古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

山田淡州神社

  伊古乃速御玉比売神社の周辺には淡洲神社が濃密に分布していて、その特徴は南北方向には広範囲だが、東西方向は狭い。淡洲神社は滑川町土塩、福田、山田に、大雷淡洲神社が滑川町山田に、阿和須神社が滑川町水房にある。因みに「淡州」と書いて「アワス」と読む。文字通り四国「阿波国」に関係する社である。不思議なことだが関東地方には「アワ」の名がついた神社が数多く存在する。千葉の「安房」が、徳島の「阿波」から来ていることは有名だが、阿波国は「粟国」と書かれた時代もあり、阿波国内に「粟島」「淡島」があり、「阿波」「安房」「粟」「淡」、みな「阿波国」発祥の地名だそうだ。
 この淡州神社が鎮座する比企郡も実は「阿波国」と親密な関係があった地帯のようで、平安時代に編纂された『延喜式』には武蔵国の郡名として比企が登場するが、「ひき」は日置が語源で、日置部(ひおきべ)という太陽祭祀集団と関係するという説がある。
  ところで埼玉名字辞典において日置部一族は忌部氏、齋藤氏と同族であるとの記述がある。忌部氏は大和時代から奈良時代にかけての氏族的職業集団で 、古来より宮廷祭祀における、祭具の製造・宮殿、神殿造営に関わってきた。祭具製造事業のひとつである玉造りは、古墳時代以後衰えたが、このことが忌部氏の不振に繋がる。アメノフトダマノミコト(天太玉命)を祖先とし、天太玉命の孫天富命は、阿波忌部を率いて東国に渡り、麻・穀を植え、また太玉命社を建てた。これが、安房社で、その地は安房郡となりのちに安房国となったと伝えられる。いま、安房神社は安房国一宮となっている。
 安房国長狭郡日置郷(鴨川市)に日置氏(ひき)が居住していて、安房国忌部の同族である日置一族は武蔵国比企郡に土着して、地名も日置の語韻に近い「比企」と称したという。この両国は古代から密接な関係があったらしい。「淡州神社」という一風変わった名称の社の存在こそ何よりの証拠ではないだろうか。
             
             ・所在地 埼玉県比企郡滑川町山田765                                                   ・ご祭神 誉田和気命 息長足日売命 素盞鳴命
             ・社 格 旧山田村鎮守 旧村社
             ・例祭等 祈念祭 315日 禦祭 51日 夏祭 714
                  秋祭 1016日 新嘗祭 1215日 大祓 1227
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0855273,139.3719081,18z?hl=ja&entry=ttu           
 淡州神社は埼玉県道250号線、森林公園停車場武蔵丘陵森林公園線を道なりに北上して行くと、山田交差点の西側、進路に対して左側に淡洲神社が鎮座している。駐車場は一の鳥居前に駐車できるスペースがあり、そこに車を停め参拝を行うことができる。
           
                         正面社号標柱と社の説明板
 淡洲神社 滑川村大字山田(上山田)
 祭神 誉田和気命 息長足日売命 素盞鳴命
 由緒
 当社は神功皇后が三韓鎮定に大功があったのを里民尊崇して此の地に神霊を奉斎したと伝承される。神社所蔵の古書によれば創建の年代は応永二(西暦一三九五)年とあり、往古は邑の総鎮守であったと云う。明治四年三月村社の格に列す。境内地五百七十七坪あり老樹うっ蒼と茂り古社の風格を漂わせている。(以下略)
                                                            案内板より引用


           山田淡州神社正面鳥居             斜面上に鎮座、石段を上ると境内が見える。      
             
              
                                      拝 殿
 淡州神社の祭神が品陀和氣命というのも不思議な感じだ。八幡神社でよさそうなものだが、元々の御祭神は淡洲明神で、水の神様だったのだろう。伊古乃速御玉比売神社項でも書いたが埼玉県で溜池がとても多い比企郡滑川地方で、明治の明神号使用禁止で御祭神が差し替えられたのかも知れない。

