古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

野原八幡神社、野原古墳群

 熊谷市野原地区に鎮座している野原八幡神社は、式内社出雲乃伊波比神社、須賀広八幡神社と共に和田川の東西のラインで繋がっているような不思議な位置関係を形成している。
 所在地     熊谷市野原66
 御祭神     誉田別命
 社  格     旧村社
 例  祭     不明

       
地図リンク
 野原八幡神社は野原西部集会所に隣接して鎮座している。平成9年に再建した新しい社殿は一面に玉砂利の敷かれており境内は非常に綺麗に整備され、神社自体は決して広くはないが開放感があり、鎮守の杜の中に白壁の拝殿が映える、すっきりとして清潔感のある神社である。社殿の左側には境内社や庚申塔も多数祀られている。
           
 和田川が東西に流れている関係か、出雲乃伊波比神社、須賀広八幡神社同様野原八幡神社も和田川北岸の台地上に鎮座し、社殿は南向きである。
 
八幡神社と野原古墳群    
 所在地 熊谷市 野原

 八幡神社の祭神は誉田別命で、御神体は神鏡と奇石である。
創立年代は不明であるが、寛永20年(1643年)、時の領主稲垣安芸守の崇敬厚く、侍臣田村茂兵衛に命じて社殿の造営に当たらせたことが社殿の棟札に残っている。また、宝暦11年(1761年)、時の領主前田半十郎が家臣、内貴与左衛門をして本殿(内宮)の工事を監督させたことも別の棟札に記されている。前田氏からは、明治維新に至るまで毎年神社への御供米一斗二升が献納されていたという。(中略)
 なお、八幡神社裏から西方にかけて、野原古墳群と呼ばれる古墳群が分布している。(中略)これらの古墳の築造は、6世紀後半から7世紀前半にかけて行われていたといわれ、この地方にかなりの勢力を持った豪族が居住していたことを物語っている。
                                                                                        

  平成11年12月    埼玉県
                                                      案内板より引用

        
                             拝殿、奥に本殿
 野原八幡神社の左側、正確には西側には境内社が多数祀られている
            
                        社殿西側に祀られている境内社
   
       三峯神社(左)と雷電神社(右)           三峯神社の左側にある鹿島神社
 
    左から天満天神社、稲荷神社、山之神社       鹿島神社と合社との間に小さな石祠があったが                
                      愛宕神社                                                     こちらは詳細不明)

 ところでこの野原八幡神社の社殿の裏山の西方に野原古墳群がある。この遺跡は埼玉県選定重要遺跡に指定されている。神社西側にある庚申塔や青面金剛像の奥にあるようだ。
                         
                                                                 庚申塔群

野原古墳群(のはらこふんぐん)は、埼玉県熊谷市にある古墳群。和田川に南面する台地上の広い範囲にかつて30基以上の古墳が分布していたが、現在23基が山林の中に所在する。1962年(昭和37年)、採土工事に伴い野原古墳の発掘調査が行われた。1964年(昭和39年)には立正大学が円墳8基の発掘調査を実施した。なお、野原古墳で発見された勾玉や耳環などが1957年(昭和32年)10月18日付けで江南町(当時)指定考古資料に指定された。
                                                    ウィキペディア参照

                         
                      埼玉県選定重要遺跡に指定されている割には放置されているような状態だ。


 野原八幡神社が鎮座する「野原」という地名はいかにも抽象的であるが、考えてみたら不思議な地名だ。「大辞泉」にてその意味を調べると

 野原(の-はら) (「のばら」とも)あたり一面に草が生えている、広い平地。原。のっぱら。

 この地域は確かに「あたり一面草が生えている」場所であり、「原、のっぱら」ではあるが「広い平地」」ではない。和田川が形成した沖積地は両側には丘陵地によって遮られ、幅が狭く、細長い平地が続いているのであり、「野原」という地名は決して適当ではない。つまり、地形上からついた名前ではないということだ。ではこの「野原」とはどんな意味があるのか。

 野原は野+原の組み合わせでできた地名であり、本来の地名は「野」であったのではないか。

野 ノ 
 奈良・奈羅・那曷(なか)のナは国の意味で韓国(辛国)渡来人集落を称す。ナカ参照。奈は乃(な)と書き、古事記仁徳天皇条に「あをによし乃楽の谷に」と。日本書紀天武天皇元年条に壬申の乱に際して、吉野方の将軍大伴吹負は「乃楽山」に陣を置いたとあり。大和国奈良は乃楽と記した。乃(な)は野(な)とも書き、日本書紀継体天皇二十一年条に「近江の毛野臣(けなのおみ)」とあり。和名抄伊勢国度会郡田部郷を多乃倍(たのべ)と訓ず。後の田辺村なり。乃(な)は、ノに転訛して佳字の野(の)を用いる。埼玉郡野村(行田市野)は、当村のみ渡庄を唱え、韓人の渡来地より名付く。


野原 ノハラ 
 乃(な)、野(な)は古代朝鮮語で国の意味、ノに転訛して野(の)の佳字を用いる。豊前国風土記逸文に「田河郡鹿春郷。河原村を、今、鹿春(かはる)の郷と謂ふ。昔は、新羅の国の神、自から渡り来たりてこの河原に住みき。すなわち名づけ鹿春の神と曰ひき」と見ゆ。新羅渡来人の多い九州地方では、原(はら)をハル、バルと云い、村・集落の意味なり。韓国(辛国)渡来人集落を野原と称す。男衾郡野原村(江南町)あり。

