古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

南吉見羽黒神社

 武州松山城は、荒川の支流・周囲は市野川が形成した広大な低湿地帯に囲まれていて、比企丘陵の西端に築かれており、ここから東部および南部一帯は関東平野となって一面の低地が続くところである。城下を流れる市野川は城の北側から西側を廻りこみ丘陵の裾を削り取っているため、標高59mの丘陵の裾に位置する松山城跡の北側と西側には断崖絶壁を形成する部分が見られる。三方を市野川によって囲まれ、「流川の城」と呼ばれる松山城は、戦国期に幾度もの攻防戦がおこなわれており、北武蔵地方で屈指の平山城であった。
 松山城の縄張りは、『天正庚寅松山合戦図』によって最終形の姿を知ることができる。これによると、城域は龍性院(吉見町北吉見)の南側の谷を北の境とし、大沼のある谷を東の境、羽黒神社(吉見町南吉見)の北裏の谷を南東の境とする東西700m、南北550mほどの大規模な城郭であったと考えられる。市野川に突き出た部分から笹曲輪、本丸(本曲輪)、二の丸(二ノ曲輪)、春日丸、三の丸(三ノ曲輪)、広沢曲輪と南西から北東に向かって連郭式に配置され、その両側に太鼓曲輪、兵糧倉(兵糧曲輪)、惣曲輪など、大小さまざまな曲輪や平場が存在する。一方、松山城跡の西方は外秩父山系の丘陵地帯であり、松山城跡とともに戦国期に築城された青鳥城跡・杉山城跡・小倉城跡・中城跡・腰越城跡・安戸城跡などの多くの城館跡が存在する。

 松山城の東側境に鎮座する南吉見羽黒神社は、松山城主難波田弾正入道善吟が松山城三の丸に天文年間(1532-1555)創建、天文15年(1546)河越夜戦の戦闘で敗れて難波田氏は扇谷上杉氏と共に滅亡したという。当社は慶長6年(1601)の廃城に至るまで城内に鎮座していたものの、その後村民により本丸の東方に当たる当地に鎮座、江戸期には流川・根小屋・柚澤・土丸・新宿の鎮守として祀られていた。明治4年村社に列格、大正元年に諸口琴平社・天神社・八幡社の無格社三社を合祀している。
               
            
・所在地 埼玉県比企郡吉見町南吉見257
            
・ご祭神 羽黒権現(推定)
            
・社 格 旧村社
            
・例 祭 不明 

 南吉見羽黒神社は国道407号線を東松山市街地方向に南下し、「百穴前」交差点を左折、道路は信号のあるT字路に達するため、そこを右折する。市野川に架かる市野川橋を越えると正面やや左側には「武州松山城」址の小高い山が目の前に広がり、山裾には「岩室観音堂」も見える。お堂の西側には「吉見百穴」もあり、歴史の息吹を感じさせてくれる場所でもある。この地域から南側には八王子街道や鎌倉に続く道があり、文字通り「交通の要衝の地」ともいえる。
               
                               道路からやや奥に見える鳥居

 市野川を越えて道なりに真っ直ぐ進む。松山城址先の丘上には「武蔵丘短期大学」が並び、そこを暫く進むと、左側に社の旗を掲げる1対のポールが見え、その下には鳥居も立っている。但し道路沿いで民家が立ち並ぶ中で、舗装されていない参道の奥に鳥居がポツンと立っていて、良く確認しないとそのまま通り過ぎてしまうような場所である。車のナビも周辺地域まで誘導してくれるのみ。周辺は交通量も多い場所でもあり、学校も隣接しているので、周囲の道路事情や、歩行者にも気を付けながら何とか到着できた。
               
