古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

西城大天獏神社


熊谷市の北側に位置する妻沼地区一帯は平安時代、長井庄と言われる荘園が広がり、平安時代後期に活躍した藤原北家斎藤別当実盛の本拠地でもある。
 斎藤氏は、中世の武家家門。藤原氏の庶流を祖とすると思われるが確実な根拠はない
。一説では藤原北家・鎮守府将軍藤原利仁の流れを汲む斎藤氏一族と言われ、子・藤原叙用(のぶもち)が伊勢神宮の斎宮(さいぐうのかみ)を務めた際に、「斎藤(さいとう/斎宮頭の藤原)」を名乗った事が始まりとされる。当時伊勢神宮の斎宮頭(さいぐうのかみ)は名誉ある官職だった為に、多くの利仁流藤原氏が叙用(のぶもち)にあやかった為に斎藤(さいとう)を名乗るようになり、斎藤氏は平安時代末から主として越前国を本拠地にして主に北国に栄え、平安時代末から武蔵国など各地に移住して繁栄した。加賀斎藤氏,疋田斎藤氏,鏡斎藤氏,吉原斎藤氏,河合斎藤氏,長井斎藤氏,勢多斎藤氏,美濃斎藤氏などが特に有名である。
 長井斎藤氏は源頼義に従い前九年の役の合戦にて齋藤実遠が奥州で手柄を立て、長井庄を恩賞として賜ったのが始まりという。この長井庄は豊富な福川の水を利用して拓いた土地であり、北側には利根川もあり、交通や水運の拠点でもあった。
 当初、この地は西城があり、成田氏の本拠地があったらしい。当主は西城城主であり武蔵国司成田助高。斎藤氏が長井庄を賜り、着任に際しては争いもなく直ちに城を明け渡して東側の成田の地に転出したという。その後斎藤氏は地形上領内支配に適している自然堤防上高台にある広大な大我井(現聖天院)の地に移転したとのことだ。

 ・所在地  埼玉県熊谷市大字西城字本郷2
 ・御祭神  大山祇命、豊受比
賣命、市杵島姫命
 ・社 格   旧村社
 ・例 祭   春季祭 (旧暦)215

                
 西城大天縛神社の鎮座する熊谷市妻沼地区西城は、国道407号を北上し、西野交差点を右折する。そして埼玉県道263号弁財深谷線を東方向道なりに約2㎞程真っ直ぐ進むと、左側道沿いにこの社は鎮座する。ちなみに「西城」と書いて「にしじょう」と読む。
 地形を見ると、当社は西城地区の東端に位置し、すぐ北側には福川が県道に並行して流れている。その自然堤防上に鎮座している模様。
 
 今では辺り一面長閑な田園風景が続く静かな農村地帯だが、「西城」地域の歴史は意外と古い。西城神社のすぐ南側には嘗て「西城城」が存在し、 平安中期の天禄年間(970年~973年)に藤原左近衛少将義孝が居館を築いたといわれているが、実際に城を築いたのは義孝の子忠基であるとか、その末裔の藤原(成田)道宗が幡羅郡に土着して構えたとか幾つか説があり、実際はよくわからない。その後成田助高の代に「前九年の役」で武功をあげた齋藤実遠が源頼義より長井庄を与えられ西城に居館したという。
 成田氏といい、斎藤氏もそうだが、本拠地に西城を選ぶ何かしらの条件がこの地にはあったのだろう。

               
             埼玉県道263号線沿いに鎮座する西城神社。朱色の鳥居が印象的だ。
            またこの社は福川に並行して鎮座していて、珍しく「西向き」の社だ。

               
             鳥居の扁額には「西城神社」と明記されている。
 明治九年に村社となった際に村名をとって西城神社と社名を改めたものであり、『大里郡神社誌』によると旧名は「大天獏社」、つまり天白を祭る社ということだ。

               
                       拝 殿
 桜の季節がやや過ぎた時期に参拝したため、参道一面散った桜の花びらが広がる。ただその風景もまた美しく、暫し時間も忘れさせてくれる。社と桜のコントラストはやはり良いものだ。
 拝殿前には石の階段がある。おそらく北側にある福川の自然堤防からつくりだされた高台、もしくは妻沼低地に点在する自然堤防のひとつであろう。現在の西城神社のご祭神は大山祇命、豊受比賣命、市杵島姫命であるが、すぐ北側に福川があり、旧社名も「大天獏社」ということから、本来のご祭神は「水神」ではなかったのではないだろうか。
   
