第3日曜日
                  
新穀感謝祭 大晦日の大祓い 12
 三沢八幡大神社が鎮座する皆野町・三沢地域は下田野地域の南東に位置する直線距離にして南北7㎞程、東西4㎞程の広い地域である。『新編武蔵風土記稿 三澤村条』には「東西一里余、南北二里余」と記載があり、1里が4㎞程の距離単位であることから、江戸時代の三澤村は現在の行政単位よりも広大な村だったことが分かる。
 下田野赤城神社から、埼玉県道82号長瀞玉淀自然公園線に合流後、南下する。この県道は荒川支流である三沢川にほぼ沿って道路も形成されており、この道路が昔から秩父から皆野方面に向かう古道だったことが伺える。事実三沢八幡大神社の北側で、県道から少し離れた場所には「広町の道しるべ」の案内板や、小さいながらも石碑があり、この地が鉢形熊賀谷(熊谷)道、河越安戸道の分岐点がこの広町で、皆野町でも一番古い道しるべ(室町時代)が立っているという。
        
                              三沢八幡神社の社号標柱
 下田野赤城神社
から県道を6㎞程南下する。県道とはいっても道幅が広い道路ではなく、信号も多くない。決して交通量が多い所でもない道だが、時々対向車線の車とのすれ違いには注意しなければいけない所もある。アップダウンもあまりない県道を辺りの風景を愛でながら進んでいくと、高台上に遠目から見ても社叢林と思われる場所が見え、その手前には左の曲がる丁字路があり、そのすぐ奥には三沢八幡大神社の社号標柱が見える。ただし、社号標柱は県道からやや離れた場所に設置されているので、気を付けなければそのまま通り過ぎてしまう程目立たないので、そこは注意がいる。
        
                三沢八幡神社正面の趣ある鳥居
『日本歴史地名大系』での「三澤村」の解説
 下田野村の南東、大霧(おおぎり)山の北西麓に位置する。東は峰を境に皆谷(かいや)村・坂本村・大内沢村(以上、現東秩父村)、西は簑(みの)山を境に黒谷村(現秩父市)・皆野村、北は風布(ふうつぷ)村(現寄居町)など。村内を荒川の支流三沢川が流れ、村の北、風布村境に釜伏(かまふせ)峠、南東の坂本村境には粥新田(かゆにた)峠がある。
 釜伏峠越の道は熊谷、粥新田峠越の道(秩父川越道)は川越に通じ、両道の交わる交通の要地であった。村内は上郷・中郷・下郷に分れ、名主も三名おり、また、上郷に牛沢、中郷に宮沢、下郷に茗荷沢と三つの大きな沢があって、このことが村名の由来ともいわれる(風土記稿)。
 正平七年(一三五二)一月二二日の足利尊氏袖判下文(安保文書)によると「秩父郡三沢村」などが勲功の賞として安保泰規に与えられている。
        
                                    境内の風景
 鎌倉時代のはじめごろ、当時秩父地域を支配していた坂東武者・畠山重能かその嫡男の重忠が鎌倉幕府に請願し、鶴ケ岡八幡宮を勧請してここに祀ったものと言われている。
 

     鳥居のすぐ左側にある神池       参道を進むと左手に赴きある手水舎あり。
  池の中央にある「石」は「磐座」であろうか。
        
               石段を登った先に拝殿はある。
 創建に関しては、東秩父村に鎮座する坂本八幡神社と同じ由来を持つ社である。上記「広町の道しるべ」では、この地が釜伏峠越えの中山道通り(熊谷道)、粥仁田峠を越えて河越へ通じる河越道の2官道の他に、この地から南方にある正丸峠越えで飯能へ通じる吾野(我野)通りがあったという。現在では寂しいこの峠道も、嘗ては重要な峠で、秩父・大宮郷の市日には何百頭もの荷駄が行きかっていたという。
 しかも「広町の道しるべ」地点から、粥仁田峠を越えると、外秩父の東秩父村に到着する。しかも坂本八幡神社はすぐ北方近郊に鎮座している。思うに秩父からの各ルートは当然秩父氏の直系子孫である畠山重能・重忠親子は当然知っていたであろう。

 埼玉県内の畠山重忠に纏わる伝承・伝説の類のその大部分は荒川流域の西部地域に存在する。重忠は本拠地は深谷氏畠山及び武蔵嵐山町の菅谷館であるが、その一方秩父一族嫡男家であり、惣領家として秩父庄司とも名乗っていた。その意味において武蔵国の荒川以西地域は重忠にとって勝手知ったる「自分の庭」のような地であり、活動範囲ではなかったろうか。
        
