古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

矢那瀬八幡神社

               ・所在地 埼玉県秩父郡矢那瀬566
               ・ご祭神 
誉田別命
               ・社 格 旧矢那瀬村下郷鎮守
               ・例祭等 
春祭り(315日に近い日曜日)
                    秋祭り(
1015日に近い日曜日)
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1339985,139.1492805,16z?hl=ja&entry=ttu
 矢那瀬八幡神社は国道140号線を長瀞町方面に進み、波久礼駅前交差点を越えて暫く進む。進路が南北方向から東西方向に変わり、右側に河岸段丘が広がる地点で、国道に並走する秩父鉄道の踏切を渡る。この道は道幅は狭いが、嘗て秩父往還道でもあり、道なりに真っ直ぐ進むと矢那瀬八幡神社に到着する。

 矢那瀬地域は
東へ向かって流れて来た荒川が急激に南へと流路を変える地点であり、断崖絶壁が荒川に迫っていて、かつては破崩(はぐれ)や端崩とも呼ばれており、ここは崖崩れが多発し、古くから秩父往還における最大の難所であった。山が渓谷に迫る狭隘かつ急峻な地形で、徒歩は最短距離である左岸側の川縁の道を通り、荷物は馬では通行不能なため、竿舟を用いて舟運で運搬するか、現在の八高線荒川橋梁のやや下流側の地点にある「子持瀬の渡し」で荒川の対岸に渡り、奥武蔵北部の釜伏峠や粥新田峠(かゆにたとうげ)の峠道を迂回して曽根坂峠から大野原へ至っていたという。(Wikipedia参照)
        
                  矢那瀬八幡神社正面                    
        
          
神社の入り口にある除隊記念の碑。砲弾が置かれている。
 
  入口を過ぎると開放感のある空間が広がる   拝殿右側には社務所があり、案内板も設置。

八幡神社 御由来    長瀞町矢那瀬五六六
◇猪俣氏虎ヶ岡城の鎮守として祀られた
 矢那瀬の地は上郷・下郷に分かれ、この社は下郷の鎮守とされている。秩父郡の極端で、大里郡と交堺する地である。
 
荒川の両岸には山が迫り川幅は狭まり、流れは矢が飛ぶような瀬となることから「矢な瀬」と称したという。また、魚を獲る簗(やな)を構える適地のために地名となったともいう。
 
当社東方の後背部山上には、児玉郡猪俣に土着した猪俣小平六範綱(又は則家とも)が出城として虎ヶ岡城を築き、当社はその鎮守として武運長久を祈る処となったという。虎ヶ岡城から尾根伝いに大槻峠・陣見山へと抜ける道は児玉郡との境をなし要地でもあった。
 『新編武蔵風土記稿』は、当社を「八幡社大月にあり、村の下郷の鎮守、村持、例祭八月十五日、無年貢地、槻杉の叢林なり」と記載している。
 明治28年(18951210日矢那瀬に大火が起こり、当神社の類焼をもって鎮火へと向かい、住民の家は焼失を免れ、住民らはこの御神徳に感謝し同32年(1899)欅材を主材とした立派な社殿を再建し盛大な遷座祭を行ったと語り継がれている(中略)
                                       案内板より引用
        
                      拝 殿
        
                綺麗に彫刻された向拝部の鶴等
 
                拝殿木鼻部位の彫刻(写真左・右)
 妙見信仰は北極星や北斗七星を神格化した信仰である。古代、中近東の遊牧民や漁民に信仰された北極星や北斗七星への信仰は、やがて中国に伝わり天文道や道教と混じり合い仏教に取り入れられて妙見菩薩への信仰となり、中国、朝鮮からの渡来人により日本に伝わったといわれる。
 秩父神社の社伝によると、平良文は朱雀天皇の承平元年(九三八)、甥平将門と力を合わせ、上野国群馬郡府中花園村(群馬県群馬郡群馬町)の染谷川のほとりで、兄常陸大掾国香と合戦(別伝には良文と将門の合戦とある)したが、良文の軍は次第に苦戦に陥り、ついに主従七騎になってしまった。そのうえ良文も落馬して絶対絶命の窮地に追込まれた時に、突然雲中より現われた童形の「羊妙見菩薩」の加勢によって勝利を得た。そこでこの妙見を祀る七星山息災寺を尋ねると、七仏薬師が安置され、その主尊が羊妙見菩薩だったので、これを奉持し、妙見のしるしである月と星の紋を家紋とするようになった。
          
