古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

越畑八宮神社

  新編武蔵風土記稿には八宮神社が鎮座する嵐山町越畑地区について以下の記載がある。ちなみに越畑と書いて「おっぱた」と読む。なかなか馴染みのない変わった名称だ。

越畑村(おっぱたむら)(現・埼玉県比企郡村嵐山町大字越畑)
 越畑村ハ領名(りょうめい)及ビ江戸ヨリノ行程(こうてい)前村ニ同ジ:。東ハ吉田・勝田(かちだ)ノ二村ニ隣リ、南ハ杉山・中爪(なかつめ)ノ村々ニテ、西ハ下上横田村(しもよこたむら、かみよこたむら)ニ交(まじわ)リ、北ハ古里村ナリ。東西七町南北二十町余。家数九十軒。御打入(おんうちいり)ノ後、高木筑後守広正(たかぎちくごのかみひろまさ)ガ采邑(さいゆう)ニシテ其子甚左衛門ガ時慶安(けいあん)元年(1648)検地(けんち)セリ。ソノ後元祿元年(げんろく)(1688)替(かわ)リテ御料所(ごりょうしょ)及ビ酒井但馬守(たじまのかみ)ガ知行(ちぎょう)トナリシニ、同キ十一年(1698)御料所ノ内ヲ割テ山高十右衛門ニ賜リ、又享保十二年(きょうほう)(1727)残リシ御料所ノ分ヲ黒田豊前守(ぶぜんのかみ)・羽太清左衛門ノ二人ニ賜リテ、今モ高木・山高・黒田・羽太等ノ子孫四人ノ知ル所ナリ。

 この越畑村に八宮神社が村の鎮守として存在する。八宮と書いて「やみや」と読む。名前通り8柱の神様を祭っている社だ。

所在地   埼玉県比企郡嵐山町越畑1445
御祭神   応神天皇、木花開夜姫命、大雷神、天照大御神、
       倉稲魂命、大山祇命、櫛八玉神、品陀別命
社 挌   旧村社
例 祭   毎年7月25日に近い日曜日 獅子舞

                      
 越畑八宮神社は太郎丸淡州神社から埼玉県道69号深谷嵐山線を深谷方向に進み、越畑交差点の次の信号を左折すると右側に八宮神社の鳥居と社号標が見える。ちなみにこの交差点の右側には七郷小学校の横看板があり小さいが目印にすると良い。この社には専用駐車場はないが、鳥居や石碑を過ぎた場所に車を停めるスペースがあり、そこを借用して参拝を行った。

 まず最初に鳥居を挟んで右側には庚申塚群が、左側には記念碑が数多く置かれている。
   
       鳥居の左側にある記念碑群          同右側にある庚申塚や神宮参拝記念碑 

そして鳥居の左隣には「県指定 無形民俗文化財 越畑の獅子舞」の案内板がある。
          
越畑の獅子舞

毎年7月25日の前後で一番近い日曜日には、越畑地区の八宮神社で夏祭りが行われます。ここで雨乞いの行事として行われるのが「越畑の獅子舞」です。獅子舞はササラと言われ、数百年前に飢饉にみまわれた越畑の人たちが伊勢山田(現在の三重県)から習ったのが始まりと伝えられています。

獅子舞は万灯、法螺貝にはじまり、先払い、先達(神主)、氏子総代、棒司、花笠っ子、笛吹き衆、中立、獅子三頭の順番で行列をつくります。神社に到着すると、獅子が舞う場が清められ、獅子舞が行われます。(県指定無形民俗文化財)
                                             嵐山町ホームページより引用
    
            
                          鳥居から参道を撮影
                       
                         鳥居を過ぎると石段があり、斜面上に社が鎮座している。
 
        斜面を登りきると左側に神楽殿(写真左側)、右側に社務所(写真右側)がある。
                      
                                          拝    殿
                        
                                本殿覆屋、鮮やかに彩られた本殿が中にある。

神社明細帳には八宮神社について以下の記載がある。

八宮神社 
  埼玉縣武蔵國比企郡七里村大字越畑字日向
  村社 昭和二一、一○、一五 法人登記済
 由緒
  勧請(かんじょう)人皇四十七代聖武天皇ノ御宇ト申ス、其後承平)年中(931-938)経基公関東征討ノ節此ニ祈願シ遂ニ八ヶ所ニ是ヲ祭ルト云フ。明治四年(1871)中村社(そんしゃ)届濟。
  明治三十二年(1899)五月二十二日八幡神社ヲ八宮神社ト訂正ス。
  明治四十年(1907)四月十日大字越畑字冨士山無格社浅間神社、字幡後谷前無格社雷電社、字柳原無格社神明社、字社宮司無格社社宮司社、字後谷無格社山神社、字下串引無格社大天獏社、字大堂無格社八大社、字清水無格社八幡社ノ八社ヲ本社ニ合祀(ごうし)ス。大正八年(1919)十二月二十二日拝殿幣殿(へいでん)改築許可。大正九年(1920)四月十五日竣工。
  大正十一年(1922)三月二十日神饌幣帛料供進神社ト指定セラル。

