古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

宝登山神社

 宝登山神社が鎮座する長瀞町は埼玉県秩父郡にある人口約8千人の町である。長瀞渓谷をはじめとする数々の観光名所を有し、「秩父の赤壁」「関東の耶馬溪」という別名を持つ。また長瀞町の総面積は30.40平方キロメートルあるが、そのうち約60%が山林で占められている。また、四方を宝登山、不動山、陣見山、大平山、釜伏山といった山々に囲まれ、これらの山を源とする沢は、それぞれ荒川に流入している。
 長瀞町は町の全域が、県立長瀞玉淀自然公園区域に指定されており、特に上長瀞から高砂橋に至る荒川の両岸は、名勝及び天然記念物保存区域として指定されている。なかでも岩石段丘、いわゆる『岩畳』の広がる長瀞渓谷は、地質の宝庫として貴重な天然資源を誇っている。
 宝登山神社は秩父神社、三峰神社とともに秩父三大神社に数えられている。その起源は日本武尊[やまとたけるのみこと] が東征の際、宝登山中で猛火に包まれた時、どこからか現れた山犬によって危機を救われたという伝説からきている。この宝登山神社は宝登山の東麓に祭られており社殿は江戸建築を伝える銅板葺き権現造りという。

所在地
   埼玉県秩父郡長瀞町長瀞1828
 
主祭神   神日本磐余彦尊
        
大山祗神
                
火産霊神
創  建
   
伝・景行天皇41年(111年)
社  格
   旧
県社・別表神社
例  祭       
4月 3日(例大祭)
                 5
月 2日(奥社祭)
                 8月15日(船玉祭)
主な神事
   お炊き上げ祭(毎月7日)

       
 
  標高497mの宝登山の山麓に建つ神社。日本武尊が東国平定の折に山に登る途中、山火事に囲まれ、多くの巨犬が現れて火を消したことから、山頂に神武天皇、大山祇神、火産霊神を祀ったのが始まりと伝えられている。古くは火止(ほど)山と言われていたが、後に宝登山と改称された。境内には日本武尊が身を清めたと伝えられる「玉の泉」がある。

 秩父神社、三峰神社とともに秩父三社の一つに数えられ、災難除や商売繁盛を願う参拝者で賑わう。
「宝の山に登る」という縁起のよさから、年間に100万人の参拝者が訪れるという。
 
     国道140号線の交差点にある一の大鳥居                  二の鳥居
        ちなみに神社側から撮影 
 
  二の鳥居の手前左側にある宝登山神社略記              階段手前にある趣ある手水舎

寶登山神社畧記
御祭神
 大山祇神:山を掌り山の幸を恵み給う
 神日本磐余彦尊:我が国を肇め給いし神武天皇
 火産霊神:火を掌り火の幸を恵み給う
御由緒
 第12代景行天皇の皇子日本武尊が東国地方を平定し、御凱旋の閉じ、寶登山山頂で御産柱の神をお祀り申し上げたのを以って、創始となす。
登山に先立ち、尊が心身を清めた「玉の泉」は今なお御本社玉垣内に残る。登嶺の途中、山火事に遇われた時、神使いの巨犬が火を消し止め、尊を頂上まで導いた。此の為古くは「火止山」と称し、後に「寶登山」と改称す。この巨犬は、大口真神(御眷属)で、火防盗賊除・諸難除の霊験あらたかである。
御例祭
 4月3日 献幣使参向・神楽奉奏・奉祝煙火等1年1度の最高の厳儀                                                                                                                                                              (現地案内板説明文より)

                        
                                                                神楽殿
 
この神楽殿には「神人和楽」という額が掲げられている。
 これは、「神楽」の本来の意義が神を招いてなぐさめるために舞楽を奏すことを言うことで、言い換えれば「神楽」とは神と人とが共に享楽することによって神の力を得る神事で、神座に神を招き神の力を招き鎮めることによって、生命力を高めようとするものが「神楽」であるということを表した言葉、それが「神人和楽」という言葉なのだそうだ。


                        
                                                            拝   殿
  宝登山神社は宝登山の東麓に祭られており社殿は江戸建築を伝える銅板葺き権現造りという。
  現在の本殿・幣殿・拝殿は、明治初頭に作り替えられたが、平成22年宝登山神社御鎮座千九百年記念事業の一つとして社殿改修・祈祷殿神札所新築工事が竣工 された。権現造りの社殿の欄間に施された龍などの彫刻が見もので、昨年の改修で真新しくなっておりその美しさに目を奪われてしまう。

 
特に拝殿の向拝部分は、柱や虹梁などが白に塗られ、極彩色の彫刻がに施されている。秩父三社の三峯神社を思わせる色使いである。。
 向拝の柱には5匹の龍が飾られ、正面には青龍・白龍など中国神話の四神が彫られている。拝殿側面にも中国儒教の教えにある二十四孝の彫刻が飾られている。
                         
                                                               本  殿
 宝登山神社の拝殿が極彩色の彫刻が施され、神仏習合の様式を色濃く反映していて拝殿全体が煌びやかな装いに対して、本殿は全体的に控えめながら細部に装飾を散り ばめている。拝殿を見たあとに本殿を見ると、そのギャップに少し驚きを感じるが、そこに日本人独特の美意識を感じる。