                      本  殿                     
秩父七妙見」とは、「秩父志」によれば、江戸末期に武蔵国秩父郡の総鎮守である秩父妙見の分社を、郡境の交通の要所七ヶ所に攘災の守り神として配置したのが始まりとされ、妙見神社を北極星として、七妙見を北斗七星に見立てて、考えられたと思われる。
 以下の場所に配置されていて、埼玉県南北に分断する平野部から台地部の境界線上に位置している。
 第1所:小鹿野町藤倉
 2所:皆野町金沢
 3所:長瀞町矢那瀨
 4所:東秩父村安戸
 5所:都幾川村大野〔現 ときがわ町大野〕
 6所:名栗村上名栗〔現飯能市上名栗〕
 7所:飯能市北川
 この 7 カ所の妙見社は「秩父七妙見」と称され、秩父妙見宮(現 秩父神社)の鬼門にあたる箇所に置かれたといわれていて、矢那瀬地区にもその妙見社が存在していたという。『新編武蔵風土記稿』矢那瀬村、末野村にはそれに該当する記述はないが、「秩父誌」にはこのように記載されている。
「秩父誌」
矢那瀨妙見ノ社ハ今ハ榛澤郡末野村ノ境内ニ入リ属ス、往古ハ此末野村ノ内ノ境川ト云。秩父郡ノ郡境トス、此ノ妙見神祠ハ秩父七所妙見ノ四個所ニテ、大宮町妙見神ヲ郡境
ノ村々七所ニ遷請シ奉ル所ナリト云フ。往昔ハ矢那瀨村ノ総鎮守ナリシガ今ハ末野村ノ総鎮守トナリテ、初穂此村ヨリ献ジ祀ルト云

 現在末野神社に合祀されているようだが、嘗て参拝した時にもそれらしい社・石祠も確認できず、明治四十二年に末野神社に合祀となった字関口の無格社天御中主神社がこれにあたると推測するホームページの記載もあったが、それを裏付ける資料等もなかった。
『新編武蔵風土記稿』金尾村には白鬚神社境内に「妙見社」の存在が記載されているが、これも判明できていない。今後の検討課題である。
 
   社殿奥に鎮座する境内社 八坂神社       八坂神社隣には武尊山大神の石碑

 国道140号線は嘗て秩父往還道とも呼ばれ、その中で、寄居町末野地区から矢那瀬地区の間に存在する秩父鉄道「波久礼」駅は荒川が東西から南北に直角方向に蛇行する断崖絶壁部の南端に位置する駅名である。「波久礼」、姥宮神社の鎮座する「風布」にも感じた優美でありながらどこか神秘的な響きを以前から抱いていた。
 秩父地方は武蔵国の成立に先立ち知知夫国造(ちちぶのくにのみやつこ)が置かれ、独自の行政機構を維持した時期もあったといわれている。更に周囲が山脈に囲まれているため、外界とは峠を通じてゆるやかにつながる中山間地域として、独自の風土・歴史・文化が形づくられてきた。
 秩父地域における東の玄関口ともいえる矢那瀬・末野地区の中間点に位置する「波久礼」はまさに自然の要害地である。この名前由来として解説本で多いのは、嘗てこの地は「破崩(はぐれ)」や「端崩」とも呼ばれていた。東へ向かって流れて来た荒川が急激に南へと流路を変える地点であり、断崖絶壁が荒川に迫っていて、崖崩れが多発し、古くから秩父往還における最大の難所であったことから上記の名前になったという。山が渓谷に迫る狭隘かつ急峻な地形で、徒歩は最短距離である左岸側の川縁の道を通り、荷物は馬では通行不能なため、竿舟を用いて舟運で運搬するか、現在の八高線荒川橋梁のやや下流側の地点にある「子持瀬の渡し」で荒川の対岸に渡り、奥武蔵北部の釜伏峠や粥新田峠(かゆにたとうげ)の峠道を迂回して曽根坂峠から大野原へ至っていたという。(Wikipedia参照)
        
           陽光が差し込み、開放感ある矢那瀬八幡神社境内
                 
 秩父鉄道は明治32年(1899)に創立され、波久礼駅は明治3641日に開業された。波久礼から先の路線延長の進展は困難で、周辺の地形が崩れやすく、岩盤が荒川に直下に臨む断崖絶壁だったが、波久礼駅~金崎駅(現在の秩父駅)間の工事を終え、営業を開始したのは昭和44年(1911)。この区間の工事がいかに大変だったのかが分かるであろう。先人の方々の苦労があって、今我々は苦労なく長瀞・秩父地域に行くことができる。感謝の念にたえない。
「波久礼」は今でこそ「木造駅舎が今でも存在するレトロな雰囲気の漂う懐かしい駅」として駅周辺にもその独特な余韻が漂い、昭和の時代にタイムスリップしたような高度成長時期に青春を謳歌した我々には、少しのほろ苦さと嫌みのない歴史を感じさせてくれる貴重な地域である。秩父鉄道の各駅には「波久礼駅」の他にも数多く懐かしさを感じさせてくれる雰囲気のある駅が多く存在する。筆者は秩父鉄道が好きで、パレオSL蒸気機関車にも2度程乗っているし、休みの日には、SLを含む列車の写真撮影を、他の鉄道ファンと共に沿線上の空き地で待って、激写することを今でも楽しみの一つとして行っている。因みに知り合いの中では「秩父鉄道」とは言わず、「チチテツ」と愛称で呼び合っている。