                    一般道路から参道は伸びており、その先に鳥居がある。
           
               鳥居の手前右側に聳え立つご神木
               
                  南吉見羽黒神社鳥居

 交通量の多い道路から僅かしか離れていないにも関わらず、鳥居を越えて石段に入ると雰囲気が 急に変わる。なんとも言えない独特の雰囲気のある社。

〇新編武蔵風土記稿流川村条
 流川村は江戸より行程十四里、元来此所は松山城附にて、落城の後十一年を経て草創せり、始は比企郡に属して松山庄なりしが、正保四年村を二つに分ち、北の方を当郡に属し、南の方は比企郡たる事元の如しと云傳へり、されど既に久米田村の條に紀せし如く、当村正保改の頃までは、久米田村の内にして(中略)四隣東は久米田村に隣り南は市ノ川を隔て比企郡滝川・柏崎の二村に界ひ、西は同郡松山町の新川字新宿に續き、是も市ノ川を界とす、北は土丸村に接す、東西凡九町、南北六町許、水利不便にして早損がちの地なれば、村の中央に溜井を設て便とす、是当村及土村・根小屋・柚澤四ヶ村の大溜井なり
・市ノ川
 村の南西を流る、幅八間許、此川に口間許の石橋を架す
・羽黒社
 北の方なる山上にあり、當村及根小屋・柚澤・土丸の鎮守なり、社地に古松ありて、頗る佳景の地なり
・別當妙楽寺
 新義眞言宗、御所村息障院の末、松榮山と號す、本尊薬師を安ず
・首塚。社の傍にあり、松山落城の時、死者の遺骸を埋し塚と云
・諸口明神社
 金毘羅権現を相殿とす古兩頭の蛇を祀し故、諸口明神の號ありと云、これも長源寺の持
                               「新編武蔵風土記稿」より引用

 
  鳥居を過ぎると長い石段のスタートとなる。    石段の間には踊り場が何カ所かあり、最初
                        の踊り場で右側には石祠等が祀られている。
 
         筆者にとって直線的な石段は那須温泉神社境内社・愛宕神社以来である。
 
 南吉見羽黒神社が鎮座する地は標高47m程の丘である。鳥居付近が17mの標高であるので、実際は30m程しか標高差はないのだが、社殿まで一直線の石段が続き、200段程。勾配もかなりのもので、意外ときつく、途中踊り場で休憩をとりつつ、やっと社殿まで到着できた。
               
                                       拝 殿

 羽黒神社 吉見町南吉見五七
 大字北吉見にあった中世の山城である松山城は、県内の城館跡の中では最も多数の記録が残っており、幾多の合戦の舞台として登場してきた。
 当社は天文年間(一五三二-五五)に難波田弾正入道善吟によってこの松山城三の丸に祀られたことに始まると伝える。難波田弾正は扇谷上杉朝定に仕えた武将で、松山城を居城とし、その付近一帯を領した。天文六年(一五三七)に河越城主であった朝定が北条氏康に攻められ、松山城に逃れた時、難波田氏は朝定を守って戦った。しかし、河越城の奪回を目指した天文十五年(一五四六)の河越夜戦の戦闘で敗れ、難波田氏は主家の扇谷上杉氏と共に滅亡した。
その後も当社は慶長六年(一六〇一)の廃城に至るまで城内にあったが、その後村民により本丸の東方の現在地に移されたという。
 宝永六年(一七〇九)の棟札には「奉造営羽黒山大権現鎮座□五箇村氏子繁昌諸願成就所・別当明楽寺秀英」「武州横見郡下吉見領之内流川村・根小谷村・湯沢村・土丸村・新宿村」とあり、当時は五か村の総鎮守であったことがわかる。なお、これに見える別当明楽寺は真言宗の寺院で、当社参道入口の左手に堂を構えていた。
 明治四年に村社となり、同三十九年に本殿・拝殿を改築し、大正元年に諸口琴平社・天神社・八幡社の無格社三社を合祀した。
                                  「埼玉の神社」より引用
   
      拝殿に掲げてある扁額          社殿の左側に鎮座する境内社
                            三峯神社であろうか

 ところで南吉見羽黒神社は松山城主難波田弾正入道善吟が武州松山城三の丸に天文年間(1532-1555)創建したという。この難波田 隼人正(なんばだ はやとのしょう 生年不詳 -〜没年・天文6年(1537年))は、戦国時代扇谷上杉朝定に仕えた武将で、松山城を居城とし、その付近一帯を領した。
 難波田氏は平安時代の武士団「武蔵七党」のひとつ、村山党に属する金子小太郎高範を祖とし、鎌倉時代に難波田の地を与えられたことから難波田氏を名乗った。
 南北朝時代、足利尊氏と弟の直義が争った「観応の擾乱」では、難波田氏は直義側につき、難波田九郎三郎は観応21351)年1219日、羽祢蔵(志木市)で高麗経澄と戦い討ち取られたことが「高麗経澄軍柱状」に見える。
               