                   
                       神楽殿の隣にある水神社と隣接してある招魂社
   
     招魂社の隣にある藤谷淵神社                                      日本武尊神社
    
                      天満天神社                                天満天神社の先にある小さい橋を渡ると
                                                                                宝玉稲荷神社がある
 宝登山神社御由緒物語(パンフレットより)
  今からおよそ1900年ほど前、第12代景行天皇の御代のこと、日本武尊とその軍勢が東国地方平定の折、宝登山に登って神霊を拝したというおはなしです。日本武尊が兵を従えて宝登山の麓へと進んで行くと、森の中に岩に囲まれた清らかな泉がありましたので、尊も兵もこの泉で「みそぎ」をして、身を清めました。一隊頂上へ向かって登り始めました。が、しばらくすると辺りの様子がおかしい事に気がつきました。そのうちに黒い煙がどっと吹き寄せました。山火事ら、ご自分も剣を抜いて草をはらい、枝を切って猛火と戦いました。けれども火の勢いは強くなるばかり。一隊は火の渦に巻き込まれて脱出することが出来ません。尊の命も危うくなりました。その時、突然現れたたくさんの白い影、黒い影。影は風を切って、次々に猛火の中に飛び込んで行きます。影のように見えたのは、大きな白犬、黒犬です。犬たちは、荒れ狂う炎の中で火を消し止めようと大活躍です。そのすさまじさ、ものすごさ、火の勢いは見る見る衰えていきました。すっかり火が消えました。犬たちの見事な働きに尊も兵も我を忘れて感嘆していますと、犬たちは二頭、三頭また五頭と尊の前に集まって、静かに歩き始めました。さあどうぞ、頂上へご案内いたしましょうというように。頂上へ着くと、いつの間にか犬の姿はどこにも見えません。影のように現れた犬たちは影のように消えていました。「おお、やはりあのたちは"山の神のお使い"に違いない。本当にありがとうございました。」日本武尊は神様に対し、心より御礼を申し上げました。頂上からは悠久の天地が、広大・荘厳に眺められました。日本武尊はこの山を「火止山(ほどやま)」と名づけられ、"神をお祀りするのにふさわしい、立派なお山"とされ、「神籬(ひもろぎ)」(御神霊をお迎えするための憑り代)をお立てになり、神日本磐余彦尊(かんやまといわれひこのみこと)・大山祇神(おおやまづみのかみ)・火産霊神(ほむすびのかみ)の三社をお祀りになりました。これが宝登山神社の御鎮座の起源であり始まりです。その後「火止山」は霊場として栄え、弘仁年中に「宝珠の玉が光り輝きながら山上に飛翔する」という神変が起こり、山の名と神社の名はこの吉祥事により「宝登山」に改められて今に至りました。

拍手[2回]


箭弓稲荷神社

 箭弓神社が鎮座する東松山市は、埼玉県のほぼ中央部に位置する人口約9万人の市である。市中央部から西部・南東部にかけて東松山台地、南部には高坂台地が広がり、両台地上には東武東上線の駅があることもあり市街地や住宅地が多いほか、北部は比企丘陵、南西部は岩殿丘陵の東端部に当たりその立地を活かした新興住宅団地が多いようである。また、都畿川や越辺川流域周辺は洪積低地となっており田園風景が広がっているが、近年の土地区画整理事業により宅地化が進んでいる。

 また鎌倉街道等、多くの街道が集まる交通の要衝として、古くは鎌倉時代から松山城(現在の行政区域は比企郡吉見町に存在するが、松山城跡自体は当市と隣接している)の城下町、その後は松山陣屋の陣屋町として発展した比企地域の中心都市である。

 「やきゅう」という音との縁で、プロ野球をはじめとする野球関係者が多く参拝する事でも知られている。特に、同じ埼玉県内の所沢市に本拠地を構える埼玉西武ライオンズの選手が頻繁に訪れているという

所在地    埼玉県東松山市箭弓町2-5-14   
主祭神    保食神(宇迦之御魂神 うがのみたまのかみ)
         豊受比賣神
        
社 格     県社 別表神社
本殿様式   権現造
      9月21日(例大祭) 他 
創立年代
   712年(和銅5年
 

       
 
 箭弓神社は東武東上線、東松山駅西口を降りて徒歩5分位の位置にある。「箭弓」という言葉は上古代、「矢久」「野久」「八宮」と呼ばれ、「八宮」とは天照大神が素戔鳴尊と誓約の時に出現したと云う五男三女神を祀る神社を八宮と云う。五男三女神は素戔鳴尊の子ともいわれ、田心姫(たこりひめ)、湍津姫(たぎつひめ)、市杵島姫(いちきしまひめ)の三女、正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(まさかあかつかちはやひあまのおしほみみのみこと)、天穂日命(あまのほひのみこと)、天津彦根命(あまつひこねのみこと)、活津彦根命(いくつひこねのみこと)、熊野豫樟日命(くまのくすひのみこと)の五男であったという。

   
                     二の鳥居                 綺麗に整備された参道。二の鳥居から撮影 

   創建は712年(和銅5年)と歴史のある社で、創建当時は単なる小さな祠でしかなかったが、長元3年(1030年)、下総国の城主・平忠常の討伐に出かけた源頼信が、この周辺に一泊し、近くにあった野久稲荷神社に詣でて、太刀一振と馬一頭を奉納したところ、その夜に白羽の矢のような形をした雲が敵陣の方へ飛んでいくのを目撃する。これは神のお告げだと確信し、直ちに敵陣に攻め込んだ頼信は見事に快勝し、当地に、立派な社殿を建造し「箭弓稲荷大明神」と称えられ、その後も松山城主や川越城主の庇護を受け、現在に至っている。
 