 現代社会はとかく「グローバル社会」と騒がれ、国境を取り外して、地球全体として一つの共同体意識を持つ事を「是」とした国際社会の流れがあり、自然と個性やナショナリズムを否定する風潮が闊歩する中、このような個性あふれる駅等のような存在が未だ日本にはあり、その貴重な遺産をこれからの人々にも受け継がれることを切に願いたい。やはり「個性」が尊重されてでの「グローバル化」ではなかろうかと、神社参拝とは違う事項ではあるが、筆者は最近ふと思った次第だ。

     

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簗瀬神社

 秩父郡野上郷矢那瀬地区は大きく蛇行して流れる荒川沿いの河岸段丘に位置する集落で、地名は荒川の流れの速さを「矢の瀬」と表現したことに因むともいわれている。かつて荒川に沿って秩父往還道が走り、矢那瀬集落には宿駅が置かれていた。
 同時に
このあたりは県内屈指の養蚕地帯でもあったという。
【新選武蔵風土記稿】秩父郡之六 矢那瀬村
 
産物は烟草(今でいうタバコ)・絹を第一とし、農隙には男は薪を採、女は絹太織を製して資用に給せり、御打以来御料所にて、明暦元年伊奈半十郎検地し、貢税を定む。
 
秩父一帯では江戸期から養蚕が盛んだったが、後年単に生糸を産するだけでなく、絹織物の生産までを行うようになり、秩父銘仙の産地となったという。 
        
             ・所在地 埼玉県秩父郡長瀞町矢那瀬1380
             ・ご祭神 日本武尊 天之狭霧神
             ・社 格 不明
             ・例祭等 春祭り 315日 秋祭り 1015
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1329869,139.1415987,18z?hl=ja&entry=ttu  
 簗瀬神社は国道140号線を長瀞町方面に進み、波久礼駅前交差点を越えて暫く進むと右側に緑色の屋根のあるディサービスセンターがあり、そこのT字路を右折するとほぼ正面に
簗瀬神社の鳥居と社が見える。左隣に矢那瀬集落農業センターがあり、そこの駐車スペースを利用して参拝を行った。
        
                              簗瀬神社正面
       
                            鳥居の左側に設置されている案内板             
         
                     拝  殿
            拝殿は東西の割拝殿という極めて珍しい形式のもの 

 簗瀬神社御由来   長瀞町矢那瀬
1380
 ◇
割拝殿が関東では珍しい
 矢那瀬の地は
上郷・下郷に分かれ、当社は上郷の鎮守として祀られる。
 御祭神は日本武尊で尊の徳を称える里の人が弘安年中(12781288)に祀ると伝える。矢那瀬の地は北の大月山と南の金尾山が荒川岸まで迫り、また複雑な地形が濃霧を発生させる交通の難所であるため、正安年中(12991302)に天之狭霧神を併せ祀り「霧明神」とも「霧の宮」とも称した。
 元禄3年(1690)の棟札には「毘沙門天宮」と記され、社蔵されている。一間社流れ造の本殿は室町期の風を残すともいわれ、とりわけ拝殿は東西の割拝殿という極めて珍しい形式のもので、群馬県片品鎮座の武尊神社に同形式の拝殿がある。武尊神社の拝殿は同族や集落によって東西に分かれ祭祀を行う宮座によって生じた形式であることから、当社も古くは同様の祭祀組織のあったことが想像される。
 なお字北久保の地蔵堂には、室町時代の特徴を示す埼玉県指定有形文化財考古資料の「石幢」がある。                                   案内板より引用
 
   一間社流れ造の本殿(写真左・右)。その造りは室町期の風を残すともいわれている。
    
板張りの覆屋内には本殿を中心に左側に稲荷社、右側に三社神社が鎮座している。
         
 本殿の礎石・束石の周りのみならず、社殿の参道や階段等には緑泥石片岩が綺麗に敷き詰められている。この緑泥石片岩は三波川結晶片岩の薄く剥がれやすい特徴(片理:へんり)を利用してつくられており、樋口駅から北西約1500mのところに石材を採掘した「板石塔婆石材採掘遺跡」がある。ここの石材は「秩父青石」と呼ばれ、関東一帯で石皿や石斧、板碑として古くから使われてきたという。
       