       
                  野原八幡神社から和田川周辺の風景を撮影。                             


         
 この地域は「塩」、「柴」等一字名の字が近隣に多く存在する。地名の起源において基本的な主語は一字であり、そこから時代が下るにつれて人口の増加や他地域との交流によって現在の二文字が主流となる地名が発生したと筆者は常々考えている仮説であるが、その仮説で考えると、野原という地名は元来「野」ではなかったのではないか。また須賀広八幡神社が鎮座する「須賀広」も元々「須賀=須の国=須」であり、出雲乃伊波比神社が鎮座する「板井」も「板」が元の字ではなかったのだろうか。



 

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須賀広八幡神社


 熊谷市板井に鎮座する出雲乃伊波比神社の南に流れる和田川は延長9km、流域面積 12.6km2の荒川水系の一級河川である。源流は比企郡嵐山町古里の農業用溜池のようであり、直接的な山地水源は持たない。和田川の河川管理上の起点は、江南町板井に設置されていて、管理起点からは比企丘陵の狭間を農業排水を集めながら東へと流れ、大里郡江南町、比企郡滑川町、熊谷市、東松山市を経由し、大里町下恩田で和田吉野川の右岸へ合流する。この須賀広八幡神社はこの和田川を通じて上流部の出雲乃伊波比神社と文化的、経済的にも接していたような位置関係にある。
 和田川の南側の丘陵には塩古墳群(約100基)と野原古墳群(約2、30基)が存在することから、この付近では4世紀頃から6、7世紀後半までは集落が成立していたことになる。和田川周辺の平坦地(標高50m程度)には水田が広がっていて、和田川が形成した沖積地は古代から、水田として開発されてきた。このことは人々が生産活動を営んできた証しである。この地の一角に須賀広八幡神社は静かに鎮座している。
所在地     熊谷市須賀広237
御祭神     誉田別命
社  格     旧村社
例  祭     大祭・10月14日に近い土・日曜日 


         
地図リンク
 須賀広八幡神社は埼玉県道47号深谷滑川線をを滑川、森林公園方面へ進み、南小西交差点で左に折れ、そのまま東へ1km程走ると左手側に八幡神社が見えて来る。この道沿いには駐車場は無いが、神社の鳥居の手前のT字路を左折して神社裏の集落センターには駐車場があるのでそこに車を停め、参拝を行った。
 
                      道沿いにある社号標                  社号標の先には両部鳥居がある。
 
         参道は南向きで社殿が小さく見える。                                参道もいよいよ終点
                                                                     二の鳥居(明神鳥居)とその左側には案内板がある。
                       
八幡神社      
  所在地 熊谷市(元大里郡江南町)須賀広

 八幡神社の祭神は誉田別命で、神体は神鏡である。
 社伝によれば、創建は延喜17年(917)醍醐天皇の代である。武家の崇敬が極めて篤く11世紀末、八幡太郎義家が奥州征伐(後三年の役)の赴く途中、侍人を代参させ戦勝祈願したといわれている。
 江戸時代初め、稲垣若狭守重太の長臣田村茂兵衛が当地に陣屋を築き、以後この地を治めた。その後、寛永11年(1634)稲垣氏から御供米、土地が寄付され、以後も累代崇敬されていた。また、明和3年(1766)本殿再建遷宮式のとき、時の若狭守が自ら参拝し多額の幣帛料を寄進した。それからは須賀広、野原、小江川地区等稲垣氏所領の村民の崇敬益々篤くなったと伝えられる。
 大祭は毎年10月14日夜と15日で、獅子舞が奉納される。この獅子舞子は三人で長男に限られ、当日は氏子一同社頭に集まり舞を奉納披露し、その後地区内を一巡するきまりとなっている。
                                                                                                                       掲示板より引用

                          
                              拝   殿
           
                              本殿鞘堂

 
         社殿左側にある神楽殿                社殿の左側にある天満天神社
 
          境内社 祭神は不詳                        境内社
 合社に関しては、左から白山社、厳島神社、天満社、御嶽神社、阿夫利神社、榛名神社、稲荷神社、三峯神社の各社。 


 ところで須賀広八幡神社の現在の祭神は誉田別命であるが、案内板で紹介している創建時期と八幡太郎義家の時代との間には100年以上もの空白の時期がある。その時期の祭神は一体誰だったのか。この鎮座している「須賀」という地名は何か意味深い地名だ。「須賀」は「素賀(スガ、ソガ)」であり、須佐之男命、いわゆる「出雲系」に通じているのではないだろうか。


須賀 スガ 
 崇神六十五年紀に「任那国の蘇那曷叱知(ソナカシチ)」と見ゆ。蘇は金(ソ、ス)で鉄(くろがね)、那は国、曷は邑、叱知は邑長で、鉄の産出する国の邑長を蘇那曷叱知と云う。島根県大原郡大東町須賀に須賀神社あり、須佐之男命と稲田姫命の夫婦を祭る。古事記に「かれ是を以ちて其の速須佐之男命、宮造作るべき地を出雲国に求ぎたまいき。爾に須賀の地に到り坐して詔りたまいしく、『吾此地に来て我が御心須賀須賀し』とのりたまいて、其地に宮を作りて坐しき。故、其地をば今に須賀と云う」とあり。須賀は素賀(スガ、ソガ)とも書く。
須は金(ス、ソ)の意味で鉄(くろがね)のこと、賀は村の意味で、鍛冶師の集落を称す。武蔵国の須賀村は利根川流域に多く、砂鉄を求めた鍛冶師の居住地より名づく。埼玉郡百間領須賀村(宮代町)は寛喜二年小山文書に武蔵国上須賀郷、延文六年市場祭文写に太田庄須賀市祭と見ゆ。同郡岩槻領須賀村(岩槻市)は新方庄西川須賀村と唱へ、今は新方須賀村と称す。同郡忍領須賀村(行田市)は太田庄を唱へ、須加村と書く。同郡羽生領小須賀村(羽生市)は太田庄須賀郷を唱へる。同郡備後村字須賀組(春日部市)、琴寄村字須賀組(大利根町)、飯積村字須賀(北川辺町)等は古の村名なり。葛飾郡二郷半領須賀村(吉川市)あり。また、入間郡菅間村(川越市)は寛文七年地蔵尊に入間郡須賀村と見ゆ。男衾郡須賀広村(江南町)あり。此氏は武蔵国に多く存す。
         