                           


  西城神社拝殿内部(写真左)とその上部に掲げてある社号額に記されている「大天獏」(同右)

  妻沼地区には字名では「市ノ坪」、また小字名で「切通の坪」、「城山の坪」、「築地之内の坪」、「宿場の坪」、「長安寺の坪」等がある。この「坪」は「じょう」とも読め、古代奈良時代律令制度の「条里制」の名残がこの地域には現在でも字、または小字名として残っている。
 「西城」という地名も、条里制における区画・面積の単位である「坪」が地名として現代に残ったものであると考えられる。現在でもこの地域一帯には、東別府地域では「条里再現の碑」があるし、
熊谷市の中条(ちゅうじょう)、妻沼町の市の坪などの地名が残されていて、かつてこの地域に条里制がしかれていたことを示している。大和政権による中央集権的律令政治が確立する8世紀初頭のある時期、この地域は大和政権の支配下地域として、条里制を積極的に推進していた。


  「大里郡誌」には、西城神社の信仰について「気管支病に霊験ありと言ひ奉賽に麦煎粉を献じ祈願するもの頗る多し」、また祭祀行事について「古来御祭神の好ませ給ふところとて角力の行事あり現に他の行事は一切行われず」と掲載されている。信仰についての記述では、「気管支病」と書かれているが、おそらくこれは「気管支炎」であろう。この気管支炎は外界からの塵や微生物を含んだ空気が気管支を通過した際に、気管支粘膜に炎症が起こり、痰を伴う咳がみられる状態を一般的に気管支炎という。気管支炎の病態は微生物の感染のほかに、喫煙、大気汚染、あるいは喘息などのアレルギーによっても起こるという。
 西城地域は嘗て気管支炎の症状をもつ人が多かったといわれている。ここで思い返す伝説がこの西城地域の近郊の聖天院に残されている。昔、妻沼の聖天様と、太田の呑竜様が戦さをし、太田の金山まで攻め込んだ聖天様が、松の葉で左目を突いてしまい、呑龍様を討ち取ることができなった。それ以来、聖天様は松が嫌いで、妻沼地方では松を植えなくなったという話だ。俗にいう「片目伝説」の妻沼地域版ともいえるこの伝承だが、タタラ製鉄による疾患は片目だけではない。鉄製造から発生する粉塵等から肺疾患に陥るケースも決して少なくない。気管支炎、気管支喘息の類だ。

 つまりこの妻沼地域にもタタラ製鉄を生業とする地域が存在していて、その中心地域が西城地域、また妻沼聖天院がある大我井地域の2か所だったのではないだろうか。成田氏や斎藤氏もそうだが、一時的とはいえ本拠地に西城を選ぶ何かしらの条件のひとつが製鉄に関するものではなかったのではなかったのか。その伝承の痕跡が「聖天様の松嫌い」や「西城神社の気管支病」にあたるものであったと筆者は考える。
 また西城神社の御祭神の大山祇命は製鉄に関連する神と考察する学者もいる。大山祇命は日本神話にも登場する有名な山の神である。「古事記」では、大山津見神と表記され、神産みにおいて伊弉諾尊と伊弉冉尊との間に生まれた神であり、「日本書紀」では、イザナギが軻遇突智を斬った際に生まれたとしている。思うに日本は山の多い土地条件をもつ国であり、この神は各地に祀られている。記紀に登場する神というより、それ以前の縄文時代から各地に自然発生的に登場した神と考えるほうが自然のことではないだろうか。

 ところで大山祇命は別名和多志大神とも表記されている。「和多」や大山「津見」神から海に関連した神と考える人も多い。山の神でありながら同時に海に関連する神というのも不思議な疑問だが、四方海に面し、同時に平野部が少なく、海岸線に直接的に山々を配する日本独特の地形ならば、そのような考察も可能かとも思われる。
  但しこの大山祇命と大天獏との因果関係が今一つはっきり解らない。西城大天獏神社は決して規模が大きな社ではないが、西城という地域の歴史が奈良時代以前とかなり古く、「大天獏」という名称も相まってその考察も自然と慎重となってゆく。歴史の重みを肌で感じた、そんな参拝だった。