               帰路も下りの石段が待ち受ける。
          登りの時とは違う筋肉を使用するので、意外とつらい。

 戦国期には難波田氏は河越城を居城とする扇谷上杉氏に仕え、小田原城を本拠とする北条氏の武蔵侵攻に対峙した。天文61537)年427日、扇谷上杉朝興は河越城で死去、朝定が跡を継いだ。上杉朝定は難波田広宗に命じて深大寺城を整備するが、北条氏綱は直接河越城に進撃、三ツ木で朝定の叔父、朝成を破り、上杉軍は総崩れとなり、河越城を捨てて松山城に退却した。氏綱は松山城まで追撃戦を行い、平岩隼人正重吉が上杉朝成を生け捕るなどの戦功を挙げたが、城代を務めた難波田弾正憲重(善銀)らの奮戦で落城には至らなかった。
                  
 その後『快元僧都記』天文6722日条に「難波田弾正入道善銀甥同名隼人佐広儀并子息三人打死、都鄙惜之」と記述がされている。これは同年に上杉朝定が北条氏綱によって河越城を奪われた際に善銀(正直・憲重)の甥である隼人正および3人の息子が戦死したという
        
その9年後後河越城奪回を目論む扇谷上杉朝定は、山内上杉憲政、古河公方足利晴氏らと結んで、天文十四(1545)年、北条綱成の守る河越城を八万とも言われる大軍で包囲する。世に名高い「川越城の夜戦」である。翌天文151546)年420日の北条氏康の奇襲戦で敗北、扇谷上杉朝定は討ち死にし扇谷上杉氏は滅亡、山内上杉憲政は上州平井城に落ち延びた(河越夜戦)。難波田弾正憲重も奮戦するが、古井戸に落ちて凄惨な討ち死にを遂げたという。

 難波田弾正憲重は扇谷上杉家中きっての文武兼ね備えた勇将で、扇谷上杉氏の柱石とも言える存在であった。北条氏綱に河越城を追われて追い詰められた若き主君、扇谷上杉朝定を守って闘った松山城攻防での「風流歌合戦」など、いかにも坂東武者らしいエピソードが残る。その難波田弾正も、扇谷上杉氏が滅亡し、関東管領上杉憲政が関東を追われるきっかけになった運命の「河越夜戦」で、古井戸に落ちて討ち死にするという、なんとも痛ましい最期を遂げている。滅びゆく関東の旧勢力に殉じて散っていった難波田弾正は「誇り高き最後の坂東武者」の一人だったかも知れない。
               
                          鳥居の先には市野川の土手が広がる。

 山岳修験の神である「羽黒」を冠しているが、地主神として本来は「別の神様」を祀る神社だったかもしれない。確認は取れていないが、吉見の昔ばなしでは、お羽黒さまは大麦の野毛(穂)で目を突いて、片目になってしまったので、周辺地区では大麦は禁忌作物とされているという。
 なかなか複雑な過程を経て、今の地に鎮座している社ではあるようだ。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「吉見の昔はなし⑥」「
Wikipedia」等
 
 

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長谷八幡神社

 吉見町長谷地域は町の西端部に位置し、比企丘陵地に属する。この丘陵地一帯は県立比企丘陵自然公園に指定されており、吉見百穴や八丁湖周辺に散在する黒岩横穴墓群等、古墳時代を代表する貴重な史跡が近隣に存在する。因みに「長谷」と書いて「ながやつ」と読む。
 長谷八幡神社は、下野守藤原秀郷が天慶年間(938-947)に応神天皇を祀って創建したと伝えられる。江戸期には村の鎮守として祀られ、八幡山と呼ばれる小丘に鎮座していたが、昭和40年代に関越自動車道建設のための採土により、境内地が崩壊してしまったため、昭和47年当地へ遷座したという。
               