 出雲系の出雲乃伊波比神社のほぼ東側で、和田川下流域に位置するこの須賀広八幡神社の権力者は誰であったろうか。が、少なくとも出雲乃伊波比神社と敵対していた勢力ではなかったことは確かである。地形上でも和田川周辺の狭い平坦地(標高50m程度)には水田が広がっていて、和田川が形成した沖積地は古代から、水田として開発されてきた。水は全てにおいて非常に重要な資源である。この河川を共有して行かなければ「須賀」の生活は成り立たなかったろう。故に出雲伊波比神社の勢力と須賀広神社の勢力は同じではなかったか、または同盟関係の間柄ではなかったか、というのが今の筆者の推測である。


 須賀広八幡神社をから東に1km弱行くと左手に野原八幡神社が見える。この社のすぐ西側には野原古墳群もあり、あの有名な「踊る埴輪」が出土した古墳群で推定年代は古墳時代終末期~奈良時代(6世紀末~8世紀前半)という。



                                                                              


 


 

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荒川神社

 埼玉県は新井、荒井、新居、荒居等「アライ」姓名が多い県として有名である。特に「新井」姓は埼玉県第一位の大姓であるという。この「アライ」姓を分割すると「アラ」+「イ」となり、そのうち「イ」は国、村、集落を意味し、本来の主語は「アラ」である。そしてこの「新」や「荒」の語源は「埼玉苗字辞典」では古代朝鮮半島の国「安羅」(アラ)から来ているという。

荒 アラ 安羅の神を荒神社と称す。神無月(旧暦十月)に荒神様が馬に乗って出雲の社へ出かけるので絵馬を飾る伝承が東国にある。特に氷川社のある埼玉県南部に此の風習が残っている。また、荒は粗鋼で製鉄神となり、タタラのカマド神となる。奥州太平洋岸の鍛冶師・荒一族は此の荒神を祀っている。荒氏は、福島県相馬郡鹿島町三十戸、新地町百六戸、双葉郡浪江町二十四戸、原町市七十六戸、相馬市二百十三戸、宮城県伊具郡丸森町二十五戸、亘理郡山元町二十三戸、亘理町十二戸、遠田郡涌谷町十八戸あり。