 一に淡州明神と云、今は専ら伊古乃御玉比賣神社と唱へり、此社地元は村の坤の方小名二ノ宮にありしを、天正四年東北の方今の地に移し祀れり、祭神詳ならず、左右に稲荷・愛宕を相殿とす、当社は郡中の総社にして、【延喜式神名帳】に、比企郡伊古乃速御玉比売神社とあるは、即ち当社のことなり、[中略]
 又此社式内の神社と云こと、正き証は得ざれども、村名をも伊古といひ、且此郡中総社とも崇ることなれば、社伝に云る如く式社なるもしるべからず、ともかく旧記等もなければ詳ならず、例祭九月九日なり、別当円光寺 天台宗、東叡山の末、岩曜山明星院と号す、
[中略]薬師堂 薬師は当社の本地仏なりと云            
                                     新編武蔵風土記稿」巻之百九十四(比企郡之九)より

               

 拝殿の左側に向かい、石段を上って行くと御嶽山大神の石碑と石斧群がある。正面は御嶽山大神。八海山大神、覚明霊神、清龍祓戸大神、十二大神、毘古那神、火産霊神、塞三柱大神、一心霊神等神々の石碑が立ち並ぶ。
               
                                        拝殿の左側に向かうと左奥に天神天満社が鎮座
                          
                                        天神天満社の奥にひっそりと佇む石神らしき石

 磐座あたりかと考えたが、それにしてはあまりに寂しい状態で放置されていた。この淡州神社にはこのような石神がよく見ると多数存在しているようだ。人類の祖先が道具として、石を利用し始めたことは太古のことであり、人類の歴史が石器時代で幕を開けたように、石は人類と深い関わりを持ちながら共に歩んできた。日本でも多数のおびただしい旧石器時代からの石器が発掘されている。日本のみならず世界の文化の出発点として石は無くてはならない存在だった。現代でも石臼や漬け物石などの生活の道具として、あるいは石仏や墓石などの信仰の対象として、または伝説の素材としての巨石や奇石、建築土木においては礎石や石積みなど、あらゆる場で根強く信頼され利用されている。

 残念ながら、時代の急速な変化によって、石の文化は生活の場から急激に姿を消しつつある。特に近年は神仏に対する畏敬の念が喪失し、信仰の対象となっていた様々な石造物は人々の記憶から消失されようとしている。時代の変化と言ってしまえばそれまでだが、寂しいことである。

 

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稲乃比売神社

所在地    埼玉県大里郡寄居町鉢形2326
主祭神    稻田姫命 素盞嗚命 大己貴命 少彦名命
         『大日本地名辞書』保食神
         『神祇志料』宇加乃売神
         延経『神名帳考証』『神祇宝典』和賀宇加乃売命
社  格    旧村社  武蔵国 男衾郡鎮座        
由  緒     創立年代不詳 
例  祭       10月18日 秋祭り
                         


  地図リンク

  稲之比売神社は埼玉県道294号坂本寄居線を鉢形城を右側に見ながら南下し、最初の交差点の手前のT字路を左折し道なりに真っ直ぐ進むと、約200メートル位で到着する。専用の駐車場は無いが鳥居の前に空間があったのでそこに駐車し、参拝を行った。

稲乃比売神社

往古 土民のこの地を拓けるや、建国の神 稲田姫の命、素盞嗚命、大己貴命、少彦名命の四神を斎き祀りて崇敬し、以て泰平を楽しみたりき。人皇五十三代淳和天皇の御宇 天長年間に至り、相馬氏 祠官となりてこれを奉祀せり。由来、鉢形村は西に連山を控へて秩父の関門をなし、北に荒川の断屋を巡りて要害に適し、その地域高層にして関東平野の西を限り、一望にして四方に令するの地なり。従って日と共に開拓されて土民 相増し、豪族 相拠るに及び、当社は鉢形村総鎮守として厚く崇敬せられ、神徳益高く、以て異状なる発展をなしたりき。
 冨田永世輯録の『北武蔵名跡誌』に「武蔵国男衾郡木持村 延喜式内稲乃比売神社 戸数六十」と記され、『武蔵四十四座調』には「男衾三座の内 稲乃比売神社は鉢形領数釜の庄 鉢形町にあり 神主相馬氏」とあり、その鉢形領数釜の庄鉢形町は、元亀 天正年間に於ける鉢形城主の威望盛なる当時の町名にして、現在 鉢形村の前名なり。
 『武鉢形外曲輪名所記』に「惣社氷川大明神稲乃比売神社 祭神四座 櫛稲田姫命 素盞嗚命 大己貴命 少彦名命 武蔵四十四座の内男衾三座の一 城中の守護神たり 元亀年中城外より勧請す」とあり、その後 幾多の星霜を経るに従ひ、社殿の朽廃せるものあるを以て、安政年間これが改築を行ひ、以て現在に及べり

