古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

下忍神社

 
 下忍神社が鎮座する行田市下忍地区は、その昔、忍城の下(外れ)といい戦国時代以前からの名称であったそうで、口碑には「下忍の地名の下は、上(殿様)に対するもので、当地は武士が住んでいたところから、忍城に対して下忍と呼ぶようになった」とある。
 この「忍」という地名は戦国時代以前よりかなり古くからこの地方で使用されていたようだ。その由来として忍は磯辺(オシベ)の転化とか、鴛(オシドリ)がすんでいたからであるといわれ、河川や沼地が多かったこの地らしい口伝がある。また文献上では鎌倉時代の東鑑という本に忍五郎、鴛三郎が活躍していることが出ているから、その当時から用いられていたのだろう。そして1050年頃、忍氏がこの地域を開拓し、「忍荘」として交通の要路となったと言われている。
 またこの社は古くから久伊豆社と称して鎮座していたと伝えられ、旧下忍村の鎮守となっていた。明治2年村社に列格、高畑の塞神社、東谷の天神社をを合祀、明治42年に下忍神社と改称、さらに同年中京田の山神社、高畑の琴平神社を合祀したといわれる。
所在地   埼玉県行田市下忍1160
御祭神   大己貴命
社  挌   旧村社
例  祭   不明
 

         
 下忍神社は下忍愛宕神社から埼玉県道148号騎西鴻巣線を北方向に進む。道なりに進み、途中県道と別れる変則的な十字路を直進する。そのまま北上すると4,5分くらいで左側に下忍神社が鎮座する場所に到着する。駐車スペースは神社の南側にあるのだが、入口付近は鎖で塞がれていていたので、北側に路上駐車して急ぎ参拝を行った。
            
                            下忍神社 正面
 
            右側には手水舎                                           拝殿の手前にある力石
           
                              拝    殿
 
  拝殿上部にある「久伊豆神社」と書かれた扁額                拝殿内部
           
                             本    殿
下忍神社の由来 
 「武蔵志」には「下忍、境地ノ南ニテ士町足軽町アリ」と載せ、口碑には「下忍の地名の下は、上(殿様)に対するもので、当地は武士が住んでいたところから、忍城に対して下忍と呼ぶようになった」とある。
当社の創始は、口碑に「下忍神社は晋、久伊豆社と呼んでいた。久伊豆社は武蔵七党の一つ私市党の氏神で、私市城の鎮めに祀った社である」というが、私市城との関係は明らかにできない。また「明細帳」には「昔ヨリ下忍村上組総鎮守ト仰キ云々」とあり、「風土記稿」には「久伊豆社 村の鎮守とす、明光寺持」と載せている。
 明治初めの神仏分離により寺の管理を離れ、明治2年に村社となり、同3年高畑の塞神社を境内に合祀し、同42年には東谷の天神社を本殿に合祀して、社号を下忍神社と改める。更に、同年中京田の山神社、高畑の琴平神社を境内に合祀する。
合祀社のうち塞神社は、古くは道六神と称し、既に「慶長13年検地水帳」(島崎隆家所蔵)にその名が見えることから古社であることが分かる。また、琴平神社は、旧別当明光寺の本山、行田遍照院の金毘羅大権現であり、神仏分離により下忍飯田萬吉家に移され、次いで当社に合祀したものである。内陣に、「弘化四年開眼供養」の墨書がある金毘羅権現像(24cm)を安置している。
                                         埼玉県神社庁 「埼玉の神社」より引用

 この下忍神社の隣には明治2年に合祀した高畑の琴平神社が二社並列という形で鎮座している。
          
                        合祀社 琴平神社正面
            
                           琴平神社 拝殿
 

   下忍神社と琴平神社の間にある石祠群        琴平神社の拝殿手前にある「新川早船絵馬」 
                                               の案内板
新川早船絵馬
  本絵馬は明治6年に琴平神社に奉納されたもので、江戸時代から明治初頭頃にかけて賑わった新川河岸に関わる人々が奉納したものである。
絵師は岩田霞岳で、中央には早船の様子、左上には河岸問屋の様子が描かれ、下半部には奉納者の名前と国・村名が列記されている。当時の荒川舟運や新川河岸の様子、金比羅信仰の様相等を示す貴重な資料である
                                           行田市教育委員会掲示板より引用
   