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中山加治神社

  飯能市は埼玉県の南西部に位置する人口8.2万人の市である。地形は山地、丘陵地、台地に分けられ、北西部は山地で、市域の約76 %を森林が占めていて、都心から50km圏内と近くにありながら自然豊かな地域といえる。南東部は丘陵地および台地で、北の高麗丘陵(飯能丘陵)と南の加治丘陵(阿須山丘陵)との間に発達した市街地は、入間台地と呼ばれる洪積台地上にあり、面積は約15㎢という。
 この加治丘陵と入間台地の境に位置する中山地区の緩やかな斜面上に中山加治神社は鎮座している。
所在地   埼玉県飯能市中山字吾妻台716
御祭神   高御産巣日命・神御産巣日命・菅原道真
社  挌   旧村社
例  祭   3月25日・春祭 9月29日・例祭 11月23日・秋祭

         
 中山加治神社は埼玉県道30号を小川町方面から南下し、埼玉西部消防署交差点のY字路を右折し、そのまま真っ直ぐ進むと道路沿い右側に一の鳥居が見えてくる。南北に入間台地から丘陵地に進む緩やかな勾配のある上り坂を進むと正面に二の鳥居、そして左側に広い公園があり、そこに梅の花がほのかに咲き始め、2月後半の参拝とはいえ、早春の気分を感じさせてくれる参拝となった。
           
                 道路沿いで北側にある中山加治神社一の鳥居
           
                   一の鳥居から真っ直ぐ進むと二の鳥居がある。

         二の鳥居の手前右側にある御神徳記(写真左)と加治神社の案内板(同右)

中山氏と加治神社
 伝承によると中山信吉の祖父にあたる中山家勝は上杉氏の家来として、北条氏との河越夜戦に敗れ中山に戻るとき、入間川の洪水に阻まれる。その時葦毛の馬を連れた老人に救われ、中山にたどり着く。老人は「吾は吾妻天神なり」と言い残し馬とともに、天神様の前で姿を消したという。
加治神社は、明治の初め、聖天社が改称された名称だと考えられる。その後、この伝承の残る天神様(天満宮)は、加治神社と合祀される。
 加治神社の現在の本殿は、明治40年頃智観寺の北にあった丹生神社が合祀されたときに移築されたものである。参道には寛永19年の石燈籠が六基並んでいる。中山信吉の嗣子中山信正が丹生神社中興にあたり寄進したもので、本殿とともに移転された。信正は丹生神社の祭礼にも力を注ぎ、中山村の隆盛に力を注いだ。
 加治神社は、中山氏の足跡を残していると同時に一時は中山町と称されていた中山村繁栄の一端を示している。    平成15年3月
                                                           案内板より引用

 案内板では、加治神社は慶長元年(1596年)、武蔵七党の丹党中山家範の家臣本橋貞潔が主君の遺命に奉じて天神社として勧請したという。武蔵七党とは平安時代末期から鎌倉・南北朝時代にかけて、武蔵国を中心に下野、上野、相模といった近隣諸国にまで勢力を伸ばしていた同族的武士集団の総称であり、必ずしも七党に限られたものではなく、横山・猪俣・西(西野)・野與・村山・児玉・丹(丹治)・綴・私市の九党が武蔵七党に該当する武士団として挙げられる。
 この武蔵七党の一派である丹党は宣化天皇の曾孫多治比古王の後裔と伝えられる。多治比古王が生まれたとき、産湯の釜に多治比 (虎杖=いたどり)の花が浮かんだことから姓を多治比と賜ったという。子の左大臣島(志摩)は丹治と改め、その子県守、 広足らは武蔵守に任じられ、やがて武蔵に土着するようになったという。俗にいう「丹党秩父氏」の起源譚だ。
 その後、時代が下り、秩父郡領となった武経や、その子武時は石田(岩田)牧の別当となり丹貫主を号し、その子孫は本家である大宮郷(現秩父氏大宮)を領有した中村氏を始め、古郡・大河原・塩屋・横瀬・秩父・勅使河原・新里・安保・青木・高麗・加治・肥塚・白鳥・岩田の諸氏が分家として発展し、武蔵国の主に秩父郡周辺と飯能市周辺に勢力を伸ばした一族だ。飯能という地名も丹党の一族である判乃氏が居住したとも言われる。またこの丹党が居住していた地域には丹生社が多く、丹一族の鎮守社との意味合いも深い。

