古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

大寄八幡大神社

 武蔵国榛沢郡は東は幡羅郡、大里郡、南は男衾郡、西側は児玉郡、そして北は利根川を挟んで上毛国と接している。郡域はおおむね深谷市の明戸、原郷以西部分、岡部地区、寄居町寄居、藤田、末野、桜沢、用土地区というが詳細は不明である。有史以前から集落が発達し、深谷市緑ヶ丘にある桜ヶ丘組石遺跡は昭和三十年の発掘調査によって、八基の石組遺構が発見され、極めて珍しい遺跡として注目された。年代的には縄文時代後期と推定され、環状列石(ストーンサークル)のような県内では珍しい配石遺跡だそうだ。
 
榛沢郡は古墳時代末には人口も増し、小規模ながら100基を越す古墳が分布する鹿島古墳群など、多数の古墳がある。その一方、延喜式神名帳には社名が載っておらず、平安時代には隣接する男衾郡や幡羅郡よりは小規模だったと見られているようだが、しかし郡衛である深谷市岡部の中宿(または仲宿)遺跡では、正倉と見られる大規模建物の跡が発見されている。武蔵国の郡衙跡として3ヶ所目、県内では初の発見例だそうだ。

 いわゆる小規模といわれる郡という従来の説に対して、大規模で立派な正倉の建物の存在・・・どうもすっきりしない
矛盾を感じる。
所在地    埼玉県深谷市榛沢486
主祭神    誉田別命(応神天皇)
社  格     不明 
       
由  緒   
 
現在の社殿は江戸時代享保十三年第百十四代中御門天皇の御代に建築され
         たと推定
例  祭
         不明


         
   地図リンク
 大寄八幡大神社は埼玉県道75号熊谷児玉線で児玉方面に向かい、針ヶ谷西の交差点を右折し、埼玉県道86号花園本庄線を本庄方向に北上する。県道86号線は最終的に352号線にぶつかるのでそこを左折し2kmほど直進すると、やがて右手側に大寄八幡大神社が見えて来る。駐車場はなかったので、周りを散策し神社の近くの公園に車を駐車し参拝した。

                 
            
        手水舎 深谷市指定文化財         手水舎とその奥にある御神木
       
                          神楽殿

       
                         拝     殿
  正直、このような静かな地に鎮座していること自体不思議で立派な社殿で、拝殿正面の扉には亀と鳳凰の彫刻が施され、その上には龍の絵が描かれていた。
       
            ガラス越しに本殿を撮影。本殿は深谷市指定文化財
       
                     拝殿左側にある説明板
大寄八幡大神社
  当社の祭神(誉田別命)は、社名に幾度かの変遷があった。江戸時代後期に編纂された「新編武蔵風土記稿」では、榛沢六郎成清の勧請により、十一面観音を安置すると記載されている。また昭和五年に編纂された大里郡神社誌では、祭神は、誉田別命(応神天皇)とされている。神社名称もはじめ、児玉宮、御霊宮と呼ばれ、次いで大寄大神社となり、現在の大寄八幡大神社と呼称されるようになったのは戦後のことである。
 本殿は、木造銅板葺で、回廊より上部は、内外とも総彫刻で彩色されている。礎石には、享保十三(1728)年八月施主武政郷助の刻銘がある。
 本殿は、破損が著しいため、昭和五八年に三方ガラス張りの覆屋をつくり、保存につとめている。この他に拝殿、水舎等は、江戸時代後期(文久年間頃)の建立と考えられている。
 また、当社は、祭礼の日には、武道の試合が行われ、遠近の武道者が集まったと伝えられている。拝殿内外に掲げられている奉納額は、これを物語っている。特に角力は、さかんに行われ、御霊宮(大寄八幡大神社の旧名)の角力と言えば、遠く秩父地方にまで鳴響いていたという。
                                                                                                                                                                                                                                案内板より引用
外宇新築拝殿吹替記念
  大寄八幡大神社の社殿は奥院及び拝殿とによって成り御神体に應神天皇を奉る。
 今より凡そ二百五十四年前江戸時代享保十三年第百十四代中御門天皇の御代に建築されたと推定される。武州榛沢郡時代別名五領の宮とも稱ばれ、地元近隣領民の武運を守り崇拝の神として氏子によって尊厳が保たれ現代に及ぶ。
 しかるに近年に到り社屋の老化はげしく高度技術の粋を集めた建物が風雨に打たれ文化財に損傷のきざし有り。特に彫刻天上絵等無類の宝物保護の必要を感じ総氏子協議の結果奥の院全部に上屋をめぐらし更に観賞の立場から下見はガラス張りとなす。亦拝殿屋根は総吹替をなしいぶし銀の瓦瞳にまぶしく神殿の尊厳益々盛んなり。亦右工事に要した費用は神社の営繕費をこれに当て総工費壱阡壱百五拾参万七百拾五円にして昭和五十八年九月その工事の完成を看る。
 特に総氏子これを祝し祭詞奏上の九月二十五日御遷宮となす。
                              昭和五十八年九月二十五日