 この絵馬は、明治6年(1873)に琴平神社(下忍神社境内)に奉納されたもので、作者は絵師の岩田霞岳(かがく)、願主は芝崎鉄五郎です。桐板6枚を繋げて造られ縦77.5cm、横104.7cmの額装です。新川とは新川河岸(かし)の事で、寛永6年(1629)の荒川開削以降に開かれ、主に忍藩の年貢米や御用荷物の運送で賑わいましたが、鉄道の開設により衰退し、大正末頃には消滅してしまいました。
 画面中央には早船の様子、左上には河岸問屋の様子が描かれており、船、問屋の家屋、波頭が見事な筆致で描かれています。下半部には本絵馬の奉納者の名前と国・村名が列記されていますが、その構成は埼玉県の外、栃木、千葉、茨城、群馬県にまで及んでいます。奉納者は、問屋仲間や船頭仲間として新川河岸とつながりのあった者と考えられ、彼らが商売繁盛と航行の安全を祈願して、船運の神として信仰されていた琴平神社に奉納したものと思われます。当時の船運、新川河岸の様子や金比羅神社信仰の様相を示す貴重な資料です。
                                           行田市教育委員会掲示板より引用

 新川早船絵馬は荒川の新川河岸の様子を描いた絵馬であり、行田市指定文化財(歴史資料)となっている。
 新川河岸とは現在の熊谷市久下付近の荒川に明治初期まであった、河岸場(やっちゃば、舟運の荷降しのための中継所)である。荒川からはかなり遠方である下忍村にまで、舟運関係者が在住していたようで、この絵馬は当時の新川河岸の規模の大きさと賑わいぶりを示している。

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下忍愛宕神社

 忍川は延長12Km、流域面積25Km2の中川水系の一級河川。河川管理上の起点は熊谷市平戸にあり、源流にあたる熊谷市中心市街地の区間(一級河川指定区間外)では星川と呼ばれるが、同市市街地北部を流れる星川とは別の川である。この起点である箇所から東へ向かって流れ、行田市の市街地を経由し、秩父鉄道を横断した付近から流路を南へ変え、最後は吹上町袋で元荒川の左岸に合流する。古い時代(中世あるいはそれ以前)には、忍川の流路は乱流していて不定であり、星川の派川だった時代を経て、流路は次第に荒川の派川へと移行していったと思われる。
 戦国時代には、忍城主 成田氏によって星川の水が忍沼(忍城の外堀)へ導水されている。これは新規に水路を開削したのではなく、星川の派川跡を改修したものだと思われる。取水口跡(行田市総合公園の南側、行田市谷郷)には、大樋跡の碑が建てられている。
所在地    埼玉県鴻巣市下忍2842
御祭神    八坂大神
社  挌    不明
例  祭    例祭日7月23・24日

        
 下忍愛宕神社は旧北足立郡吹上町の北東側で、埼玉県道148号騎西鴻巣線と上越新幹線が交差する近くに鎮座している。吹上町は中山道の熊谷宿・鴻巣宿間があまりにも遠距離であったため、ちょうど中間地点に位置していた吹上村が非公式の休憩所である間の宿として発展し始め、それがまた、城下町・(現・行田市)に向かう千人同心街道の設置に当たっては正式な宿場の一つ・吹上宿として認められることとなり、重要な中継地として発展したという。
 2005年(平成17年)10月1日に北埼玉郡川里町と共に鴻巣市に編入されて、市域の一部となった。
 
           
                           下忍愛宕神社遠景
 
 下忍愛宕神社の創建年代は不詳。新編武蔵風土記稿には「天神社、明光寺持。愛宕社」と記載され、また近隣の下忍千手院が愛宕山と号し、寛永年間(1624-1643)以前の創建といわれることから、愛宕社は、江戸時代初期以前に鎮座していたものと思われる。
             
                             拝    殿
 
        拝殿の右側にある天神社                    左側には日枝神社
                       
                             本    殿
 この社の最大の特徴は拝殿の奥の本殿が愛宕山古墳、つまり墳頂上にあることだ。愛宕山古墳は、直径20~30m、高さ3m程の古墳時代後期の円墳と推定されているが、出土品などが確認されていないため、塚の可能性もあるという。 墳頂には愛宕神社が祀られていて、周りはコンクリートで固められ墳形は大きく変形していて原形を留めていないように見える。ちなみにこの愛宕山古墳は昭和34年1月16日鴻巣市指定史跡に指定されている。
           