               三の鳥居手前にある手水社                三の鳥居近くにある由緒、祭神の
                                               紹介した案内板
境内由緒書

 御祭神 宇迦之御魂神(保食神)豊受比賣神

 当社の御創建は和銅五年と伝えられ、規模の雄大さと御社殿の荘厳さと御霊験の灼かさに於いては、関東に比なき稲荷大社と称せられ、創立の当時は野久又は矢久稲荷と称せられ里人の信仰の的となっていた。社記に依れば人皇第六十八代後一条天皇の御宇長元元年下総国(千葉)の城主前上総介平忠常謀反を企て、安房、上総、下総の三カ国を切従へ破竹の如き勢いにて威を八州に震い大軍を起こして武蔵国に押出せし時、冷泉院判官代甲斐守源頼信長元三年忠常追討の倫旨を賜り、当地野久ヶ原に本陣を張りて当社を尊仰し朝敵退治の願書を呈し、一終夜の御祈願ありてその暁白雲俄に起こりて白羽の箭の如く型取りたる雲あらわれると共に一陣の風颯と吹き立ち敵陣の方へ箭を射る如く飛び行けば頼信神明の感応なりと直ちに敵陣に攻め入れば、忠常の陣中麻の如く乱れ三日三夜追討して潰滅せり、頼信御神威を感得、喜悦して直ちに見事なる御社殿を再建建立して箭弓稲荷大明神と称へ奉れりと記され亦後に御社名を箭弓稲荷と呼称す。
 又宝徳三年二月の初午に河肥の左金吾持資主の心願成就の法楽を捧げられ文明年中まで年毎の御祭礼は、太田道灌により執行せられ、松山城主上田氏、難波田氏も康正年中より、代々の領主達の尊信最も篤く後川越八代の城主松平大和守は、社地を免租して親筆の献額を捧げ、松平家代々の城主当社を崇敬し御分霊を城内及び邸内に奉斎された。
 当社の最も隆盛を極めたのは、特に享保年間で庶民の崇敬最も篤く、四方遠近の国々貴賤当社に心願をこめて参籠し、社前市をなし人馬の往来繁く江戸より熊谷西上州、また江戸には「箭弓稲荷江戸講中」日本橋小田原町を中心に江戸市中に及び講中の参拝引きもきらず、桶川、鴻巣、吹上の宿より道中して参拝し「従是箭弓いなり道」の道標50余本ありて当時の隆盛を偲ぶことができる。現在も大小百余講社あり。尚当社は、五穀豊穣、商売繁盛。家内安全の守護神であるとともに養蚕倍盛、交通安全、厄除、火難除、開運、学業成就、芸能精進等の神社として信仰を集めております。
 

                        拝   殿

                        
重厚な造りで趣のある、箭弓神社 本殿

  現在の社殿は享保3年(1718年)領主、島田弾正が四方の信徒と図って建築したものであるといわれている。本殿は正面5.43メートル、奥行5.15メートルあり、屋根は切妻単層三重垂木の銅葺でできている。本殿には幾多の彫刻が施されており、また本殿内部は日光廟を模した感じであるという。

                                                  元      宮
   
元のお社として現本殿の真後ろに鎮座し、社殿には彩色ある細やかな彫刻が施されている。毎月1・15日には神饌を供し拝礼する。
 
                                                 
宇迦之御魂社(團十郎稲荷・穴宮)


  遡ること七代目市川團十郎は特に厚く当社を崇敬しており、社に籠り芸道精進、大願成就のご祈願をいたし、その当時、江戸の柳盛座の新春歌舞伎興行において「狐忠信」「葛の葉」等の芸題を披露しましたところ毎日札止めの大盛況となりました。
 これはひとえにご神威、ご霊験のあらたかなることだと感得した團十郎は、文政四年(1821年)の秋、当社に石造りの祠を建立しました。
 以来江戸の役者衆や花柳界をはじめ、芸能・技術の向上を願う方々の信仰が厚く、芸能・商売繁昌の守り神として広く崇敬を集めています。
                                                                           
                                                                                      宇迦之御魂社御由来 掲示板より引用

拍手[1回]


高麗神社

 高麗郡は武蔵国のほぼ中央部、外秩父丘陵地帯に位置し、入間郡の中に割り込んだ形になつている。四囲は、入間・多摩・秩父の各郡と接していておおむね現日高市および飯能市(もと秩父郡に属していた北西部の吾野地区を除く)の地域である。
  奈良時代霊亀2年(716年)に時の朝廷が駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野等7ヶ国に居住していた旧高句麗の遺民1799人を武蔵国に移したことにより高麗郡として設置されたのが最初であるという。当時高麗郡には、「高麗郷」と「上総郷」の二つの郷が置かれ(当時の行政単位は国・郡・郷)、高麗郷は今の高麗神社がある日高市一帯にあった。また、上総郷は上総(千葉県)からの移住者が中心になって開発された地域と推定されている。『和名抄』は「古末」と訓じている。

