矢那瀬八幡神社
・ご祭神 誉田別命
・社 格 旧矢那瀬村下郷鎮守
・例祭等 春祭り(3月15日に近い日曜日)
秋祭り(10月15日に近い日曜日)
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1339985,139.1492805,16z?hl=ja&entry=ttu
矢那瀬八幡神社は国道140号線を長瀞町方面に進み、波久礼駅前交差点を越えて暫く進む。進路が南北方向から東西方向に変わり、右側に河岸段丘が広がる地点で、国道に並走する秩父鉄道の踏切を渡る。この道は道幅は狭いが、嘗て秩父往還道でもあり、道なりに真っ直ぐ進むと矢那瀬八幡神社に到着する。
矢那瀬地域は東へ向かって流れて来た荒川が急激に南へと流路を変える地点であり、断崖絶壁が荒川に迫っていて、かつては破崩(はぐれ)や端崩とも呼ばれており、ここは崖崩れが多発し、古くから秩父往還における最大の難所であった。山が渓谷に迫る狭隘かつ急峻な地形で、徒歩は最短距離である左岸側の川縁の道を通り、荷物は馬では通行不能なため、竿舟を用いて舟運で運搬するか、現在の八高線荒川橋梁のやや下流側の地点にある「子持瀬の渡し」で荒川の対岸に渡り、奥武蔵北部の釜伏峠や粥新田峠(かゆにたとうげ)の峠道を迂回して曽根坂峠から大野原へ至っていたという。(Wikipedia参照)
矢那瀬八幡神社正面
神社の入り口にある除隊記念の碑。砲弾が置かれている。
入口を過ぎると開放感のある空間が広がる 拝殿右側には社務所があり、案内板も設置。
八幡神社 御由来 長瀞町矢那瀬五六六
◇猪俣氏虎ヶ岡城の鎮守として祀られた
矢那瀬の地は上郷・下郷に分かれ、この社は下郷の鎮守とされている。秩父郡の極端で、大里郡と交堺する地である。
荒川の両岸には山が迫り川幅は狭まり、流れは矢が飛ぶような瀬となることから「矢な瀬」と称したという。また、魚を獲る簗(やな)を構える適地のために地名となったともいう。
当社東方の後背部山上には、児玉郡猪俣に土着した猪俣小平六範綱(又は則家とも)が出城として虎ヶ岡城を築き、当社はその鎮守として武運長久を祈る処となったという。虎ヶ岡城から尾根伝いに大槻峠・陣見山へと抜ける道は児玉郡との境をなし要地でもあった。
『新編武蔵風土記稿』は、当社を「八幡社大月にあり、村の下郷の鎮守、村持、例祭八月十五日、無年貢地、槻杉の叢林なり」と記載している。
明治28年(1895)12月10日矢那瀬に大火が起こり、当神社の類焼をもって鎮火へと向かい、住民の家は焼失を免れ、住民らはこの御神徳に感謝し同32年(1899)欅材を主材とした立派な社殿を再建し盛大な遷座祭を行ったと語り継がれている(中略)
案内板より引用
拝 殿
綺麗に彫刻された向拝部の鶴等
拝殿木鼻部位の彫刻(写真左・右)
妙見信仰は北極星や北斗七星を神格化した信仰である。古代、中近東の遊牧民や漁民に信仰された北極星や北斗七星への信仰は、やがて中国に伝わり天文道や道教と混じり合い仏教に取り入れられて妙見菩薩への信仰となり、中国、朝鮮からの渡来人により日本に伝わったといわれる。
秩父神社の社伝によると、平良文は朱雀天皇の承平元年(九三八)、甥平将門と力を合わせ、上野国群馬郡府中花園村(群馬県群馬郡群馬町)の染谷川のほとりで、兄常陸大掾国香と合戦(別伝には良文と将門の合戦とある)したが、良文の軍は次第に苦戦に陥り、ついに主従七騎になってしまった。そのうえ良文も落馬して絶対絶命の窮地に追込まれた時に、突然雲中より現われた童形の「羊妙見菩薩」の加勢によって勝利を得た。そこでこの妙見を祀る七星山息災寺を尋ねると、七仏薬師が安置され、その主尊が羊妙見菩薩だったので、これを奉持し、妙見のしるしである月と星の紋を家紋とするようになった。
本 殿
「秩父七妙見」とは、「秩父志」によれば、江戸末期に武蔵国秩父郡の総鎮守である秩父妙見の分社を、郡境の交通の要所七ヶ所に攘災の守り神として配置したのが始まりとされ、妙見神社を北極星として、七妙見を北斗七星に見立てて、考えられたと思われる。
以下の場所に配置されていて、埼玉県南北に分断する平野部から台地部の境界線上に位置している。
第1所:小鹿野町藤倉
第2所:皆野町金沢
第3所:長瀞町矢那瀨
第4所:東秩父村安戸
第5所:都幾川村大野〔現 ときがわ町大野〕
第6所:名栗村上名栗〔現飯能市上名栗〕
第7所:飯能市北川