             
           二の鳥居から緩やかな上り坂の参道を進むと正面に社殿が見えてくる。

 参道を進むと右側に社務所があり、社務所入り口付近の上部には「吾妻天神・加治神社」と書かれた木製の社号額が掲げられていた。

 加治氏は、秩父から飯能にかけて活動した武蔵七党の丹党の一派で、平安時代に関東に下った丹治氏の子孫と称している。丹党の秩父五郎基房(丹基房)の嫡子直時が勅使河原氏、次男綱房は新里氏、三男成房は榛原氏、四男重光は小島氏、そして五男高麗経家の次男である家季が加治氏を称したとされる。この家季は元久二年(1205)六月、武蔵国二俣川において畠山重忠と戦って討死し、その後その子の加治豊後守家茂は亡父の菩提を弔うため飯能市元加治にある円照寺を建立したという。
 つまり加治氏が飯能市元加治を本拠地とした時期は、家季が加治氏を称した時からその子家茂が円照寺を建立した間となろう。
             
     参道の先にある社殿。また参道には寛永19年丹党中山信正が寄進した6基の石燈篭がある。
           
                              拝     殿

 縁起に云、天文20年川越夜軍の時、中山勘解由家勝当所より出陣せしに、敗軍して其夜中山へ帰らんとせし時、入間川満水にて渉りかね、殊に艱難の折からいづくとも知らず独の老人、葦毛の馬を牽来て家勝を扶け乗せ中山に帰る。家勝その姓名を問ふに、我は吾妻天神なりと云て、人馬ともに社のほとりに所在を失ふ。是よりして導の天神とも称すと云、此故を以て今も中山が子孫と、当村の民家にては、葦毛の馬を飼養せずと云。川越夜軍は天文15年なるを20年と云は、縁起の年代をあやまれり。
                                                   新編武蔵風土記稿より引用

         拝殿に掲げている社号額                     本     殿

 現在の社名は加治神社ではあるが、近郊の人々は古くからの名前を尊び、また親しみを込めて「天神様」、そして古くからの呼称を知っている人は「吾妻天神」とも呼ぶ。加治神社が鎮座する地は「吾妻台」と呼ばれているが、この「吾妻」の語源を考えると「稲妻」=「雷神」ではなかったのではないかと考えられる。
 雷神信仰として有名なのは京都の「加茂別雷神社」「加茂御祖神社(下鴨神社)」の2社である。御祭神は加茂別雷大神、玉依姫命(加茂別雷大神の母)と言われているが、関東地方周辺に広がる雷神信仰はそれとは違った形態と思われ、遥か昔からの民間信仰から自然発生的に生まれた信仰であったと思われる。
 群馬県板倉町を総本山とする「雷神神社」は関東を中心に約80の分社があるが、「雷」の付く神社の鎮座地は、いずれも落雷多発地域であり、社地が自然堤防上の微高地や氾濫原など河川や湖沼沿いにあるという共通点がある。御祭神は火雷・大雷・別雷大神であり、この神々は雷を支配する神であり、荒魂・和魂双方の性格を有する。荒魂としては、雷の威力によって降水をもたらすと同時に病害虫を駆除する農業神として崇められ、また和魂としては恵みの雨をもたらし、万物に生気を与える神である。特に関東では雨乞いの神として崇敬者を集めているという。
 俗にいう天神信仰は、現代では菅原道真と結びついて菅原道真=天神様=火雷天神という形で畏怖・祈願の対象とする神道の一信仰形態となっているが、元々の「天神」とは地主神である「国津神」に対する「天津神」の総称であるという。天神の起源に関しては通説といわれる前出の記述とは違う考察を筆者は考えているが、長くなるのでここでは敢えて省く。とにかくこの天神信仰は江戸時代に菅原道真と結びついた後に神格が変化し、日本全国に波及し、天神=菅原道真=学問の神・雷神という図式となったわけだ。

 天神信仰は、民間伝承による雷神信仰の起源ほど、時代は古いといわれている。加治神社に伝わる話はそのうちどちらであろうか。新撰武蔵風土記稿では天文20年(1546年)の川越夜戦を加治神社の創建時期を明記しているが、筆者の考えは、何となくボンヤリではあるが、この説話は丹党加治氏がこの地を治めた時期よりも遥かに古い伝説のような気がしてならない。
                