                                              外宇新築拝殿吹替記念碑より引用
  
     
 

  大寄八幡大神社は、今でこそ八幡神社だが、この名称は戦後に呼ばれたものである。かつては、児玉宮御霊宮と呼ばれ、その後大寄大神社となり、現在の名称となったという。では、かつて名乗っていた児玉宮、御霊宮とはどのような神社だったか。少なくとも八幡神社ではない。

埼玉県苗字辞典では榛沢に関していくつかの記述がある。

榛沢 ハンザワ
 渡来人蕃族の居住地なり。和名抄に榛沢郡榛沢郷を載せ、波牟佐波と註す。
  

 丹党榛沢氏 榛沢郡後榛沢村(岡部町)より起る。武蔵七党系図に「秩父黒丹五基房―榛沢三郎成房―六郎成清(重忠に属し元久二年六月誅せらる。弟に小太郎、四郎)―平六郎成長―七郎―三郎」。安保氏系図に「秩父黒丹五元房―榛沢三郎光経」と。中興武家諸系図(宮内庁書陵部所蔵)に「榛沢。丹治、本国武蔵」と見ゆ。保元物語に「義朝に相随う手勢の者共は、武蔵国には榛沢六郎成清」。源平盛衰記に「畠山が乳人に半沢六郎成清」と見ゆ。

二 鍛冶師榛沢氏 吾妻鑑文治五年八月条に「頼朝の陸奥国阿津賀志山(福島県国見町)の藤原泰衡攻めに、榛沢六郎成清の智謀によって、畠山重忠は連れて来た人夫八十人を使って、用意の鋤鍬で土石を運ばせ、一夜にして掘を埋め、突撃路を造った」とあり。常に先陣を勤める畠山重忠は工兵部隊であり、鍛冶木工頭領であった。其の配下の丹党は製鉄製錬や土木技術にたけていた集団であり、榛沢氏が率いていた。風土記稿・後榛沢村条に「榛沢六郎成清社、村の中程小名蔵屋敷にあり。東光寺、本尊は薬師にて開基は榛沢六郎成清なり。陣屋蹟、古へ賀美郡安保の領主たりし安保氏の陣屋蹟と云伝ふ」と見ゆ。蔵(くら)は古代朝鮮語で銅を指す。薬師はタタラ師の守護仏である。安保(あを)は下野国佐野天命鍛冶一派の青木氏屋敷跡で古は青木村と称す。安保氏は無関係なり。是等の鍛冶集団支配頭が丹党榛沢氏であった。

