古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

下小鹿野小鹿神社

 小鹿野町には町名「小鹿」を冠した社が二社比較的近距離に鎮座している。一社は小鹿野地域に鎮座する旧郷社・小鹿神社で、こちらは格式の高さもあり町を代表する社で、オートバイの安全祈願を行っている全国でも珍しい社である
 もう一社は小鹿野地域の西側に接している下小鹿野地域に鎮座する小鹿神社である。この社は「紫陽花神社」と表記したほうがより有名な社のようで、社の近辺でアジサイの植樹活動している地元有志のみなさんの日々の努力で、町のHPにも7月の第1日曜日に開催される「あじさい祭り」が掲載されている。
 余談ではあるが、この「あじさい祭り」には歌舞伎も奉納されるようだが、その役者の中には現小鹿野町町長も参加されていて、なんでもこの町長は約25年の役者歴がある方だそうだ。
 小鹿野歌舞伎は、1975年には埼玉県無形民俗文化財の指定を受けている。
        
             
・所在地 埼玉県秩父郡小鹿野町下小鹿野1302
             
・ご祭神 諏訪尊(推定)
             
・社 格 旧下小鹿野村泉田鎮守・旧村社
             
・例祭等 春祭り 43日 秋祭り 1010
                  
*どちらも祭典日に近い日曜日
 小鹿野町・小鹿神社の大鳥居がある場所から国道299号線を3㎞程東行すると、国道沿いで進行方向左手に木製の鳥居と「小鹿神社」と表記された社号標柱が見えてくる。
 社の周囲が「あじさい公園」となっていて、近郊には専用駐車場があるようなのだが、今回は正面鳥居の東側200m程先にあるコンビニエンスストアがあるので、そこの駐車スペースをお借りしてから参拝を開始した。
        
             国道沿いに鎮座する下小鹿野小鹿神社
『日本歴史地名大系』には「下小鹿野村」の解説があり、「赤平川の左岸、上小鹿野村の東に位置する。同村からの往還が地内泉田で分岐し、一方は赤平川に沿い北の下吉田村(現吉田町)に、もう一方は赤平川を越え対岸の長留村に向かう。古くは上小鹿野村と一村で小鹿野村・小鹿野郷などと称していたが、元禄郷帳作成時までに分村したという。元禄郷帳に下小鹿野村が載り、高七九六石余。国立史料館本元禄郷帳では幕府領。ほかに当地鳳林寺領(高五石)があった。明和二年(一七六五)旗本松平領となり、以後同領で幕末に至る(「風土記稿」「郡村誌」「寛政重修諸家譜」など)。「風土記稿」によれば家数二九八、農間に男は山稼をしたり、女は養蚕や絹・木綿織などを行っていた」との記載がある。
 
   参道入口の右側に安政6年に建てられた      「安積良斎の小鹿野碑」案内板 
    「安積良斎の小鹿野碑」が立っている。
 小鹿野町指定史跡(昭和三十七年九月二十日指定)
 安積艮斎(あさかごんさい)の小鹿野碑
 両神山は、秩父を代表とする名峰として古くから親しまれ、人々の長く尊い信仰の歴史を伝える山です。山頂部には鋸(のこぎり)の歯のような険しい姿を見せますが、周囲の山々を従えて四季折々に美しい山容を見せる様は、地域の象徴的なものといえます。標高は一七二三m、一帯は秩父多摩甲斐国立公園として指定を受けています。両神山は古くは「八日見山(ようかみやま)」といわれ、その由来を伝える碑が下小鹿野の小鹿神社参道入口にある「安積艮斎の小鹿野碑」です。巨香郷と呼ばれた小鹿野・両神地域の美しい伝説を伝える石碑として知られ、
 「日本武尊神詠 つくばねをはるかへだててやふかみし つまこひかぬるをしかのの原(筑波嶺を遙か隔てて八日見し妻恋いかぬる小鹿野の原)
 と刻まれ、裏面に碑を建てた由来が漢文で記されています。これによると、安政6年(一八五九)下小鹿野村の森為美が日本武尊神詠の由来を伝えるため、安積艮斎に撰文を依頼し、碑を建てたものといいます。同じ歌を刻んだ碑は河原沢の龍頭神社境内にも建てられています。
 秩父地方には日本武尊に関する伝説が多く残されています。日本武尊は伝説上の人物で、景行天皇の命で東国の征伐におもむき、戦勝祈願のため常陸国筑波山に登りました。その折、西の方角に剣の形をした秀でた山が見え、この山を八日間眺めながら西へ向かい、秩父へたどりついたということから両神山は八日見山と名付けられたといいます。また、日本武尊が秩父に入る途中、道に迷った折、どこからか神鹿があらわれて一行の先頭に立って導いた後、小鹿野に至って精魂尽きて倒れたのでこれを哀れんで塚を作ったのが「小鹿塚」であるといいます。
 さて、碑の書と撰文を記した安積艮斎(一七九一〜一八六〇)は、江戸時代後期の儒学者で、岩代郡山安積(福島県郡山市)の出身で、佐藤一斎・林述斎に学び、詩文に長じ多くの著書を残しています。江戸幕府が江戸湯島に開いた官立の学問所「昌平黌」の教官になり、多くの門人を育てました。私財を投じて碑を建てた森為美は熱心な安積艮斎の門人で、当代一流の学者である安積艮斎に撰文を依頼し、永く後世に伝えようとしたものです。書は、幕府に仕える川上由之によるものです。当時名声の高い儒学者の撰文とともに、美しい小鹿野の伝説を伝える碑として広く親しまれています。
 昭和十七年三月三十一日に埼玉県史蹟として指定されましたが、現在は小鹿野町指定史跡となっています。幅六七㎝、高さ一二二㎝。
令和三年三月三日 小鹿野町教育委員会
                                      案内板より引用