             
・所在地 埼玉県比企郡吉見町長谷11852
             
・ご祭神 誉田別尊
             
・社 格 旧村社
             
・例 祭 祈年祭 415日、例祭 724日、秋祭り 1015
                  *
かましめ頒布 1216

 長谷八幡神社は吉見町西部に位置し、近隣には東松山市東平地区の熊野神社が鎮座する。途中までの経路は東平熊野神社を参照。国道407号線を東松山市街地方向に進み、「東平」交差点を左折する。埼玉県道66号行田東松山線に合流後400m程先のコンビニエンスを越えたすぐ先の信号を右折し、道なりに直進する。暫く進んでいくと右側に「長谷工業団地」の工場が立ち並び、信号を過ぎたその先には「八幡公園」があり、その隣並びに長谷八幡神社が鎮座している。
 八幡公園には東側に駐車場があり、そこの駐車スペースを利用してから参拝を開始した。

かましめ(かまじめともいう)とは古来は竈〆と書き、年明けに新しい竃(かまど)の神様を迎えるために竃をしめ、一年働いた竃の神様を休ませるために行なっていたそうだが、現在は新年を迎えるためにお札や神棚周りを来年度のものに取り替える行事の事を指す。
 そこから、正月の歳神様(としがみさま)をお祀りするための神具一式を「かましめ」と呼ぶようになったという。
               
                                  長谷八幡神社正面

 社は道路に面しているが、道路から奥に入った場所に鎮座しており、鳥居手前左側には集会所もあって、そこには駐車スペースも若干確保されていた。
 但し参拝時間は丁度正午ごろで、鳥居に対して逆光状態となってしまった。
 
  鳥居を斜めから撮影。逆光状態は変わらず。   鳥居から参道を撮影。社殿は横を向いている。
        
 社殿は珍しく西向きである。境内は南北方向が長いため、鳥居を越えてから参道を進み、突き当たり付近を左方向直角に曲がると二の鳥居、社殿に到る。
               
                                鳥居から拝殿を望む。
               
                                 拝 殿

 八幡神社  吉見町長谷一二一二
 当社の創祀は古く、天慶年間(九三八-四七)に下野守藤原秀郷が村民らと共に応神天皇を祀って一社を建立したことに始まると伝えられている。
『風土記稿』には「八幡社 村の鎮守なり、長永寺の持、末社 稲荷社 諏訪社 浅間社」と載せている。これに見える長永寺は岩田山密教院と号する真言宗の寺院であったが、明治初年に廃寺となった。
 鎮座地は元来、八幡山と呼ぶ小高い山(標高七二メートル)の頂であった。参道は「男坂」と「女坂」があり、「男坂」が一一一段の石段を一直線に登り詰めるのに対し、「女坂」は緩やかな坂を登って行くものであった。
 しかし、昭和四十年代に入ると、関越自動車道久喜インター建設のための採土がこの山の周囲で行われたことから、参道の各所に崩れが生じ、参詣に支障を来すようになった。このために社殿等の移転を余儀なくされ、山麓に新たな社地を選定し、昭和四十七年四月十五日に遷座祭を執り行った。山頂にあった社殿をはじめ石造物などもすべて新たな社地にそのまま移し、更に参道の一一一段の石段は、神徳の更なる興隆を願って社殿の基礎に使用した。
 なお、かつての鎮座地である八幡山は既に跡形もなくなっている。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
鳥居の手前左側に鎮座している境内社、詳細不明。 社殿右側端にある御嶽山座王権現の石祠
 
   社殿右側にある石祠、石神社か?      石祠の右側に並ぶ清瀧辨財天、御神
                              七鬼神の石祠
               
      社殿左側には多くの石祠、石碑、そして奥には不動明王像が無造作に並ぶ。
               
                          社殿から一の鳥居方向を撮影。

 長谷八幡神社は、下野守藤原秀郷が天慶年間(938-947)に応神天皇を祀って創建したと伝えられ、由緒ある古社である。創建当時は「八幡山」と呼ばれる小丘に鎮座していたが、昭和40年代の自動車道開発の為、当地に移されたがため、社本来の姿を見ることができないのは非常に残念なことだ。
 現在の社殿も新たに改築され、八幡山」と呼ばれる小丘をイメージした高台上に鎮座させ、境内社・石祠・石碑等はその当時の物を移築したのであろう。当然境内も綺麗に整備したはずである。境内も太陽の光を燦燦と浴び、まさに「明るい社」といえ、鳥居・社号標柱等を立てることにより、社としての体裁は整えられた。
 ただ筆者が思うに、一千年以上の歴史のある社としての風格、重みは歴然としているようにも感じられた。そして在りし日の社は如何なるお姿だったのだろうかと参拝途中ふと脳裏をよぎったことも事実だ。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」等
        