 また武蔵國で郡が設置された年代が文献で確認できるのは、高麗郡と新羅郡(新座郡)の二つで、不思議とかつての朝鮮半島に実在した、または朝鮮の国土を統一したれっきとした国の名前である。
  ある説では北武蔵への渡来人の移住は、6世紀の末頃までさかのぼることができるという。6世紀末、律令制下の武蔵國ができる前、それぞれ壬生吉志が男衾郡、飛鳥吉志が橘樹郡、日下部吉志が横見郡で活躍したと伝えられている。この人たちに共通することは、「吉志」という名前であり、これは朝鮮の王を示す「コンキシ」「コキシ」と同一語といわれているが事の真相はどうだったのだろうか。
        
              ・所在地 埼玉県日高市大字新堀833
              ・主祭神 高麗王若光 猿田彦命  武内宿禰命                                      ・社 格 旧県社 別表神社                
                ・例 祭 1015                                                                  
 
 高麗神社は、埼玉県日高市にある。。最寄り駅は西武池袋線の高麗駅で、関東平野の西の端、奥武蔵の山々の先端にあたり、付近を流れる高麗川と山々をめぐるハイキングコースはこの地域の観光資源でもある。そして、高麗神社はこの地域の史跡として、観光地としても賑わっている。
            
                                           高麗神社社号標とその奥にある一の鳥居
             正面一の鳥居                   綺麗に整備された長い参道が続く。                          
 駐車場の北西方向で二の鳥居の近くには。「地上男将軍」「地下女将軍」とよばれる将軍標が林立している。駐車場内の将軍標(しょうぐんひょう・チャンスン)チャンスンは朝鮮半島の古い風習で、村の入り口に魔除けのために建てられた。将軍標は平成4年に大韓民国民団埼玉県地方本部によって奉納されたもの、という。今回撮影できず残念。
 
        参道を進むと二の鳥居がある               二の鳥居を過ぎるとすぐ左側にある手水社           
               

                                     手水社の手前には高麗神社の由来の案内板がある。

  高麗神社   所在地 日高市大字新堀 
 高麗神社は、高句麗国の王族高麗王若光を祀る社である。
 高句麗人は中国大陸の松花江流域に住んだ騎馬民族で、朝鮮半島に進出して中国大陸東北部から朝鮮半島の北部を領有し、約七〇〇年君臨していた。その後、唐と新羅の連合軍の攻撃にあい六六八年に滅亡した。この時の乱を遁れた高句麗国の貴族や僧侶などが多数日本に渡り、主に東国に住んだが霊亀二年(七一六)そのうちの一七九九人が武蔵国にうつされ、新しく高麗郡が設置された
 高麗王若光は、高麗郡の郡司に任命され、武蔵野の開発に尽くし、再び故国の土を踏むことなくこの地で没した。
 郡民はその遺徳をしのび、霊を祀って高麗明神とあがめ、以来現在に至るまで高麗王若光の直系によって社が護られており、今でも多数の参拝客が訪れている。
                                                            案内板より引用
        
                                                  神  門                     
        
       高麗神社扁額「高句麗」と記載                      祓所(はらえど)

 この神社を語るとき7世紀の朝鮮半島の歴史を抜きに語れない。7世紀当時の朝鮮半島は激動と政略の混迷した時代だった。新羅、百済、高句麗の3国が朝鮮半島の覇を競い、戦乱に明け暮れていた。それに中華帝国の隋、唐も干渉し、いつ果てるともしない様相となっていた。

 高麗と記載されているが、正式に言うと高句麗でもともと満洲高原の騎馬民族とされ、中国満洲地方・朝鮮半島・遼東地方の大半を支配し、中国文化を取り入れた強大な先進国であった。

高句麗(こうくり、紀元前37 -668年)
 現在の東三省( 遼寧省・吉林省・黒竜江省)南部から朝鮮北中部にあった国家であり、最盛期は5世紀、「広開土王碑」で有名な「広開土王(こうかいどおう)」、「長寿王(ちょうじゅおう)」治世の100年間で、満州南部から朝鮮半島の大部分を領土とした。隋煬帝、唐太宗による遠征を何度も撃退したが、唐(新羅)の遠征軍により滅ぼされた。王氏高麗との区別による理由から「こうくり」と音読されるが、百済、新羅の「くだら」「しらぎ」に対応する日本語での古名は「こま」である。

 581年南北朝を制した隋帝国が誕生し、2代目皇帝煬帝は、3度に渡る高句麗遠征を行うが、すべて失敗。結果的にこれが隋帝国の滅亡につながった。そして大唐帝国の度重なる遠征。唐は新羅と同盟を結び、百済を滅ぼす(661年)。そして百済救援のため軍勢をむけた倭国を白村江の戦いで破り、高句麗も度重なる遠征に国の力は衰え、高句麗の宰相であり、名将でもある淵蓋蘇文(?ー665)死後淵蓋蘇文の子らの間で内紛を生じると、それに乗じて唐(新羅)軍は高句麗の都の平壌を攻め、668年ついに滅亡した。
                   
                       
         高麗神社 拝殿

 666年(天智5年)高句麗国の使者(副使)である玄武若光として来日する。668年(天智7年)唐と新羅の連合軍によって高句麗が滅ぼされたため、若光は高句麗への帰国の機会を失ったと考えられる(日本書紀より参照)。
 その後朝廷より、従五位下に叙された。703年(大宝3年)に文武天皇により、高麗王(こまのこきし)の氏姓を賜与されたともされるが(続日本記)、ただし、これ以後国史に若光及び「高麗王」という氏姓を称する人物は全く現れない。『日本書紀』の「玄武若光」と『続日本紀』の「高麗若光」が同一人物ならば、高句麗王族の一人として王姓を認められたということになるが、証明出来ていない推定であり、その生涯も記載がなく不明である(新説『埼玉県史』)。
           