安羅 アラ 阿羅とも記す。安羅は、安邪(あや)、安耶(あや)、漢(あや)とも称す。また、安那(あな)、穴(あな)と称し、阿那(あな)はアダとも称す。韓半島南部の古代は、北方の燕(えん)が遼東方面に進出するにおよんで、遼河・遼東半島方面の辰韓(しんかん)と、鴨緑江・清川方面の弁韓(べんかん)の韓族が南下移動を開始し、辰韓・弁韓族が漢江以南に辰国を建てる。しかし、馬韓(ばかん)族が南下移動を開始した為に、辰国は半島東南部の慶尚道地方に移動して定着し、おのおの辰韓国(後の新羅)、弁韓国(後の伽耶諸国)を建てる。馬韓族は漢江西南に目支国(もくし)を建てた。後の馬韓国(全羅北道益山付近。後の百済)である。目支国の君長は代々辰王を称し、辰韓・弁韓の三韓連盟体を組織する。魏志東夷伝に¬辰韓は馬韓の東に在り。弁辰韓・合せて二十四国、其の十二国は辰王に属す。辰王・常に馬韓の人を用ひて之をなす。世々相継ぐ。辰王自ら立って王たる事を得ず」と見ゆ。後世、高句麗に追われた夫余族の温祚(おんそ)部族の伯済(はくさい)が広州(京畿道)に土着し、目支国を征服して馬韓を支配したのが百済王国の土台となった。梁書・百済伝に¬邑を檐魯(たんろ)と謂ふ。中国の郡県を言ふが如し。其の国、二十二檐魯あり」と見ゆ。百済のクはオオ(大)、ダラは檐魯で、クダラとは¬大邑、大国」と称した。大ノ国は辰王の支配下である韓半島南部の三韓を云う。オオ、オホ、オは阿(お)と書き、阿羅(あら)、安羅(あら)とも称した。此地の阿部(おべ)族渡来集団を阿部(あべ)、安部(あべ)と云う。日本書紀・神代上に¬天照大神、素戔鳴尊と天安河を隔てて相対ひ」。また、¬時に八十万神、天安河辺に会合し」とあり。天安河辺(あまのやすのかわら)の、天は朝鮮国、安(あ、やす)は安羅国、河辺は人の集まる都を云う。また、アラは安羅(あらき)と称し、荒木、新木(あらき)とも書く。新木(いまき)とも称し、今来(いまき)とも書く。安羅国(安耶)の漢(あや)族坂上氏は大和国に渡来して、居住地を母国の今来郡を地名にした。また、出雲国意宇郡出雲郷は、大ノ国の渡来地にて、意宇(おう)郡と地名を付ける。出雲郷は安那迦耶(あだかや)と称し、イヅモとは読まない。大穴持命の子阿陀加夜努志多伎吉比売命を祭る阿陀加夜社の鎮座地なり。安羅(安那)の迦耶人である阿陀族は此の地より、武蔵国へ移住し、居住地を阿陀地(足立)と名付け、其の首領は武蔵国造となり、大宮氷川神社の祭神に大穴持命(大巳貴命)を奉祭す。大穴持命の別名は大ノ国の大ノ神である大国主命である。前述の如く、大ノ国の別名である安羅国は馬韓・弁韓・辰韓の三韓である韓半島南部全域を称す。また、大和国は日本国を指す場合と、奈良県のみを指す場合とがある。是と同じで、三韓全域の安羅国の内に安羅迦耶と云う小国がある。今の慶尚南道の咸安の地で、任那(みまな)国と呼ばれた地方である。垂仁天皇二年紀に¬意富加羅(おほから)の王の子、名は都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)、本土(もとのくに)に返しつかはす。故、其の国を号けて彌摩那国(みまなのくに)と謂ふ」と。姓氏録に¬芦屋村主、百済国意宝荷羅支王より出づるなり」と見ゆ。意宝荷羅(おほから)王の任那国は百済国の内なり。また、継体天皇六年紀に¬任那国の上哆唎、下哆唎、娑陀、牟婁、四県を百済に賜ふ」とあり。全羅南道栄山江の東に哆唎(たり)があり、西に牟婁(むろ)があり、娑陀(さだ)も近くにある。此の辺までの任那国は百済国と称す。また、応神天皇三十七年紀に¬阿智使主は都加使主を呉に遣し、縫工女(きぬぬいめ)を求めしむ。呉王、是に工女の兄媛(えひめ)・弟媛(おとひめ)・呉織(くれはとり)・穴織(あなはとり)、四婦女を与ふ」と。雄略天皇十二年紀に¬身狭村主青等、呉国使と共に、呉の献れる手末(たなすえ)の才伎(てひと、技術職人)、漢織・呉織と衣縫の兄媛・弟媛等を率いて、住吉津に泊る」と。継体天皇二十四年紀に¬久礼牟羅(くれむら)の城(さし)」と見ゆ。呉は中国南部にあった呉国では無く、慶尚北道達城郡苞山の求礼の地にあった国である。呉織、穴織、漢織は同国の人で安羅国の出身である。また、阿羅の阿はクマと称し、阿部族は武蔵国へ移住して居住地を熊谷郷と称した。谷(がい)は垣戸で集落の意味。奥州へ移住した阿部族は熊谷氏を名乗り多く存す。武蔵国の阿部族安羅一族は、新(あら、あらい)を二字の制により新井と記す。

 
荒川は通説では「流れの荒い川」という意味から「荒」が語源になっているというが真相はどうであろうか。荒川は奥秩父に源を発し、奥秩父全域の水を集めて、秩父盆地、長瀞を経て、寄居町で関東平野に出る。熊谷市久下で流路を南東に変え、さいたま、川越両市の間で入間川と合流し、戸田市付近で東に転じて埼玉県と東京都との境をなす。その後隅田川と本流の荒川に分かれて東京湾に注ぐ、延長169km、流域面積2940平方kmの関東第二の大河川であり、埼玉県民にとっていわば母なる川である。

  上記の「荒」、「安羅」の説明を踏まえて考えてみると、荒川の本来の意味は「アラ族が信奉する聖なる川」ではなかったのではないだろうか。埼玉県に非常に多い「アライ」姓と似通った名前の「荒川」にはなにか共通点があるように思えるのだが。

      
所在地     深谷市荒川985
御祭神     天児屋根命、 倉稲魂神、 菅原道真 
社  挌     旧村社
例  祭     10月14日 例大祭  (7月14日 境内社八坂神社、八坂祭)

 荒川神社は関越自動車道・花園ICを出てすぐの花園橋北信号で右折。300m先の寿楽院手前を右折すると、左手に鎮座している。大里郡神社史には、もと大明神社と呼ばれ、大里郡花園村大字荒川字寺ノ脇に鎮座していたという。
         
                        荒川神社正面より撮影
 この社の一の鳥居前には寄居町の波羅伊門神社男衾の小被神社も以前はこんな造りだったが、鳥居の前が交通止めのように石垣造りになっている社はそれほど多くない。同じ一族の共通した建築方法だろうか。

                    
                             拝   殿
                     
                             本   殿
 明治43年、村内数社を字川端の地へ移転合祀して、土地の名により荒川神社とした。その地にあった天満天神社は境内神社となった.
 この天満天神社の御神体は、衣冠束帯の菅公座像という。もとは甲府城主 武田家に代々祭られたもので、武田信玄の自作ともいう。天正年間(1573~92)の天目山戦役の折り、武田勝頼から侍臣小宮山内膳正友信に賜わったもので、友信の弟の又七郎久太夫又一らが当所に落居し、天満天神社として祀ったものという。
 荒川神社は大正4年に字寺ノ脇の現境内へ移転され、同6年に天満天神社は本殿へ合祀された。当神社の通称を「天神様」ともいう。
 
         社殿左側にある境内社 山ノ神社                                 社殿右側にある八坂神社



 さて冒頭「荒」や「安羅」について「埼玉苗字辞典」の記述を紹介した。「荒」の項では「荒」とは安羅の荒神であり、また古代鍛冶集団である製鉄神タタラのカマド神でもあるという。そして「安羅」の項では、古代朝鮮半島の百済国の別名「大ノ国」の「大」をオオ、オホ、オは阿(お)と書き、阿羅(あら)、安羅(あら)ともいい、渡来してから阿部(おべ)族渡来集団を阿部(あべ)、安部(あべ)と称した。
 