この 7 カ所の妙見社は「秩父七妙見」と称され、秩父妙見宮(現 秩父神社)の鬼門にあたる箇所に置かれたといわれていて、矢那瀬地区にもその妙見社が存在していたという。『新編武蔵風土記稿』矢那瀬村、末野村にはそれに該当する記述はないが、「秩父誌」にはこのように記載されている。
「秩父誌」
・矢那瀨妙見ノ社ハ今ハ榛澤郡末野村ノ境内ニ入リ属ス、往古ハ此末野村ノ内ノ境川ト云。秩父郡ノ郡境トス、此ノ妙見神祠ハ秩父七所妙見ノ四個所ニテ、大宮町妙見神ヲ郡境
ノ村々七所ニ遷請シ奉ル所ナリト云フ。往昔ハ矢那瀨村ノ総鎮守ナリシガ今ハ末野村ノ総鎮守トナリテ、初穂此村ヨリ献ジ祀ルト云
現在末野神社に合祀されているようだが、嘗て参拝した時にもそれらしい社・石祠も確認できず、明治四十二年に末野神社に合祀となった字関口の無格社天御中主神社がこれにあたると推測するホームページの記載もあったが、それを裏付ける資料等もなかった。
『新編武蔵風土記稿』金尾村には白鬚神社境内に「妙見社」の存在が記載されているが、これも判明できていない。今後の検討課題である。
社殿奥に鎮座する境内社 八坂神社 八坂神社隣には武尊山大神の石碑
国道140号線は嘗て秩父往還道とも呼ばれ、その中で、寄居町末野地区から矢那瀬地区の間に存在する秩父鉄道「波久礼」駅は荒川が東西から南北に直角方向に蛇行する断崖絶壁部の南端に位置する駅名である。「波久礼」、姥宮神社の鎮座する「風布」にも感じた優美でありながらどこか神秘的な響きを以前から抱いていた。
秩父地方は武蔵国の成立に先立ち知知夫国造(ちちぶのくにのみやつこ)が置かれ、独自の行政機構を維持した時期もあったといわれている。更に周囲が山脈に囲まれているため、外界とは峠を通じてゆるやかにつながる中山間地域として、独自の風土・歴史・文化が形づくられてきた。
秩父地域における東の玄関口ともいえる矢那瀬・末野地区の中間点に位置する「波久礼」はまさに自然の要害地である。この名前由来として解説本で多いのは、嘗てこの地は「破崩(はぐれ)」や「端崩」とも呼ばれていた。東へ向かって流れて来た荒川が急激に南へと流路を変える地点であり、断崖絶壁が荒川に迫っていて、崖崩れが多発し、古くから秩父往還における最大の難所であったことから上記の名前になったという。山が渓谷に迫る狭隘かつ急峻な地形で、徒歩は最短距離である左岸側の川縁の道を通り、荷物は馬では通行不能なため、竿舟を用いて舟運で運搬するか、現在の八高線荒川橋梁のやや下流側の地点にある「子持瀬の渡し」で荒川の対岸に渡り、奥武蔵北部の釜伏峠や粥新田峠(かゆにたとうげ)の峠道を迂回して曽根坂峠から大野原へ至っていたという。(Wikipedia参照)
陽光が差し込み、開放感ある矢那瀬八幡神社境内
秩父鉄道は明治32年(1899)に創立され、波久礼駅は明治36年4月1日に開業された。波久礼から先の路線延長の進展は困難で、周辺の地形が崩れやすく、岩盤が荒川に直下に臨む断崖絶壁だったが、波久礼駅~金崎駅(現在の秩父駅)間の工事を終え、営業を開始したのは昭和44年(1911)。この区間の工事がいかに大変だったのかが分かるであろう。先人の方々の苦労があって、今我々は苦労なく長瀞・秩父地域に行くことができる。感謝の念にたえない。
「波久礼」は今でこそ「木造駅舎が今でも存在するレトロな雰囲気の漂う懐かしい駅」として駅周辺にもその独特な余韻が漂い、昭和の時代にタイムスリップしたような高度成長時期に青春を謳歌した我々には、少しのほろ苦さと嫌みのない歴史を感じさせてくれる貴重な地域である。秩父鉄道の各駅には「波久礼駅」の他にも数多く懐かしさを感じさせてくれる雰囲気のある駅が多く存在する。筆者は秩父鉄道が好きで、パレオSL蒸気機関車にも2度程乗っているし、休みの日には、SLを含む列車の写真撮影を、他の鉄道ファンと共に沿線上の空き地で待って、激写することを今でも楽しみの一つとして行っている。因みに知り合いの中では「秩父鉄道」とは言わず、「チチテツ」と愛称で呼び合っている。
現代社会はとかく「グローバル社会」と騒がれ、国境を取り外して、地球全体として一つの共同体意識を持つ事を「是」とした国際社会の流れがあり、自然と個性やナショナリズムを否定する風潮が闊歩する中、このような個性あふれる駅等のような存在が未だ日本にはあり、その貴重な遺産をこれからの人々にも受け継がれることを切に願いたい。やはり「個性」が尊重されてでの「グローバル化」ではなかろうかと、神社参拝とは違う事項ではあるが、筆者は最近ふと思った次第だ。