                           愛宕山古墳 案内板
           
 下忍愛宕神社の規模は小さい社ではあるが、本殿が墳頂上にある為、遠目からでも確認できるくらい存在感のある社である。古墳か塚かどうかの議論の余地はあるにしろ、この面白い配置故に見た目にも不思議な余韻を残してくれる、そんな社である。

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広田鷺栖神社

 広田鷺栖神社は鴻巣市川里地区にあり、旧名広田村と称し、古くから田地として開発されている肥沃な土地であり、現在も白鷺の姿を多く見るところである。埼玉県神社庁発行の「埼玉の神社」によれば白鷺が田に下り稲を荒らしても、農民は決して追い払うことをせず「お鷺様お立ちください」といって去ってもらうという。また、過っても鷺を殺すと口のきけない子供が出来るといわれている。
 コウノトリ伝説で有名な鴻巣市らしい説話だが、このような鷺の伝承、伝説がこの広田鷺栖神社周辺に少なからず存在している。

         
            ・所在地 埼玉県鴻巣市広田3814
            ・ご祭神 日本武尊
            ・社 挌 旧広田村鎮守・旧村社
            ・例祭等 筒粥神事 215日 春日待 415日 秋季例祭 1015日
 広田鷺栖神社は埼玉古墳群の南東方向にあり、県道313号北根菖蒲線に面して鎮座している。地図を見ると良く解るが、不思議とこの鷺栖神社から埼玉古墳群の丁度中間地点には小崎沼があり、何かしらの関連性を伺わせる位置関係にあると思われる。
                
                           広田鷺栖神社正面
 広田鷺栖神社が鎮座する旧川里町周辺は、一昔まではサギ山と言われる集団繁殖地(コロニー)を形成していたらしい。このサギ山は現在でも日本各地にあるが、全国各地に「鷺山」という地名がたくさん残っていることから、かつては現在よりもさらに多くのサギ山があったと考えられている。
 埼玉県内でもこのサギ山は20年前までは14か所あったらしいが、水田転作で田んぼが減ってしまったり、田んぼが近代化することで、サギのエサとなる魚やカエルにとって住みにくい場所に変わってしまったため、サギ類の数は以前よりは少なくなってしまいサギ類の集団繁殖地サギ山も減少傾向にあり、現在では5か所と約3分の1になってしまったという。残念な現実だ。
 
            入口近くに設置されている「広田のささら」の掲示板(写真左・右)
 鴻巣市指定無形民俗文化財
 広田のささら   昭和50年12月15日指定

 広田のささらは、別名「龍頭舞」といい、頭に龍頭をかぶって舞う獅子舞である。
 この獅子舞は、寛永十六年(一六三九)七月二十七日より地区内の諏訪神社で始められたと伝えられている。その後、明治四十二年に諏訪神社が鷺栖神社に合祀されてからは、獅子舞は鷺栖神社の神事として毎年十月  十五日の大祭に、五穀豊穣と悪魔除けを祈願して奉納されている。(中略)               境内案内板より引用
 広田鷺栖神社の氏子区域は旧広田村で300戸程あり、現鴻巣市旧川里村全域の鎮守様である。当所は旧村名の広田が示すように水稲・陸稲の田地が広がる肥沃な地であり、このため、鴻巣市の指定無形民俗文化財である「広田のささら」を始め、多くの農耕関係の行事をよく伝えている所である。 
           