                書家、
菅谷幽峯書きの             拝殿右側に鎮座する境内社
                  天手長男神の石碑

 
簗瀬神社の御祭神は日本武尊と共に正安年中(12991302天之狭霧神(あまのさぎりのかき)が祀られている。日本武尊は宝登山神社の御祭神でもあり、秩父地域にも白鳥伝説等ゆかりのある神であるが、天之狭霧神はあまりメジャーな神ではないので、改めて調べてみた。
天之狭霧神
古事記にのみ登場する神で、古事記ではイザナギとイザナミの孫にあたり、サギリとは霧のことで、霧に宿る神とされる。
【古事記 原文】
 此大山津見神、野椎神二神、因山野持別而、生神名、天之狹土神、(訓土云豆知。下效此)次國之狹土神、次天之狹霧神、次國之狹霧神、次天之闇戸神、次國之闇戸神、次大戸惑子神、(訓惑云麻刀比。下效此)次大戸惑女神。自天之狹土神至大戸惑女神、八神。
【現代語訳】
 
この大山津見(おおやまつみ)神と野椎(のづち)神の二柱の神が、山と野を分け持って、生んだ神の名は、天之狭土(あめのさづち)神、次に国之狭土(くにのさづち)神、次に天之狭霧(あめのさぎり)神、次に国之狭霧(くにのさぎり)神、次に天之闇戸(あめのくらど)神、次に国之闇戸(くにのくらど)神、次に大戸惑子(おおとまとひこ)神、次に大戸惑女(おおとまとひめ)神。天之狭土神より大戸惑女神まで合わせて八柱の神である。
                  
・古事記ではイザナギとイザナミの子とされる山の神「大山津見神」と野の神「鹿屋野比売神」との間に以下の四対八柱の神を生んでいて、その中の一柱である。
 父神である大山津見神縫い関して神名の「ツ」は「の」、「ミ」は神霊の意なので、は「大いなる山の神」という意味となる。その山と野の神である大山津見神と野椎神の二神が、山野に関係する8柱で対をなす4組の神々を生む。
・天之狭霧神、国之狭霧神は、それぞれ、あめのさぎりの神、くにのさぎりの神と読む。本居宣長は「さぎり」の「さ」を「坂」、「ぎり」を「限り」とし、これを「境界の神」としているが、ここでも「さ」を一般的な接頭辞として「霧の神」と取るのが妥当だと思われる。
*「狭霧」は現代でもそのまま使われる言葉(接頭辞「さ」+「霧」)
*話がややこしくなるが、
出雲の大国主の子孫の系譜に天狭霧神(アマノサギリ神)がいて、遠津待根神(女神)の親神として名前が挙がっている。これがイザナギとイザナミの孫として生まれた天之狭霧神かどうかは解明されていない。

 古来から矢那瀬地区周辺は山と川が複雑な地形をなしているため、濃霧がしばしば生じ、見通しが悪く、交通の難所の一つに数えられる程であったことから、災難除けとして正安年間に天之狭霧神を当社に併せ祀り、霧明神社と称したと伝えられる。
 

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野上下郷瀧野神社

 瀧野神社 御由緒 長瀞町野上下郷一二一八
 ◇荒川の滝にかかわる伝説の社
 『新編武蔵風土記稿』に「往古この所荒川の流れに、両岸岩にて狭まりし所、川瀬の中に巨岩ありて瀧となりしが、何頃にや洪水の時、此の岩破れ今は瀧なけれども、今に小名に唱ふ、瀧野社例祭九月二十九日、小名瀧上の鎮守なり、此社往古荒川の北岸にありしを、今の地に移せしと云、神職柳若狭吉田家の配下なり」と記載する。
 御祭神は日本武尊で秩父に足を踏み入れた尊の徳を称え奉斎したと伝えている。
 境には熊野神社も祀られ「おくまんさま」と呼びならわし、安産の御神徳が高いとして多くの参拝を得ている。安産を願うものは「安産帯」を受け、社頭から「底抜けのひしゃく」を借り受け、願いが成就したあかつきには「お礼」として新たな「底抜けひしゃく」と借り受けたものと合わせ納めお礼参りをしている。
 なお寛保二年(一七四二)関東各地に大洪水をもたらした水位を示した埼玉県指定史跡「寛保洪水位磨崖標」が長瀞第二小学校裏の岩肌にある。当時七月二十七日から四日間降り続いた雨の水位は十八メートルにもおよびこの付近一帯は水没したという。           
                                    境内案内板より引用