  今でこそ規模の小さい社だが、荒川に臨んだ絶崖の地に位置し、天然の要害をなしていた鉢形城の南に鎮座している。古代、中世にかけては地域の一拠点としては男衾郡の他の式内社である小被神社、出雲乃伊波比神社より格段の場所に社を構えていると言える。
  当地は渡来系氏族の「壬生吉志(みぶきし)」氏の在所でもあり、古代以来祭祀を司っていたとされる。のちに氷川信仰によって「氷川神社」と社名変更したそうだ。天正18年に鉢形城が落城した際(秀吉の小田原攻め)、兵火にかかって社殿および小記録を焼失してしまったという。
 
一間社流造中々に立派な彫刻が施されている本殿

  稲之比売神社は城南中学校西に鎮座する。神社の前方50mの地点他に湧泉があり、この地を開拓して集落を形成した古代の人々が、豊穣なる収穫を祈つて稲魂を地主神として祭り、祠を立てたものと思われる。

  中世、氷川社・氷川大明神と称したが、明治維新に際して稲乃比売神社と改称した。
  神職は天長元年(824)6月28日以降代々継承して今日に至っている。






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出雲乃伊波比神社

 出雲乃伊波比神社は埼玉県に二社ある。「男衾郡・式内社・出雲乃伊波比神社」の論社は熊谷市板井に鎮座している社の他に同名で寄居町赤浜に存在する。出雲族の末と称する武蔵国造物部氏が祭る神社だそうだが、元々は「八幡神社」と呼ばれていた。
 この社は延喜式内社小被神社に非常に近く200mくらい、道路一本で結ばれており、男衾郡の中でも当時は非常に栄えた地帯だったのだろうと推測される。


所在地    埼玉県大里郡寄居町赤浜723
主祭神    須佐之男命
         (配祀)三穗津姫命 誉田別命 天児屋根命 天太玉命 天穗日命
         (合祀)天照皇大神 軻遇突智命
社  格    旧郷社  武蔵国 男衾郡鎮座        
由  緒    創立年代不詳 
                                                                                             例  祭      10月20日 大祭

                 
地図リンク
  国道140号彩甲斐街道(140号バイパス)を寄居方面に進み、花園橋北交差点を左折、荒川を抜け、最初の信号である花園橋(南)交差点を右折すると埼玉県道81号熊谷寄居線に入る。その道を真っ直ぐ行くと約300mくらいで右方向に出雲乃伊波比神社が見える。
  
木目調で歴史を感させてくれる黒く重厚な鳥居       出雲乃伊波比神社の参道 

 出雲乃伊波比神社から小被神社までは南に約200m、道路一本で結ばれており、わずか数百メートルに式内論社が2社存在するとは正直驚いた。と同時に、延喜式当時、またそれ以前にこの男衾の地はさぞかし栄えていたのだろうと、感じながら参拝を行った。
           

                       拝殿 明治14年に再建
           
                     本  殿 文政3年(1820)に再建
 出雲乃伊波比神社の御祭神は須佐之男命で、三穗津姫命、誉田別命、天児屋根命、天太玉命、天穗日命が配祀され、天照皇大神、軻遇突智命が合祀されている。
由緒
出雲乃伊波比神社

八幡塚御由緒
 赤浜の歴史は、出雲乃伊波比神社を軸として、千数百年の歩みを続けてきました。天正8年、荒川の度重なる大水害に抗し難く現在の地に集落一体となって、大移動を決行しました。その際境界決定について両者合議の上、精密なる境界構図が現存していることは往時の事実を物語る証拠であります。赤浜にとって、これ程重大な事業は以後四百年ありません。移転後、生活した下河内は肥沃に恵まれ比較的平坦でまとまった農地で赤浜地区の重要な基盤でした。しかし個々の耕作となりますと長短大小入り混じり、荒川に接近しながら用排水に難渋し、耕作道も狭くて不便でありました。昭和56年10月、農業の近代化を図るため、赤浜土地改良総合整備事業が進められ、由緒深い八幡塚も農地として整備せられしめたため、三代に渡る氏子総代、初穂組合長の協力を得て、記念碑を設立し、次の通り碑文を記しました。
宮乃井の由来