                      ご神木である樹齢300年の彼岸桜
        
 716年(霊亀2年)武蔵国に高麗郡が設置された際、朝廷は東海道七ヶ国から1799人の高句麗人を高麗郡に移住させている(続日本記)が、若光もその一員として移住したものと推定されている(新編『埼玉県史』)。
 武蔵国には白鬚神社と呼称される神社が約55社存在している。これらは、この高麗神社の分社であるとされ、当社は高麗総社とも呼ばれている。若光が晩年、見事な白鬚を蓄えていたことから白鬚さまと尊ばれていたことから、のちに当社を白鬚明神と呼称したともいう。

 
         拝殿の前方にある神楽殿              律令時代当時の衣装が色鮮やかに展示     


 高麗神社の拝殿の奥には、高麗神社の社家・高麗家の住居であり、国指定重要文化財である高麗家住宅がある。入母屋造、茅葺屋根で、山を背に東を正面として建てられていて、江戸時代初期(慶長年間)の民家建築を伝えている。

  高麗神社の神職を努めてきた高麗家の住居として、使われていたものです。建築は17世紀後半(江戸時代前半)と推定され、東日本の民家の中では極めて古い建築です。入母屋造りで屋根は茅葺きで、桁行七間半(14.3メートル)、梁行五間(9.5メートル)をはかります。間取りは古四間取りという形式で、「奥座敷」、21畳の「表座敷」、「勝手」と「へや」、そして土間から成っています。
                                                     「日高市公式HP」より引用
 

拍手[2回]


広木みか神社

  広木みか神社が神社が鎮座する埼玉県美里町。埼玉県北西部に位置する、人口約1万2000の自然豊かな町だ。
 美里町は律令時代には那珂郡と言われ、この「なか」は、賀美(かみ)郡の「上」に対する「中」の意とする説があるそうだ。付近一帯には長坂聖天塚古墳に代表される県下でも最古級の古墳があり、そのほか普門寺古墳群、羽黒山古墳群、広木大町古墳群等の古墳群がこの狭い地域に密集して存在する。現存する古墳数も大小177基に及び県下では多い地域でもある。またこの地域は地形上、東国の中心地であった上毛野国(上野国)の南部に位置し上野国と深い交流があったと思われる。
 近くには神池である「摩河の池」を中心に古代祭祀が行われていたものとされ、周辺には広木古墳群の他にも埴輪窯跡・竪穴住居跡なども発掘。当社の祭祀集団は神酒づくりにかかわる土器=ミカを製作した出雲族の集団であったと推定される。古代ムサシ国と毛野国の風土が色濃く混じり合った雰囲気がこの那珂郡にはあるようである。
     
                    ・所在地   埼玉県児玉郡美里町広木1
                    ・ご祭神   櫛御気野命、櫛瓺か玉命                           
                    ・
社  格    式内社 県社 那珂郡総鎮守
                    ・例祭等    祈年祭 2月18日 春の大祭 4月13日 
                             秋の大祭 10月15日 新嘗祭 11月24日

  広木みか神社は国道254号を美里町方面から児玉方面へ進み、「広木交差点先」150m程先の場所に鎮座している。創立年代は不詳ではあるが延喜式に記載されている古社。。同所は武蔵七党猪俣党の発祥地とされる。社名の「ミカ」とは酒をかもすのに用いた大型の甕のことで、当社に御神宝とされていた土師器が4個保存されているとのことだ。
                    
                          県道沿いに建つ社号標柱   
       社号標柱のすぐ先には芭蕉の句碑がある。        国道から路地を進むと鳥居が見える。            
       鳥居前に設置されている案内板           鳥居の先で右側にある歴史を感じる手水舎

 
 鳥居を越えると一旦、左に曲がり、その右側には重厚感のある神楽殿が見える(写真左)。また参道を曲がる手前で左側には昔からの案内板が設置されている(同右)。  
     

みか神社     所在地 児玉郡美里村大字広木
 みか神社の創立年代は不詳であるが、醍醐天皇の延喜式神明帳に登載されている古い社で、祭神に櫛御気野命、櫛みか玉命の二神が祀られている。江戸時代の享保8年(1723)に正一位を授けられたと伝えられ、宝暦8年(1758)に建設された境内の碑にも「正一位みかの神社」とある。
現在の社殿は宝暦13年に再建したもので、これを記した棟札が残っている。
社名のみかとは酒を造るために用いた大きな甕(かめ)のことで、現在、当社に御神宝とされていたと思われる。
土師器のミカが四個保存ざれている。
例祭は、毎年4月13日と10月15日に行われ、以前は秋の例祭に新米で濁酒を二瓶造り、これを神前に奉納して、その一つは翠春の参拝者に分け与え、他の一つは秋の例祭のときに新調したものと交換していた。現在は清酒を奉納し、これを御供物として参拝者に分け与えている。
昭和58年3月 埼玉県                                            
  案内板より引用                                                                                                                                   
           