        
    周囲が長閑な田畑風景の中、真っ直ぐに伸びる参道の先に社殿が見えてくる。

 安積安積艮斎の小鹿野碑に載っている「小鹿塚」とは、下小鹿野小鹿神社から南東方向で直線距離にして600m程の場所にあり、同じ下小鹿野地域内にある「小鹿塚古墳」で、小鹿原古墳群を構成する1基といわれている。
 古くから日本武尊の伝説を顕彰する聖地として親しまれていて、昭和29年(1954)には秩父宮の染筆による「小鹿野碑」が建立され庭園として整備され、その際に大刀が出土している。また嘗て墳丘西側の畑から平板石が大量に掘り出され、大刀が出土したとの記録がある。小鹿野の歴史の深さを物語り、町民の誇りとする美しい場所でもあるという。
 小鹿塚古墳が前方後円墳であるか否かについては、現状では公園化され不明であるが、1994(平成6)1221日付けで町指定史跡に指定されている。
 
 境内に入る手前にあるあじさい公園のマップ     マップの近くにある「黒澤の池」
        
                                       拝 殿
 小鹿神社   埼玉県秩父郡小鹿野町下小鹿野一三〇二(下小鹿野字春日山)
 天正十八年、東から前田利家、南から上杉景勝、西から本多忠勝、更に対岸の寄居から真田昌幸らの大軍に包囲された鉢形城は、籠城1ヵ月を経てついに落城し、多くの武士たちは散り〃に落ち延びていった。
 この落ち武者の一人に、当地の泉田耕地に住んでいた「小菅(こすげ)」氏がいる。小菅氏は、敗戦後土着し、氏神としてここに諏訪神社(当社)を祀った。この小菅氏の子孫は、「お諏訪氏子」と称する小菅一家で、先祖の徳を偲びつつ祭りを行っていた。
 当社について『風土記稿』は、「諏訪社 祭神諏訪尊、例祭二月二七日、七月二七日、小名泉田の鎮守なり、同配下、泉蔵院持」と載せている。なお、文中の「同配下」というのは、入間郡越生郷にあった本山派修験山本坊配下を示す。
 明治に入り、神仏分離により当社は泉蔵院から離れ、明治六年に村社となり、社名も小鹿(おじか)神社と改められた。次いで同四十一年には、小鹿原(おかはら)の八幡社・豊受社、金園の山の神社、春日山の豊受社・春日社・高良社、西宿後の山の神社、同天山の十二天社を、大正二年には黄金平の琴平社、東宿後の納蔵社を合祀した。また、大正九年には、神饌幣帛料供進神社に指定され、境内整備を進められた。しかし、終戦を機に、各耕地持ちの合祀社は次々と旧地に戻され、統合された氏子も離れてしまった。
                                                                    「埼玉の神社」より引用

        
                        社殿右側並びに鎮座する境内社・諏訪社
 当社は、明治期に社名を変更し、下小鹿野にある各耕地の社を合祀して村社となったが、終戦を機に社格も廃され、合祀された社も戻っていった。しかし、当社は元来お諏訪氏子と称する一族が氏神として祀っていた社であるが、所謂「一村一社制」によって形式的に村社にされたことを考えると、今日の姿が本来に近いともいえる。
 年間の祭事は、春祭りが四月三日、秋祭りが一〇月一〇日と定められていたが、昭和五五年からは氏子の都合により、祭典日に近い日曜日が祭日とされている。
 春祭りには、氏子から赤飯や煮しめを重箱に入れて持ち寄り、赤飯は、作物が良く実ることを祈って柏の葉に盛って神前に供えられる。付け祭りは村社であったころは盛んで、境内に麦藁屋根の立派な歌舞伎舞台を掛け、長若の大和座などを頼んで歌舞伎を行っていた。お日待(おひまち)と呼ばれる直会は、社務所で行われ、二十人鍋と称する大きな鍋を掛けて、煙い思いをしながらまぜ飯を作った。一人宛三合の米を集めるが、以前は、すぐに食い帰ってしまい、三合では足らない程であったという。こうした、本来のお諏訪氏子の祭りの名残を留めたお日待も、昭和五〇年を最後に行われなくなった。なお、秋祭りにもお日待が行われた。
 
 社殿の左側から斜面を登るルートがあり「名石参道」という立札が設置されていた(写真左)。暫く道なりに進むと縄で巻かれ、注連縄で祀られている「カメ石 オカメ石」と表記されている石も置かれていた(同右)。不思議な空間である。
        
                社殿から参道方向を望む。
 当社が鎮座する泉田地区には、上・下に分かれており、上にはお諏訪氏子の祀る当社が、下には高橋一家で祀る高良社が鎮座している。当地区の夏祭りは、七月二〇日に行われ、祭りの日になると氏子は「お祇園」と称して当社の社務所に祭壇を設け、これにキュウリを供えて無病息災を祈る。また、以前は神興を担いで各耕地を回って厄を祓い、最後は赤平川の中に入る「お川瀬行事」も行われていた。
 なお、その祭場は赤平川から一〇〇メートル上流の所であったという。
        
             一の鳥居の延長線上に聳える武甲山



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」等
 

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飯田八幡神社

 小鹿野町の飯田八幡神社で開催される「鉄砲まつり」(県指定無形民俗文化財)は、江戸時代から秩父地方で数々行われる祭りの締めくくりの祭りともいわれ、地域の人々に親しまれてきた祭りである。
「鉄砲まつり」の始まりは200年以上前の江戸時代に遡ると言われている。当時、畑を荒らす鹿や猪に困っていた人々がそれらの獣を追い払う豊猟祈願として始めたという説や、猟師の試し撃ちが起こりとの説など、その起源には様々な言い伝えがある。
 1日目の宵宮(よみや)では、八幡神社への「若衆の宮参り」、笠鉾や屋台の曳き廻しが行われ、町の郷土芸能である、小鹿野歌舞伎も上演される。
 祭りの本番である2日目には、街を練り歩く大名行列や境内で奉納される神楽が見られる。夕方になると、メインの「お立ち」という、参道の両脇から火縄銃と猟銃の空砲が発せられる中、二頭の御神馬(ごじんば)が社殿への石段を一気に駆け上がるという名場面を見ることができる。
 因みに2日目に行われる「大名行列」は、元文年間(1740頃)上飯田領主の旗本古田大膳が行列を仕立てて参拝したのが起源とされている。
 その後も御輿渡御・川瀬神事が執り行われ、夜には歌舞伎の奉納、花火の打ち上げも行われ、秩父地方で開かれる一年間の祭りは幕を閉じる。
 このお祭りを一目見ようと例年、県内外から多くの参観者が訪れるという。
        