榛沢の地名に関しては多くは鎌倉時代の由来がほとんどだが、「渡来人蕃族の居住地なり。」という記述には興味深い。
 また榛沢は地名を分割すると榛+沢となる。沢に関しては①山あいの谷川。源流に近い流れ、②水が浅くたまり、葦(あし)・荻(おぎ)などの草の茂っている所、などある地域の地形の状態を表す助詞である。すると本来の地名は「榛」ではなかったろうか。「榛」に関して同じく埼玉県苗字辞典では不思議な記述がある。
 
蕃 バン 中国は北方の異民俗を蕃(えびす)と蔑称した。大和朝廷は中華思想により朝鮮半島の渡来人を蕃と称し、姓氏録には諸蕃と記した。日本書紀・神功皇后摂政前期に「百済王は、今後末永く西蕃と称して、朝貢を絶やしませんと申しあげた」とあり。多くは百済人を蕃と称す。羊(ひつじ)条参照。佳字に番、伴、坂、半、榛等を用いる。

高麗神社の項でも紹介したが

 「北武蔵への渡来人の移住は、6世紀の末頃までさかのぼることができるという。6世紀末、律令制下の武蔵國ができる前、それぞれ壬生吉志が男衾郡、飛鳥吉志が橘樹郡、日下部吉志が横見郡で活躍したと伝えられている。」

 
すべての渡来人が上記の特定の地域しか移住しなかったろうか。とても思えない。一部の人々は榛沢等に住み着いたとも考えられないだろうか。逆に言うと榛沢という地名はそれを証明しているのではなかろうか。

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大天白神社

 羽生市は埼玉県の北東部に位置する人口約5万7千人の市である。都心から60km、さいたま市(浦和区)から40kmの距離にあり、東と南は加須市、西は行田市、北は利根川を隔てて群馬県に隣接している。主な交通機関は、東武伊勢崎線、秩父鉄道、東北自動車道羽生インターチェンジ、国道122号、国道125号がある。
  江戸時代末期以降、青縞(あおじま)の生産が行われ、現在も衣料の街で有名だ。市名の由来として、市内の神社にある懸仏に、天正18年(1950年)太田埴生庄との銘があり、埴(はに、赤土の意)が生(う、多いの意)であることを表しているといわれている。また埴輪(はにわ)がなまったものという説もある。
 
文字としては、「鎌倉大革紙」に、長尾景春が文明10年(西暦1478年)に羽生の峰に陣取ったことが記されている。 また、「小田原旧記」には、武州羽丹生城代中条出羽守との記載があり、埴生、羽生、羽丹生の三種が今まで用いられていた。(羽生市史上巻より)

所在地    埼玉県羽生市北2丁目8番13号
主祭神    大山祇命、大巳貴命、少彦名命
社  格    不明
由  緒    弘治三年(1557年)に羽生城主木戸伊豆守忠朝の夫人が安産祈願
         の為に勧請し創建。後に木戸氏と成田氏の合戦により焼失したが再
         建され、以来、安産・子育ての神として信仰されている。 
        
 地図リンク
  大天白神社は羽生市北2丁目、羽入市役所から北西方向に約2kmのところに鎮座する。神社までの経路は住宅の生活道路のような狭い道を入ってくるので、ナビがないとわかりにくい。神社と公園が隣接しており、一の鳥居の先にはは見た通り藤の棚が出迎えてくれた。ここは大天白公園と言って平成13年にリニューアルした藤棚の面積は770平方m。紫色と白色の藤あわせて60本が植えられているとのこと。

  この大天白神社は大山祇命を主祭神として、大己貴命、少彦名命を祀っている。『埼玉の神社』には、川に関係のある神社と思われるとあり、祭神は、『武蔵國郡村誌』には、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)とあり、内陣にも倉稲魂命の御影掛け軸があるから、元は稲荷神を祀っていたのではないかというが詳細は不明だ。
  大己貴と少彦名とが祭神となっているのは、明治40年に、大字羽生字栃木にあった蔵王権現社を合祀した結果であり、大天白神は羽生城主木戸伊豆守忠朝の夫人が安産祈願のために、弘治元年(1555年)に勧請したという
  ちなみに藤は羽生市の花である。
  この藤棚は左側にカーブし、その先に大天白神社が正面に鎮座している。その反対側は駐車場で20~30台駐車可能。

