山田淡州神社
この淡州神社が鎮座する比企郡も実は「阿波国」と親密な関係があった地帯のようで、平安時代に編纂された『延喜式』には武蔵国の郡名として比企が登場するが、「ひき」は日置が語源で、日置部(ひおきべ)という太陽祭祀集団と関係するという説がある。
ところで埼玉名字辞典において日置部一族は忌部氏、齋藤氏と同族であるとの記述がある。忌部氏は大和時代から奈良時代にかけての氏族的職業集団で 、古来より宮廷祭祀における、祭具の製造・宮殿、神殿造営に関わってきた。祭具製造事業のひとつである玉造りは、古墳時代以後衰えたが、このことが忌部氏の不振に繋がる。アメノフトダマノミコト(天太玉命)を祖先とし、天太玉命の孫天富命は、阿波忌部を率いて東国に渡り、麻・穀を植え、また太玉命社を建てた。これが、安房社で、その地は安房郡となりのちに安房国となったと伝えられる。いま、安房神社は安房国一宮となっている。
安房国長狭郡日置郷(鴨川市)に日置氏(ひき)が居住していて、安房国忌部の同族である日置一族は武蔵国比企郡に土着して、地名も日置の語韻に近い「比企」と称したという。この両国は古代から密接な関係があったらしい。「淡州神社」という一風変わった名称の社の存在こそ何よりの証拠ではないだろうか。
・所在地 埼玉県比企郡滑川町山田765 ・ご祭神 誉田和気命 息長足日売命 素盞鳴命
・社 格 旧山田村鎮守 旧村社
・例祭等 祈念祭 3月15日 禦祭 5月1日 夏祭 7月14日
秋祭 10月16日 新嘗祭 12月15日 大祓 12月27日
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0855273,139.3719081,18z?hl=ja&entry=ttu
淡州神社は埼玉県道250号線、森林公園停車場武蔵丘陵森林公園線を道なりに北上して行くと、山田交差点の西側、進路に対して左側に淡洲神社が鎮座している。駐車場は一の鳥居前に駐車できるスペースがあり、そこに車を停め参拝を行うことができる。
正面社号標柱と社の説明板
淡洲神社 滑川村大字山田(上山田)
祭神 誉田和気命 息長足日売命 素盞鳴命
由緒
当社は神功皇后が三韓鎮定に大功があったのを里民尊崇して此の地に神霊を奉斎したと伝承される。神社所蔵の古書によれば創建の年代は応永二(西暦一三九五)年とあり、往古は邑の総鎮守であったと云う。明治四年三月村社の格に列す。境内地五百七十七坪あり老樹うっ蒼と茂り古社の風格を漂わせている。(以下略)
案内板より引用
山田淡州神社正面鳥居 斜面上に鎮座、石段を上ると境内が見える。
拝 殿
淡州神社の祭神が品陀和氣命というのも不思議な感じだ。八幡神社でよさそうなものだが、元々の御祭神は淡洲明神で、水の神様だったのだろう。伊古乃速御玉比売神社の項でも書いたが、埼玉県で溜池がとても多い比企郡滑川地方で、明治の明神号使用禁止で御祭神が差し替えられたのかも知れない。
一に淡州明神と云、今は専ら伊古乃御玉比賣神社と唱へり、此社地元は村の坤の方小名二ノ宮にありしを、天正四年東北の方今の地に移し祀れり、祭神詳ならず、左右に稲荷・愛宕を相殿とす、当社は郡中の総社にして、【延喜式神名帳】に、比企郡伊古乃速御玉比売神社とあるは、即ち当社のことなり、[中略]
又此社式内の神社と云こと、正き証は得ざれども、村名をも伊古といひ、且此郡中総社とも崇ることなれば、社伝に云る如く式社なるもしるべからず、ともかく旧記等もなければ詳ならず、例祭九月九日なり、別当円光寺 天台宗、東叡山の末、岩曜山明星院と号す、
[中略]薬師堂 薬師は当社の本地仏なりと云
新編武蔵風土記稿」巻之百九十四(比企郡之九)より
拝殿の左側に向かい、石段を上って行くと御嶽山大神の石碑と石斧群がある。正面は御嶽山大神。八海山大神、覚明霊神、清龍祓戸大神、十二大神、毘古那神、火産霊神、塞三柱大神、一心霊神等神々の石碑が立ち並ぶ。
拝殿の左側に向かうと左奥に天神天満社が鎮座
天神天満社の奥にひっそりと佇む石神らしき石
磐座あたりかと考えたが、それにしてはあまりに寂しい状態で放置されていた。この淡州神社にはこのような石神がよく見ると多数存在しているようだ。人類の祖先が道具として、石を利用し始めたことは太古のことであり、人類の歴史が石器時代で幕を開けたように、石は人類と深い関わりを持ちながら共に歩んできた。日本でも多数のおびただしい旧石器時代からの石器が発掘されている。日本のみならず世界の文化の出発点として石は無くてはならない存在だった。現代でも石臼や漬け物石などの生活の道具として、あるいは石仏や墓石などの信仰の対象として、または伝説の素材としての巨石や奇石、建築土木においては礎石や石積みなど、あらゆる場で根強く信頼され利用されている。
残念ながら、時代の急速な変化によって、石の文化は生活の場から急激に姿を消しつつある。特に近年は神仏に対する畏敬の念が喪失し、信仰の対象となっていた様々な石造物は人々の記憶から消失されようとしている。時代の変化と言ってしまえばそれまでだが、寂しいことである。