古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

大麻生大榮神社

所在地    埼玉県熊谷市大字大麻生字西河原454
主祭神    菅原道真公、そして日本武尊、他14柱
社  格    旧村社        
由  緒    
旧五社稲荷神社が境内に存在していた。大正2年中郷地区の八荒神社
        
と駒形神社、西河原の浅間神社と天神社、そして武体の天神社を合祀して
        
現在の大榮神社として改称する。
        
大正3年10月7日、神饌幣帛料共進神社に指定。
例  祭       4月  例大祭 
       
 埼玉県道47号深谷東松山線を東松山方向に進み、三尻農協前交差点のY字路を左折する。国道140号バイパス、いわゆる彩甲斐街道を抜け、国道140号(秩父往還道)の交差点を左折し300m程進むと左側に大榮神社が鎮座している。神社の隣に社務所があり、駐車場スペースがあったのでそこに停め参拝をする。熊谷では珍しい神明造りの社である。
           
 現在の社殿は決して古くはなく、昭和3年に改築したものらしい。その際に、神明風の社殿にしたようだ。深谷市高島に鎮座する、生品神社に似ている。また河川の洪水対策として石垣による基礎を高くしているのがわかる。ちなみに石垣として使用した石は、荒川の自然石とのこと。
   
 参道を進むと左側には石碑(写真左)があり、左から小御岳神社、御岳神社、白山大権現が祀られている。またその奥には合祀社(写真右)もあり、左から産泰神社、浅間神社、駒形神社、 天神社、五社稲荷神社、八荒神社が鎮座する。
           
                              拝    殿
           
                              本    殿
             
 社殿の左側を通ると、すぐ先に弓場跡と彫られている立派な石組があった。熊谷市玉井地区には玉井大神社が鎮座しているが、そこでは「オビシャ」と言われる神事があり、元々は弓を射てその年の豊凶を占う神事だったようだ。またここ大麻生から西に3km程行った深谷市菅沼に鎮座する菅沼天神社には「天神社的場の儀と言われる神事があり、これらは偶々偶然だったのか、それとも何かしら関連性があるのだろうか、現時点では不明だ。

 また弓矢跡の奥の囲いの中には立派な御神木がある。
  何百年も何千年も生き続ける大木の傍らに立つと、太古の日本人の姿を見るような気がして、つかの間、タイプトリップした気分になるときがある。この巨樹、巨木は何百年も前からこの地に存在して、戦争も嵐も大水も、苦しみも悲しみも喜びも、すべてを目にしてきたのだ。何も言わず、ただ静かに屹立する孤高の姿、その圧倒的な存在感を前にして、畏怖と尊敬の念を抱かない日本人はまずいないだろう。
 この御神木と言われる巨樹、巨木は社にとって象徴的存在であり、また地域のシンボルとして人々の心のよりどころでもあり、未来永劫保全すべき文化遺産ではあるまいか。


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久保島大神社


                                
                     ・所在地 埼玉県熊谷市久保島471
                     ・主祭神 大山祇神 伊弉諾命 伊弉册命
                     ・社 格 旧久保島村鎮守・旧村社
                     例 祭 不明
 東別府神社から南方向に向かうと高崎線の籠原貨物ターミナルの踏切があり、その南西側に久保島大神社
が鎮座している。延喜式内社楡山神社の論社ではあるが由緒等不詳である。一の鳥居の右側に駐車スペースがあり、そこに停めて参拝を行った。
            
                                                       村社・久保島大神社の社号標
        
                                                          正面一の鳥居 
                                                       すぐ先に二の鳥居が見える。
            
                                             一の鳥居を越えるとすぐ先に二の鳥居あり
                   
                       二の鳥居前左側にある両部鳥居の由来案内板(2025年6月25日撮影) 
 久保島大神社鳥居の由来
  所在地 熊谷市久保島471-2
 平成16年12月解体した際に、柱のほぞから願主と大工の名前とともに、嘉永2己酉年(1849)4月吉日の建立を示す墨書が発見されました。
 建立以来156年ぶりに立て替えられた鳥居は、明神鳥居の中でも両部鳥居と呼ばれ、笠木が反り返っている曲線構造です。柱は転びと言われ少し斜めになっており、補助の控柱で支えているのが特徴外です。
 世界遺産で知られる厳島神社の鳥居と同じ型で、熊谷市内でも木造鳥居として極めて重要です。
平成17年4月15日
                                                            案内板より引用
            