  大天白(だいてんばく)神社
 
祭神は大山祇命(おおやまづみのみこと)を主神に大巳貴命(おほなむちのみこと)・少彦名命(すくなひこなのみこと)の三神である。
 この神社は、弘治三年(1557年)三月羽生城主木戸伊豆守忠朝の夫人が安産祈願のために勧請し創建されたと伝えられる。その後、上杉氏(木戸)と北条氏(成田)の数度の合戦により社殿は焼失したが、里人達の熱心な勧進によって再建された。
 以来、安産・子育ての神として信仰されており、毎年五月と十月に例大祭が開かれている。
                                                                                                      
昭和五十五年三月  埼玉県

               
                                                  拝       殿
                 
                           本       殿
                   県北に位置しながら、上毛地方特有の派手な様式でなく安心した。

  大天白あるいは天白を名とする神社は静岡県から愛知県、三重県に多く、名古屋市に天白区や天白川があることはよく知られている。天白神社については、農業神、旅の神など諸説があって、はっきりしたことはわからないらしいが、一説によれば、縄文時代から続く土着系信仰ではないかという、
 ただ正直天白神とはなにか、これがまた正体がよく判らない。海や川を鎮める神(水神?)であったり、星の神であったり養蚕・織物の神であったり、他にも天津ミカ星やミシャグシ神とも関連があったりと謎だらけの神だ。


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田甲高負彦根神社

 高負彦根神社が鎮座する田甲の地は旧荒川の水利とともに交通の要所であり、そこに「玉鉾山が突きでており、その頂上に当社が鎮座している。
 周辺は「高負彦根神社周辺遺跡」として奈良時代の集落跡が残る。このあたりの丘陵と沼は「荒川」が作りだしたものであるとされ、このポンポン山の下もかつては「荒川」の流路であった。吉見丘陵東端には古墳群、そして式内社3社が存在していたことから、この地域が古くからの開発地域であったことがわかる。
 和同3年(710)創建と伝わる古社とされ、横見郡三座のうちでもっとも古く、近年に発見された宝亀3年(772)の太政官符によれば、「武蔵国幣帛ニ預カル社四処」の「横見郡高負比古乃神」と比定されている。                                                             
        
             ・所在地 埼玉県比企郡吉見町田甲1945
             ・ご祭神 味耜高彦根尊 大己貴尊
             ・社 格 旧村社 延喜式内社 武蔵国 横見郡鎮座
             ・例祭等 例祭 718 

   横見神社を東方向に進み、埼玉県道345号小八林久保田下青鳥線を熊谷方面に北上し、松崎交差点を左折すると、正面にこんもりとした特徴のある岩山が見えてくる。これが通称「ポンポン山」である。このポンポン山を脇から登っていくと、山頂に式内社・高負彦根神社が岩山に鎮座している。
            
                           入り口付近にある案内板
                        
                                                   鳥居より社殿を望む                                             
             
                                 拝 殿
 
       拝殿上部に掲げている扁額             社殿の左側に鎮座する境内社 三峰神社
  この高負彦根神社の先は「ポンポン山」という岩山なのだが、鳥居の反対側は広い平地が広がる。どうやらこの岩山は丘陵地の先にあたるようだ。この響きには地下に洞穴(空洞)があるという説と、ローム層と砂岩の境界面で音波がはねかえるという2説があるという。                          
 しかしある意味絶景の要害の地であり、切り立った断崖は東側から押し寄せる敵軍には天然の要塞として機能したであろうと思った。
            