            
                                   拝殿前の石段から鳥居方向を撮影

 嵐山町は比企丘陵の中枢部を占めており、山あり渓谷あり、平地ありと変化に富んだ自然の宝庫で、国蝶オオムラサキが生息する地としても有名でり、歴史的には、木曽義仲や畠山重忠など、平安末期から鎌倉時代にかけて日本史に名をとどめた坂東武者ゆかりの地でもあり、埼玉県の中にあって観光資源の豊かな地域の一つである。

 越畑地区に鎮座する八宮神社は決して規模の大きい社ではないし、神社の外観もどちらかというと地味である。しかし獅子舞のような県の指定を受けている歴史的にも淵源の古い文化財あり、鮮やかに彩られた美しい本殿といい、後世に残すべき素晴らしい文化がこの地にはある。大切にしたいものだ。

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太郎丸淡州神社、勝田淡州神社

 市野川は延長約35km、流域面積147Km2の荒川水系の一級河川。正式な表記は市野川だが、市の川や市ノ川と表記することもある。埼玉県大里郡寄居町牟礼の牟礼橋を管理起点とし、小川町、嵐山町へと概ね南東に向かって流れ、関越自動車道を越えた辺りからは流れを東へ変え、滑川町、東松山市を経由し、再び流れを南東に戻す。さらに吉見町、川島町を経て最後は北本市と桶川市の境界付近で荒川と合流する。
 武蔵国郡村誌や新編武蔵風土記稿によれば、市野川の上流部(寄居町と小川町の境界付近)には、金山、金塚などの小字名が分布している。例えば牟礼村に金山、今市村に金山、高見村に金塚がある(高橋の付近)。また、牟礼村には金山社が祀られていたとある。金山社の祭神は金山彦命であり、この神は金属精錬業者(鍛冶屋や鋳物師)の信仰を集めたようである。これらのことから、市野川の周辺には金属の精錬を生業とする人々が居住していたと推測される。その時代は不明だが、鎌倉街道や古城跡との関連などから、おそらく近世以前だと思われる。市野川から採取した砂鉄を原料として、金属の精錬(たぶん、たたら製鉄)を行なっていたのだろう。この古代鍛冶集団と関係があるのか、嵐山町の市野川左岸流域には淡州神社が多く存在している。

所在地    埼玉県比企郡嵐山町太郎丸
御祭神    速御玉姫命
社  挌    旧村社
由  緒    大化(たいか)年中(645-650)本社再建スル所ナルト自来(じらい)*1年月久シキヲ経(へ)ルヲ以テ之レカ修繕(しゅうぜん)ヲ施(ほどこ)スト雖(いえども)元禄ノ頃(げんろく)(1688-1704)社宇(しゃう)*2大(おおい)ニ破損(はそん)ス是(これ)ヲ以テ猶(なお)再建スト云フ棟札(むなふだ)ニ元禄八年(げんろく)(1695)九月吉辰ト記載(きさい)アリ今現ニ存立(そんりつ)スル社宇ハ則(すな)チ之トナリ明治四年中(1871)中村社(そんしゃ)ニ列(れつ)セラル明治三十六年(1903)四月二十五日上地林(あげちりん)百十八坪(つぼ)ヲ境内(けいだい)ニ編入(へんにゅう)許可
                                                                                                                                                      「神社明細帳 淡州神社 七郷村太郎丸」より引用
例  祭    不明
       
 太郎丸淡州神社が鎮座する太郎丸地区は嵐山町の中央部に位置し、すぐ東側は滑川町である。太郎丸淡州神社は埼玉県道69号深谷嵐山線を深谷方面に行き、武蔵嵐山病院を過ぎた次の信号のない十字路を右折すると左側に淡州神社の赤い鳥居が見えてくる。
          
  
参道正面に赤い両部鳥居があり、鳥居を越えて左側に何故か「大国主大神」の石碑がある。
          
                  二の鳥居と参道の突き当たりに拝殿がある。

 明治時代、内務省および庁府県に備え付けられていた神社の台帳のことを神社明細帳というが、1879年(明治12年)6月28日、内務省達乙第31号により、神社及び寺院の明細帳を作成し、その副本を内務省に送付することが各府県に命じられた。各府県では、社寺取扱規則(明治11年内務省達乙第57号)の基準に合致する社寺を、届出又は職権によりそれぞれ神社明細帳及び寺院明細帳に登載した。その神社明細帳、七郷村誌には嵐山町太郎丸について以下の記載がある。

水房村(みずふさむら)枝郷(えだごう) 太郎丸村(たろうまるむら)   