             
・所在地 埼玉県秩父郡小鹿野町飯田2756
             
・ご祭神 応神天皇
             
・社 格 旧上飯田村鎮守・旧村社
             
・例祭等 祈年祭 315日 大祓 731日 新嘗祭 1123
                  
例大祭(鉄砲祭) 12月第2土・日曜日
  
地図 https://www.google.com/maps/@36.0286479,138.9648692,16.25z?hl=ja&entry=ttu
 小鹿野町・小鹿神社の大鳥居がある場所から国道299号線を3㎞程西行すると、進行方向右手に社の社号標柱がみえ、そこを右折すると、飯田八幡神社の石製の鳥居が見えてくる。
 概略としての国道299号線について、一般国道の路線を指定する政令に基づく起点は長野県茅野市であり、群馬県多野郡上野村、埼玉県秩父市を経由し、入間市が終点となる総延長 204.6 kmの国道である。しかし小鹿野町にとってこの国道は、地形的に見ても町の主要部を縦断している。またこの国道から何本もの県道や町道が枝分かれしていて、いわば町の大動脈的な役割があり、町民にとっても生活するための欠かせない重要な幹線道路となっている。
        
                県道沿いに立つ社号標柱
『日本歴史地名大系』 「上飯田村」の解説
 赤平川流域に位置し、北は中飯田村、東から南にかけて山の峰を境に薄村(現両神村)、西は三山村。中飯田村からの往還が村の中央を通り三山村に向かう。元文五年(一七四〇)飯田村が上・中・下の三ヵ村に分村して成立したという(「風土記稿」「郡村誌」など)。同年、当村は旗本古田領となり、同領で幕末に至ったと考えられる(「風土記稿」「郡村誌」「寛政重修諸家譜」など)。「風土記稿」によれば家数六三、農間稼には男は山稼、女が養蚕や絹織を行い、産物には絹・煙草・大豆などがあった。
          
                            
飯田八幡神社 石製の大鳥居
 
  長閑な西秩父の風景を愛でながら200m程の     参道途中からやや上り斜面となり、
   長い参道を進むと社に行きつく。       進行方向右手に社務所が見えてくる。
『新編武蔵風土記稿 上飯田村』
上飯田村は、郡の中央より少し西北に寄れり、矢畑庄三山鄕に屬す、上中下飯田村は元一村なり、正保元祿の國圖にも一村に見へ、御入國より御料所にて正保の頃は伊奈半十郎支配し、慶安五年伊奈半左衛門檢地して貢を定む、夫より御代官遷替ありて、元文五年飯田村を上中下の三村に割て、上飯田村を吉田大膳采邑に賜ひ、中飯田村及び下飯田村の半を割て、深津彌七郎采邑に賜ひ、其半は元の如く御料所なりしが、明和二年松平因幡守采地に賜はり、今は上中下飯田の三村皆私領所となり、上飯田村は吉田大膳が子孫、吉田平三郎今も知行せり、元文五年の分鄕なれば、上中
の二村は民戸及び田畠駁雜せり、下飯田村は一村に區別せり、江戸日本橋を距ること中山道通り三十里、川越通り二十八里の行程なり、四比東より南に廻り、山を界として薄村に隣り、西は三山村に續き、北は中飯田村に接す、東西凡十町、南北七町許、民戸六十三、多くは北の方川根に因て所々に散住す、陸田多く、水田は陸田に比すれば、十が一なり山林尤多し、土症は東南の方は石交りの眞土、西北は黒眞土なり、地形西の方高く、東の方へ漸下し、南北に山々連れり、農の隙に男は山稼、女は蠶を養ひ絹織ることを業とす、土産には絹・煙草・大豆等なり、村内に一の街道係れり、北の方中飯田村より來り、凡十町許をへて西の方三山村に達す、道幅凡六尺、此道上州山中領にかゝり、信州への往來なり、村の西の方三山村界に、上中下飯田村三村の入會秣場あり、
        
                境内に入る手前にある石段
 飯田八幡神社が鎮座する飯田地域は、荒川水系赤平川の支流である河原沢に沿って位置し、その地名については『秩父志』に「八幡社、神饌田(しんせいでん)有之称」とある。
 この地域は、地形上、川が集落の下方を流れているため、『郡村誌』に「水利不便時々旱(ひでり)に苦しむ」とあるように、水利の整備がされるまでは干損の地であった。この為古くから雨乞いが盛んにおこなわれていたようだ。
「埼玉の神社」にはその経緯が記されてあって、雨乞いに当たっては、まず「お水借り」といい、武甲山か両神山に竹筒を持参し、水を受けに来る。これは夜中に行われ、若衆が三班に分かれ、一番手・二番手と中継地点を定めてリレー方式で水を運ぶものである。
 若衆が村に着くと、この水を八幡社の本来の社地であった「八幡淵」に注ぎ、藁で作った竜を入れ「アーメダンベエ、リュウゴーナー、アノクロクモヲコッチニヒキヨセロ」と叫び、鉦で囃し立てたという。
        