                      境内に建つ朱が鮮やかな二の鳥居                                                       

           
                               拝  殿        
『新編武蔵風土記稿 広田村』
 鷺宮 村の鎭守とす、祭神詳ならず、
 別當金剛院 本山修驗、屈巢村櫻本坊の配下なり、本尊不動を置、

 鷺栖神社  川里村広田三八一四(広田字東)
 当社の創建については、社伝に「昔伊勢の国・能保野(のぼの)を発ちし日本武尊の神霊白鷺の姿となり当地に飛来し翼を休める、当社是により祀る。社殿の造営は明応七年、鷺の宮と号す」とある。
 当地区は旧名広田村と称し、古くから田地として開発されていつ肥沃な土地であり、現在も白鷺の姿を多く見る所である。白鷺が田に下り稲を荒らしても、農民は決して追い払うことはせず、「お鷺様お立ちくだせい」といって去ってもらうという。また、誤っても鷺を殺すと口のきけない子供が出来るといわれている。
 祭神は日本武尊であり、古くは修験金剛院が当社の別当を務めた。明治二年神仏分離により、鷺栖神社と改称する。明治以降、当地の倉川家が神職となり、のちに松岡家がこれに代わって祀職を務めている。
 元禄一四年銘の棟札及び文政三年の修理棟札を有した旧本殿は、昭和四一年の台風により倒壊し、現在の社殿はその後の再建である。
 明治四二年一一月に字本村の榛名神社・諏訪神社、東の久伊豆神社、原の子宮神社、谷畑の天神社、三ヶ谷戸の八幡神社、堤の秋葉神社、六軒の日吉神社の八社を本殿に合祀している。
なお、合祀跡及び旧別当金剛院跡地は小作地としていたが、農地解放により失った。
                                                        「埼玉の神社」より引用

 拝殿上部には「筒粥神事」の進行を記した目録が張られている。
 215日の筒粥は、合祀前東の久伊豆社組の行事であったが、合祀後当社の行事となる。筒粥には、白米一升二合(閏年一升三合)小豆一合二勺(閏年一合三勺)竹又は篠(節なし)長さ一寸二分(閏年一寸三分)二九本が用いられ、神前(拝殿前庭)に竈作りと称し太い生木を三本左義長(サギッチョ)に立て、これを釡にかける。竹筒に粥が入った状態により二九種の作物の出来を占うという。
 
        拝殿上部に掲げてある扁額                       拝殿内部
 
    社殿の左側にある境内社 榛名神社       社殿の奥には弁天・塞神等の石祠が祀られている。
           
                           境内西側にある神楽殿 
              神楽殿の右側並びには幾多の伊勢講記念碑が並んでいる。
            
                                             埼玉県道の南側にある一の鳥居と社号標 
          
 広田鷺栖神社の一の鳥居から西側道路隅に「鴻巣市指定文化財 天然記念物」の指定を受けている『新井家の大榎』の大木・老木ある(写真左)。高さはそれ程ではないが、幹回り等、なかなかの貫禄があり、案内板(同右)によると天正19年に新井家のご先祖がこの地に定住した時点で、既に大木であったというのだから、推定樹齢は430年以上となろう。

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箕田2号墳(三士塚)、宮前宮登古墳

 箕田古墳群は鴻巣市にある古墳群で、大宮台地の北端部に位置し、東西800m、南北800mの広大な地域に渡って分布している。古墳は荒川・元荒川の沖積地に囲まれた標高16~18mの台地上に立地し、九基の古墳が確認されているが、現在は7基が残っているそうだ。その中でも箕田2号墳、宮登古墳が特に有名だ。
       
1 箕田2号墳(三士塚)
 所在地   埼玉県鴻巣市箕田(字九右衛門)1260
 区  分   鴻巣市指定史跡 1970年(昭和45年)3月10日
 埋葬者   不明
 築造年代 6世紀後半(推定)
 箕田古墳群の代表格のような古墳で別名「三士塚」。5号墳に次ぐ箕田古墳群第2位の規模をもつ古墳である。現状は直径23m、高さ3mを測る円墳で、墳丘の形状を良く残しているといわれている。周辺が宅地化されているにも関わらずこの古墳の辺りだけは緑に囲まれひっそりと佇んでいる。
           
箕田古墳群
本古墳群は大宮台地の北端部に位置し、東西800m、南北800mの広い地域に渡って分布している。古墳は荒川・元荒川の沖積地に囲まれた標高16-18mの台地上に立地し、龍泉寺・富士山・宮前・稲荷町の四つの支群を形成している。
今までに九基の古墳の所在が知られているものの、現在は1・3号墳が消滅しているため、わずかに七基の古墳が残っているのみである。しかし、付近一帯に埴輪片が採集される事実からすると往時は相当数の古墳が存在していたものと思われ、鴻巣市では生出塚古墳群と並んで最も多くの古墳が密集していた地域である。
発掘調査は昭和3年に柴田常恵氏によって7号墳が行われたのをはじめとして2・3・9号墳(宮登古墳、宮登神社内)で実施されており、須恵器有蓋高坏・はそう・埴輪・金環・切子玉・丸玉・鉄鏃等が発見されている。
箕田古墳群の築造年代は、出土遺物や最近の発掘調査より六世紀初頭から七世紀中葉の約150年間に及ぶことが判明している。