 
太郎丸村ハ水房村ノ西ニ続キテ江戸ヨリノ行程(こうてい)ハ本村ニ同ジ、水房庄(みずふさしょう)松山領(まつやまりょう)ト唱(とな)フ。古ハ水房村ノ内ナリシガ、寛文五年(かんぶん)(1665)検地(けんち)アリシヨリ別レテ枝郷(えだごう)トナレリ。此(この)検地ノ時村民太郎丸トイヘルモノ案内セシヨシ『水帳(みずちょう)』ニシルシタレバ、当村ハ此太郎丸ガ開墾(かいこん)セシ地ニテ村名トハナレルニヤ。家数二十余、東ハ中尾(なかお)・水房ノ二村ニ続キ、南ハ市ノ川(いちのかわ)ヲ界(くぎり)テ広野村ノ飛地(とびち)ニ隣(とな)リ、西ハ志賀村(しかむら)及ビ杉山村ニ接(せつせ)リ、北ハ広野・伊子(いこ)ノ二村ニ及ベリ。東西二町許(ばか)リ南北五町(ごちょう)余り、水利不便ナレバ天水(てんすい)ヲ仰(あお)イデ耕(こう)ヲナセド、又水溢(すいいつ)ノ患(わずらい)アリ。爰(ここ)モ本村ト同ク古ハ岡部氏ノ知ルトコロナリシガ、安永元年(あんえい)(1772)収公(しゅうこう)セラレ、同ク九年猪子左太夫(いのこさだゆう)ニ賜(たまわ)リ、今子孫(しそん)栄太郎ガ知ル所ナリ。


 ここで注目される点はこの「太郎丸」という地名の由来だ。1665年の検地の際に、太郎丸という村民が案内をし、そしてこの村はこの太郎丸を中心に開墾した地であるためにこの地を「太郎丸」と命名した、ということのようだ。
 江戸時代初期この地は水房村の一部で、寛文五年(1665)の検地の時独立して太郎丸村となった。水房村とは本郷、枝郷の関係にあるのはその為で、それで太郎丸村の鎮守様は水房村の淡洲明神社(阿和須神社)であった。「新編武蔵風土記稿」で、太郎丸村の淡洲明神社を「村の鎮守」と書かなかった理由もここからくる。

 
      社殿左側にある境内社 弁財天               社殿右側奥にある八坂社

 太郎丸淡州神社の当初の社地は、現鎮座地の裏手の山中の「御林」と称するところにあったらしい。現社地には、幕末にその山から幣束が飛来して突き立ったので、これを神の御意として村民は心を一つにして社殿を造営したという。



勝田淡州神社

所在地    埼玉県比企郡嵐山町勝田270
御祭神    保武田別尊(応神天皇)、息長足日賣命、武内宿称命、菅原道真公、武甕槌命
社  挌    旧村社
例  祭    不明
          
 勝田淡州神社は太郎丸淡州神社から埼玉県道69号深谷嵐山線に戻り、深谷市方向に北上し、玉ノ丘中北入口交差点を右折すると花見台工業団地となるので、そのまま5分弱進むと左側に勝田淡州神社が見えてくる。但し道沿いにはなく一本西側に入った道路で、しかも大変道幅は狭い。専用駐車場はなく、路肩に駐車して急いで参拝を行った。
          
 
            拝    殿                          本    殿

勝田淡州神社の由来は以下の通り。

淡州神社
由緒(ゆいしょ) 勧請(かんじょう)*1年月不詳(ふしょう)、宝永(ほうえい)年中(1704-1711)中宮(ちゅうぐう)建立、文化年中(1804-1818)上□建立、嘉永(かえい)年中(1848-1854)鳥居建立。
 元淡洲明神ト唱来(となえきたり)シ処(ところ)御維新(いしん)*2ノ際(さい)當号(とうごう)ニ改稱(かいしょう)ス。

 しかし淡州神社であれば、祭神は速御玉姫命であるはずなのに、この社は八幡神社でお馴染みの3祭神というのはどういうことだろうか。少し納得がいかない。

           
               社殿の右側に並んで鎮座する境内社、鹿島神社と天神社

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大雷淡州神社、土塩淡州神社

大雷淡洲神社】
        
             ・所在地 埼玉県比企郡滑川町山田1852
             ・ご祭神 大雷神 息長足日売命
             ・社 挌 旧村社
             ・例 祭 祈年祭 310日 例祭 728日 秋祭 1016日
                  新嘗祭 1211日 大祓 1225      
 森林公園南口側から県道250号森林公園停車場武蔵丘陵森林公園線を北東へ走って行くと、西側,つまり右側にに大雷淡洲神社の鳥居が見えて来る。社は道路沿いにあり、東側に社殿を向け、その前は比企丘陵の南北に細長い一面ののどかな田園風景が続く。
 上山田に鎮座する淡州神社とは至近距離にある社だ。
            