 さて社殿の奥に進むと、そこには「ポンポン山」(別名玉鉾山)と呼ばれる標高38mの岩山が聳え立つ。
             
                             「ポンポン山」案内板
   伝説では長者が高負彦神社の指示によりこの岩山に財宝を隠した。盗人がその財宝を盗もうとしたところ山がポンポンと鳴り出したため逃げ出したそうだ。いわゆる古代の警報システムというところか。

 ポンポンとなる原因は今でも不明で、このポンポン山一帯だけが付近から突出しており、しかも巨岩が露出しているところから得意な地盤であることは確かである。古代の人もその威容とポンポンとなる地盤に神が宿ると思ったのだろうか。古代遺跡が埋まっておりポンポンとなるのはその遺跡を守る装置なのかもしれない。
 
     ゴツゴツとした岩肌があらわでもあり(写真左・右)、その岩山の存在感には驚きを隠せない。 
            
                        ポンポン山から北側平野部を撮影。          
〇ポンポン山(高高負彦根神社)
 延喜式内社で昔は玉鉾氷川神社とも称した。祭神は、味耜高彦根尊・大己貴尊とされるが素盞鳴尊ともいわれる。
 社記によれば、和銅 2年(710)創建と伝えられる古社で宝亀 3年(772)12月19日の太政官符に「案内ヲ検スルニ、去ル、天平勝宝7年(755)11月 2日ノ符ニアグ。武蔵国幣帛ニ預ル社四処」として、その一つに「横見郡高負比古乃神」と記してある。
 社殿の後方の巨岩に近い地面を強く踏むとポンと音を発する。そこでこの山をポンポン山ともいう。巨岩の直下20mの平地は古代荒川の流路であった。
 吉見丘陵の東端をめぐった荒川流域に式内社3社が存在したのはこの地域が早くから開発が進んでいたことによるものと思われる。
平成10年 3月  吉見町・埼玉県                                    
社頭掲示板より引用

  高負彦根神社の「高負」はこの地の地名「田甲」に通じる。当社の鎮座する田甲集落は『倭名抄』に載る横見郡高生(タケフ)郷に比定されて、田甲(タコウ)はタケフがタキョウになり、タカオ、タコウと転訛していったものだろう。現在の社名は「タカオヒコネ神社」と読んでいるようだ。
 これは創建から時代が経ち元の祭神が忘れられた後に、祭神を社名から味?高彦根命に変えたからで、おそらく元は「タケフヒコ」の社であったものと想像される。この辺りの土地を拓いたのが「武」や「猛」に通ずる「タケフ」という名の男性首長で、祭神の御性格の激しさをそのまま神名とし、死後にこれを祀ったのが当社のはじまりではなかろうかと思う。

            
   横見郡三座のうちで創建がもっとも古く、社殿の後方に玉鉾石という磐倉のような巨岩をある意味祀っているような配置。 その歴史的な重み、それに加え神川町に鎮座する金讃神社のスケールをかなりコンパクトにしたような神秘的な雰囲気も整っており、なかなか見応えある社である。

                 
                                              高負彦根神社 東側からポンポン山を撮影
                 かなりユーモラスな名前だが実際はかなりの威容の岩。
             まさに見ての通り玉鉾石という名がピッタリな断崖絶壁の巨岩だ。

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御所横見神社

 伊波比神社は拝殿の位置が東側を向いていて、その丁度300m位正面に郷社、横見神社が鎮座している。地名の横見より興った神社であろう。地名は横見→吉見と変化した。
 創建は和銅年間(708-715)と伝えられている。
 狭山丘陵の東側の平地の中に鎮座している。この丘陵の東側を流れる荒川は、古代より常に氾濫をくり返し、その流れを変えてきた。当社は、荒川の氾濫によつてできたと考えられる平地の中にある。 
         
              ・所在地 埼玉県比企郡吉見町御所1 
              ・社 格 旧郷社 延喜式内社 武蔵国 横見郡鎮座
              ・祭 神 建速須佐之男命 櫛稻田比売命
              ・例祭等 例祭 1014    
 