                              本殿内部
 武蔵七党・丹党は秩父地域から名栗川・入間川に沿って進出し、飯能市・入間市方面まで移住先を伸ばした。しかしそもそも丹党加治氏は何故この入間・飯能市方面に移住先を決めたかのか。この加治丘陵の地層にヒントは隠されていた。
 加治丘陵は入間川のつくった台地と多摩川がつくった台地の間に半島状に突き出したもので、その地質は下位よりの更新世の浅海にたまった飯能れき層、仏子粘土層そして河川堆積物の金子礫層とローム層から出来ていて、関東ローム層(火山灰・粘土層)を上部に、第三紀・樹木化石を含む地層があり、第四紀・礫層は砂鉄の含有が多いと言うことが調査の結果判明しているようだ。残念ながら現在においても飯能市市内には製鉄の遺跡等は確認されていないようだが、加治氏(鍛冶氏)が採掘・選鉱・錬金・たたらの方法などを熟知していた一族で、良質な砂鉄が出土するこの地を移住先に選んだのであろう。

            
                           社殿の奥にある境内社
                三十番神社、三峯神社、八坂神社、愛宕神社、琴平神社

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渡瀬木宮神社

 武蔵国の北辺に位置する賀美郡は地形上利根川や烏川、または神流川を隔てて上野国との繋がりが古来より頻繁な地域であり、神川町もまたつい最近まで神流川を中継して鬼石町との交流が盛んな地域であったようだ。この神流川流域の狭い空間にある古社(金鑚神社、鬼石神社、土師神社、丹生神社、木宮神社)には共通した文化圏を形成していたと思われ、その関連性も注目される。
 神川町渡瀬地域にはこの木の神である句句廼馳神を祀る木宮神社が鎮座している。
所在地    埼玉県児玉郡神川町渡瀬737
御祭神    句句廼馳神
社  挌    旧村社
例  祭    4月中旬の日曜日 渡瀬の獅子舞  10月14日 木宮神社座祭

       
 渡瀬木宮神社は埼玉県道・群馬県道22号上里鬼石線を上里町から藤岡市鬼石方向に南下し、渡瀬郵便局の先にホームセンターが左側にあり、その道路を挟んで右側に鎮座している。但し道路沿いにあるのではなく、民家のすぐ西側に鎮座しているし、道も狭い。駐車スペースも十分確保されていないので、ほぼ横付けして急ぎ参拝を行った。
           
                          南方向にある一の鳥居

   一の鳥居の手前で左側にある石祠、石碑群。      一の鳥居の手前ですぐ右側にある社日。

 この渡瀬地域は三波石の産出地である鬼石町三波石狭に近く、渡瀬木宮神社境内にも多くの石碑等がある。この三波石狭は,藤岡市南部,神流川中流の下久保ダムから下流約 1.5kmの間の渓谷。緑泥片石に石英の白い縞模様のある三波石の大転石が河床に重なり合って美しく庭石に利用されている。国の名勝・天然記念物に指定されている。

 一の鳥居付近のある大きな石碑(写真左)。何と彫られているか不明。また境内参道途中の右側には「猿田彦命」と彫られた石碑(同右)もある。どちらも石碑の上部が削られている形跡がある。
           
               「猿田彦命」の石碑の先にある「渡瀬の獅子舞」の案内板

渡瀬の獅子舞       昭和62年3月10日  町指定民俗資料
 渡瀬の獅子舞は、稲荷流といって藤岡市の大塚から、200年程前に伝授されたという。
 その昔、渡瀬に流行病があった時に、厄払いとして松山稲荷に獅子舞を奉納したのが始まりと伝えられ、当時は長男に限られていたが、現在は特に制限されていない。
 獅子舞は、春祭(4月中旬)、秋祭(10月中旬)に木宮神社でおこなわれるが、八坂神社の例祭(7月下旬)にも奉納される。
 獅子は、黒獅子・赤獅子・青獅子の三頭で、その外に、花(?)・ひょっとこ・カンカチ・天狗・花万灯持ちの役割がある。(中略)
                                                          案内板より引用
           
                         「民俗資料 座祭」の舞台
           
                          木宮神社座祭の案内板

木宮神社座祭    昭和35年3月1日 県選択無形民俗文化財
 木宮神社座祭は、木宮神社で10月14日に行われ、県内はもちろんのこと、関東地方においても類の少ない古式の祭である。 
 座祭は、渡瀬の草分け百姓と伝えられる32戸の旧家が本家筋と分家筋の二つに分かれ、それぞれ一戸ずつが組みを作り、都合16組が1年交代で頭屋を務めて行われる。この場合に本家筋を「真取り」といい、分家筋を「鼻取り」という。
 座祭は、江戸時代の慶長年間(1596~1615)に須藤新兵衛が仲田弐反歩を奉納して、ここから採れる神米で祭を賄ったことに始まったと伝えられている。
 また延享3年(1746)の座席図によると、この頃には32戸が座祭に関係していたことがわかる。
 座祭の当日は、「座奉行」が一切を取り仕切り、拝殿に対して「一の座」、左側に「二の座」、右側に「三の座」の三つの座が設けられ、それぞれの座には、中央に「本座」があり、稚児により順次御神酒・赤飯が給付される。祭の最後には、新旧頭座が中央に対座し、引渡しの儀式を行い祭の全てを終了する。
                                                           案内板より引用