                                                              大雷淡洲神社正面 
            
                                                           参道の風景          
            
                                              大雷淡洲神社の案内板   

 大雷淡洲神社   滑川村大字山田(下山田)
 祭神  大雷命 息長足日売命
 由緒
 当社は昔この地方がしばしば旱魃に見舞われ凶作が続くので、五穀豊穣を願って雨乞いの神大雷命と三韓鎮定に功績を挙げた神功皇后を祭神として奉祀した神社と伝承される。勧請の年代は資料によれば応永二乙亥(西暦一三九五)年と推察される。寛永二乙丑年に邑の鎮守となり、明治四年三月に村社に列格した。(以下略)
                                                            案内板より引用

                 
         鳥居を過ぎて数段の石段の上に鎮座する二社並列の大雷淡州神社の拝殿。
               ただしどちらがどの社かは何も明記されていないため不明。
                       
                    拝殿の右側に鎮座する境内社・天満天神宮
 大雷淡洲神社 滑川町山田一八五二(山田字山崎)
 当社は大雷神社と淡洲神社の合社で、大雷命と息長足日売命の二柱を祀る。社伝によると、昔この地がしばしば干ばつに見舞われて凶作が続いたため、五穀豊穣を願って水分の神である大雷命と、三韓・熊襲の征伐に功績のあった神功皇后(息長足日売命)を奉斎したことに始まるという。近くにある式内社の伊古乃速御玉比売神社が「郡中の総社」として淡洲明神ともいわれていたことから、同社をこの地に勧請したことが推測される。
 一方、『明細帳』には「勧請年月不詳宝永七年(一七一〇)三月霊代ヲ改メ鎮守タリ明治四年三月村社ニ改ム」とある。これに見える「霊代ヲ改メ鎮守タリ」の記載は、同じ地内にある上山田の淡洲神社が同年代に神祇管領の吉田家から正一位の神位を拝受していることから、これに合わせて当社も神位の拝受を行い、名実共に村の鎮守としての地位を確立したことを表すものであろう。
『風土記稿』は、地内の神社について「淡洲明神社 村の鎮守なり、東光寺持、下二社同じ、雷電社山王社」と載せる。この記述から合社となったのは化政期(一八〇四-三〇)以降のことと考えられる。
 合社後しばらくは二棟の覆屋にそれぞれ本殿が据えられていたが、淡洲神社の方に大雷社を合祀した際に大雷社の本殿は外に移された。現在の社務所はかつての大雷神社の覆屋である。
                                  「埼玉の神社」より引用


【土塩淡州神社】
                       
                 
・所在地 埼玉県比企郡滑川町土塩422
                 ・ご祭神 速御玉比売命
                 ・社 挌 旧土塩村鎮守・旧村社
                 ・例 祭 祈年祭 2月26日 例祭 417日 新嘗祭 10月17日
                 大祓 12月30日    
        
 埼玉県道250号を北方向に進み、山田交差点を左折し、上山田淡州神社を右側に見ながら道なりに真っ直ぐ進む。突き当たりの福田交差点を右折し、元東松山有料道路を熊谷市方向に進むと土塩Y字路にぶつかるのでそこを左折すると左側に土塩淡州神社が見えてくる。小さく収まっている社という印象。
 専用駐車場はないので、神社を通り過ぎてからすぐ先の交差点に駐車スペースがあったのでそこに停め急ぎ参拝を行った。
             
                                                            土塩淡州神社正面
                        
 淡洲神社   滑川町大字土塩
 祭神 速御玉比売命
 由緒
 当社は神功皇后の三韓鎮定の広徳を仰ぎその神霊を此の地に奉祀したという。
 創始の年代は天明三癸卯(西暦一七八三)年七月三日と記録されており、天児屋根命第五十八代的伝神祇道唯一人 吉川源十郎源従門によって創立されたと伝えられる。
 境内地四○六坪には杉の大樹が聳え神苑に荘厳の気を漂わしている。

 祭事
 元旦祭 一月一日   新年祭 二月二十六日
 例祭  四月十七日  新嘗祭 十月十七日
 大祓  十二月三十日                                             案内板より引用
           
                               拝  殿 
 淡洲神社 滑川町土塩四二二(土塩字南薬王寺)
 当社の鎮座する土塩は、滑川町の最北部にあり、町の北側を東へ流れる和田川に沿った沖積地である。地名は、塩が楔形の谷の奥の意で、当地が開析谷の奥にあることから付されたという。
 当社は、『風土記稿』に「淡洲明神社 村内の鎮守なり、明昌寺持」とあり、江戸期は、真言宗金宝山明照寺が別当であった。
 祭神は、速御玉比売命である。村内に鎮座する式内社伊古乃速御玉比売神社がかつて淡洲明神とも呼ばれていたこと、同社の境内社に琴平神社と天神社があることなど当社との相似点が多い。現在、当地方に淡洲神社(阿和須神社)が六社あり、伊古乃速御玉比売神社を中心にそれを取り囲むように放射状に分布しており、同社がその信仰の核になっていたことをうかがわせる。
『比企郡神社誌』によると、当社は「天明参癸卯年(一七八三)七月参日天児屋根命五拾八代的伝神祇道唯一人吉川源十郎源従門の創立」とある。
 ここにいう吉川源十郎は、吉川神道を創唱した吉川惟足の子孫に当たる。惟足以来、幕府は、吉川家を吉田神道の正統の教義を継承した者とみなし、神道に関する故実の調査などを行う幕府神道方の職に世襲職として任命した。この神道方の吉川家が当社の創建にかかわった経緯については明らかではない。
                                                       「埼玉の神社」より引用          