  黒岩横穴墓群のある八丁湖から南東側へ下っていくと田畑に囲まれた横見神社がある。鳥居の左の林の中には御所稲荷塚古墳がある。黒岩の伊波比神社から車で2,3分。非常に近く、車のナビを使って最初に到着してしまった。吉見町の辺りは古くは横見郡といって、その名を社名としている当社が、この地域において相当に有力な社であったことはまず間違いないだろう。「御所」という大字にもその歴史の深さを感じさせてくれる。
  駐車場は神社の隣に駐車できる空間があり、そこに車を停めて参拝を行った。
              
                             御所横見神社正面 
          
             鳥居の右隣にある社号標      拝殿に臨む参道の風景     
             
                                                  拝  殿
〇新編武蔵風土記稿
横見郡 巻之ニ 上細谷村 附持添新田
飯玉氷川明神社
是延喜式神名帳ニ載ル横見ノ神社ニテ素盞鳴尊 稲倉玉命ナリト云傳レト□ナル據ルニハアラス 當村及下細谷 黒岩 御所 谷口 中新井 久保田 七ケ村ノ鎮守ナリ 社ノ後ニ神木トテ圍一丈五尺程ノ松アリ此下に石槨アリト云傳フ 古ハ社ニ金ノ幣束アリシカ中古洪水ノ時社共ニ久保田村ヘ流レ行テ今ハ失ヘリトソ 別當ハ下細谷村照明寺ナレト御所村ノ持ニシテ平日ハ黒岩村大寶院進退セリ

〇比企郡神社誌

横見神社
御鎮座地 吉見村大字御所
御祭神   建速須佐之男命 櫛稲田比売命
御由緒  
  創立年月未詳。当社は延喜式神名帳に載する横見神社是なり、中古本郡上細谷黒岩、御所、谷口、中新井、久保田、七ケ村の鎮守にして、飯田氷川大明神と称して後今の称に改め復せり~中略~この樹下に石堰の埋れたるあり 然るに明治五年六月二十六日風雨落雷の時土地崩れて石蓋を発顕す。その石蓋を開くに一物の有なし蓋し太古国造県主等の墳墓ならん。これを以って旧地旧社を表するに足れり、又考証土台に飯玉明神黒岩村と載たり、新編武蔵風土記を関するに本村御所村は正保の頃までは黒岩村の地なりしが、程なく別村せしと、元禄の改めには既に別てりとあり。又同書に飯玉氷川明神を上細谷の部に出して「別当は下細谷村照明寺なれど御所村の持にて云々」とあり、この近傍古へ御所郷と称し後黒岩郷と云ふ。その鎮守七ケ村なるを以って上細谷に属し或は黒岩村に属せしも知るべからず。現在は本村に属し明治七年郷社に列せらる。
              
                                                       本  殿
 本殿は小高い丘の上に建っていて、新編武蔵風土記稿に記載されている「石郭」との記述を考えあわせると、古墳であったろうというが、実際参拝した限りではまったく判らなかった。
              
                                                              社殿からの風景
 横見郡は『日本書紀』に出てくる「横渟屯倉」(よこゐみくら)の置かれた地域に比定されているらしいが、その根拠は一体なんであろうか「横渟屯倉」は武蔵国造の乱において出てくる4ヶ所の屯倉の一つとされている。が、あくまで語呂合わせの推定にしか過ぎず、真相は現段階では不明だ。


 御所横見神社の西側にはこんもりとした小高い森があり、道路沿いには朱の鳥居が見える。調べてみるとこれは「御所稲荷古墳」といい、御所横見神社の境内地内にあり、明治5年に古墳の一角に稲荷社が祀られたという。この古墳は古墳時代後期の築造と推定されているが、それ以外は全くの不明だ。
            
                  御所稲荷古墳の一角に鎮座する稲荷社(写真左・右)     


                           