 また、アラは安羅(あらき)と称し、荒木、新木(あらき)とも書く。新木(いまき)とも称し、今来(いまき)とも書く。安羅国(安耶)の漢(あや)族坂上氏は大和国に渡来して、居住地を母国の今来郡を地名にした(安羅国の漢(あや)族坂上氏は大和国に渡来して、居住地を母国の今来郡を地名にした為)。そして阿羅の阿はクマと称し、阿部族は武蔵国へ移住して居住地を熊谷郷と称した。谷(がい)は垣戸で集落の意味。奥州へ移住した阿部族は熊谷氏を名乗り多く存す(現在でも「熊谷」姓は岩手、宮城両県に多い)。武蔵国の阿部族安羅一族は、新(あら、あらい)を二字の制により新井と記す、と記されている。

荒井 アライ 安羅国の渡来人にて、荒(あら)を二字の制により荒井とす。此の氏は武蔵国に多く存し、奥州に少ない。
新井 アライ 新(あら)は、安羅(あら)ノ国の渡来人安部族にて、二字の制により、新井と記す。此の氏は埼玉県第一位の大姓なり。安部族は、奥州にては阿部氏及び熊谷氏を名乗り、新井氏は殆ど無し。
荒木 アラキ 新羅(しら)をシラギ、百済を百済木、邑楽を大楽木と称するように、安羅国(後の百済)の安羅(あら)をアラキと称す。安羅の渡来集団は、山陰・山陽地方及び武蔵、出羽方面に移住す。
新木 アラキ
 荒木と同じにて、安羅(あらき)の佳字なり。新木はイマキとも称す。

      


 また氷川神社が鎮座する大宮地方一帯は嘗て「足立郡」と呼ばれていた。この足立郡の由来もこの「安羅」からきているという。

足立 アダチ 此の氏は、豊後国及び出雲・但馬・丹波の山陰地方、また美濃国に多く存す。平安時代の貴族達は百済僧を豊国僧と呼んでいた。豊ノ国から渡来した人々の居住地を豊国(福岡、大分の両県)と称す。神武東征以前の神代の時代に渡来する。大ノ国(後の百済)のオオ・オウ・オホの原語はウと称し、鵜のことをアタと云う。大ノ国は安羅(あら)とも称し、其の渡来集団を安部・阿部と称した。豊前国企救郡足立村(福岡県小倉北区)、大和国宇陀郡足立村(榛原村大字足立)は阿部集団の阿陀族が渡来土着し地名となる。また、近江国浅井郡大井郷(和名抄に於保井と註す)あり、今の虎姫町なり。古代は於保を鵜と呼び、阿陀と云い、大井郷付近を別名足立郡大井郷と称す。当国佐々木氏系図に¬西条貞成(観応勲功・給足立郡大井江地頭)」とあり。また、大ノ国の渡来地を意宇(オウ)と称す、出雲国意宇郡出雲郷の出雲郷は阿陀迦耶(アダカヤ)と称し、イヅモとは読まない。此の地に阿陀加夜社あり、迦耶人の阿陀族の氏神なり。此の地方の出雲族阿陀集団は神武東征に追われ、武蔵国へ移住して、其の住地を足立郡と称した。其の一部は陸奥国安達郡に土着する。日本霊異記下巻七に¬賊地(あたち)に毛人(えみし)を打ちに遣さる」と見え、大和朝廷は東国の阿陀族を蔑視していた。

 「新」は「アタラシ」と読むと同時に「イマ」と読むことができる。前述「新木」を「イマキ」と解釈すると、児玉郡上里町忍保に鎮座する今城青坂稲実池上神社の真の素顔もおぼろげながら見えてくるような気がするが、長くなりそうなのでこのことはいずれ別項を設けて述べたいと思う。

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今城青坂稲実池上神社

  今城青坂稲実池上神社が鎮座する児玉郡上里町は、古代律令時代武蔵国賀美郡と言われた。賀美郡,美しい名称だ。賀美郡は武蔵国の最北端に位置し、東南は児玉郡、西北は利根川を挟んで上野国に接している。おおむね現児玉郡上里町、神川町の地域で、『和名抄』は「上」と訓じている。ちなみにこの「かみ」は、当初武蔵国が東山道に属していたとき、畿内にもっとも近い郡であったことによるとする説があるそうだが真相は不明だ。
 賀美郡は現在の上里町全域と神川町北部が行政区域に相当され、その郡内には式内社が4社存在していたという。地形的にも上野国と利根川、神流川という2大河川を通じて接している関係から、上毛野国の影響下に長期間あったと推測される。また賀美郡は上古代から地理的に恵まれたようで遺跡から出土した様々な土器の豊富さから、当時としては、比較的豊かな生活を送っていたことがうかがえる。

 この地域は不思議なことに縄文時代、弥生時代の遺物が数多く出土しているが、何故か縄文人、弥生人が生活をしていた住居の跡は見つかっていない。古墳時代後期(六世紀)になると、上里町全域に大規模な集落が営まれ、上里町の数々の古墳はこの頃造営された。この地域の古墳は、小さい古墳がまとまって作られているのが特徴である。