  
       社殿左側にある境内社・天神社              こちらの境内社は詳細不明
            
                              境内の一風景





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月輪神社

 関白藤原忠通の子で九条家の粗である九条兼実(くじょうかねざね)は、京都の月輪寺(がつりんじ・つきのわでら)に隠棲していたことから「月輪殿(つきわでん)」と呼ばれていた。その霊が合祀されていると言われているのが月輪神社で、「月輪」の地名もここに由来しているとのことだ。参道や境内には樹齢何百年と思えるくらいの立派な杉が嘗て聳え立っていて、静寂かつ厳かなたたずまいであり、歴史を感じる古社である。
       
            ・所在地 埼玉県比企郡滑川町月輪418
            ・ご祭神 素戔嗚尊・木花開耶姫命・味鋤高彦根神・豊受気媛神
                 月輪兼実公・菅原道真公
            ・社 挌 旧月輪村鎮守・旧指定村社
            ・例祭等 春祭り 415日 例祭 715日 秋祭り 1019
                    新嘗祭 1123       
 月輪神社は埼玉県道47号深谷東松山線を南下し、森林公園駅入口交差点のY字路を右折し、森林公園北口前の信号をまた右折する。道なりに真っ直ぐ進むと約5分弱で左側に月輪神社の社号標が見えてくる。駐車場は神社の東側隣に集会所があり、そこには駐車スペースが確保されており、そこに停めて参拝を行ったが、そこは神社の拝殿のすぐ横にあり、正面、つまり南側の鳥居から参拝することをモットーとしている筆者にとっては少々遠回りをしなければならないことが不満な点ではあるが。
                         
                         南側にある月輪神社の社号標
 
             社号標の先にある一の鳥居                      自然のままの社殿に通じる参道
       以前は朱塗りの鳥居であった。               境内は鬱蒼とした杉林に覆われている。
                       
                                厳かな雰囲気が漂う境内。すの参道の先に鎮座する拝殿
  なんでもこの社殿の基盤全体が古墳となっているようだ。この森林公園の南側に位置する羽根尾地域から月輪地域にかけては、数多くの遺跡が出土している日本でも有数の遺跡分布地帯で、調査によると、未発掘の埋蔵文化財が、町のほぼ全域に分布しているそうだ。

 東武東上線「つきのわ駅」の北部にある月輪古墳群や月輪遺跡からは、古墳時代の土器や石斧、直刀、さまざまな形の埴輪が数多く出土。東上線以南の地区からは縄文時代早期の土器が見つかり、駅西南部の一帯では旧石器時代の石器も発見されている。
 
     拝殿の「月輪神社」と書かれた扁額                           拝殿前の石段の横には案内板がある。
 月輪神社
 由 緒
 当社は和同二巳酉(西暦七0九)年に大宮氷川神社の神霊を此の地に分社したと鎮守名に記載されており その後建久九戊午年三月、月輪兼実の霊を合祀して氷川大明神と称した。
享保八年九月宗源宣旨により正一位の神位を贈られた 明治維新の際明神号を廃し 氷川神社と称し 明治四十一年三月大字内の五社を当社に合祀して今までの氷川神社号を月輪神社と改称した 明治四年村社となり 大正五年指定村社に昇格した。
                                                             案内板より引用 

                       
                                           本殿覆屋
            
                           社殿手前にある古木跡
「埼玉県の神社」によると、「昔は、杉の古木が林立していたが、伊勢湾台風でその多くが倒れてしまった。この時、社殿の前にあった樹齢六〇〇余年といわれる神木の杉の幹にも亀裂が生じ、危険な状態になったため、氏子一同は涙を呑んで伐採を決意した」と記載されている。この伐採跡がこのご神木なのであろう。

 また案内板にも記載があったが、この月輪地域では、「獅子舞」が例祭に合わせて奉納される。「埼玉県県民生活部文化振興課公式HP」では以下の紹介がされている。
 月輪獅子舞 滑川町指定無形民俗文化財
 月輪神社で毎年7月と10月に五穀豊穣と子孫繁栄、悪魔除けを願い奉納されています。 太鼓には文政9(1826)年の銘があり江戸時代には既に行われていたと思われます。地元の熱意で、昭和57年に復活しました。  
                        