                     拝 殿
 当社は『新編武蔵風土記稿 上飯田村』の項に「八幡社 例祭二月・十一月十五日、村中の鎭守 神職近藤紀守吉田家の配下なり」とあり、『郡村志』には「八幡社、村社々地東北廿間南北十五間面積三百坪村の西にあり応神天皇を祭る、祭日一月十一日十五日」とある。
 創建を伝える社蔵文書としては、文化十三年に神主近藤紀守が差し出した『八幡宮由来並官職覚』があり、その中に次の文が見られる。
「大同年中播磨国より御鎮座有之と申伝謂三山郷半平村休石有之其村当社之氏子夫より一里程下村に休石有之其所に七軒当社の氏子夫より村内百姓万之助地内休石有之此所より当社江御鎮座毎年十一月十五日川瀬江鎮座之神事有之右万之助地内石に上下御休有之神轡伝母之犠者住 昔より播磨国より御供之氏子当村に七軒有之此者供其謂を以家名を播磨と申来り云々」
 
拝殿正面上部には細やかな彫刻が施されている。 側面部上部にはまだ彩色も残り、奉納された
                            額等も飾られている。

 一方、当社「鉄砲祭」の鍵取を務めている播磨家本家の播磨義男は、その私記である『昭和四六年 我が家の言ひ傳へと八幡様のお祭り』の中で、「吾祖先は平家の落人で、修験者となり、信州路・上州路と安住の地を求めて流浪し、やがて主従は当地に落ち着いた。氏神八幡神社は平氏の信仰した神で、落人となり神体を笈に入れ、「懺悔 懺悔」と唱えつつ旅したという」と、その創始を伝えている。
 大同年中(806年〜810)と平家の滅亡した文治元年(1185)とでは四百年近い隔たりがあるが、それは平安前期に勧請されたものに、平家落人伝説が付会したものであろうか、または大同年中がまったくの作為なのであろう。
        
                 重厚感のある神楽殿
           例大祭等では、歌舞伎が奉納されるのであろう。

 当地に着いた八幡神は人目を恐れて八幡淵の岩屋に密かに安置され、一族で祭祀を行って来た。その後風風雨の為、その岩屋が崩れたのを機に現在地に近い所に移し、更に月日が流れ、周囲の人も不審に思わなくなったので、天狗様の境内に社を移したものが現在の社殿である。
 この時、神社の傍らに「サフリト」と称し、代々神に仕える家があったので祭礼を依頼した。これが現在の「近藤宮司家」の祖先であるという。   
 神体については、戦後まで鍵取りであった播磨家に拝むと目が潰れるという言葉が残り、やむを得ず拝む時は片目を閉じるという。また明治期に御神体がどこかに飛んでしまったという話が伝わり、改めた時に御神体は尺二寸ほどの立像であったともいわれている。
        
             社殿の奥にある「神興庫」と「神札授与所」
        
                     社殿の右手奥に祀られている境内社・合祀社
 左より「住吉神社」「琴平神社」「正一位稲荷神社」「諏訪神社」「高根神社」「稲荷神社」。
       
           合祀社の右側に聳え立つ御神木の大杉(写真左・右)
 社殿に向かって右側に、注連縄のついた御神木である大杉が見える。樹齢は1,300年と伝えている。幹の中央部には、大きな焼け跡ある空洞が見える。昭和19813日の落雷により、中央部は裂けてしまい、幹下部は洞となったようだ。
 以来この813日を神木祭りとして祀っているとの事だ。
        
                              社殿からの一風景



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等

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長留羽黒神社(宗吾神社)

   佐倉惣五郎(さくらそうごろう)は、江戸前期の下総(しもうさ)佐倉藩領下の義民。木内惣五郎,宗吾とも。彼の事跡を伝える史料は《地蔵堂通夜物語》(実録物)等すべて江戸後期のものであるが,それらによると,藩主堀田正信の重税に耐えかねて佐倉領200ヵ村の村民が郡奉行所・国家老に税の軽減を訴えたが拒否され,ついに惣五郎は将軍へ直訴に及んだため子供4人と共に死刑に処せられたという。
 惣五郎非実在説もあるが,名主を務めたという公津(こうづ)村(現在の千葉県成田市)の名寄帳に惣五郎という高持百姓がいたこと,
1660年に正信が改易されていることなどから事実であった可能性は高い。なお,惣五郎を題材としたものに歌舞伎《東山桜荘子(さくらそうし)》(3世瀬川如皐(じょこう)作,1851年初演),講談《佐倉義民伝》がある。
 小鹿野町・長留地域には、佐倉惣五郎(宗吾)を羽黒神と共に主祭神として祀る社があり、通称「宗吾神社」ともいう。今でも宗吾への信仰心が中心となっていて、参拝時も「南無宗吾様」と唱えて祈願する人が多いという。
        
             
・所在地 埼玉県秩父郡小鹿野町長留3537
              ・ご祭神 羽黒大神 諏訪大神 宗吾大明神
              ・社 格 長留中郷鎮守
              ・例祭等 春祭り 428日 例大祭 10月体育の日(長留の獅子舞)
 日本武神社から埼玉県道209号小鹿野影森停車場線を2㎞程南下し、「蕨平」交差点を直進する。「Wikipedia」によると、「長若」交差点から「蕨平」交差点までは埼玉県道43号皆野荒川線との重複区間であるようだ。「蕨平」交差点からは県道43号線となり、南西方向に800m程進むと右手に立派な藁葺屋根の歌舞伎舞台が見え、その手前にどっしりとした長留羽黒神社の木製の鳥居が立っている。長留羽黒神社はその北側に伸びる参道の先で、山の中腹に鎮座している。
        
                   長留羽黒神社正面
 
  鳥居の左側にある藁葺屋根の歌舞伎舞台      町指定文化財の標柱
 小鹿野町・長留地域は、『新編武蔵風土記稿』に「土地西南東の三方は山ありて、北は自然と卑き村なり、土症は眞土多く又砂交りありて、野土は十が一ありと云ふ、水田は僅かにして陸田多し、山林は田畠にひとし、當村は南に山ありて除地の村なれば、雨多き年は作りものみのり惡く、又旱りする時は砂地の邊は痛み易しと云、又猪・鹿多くして耕地を荒すとなり」と記されているような土地であったため、氏子の困窮も並大抵ではなく、苦しい年がしばしばあった。農民の救済者であった佐倉宗吾郎に厚い信仰心が寄せられた背景には、このような事情も大きくかかわっていたと思われる。
 因みに氏子数は、氏子区域長留仲組の世帯数が明治末年40戸あったが、その後過疎化が進み、現在では30戸余りに減少している。また全戸は農家で、現在養蚕・椎茸・しめじ栽培が中心である。
 