          石段を登った先に境内に設置されている案内板がある。
 八幡大神社について
 八幡大神社は、上三沢の総社として創建以来約八百余年の歴史を持つ由緒ある鎮守です。
 伝説や、江戸時代後期に書かれた新編武蔵風土記稿によりますと、創建の年は不明とされておりますが、鎌倉時代のはじめごろ、当時秩父地域を支配していた坂東武者・畠山重能かその嫡男の重忠が鎌倉幕府に請願し、鶴ヶ岡八幡宮を勧請(神の分霊を移す事)してここに祀ったものと言われています。
 御祭神は、第十五代応神天皇(誉田別尊)を主神として祀り、武運長久、勝利祈願、家内福寿、出世開運、病気平癒、夫婦安泰、子育大願、縁結び、五穀豊穣等の御利益があるとされております。
 神社の東西南北四百メートル以内には、創建当時に設置されたと言われる四方固めの石(四方杭)があり、その背後の山には守護神・四天王を祀る小社があります。また神社には、慶長九年(一六〇四年・織田豊臣時代)と元禄十年(一六九七年・江戸時代)の本殿改修の棟札二枚や江戸時代に式三番で使ったと思われる面や神楽面、烏帽子、扇子が残されています。
 神社の管理は、室町時代中期の明応元年(一四九二年)に上三沢曲木にあった修験道の寺の、大泉院の祐仙法印という修験者が最初に奉仕したと言われておりますが、明治になり神仏分離令が出るまで常楽寺の管理下に置かれていました。その後、明治四十年に三沢上郷にあった各神社を統合し、大正十三年に村社となりました。現在では、宮司のお導きを得て上三沢の五つの町会の氏子総代を中心に、その年の行事により運営しています。
 境内には、八阪神社や天神社、古峰神社、織姫神社などが祀られているほか、室町時代中期の武将で、鉢形城(寄居町)を改修して拠城とした三沢にも「なごう様」の伝説がある長尾景春か、または、室町時代後期に龍ヶ谷城(下三沢)を築いた藤田重利(用土新左ェ門)の家来であったとも考えられる玉川小太郎か、その子息の慰霊を祀ったものとも言われる玉川家の氏神様玉川神社があります。毎年九月の例大祭にはこの氏神を拝礼した後に例大祭の祭典を執り行っています。
 主な年中行事は、一月の元旦祭、三月に祈年祭、九月例大祭、十二月新穀感謝祭、大晦日の大祓いで、九月の例大祭には笠鉾が上三沢地内を引き回され賑わいを見せます。また、大晦日の大祓いは行列を組み、笛や太鼓を奏で、宮司が沿道に集まった人々の罪と穢れを祓い清めながら中三沢境いまで行進し、厄神を三沢川に祓い流し一年の神事が終わりとなります。
平成二十四年九月 八幡大神社
                                       案内板より引用
        
                     本 殿
 三沢八幡大神社では、毎年9月に「三沢八幡大神社例大祭」が行なわれ、夏祭りとしては、秩父地方では一番遅く行われる。2023917日に行われたのだが、コロナの影響で実に4年ぶりの山車引き回しであったという。色鮮やかな花笠で彩られた笠鉾(かさぼこ)が曳(ひ)き回されるその祭りを、来年是非とも目の前で楽しみたいものだ。
             
        社殿の右側には2本の大杉の間に境内社・織姫様が祀られている。
       
 社殿左側の斜面上には境内社・八坂神社(写真左)、名称不明(同右)が並んで祀られている。
                右側に社は案内板に記されている天神社であろうか。
       
       境内社・八坂社等の並ぶ場所から斜面上部ににも境内社が祀られている。
 一番奥で石段上に鎮座する境内社・古峰神社(写真左)、八坂神社等の並ぶ丁度上部にも境内社があるが、名称がないため詳細は不明(同右)
              
         本殿奥の斜面上にも境内社があるが、こちらも名称は不明。
   名称不明の2社のうちどちらかは案内板に記されている「玉川神社」なのであろう。
        
                   社殿からの風景
      八幡様が常に眺めているであろうこの風景。何となく好きなアングルだ。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「皆野町HP」「日本歴史地名大系」  
    Wikipedia「境内案内板」等
 