箕田2号墳
本墳は別名「三士塚」と呼ばれ、5号墳に次ぐ箕田古墳群第二位の規模をもつ古墳である。現状は直径23m、高さ3mと測る円墳で、墳丘の形状を良く残している。
昭和58年に隣接地で発掘調査が行われ、墳丘を巡る周溝が確認されている。それによると築造当時は、直径32mを有する大型古墳であったことが明らかになっている。また周溝より須恵器有蓋高坏・甕の破片及び埴輪片が検出されており、本墳は六世紀後葉に築造されたものであることが判明している。
なお、本跡の南側一帯は箕田館の推定地となっており、それに関連して本墳は武蔵守源任及び妻子の墓とする古記述がある。しかし、築造年代からするとこの記述を信用することはできず、おそらく後世に両者が結びついて伝承されたものであろう。
                                                           案内板より引用
 昭和58年の調査では、周溝(しゅうこう)が確認され、築造当時は32mの大型古墳であったことや、出土品から、築造年が6世紀末であることが判明している。またこの古墳に接して氷川神社の故地があり、「新編武蔵風土記」には「社(氷川神社のこと)の後に小塚あり、高さ六、七尺幅十二、三間、往年土人此塚を穿ちしに、古鏡太刀などの朽腐せしものを得たり、これ古へ貴人を葬埋せし古墳なるべしといへり」と紹介している。


2 宮前宮登古墳
 
 所在地   埼玉県鴻巣市宮前88
 区  分   鴻巣市指定史跡 1970年(昭和45年)3月10日
 埋葬者   不明
 築造年代 7世紀前半から中頃(推定)
                  
 宮前宮登古墳は宮登神社の奥に小じんまりと佇んでいる。通称箕田9号墳。よく見ると社の後方に箱式石棺の一部が露出していて、案内板には石室について記述されている部分もあり、それが石室の一部ではないかと思われる。
  発掘調査が1959年に行われ、埋葬施設は横穴式石室となっている。出土したものとして須恵器、土師器、切子玉、管玉、丸玉、鉄鏃などが知られている。
           
                 宮前宮登神社の鳥居周辺にあった宮登古墳の案内板
 宮登古墳
 箕田古墳群中の一基で、荒川に面する大宮台地の西側縁辺部に位置している。
墳丘の保存状態は比較的良好で、直径20m、高さ2m程を有する円墳である。昭和34年に埋葬部の発掘調査が行われており、それによると主体部は、角閃石安山岩を使用した胴張り型横穴式石室で、玄室長2.9m奥壁幅1.3m、高さ1.65mを有する。
 玄室内からは、須恵器はそう・鉄鏃・切子玉(水晶製)・管玉・丸玉他が出土しており、これらの遺物から七世紀の前半から中頃かけて築かれた古墳と考えられている。また、埴輪類は認められていないので、埴輪樹立の風習が行われなくなった以後のものであろう。
なお、石室に使われた角閃石安山岩は、群馬県榛名山二ツ岳の爆発によりできた岩石で、利根川流域に分布する。本墳を作った人々は利根川からわざわざこの岩石を運んだものであろう。
                                                           案内板より引用

 この案内版によると、この石棺使用された角閃石安山岩は群馬県榛名山の火山噴火でできた火山岩である。この角閃石安山岩とは、火山岩の1種類で、角閃石を含んだ安山岩をいう。 特に、古墳時代の群馬県においては、Hr-FP(榛名山の噴火)の噴火による軽石を指す。古墳時代に大量に石を必要とする古墳の石室や羨道造りに多数使われており、綿貫観音山古墳、総社二子山古墳を始めとした横穴式石室を持つ古墳によく用いられ、群馬県、埼玉県では120基以上の古墳で使用された。

 宮前宮登古墳は箕田古墳群の他の古墳と異なる系統の石材が使用され、周辺の支配者の系譜に何らかの変化があったのではないかと言われているが詳細は現在不明だ。

               