鳥居上部には「諏訪・羽黒・
宗吾」と並列する   この石柱から長い参道が山の中腹まで続く
     社号額が掲げられている。          とは、当初は考えもしなかった。
       
            参道手前に設置されている文化財の案内板
・町指定有形民俗文化財 羽黒神社(宗吾神社)の舞殿 平成21126日指定
 長留仲組の鎮守、羽黒神社は、一般に宗吾様と親しまれています。これは、幕末に下総の宗吾霊堂(義民・佐倉宗吾郎を祀る)から勧請し、占いがよく当たることで近隣に知られた宗吾大明神を合祀しているためです。仲組はもと蕨平の羽黒神社の氏子でしたが、慶応年間(186568)に獅子舞をめぐって争いが起こり、羽黒大神、諏訪大神を分祀し、宗吾大明神とともに3神を祀りました。それ以来仲組が獅子舞を継承し、参道中腹に舞殿を建造しました。建造年代は、明治初期と推定され、大正4年山崩れのため現在地に移転改築されました。
 舞殿は、寄棟造・藁葺きの平屋の建物で、問口9.13m、奥行5.52m、棟の高さ7.57mを測り、南側に土間と八畳間の控えを付設しています。二重舞台の回転装置は、昭和3年に設けられました。歌舞伎上演時には花道が付き、舞台両側に桟敷席、前面には露よけの張り出し屋根と花が飾られました。4月と10月に年2回祭りが行われており、舞殿ではかつては、春は歌舞伎や映画上映、秋には獅子舞が行われたほか集会にも利用されました。現在は体育の日に獅子舞が、奉納されます。秩父地方には、二十数棟の歌舞伎舞台が残っていますが、藁葺きのものは数少なく貴重な建造物です。
・町指定有形民俗文化財 羽黒神社(宗吾神社)の笠鉾 平成21126
日指定
 この笠鉾は、明治初年に大宮郷中村(現秩父市)の宮大工、久番匠(長留神の原出身)が建造したものです。当時秩父から長尾根峠を人の肩で運んだと伝えられています。4個の車輪は松材で、ひび割れを防ぐため池に浸して保存し、4月の春祭りでは、氏子の地域内を曳行していました。明治41年、長若小学校建設に際して土台部分を資材運搬に使用したところ、車輪が破損し、曳航が中断しました。昭和22年に車輪が復元され、春祭りに組み立てた後、翌年盆踊りの櫓として使われて以来、舞殿に保管されています。その後は、昭和63年に飾り置きされています。
 笠鉾の反り木の長さは約3.5m、正面の幅1.45m、高さは約12mを測ります。勾欄下の腰支輪の彫刻は波に菊、登り勾欄下は波に亀・鯉でいずれも極彩色がよく残り、正面の4段の登り勾欄や勾欄は白木造りとなっています。笠に付く花は、上笠が48本、中笠が68本、下笠が78本で、各粒に緋羅紗の水引幕を付けます。その上に方燈、波形のせき台、天道が立ちます。笠鉾で建造当初の三層を残すものは少なく、保存状態も良好で貴重なものといえます。
町指定無形民俗文化財 長留の獅子舞 昭和35121
日指定
 この獅子舞は、毎年10月体育の日の羽黒神社の祭りに奉納されています。起源については、数百年前ササラ三平という人物が当地で教えたとの伝説が残され、嘉永4(1851)の記録には、数代前から獅子舞が行われていたと記されています。獅子は、先獅子、中獅子、後獅子の3頭で、花笠を男性2人がつとめ、他に道化、増え、大太鼓、小太鼓、万燈持ちで構成されます。
 祭り当日早朝、氏子区域内の詞や堂など6か所を順番に回って獅子舞を奉納する宮参りが行われます。この時、祠では、幣掛、堂では花掛を舞います。その後、山の中腹にある神社拝殿で幣掛の舞を奉納します。午後は、舞殿で座敷廻り、岡崎、骨っ返し、毬掛、太刀掛、竿掛、牝獅子隠し、曽状、平簓の9庭を舞います。獅子の衣装は、襦袢に袴を付けますが、拝殿では足袋、舞殿では裸足で舞います。獅子の優雅な舞いぶりから御殿ササラともいわれています。
 長留仲組では地域をあげて獅子舞の保存伝承に取り組み、年1回の祭りのほか、町内外での催し物等で上演しています。
平成133月 小鹿野町教育委員会
                                      案内板より引用
        
         参道も当初は民家もあり、緩やかな緩やかな上り坂を進む。
       
          手作業と思われる石段が注連縄     一対の柱付近から丸太材の階段が
           の先まである。                    暫く続く。
        
            斜面は長い階段が続く。さすがに山岳修験の羽黒神社。
           はっきりと分かる踊り場があるわけでもなく、自らの体力を計算しながら、
                    途中休憩を挟まないとさすがに筆者の体力が続かない。
        