       
             ・所在地 埼玉県秩父郡長瀞町野上下郷1218
             ・ご祭神 日本武尊
             ・社 格 旧小字瀧上鎮守
             ・例祭等 春祭り 3月15日 秋祭り 10月15日 
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1341891,139.1217504,16z?hl=ja&entry=ttu       
 野上下郷瀧野神社は国道140号を長瀞町報告に進み、秩父鉄道「樋口駅」過ぎの集会所に車を停めて参拝を行う。社まで適当な駐車スペースがない事。またコミュニティ集会所から西へ道路沿いお歩道を歩いて進めば、一本目のT字路右側に野上下郷瀧野神社が見えるからだ。
               
               正面社号標から撮影。急勾配の階段なのがここからでも分かる。
           
 この階段は段数こそあまりないが、振り返るのが怖いほど急勾配で、見ただけでも参拝する気持ちが落ち込む程。このような階段は初めてであるし、日頃から運動不足気味な自分にとって、この社の階段は神から与えてくれた「運動と疲労」という贈り物であろうと感謝している次第だ。中央に設置されている手すりを使用して、勢いのまま休まずに踏破できたのは良かったが、帰路も同じルートかと思うと、明日以降の筋肉痛が心配だ。
*後で知ったことが、熊野神社へのコースは緩やかな道があり、そこならば道程が少し長いだけで、それほど心配する必要もなかった。
               
 階段を登り、鳥居を過ぎると真近かに社殿が目視できる。山の斜面に社を鎮座させている関係上、構造的には、社殿や境内社等並列している配置となっている。
        
                     拝 殿   
 武蔵七党は
平安時代後期から鎌倉時代・室町時代にかけて、武蔵国を中心として下野、上野、相模といった近隣諸国にまで勢力を伸ばしていた同族的武士団の総称で、その中の丹党安保氏の系列(一派)に岩田氏、白鳥氏が主に秩父郡白鳥庄を領有していた。長瀞町野上下郷に鎮座する瀧野神社は『新編武蔵風土記稿』によると、この地は秩父郡白鳥庄に属していた。
・「秩父志」「白鳥庄、属村十一.下田野、井戸、岩田、野上郷、藤谷淵、金崎、金沢、日野沢、野巻、大淵」
 この武蔵七党の活動開始時期はあくまで平安時代後期であり、それ以前に記述されている文書等にこの武士集団は関与していないことから、律令制度時期に活動した集団はどのような一派だったろうか。
 
     
       参道左側にある神楽殿          拝殿手前に設置されている案内板
 
   三笠山・御嶽皇・八海山各大神の石碑           境内社 
                      左から琴平神社・白山神社・天神社・諏訪神社
        
  
社殿東側で勾配の緩やかな参道を下がるように進と、左側に「熊野三社大神」が鎮座する。
   
        熊野三社大神              
熊野三社大神の扁額
        
                         熊野三社大神の並びには社務所がある。
 秩父郡岩田村は承平三年太政官符に「秩父郡石田牧」と見えるところから、岩田は嘗て「イシダ」と称していたという。近郊の大里郡には小園壹岐天手長男神社が鎮座しているが、この社も嘗ては「石田神社」と称していた。
大里郡神社誌 「男衾郡小園村壹岐天手長男神社は、文久年中の文書に、園明王壹岐石田神社と称し、往古壹岐国一の宮より勧請す」
 この壹岐天手長男神社は壱岐島内に同名の社が総本社として鎮座している。
壹岐国石田郡石田郷(和名抄に伊之太と註す)
 この「石田」という地名は古代から日本海を中心とした集団として文書等に記載がある。
日本書紀垂仁天皇三十四年条 「天皇、山背苅幡戸辺を娶りて、三男を生む。五十日足彦命、是の子石田君の始祖也」
古代氏族系譜集成 「垂仁天皇―五十日足彦命―忍健別命―佐太別命(石田君祖、佐渡国雑太郡石田郷住)
 このように武蔵七党活動以前から、ある集団が九州から畿内、その後東国に移動して、移住した地に岩田、石田と命名したと考える。武蔵国北部には壱岐島由来であろう天手長男神社が多く鎮座している例もあり、岩田(石田)の地名の淵源は古く、そして集団としての活動範囲も広範囲であるといえるのではなかろうか。
                       