           道路沿いにある社号標のほうが歴史を感じる重みのある標石だと思う。
 

 東松山台地北縁の、嵐山町川島字屋田から滑川町月輪字西荒井にかけて、東西400m、南北800mの範囲に所在する。嵐山町側を「屋田古墳群」、滑川町側を「月輪古墳群」と呼ぶこともある。かつては100基以上の古墳があったと推測されたが、多くの古墳は開墾などにより破壊され、2002年(平成14年)のつきのわ駅開設に伴う区画整理事業の際に発掘調査が行われ、59基の古墳の記録保存がなされた。 現在直径2030mの円墳47基が現存する。
 1969年(昭和44年)101日、埼玉県の重要遺跡に選定された。
Wikipedia」より引用

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笠原久伊豆神社

  元荒川は延長61Km、流域面積216Km2の中川水系の一級河川。埼玉県熊谷市佐谷田を管理起点とし、おおむね南東へ向かって流れ、行田市、吹上町、鴻巣市、川里町、菖蒲町、桶川市、蓮田市、白岡町、岩槻市を経由して、最後は越谷市中島で中川の右岸へ合流する。この元荒川は山地水源を持たない河川であり、かつての元荒川は荒川扇状地の湧水を水源としていたが、次第に水源は枯渇し、現在の源流はポンプで汲み上げた地下水(人工水源)である。
 久伊豆神社は不思議とこの元荒川流域を中心に分布する神社で、逆を言うとそれ以外の地にはほとんど建てられていない。興味深いことに、荒川の主流(元荒川~備前堤~綾瀬川)は、神社分布の境界線にもなっていて、左岸側に久伊豆神社、右岸側には氷川神社が分布している。不思議な事項であり、このような意味において大変興味のある社である。
 鴻巣市笠原地区にもこの久伊豆神社が存在する。もちろん元荒川流域左岸だ。

所在地  埼玉県鴻巣市笠原1755
御祭神  不明
社  挌  延喜式内社、旧村社
例  祭  不明
      
 笠原久伊豆神社は鴻巣市街地の東端に位置する。埼玉県警察運転免許センターを最初の目印にして、まず免許センター前交差点を右折し、最初の信号であるひばり野交差点を左折し道なりに直進する。上越新幹線の高架橋をくぐった先の郷地橋交差点を右折すると埼玉県道77号行田蓮田線となり、車で約5分位走ると笠原郵便局交差点となり、左折すると左側にこの社が見えてくる。ちなみに道路を挟んだ反対側には久伊豆神社の別当寺であった東光寺がある。
 駐車場は、久伊豆神社の社号標を過ぎると民家があり、その先に駐車スペースがあるので、そこに停め参拝を行った。

              
                村社 久伊豆神社の社号標。斜めに傾いている。その先に神明系の鳥居がある。
       
                  一の鳥居。この鳥居を過ぎると直角に曲がり、その正面に二の鳥居がある。
         
                                  二の鳥居前から撮影。その先に社殿が存在する。
 
 久伊豆神社の鎮座地は埼玉県内の、綾瀬川左岸(東岸)を中心に集中的に分布している。これはちょうど氷川神社勢力圏と香取神社勢力圏とに挟まれたエリアであり、こうした「棲み分け」を武蔵七党、特に野与党・私市党の勢力範囲と関連づける説もあるようだ。
         

                         参道左側にある神楽殿
 
 神楽殿の南隣に鎮座する境内社、由緒不明。   社殿の奥にある境内社等。こちらも由緒不明だ。
          近くに力石がある。
                     
                                                             拝   殿
                       
 
                            本   殿
 
ところで笠原久伊豆神社は延喜式式内社の一で、さいたま市浦和区上木崎に鎮座する足立神社や同市北区宮原町に鎮座する賀茂神社と共に武蔵国足立神社の論社とされている。延喜式神名帳成立時点での足立郡の群域がどこまでだったかは細かいところまでは不明だが、この笠原地方は埼玉郡に所属していたはずだし、そうするとその時点で足立郡の式内社にはそもそも該当しないのではないかと思われるが、一応論社ということなので紹介した。
 久伊豆神社は現代風にいうと、特定地域密着型の社である。鴻巣の久伊豆社はこの笠原の他に郷地にも存在するし、近隣では旧川里町屈巣地区、また北根地区にも鎮座している。久伊豆社は笠原地区のみではなく、狭い区域に少なからず存在している。その中で笠原久伊豆神社を延喜式内社の一論社として比定する絶対的根拠がどこにあったのだろうか。