                                 拝 殿  
 みか神社 御由緒   美里町広木1
 □御縁起
 武蔵国の北辺にあって上野国と交流のあった郡の一つに那珂(なか)郡がある。この群は当初、賀美郡(上郡)・榛沢郡(下郡)と共に栄え、当社はこのうち那珂郡総鎮守として祀られた神社である。鎮座地の広木は『和名妙』の「那珂郡弘紀郷」の遺称地とされる。
 資料の初見は、『延喜式』神名帳の「みか神社」(ミカノ・ミカイノ」である。古代祭祀に関与した奉斎集団の古墳群は、身馴川に沿って分布する秋山古墳群・広木大町古墳群・後山王古墳群がある。これらは発掘によれば埴輪を持ったものが多い。また、これらの古墳に埴輪を供給したとされる埴輪窯として、近くに宇佐久保釜跡がある。更に「みか神社前遺跡」は、六世紀の竪穴住居跡で、埴輪が出土している。
 中世は、那珂郡一帯を武蔵七党猪俣党が本拠としたことから、これら武士団の崇敬があったと思われる。また行田市の長久寺に蔵する明応七年(一四九八)七月の年紀をもつ大般若経第一一〇奥書に「児玉郡塩谷郷阿那志県みか玉大明神宮」と当社のことが見える。
 明治初年に村社となるが、式内社であることをもって明治三十七年に県社に昇格した。
 同四十年には神饌幣帛料共進神社の指定を受け、三島社・稲荷社・秋葉社・八坂社・社宮司社の五社を合祀した。
                                                      鳥居横の案内板より引用

                                                                          拝殿に掲げてある「正一位みか神社」の扁額
               
 
     彩色豊かな拝殿、拝殿向拝部(上段)・木鼻部(下段左右)には精巧な彫刻が施されている。 
    
                                    本  殿               

由 緒
  当社の創立は詳かでないが延喜式神名帳に所載の古社であって古来旧那珂郡の総社と称されて居りました。「延喜式神名帳とは、人皇60代後醍醐天皇の延喜の年代の頃中央に於て全国の神社を調査し纏めた書物が完成された。この本を延喜式神名帳と云いこの書物に登載され居る社を式内社と云います。」神階は往古は不明であったけれども享保8年正一位の神階を授けられ宝暦8年に建設した碑に正一位みかの神社とあり。神領は徳川幕府の時代に地頭より除地四段 八畝歩を寄附せられ尊敬最も厚かった。祭典は春秋二季に行い毎年秋の例祭に新米を以って濁酒二甕を造り之を撤し其の一は秋季例祭に於て新酒と交換し何れも神供として其の神事に与る氏子に信徒に分与することが例であって往古より明治中期まで行い来られる。古式の神事でありましたが現今は中止されて居る。尚宝暦13年御本殿の改造の棟札は残って保存されて居る。                                                                                                   
                                                                            全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年
 広木みか神社の神社の社殿の周りには多くの境内社が所狭しと並んでいる。また拝殿の左側には社日と呼ばれる五角形の石柱が立っていて、「社」は土地の神、「産土神(うぶすながみ)」を祀った神社にお参りして五穀を供えて豊作を祈り(春社)、また秋の初穂を供えて収穫に感謝する(秋社)、農耕民族らしい日本の信仰形態だ。

 
 境内奥に並ぶ境内社
(写真左側) 写真右側から産泰神社、諏訪神社、天満天神宮、神明神社、蚕影神社、山王神社、松尾神社)
(写真右側) 蚕影社、山王神社、松尾社、古峯山、鹿島社、稲荷社、愛宕社、天手長社、大雷社など
           

                                  
社日と呼ばれる五角形の石柱
  広木みか神社の祭神は櫛御気野命と言い、櫛は奇霊(くしび)であり、御気は御食または御木のことで、神祖熊野大神櫛御気野命と同神。つまり本来熊野大神であるが別名素盞嗚尊(スサノオ)と言う。この熊野大神は有名な熊野三山とは無関係のようで、本家は島根県八束郡八雲村熊野に鎮座する熊野大社であるようだ。
 熊野大社
  ・鎮座地 島根県八束郡八雲村熊野2451
  ・旧称   熊野坐神社 熊野大神宮 熊野天照太神宮
  ・別称    日本火出初社 出雲國一宮 後明治4年國幣中社、大正5年國幣大社
  ・主祭神 加夫呂伎熊野大神櫛御気野命と称える素戔嗚尊
  ・神紋    一重亀甲に「大」の文字
           