 旧郷社出雲乃伊波比神社の鎮座地は、鉢形庄、赤浜村と云われ、古は、字下河内の八幡塚に鎮座され、天正8年、度重なる大水害により、今の地に鎮座されました。旧社地の南方を宮乃東、北を宮後川端と称し、東南に宮乃井がありました。宮乃井は、神助により、豊かな水量に恵まれて、一年中、水の枯れる事はありませんでした。昭和8年、稀有なる大旱魃がありました時、赤浜の各戸の井戸水がすべて干しあがり、飲料水に欠乏したる時も、この宮乃井及び神水の根元より冷水こんこんと湧出し、赤浜は勿論、隣村富田より家内の飲み水として、更に牛馬の飲み水に至るまで使用したと伝えられていました。昭和56年10月、この宮乃井も、農業の近代化を図るため、赤浜土地改良総合整備事業により、土地基盤用排水、道路の整備、更に県道(菅谷・寄居線)高架橋が、かけられ、その存在も忘れ去られようと、しているため、私財をもって記念碑を建てました。碑文は次の通りです。

                                                                     全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年

 
                 妙見社御由緒の案内板(写真左側)と妙見社
妙見社御由緒
 赤浜地区の妙見社は、天正年間(西暦一五七三年~一五九一年)以前の遠い昔より妙見講を組織して、厚く信心して、今日なお「妙見様」の通称で親しまれていました。近年まで十二月三日の例祭日には、講中の家を順番に祭礼の準備やお祝の宿として集まり、幟が立ち先達様の祈願が終ると団子を配り、にぎやかな社頭となりました。
 諸般の事情により昭和五十年(一九七五年)三月三日を以って一時中止することになりました。長い年月で社殿の傷みも進み、倒壊寸前となり平成三年(一九九一年)二月十六日講中一同相談の結果、改築することに決定しました。四月三日仮殿遷座祭を斎行し社殿を解体したところ束木に「嘉永六年(一八五三年)癸丒孟春(みすのと丑年旧暦正月)奉造立講中為安全也」裏面には「大工 浅次良 又八」の二名が記録されていました。壁面の横板には「妙見宮殿修繕寄付連名及紀元二千五百五十五年 明治二十八年(一八九五年)と記されていました。
 平成三年四月十二日 上棟 六月二日 本殿遷座祭を斎行しました。
             
                  境内社 八坂神社 右側の石碑は不詳
 出雲乃伊波比神社は元々「八幡社」と言われていたという。由来を考えるに、「前九年の役の際、源頼義が白籏八幡社と改称した」 とのことだが、前九年の役は11世紀中期の事件で延喜式内社というのであればその当時には存在していただろう。では延喜式神名帳ができた時点での社名はどのような名称だったのだろうか。天正8年(1580)の荒川洪水の際に、古史料は流失、社史の詳細は不明となってしまったという。その後明治時代に元の名前に戻したというが、何の文献を根拠に今の社名に変えたのだろうか。
 また出雲乃伊波比神社という名前のわりに伊波比主神(経津主神)が祀られていないのはどういうことなのだろうか。




 


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小被神社

 男衾郡は郡政制度における「中」郡で,比企地方ではもっとも大きく、榎津郷・雁倉郷、郡家郷・多笛郷・川原郷・幡々郷・大山郷・中村郷の8郷で、今の大里郡江南町・寄居町・川本町など荒川右岸一帯の地域と小川町・嵐山町・滑川町など比企郡の北部地域にあてはめられていた。
 *郡政制度・・・大宝令の規定では, 郡はその管轄する里の数に応じて大郡・上郡・中郡・小郡の5等級に分類されていた。
 男衾の地名は、古く奈良時代正倉院に伝わる白布(麻布)の墨書銘に『武蔵国男衾郡狩倉郷笠原里飛鳥部虫麻呂調布一端、天平六年十一月』とある。文字情報として最古の記録。約千三百年も前の正倉院宝物の中に、男衾郡という名があり、今に伝えられているといわれている。
所在地    埼玉県大里郡寄居町富田1508
主祭神    瓊瓊杵尊  (配祀)木花咲耶姫命  彦火火出見尊
社  格     旧村社  武蔵国 男衾郡鎮座 
 