最後に笠原久伊豆神社の鎮座する地、「笠原」について「埼玉苗字辞典」では以下の記載がある。

笠原 カサハラ 弁韓(後の迦耶)の蓋(かさ)族居住地を笠原と云う。原は城(都)の意味で、非農民の職業集団居住地を云う。カサ条参照。大和国高市郡の飛鳥川上流に栢森村(今の明日香村)があり、迦耶人の居住地で飛鳥川を別名迦耶川とも称す。此地の飛鳥衣縫は、雄略記に「漢織、呉織、衣縫、是飛鳥衣縫部、伊勢衣縫部の先也」と見ゆ。迦耶は安耶(あや)国とも称し、漢人、呉人は迦耶出身なり。漢(あや)及び呉(くれ)条参照。武蔵国埼玉郡栢間郷笠原村鴻巣市)は是等迦耶人の居住地である。安耶ノ国渡来人は安部族にて、武蔵国造家及び埼玉古墳の被葬者は安部族笠原氏の首領である。アベ条参照。和名抄に埼玉郡笠原郷を加佐波良と註す。此地は百間村(宮代町)一帯にあった古代笠原沼にて、幸魂沼(埼玉沼)の一なり。今の笠原小学校及び東武動物公園の附近で、其の岸辺に式内社宮目神社(百間村姫宮神社)がある。近村の爪田ヶ谷村、蓮谷村、久米原村、須賀村、中村等に小名笠原あり。百間東村西光院条に「当院は行基の草創にて安部清明開基せり。昔は法相宗の大刹なり、末寺門徒塔中二十七ヶ寺あり、本尊薬師を安す」と。有名なる安部清明は附会にて、薬師を守本尊とする鍛冶集団の古代安部族の草創である。隣村の葛飾郡下高野村杉戸町)龍燈山伝燈記に「武総国界に一大入江有り、而して是を幸魂真間入江と申す。景行天皇御宇、倭建命、東国御下向の時、此入江御渡有り、御一島山に着く。和銅三年下総国住人孔王部堅・一家五十口を引連れ此の島に移り住す。神亀三年行基菩薩・道俗弟子数人を伴いて武州百間郷佐加狭井浦より大島郷に於て錫を給ふ」と見ゆ。古代は江戸湾より笠原沼に至り、宮代町逆井で上陸して大島郷(杉戸町)に着いた。また、男衾郡竹沢郷笠原村小川町)あり、正保年間より比企郡に属す。正倉院天平六年宝物に武蔵国男衾郡カリ倉郷笠原里と見ゆ。古代蓋族の居住地にて当村に笠原氏多く存す。また、小名では入間郡荻原村字笠原、二本木村字笠原、高麗郡鯨井村字笠原、秩父郡上小鹿野村字笠原あり。此氏は武蔵国北部に多く存す。



一 古代阿部族笠原氏 埼玉稲荷山古墳の鉄剣銘に「辛亥年七月中記、上祖名意富比垝、(中略)、其児名加差披余」とあり。オオヒコは阿部族を率いた代々の首領名である。其の子孫カサハヨは笠族の名を冠している。



二 武蔵国造族笠原直 笠原・笠間・風間等の笠族を支配管掌し笠原直を名乗る。物部族を支配するものを物部直と云う。古代氏族系譜集成に「兄多毛比命(武蔵国造、奉祭氷川神)―荒田比乃宿祢―宇志足尼―筑麻古―蚊手―加志―波留古―使主(武蔵国造、笠原直)―兄麻呂(物部直)、波留古の弟碓古―小杵(従兄使主と争ふ)」と見ゆ。日本書紀・安閑天皇元年閏十二月条に「武蔵国造笠原直使主、同族小杵と、国造を相争ひて年を経て決し難し。小杵は性阻にして逆あり。心高うして順なし。密かに就て援を上毛野君小熊に求めて、使主を殺さんと謀る。使主覚りて走出で京に詣りて状を申す。朝廷臨断、使主を以て国造と為し、小杵を誅す。国造使主悚憙(おそれよろこび)、懐にみちて、黙し巳む事能わず謹んで国家の為に、横渟・橘花・多氷・倉樔の四処の屯倉を置き奉る」と見ゆ。また、大里郡神社誌・相上村大里町)吉見神社条に「末社に東宮社、天神社あり。東宮社は祭神建夷鳥命の子建豫斯味命(吉見命)にして牟刺国造の始祖なり。又天神社は天穂日命・建夷鳥命を祭神とす。吉見郷は建豫斯味命・伊豆毛国より入間郡に遷り坐す故に吉見と云ふ。和銅六年五月奉勅・外従三位下牟刺国造笠原豊庭と宝物あり」と見ゆ。宝物は後世の造立であろう。



 「埼玉苗字辞典」によると「笠原」姓の源流は朝鮮半島の弁韓国の中の「蓋(かさ)族」より来るらしい。この弁韓国は弁辰ともいい、紀元前2世紀から4世紀にかけて存在していた三韓(馬韓、辰韓)の一つである。領域は馬韓の東側で、辰韓の南、日本海に接し、後の任那・加羅と重なる場所にあった地域と推測されている。この蓋族が古代日本に移住し姓も「笠、上、賀佐、風」と称した。

 この笠原という姓は日本国で30,000人、姓名ランキングで327位という。関東地方に圧倒的に多く、次いで新潟、長野の上信越地方、そして興味深いところで大阪、岡山県も比較的多数存在している。