                          社殿から境内風景を撮影

  熊野大社は720年の日本書紀によると、659年に出雲国造が創建したと記されていて、733年の出雲国風土記では、出雲大社とこの熊野大社が出雲国内で最も格式の高い「出雲國一之宮」とされているが両社の力関係は同一ではなく、文献では『文徳実録』(851年)には、「出雲国熊野杵築両大神を従三位に叙す」と、また『三代実録』(859年)にも「 出雲国正三位勲七等熊野坐神、正三位勲八等杵築神を従二位に叙す」とあり、いずれも熊野大社、次いで杵築と記しているように、熊野大社の神格が一段高く評価されていることが窺える。また日本火出初社(ひのもとひでぞめのやしろ)という別称があり「火」の発祥の神社としても信仰を集めていて出雲国造の世継ぎの儀式「火継式(神火相続式)」や「新嘗祭」等の重要な儀式は出雲大社宮司の出雲国造家が「熊野大社」に出向いて行われている。
  出雲国の熊野大社と紀伊国の熊野大社はどのような関係だろうか。熊野大社から紀伊国に勧請されたという説と、全くの別系統とする説がある。社伝では熊野村の住人が紀伊国に移住したときに分霊を勧請したのが熊野本宮大社の元であるとしている。紀州の熊野神は後に皇室の崇敬する所となって繁栄し、蟻の熊野詣でとまで言われる程になった。 出雲のお膝元にまで紀州系の熊野神社が勧請されているとの事、出雲国内で61社あると言う。
 広木みか神社の祭神は櫛御気野命といい、本宮が島根県八束郡八雲村熊野に鎮座する熊野大社であるということは重要な点だ。なぜなら出雲族といっても出雲大社を本宮とする大己貴命系と、熊野大社を本宮とする素戔嗚命系に分類されるからだ。ちなみに埼玉県内の出雲系の神社の祭神は以下の通りだ。

 氷川神社              須佐之男命  大己貴命
 鷲宮神社              天穂日命   大己貴命
 金鑽神社              素戔嗚尊
 本庄金鑽神社         素戔嗚尊
 熊野大神社          事解男命 速玉男命
 玉敷神社           大己貴命
 出雲伊波比神社      大名牟遅神  天穂日神
 出雲乃伊波比神社(寄居町) 須佐之男命 
 出雲乃伊波比神社(熊谷市)  天穂日命  大己貴命
 久伊豆神社        大己貴命 事代主命
 前玉神社          前玉比売神  前玉彦命
 上之村神社        大己貴命   事代主命
 伊波比神社        天穗日尊
 横見神社          建速須佐之男命  櫛稻田比売命
 高負彦根神社         大己貴尊
 稲乃比売神社       素盞嗚命  大己貴命
 田中神社(熊谷市)  武甕尻命  天穂日神
           
                     社の北側で「摩河の池」付近からの眺め

 赤色が大己貴系、青色が素戔嗚系で圧倒的に大己貴系が多い。中には氷川神社や稲乃比売神社のように素戔嗚系と大己貴系が一緒に祀っている神社も存在する。が、こと県北に関しては金鑽神社、本庄金鑽神社、甕甕神社、そして寄居町の出雲乃伊波比神社は素戔嗚系で集中している特徴がある。
 少なくとも出雲族といっても大きく2系列の一族の進出が武蔵国にはあって、大己貴命を信奉する一族は埼玉県北東部の行田市、羽生市付近から元荒川を沿って南行する一派と西方面へ進出する一派に分かれ、かたや素戔嗚命を信奉する一族はは金鑽神社の児玉郡から甕甕神社の那珂郡、男衾郡にかけてに進出し広がりをみせたのではないかと現時点では推測する。
  
 

拍手[3回]


伊古乃速御玉比売神社

 比企郡は、埼玉県の中央部に位置し、山地から丘陵、そして沖積地へと変化に富んだ地形が特徴だ。郡の範囲は入間川支流越辺川の北、都幾(とき)川、市野(いちの)川の流域一帯で、四囲は、大里・横見・足立・入間・秩父・男衾の各郡に接している。おおむね現在の現東松山市、比企郡に属する町村(吉見町を除く)の地域である。『平安時代に編纂された『延喜式』には武蔵国の郡名として比企が登場するが、「ひき」は日置が語源で、日置部(ひおきべ)という太陽祭祀集団と関係するという説がある。
 
 
比企丘陵は外秩父山地から東方に半島状に突き出した丘陵であり、北部は江南台地、南部は東松山台地、東部は吉見丘陵に接している。丘陵内では、高根山(標高105m)、二宮山(標高132m)、大立山(標高113m)など標高100m前後の山が、丘陵の西半分の地域に散在して突出した地形をつくるが、全体的には100m以下の丘陵地形をつくっている。丘陵内部には、市ノ川・滑川およびその支流による開析が進み、広い谷底と小谷が発達している。この開析谷は、北西~南東あるいは南北の方向をもつものが多く、これらの谷頭は丘陵の北側に極端に偏り、分水嶺は丘陵の北縁近くに偏在する。このため、丘陵北縁を東流する和田川の支谷は、未発達となっている。

 
江南町域においては、高根山から派生する丘陵と、滑川町和泉地区から派生する二つの尾根筋があり、嵐山町とは西側の谷を流れる滑川で区分されている。

 
本丘陵は、地質学的には新生代第三紀層に相当し、礫岩・砂岩・泥岩・凝灰岩等の互層によって構成されている。層序は、下位より、前期中新世に属する七郷層(凝灰岩質で緑色変質が特徴。層厚830m以上)、中期中新世に属する小園層(粗粒砂岩を主体とし、礫岩・泥岩・凝灰岩を伴う。層厚300m。)、荒川層(砂岩・泥岩の互層で、下部に礫岩を伴う。層厚350m)、土塩層(砂質泥岩を主体とし、砂岩・凝灰岩を伴う。層厚350m)、後期中新世に属する楊井層(礫岩を主体とし、砂岩・凝灰岩を伴う。層厚300m)となり、これらの中新統を不整合に覆って更新世に属する物見山礫層が分布している。