 案内板に書かれている「須藤家」は神川町渡瀬地区に多く存在する。須藤家系図に「永享十二年須藤伊与守が信州諏訪より移住し、渡瀬村を開白す」と書かれ、また児玉郡誌に「渡瀬村の木宮神社は、永享年間に須藤伊与守・原大学・山口上総介・田中膳道・矢島左馬之助・大谷内蔵人、等の協力によって興隆す。慶長年間に至り、須藤安左衛門は同社に神田二反歩を寄進す」と案内板とは違った名前(須藤安左衛門)で登場する。もしかしたら同じ人物であった可能性もある。

            

                             拝      殿
           
 木宮神社の拝殿上部に掲げてある社号額はこの地の実業家である原家の別荘に来訪した伊藤博文の書である。龍宝寺安政四年三ツ具足寄附に原太兵衛。明治二年五人組帳に年番名主原太兵衛・組頭原喜十郎・組頭原庄作。明治四年戸籍に原喜十郎・原庄作・原治平・原浪太郎。太兵衛の子原善三郎(文政十一年生、明治三十二年没)は実業家にて、貴族院・衆議院議員を歴任したという。その縁故で、この地に伊藤博文が来訪したその際に書かれたものだろう。
           
           
                             本      殿

         社殿の奥にある境内社                 社殿の左側に並んだ境内社群

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勅使河原丹生神社

 勅使河原氏は武蔵七党の一派丹党の出で、秩父丹五基房の嫡男直時が1075年頃、武蔵国賀美郡勅旨河原に本拠地を置き、勅使河原という地名を家号として称したのが始まりという。この勅使河原氏は四字の苗字では日本一に多く、日本全国に3,000人いると推定されているが、そのルーツはこの武蔵国賀美郡(現埼玉県児玉郡域内)勅使河原とのことだ。
所在地   埼玉県児玉郡上里町勅使河原1368
御祭神   埴山姫命
社  挌   旧村社
例  祭   大祓 7月13日  秋祭り 10月20日   

       
 勅使河原丹生神社は国道17号線を金久保地区から西方向に進み、勅使河原交差点を左折し、関越自動車道を抜けると西側に約200m程の場所に鎮座している。この勅使河原地区はすぐ西側に神流川が流れ、まさに武蔵国と上野国の境に位置する地域で、現在は閑散とした田園風景が続く地域だ。
           

                      勅使河原丹生神社正面の一の鳥居
 この社の創建時期について『明細帳』は「古老の口碑」として、応永年間(1394年~1427年)に神流川の辺に創立されたが、その後、出水で社地が流出したため、永禄二年(1559年)に現在の所に遷座したと伝える。ちなみにこの応永年間は日本の元号の中で、昭和、明治に続いて3番目に長い元号で(35年間)、一世一元の制導入以前では最長と言われている。
           
                            神      門

   「正一位丹生大明神」と記された神門の扁額     神門上部には未だ色彩鮮やかな彩色が残り、
                                         彫刻も見事に施されている。
           