                                階段から眼下の風景を撮影
            
                      何故このような急勾配な斜面上に鎮座したのか

 秩父鉄道樋口駅の北側にある「長瀞第二小学校」の裏を登った山腹に「寛保洪水位磨崖標」がある。これは「寛保二年水害」の時に荒川の水位がここまで上がったことを後の世に示すために、当時の村人が刻んだもので、この「寛保二年水害」とは1742年(寛保2年)の旧暦7月から8月にかけて日本本州中央部を襲った大水害で、江戸時代以降埼玉県を襲った数々の水害の中でも、最も甚だしい災害である。 
 当時の記録によれば旧暦727日から4日間豪雨が続き、81日の水位が18mも上昇してここまで達し、付近が水没したとの事ことを地元の四方田弥兵衛・滝上市右衛門が刻んだものである。(県指定史跡)
 因みにこの石碑に刻まれた水位は現在の河床から約24mにもなり、現在の人家の一階は完全に水没する水位であり、ここから2km程度下流の破久札の峡谷で、家や流木などでせき止められて、上流域では水位が60尺、メートル換算だと約198mにもなったという。
 野上下郷付近は秩父盆地に降った雨が集まる、盆地唯一の水の出口で、両側に山が迫り、荒川の清流がV字谷を刻んでいる。上流は秩父盆地、下流は寄居町の荒川扇状地で川幅は広く、盆地の出口である野上下郷付近だけが急激に川幅が狭くなり、寛保二年水害でこの地域が荒川最大水位に達したのは、この地形が原因だといわれている。
 こうした洪水の記録を後世に絶やさずにつないでいくことが大切であり、樋口駅近郊に鎮座する瀧野神社にも水に関する地名や由緒が案内板等に残されている。

岩田神楽とは
 岩田神楽は秩父地方の主流をなす秩父神社の流れを受ける。大正3(1914)の冬、耕地総出の薪山仕事の時に「岩田でもダイダイをやってみようではないか。」との話がまとまり、神楽主任浅見幸三郎、中村楠五郎両氏を師匠として約1ヶ月間、蚕室を借りて伝授を受け、2月の天神祭に初舞を奉奏、めでたく岩田神楽が発足したと言われる。神楽の道具衣装もよく保存されている。2月と11月の大祭、315日頃の滝野神社の春祭等に奉奏する。


    

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入浅見金鑚神社古墳

 入浅見金鑚神社古墳は、生野山丘陵の北東に派生した段丘上にある古墳である。古墳の北側には埼玉県道352号児玉町蛭川普済寺線が通り、墳丘裾の一部が削られ、工事中に埴輪が出土した経緯がある。御由緒(入浅見金鑚神社案内板)では、古墳についても触れている。元々この神社は古墳を避けて鳥居の北東付近に鎮座していたが、1928(昭和3)に墳丘南側が削平され金鑚神社社殿が移築され、この工事の際、主体部が発掘され、石室石材が拝殿前の参道や社殿改修記念碑に用いられたという。
「格子タタキ技法」を用いて製作された埴輪は、このほかにも、かつて北堀にあった公卿塚古墳
(直径65メートル)や生野山丘陵上に所在する生野山将軍塚古墳(直径60メートル)からも出土していて、これらの古墳も、金鑽神社古墳と同時期の築造と考えられているので、5世紀前半の本庄市内には、何人かの朝鮮半島出身の土器製作技術者が、埴輪づくりに活躍していたことが推測されている。
                
             ・所在地  埼玉県本庄市児玉町入浅見
             ・築造年代 5世紀中葉築造(推定)
             ・形 状  円墳
             ・規 模  直径約67.6m・高さ約9.75m2段築成
 入浅見金鑚神社古墳は女堀川左岸で「鷺山古墳」の南西にあり、生野山丘陵北部の丘陵の地山に築造されている。墳丘には入浅見・金鑚神社が鎮座している。1928(昭和3)に工事の際、主体部が発掘され、一部の石室・石材が拝殿前の参道や社殿改修記念碑に用いられたが、内部主体(竪穴式石槨と思われる)は発掘調査されていないとの事だ。
 
       鳥居付近が一段目のテラス。写真でも段差があるのが確認できる(写真左)
     また鳥居横にある「本庄市指定文化財 金鑽神社古墳」標柱あり(同右)
 標柱案内柱より引用(側面部位)
「この古墳は、5世紀中葉に築造された児玉地域最大の円墳である。また、当古墳は全国にも例の少ない叩き目を持つ円筒埴輪が樹立されており、併せて町指定文化財となっている。」との記載あり。
 
            拝殿前には階段があり             石段脇の墳丘を撮影。 
     一段高くなっているのが分かる。         綺麗に円を描てるようだ。
       
 拝殿前までの敷石に注目。この敷石、この古墳から出土した組合い式箱式石棺の部材を転用しているという(写真左)。また社殿裏境内社の脇にある平らな石材もそれらしいように見えるから不思議だ(同右)。
         