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松山菅原神社


               
            
・所在地 埼玉県東松山市松山1150
            
・ご祭神 菅原道真公
            
・社 格 旧村社
            
・例 祭 祈年祭 325日、秋季例大祭1025日 感謝祭 1215

 北吉見八坂神社から埼玉県道271号今泉東松山線を西行し、国道407号線と交わる「天神橋」交差点手前右側に
松山菅原神社は鎮座する。当社は、嘗て松山城の城下町として栄えた「元宿」と呼ばれた地域から北に一キロメートルほど離れた所に鎮座している。境内に接して、鴻巣街道と北吉見の今泉とを結ぶ今泉通りが通る。当社の鎮座地が「中道」と呼ばれるのも、この道に由来する
 国道や県道からは低い位置に鳥居があるが、社殿はそこから小高い丘の上に建てられている。
 県道から「天神橋」交差点に合流する手前に右折する道路があり、すぐ左側には専用の駐車スペースも確保されていて、そこの一角に停めてから参拝を行う。
                
                     県道からは一段低い位置にある
松山菅原神社鳥居

 菅原神社 東松山市松山一一五〇
 当社は、かつて松山城の城下町として栄えた「元宿」と呼ばれた地域から北に一キロメートルほど離れた所に鎮座している。境内に接して、鴻巣街道と北吉見の今泉とを結ぶ今泉通りが通る。当社の鎮座地が「中道」と呼ばれるのも、この道に由来する。
 創建は、社伝によると応永年中(一三九四-一四二八)で、別当観音寺を開山した「忠良」なる者により行われたという。
 以来、観音寺は松山城下の元宿にあって、氏子たちや近在の村々の者に諸祈禱を修したといわれる。『風土記稿』によると、観音寺は京都聖護院末の本山派修験で、東照山竹林坊と号していた。慶長十四年(一六〇九)には、横見・比企両郡のうち一派の年行事職を許され、横見郡大串村毘沙門堂や比企郡長谷村不動堂をも兼帯する有力修験であった。また、万治三年(一六六〇)の失火までは、東照大権現改葬の際、観音寺に御霊棺を安置した縁をもって建立した東照宮の御宮があったと伝えている。
 祭神は、菅原道真公で、現在内陣には菅公座像が安置されている。この像は、明治三十五年四月「菅公一千年祭」を記念して東京美術学校教授の竹内氏に依頼し、製作したものである。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
県道から鳥居に達する下り階段もあり、配置が面白い。正面鳥居(写真左)からは階段を上がり、拝殿に到着する参道がある(同右)。
               
                                      拝 殿
          天神を祀る社らしく、拝殿前には一対の「狛牛」が立つ。

 神社には「神使(しんし)」と呼ばれる動物がいる。
「神使」又は「眷属(けんぞく)」とは、神の意思(神意)を人々に伝える存在であり、本殿に恭しく祀られるご祭神に成り代わって、直接的に崇敬者、参拝者とコミュニケーションを取り、守護する存在である。「神の使い(かみのつかい)」「つかわしめ」「御先(みさき)」などともいう。時には、神そのものと考えられることもある。その対象になった動物は哺乳類から、鳥類・爬虫類、想像上の生物まで幅広い。

 時代が下ると、神使とされる動物は、その神の神話における記述や神社の縁起に基づいて固定化されるようになり、その神社の境内で飼育されるようにもなった。さらには、稲荷神社の狐のように、本来は神使であるものが祀られるようにもなった。これは、神とは無関係に、その動物自体が何らかの霊的な存在と見られていたものと考えられる。

 神使とされる動物には、主に以下のようなものがある。
・鼠       大黒天
・牛       天満宮
・蜂       二荒山神社
・兎       住吉大社・岡崎神社・調神社
・亀       松尾大社
・蟹       金刀比羅宮
・鰻       三嶋大社
・海蛇    出雲大社
・白蛇    諏訪神社 大神神社
・狐       稲荷神社
・鹿       春日大社・鹿島神宮
・猿       日吉大社・浅間神社
・烏       熊野三山・厳島神社
・鶴       諏訪大社
・鳩       八幡宮
・鷺       氣比神宮
・鶏       伊勢神宮・熱田神宮・石上神宮
・狼       武蔵御嶽神社・三峰神社等奥多摩・秩父地方の神社
・鯉       大前神社
・猪       護王神社・和気神社
・ムカデ 毘沙門天