所在地     埼玉県比企郡滑川町伊古1242
主祭神     気長足姫命(息長帯比売命)、大鞆和気命(誉田別命)、武内宿禰
          
社  格     延喜式内 旧郷社
由  緒     仁賢天皇のとき創祀
                 
文明元(1469)年当地に遷座
              
享保14年(1729)閏9月29日正一位    明治6年郷社
              
明治40年4月2日神饌幣帛料供進神社指定
例  祭     
例大祭1015日、榛名祭415日、祈年祭315日   
                                                
             
   
  熊谷から県道47号線で滑川町役場(北)交差点より北西2km程にあり、伊古の丘陵地帯に鎮座している。ひっそりと鎮座している、と言う言葉通り、周囲は閑散としていて、参拝日全く人に出会わなかった。ちなみにこの伊古乃速御玉比売神社の周辺には淡洲神社が濃密に分布していて、その特徴は南北方向には広範囲だが、東西方向は狭い。淡洲神社は滑川町土塩、福田、山田に、大雷淡洲神社が滑川町山田に、阿和須神社が滑川町水房にある。
  創建当初は二ノ宮山上にあったが、文明元年(1469年)にこちらへ遷座したそうだ。ちなみに二ノ宮山はここから西へ700m程の距離にあり、山頂にはこちらの神社の奥宮があるとのこと
だ。
                             
                                              一の鳥居横にある案内板と社号標

  仁賢天皇年間(449460年)に、蘇我石川宿禰の末裔がこの里を開き、二ノ宮山の頂上に、神功皇后と応神天皇、そして祖先の武内宿禰の三神を祀り創建。文明元年(1469年)に当地へ遷座し、二ノ宮山頂の社を奥宮としたとのことである。しかしながら本来の祭神は速御玉比売命ともあり、江戸時代には淡洲明神とも呼ばれていたという。
 
       一の鳥居を超えると石の階段が続く。                    階段は長くなく、
                                        途中から二の鳥居の先の拝殿が見えてくる。
          
                                          御神木の「ハラミ松」  
           
                                拝 殿
  ほの暗い参道、そして二の鳥居を抜けると日光を浴びた明るい拝殿が現れる。延喜式内社、比企総社、明治6年に郷社の社格を持った風格ある由緒正しき神社がこの滑川町に存在する。

伊古乃速御玉比売神社  滑川町大字伊古
昔は二ノ宮山上にあつたが文明元(一四六九)年当地に遷座したと伝える
第六十代醍醐天皇は藤原忠平に命じて延喜式を編さん、武蔵国で四十四座を数えた。その中の一社で県内でも古社の一つで、比企総社となっている
境内全域に自生する樹水は、南半部にアラガシを主とする暖帯常緑樹、北半部はアカシデ、ソロを主とする温帯落葉樹で両帯樹が相生していて学術上きわめて重要なため、県指定天然記念物である。
段を登りきったところにそびえ立つ御神木「ハラミ松」は箭弓安産の祭神と相まって近年でも広く信仰がなされている。(以下略)
                                                                      案内板より引用

 一に淡州明神と云、今は専ら伊古乃御玉比賣神社と唱へり、此社地元は村の坤の方小名二ノ宮にありしを、天正四年東北の方今の地に移し祀れり、祭神詳ならず、左右に稲荷・愛宕を相殿とす、当社は郡中の総社にして、【延喜式神名帳】に、比企郡伊古乃速御玉比売神社とあるは、即ち当社のことなり、[中略]
   又此社式内の神社と云こと、正き証は得ざれども、村名をも伊古といひ、且此郡中総社とも崇ることなれば、社伝に云る如く式社なるもしるべからず、ともかく旧記等もなければ詳ならず、例祭九月九日なり、別当円光寺 天台宗、東叡山の末、岩曜山明星院と号す、
  [中略]薬師堂 薬師は当社の本地仏なりと云
                                                                         新編武蔵風土記稿」巻之百九十四(比企郡之九)より

        拝殿内部                  本 殿

 社殿左奥に鎮座する境内社・金刀比羅神社   拝殿左手前に鎮座する境内社・天満天神社
       
        丘陵地独特の境内から石段を見るこの角度がたまらなく良い。                                     
   
滑川村伊古乃速御玉比売神社社叢
ふるさとの森  昭和55年3月25日指定

身近な緑が、姿を消しつつある中で、貴重な緑を私達の手で守り、次代に伝えようとこの社叢が「ふるさとの森」に指定されました。
社叢は、神社の歴史的遺産と一体となり、本県でも有数のふるさとを象徴する緑です。
アラカシ・アカシデを主とした暖帯林の中に針葉樹のモミが混生しているところに社叢の特徴があります。
境内の西側にはアカシデ・イヌシデ、北側にはモミ、南東にはアラカシが、それぞれ生育しています。
今後も皆様の手でふるさとの森を守り、育ててくださるようお願いいたします。
昭和55年10月 埼玉県   社頭掲示板より引用                                                                                                                   
                                                                                                   
  この神社が鎮座する比企郡滑川町、古墳時代当時の地形はどうだったろうか。当地周辺は、滑川に沿う細長い谷間の土地。山間に数多くのため池が設けられ、古代においても、池があったと推測される。この地形上の観点から滑川の中流域にある式内社・伊古乃速御玉姫神社の元々の祭神は、素直に考えれば、土地を潤す滑川の神であり、沼の神であり、この丘陵地帯に多い溜め池を守護する水の神ではなかろうか。


 

拍手[4回]