                  厳かな雰囲気漂う社

 入浅見金鑚神社古墳は、直径約67.6m・高さ約9.75m2段築成の円墳で、墳丘には入浅見・金鑚神社があり、自然丘陵を利用した下段と、盛土による上段の2段で築成されていて、上段の墳丘には葺石が施設されて、下段は地山をけずりだして整形されていることが確認された。また周溝を含めると100mを超える大型の円墳で本庄市内では最大規模という。

 最後にこの古墳は平野部ではなく、わざわざ段丘上に築造されている。更に墳丘テラス部で円筒埴輪列、墳頂で朝顔形埴輪列が並び、葺石も施設されていることから、古墳築造当時において樹木等はほぼなく,古墳のある場所からかなり遠くまで見通せたものと推測される。
 この古墳が築造された当時の地形を、現在の地形を参考とさせていただく事を条件に周囲の標高を調べてみると、入浅見金鑚神社から古墳墳頂で約90.4m96m。北側県道沿いが約86m。東側で80m程。南側で約73m77m。西側が83m程で、周囲に比べて10m20m程高くなっていて、生野山丘陵北端部ではあるが、見た目には独立した小山という印象を当時の人々は感じたのではなかろうか。
 そういう意味において、この古墳は一種ランドマークのような目立つ存在であり、「見せる為の古墳」「この地域を象徴する古墳」でもあったと思われる。

 古墳および出土品は1988(昭和63)11日付けで市指定史跡に指定された。

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入浅見金鑚神社

神流川は、長野・群馬・埼玉の県境、三国山(1818 m)に源を発し、南から北へと向きを変えて急流を一気に下り、北東に向きを変える神流川頭首工のある辺りからは、なだらかに広がる扇状地をゆっくり流れる。その後、烏川に流入して利根川に合流する流路延長 87.4km、流域面積 407 ㎢の一級河川である。
 古代律令時代には、条里制田畑が広がっていたといわれ、条里制田畑に水を供給する用水堀やため池が発達した。一説によると九郷用水は条里制施行時に用水路として造られたといわれている。 
 九郷用水は神流川から取水する用水で、全長約16㎞。その要所には不思議と金鑚神社が祀られている。これらの所在地は武蔵七党の一つ児玉党の勢力範囲と一致するといわれていて、この用水の開削伝承に、金鑽神社が登場する。
 昔は台風が来ると大水もたびたび出た。ある台風の後、よく晴れた中お百姓さんが川原の畑にくわ切に出かけた。ひと仕事して一服しようと、大水で流れ着いた大木に腰かけた。
すると、その大木が動き出し、実は天にも届くような大蛇であったと知れた。百姓は驚いて腰が抜け動けなかったが、暫くして我に返ると大蛇はおらず、その這った跡が東方に向かっていた。その筋が後に九郷用水になったという。
 九郷用水については次のような伝もある。大昔一帯が日照りに悩まされることが多く、これを知った国造が金鑽神社にこもって、その惨状を訴え祈願したという。すると社殿に童子が現れ、自分が金竜となり神流川の水を導くゆえ、それに従い水路を掘るように、との託宣があった。
 はたして翌朝、金色の大蛇が新宿附近の神流川に現れ、岸に上がると本庄市北堀まで進み、浅見山へ消えたという」
 用水開削時期については、古代の条里制施行時に開削されたとする説や,平安末期から武蔵(むさし)七党のうちの児玉党によって開削されたとする説などがあり、ハッキリとした時期は分かっていない。しかし、神流川流域では古代に開削したとみられる大溝が確認されており、当時かなりの先進技術が金鑚神社を信奉する技術集団が保持していたことを物語っている。
        
                      ・所在地 埼玉県本庄市児玉町入浅見899
                      ・ご祭神 素盞嗚尊
                      ・社 格 旧入浅見村鎮守・旧村社
                      ・例 祭 春祭り 4月3日  秋祭り 1014日  新嘗祭 12月10日
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2049845,139.1532806,17z?hl=ja&entry=ttu       
 入浅見金鑚神社は埼玉県道352号児玉町蛭川普済寺線を旧児玉町蛭川地区方向に進む。「山蛭川」のY字路交差点(但し手押信号)手前にこんもりとした森が左側に見えてくるが、その森中に入浅見金鑚神社が鎮座している。
 森の手前に左折する細い道があり、そこを進むと左側にお寺があり、そこの駐車スペースを利用してから徒歩にて社に向かう。森周辺も
静かで県道沿いに鎮座しているとは思えない程荘厳な雰囲気があるが、道路事情にはやや難あり。
               
                 
入浅見金鑚神社鳥居正面
 古墳の墳上に鎮座しているので、参道途中には階段があるが、それがかえって良い雰囲気を醸し出している。この社のすぐ北側は県道が南北に走り、しかもかなりの交通量であるが、そのような喧噪や騒音がほとんど聞こえない。
        