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下田野赤城大神社


        
            
・所在地 埼玉県秩父郡皆野町下田野9191
            
・ご祭神 大山祇命 大己貴命 豊城入彦命
            
・社 格 旧村社
            
・例祭等 例祭日 319
 皆野町下田野地域は荒川東岸に位置し、皆野町の街中からは荒川支流三沢川を境に北東方向にあり、金崎地域の東側近郊でもある。金崎神社参拝終了後、一旦国道140号線に戻り、南方向に進路を取り、荒川を越えた「親鼻橋」交差点を左折する。この通りはグーグルマップで確認すると通称「下田野通り」と呼ばれているようだ。この「下田野通り」は1㎞程の荒川に沿うようにできた道路で、親鼻橋交差点から600m程進み、高崎線の踏切を抜けると右手に「皆野スポーツ公園」が見えてくる。
 この「皆野スポーツ公園」を過ぎたすぐ先の路地を右折し、埼玉県道82号長瀞玉淀自然公園線との交差点を直進すると、すぐ左手に下田野赤城大神社が鎮座する地に到着できる。
 因みにこの埼玉県道82号線は、荒川を挟んで国道140号の反対側を並行して進む路線であるので、国道140号渋滞時のバイパスルートとしてお勧めしたい道路である。(但し「波久礼」地域までは我慢して国道140号線を進まねばならないが)
        
           石垣のような基盤上に鎮座する下田野赤城大神社
 今でこそ下田野地域は皆野町の行政区域内になっているが、昭和18年(1943)の合併前は、秩父郡白鳥村に属しており、江戸時代に編集された『新編武蔵風土記稿』においてもこの地は「大濱郷白鳥庄」内にあった。
        
                       境内の外で、道路沿いに設置されている案内板
 皆野町指定記念物 
 平成十四年十二月二十六日指定

 赤城大神社社叢
 社叢というのは「神社の森」のことです。この赤城大神社には、大きく立派な木がたくさんあります。その樹種の大きなものをいくつか記します。
 主な樹種   目通り周  樹の高さ
 イロハモミジ 二・六二㍍ 二二・〇㍍
 イタヤカエデ 一・八〇㍍ 二〇・〇㍍
 アカシデ①  二・〇〇㍍ 二〇・〇㍍
 アカシデ②  二・二〇㍍ 二二・〇㍍
 ハルニレ   一・八〇㍍ 二五・〇㍍
 樹齢は特定できませんが、いずれにしても二六〇~七〇年の歴史を見続けてきた社木です。町内の社や寺、その外の社叢の保護、保存の先駆的な例にしたいものです。

 皆野町指定有形文化財
 平成十四年十二月二十六日指定
 赤城大神社の懸仏
 この懸仏は、もと下田野字戦場にあった天神様に祭られていました。「天神様のいちばん奥まったところに祭られ、直径六寸(約一五センチ)ばかり」と享和二年(一八〇二)の文献に記されています。すでにその天神様はありませんが、昭和六〇年(一九八五)ごろには、木製の社がありました。
 懸仏とは「丸い板に仏様や梵字などを表し、上部に二箇所、吊輪の穴がある」と辞典に書かれています。
 この懸仏には、「天神の御正体」と刻み、蓮の花の上に十一面観音の文字が刻まれ、年号は、嘉吉二年(一四四二)十二月吉日とあります。御正体とは、本尊様という意味です。懸仏は、鎌倉・室町時代のものが多く、自由に首に掛けて持ち歩いたり、柱にかけて拝んだといいます。
 皆野町教育委員会                                案内板より引
 
 石段のすぐ先に鳥居がある為、このような     鳥居を過ぎてすぐ左手にある案内板
アングルとなったが、結構好きな角度からの撮影
 赤城神社 所在地 秩父郡皆野町大字下田野
 赤城神社の祭神は、大山祇命・大己貴命・豊城入彦命である。
 由来によると、第十代崇神天皇の皇子である豊城入彦命が遊猟の際、当地に休憩した時に村の鎮守として大山祇命・大己貴命を祀ったのがその起源と伝えられている。
 その後、十二代景行天皇の皇子である日本武尊が東国鎮定の折に当神社を参拝し、その際に豊城入彦命を合祀したと伝えられている。
 当神社では、毎年三月十八日に「あんどん祭り(百八灯祭り)」が行われているが、これは永禄十二年(一五六九)武田・北条軍による。三沢谷の合戦に討死した将兵の霊をとむらうため、元亀三年(一五七二)西福御前(藤田康邦夫人)により始められたものと伝えられ、今に受け継がれているものである。
 また、神社の森には、二百数十年を経たカエデやナラ等の大木があって、これらは天然記念物(町指定)になっている。  昭和五十七年三月 埼玉県
                                      案内板より引用
        