                   神門天井部にも鮮やかな絵が残されている。
           
                        神門の手前右側にある案内板

丹生神社  御由緒
御縁起(歴史)    上里町勅使河原一三六八
 勅使河原は、武蔵七党の丹党に属した勅使河原氏の名字とされる。丹党系図によれば、丹党の祖とされる武信から七代目の子息武時が勅使河原氏を称しており、また、長野勅使河原系図にも、承保二年(一〇七五年)四月二日に「ト地同国賀美郡勅使河原邑移居、則以地名為家号」とあることから、平安時代末期には勅使河原氏がこの地に住していたことがわかる。当社は勅使河原の鎮守である。
 当社の創建について、「明細帳」は「古老の口碑」として、応永年間(一三九四-一四二六)に神流川の辺に創立されたが、その後、出水で社地が流出したため、永禄二年(一五五九)に現在の所に遷座したと伝える。一方、『児玉郡誌』も同様の話を載せているが、創立は大永年間(一五二一-二八)、遷座は永禄二年と、創建の年代が異なる。しかし、『風土記稿』勅使河原村の項に「丹生社 村の鎮守なり、昔は神流川辺にありしが、川欠にて元禄年中(一六八八-一七〇四)今の地へ移せり」と載り、当社も元禄十六年(一七〇三)の年紀のある幣束が現存することから、遷座の時期は元禄年間と思われる。
明治に至り、神仏分離が行われるまで、当社の西隣にあった当山派修験の文殊院が別当として当社の祭祀を行ってきた。大正年間まで神職を務めていた下山家はその末裔で、現在は神社の祭祀とは直接かかわりはないが、今も神葬祭を続けている。(以下中略)
                                                          案内板より引用
           
                   平成24年春の改修竣工で新しくなった社殿。

          社殿改修の記念碑                         拝殿内部
        
                          社殿の手前にある御神木
 しかしこの「勅使河原」という地名は考えてみると不思議で、何故に「勅使」という言語の入った地名が存在するのだろうか。11世紀中ごろには、秩父丹五基房の嫡男直時がこの地名を家号にしたというのだから、「勅使河原」という地名は1075年よりも遥か以前に存在していたことになる。通説では勅使田のあった河原が語源であり、東日本により多く存在していて、勅使によって開発された田で、多くは皇室の諸費用にあてられたらしいが、それならば東日本広域でも、もう少し、より多く、その地名があっても不思議ではないと思われるのだが。

                          社殿の近くにある境内社

        神門の東側にある神楽殿          神楽殿の近くにも多くの境内社が祀られている。


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金窪八幡神社

  神流川合戦は、天正10年(1582)6月18・19日の両日にわたって、武蔵及び上野国境の神流川を舞台としておこなわれた、上野厩橋城主滝川一益と武蔵鉢形城主北条氏邦・小田原城主北条氏直との戦いで、別名「金窪原の戦い」ともいわれる。
 そもそもこの戦いの原因は6月2日未明、滝川一益が仕えた織田信長が、一益の同僚でもある明智光秀によって殺害された本能寺の変で、6月9日早飛脚によってこの報を聞いた滝川一益は、逆賊明智光秀を討つため、いち早く本国伊勢にとって帰ろうとしただけであり、同盟国であったはずの関東小田原後北條氏とは戦うつもりはなかったろう。つまりこの戦いの主導権は最初から後北條氏側にあり、関東覇権の野心をひた隠し、表面上は信長側と同盟しただけの後北條氏側にとって信長の死はまさに「時は今」の状況下であったことだろう。
 この神流川の戦いの主要舞台となった地が上里町金久保地域周辺と言われていて、時は真夏、河川以外の障害物がない平原での大激闘であったという。
所在地    埼玉県児玉郡上里町金久保1052
御祭神    誉田別命
社  挌    旧村社
例  祭    3月15日 祈年祭  7月18日 例大祭     

        
 金窪八幡神社は国道17号線を上里町方向に進み、神保原(北)交差点のY字路を右側に進む。この道路は旧中山道で、現在埼玉県道392号勅使河原本庄線という名であり、そのまま直進すると約1km位で右側に金窪八幡神社が鎮座している。道路沿いで、一の鳥居の手前周辺には比較的広い駐車スペースが確保されていて、そこに車を停めて参拝を行った。
            
              道路沿いにある「金窪之郷 八幡神社」と刻まれた社号標石
            
                   社号標石の前にある金窪八幡神社の案内板
 金窪八幡神社はは大永五年(1525年)に金窪城主の斎藤盛光が鎌倉の鶴岡八幡宮を城内に勧請したことに始まり、武運長久の神として斎藤氏の崇敬を受けてきたが、天正十年(1582年)の神流川の合戦によって斎藤氏が敗退した後は、村民が村の鎮守として祀るようになったものという。