所在地     埼玉県児玉郡上里町忍保225
主祭神     気吹戸主命  (合祀)豊受姫命
社  格      旧県社
例  祭          9月29日 例大祭
由  緒     和銅4年(711)創立
          正慶年中(1332~34)新田義貞造営
          大永年中(1521~28)齋藤盛光造営
          天正10年(1582)神流川合戦で社殿焼失
          同年川窪與左衛門尉信俊再造
          元禄年中(1688~1704)同氏の孫信貞丹州に転領となり以後頽破
          明治32年2月7日県社

                        
明治40年1月12日神饌幣帛料供進神社指定
                     
地図リンク
  神保原駅からは約2キロ北上の地に鎮座する。さすがに埼玉県最北部に位置する場所なので周りは田園風景ばかり。すぐ北は烏川なので氾濫があったらどうなるのだろうと変なところを心配してしまった。(事実元禄7年の大洪水で社殿を流失。本殿だけをかろうじて水中から引き上げ、地盤を高くして改めて鎮座させた、との記録もある。)
  この地域は過去において現在ののどかな田園風景とは別の顔を持っており、有名な神流川の戦い(1582年6月18日~19日)では、織田信長の家臣である厩橋(うまやばし、前橋の古称)城主の滝川一益と小田原城主北条氏直との戦いにより社殿を焼失した。その後天正19年(1591)に川窪信俊が社殿を再建し、神田が寄進された、とのことだ。

 
         一ノ鳥居 手前にある橋は御神田橋                         二の鳥居の手前にある掲示板

池上神社(社頭掲示板より
  所在地 上里町忍保225
  池上神社は、和銅年間(708~715)の創立で、延喜式内社武蔵国44座の一つで、延喜式内神名帳には、今城青坂稲実池上神社と記されている。
  忍保庄の神社と伝えられ、祭神は伊吹戸主神と豊受姫命で、古くは善台寺において別当を兼務し神事を司っていた。
  正慶年中(1332-34)には新田義貞、大永年中(1521-28)には斉藤盛光の崇敬が篤く、神殿の修復が行われたといわれている。
  また、天正10年(1582)、織田信長の家臣である厩橋(群馬県前橋市)城主の滝川一益と小田原城主北条氏直との神流川合戦の際に社頭を焼失し、その後、川□信俊により再建されたと伝得られ、現在の社殿は明治12年に改築されたものである。
  なお、当神社には明治初期に始まった、「忍保の神楽」と呼ばれる神楽の一座がある。
                                                                      昭和61年3月埼玉県 上里町                                                            

                      
                                                          二の鳥居と扁額
                      
                                                    拝 殿  南側に鎮座
                                    洪水対策で地盤基礎部分が高くなっている。
                      
                                                               本   殿
 本殿は土塁等で土盛りをし、拝殿の基礎部分より高くして洪水対策をしているようでもあり、元々あった古墳上に本殿を造ったようにも見える。


 今城青坂稲実池上神社の祭神である伊吹戸主命は祓戸四神のひとつで、速開津媛命の飲み込んだ禍事・罪・穢れを確認して根の国・底の国に息吹を放つ神である。ところで祓戸大神の四神とはどのようなの神であろうか。
 この神々は記紀神話に登場せず、大祓詞にその名が記されるその名の通り、穢れを祓ってくれる神様だ。

【祓戸大神】
 祓戸大神(はらえどのおおかみ)とは、神道において祓を司どる神である。祓戸(祓所、祓殿)とは祓を行う場所のことで、そこに祀られる神という意味である。
 神職が祭祀に先立って唱える祝詞である「祓詞」では「伊邪那岐大神 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に 禊祓給ひし時に生り坐せる 祓戸大神等」と言っており、祓戸大神とは、日本神話の神産みの段で黄泉から帰還した伊邪那岐が禊をしたときに化成した神々の総称ということになる。
 なお、この時に禍津日神、直毘神、少童三神、住吉三神、三貴子(天照大神・月夜見尊・素戔嗚尊)も誕生しているが、これらは祓戸大神には含めない。「祓詞」ではこの祓戸大神に対し「諸諸の禍事罪穢有らむをば祓へ給ひ清め給へ」と祈っている。

『延喜式』の「六月晦大祓の祝詞」に記されている瀬織津比売・速開都比売・気吹戸主・速佐須良比売の四神を祓戸四神といい、これらを指して祓戸大神と言うこともある。これらの神は葦原中国のあらゆる罪・穢を祓い去る神で、「大祓詞」にはそれぞれの神の役割が記されている。

・ 
瀬織津比売(せおりつひめ) -- もろもろの禍事・罪・穢れを川から海へ流す
・ 
速開都比売(はやあきつひめ) -- 海の底で待ち構えていてもろもろの禍事・罪・穢れを飲み込む
・ 
気吹戸主(いぶきどぬし) -- 速開津媛命がもろもろの禍事・罪・穢れを飲み込んだのを確認して根の国・底の国に息吹を放つ
・ 
速佐須良比売(はやさすらひめ) -- 根の国・底の国に持ち込まれたもろもろの禍事・罪・穢れをさすらって失う

 速開都比売を除いてこれらの神の名は『記紀』には見られず、『記紀』のどの神に対応するかについては諸説あるが、上述の伊邪那岐の禊の際に化成した神に当てることが多い。
        
                  今城青坂稲実池上神社 拝殿と本殿

 祓戸大神の4神の役割には順番があり、① 世の諸々の過事と罪、穢れを瀬織津比売が川に洗い流して→② 速開都比売が河口で受け取って海底に沈めて→③ 気吹戸主海底から根の国・底の国に禍事・罪・穢れを送り込んで→④ 速佐須良比売穢れ等全て一網打尽に浄化し、世の中をリセット(再生)する、という一連のプログラムを実行することによって常に世の中の秩序、道徳等が守られるというものらしい。
 祓戸の大神のうち三神が生命を育む女神であり、川は飲み水、海は生命の根源として、また、呼吸は人間に不可欠なものであり、霊界はこの世を裏で支える存在として、それぞれが私たちにとって大切なものだ。まさしく人間だけでなく、地球上の生命にとっても根源的なご神徳を備えた神々が祓戸の大神で、いわば自然の自浄作用のようなものを具現化した神なのではないだろうか。