      
由   緒   
 
安閑天皇の御宇創立(531年~535年) 寛文9年(1669)現地へ遷地
         元治元年(1864)3月9日宗源神宣で正一位大明神 
                   明治4年11月11日村社
               明治41年7月1日神饌幣帛料供進
例  祭        
4月14日

                
 地図リンク
  第27代安閑天皇の時に、土地の豪族富田鹿(とみたろく)が地主神である
小被神
を祀ったことにはじまるという。恐らくは男衾郡の部民を支配した壬生氏の祭祀する神社とされる。しかし壬生氏の本拠地摂津難波から持ち込んだ神ではなく、古くからの土地神を土地豪族が祭祀していたのを壬生氏が政治的に協力する立場にあったのだろう。
                 
                     社殿の南側少し離れた場所に一の鳥居はある。
 
     少し歩いていくと二の鳥居が見えてくる。           二の鳥居を超えると左側に案内板がある。
小被神社 略誌
鎮座地  埼玉県大里郡6寄居町大字富田字宮田1508番地
御祭神  主神 瓊瓊杵尊
      相殿 木花咲耶姫命
      相殿 彦火火出見尊
由  緒 
・ 富田邑は、第27代安閑天皇の朝.1470年前郡家郷富田鹿、塚越に居住せしに始り、富川鹿が郡内鎮護のため創祀せりと、伝承。
・ 延喜式内社 第60代醍醐天皇延長5年平安時代中期に編纂された有名な書物に登載されて居ると云事。本年より数えて1081年前。
・ 男衾郡総鎮守
・ 旧村社
御神徳 
・ 瓊瓊杵尊は皇祖天照大神の御孫にて豊葦原の瑞穂国を最初に治められた神、農耕殖産興業等日常生活を営む上に欠くことの出来ぬ御神徳を有する神様。
・ 相殿 木花咲耶姫命、主祭神の奥方、燃ゆる火のなかでお産をなされた故事にあやかりてお産の神様。また美麗なる神様。富士浅間神社の御祭神。
・ 相殿 彦火火出見尊、彦は男子の美称、火火は稲の穂の豊かな形容詞、主神瓊瓊杵尊の御子神様で御父神様の後を継ぎ、国土経営をなされた神様。
祭  日 
・ 1月1日       新年祭 年頭にあたり幸先を祈念し,氏子社に互礼を交す。
・ 4月第二日曜日  春祭 神社本庁より幣饌料供進、祈年祭を併せ行う。五穀豊穣諸産業隆盛氏子豊楽入学児童の安全を祈願する。
・ 10月第二日曜日  秋祭 以前の新嘗祭を併せ行う。本年中の生業の安泰を感謝する祭典。
・ 12月31日       大祓 年間思はずも積ったてあらふつみ汚を祓い消め清潔な心身にて新年を迎える神事。
                                       平成18年10月吉日   小被神社社務所
                                                      案内板より引用
                
                          小被神社 本殿見世棚造
 小被神社は寄居町大字富田と大字赤浜のちょうど境界線上に立地している。天正年間(1573~1591)北條氏邦が当地の領主であった頃、、荒川の大洪水により、赤浜村民が標高の高いこの地北に耕作地を与えられて移転してきて土地の領有権争いが起こり、寛文9年(1669)に赤浜村との村境にこの神社を鎮座させることによって、境界を明らかにさせ、隣村の横領を防いだという。
                                                                                               