          金窪八幡神社境内                         案内板

金窪神社 御由緒    
御縁起  上里町金久保1511-八

 神流川と烏川が合流する金久保は「金窪」とも書き、その地内には秩父郡の土豪で、南北朝時代に新田義貞と共に転戦した畑時能の居城である金窪城があったことで知られる。金窪城は戦国時代には小田原北条氏の勢力の北限の守りとして、天正十八年(一五九〇)に德川氏の支配下に入るまで氏邦の臣の斉藤氏の居城であった。
 『明細帳』によれば、当社は大永五年(一五二五)に金窪城主の斎藤盛光が鎌倉の鶴岡八幡宮を城内に勧請したことに始まり、武運長久の神として斎藤氏の崇敬を受けてきたが、天正十年(一五八二)の神流川の合戦によって斎藤氏が敗退した後は、村民が村の鎮守として祀るようになったものという。更に口碑によれば、元和年間(一六一五~二四)に中山道の開通により現在地に遷座したと伝えられ、金窪城跡の三〇〇㍍ほどの東にある旧地は「元八幡」と呼ばれている。
 江戸時代には天台宗の長命寺が別当であったが、神仏分離によってその管理を離れ、明治五年に村社になった。ちなみに、長命寺は廃寺になり、今では堂の痕跡はないが、当社のすぐ北東にあったという。その後明治四十一年に字松原の無各社菅根神社を境内に移転し、続いて同四十四年には字西金の村社丹生神社、その境内社三社、大字内の無各社七社の計一一社を合祀した。これは政府の合祀政策に従ったものであり、合祀を機に当社は八幡神社の社号を金窪神社と改めた。
                                                          案内板より引用
         

           
                             拝      殿
                
                     拝殿の左側手前にある銀杏の御神木
             
           
                             本      殿
 この金窪(金久保)地区は案内板の説明にもあったように、神流川と烏川の合流地点のすぐ南側に位置し、この地名通り「窪地」であったのだろう。この二つの河川の乱流河道の中に取り残された低地の中にある微高地の一角に金窪八幡神社は鎮座している。
 金窪八幡神社の近隣には金窪城が嘗て存在していた(その遺構は埼玉県指定史跡)。今はその城址には石碑がある程度で、わずかに土塁が残っているだけだが、その歴史を見ると、治承年間(1177~81)に武蔵七党の丹党に属した加治家季によって築かれたとされているというので、かなり古くまで遡るらしい。

 この加治氏は、秩父から飯能にかけて活動した武蔵七党の丹党の一派で、平安時代に関東に下った丹治氏の子孫と称している。丹党の秩父五郎基房(丹基房)の嫡子直時が勅使河原氏、綱房は新里氏、成房は榛原氏、重光は小島氏、そして経家の子の家季が加治氏を称したとされる。
 加治氏は飯能市から秩父地域にかけて活動した武士団で、拠点は飯能市付近と言われているが、金窪城の案内板を見る限りではこの金久保地域にも加治氏が存在していた痕跡が見られることから、加治氏の一派がこの地域を治めていたことは確かなようだ。
 ところで丹党の「丹」は、朱砂(辰砂・朱色の硫化水銀)とも言われ、水銀の採掘に携わる一族とも言われている。上里町と神川町の西側には神流川が流れているが、この神流川の「神流」の語源は「鉄穴」にあるといわれているし、武蔵二ノ宮の金鑚神社は延長5年に編集された「延喜式神名帳」では「金佐奈神社 名神大」と記載され、「金佐奈(かなさな)」の語源は「金砂」にあると考えられているように、採鉱・製鉄集団によって祀られたのが当社の実際の創祀と見られ、古代のある時期、この地域と製鉄業との関係は根深い所で結ばれていたと思われる。
           
                           社殿奥にある境内社

 もしかしたらこの「加治氏」も嘗ては文字通り「鍛冶氏」だったのではなかろうか。また金窪八幡神社の「金」も金属加工を意味するとも考えられる。丹党は武蔵七党の一派として、秩父地域から賀美郡、また飯能市地域にわたって繁栄した一族でもあり、その先祖は第28代宣化天皇の子孫である多治比氏の後裔と言われているが、史書上に掲載されている系図の記載内容が史実と矛盾することも多く指摘されていて、実は多くの謎を秘めた一族でもある。宣化天皇の御名代の一つ檜前舎人の伴造家であった檜前一族がその祖ではないかという説もあり、実際賀美郡には檜前一族が存在していたことは、古文書等にも記載されている。
           
           参道の右側には社務所があり、そこの一角には鬼瓦が展示されている。

 前出の神流川の戦いはかなり広範囲で戦われたようで、この戦いによりかなりの社が戦火の被害にあい、焼失し古文書等が失われている。古文書等には当時の人々の歴史や文化を考察する重要な資料の一つでもあり、非常に残念な思いだ。

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