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箕田氷川神社、宮前宮登神社

 鴻巣市箕田地区は北足立(大宮)台地と呼ばれる舌状台地の北端部に位置していて、標高16m~18mの微高地の台地に立地し、古くから開けた肥沃な土地であったようだ。鴻巣という地名自体、国府の洲の意で、ここに国府か郡衙 が一時的にせよ、かつてあったのではないか、という説がある。確かに、鴻巣は埼玉古墳群にも近く、 郡衙があった可能性は否定できない。確かにこの地域には箕田古墳群があるように古墳の多い地域として有名であり、郡衙がある、なしという議論の余地はあるにしても、ここに一大集落地が存在していたことは確かなようでである。

所在地    埼玉県鴻巣市箕田1260
御祭神    素盞嗚尊
社挌、例祭  箕田村鎮守だったらしい。その他は不明

       
 箕田氷川神社は箕田氷川八幡神社の北西方向約300mに位置し、今は小さな社が古墳上に鎮座している。県道365号鎌塚鴻巣線と武蔵水路が交わる中宿橋を17号方面に向かい、最初にT字路を右折ししばらく進むと左側に箕田氷川神社が見えてくる。ただ社は本当に小さく、鳥居があるためそこが神社であることを認識できる程度で、鳥居がなければ完全に古墳に見える。
 この社は、氷川八幡神社の境内掲示によると、承平元年(966)六孫王源経基が勧請したものだといわれ、江戸時代には箕田村の鎮守社となっていたが、明治時代以降、氷川八幡神社に合併され、宗教法人としては消滅してしまったという。
 
    道路沿いにある箕田氷川神社の鳥居                古墳上にある本殿
 本跡の南側一帯は箕田館の推定地となっており、それに関連して本墳は武蔵守源仕及び妻子の墓とする古記述がある。しかし、築城年代からするとこの記述を信用することはできず、おそらく後世に両者が結びついて伝承されたものであろう。

氷川社
 村の鎮守なり。社の後に古塚あり。高さ6・7尺幅12・13間。往年土人此塚を穿ちしに、古鏡太刀などの朽腐せしものを得たり。これ古へ貴人を埋葬せし古墳なるべしといへり。村持。
 末社
 諏訪社。稲荷社                                (新編武蔵風土記稿掲示より引用)

 

 箕田氷川神社が鎮座するこの「箕田」という地名は、東京都、埼玉県広域、神奈川県北部である武蔵国足立郡箕田庄が起源(ルーツ)であるという。また「みた」は東京港区の三田とする説もある。さらに遠いところでは三重県鈴鹿市上箕田町・中箕田・下箕田地域もその候補もあり結論がでていない。埼玉苗字辞典には「ミタ」について以下の記述がある。

三田 ミタ 三は未(み)の佳字にて、未(ひつじ)は渡来人の総称を羊(ひつじ)と云う。田は郡県・村の意味。渡来人羊族の集落を三田、見田、美田、御田、箕田と称す。

 この「羊=ひつじ」の名は物部氏の祖神の名である経津主(ふつぬし)の転という説もあり、渡来人系と一概に決めつけることは危険だ。政略によって物部氏本家は滅び、一部の物部氏は古代東国に物部氏を名乗る人物が地方官に任ぜられている記録がある。その零落した姿が羊太夫であるとも想像もできるのだが、今のところ詳細は不明だ。


所在地    埼玉県鴻巣市宮前88
御祭神    誉田別命  相殿  聖権現(道主貴神)
社  挌    旧村社
例  祭    不明           
            
 箕田氷川八幡神社から埼玉県道365号鎌塚鴻巣線を東に進み、宮前交差点を右折するとその近郊に宮前宮登神社が鎮座している。この宮登神社は、箕田の八幡神社を分霊し、現在は八幡神社となっているが、江戸時代は聖権現社といった。
 ちなみに新編武蔵風土記稿ではこのような記述をしている。

 聖権現社
 村の鎮守なり。天長年間紀州高野山の僧当所光徳寺を開基せしゆへ、彼聖を崇てかく祀ると云。光徳寺持。末社に弁天庚申の二社あり。
 
            
   鳥居の前にある何となく味のある社号標                参道正面より撮影
 
              拝   殿                            本   殿
                       
                 拝殿から本殿方向を撮影、よく見ると祭神が2柱ある。
               思うに、誉田別命と相殿である聖権現(道主貴神)であろう。
 箕田氷川神社と箕田氷川八幡神社のラインをそのまま南東方向に延長すると宮前宮登神社にぶつかる。偶然なのか宮前宮登神社の参道の先は箕田氷川八幡神社社殿に繋がる。不思議なラインがここにも存在する。

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