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黒岩伊波比神社

  古代武蔵國の横見郡があったと推定される吉見町は、埼玉県比企郡にあり、東松山市によって東西に分断された比企郡の東部の北半を占めるところにある。比企丘陵の東端にあたる丘陵地で吉見丘陵と呼ばれている。標高は30mから80mで、地質は凝灰岩で、吉見百穴や黒岩横穴墓群などの横穴墓群が広がり、丘陵のあちこちには枝状の谷が発達しし、古くから人々が生活したあとがうかがえる。
 
横見郡は明治29年(1896)には比企郡に編入されたのだが、編入先の比企郡には延喜式内社が、伊古乃速御玉比売神社の1社しかない。横見郡が律令国家にとって重要な土地であったのか(屯倉(天皇の直轄地)だったとする説もある)、あるいは横見郡の郡域は比企郡や大里郡にまで入り込んでいて、実際はもっと広かったのかもしれない。
 それにしても、横見郡の延喜式内社3社が、非常に狭い範囲に集中して存在しているのは不思議なことである。

        
              ・所在地 埼玉県比企郡吉見町黒岩346
              ・ご祭神 天穗日尊 誉田別尊
              ・社 格 旧村社 延喜式内社 武蔵国 横見郡鎮座
              ・例祭等 例祭 1014       

 伊波比神社は比企郡吉見町黒岩の丘陵地の斜面に鎮座する。木々に埋もれるようにひっそりとした佇まいが非常に印象的で、社殿はこじんまりしていて新しそうだが、鳥居から社殿までのこの風景、景観はなかなかの歴史を感じる。 
 
現在の社殿の西方「八幡台」と呼ばれているところが旧境内で、応永年間(1394年頃)息障院が現地に移転したとき伊波比神社もこの地に遷ったと言われている。
 困ったことに駐車場が存在しない。そこで近くに鎮座する横見神社の駐車場を借用して参拝を行った。
伊波比神社の両部鳥居の先には風情のある佇まいの社殿が斜面にある。
            
                              黒岩伊波比神社正面       
 和銅年間(708-715)に創建された式内社で、喜祥2年(849)従五位下、貞観元年(859)には盤井神として官社に列格する。現在の社殿の西方にある「八幡台」と呼ばれているところが旧境内であるといわれている。(吉見町文化財整理室又は吉見町黒岩配水場のあたりか)応永初年(1394)ごろに現在地に移転した。
            
                         伊波比神社 正面参道
 伊波比神社に関して『新編武蔵風土記稿 黒岩村条』には次のように記されている。 
〇黒岩村 岩井神社 
 或は岩井八幡とも稱す、村の鎮守にて村民の持、祭神譽田別天皇天太玉命、今の神體馬上に弓箭をとる像なり、按に【延喜式】神名帳に、武蔵國横見郡伊波比神社と載せ、又【續日本後紀】に嘉祥二年三月庚寅、奉授式武蔵國伊波比神從五位下とあり、是當社のことなるべし、土人等は式内の社なること云も傳へざれど、社地のさま老松生ひしげり、いかにも古き社と見えたり
            
                                  殿 
            
                  伊波比神社左側に静かに鎮座する摂社岩崎神社
 
 『神名帳考証』、『神社覈録』、『神祇志料』は式内・伊波比神社を「黒岩村岩崎大明神」としている。また江戸時代は「岩崎大明神」「岩井神社」「岩井八幡」と称していたという。思うに摂社である岩崎神社のことではないか。鎌倉時代、源範頼(頼朝の弟)の所領がここにあり、子孫が吉見氏として四代続いていたということからも十分頷ける話と思う。

 また
伊波比神社は拝殿の位置が東側を向いている。その丁度300m位正面に郷社・横見神社が鎮座している。まるで高台から平野部に鎮座している大社を見守っているような、それか監視しているのか、ともかくこの位置関係は不思議である。
            
                        伊波比神社拝殿より鳥居を撮影
              ゆったりとした静かな時の流れがこの社一帯には確かに存在した。

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