                                 鳥居の左脇にある案内板
 第62回伊勢神宮式年遷宮記念
 金鑚神社 御由緒   
 所在地 埼玉県本庄市児玉町入浅見字西裏八九九
 □御縁起(歴史)
 入浅見は古くは隣接する下浅見と共に「阿佐美」といい、武蔵七党児玉党の氏族である阿佐美氏の本貫地であったとされ、当社の境内のすぐ北側に当たる「城の内」という場所は、この阿佐美氏の居館の跡と伝えられる。また、地内には古墳が多く点在しており、当社の境内にもその一つがある。そのため、元来は古墳を避けるような形で鳥居の北東付近に鎮座していたが、昭和五年に古墳の南側を平らに崩し、現在のように古墳の頂を背にする形で祀るように改めたという。
 当社の由緒については『児玉郡誌』に、当社は阿佐美右衛門尉実高が勧請した社で、天正四年(1576)九月に領主黒田豊前守の寄附によって社殿が改造され、享保年間(171636)に正一位の神階を奉授した旨の記載がある。また本殿には、往時神階叙位に伴って掛けられたと思われる「正一位金鑚大明神」の木製の社号額や、天保三年(1832)に拝殿を再建した際の棟札などが納められている。
 江戸時代には、真言宗の金鑚山観音寺が別当であったが、神仏分離によって同寺は廃され、現在では観音堂(当社の三○○メートルほどに所在)にその名残をとどめている。一方、当社は明治五年に村社となり、政府の合祀政策に従って、字聖天平の諏訪神社並びにその境内社を当社境内に移転した。当社の祭神は素盞嗚命である。(中略)
                                      案内板より引用
        
                       参道。綺麗に維持され、手入れも行き届いている。
        
                                         拝 殿
 本庄市入浅見地区は、本庄市旧児玉町共和地区の南部に位置し、生野山の北東の方角に続く緩い丘陵地と、生野山の東部で二つの尾根の間の谷部、生野山西部の先端部の北側を含む。この生野山の北東の尾根より分断された小丘陵上の南斜面に集落が集中している。入浅見の北側は児玉条里水田地帯の南端にあたり、中央部は2本の尾根に挟まれた谷となっている。条里水田は九郷用水を用いて、谷戸田の水田は生野山麓の複数ある溜池(ためいけ)の用水を用いている。
 入浅見は本来下浅見と一村であったが、戦国時代以降2村に分村する。浅見は「阿佐美」とも書き、この地名が初めて資料に見えるのが天正5年(1577)の「北条氏邦朱印状」(武州文書)で「入阿佐美・阿佐美村」と記載されていることから、この時期には分村していたことが分かる。
        
                                         本  殿
 古代における入浅見地区は、5世紀前半には「金鑚神社古墳」が築造され、共和地区内周辺地域と同様に、児玉条里地帯に一部が含まれた先進地域であった。古代末期には児玉郡内に児玉庄という荘園があったことが平安時代末期 - 鎌倉時代初期の公家である九条兼実の日記『玉葉』に見られる。
 当時の児玉庄の実態は『玉葉』に記されたもの以外で史料等なく不明であるが、その当時から入浅見地区も含まれていた可能性がある。入浅見の北部は条里地帯に含まれている一方、中央部、生野山の二つの尾根に挟まれた谷も水田として開発されていることが発掘等によって分かっているが、この地域は条里地帯からは外れていて、所謂「谷戸田」と言われる水田である。
 
        
                            社殿奥に鎮座する境内合祀社二棟        
          左側「疱瘡神社・絹笠神社・手長男神社・菅原神社」  
           右側「八坂神社・稲荷神社・伊勢神社・二柱神社」
 
         社殿右側奥に諏訪神社が鎮座        鳥居の左側(西側)にも境内社あり
                                詳細不明
        
                                 社殿からの一風景
 古代末期児玉郡内に武蔵武士の前身にあたる児玉党等多くの武士集団が発生するが、この児玉党内に阿佐美氏も含まれる。当然阿佐美氏の支配領域は児玉庄に含まれるはずである。その児玉庄の根幹をなす条里水田は本来国衙領(公領)であり、荘園の管理や年貢の収納・治安維持等の権限はあっても、児玉党武士団の所領ではない。しかし、入浅見の谷戸田地域は国衙領に含まれず、児玉党独自での開発により、自己の所領として得られる地域で、これを地盤として、荘園内外での所領を拡張することができたと考えられる。
 現在児玉地域で発掘されている古墳群や条里遺跡、及びその周辺の水田遺跡や九郷用水の規模等を考慮すると、この入浅見地域は児玉党にとっては周辺へ開発する際に重要な開発拠点であったと思われる。



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