「おぶすま」という名前の本源はなぜ「小被」なのであろうか。

埼玉苗字辞典には「おぶすま」についてこう書かれている。

  
男衾 オブスマ 意部郷大(おぶ)郷に関係あるか。二項に男衾大須磨と記す。和名抄に男衾郡を乎夫須万と訓ず。平城京跡出土木簡に「天平十八年十一月、武蔵国男衾  郡余戸里、男衾郡川面郷」と見ゆ。当郡富田村に小被(おぶすま)神社あり、此地が本郷か。また、足立郡篠葉村字男衾、宿篠葉村字大伏沼(おぶすま)あり。両村(草加  市)は慶長十一年に分村す。
1 男衾郡大領の阿部族壬生吉士 古代氏族系譜集成に「孝元天皇―大彦命―波多武日子命―建忍日子命―勝目命―知香子―白猪―日鷹(雄略九年紀、難波吉士)―万里―山麻 呂(安閑二年、主掌屯倉之税)―鳥養―葛麻呂(推古十五年、為壬生部、壬生吉志)―諸手(持統四年、武蔵国居住)―富足―老―鷲麻呂(正六位上、男衾郡大領)―糟万 呂(外従七位上、郡主政)―松蔭(外正八位下、延暦十二年、補軍団大毅)―福正(外従八位上、男衾郡大領、男衾郡榎津郷戸主)―継成(三田領主)」と見ゆ。子孫は多 摩郡三田領主となる。承和八年太政官符に「男衾郡榎津郷戸主外従八位下壬生吉士福正」。続日本後紀・承和十二年条に「前男衾郡大領外従八位上壬生吉志福正」あり。
2 男衾三郎 前項の後裔か。大須磨三郎絵巻は観音霊現記物語で永仁年間の作とされている。男衾三郎絵詞に「昔、東海道のすえに、武蔵の大介といふ大名あり、其子に吉見 二郎、をぶすまの三郎とて、ゆゝしき二人の兵ありけり。吉見の二郎は、姫君一人いでき給へり、観音に申たりしかハ、やがて慈悲といはんとて、さぞなづけ給ける、慈悲 に上野国難波の権守が子息、難波の太郎をむこになさんとする。をふすまの三郎は、久目田の四郎の女を迎て、夫妻とぞたのまれける、男子三人、女子二人、いでき給へり  。吉見次郎兄弟、大番つとめにとて京上せられけり、一千余騎にてのぼり給、吉見のめのと、こうとう大夫正広というもの、三百余騎先陣の兵ニうちのぼる、吉見郎等荒 権守家綱といふものあり、正広・家綱には中田下郷をたまふべし」と見ゆ。
3 猪俣党男衾氏 富田村小被神社は、風土記稿に「延喜式神名帳に載る武蔵国男衾郡小被神社是なりと云。不動寺の持」と。无動寺氏は、一説に不動寺氏かと云う。小野氏  系図に「猪俣野兵衛尉時範―重任(男衾野五郎)―某(无動寺)」と見ゆ。富田村が本拠地か。
4 丹党男衾氏 丹庄阿保地誌に「丹党五十余家の内、男衾」とあり。本朝武家諸姓分脈系図(冑山文庫)に「秩父四郎冠者武峰―秩父太郎元房―直時(男衾二郎、改勅使河原 )―常直(男衾太郎)」と。男衾氏の本名は高麗郡(飯能市)出身の本橋氏なり。本橋条参照。源平盛衰記に男衾二郎あり。
5 畠山氏流男衾氏 幕臣飯塚氏は、寛政呈譜に「畠山庄司重能が三男男衾六郎重宗が後裔、兵部少輔重世・秩父郡飯塚の郷に住せしより家号とす」と見ゆ。また、吉川英治本 ・新平家物語に川越重頼の臣男衾源次が登場する。

 「おぶすま」に関する地名の歴史は思った以上に淵源が深い。それゆえに簡単に答えが出るはずもない。また地名の歴史と同様に小被神の存在にも興味をそそる。地主神というが祭神にも祀られていない。一体何者なのだろうか。

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出雲乃伊波比神社

  旧江南町、現熊谷市江南地区は、埼玉県北西部の荒川中流域右岸に位置する。地形的に以下の3区分に分かれる。
 ① 南部を東流する和田川以南の丘陵部(比企丘陵)
 ② 荒川右岸の中位段丘である江南台地
 ③ 部分的に下位段丘の残る荒川沖横地

 江南台地は、寄居町金尾付近より江南町を経て大里村箕輪に至る東西17km、南北3kmにわたる幅狭な台地である。北側・東側は荒川及びその沖積地に面し、比高差10~15mの崖線で画されていて、崖線下には吉野川が流れる。南側は和剛IIを挟んで比企丘陵に接し、台地上は狭小な谷津や埋没谷が複雑に入り組み、その最深部および開口部には溜池が構築されている。
 またこの江南地区は豊かな環境と歴史に育まれた文化財が多くある。これらには、樋番地区にある国指定重要文化財「平山家住宅」・塩地区の埼玉県指定史跡「塩古墳群」・千代地区の権現坂埴輪窯跡等の代表的な文化財・遺跡が荒川に画した場所から台地・丘陵上に広がっていて、古墳時代当時この地帯の隆盛ぶりを感じさせてくれる。