                    拝 殿
 羽黒神社 小鹿野町長留三五三七(長留字皆谷)
 当社の鎮座地である長留は、荒川水系の上流部の長留川に沿って集落が点在する山村である。当社はこの長留の一耕地である仲組の中腹に奉斎され、伊氐波神(いではのかみ)・建御名方神・宗吾霊神(木内宗吾郎。俗に佐倉宗吾郎という)の三柱を祀っている。
 当社は、幕末に当所の住人の倉林森造が、下総国佐倉から宗吾霊神を勧請したことに始まる。森造はこの神を邸内に祀り、占いを行っていたが、これが実によく的中した。そこで、この神の霊験あらたかなることを感じた仲組の人々は森造と話し合い、宗吾霊神を仲組の鎮守として譲り受け、竜神山中腹に境内を定め、仲組全体でこれを祀ることとなった。慶応元年のことである。更に慶応三年には、久那平仁田の宮大工による社殿も落成し、宗吾神社として広く信仰を集めるところとなった。
 一方、仲組の人々は、蕨平(わらびたいら)・上ノ原の両耕地の人々とともに蕨平鎮座の羽黒神社の氏子として同社の獅子舞を奉納してきたが、慶応年間にはその継承権を巡って紛争が起き、その結果、仲組は同社の氏子を離れると同時に、羽黒神社及び、その境内社であった諏訪神社を分祀し、宗吾神社とともに祀ることになった。この際、神格が高いという理由から、明治二年に羽黒神社と改称し、現在に至っている。
                                  「埼玉の神社」より引用

        
           社殿左側にポツンと鎮座する境内社。詳細不明。
 明治2年に社号が羽黒神社に改められても、宗吾霊神への信仰心が中心となっているため、通称は「宗吾様」であり、参拝時も「南無宗吾様」と唱えて祈願する人が多い。講組織はないが、多くの崇敬者を持ち、「長留の宗吾様」として、西秩父方面では広く知られている。
 そのためか、多くの地図にも羽黒神社ではなく、「宗吾神社」と表記されている。
 氏子、崇敬者の間では、「宗吾様が困っている農民の為に働いて死んだ立派な人だ」といわれ、様々な願いが掛けられている。今でも拝殿内には願い事が書かれた絵馬や願果たしに奉納された旗が多数みられるという。
        
                社殿から眼下の参道を望む。



 ところで、長留地域には「羽黒神社」がもう一社近くに鎮座している。「埼玉の神社」にもこの社に関しての説明はされていないので、詳細は全く不明。
        
             所在地 埼玉県秩父郡小鹿野町長留3056
             御祭神 羽黒権現(推定)
             社格・例祭等 不明
                          *参拝日 2024年7月5日
 
  鳥居の先の山の斜面入口からのスタート     なかなか野性味あふれる登り階段
        
 斜面を登りきると平坦な場所が広がり、真新しい拝殿が横を向くような形で鎮座している。
 社の創建等は不明ながら『新編武蔵風土記稿 長留村』には、この社に関しての記述がほんのりと記されている。
新編武蔵風土記稿 長留村』
 諏訪兩社合殿 例祭七月廿七日、中鄕の鎭神なり、神職吉田家の配下、宮澤左門斎藤淡路、
 羽黒社 宮澤左門が持、
 羽黒社 例祭八月十五日、村民持、祀官斎藤淡路、
 上段二社は通称「宗吾神社」と呼ばれている羽黒神社であるのだが、最下段の羽黒社は、当社ではないかと思われる。この二社は近距離に鎮座していて、神職・祀官は「斎藤淡路」という人物が共有しているため、何かしら関連性のある社ではないかと考えられる。
        
                   社殿の東側に祀られている境内社群
 境内社が五社祀られていて、そのうち一番左側の社は狐の置物が多数奉納されている所から、稲荷社ではないかと思われる。また拝殿同様に境内社も改築もされている。よく見ると紙垂が巻かれていて、その巻かれ具合から、つい最近「祭り」の類が行われたと考えられるが、詳細が全く分からないのが残念。
       
                 拝殿の南側で、一段低い場所に鎮座している境内社・二社。
        
                                 社殿からの眺め


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「百科事典マイペディア」
    「Wikipedia」「境内案内板」等

 

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下三沢諏訪神社


        
             
・所在地 埼玉県秩父郡皆野町三沢726
             ・ご祭神 建御名方神 八坂刀賣神 菊理媛命
             ・社 格 旧下郷鎮守
             ・例祭等 建国祭 211日 春祭り 47日 大祓式 630
                  例大祭 107日 新穀感謝祭127
 国道140号彩甲斐街道を長瀞町から南下し、荒川を越えた「道の駅みなの入口」交差点を左折、埼玉県道348号下戦場塩貝戸線、続いて同県道82号長瀞玉淀自然公園線を道なりに3㎞程進むと、進行方向左手にある非常駐車帯の南側隅に、山裾へ通じる石段の入口が見え、そこを登ると下三沢諏訪神社の境内に達することができる
         
                                                          下三沢諏訪神社正面
『新編武蔵風土記稿』によると、三沢村は行政上においては一村ではあっても、実際には「上郷」「中郷」「下郷」に分れ、諏訪神社は下郷に属していた。それ故に名主(里正)も各郷に一名おり、また上郷に牛沢、中郷に宮沢、下郷に茗荷沢と三つの大きな沢があって、このことが村名の由来ともいわれている。
         
                                              入り口付近に設置されている案内板
 諏訪神社 御由緒   皆野町三沢七二六
 ◇雨乞いで人々を救った諏訪の神
 当社の鎮座する三沢の地名が記録上に現れるのは、正平七年(一三五二)のことで、同年二月十六日の足利尊氏袖判下文(安保文書)に「武蔵国秩父郡三沢郷」とある。また、同地の小根からは文保年紀(一三一七~一八)の板碑が発見され、茗荷沢には室町期の竜ヶ谷城址がある。
 社伝によると、創始については、後白河天皇の元仁元年(一二二四)に当地が大干ばつに見舞われた折、信濃国から覚桑法印が訪れ、諏訪明神二柱(建御名方神・八坂刀賣神)を諏訪平の地に勧請して祈雨の祭りを奉仕すると、たちまち験が現れたと伝えられ、以来諏訪明神と号するという。『武蔵風土記稿』には「諏訪社 下郷の鎮守なり、村民持、例祭七月廿七日、小社四十一ヶ所」とあり、また、覚桑法印については地長福寺の項に「開山覚桑寂年を伝へず」と ある。口碑に「江期に当社は諏訪平から今の社地芳ノ入に移った。理由や詳しい年月は不明」とある。
 なお、当社は明治四十五年(一九一二)に中郷の村社瑞穂神社に一度合祀されたが、昭和二十二年(一九四七)に瑞穂神社から分祀を行い、名実ともに旧に復した。
 また、当地には江戸期より獅子舞が伝えられており、寛延三年(一七五〇)にはすでに三沢の獅子舞は「雨乞いざさら」の名で通っていたという。現在でも、秋の例大祭には三沢諏訪神社獅子舞団による獅子舞が奉納されている。(以下略)
                                      