   埼玉県   およそ8,600人     静岡県  およそ1,800人
   東京都   およそ7,800人     大阪府  およそ2,300人
   千葉県   およそ2,900人     岡山県  およそ2,800人
   群馬県   およそ3,300人
   神奈川県 およそ6,000人
   新潟県   およそ6,500人
   長野県   およそ3,600人
   愛知県   およそ1,800人

 「笠原」姓の他同族と言われている「風間」姓は全体的に多くは存在しない姓名ではあるが(全国ランキング714位、28,000人ほど)、やはり関東、甲信越地域に多くみられ、静岡県以西はあまり多くない。

   埼玉県   およそ3,200人           新潟県 およそ5,200人
   東京都   およそ4,300人     静岡県 およそ1,800人
   神奈川県 およそ2,600人     長野県 およそ1,400人

 この笠原姓は東日本地方に圧倒的に多く存在する中、岡山、大阪地方にも多くいることは着目に値することだ。岡山県には金工鍛冶の技術を持つ吉備氏系の笠氏の存在があり、新撰姓氏録では笠臣国造として孝霊天皇の皇子・稚武彦命の後裔氏族つぃて登場する。

笠臣国造
笠臣国造(笠国造)とは笠臣国(現・岡山県西部~広島県東部、笠岡市中心)を支配したとされ、国造本紀(先代旧事本紀)によると応神天皇(15代)の時代、元より笠臣国の領主をしていた鴨別命(かもわけのみこと)の8世孫である笠三枚臣(かさみひらのおみ)を国造に定めたことに始まるとされる。鴨別命は御友別の弟で、福井県小浜市の若狭彦神社の社務家である笠氏(笠臣)の祖と言われ、岡山県の吉備中央町にある鴨神社では笠臣(かさのおみ)が祖である鴨別命を祀ったと言われている。新撰姓氏録の笠朝臣(かさのあそみ)の項では、孝霊天皇の皇子・稚武彦命(わかたけひこのみこと)の後裔氏族であり、笠臣は鴨別命の後裔氏族として書かれている。また日本書紀には鴨別命が熊襲征伐の勲功により応神天皇より波区芸県主に封じられたとされているが、波区芸(はぐき)がどこかは不明である。  

 大阪府に関しても笠原氏に関して面白い事項がある。笠縫邑(かさぬいむら、かさぬいのむら)とは、崇神天皇6年に、宮中に奉祀していた天照大神を移し、豊鍬入姫命に託して祀らせた場所。同時に宮中を出された倭大国魂神は渟名城入媛命に託して、後に大和神社に祀った、とされる。 笠縫邑は大嘗祭、豊明節会の起源に関係する大事な土地との説もある。
 この笠縫邑は大阪市東成区深江南に鎮座する深江稲荷神社には、付近の深江は笠縫氏の居住地で、大和の笠縫邑から移住してきた、との伝承がある。万葉歌人高市黒人(たけちのくろと)が「四極山(しはつやま) うち越え見れば笠縫の島 漕ぎ隠る 棚無し小舟」と詠んだ様に、古代には、笠縫島といわれた。笠縫島は、現在の深江から東大阪市足代にかけて、入江に浮かんだ島であった。笠の材料の確保のため、笠縫氏は島に住んだと思われるが、もともと大和の笠縫邑も、同じような低湿地か、島状の土地だったのではないかとも推測される。 現在も大嘗祭に使用する笠は、この深江から天皇家へ献上されている。また、深江は、皇祖の御神鏡に関係する鋳物師とも関係が深い土地とのことである。
  


 さて日本全国見てもこの「笠原」姓は非常に少なく、現代人の私にとっても正直インパクトのない印象は拭えない。それなのに日本書紀にはハッキリと関東の片田舎の事件の一首謀者「笠原直使主」と明記していた事実は、ある意味面白い考察を提示してくれた。
 この「笠原」姓は確かに東日本地域には多く存在しているが、その大多数は西から移住した民族ではないだろうか。その中継所として「吉備地方」、「大阪府」が存在し、その中継所にも少なからず永住者が存在し、その地域における「笠氏伝承」となったのではないかと考えられる。その中継所も神話の宝庫である「吉備」や、皇祖の御神鏡に関係する鋳物師とも関係が深い土地である大阪の「深江」など、古代倭国神話形成における重要な地域だからこそ天皇家は「笠原」姓を忘れなかったのではないか、と推測する。

 また笠縫邑に関してはいくつか面白い考察もあり、別項を設けて述べたいと思う。


*補足   
 笠原久伊豆神社の接している道路は現在県道38号加須鴻巣線といい、かつての騎西道であり、別名、御成道とも称されていた。名前が示すとおり、徳川家康が鷹狩のさいに通った(とされる)道で、鷹狩で騎西方面に向かうために、家康が新たに作らせた街道である。                平成26年3月22日

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