 ところでこの祓戸大神の神性、神格は世界中の神話で登場する洪水伝説に似ていると感じるのはいささか飛躍した考えだろうか。


 『延喜式』「神名帳」武蔵國賀美郡四座の三座、「今城青八坂稲実神社」「今城青坂稲実荒御魂(いまきのあおさかいなのみのあらみたま)神社」「今城青坂稲実池上神社」の一座に比定されている。この三座について吉田東伍は『大日本地名辞書』のなかで次のように述べている。

 「社号に因りて之を考ふるに、一神を三霊に分かちたるにて、青と云ふは地名なるべし、即ち後世アホに訛りアボとも転りたる者とす。八坂は弥栄にて(坂とのみあるは栄なり)稲の実成に係けたる語とする。されば青の弥栄稲実の神なり。また其の荒御魂を本祠に分かちて祭る者一所、又特に池上に祭る者一所、合三所なりし也。而も其今城の名を負ふは詳らかならず。今木は山城國、大和國には地名にもあり。又新墓(ニヒハカ)を今城と云ふことあり。又新帰、新米の蕃人異族を今来と云へりとも想はる」

 
今城青八坂稲実神社は現在は埼玉県児玉郡神川村元阿保の地にある。この阿保は青に通じる。そして阿保から西南へ五キロ行くと金鑽神社がある。金山彦命を祀る金鑽神社が銅や鉄の精錬と関係があることはまぎれもない。金鑽神社の東には金屋集落があり、鋳物業をしていた家が今もあるそうだ。今城青八坂稲実神社もまた、銅や鉄の採鉱冶金に関係のある人たちの神社ではなかったろうか。賀美郡一帯にさかえた武蔵国造一族のうち、檜前舎人直の勢力がもっとも抜きんでていたというのは、大和国の檜前の廬入(いおいり)宮に仕えていた舎人の後であることを思わせる。
 近年、神川町大字元阿保字新堀北の金糞遺跡から、金属精錬工房跡が発掘されている。

 

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登由宇気神社

所在地  熊谷市村岡851-1
祭  神  豊受媛神(とようけびめ) [別称]豊宇気毘売神
社  格  旧村社
例  祭  不明

                    
地図リンク
  国道407号線を熊谷方面に北上すると右側にリサイクルショップが見え、その脇の細い道(407号線に面して社号標石が建てられている)を300m程東へ走って行くと北側に登由宇気神社がある。登由宇気神とは豊受媛命の別名で、古事記には「豊宇気」と表記してある。

登由宇気神【とゆうけのかみ】
  日本神話にみえる神の名で伊勢神宮外宮(豊受(とゆけ)大神宮)の祭神。豊宇気毘売(とようけびめ)神とも。トヨ(ユ)は美称,ウケもしくはケは食物の意,すなわちこの神は内宮の天照大神(あまてらすおおかみ)に仕える食物神(倉稲魂うかのみたま))である。平安期に成立した《止由来宮儀式帳》に縁起譚がみえる。雄略朝にアマテラスが神託を下し,丹波国比治の真奈井に座すトユウケノ大神を御饌都(みけつ)神として欲したため遷座させたという。
 
 
国道から右折すると道幅は車一台分程しかない程細い道だがそれは仕方がない。駐車場は神社の少し先に若干の駐車スペースがあったのでそちらに置くことができた。
                    
                                            一の鳥居から撮影 南向き社殿
 
      鳥居の左側にある立派な神社社号標石                                     二の鳥居
                   
                            拝   殿
         
                            本   殿
登由宇気神社は祭神が豊受媛神で女神であるにも関わらず、鰹木は7本で奇数、千木は外削ぎであり、どちらも本来は男神対象であるが中には例外があるという。

 神社建築の例としては、出雲大社を始めとした出雲諸社は、祭神が男神の社は千木を外削ぎ(先端を地面に対して垂直に削る)に、女神の社は内削ぎ(水平に削る)にしており、他の神社でもこれに倣うことが多い。また鰹木の数は、奇数は陽数・偶数は陰数とされ、それぞれ男神・女神の社に見られる。一方、伊勢神宮の場合、内宮の祭神、天照大神・外宮の祭神取豊受大神とともに主祭神が女神であるにもかかわらず、内宮では千木・鰹木が内削ぎ10本、外宮は外削ぎ9本である。同様に、別宮では、例えば内宮別宮の月讀宮・外宮別宮の月夜見宮は主祭神はともに同じ祭神である月讀命(外宮別宮は「月夜見尊」と表記している)と男神であるが、祭神の男女を問わず内宮別宮は内削ぎで偶数の鰹木、外宮別宮は外削ぎで奇数の鰹木であり、摂社・末社・所管社も同様である。この理由には諸説あり、外宮の祭神が本来男神的性格を帯びていたとする説もある。
 
                       金比羅神社                                                       菅原神社
 
            金毘羅神社                        厩戸命の碑

        八坂神社
 これらの境内社群は社殿の左側に鎮座している。案内板もあり丁寧で判りやすい。

 登由宇気神社の鎮座する地は熊谷市村岡という地名だが、この「村岡」は元々「村」+「岡」との組み合わせで本来の地名は「村」だったようだ。では「村」の意味はどのようなものだったのか。