 因みに菅原道真公を祀る全国の天神様(天満宮・菅原神社・天神社)には、境内に「寝牛」や「撫で牛」と呼ばれる牛の像がある。牛は天満宮では神使(祭神の使者)とされているからだが、その理由は次のように言われている。
道真の生まれた年が丑年
道真が亡くなったのが丑の月の丑の日
道真は牛に乗り大宰府へ下った
牛が刺客から道真を守った
道真の墓(太宰府天満宮)の場所を牛が決めた
               
                               社殿から参道方向を撮影

 日本神話や古事記等の神話にも動物は度々登場し、生活のパートナーとしてだけではなく、神聖な存在としても人々の側に寄り添ってきた。神様の使いとして慕われる動物たちは、同じ次元にいながら我々とは違う「世界」に生きている神聖な存在といえなくもない。
 日本の神道は、全てのものには神が宿っているという「八百万の神」の考え方がある。動物にも神のような力が宿ると信じられていたからこそ、数多くの神使が誕生したのかもしれない。

 今も多くの祭りや行事、境内の中に神話の動物たちが登場する。動物を一事例として、神社や神話に向かい合うと、これまでとは違った楽しみ方や味わい方、更には今まで知らなかったことが見えてきそうである。
 動物との関係性の築き方には、文化や宗教など多くの要素が複合的に合わさっている。ぜひこれを機に、人間と動物の信仰的な関係性を調べてみては如何であろうか。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」Wikipedia」等
       

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北吉見八坂神社


           
             
・所在地 埼玉県比企郡吉見町北吉見1640
              ・ご祭神 素戔嗚尊
              ・社 格 旧村社
              ・例 祭 不明
 吉見町大字北吉見は、吉見丘陵の南西部に位置する地域で、八丁湖公園や吉見観音(岩殿山安楽寺)が近隣にあり、どちらかといえば、上記の公園やお寺から東松山市街地方向に進む際の通過地点として位の認識しかなかった地域である。
 北吉見八坂神社は、黒岩伊波比神社から一旦南下して埼玉県道271号今泉東松山線に合流後、東松山市方向に西行し1.8㎞程進むと、信号機のあるT字路の右側丘陵地端部に社の鳥居が見えてくる。
 規模は小さい社でもあり、隣接している社務所や駐車スペースはないため、社の境内の一角に停め、急ぎ参拝を行う。
               
                  北吉見八坂神社正面
                      県道沿いから仰ぎ見るような仰角で撮影。
 
 丘陵地の端部ゆえにやや勾配のある石段を上ると神明系の鳥居があり(写真左)、その先に拝殿が見える(同右)。社殿は最近改築されている。なんでも数年前に不審火による火災があり、木造平屋の社殿を全焼したらしい。
               
                                     拝 殿
 八坂神社 吉見町北吉見一六四〇
 大字北吉見は、吉見丘陵の南西部に位置し、地内に古墳後期の吉見百穴横穴墓群(国史跡)、新田義貞が築いたと伝える松山城跡(県史跡)があることで知られている。
 当社の鎮座地は、氏子集落から離れた北外れにあり、昔は大変に寂しい所であった。また、裏手の丘陵は天王山の地名で呼ばれている。
『明細帳』に「創立ハ長保年中(九九九-一〇〇四)ナリト云伝フ」とあるが、『郡村誌』には「長保三年(一〇〇一)に創建し、元民有地たりしを、延宝六年(一六七八)社地となす」と載せる。
 一方、口碑によれば、天王様は元は、大沢重夫家の屋敷の北側に祀られていたという。これは、本来当社が大沢家の氏神であったことを物語るもので、『郡村誌』に見える社地の変遷の記事は、同家の氏神から村の鎮守となった経緯を示すものと考えられる。ちなみに、同家は氏子集落の中央に居を構え、当主で一五代を数える旧家である。
 明治四年に村社となり、同四十年に字九ノ地の庚申社、字八ノ耕地の稲荷社、字五ノ耕地の愛宕社・春日社の無格社五社を合祀した。昭和六年の社殿再建に際し、参詣の便を図り集落の中央に遷座しようとの声も上がったが、実行に移されず現在に至っている。
                                  「埼玉の神社」より引用
               