所在地   埼玉県熊谷市板井718
社  格   旧村社 延喜式内社 武蔵国 男衾郡鎮座
祭  神   武甕槌命
        『神名帳考証』『神祇志料』『大日本史』大己貴命
        延経『神名帳考証』『武藏の古社』天穂日命
由  緒   創立年代不詳
        文明年間鹿島明神を合祀、明治4年10月村社、
                同28年8月社号を出雲乃伊波比神社改称
        同40年10月神饒幣帛料供進指定
例  祭   4月17日 例祭

  地図リンク
 出雲乃伊波比神社は埼玉県道47号深谷滑川線を滑川、森林公園方面へ進み、小原十字路交差点を右折、県道11号熊谷小川秩父線の坂井南交差点の南に架かる下田橋から和田川に沿って西へ進むと到着する。社前には和田川が流れ中々風情のある佇まいの神社である。神社の参道入口には太鼓橋が架けられ、低い石垣が何段も組まれた境内の周囲は大きな鎮守の杜が形成されている。
 
    
        社殿の前には趣のある太鼓橋              境内前には和田川が流れる

              境内入ってすぐ左側にある案内板

出雲乃伊波比神社
        埼玉県熊谷市 板井

 『本社は、もとは鹿島神社といわれていたが、明治二十八年に出雲乃伊波比神社と改称された。祭神は、武甕槌命である。
 境内には、氷川神社、八坂神社、龍田神社、稲荷神社、天満神社、神明神社、山神社、富土浅間神社などが合祀されている。
 本社の祭神武甕槌命は、神話時代の高天原で、国土平定役の白羽の矢が、まず経津主命に立てられたとき、力に自信の溢れている武甕槌命もその役を希望して、二神が協力して国土平定の大役を果したという。武勇絶倫しかも協力性に燃えた国づくりの華々しい勲功の神である。
 また、社前の和田川に架けられた太鼓橋は、昔から八雲橋といわれ、この橋をくぐって子供のはしか平癒を祈頼するものが多く、昭和の初め頃まで「はしか参り」が列をなしたものである。
 境内に祀らている神々の祭日のうち、特に七月十五日の八坂祭りは、昔から「板井の天のう様」として近在に知られ、明治四年からば太鼓の「ヒバリバヤシ」を載せた屋台が「みこし」と一緒に板井区内をにぎやかに一巡するようになった』
                                                                                                             案内板より引用

                   正面の拝殿
    目の前に和田川がある関係で、低いが何段もの石段が組まれている。

                
 ところで出雲乃伊波比神社が鎮座するあたりの小字名は「氷川」という。氷川といえば、さいたま市大宮区に鎮座している武蔵国一の宮氷川神社が思い付く。大宮氷川神社の祭神はスサノオノミコト、イナダヒメノミコト、オオナムチノミコトという出雲系の神様。この三柱の神様をお守りする神主家は明治になるまで三家(岩井家、東角井家、西角井家)で、スサノオの奉齋を担当していたのは岩井家であった。「氷川神社の周辺もやはり湧水が涸れることの無い神聖な場所であったという。出雲乃伊波比神社の創建年代は氷川神社より古いのではないか、また出雲系の神々は、出雲~越国~信州~関東という具合に、日本海方面から来たのではないか、と想像を膨らましてしまう。