案内板より引用
         
                   参道から境内を望む。
 直ぐ下には県道が通っていながら、斜面を上がった瞬間から異世界に迷い込んだようで、荘厳さすら感じてしまうような雰囲気。参道の先にある境内には玉砂利が敷かれているが、その周りには杉の大木等に覆われていて、邪悪なものが近づこうものなら、忽ち浄化してしまうような神聖性が辺り一帯に漂っているようで、自然と身が引き締まるような心持ちとなる
 
   参道左側に祀られている大黒大神の石碑    石碑の右並びに設置されている社の由来書
 諏訪神社由緒
当社は武蔵国秩父郡三沢郷下三沢の鎮守社なり 信濃国一之宮諏訪大社より勧請し奉れり 御祭神は建御名方神と八坂刀売神の御二柱を奉斎し 菊理媛命を配祀す
 建御名方神は大国主神と沼河比売命の御子神にして事代主神の御弟神なり八坂刀売神は建御名方神の御妃神なり
 当社の御創始は鎌倉時代に遡り後堀河天皇の元仁元年(一二二四年)当地方大旱魃に見舞はれし時 信濃国の人覚桑なる者当地に諏訪の神を祀り雨を祈るや忽ちにして大雨沛然と降り注ぐ 里人歓喜し諏訪の平に社を建て二柱大神を鎮斎し後にこの地に移りしまつりしものと云ふ 爾来祀り来りて尊崇すること七百六十五年 国土開発 農耕生産 風雨水の龍神信仰 開運招福 近くは交通安全の守護神として霊験極めてあらたかにその御加護を蒙りつつ今日に至れり
 ここに御社運の長久を祈り奉りその由緒を記し子孫に伝へ氏子崇敬者の弥栄を祈念し一碑を奉献して神恩に報ひまつらんとするものなり。(以下略)
                                                                          由緒碑文より引用
         
                      拝 殿
  当地には江戸期より獅子舞が伝えられており、慶安2年(1649)に当地に伝えられたといわれる下妻流獅子舞。寛延三年(一七五〇)にはすでに三沢の獅子舞は「雨乞いざさら」の名で通っていたという。現在でも、秋の例大祭には三沢諏訪神社獅子舞団による獅子舞が奉納されている。
  曲目は、弊掛り、割ザサラ、奥ザサラ、花割り、竿掛り、四ツ替り、段づく、四句割り、下妻、瓢箪廻し、四庭寄せである。四句割り、下妻、瓢箪廻しを3役と言い、祭り最高潮の時に舞われ、最終の四庭寄せは、獅子2組、仲立ち2人の合わせて8人で舞う。
 この「下三沢諏訪神社獅子舞」は、昭和5941日町の無形民俗文化財の指定を受けている。
        
         
社殿の手前で県道側に聳え立つ「夫婦杉」のご神木(写真左・右)
  ご神木の前には立札があり、それによると、このご神木は「常若(とこわか)の樹という。
人の世が生まれてこの方、人の世は常に輪廻を繰り返し、常若(とこわか)を保って来た。この世の森羅万象は全て自然の理。境内に摩訶不思議な樹が存在した。これもまた自然の理が与え賜えたもの。
人の命が生まれる営みは今も昔も変わらない。
此の樹は「旺盛なエネルギー」を発散している。
どうかそっと触って見て下さい。あなたの身体に「旺盛なエネルギー」で満たされることでしょう」
                 
         
                   境内の一風景




参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「
皆野町HP」
    
「境内案内板・記念碑文」等

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大淵熊野神社

 皆野町・大淵地域は、その地名が示すように赤平川が落合って大きな淵となっているところに位置しているため、上流から流れて来た材木がここに溜まったものであったという。
赤平川沿いに信州に通じる道と荒川水系の金沢(かねざわ)川沿いに北上して上州へ通じる道の起点で、また荒川の対岸東方皆野村との間には秩父巡礼道の「栗谷瀬(くりやせ)」の渡がある。
『新編武蔵風土記稿 大淵村』
 渡船場 
 荒川の渡なり、是をくりや瀬の渡と云、皆野村への通路にて、札所觀音順體道にて、皆野村持なり、但古来より、午歳の開帳年には、皆野村と當村にて渡す事をなせりと云ふ、

 そのため、大正期までは地内の郷平橋近くに櫓を組んで溜まった樹木を集めて河原に引き上げ、そこから石原駅前(熊谷市)の和吉宅や熊谷駅前の大和屋まで運送屋が馬で運んでいた。なお、橋場の御嶽神社には、古くは荒川の岩上に祀られていたという水神様が合祀されており、この川にかかわる筏士を中心に「筏乗り日待」が行われていたという。
        
             
・所在地 埼玉県秩父郡皆野町大淵82
             
・ご祭神 権現様(速玉之男神 伊弉み尊 事解之男神)
             
・社 挌 旧無格社
             
・例祭等 元旦祭 11日 節分祭 23日 春の大祭 415 
                  
ふせぎ 7月最終土曜日 秋季例大祭 1017日 
                  新嘗祭 
1124
 皆野町国神神社が鎮座する埼玉県道44号秩父児玉線と同37号皆野両神荒川線との交わる信号のある丁字路を南西方向に進行する。450m程進んだ丁字路を右折し、皆野高校や国神小学校を過ぎた先の、一面山森に覆われた寂しい農道を進むと、左側に大淵熊野神社が背を向けたような形で見えてくる。
 本来ならば、上記の丁字路を直進し、県道を200m程先まで進んだそのすぐ右手の道幅の細い路地を直進すれば社の正面に達するのだが、周辺には適当な駐車スペースが見当たらなかった為、社の後ろ側に達するルート説明をした次第である。
 社の北側にある道路脇には、路駐ができる空間があり、また裏側から社殿へと通じる道もあったので、そこの一角に車を停めてから、参道正面まで回り込み、改めて参拝を開始した。
        