                           境内に鎮座する境内社
               
                                    境内の様子

 北吉見八坂神社前には「北向地蔵」といわれる寛政4年(1792)銘の地蔵尊があり、岩室観音・比企観音(岩殿観音正法寺)・吉見観音への道しるべを兼ねた地蔵尊である。
               
                  北向地蔵 案内板

 北向地蔵
 北向きに建っているので北向地蔵という名がある。
 光背型浮き彫りの立像で、台石裏面には「高野山山中嶌坊内良順建焉 寛政四壬子稔四月吉祥日」とある。
 また、台石左側面には「此方いわむろ山くわんおん道、弘法大師開基、松山へ行ぬそ」とある。
 台石右側面には「此方ひきくわんおん江」とあり正面には「此方よしみくわんおん道十二丁」とあり、道しるべにもなっている。
 むかしからこの土地の人々の信仰を集めているが、特に観音霊場めぐりの巡礼たちの信仰を集めてきた。
 今はこの地蔵を信仰すると占いがよく当たるというので、占師の信仰が厚いといわれている。
                                      案内板より引用



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」等

 
    

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間々田稲荷神社

 間々田は、旧妻沼町男沼地区の集落で、熊谷市の北西部、利根川右岸の自然堤防上に位置している。因みにこの地域では利根川支流である「小山川」が利根川右岸へ、また「早川」は反対側の左岸で合流するため、この付近の河川敷には広大な洲が発達している。「間々田」地名由来として、「埼玉の神社」では、崖を示す『マフチ』に由来すると説明している。
 また「くまやく健康だより 第
47号」で「妻沼の地名」由来を紹介され、そこに「間々田」は、地形変化の多い場所を意味する方言の「まま」という意味の他、利根川の洪水被害を受けると、各所に間を空けて田畑が再び造られたことを意味するともいう。どちらにしても、利根川という大河川の影響を受けていて、地名の由来も河川による浸食等で出来た地形を表現している事には変わらないようだ。

「新編武蔵風土記稿」幡羅郡の間々田村の項には「間々田村は原郷と唱ふ、庄領の名。民戸九十八、東西十八丁余、南北十五丁、東は出来島村、南は太田村、西は上野国新田郡前小屋村、北は利根川を隔て、同国同郡堀口村なり。」と書かれていて、間々田地域も、前項「出来島」地域同様利根川によって南北を分断されている地域である。
        
             
・所在地 埼玉県熊谷市間々田248
             
・ご祭神 大日孁貴命 豊受姫命 素戔嗚命
             
・社 格 旧村社
             
・例 祭 初午 2の午、99日 祈年祭 218日 例祭 418
                  
新嘗祭 1125
 間々田稲荷神社は妻沼台白山神社鎮守男沼神明宮の西側、出来島伊奈利神社の南方にあり、周囲一帯田畑風景が続く中に、南北200m程、東西130m程の狭い空間の中、社を中心として集落が形成されている。正に「鎮守様」といった趣がこの社には感じる。
 途中までの経路は鎮守男沼神明宮を参照。埼玉県道・群馬県道276号新堀尾島線から「熊谷市消防団男沼分団」が右側斜向かいに見える十字路を左折して、道なりに西行する。辺り一帯の田畑風景を眺めながらも、やや正面に見える集落を目指すと、昔ながらの防風林に囲まれた住居が立ち並ぶ中、正面に間々田稲荷神社の鳥居が見えてくる。
 社に隣接した左側には間々田コミュニティセンターがあるので、そちらの前に駐車してから、参拝を行った。
             
   社の西方向で、埼玉県道・群馬県道276号新堀尾島線沿いには社号標柱が立っている。
         写真では道路の遥か先に間々田稲荷神社の社叢林がみえる。
        
                                      稲荷神社正面
 一の鳥居は石製の明神鳥居、すぐ先に続く二の鳥居は朱を基調とした同系鳥居で、白と赤のコントラストは見た目も美しい。
 社の境内にも言えることだが、正面付近の手入れも行き届いていて、ゴミ一つない。周面住民の方々の日々の努力には頭が下がる思いがする。
        