                     境 内
            参拝日は年末の年の瀬で、静まり返っている。
 社の案内板にも記されている「下田野あんどん祭り(百八灯祭り)」は、3月第3日曜日と前日に行われる下田野赤城大神社の祭で、元々は、西福寺で始められた行事と言われる百八灯の精霊祭である。永禄十二年(1569)武田・北条軍による、三沢谷の合戦に討死した将兵の霊をとむらうため、元亀三年(1572)西福御前(藤田康邦夫人)により始められたものと伝えられ、今に受け継がれているものである。赤城大神社の参道に立つ300余のあんどんに夕暮れ一斉に灯が灯るという。

     拝殿手前左側にある神楽殿         拝殿と神楽殿の間にある建造物
 下田野赤城大神社から南方、三沢地域との境に位置する山上には、「竜ヶ谷城(りゅうがやじょう)」跡がある。北東と南西を田野沢川と三沢川に挟まれた要害の地で、山頂北側は断崖を経て、皆野スポーツ公園へ尾根が伸びている地形上の特徴を持つ。因みに竜ヶ谷城は別名「千馬城(せんばじょう)」とも言い、龍界山・要害山・千馬山とも称されている山の名称からとったものであろう。『新編武蔵風土記稿』によれば、用土重利(藤田康邦)が築城し、その子で北条氏邦の家臣になった用土正光が居城したところという。
 この城は1561年(永禄4年)に長尾景虎、1569年(永禄12年)には武田信玄に攻撃されているが、この城は落城しないで守り切ったと云われている。
       
                     拝 殿
 下田野赤城大神社境内に設置されている案内板には永禄12(1569)における武田・北条軍の間で行われた「三沢谷の合戦」があったと記されているが、調べてみるとこの「三沢谷の合戦」は記録の上では、「上杉・北条軍の間で行われた」戦いであったようだ。
 というのも、永禄3年(1559)関東へ侵攻した上杉謙信は厩橋城(現群馬県前橋市)で年を越し、翌4年には武蔵から相模を縦断、閏3月に小田原城へ迫る。謙信の侵攻を受け、北武蔵の国衆には後北条氏から離反した者もいて、その中には下田野地域を含めた藤田郷(現寄居町)を本拠とした国衆である藤田氏もいた。その後永禄4年(15606月、謙信の帰国を受け後北条氏は反攻に転じ、秩父郡にも攻勢がかけられる。年号は記されていないが、齋藤八右衛門尉という武士に発給された『北条氏康感状(1117日)』には、「南小二郎の帰路、三澤谷で戦いがあった」とあり、皆野町大字三沢で戦いがあったことになる。

   社殿の奥に鎮座する境内社・琴平神社          境内社・琴平神社 
       
                      社殿の右側奥の斜面上に鎮座する境内社・稲荷社
       
      社殿の右手に祀られている境内社・愛宕社・八幡社・天満天神社・疱瘡神

それに対して、案内板に記してあるように、信玄による秩父侵攻は永禄12年(1569)に始まり、2月には「児玉筋に武田勢の動きがあり、鉢形衆が戦った」とされている7月には三山谷(現小鹿野町)と館沢筋に武田勢が侵入し、この際に手柄をあげたとして、山口氏や齋藤氏など4名の武士に感状が発給されている。
 また8月から始まった侵攻は大規模で、「上州から侵攻した武田勢は99日に鉢形城の外曲輪で鉢形衆と激戦を繰り広げ、死傷者が多数出た」と記録されているが、この2月、7月、8月それぞれあった戦いの記録の中に「下田野字戦場で生じた鉢形衆と武田勢の戦い」という具体的な地名で記載はされてなく(書状類・また厳密にいうと何年の記載もない)、それでいて1561年(永禄4年)に上杉方と北条方で戦われた場所はしっかりと「三沢谷」であったと記されている。
 事実は如何なることであったのであろうか。
        
                   静かに佇む社


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「皆野町HP」「Wikipedia
    「境内案内板」等

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