                  大淵熊野神社正面 
『日本歴史地名大系』 「大淵村」の解説
 北流する荒川の左岸、東流する赤平川の合流点北方に位置する。北は金崎村、南西は野巻村、南は赤平川を境に小柱(おばしら)村(現秩父市)。
 現東京都青梅市の塩船(しおふね)観音寺蔵の応安六年(一三七三)閏一〇月五日の年紀をもつ大般若経奥書に「秩父郡大淵郷長楽寺書写畢」とある。また児玉党系図(諸家系図纂)によると秩父平四郎行高の子高重が大淵平二郎を名乗っている。

『日本歴史地名大系』にも記載されているが、武蔵七党・児玉党・秩父平氏の系図等によれば、秩父平四郎行高の第二子の平二郎高重は大淵氏となり大淵に館を構えたとされている。
 武蔵七党系図
「秩父平四郎行高―大淵平二郎高重―四郎基重―四郎太郎重信―弥太郎重実―又太郎有重、弟孫四郎行実、其弟五郎実行、其弟家光」
 その後、大淵氏は上野あるいは越後の小千谷に移り住み、そのあとには後北条氏の家臣となった金室(かなむろ)氏が居館を構え代々里正(名主)をつとめたとされている。
 その後、大淵氏は上野あるいは越後の小千谷に移り住み、そのあとには後北条氏の家臣となった金室(かなむろ)氏が居館を構え代々里正(名主)をつとめたとされている。
 この江戸時代初期から代々大淵村の名主を勤めていた「金室家」は、鉢形北條家家臣の落居とされ、古くは加治姓を名乗ったとも、鍛冶を営んだとも伝えられ、字天神の金山神社を祀っている。117日がその祭礼で、金室マケのお日待と呼ばれ、同家の先祖で能筆であった杢兵衛筆の幟が立てられたという。
        
        小学校がすぐ東側にあるにもかかわらず静まり返っている境内
 
  参道向かって右側に設置されている案内板   案内板の右隣に並んである石碑、灯篭等
 熊野神社 御由緒  皆野町大淵八二
 ◇「滝之宮」とも呼ばれる大淵地域の氏神社
 当地は荒川と赤平川が合流する台地に開け、かつては江戸に木材を供給する材木業等で大いに栄えた地域である。地には古墳時代後期の大淵古墳があるほか、荒川に露出した「前原の不整合」は秩父盆地を構成する一千五百万年前の地層が露出したもので国の天然記念物に指定されている。
 大淵の地名は、青梅市にある真言宗醍醐派の別格本山である塩船観音寺所蔵の大般若経奥書(銘記集)に、「応安六年癸丑(一三七三)閏十月五日於武州秩父郡大淵郷長楽寺書写畢」とあり、 古くからある地名と考えられている。
 口碑によれば、平安時代末期に近くの滝を御神体として熊野修験の山伏が熊野権現を勧請したことに由来し、古く「滝之宮」と呼ばれていた。現在の社殿は昭和三年に創建されたものであるが本殿に残る三体の大幣串には元禄二年(一六八九)二月二十八日の墨書があり江戸時代初期には既に社殿を有していたことを伝えている。
 旧名主である金室家が保管していた「正一位熊野権現 右奉授極位者神宣之啓依如件」の古文書には、享保八年(一七二三)二月八日付の宗源宣旨と宗源祝詞が納められているほか、熊野権現の御神位を授かるために七両壱分弐朱四百文を氏子から集めたことなどが記されている。現在は、大淵地域の氏神神社として地域住民の崇敬を集める御社である。(以下略)
                                      案内板より引用

        
                     拝 殿
       
          境内に一際目立ち聳え立つ杉のご神木(写真左・右)
        
               本殿とその左側にある石祠二基。
 実のところこの石祠は、大淵熊野神社の境内社なのか、それとも合祀の際に集めた各地の社なのか、詳しいことは分かっていない。神社明細帳には境内社として稲荷神社・天満天神社・秋葉神社・疱瘡神社の記述があり、それらの神社である可能性もあろう。
        
                              
社殿から見る参道方向の眺め
 ところで、大正12年秩父郡誌編纂の際、金室家の神棚から「宗源宣旨(そうげんのせんじ)」が発見された。金室家では「神棚を開けると目がつぶれる」と言い伝えられていたため、大正末期まで発見されず神棚の中にあった。
 この宗源宣旨には享保828日付で「正一位熊野権現 右奉授極位者神宣之啓依如件」と記されており、金室家にはこの神位を受けるために7両1分2400文を氏子から集めた文書も残されている。
 宗源宣旨の発見後、人々はこれを御位様(みくらいさま)と呼び、春の大祭に神社にお迎えする行事が始まった。戦前には、神職・総代が行列を作って御位様をお迎えしていたが、戦時中に行列がなくなり、現在ではお迎えする行事も行われなくなったという。
        
            因みに社の北側にある道路から見た社の全景
 大淵熊野神社の創建に関しては詳細なことは分からないが、元禄2年に奉献された幣帛があることから、この頃には神社があったといえる。また、熊野神社を「滝之宮」と呼び、神社近くにある滝を御神体として熊野山伏が祀ったのが始まりで、元禄期以前の創建とする説や鎌倉時代の文歴年間に神道卜部氏がこの地に来て祀ったのが神社の創建という説もある。
 御祭神のうちの伊弉冉尊は多くの神々を生んだ神であり、「熊野神社は伊弉冉尊を祀っているので、大渕ではお産で亡くなる人はいない」と言われてきた。昭和末頃までは旧暦1015日に産土講が行われていたという。  



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「埼玉苗字辞典」
    「境内案内板」等
  

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