村 ムラ 梁書・百済伝に「邑を檐魯(たんろ)と謂ふ。中国の郡県を言ふが如し」と見ゆ。百済のクは「大きな」、ダラは檐魯で邑・郡県・国の意味。百済は大邑・大国と云い、大国主命は大国の主(首長)で百済渡来集団の首領である。新羅では州・郡・県・村は良民による自然部落によって形成されたもので、それが基準となって行政区画に編入され、村には村長がいた。一方、郷・所・部曲(かきべ)は人為的に設けられた特殊区画であって、国家または王公貴族のために従事していた。鍛冶集落の別所・別府や、和名抄の郷はこれに当る。続日本紀・霊亀元年条に陸奥国閉村(岩手県閉伊郡)、宝亀七年条に出羽国志波村(岩手県紫波郡)とあり、今日の数十戸の村では無く、数千戸の郡域を村と称していた。辰韓は十二国からなり、その一つに新羅があった。新羅国に「閼川の楊山村、突山の高?村、觜山の珍支村、茂山の大樹村、金山の加利村、明活山の高耶村」があり、六村のかれらが推戴したのが紀元前五十七年に即位した新羅第一代王の朴赫居世(パク・ヒョクコセ)である。新羅本紀に朴赫居世は高?村の村長蘇伐都利に育てられ十三歳で即位したとあり。古代朝鮮語の山は村(今日の郡県)と同じ意味。村は大和朝廷が勃興する以前から羊族と混血した蝦夷(えみし)や渡来人が居住していた集落を称し、村姓の村井・村岡・村上・村田・村山等の氏族は神代の時代に渡来した末裔である。大ノ国は韓半島南部の百済・加耶・新羅地方を指し、大(お)は阿(お)ノ国で、渡来集団阿部族村姓は阿部氏の上陸した山陰地方、及び本拠地の毛野国・常陸国・越後国・奥州に多く存す。

 日本では奈良時代、律令制における地方行政の最下位の単位として、郡の下に里(り、さと)が設置された。里は50戸を一つの単位とし、里ごとに里長を置いた。 715年に里を郷に改称し、郷の下にいくつかの里を置く郷里制に改めたが、後に里が廃され郷のみとなった。 715年にこれが郷(ごう、さと)と改められ、郷の下に新たに2~3の里が設定された。しかし、この里はすぐに廃止されたため、郷が地方行政最下位の単位として残ることになった。

 中世・近世と郷の下には更に小さな単位である村(惣村)が発生して郷村制が形成されていった。これに伴い律令制の郷に限らず一定のまとまりをもつ数村を合わせて「○○郷」と呼ぶことがある。この惣村とは、中世初期(平安時代後期~鎌倉時代中期)までの荘園公領制においては、郡司、郷司、保司などの資格を持つ公領領主、公領領主ともしばしば重複する荘官、一部の有力な名主百姓(むしろ初期においては彼らこそが正式な百姓身分保持者)が管理する「名」(みょう)がモザイク状に混在し、百姓、あるいはその身分すら持たない一般の農業などの零細な産業従事者らはそれぞれの領主、名主(みょうしゅ)に家人、下人などとして従属していた。百姓らの生活・経済活動はモザイク状の名を中心としていたため、彼らの住居はまばらに散在しており、住居が密集する村落という形態は出現していなかった。
 
しかし、鎌倉後期ごろになると、地頭が荘園・公領支配へ進出していったことにより、名を中心とした生活経済は急速に姿を消していき、従来の荘園公領制が変質し始めた。そうした中で、百姓らは、水利配分や水路・道路の修築、境界紛争・戦乱や盗賊からの自衛などを契機として地縁的な結合を強め、まず畿内・近畿周辺において、耕地から住居が分離して住宅同士が集合する村落が次第に形成されていった。このような村落は、その範囲内に住む惣て(すべて)の構成員により形成されていたことから、惣村または惣と呼ばれるようになった。(中世当時も惣村・惣という用語が使用されていた。)

 
つまり、古代律令制度下では「村」は存在していなかった、ということとなるがそうすると次の一文との矛盾が生じてくる。

続日本紀巻第七
 丁丑。陸奥蝦夷第三等邑良志別君宇蘇弥奈等言。親族死亡子孫數人。常恐被狄徒抄略乎。請於
香河村。造建郡家。爲編戸民。永保安堵。又蝦夷須賀君古麻比留等言。先祖以來。貢獻昆布。常採此地。年時不闕。今國府郭下。相去道遠。往還累旬。甚多辛苦。請於閇村。便建郡家。同百姓。共率親族。永不闕貢。並許之。



続日本紀巻三十四
 五月戊子。出羽國志波村賊叛逆。与國相戰。官軍不利。發下総下野常陸等國騎兵伐之。

 
続日本紀は、平安時代初期に編纂された勅撰史書。日本書紀に続く六国史の第二にあたる。菅原真道らが延暦16年(797年)に完成した。文武天皇元年(697年)から桓武天皇の延暦10年(791年)まで95年間の歴史を扱い、全40巻から成っている。勅撰史書という国家によって編集された正史であり、少なくとも797年時点で「村」は存在していたということとなる。上記の説明からもわかるように、「村」は時の朝廷が勃興する以前から自発的に発生していた集落名であったということになる。

 地域名である「村岡」一つにしても奥が深く、興味をより一層掻き立てる思いを今しみじみと感じさせてくれた不思議な充実感があった。





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