                                      境内の様子
     高台の上に社殿は鎮座。古墳、又は塚の可能性もあるというが、詳細は不明。
       
            拝殿に通じる石段の手前で、右側にある巨木。
            この社周辺にはこのような巨木・老木が多い。        
        
                                         拝 殿
 間々田稲荷神社の例祭である初午には、神社境内にて万作踊りが奉納されていた。江戸時代末期から明治・対象・昭和と長年に亘り、この地域内行事として万人に親しまれてきたという。この万作踊りは、大東亜戦争時の昭和15年から平成元年まで中断されていたが、平成2年に復元し、同年熊谷市指定文化財に指定され、現在は地域で継承されている。

「間々田万作おどり」 熊谷市指定無形民俗文化財
・所在地 間々田
・所有者(管理者) 間々田万作おどり保存会
妻沼地域の間々田にある伊奈利(いなり)神社の祭礼(初午(はつうま))の当日、神事の後の奉納行事として踊られます。利根川の水運にも恵まれ、養蚕や米麦などの豊な生産地であった間々田では、五穀豊穣(ごこくほうじょう)への祈りと、収穫の感謝を込めて、万作踊りが継承されています。
江戸時代から始まった踊りも、戦後において一度途絶えたことがありましたが、保存会によって復活し、今に至っています。
太鼓や四()つ竹(だけ)を用いての「手踊(ておど)り」や「手拭(てぬぐ)い踊り」は、老若男女を問わず地元の人々に親しまれています。
・指定年月日 平成241
                                                 「埼玉県県民生活部文化振興課HP
」より引用
 
 参道を中心にして、左右共に高台の斜面上に立ち並ぶ幾多の霊神の石碑の数々(写真左・右)。参道に対して左側斜面上には「合祀碑」もある(写真左、中央部)。
 石碑の中には「豊斟渟尊・国常立尊・国狭槌尊」等彫られている神様もあり、おそらくこの斜面は御嶽塚も兼ねていると思われる。
 
  社殿のある高台の左手には境内社が鎮座している。高台下で、左隣に鎮座する「蚕影神社」(写真左)。蚕影神社の左側並びに長屋風に鎮座する「神輿庫」「湯殿神社」「秋葉神社」「八坂神社」(同右)。

「大里郡神社誌」には境内社・蚕影神社に関して「境内末社 蚕影神社は天棚機比咩を祀れり又御名は天萬拷幡比賣命は天祖大日孁貴尊の神勅を遵奉して天の神機殿に奉仕られ機業祖神の一柱に坐し」と記載されていて、実際近年まで養蚕が氏子の主要な収入源であったことから、養蚕の無事を願う氏子の気持ちに切実なものがあり、折節に祈願が行なわれていたという。
        
           鳥居を過ぎて左側には猿田彦大神の石祠、奉納庫、詳細不明な石祠あり。       
        
                                 境内の一風景

「大里郡神社誌」によると間々田稲荷神社に関して以下の記載がある。

「明治五年九月入間縣に於て村社に列せられたりき、その鎮座の御代年月は傳へなければ詳かならざるも令義解和名妙武蔵風土記稿にも伝へるが如く幡羅郡或いは原郷に作りて間々田は長井庄に属して古来よりの名地なりけり古より同村小字伊勢といへる所に神明の鎮座ましまして大日孁貴尊を齋奉り小字伊奈利臺に豊受姫命を祀奉りき、こは神風の伊勢国内外の神宮の大神等を齋奉りて往古此地を開拓せしとなむまた月読神社と同神なる小字天神坪鎮座ましまし素戔嗚命をも合祀りし御社にして地名も幡羅郡永井の庄なるからに間々田と命名せしものならむ間々田は甘味田にて瑞穂の国の八束穂の稲また麦豆の熟廣成れるを壽詞し嘉名けらし(中略)
 此間々田の伊勢内外の神にはいとふかき所縁ある神社にて妻沼の神社と共に古社なること論なかるべし(以下略)」


参考資料「新編武蔵風土記稿」「大里郡神社誌」「埼玉県県民生活部文化振興課HP」
    「くまやく健康だより 第47号」等 

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