   
      富士山浅間神社                    境内社(?)        左側 不明、右側小御嶽神社
   
    合祀社 祭神は解らず              氷川神社か           この石祠また祭神不明   
                                                                    
出雲乃伊波比神社由緒

○村社出雲乃伊波比神社由緒
 社伝に曰く、当社は延喜式神名帳に載する所にして本郡三社の一なりといふ。中古、神道陵夷仏法隆盛の世に遭遇し、本社もまた本山修験聖護院宮御下正年行事職長命寺開山源阿法印別当たりしより、明治元年に至るまで、四十三世、法嗣継続にて奉仕せり。 その二十七世良恭法印文明の頃、鹿島明神を合祀し、旧幕府時代、旗本 牛奥新五左衛門の采地となり、牛奥氏、鹿島明神を最も信仰し、鹿島の神威高く、出雲乃伊波比神社の名は終に隠滅するに至れり。
 然れども氏子信徒は旧社たる事を確信したるも、『武蔵風土記稿』に載する文書、及び出雲乃伊波比神社の社号を記載せる古板の経巻、及び古文書等、社内別当に所蔵せるも、大政維新 神仏混淆分離の秋、仏に係るを以て悉皆灰燼と為し、現に残れるは、長明寺古記録に「男衾郡三座の内出雲乃伊波比神社」と記載せる一本のみ。また伴信友『神名帳考証土代二式考』に「伊多村に在り」、信友之兼永本朱書入に云ふ「大己貴命也」、また『武蔵風土記稿』に「本村氷川社を出雲乃伊波比神社とせしは本社の誤りにて氷川社は本社の縁故あるを以て摂社に祀りし」といふ。かかる証拠に依り、社号復旧改称を出願し、明治18年8月15日、許可相成りたり。
 本社は遠近信徒多く、殊に痲疹の流行の時は平癒を祈り参詣する者夥しく、社前 和田吉野川の架橋を八雲橋といふ。神詠とて「八雲橋 かけてそたのめ あかもかさ あかき心を 神につくして」この御詠を唱ひつつ架橋の下を潜りまた渡れば、必ず軽症にして平癒すと、参詣者 群をなせり。本社宮殿は、小なりと雖も、壮篭にして本郡中 著名にして並ぶなし。明治4年10月、村社に列せらる。

 ○氷川神社由緒
 創立年月不詳。里老口碑に曰く、天平年中の創立にして、延喜式神名帳に載する所の本郡三社の内 出雲乃伊波比神社にて、祭神或いは大己貴命といふ。社名は北足立郡官幣大社氷川神社と同神なるを以て誤り伝へらるべし。
 当社旧別当 長命寺の古文書に曰く「往時 本村及び柴、千代、塩等の四村は、篠場、また篠場庄篠場原といふ 畏くも伊波比神の鎮座を以て伊波比村と称せしを 愆て伊多井村と云ふ」とあり、因てこの村名も伊波比神社より起れりといふも、敢て付会の説にはあらず。 また『新編武蔵風土記』 該社別当長命寺の条を閲するに曰く、「別当長命寺 本山修験聖護院末にて正年行事職を勤め 本郡及び上比企郡 幡羅郡内甕尻 榛沢郡田中 菅沼 瀬山等の村村の修験等この配下に属す 開山は法印元阿円長 近衛天皇の御代にて凡七百三十余年<中略>開山塔の傍に古木の桜あり 俗に長命寺桜といふ 樹は枯て今の木は植継したるものなり」といふ。
 また天文・天正・慶長の古文書、今なほ該寺に存在せり。別当長命寺は七百三十余年、世襲して隆盛を極めし事は往古この『新篇風土記』板井の条に「氷川社 村の鎮守なり 延喜式神名帳に載する出雲乃伊波比神社なりといふ 社地老杉の繁茂せるさま神古くしとたしかなる証拠なり 口碑のみ残れり」とあり、また『考証土台』に曰く「出雲乃伊波比神社」、『式考』に「板井村にあり 大己貴命なり」とあり、これを以て考ふれば、延喜式内の古社といふも敢て疑を容れず。社殿は寛永6年10月の造営にして、明治4年村社に列せらる。
    社掌 森本三作
    氏子惣代 飯嶋良七 吉野道之進 吉野昆一郎 宇治川彦次郎 長倉良八 柴崎惣吉
 

  社殿の周りの石組はよく整然としていて何か幾何学的な美しさを感じるし、周りの風景と社が一体となった、まるで山水画を見るような美しい光景がそこにあった。本当に素晴らしい雰囲気のある社だ。残念なことに熊谷市に在住する自分ではあったが、正直この社の存在を最近まで知らなかった。
 自分の不明を恥じるとともに、もう少し自治体なり、地域がこの素晴らしい社をアピールすることも必要かとも感じた。








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