                                拝 殿
 久保島大神社  熊谷市久保島四七一
 かつて、熊谷市近辺には八島八河原といって、「島」と「河原」の字のつく地名が八か所ずつあった。当社の鎮座する久保島もその一つで、江戸時代までは窪島とも書かれ、古くは東西二村に分かれていたという。(久保島を東西二村に数えなければ「八島」にならない)
『風土記稿』久保島村の項に、「村の鎮守」として、山神社と神明社の二社が挙げられているのも、このように村が東西に分かれていたころの名残で、観照院が別当を務める山神社は西久保島の鎮守、大光院が別当を務める神明社は東久保島の鎮守であった。このうち、山神社については『延喜式』に見える楡山神社であるとの伝え(『風土記稿』はこれを疑問視し、「楡山神社は原ノ郷にある熊野社ならん」としている)もあり、延享三年(一七四六)には極位を受け、正一位山神大権現と称した。なお、この時の宗源祝詞には、瓜と夕顔の種を播くことの許しを乞う一節が見え、興味深い。
 明治に入ると、どんな理由からか、地内にあった尊乗院持ちの聖天社が二柱神社と改称して村社になり、山神社・神明社は共に無格社にとどまった。しかし、明治四十二年、政令により、一村社とすべく、無格社ながら規模が最も大きい山神社に、二柱神社及び神明社をはじめとする無格社七社をそれらの境内社と共に合祀し、山神社を村社に昇格の上、改称して、ここに久保島大神社が誕生したのである。
                                                       「埼玉の神社」より引用                   

             
                                  本  殿
『新編武蔵風土記稿 久保島村』
 山神社 村の鎭守なり、當社は【延喜式】内楡山神社なりなどいへど疑ふべし、楡山神社は原ノ郷にある熊野社ならん、見るべし。別當観照院 天台宗、埼玉郡上中條村常光院末、阿彌陀寺と號す、開山榮順正保三年十月寂せり、本尊阿彌陀、
 神明社 是も村の鎮守なり 別當大光寺 同末、明珠山願成院と號す、開山秀海寂年を傳へず、本尊薬師、

 江戸時代には山神社或いは山神大権現と称しており、御祭神は大山祇神と伊弉諾尊、伊弉冉尊。他に橘姫命と倉稲魂命、建御名方命、誉田別命、大日霊貴尊、素盞嗚尊、大雷神、軻遇突智命、天手長男神が祀られているのだそうだ。
 
   拝殿の横の庚申塔(2025年6月25日撮影)              境内社 稲荷社と三峰社
 久保島大神社が鎮座する「久保島」という地名の語源は「窪+地」つまり、乱流河道の中に取り残された低地の中にある微高地という意味である。このような地形の形成の最大の要因は元荒川にあった。この元荒川は埼玉県熊谷市佐谷田を管理起点とし、おおむね南東へ向かって流れ、行田市、吹上町、鴻巣市、川里町、菖蒲町、桶川市、蓮田市、白岡町、岩槻市を経由して、最後は越谷市中島で中川の右岸へ合流する現在では静かな河川であるが、江戸時代以前は荒川本流として文字通り「荒ぶる川」、として悪名高く、古くから洪水による災害が発生している。荒川は、名前の由来「荒ぶる川」のとおり、大変な暴れ川だった。
                    
                           境内に聳え立つご神木
     
 この荒川は、水源から河口に達する距離が短く勾配も急で、特に峻嶺な水源地帯は多雨・多雪地帯であることから、古くから洪水による災害が発生している。特に熊谷市の付近は、荒川扇状地の扇端部であり、荒川の河床勾配は急激に緩やかになるので、土砂の堆積作用が顕著となり、近世以前には多くの派川が形成されていたと思われる。寛永6年(1629)の荒川の瀬替えによって、荒川が熊谷市久下付近で締め切られるまでは、名前が示すとおり、元荒川は荒川の本流であり、そして近世以前の荒川は利根川の支流だった。
 荒川と利根川は長い間、埼玉内部の平野地を蜘蛛の巣のように乱流して流れていて、洪水などの度に自然に流路を変えていた為、開発も極端に遅れたろう。特に元荒川と古利根川の間の地域はその苦労が思いやられる。
            
                 
 「久保島」という島が付く地名の由緒を辿って、結果的に「荒川」の歴史というかなり脱線気味な考察となってしまったが、それもまた一興だ。ただ知ってもらいたい。地名一つを調べるとそこには何百年という歴史があり、その淵源は大変深いものなのだ。また我々はその事実を素直に理解し、それを未来に託す義務があることも忘れてはならない。



                    

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須影愛宕神社、須影諏訪神社

 京都府京都市右京区にある愛宕神社は全国に約900社ある愛宕神社の総本社である。現在 は「愛宕さん」とも呼ばれる。火伏せ・防火に霊験のある神社として知られ、「火迺要慎(ひのようじん)」と書かれた愛宕神社の火伏札は京都の多くの家庭の台所や飲食店の厨房や会社の茶室などに貼られている。
 有名なところでは、天正10年(1582年)5月、明智光秀は戦勝祈願のために愛宕神社に参蘢し、本能寺の織田信長を攻めるかどうかを占うため御神籤を引き、3度の凶の後、4度目に吉を引いたという。翌日、同神社で連歌の会(愛宕百韻)を催したが、その冒頭に詠んだ歌「時は今 あめが下しる 五月哉」は光秀の決意を秘めたものとされる。
 羽生市にも愛宕神社が数社存在し、この須影地区にも小規模ながら鎮座している。

所在地   埼玉県羽生市須影495付近
御祭神   火之迦具土神(かぐつち)(推定) ※[別記]火産霊神(ほむすびのみこと)   
社  挌   不明

        
 須影八幡神社から南へ歩いて行くと、須影公民館の南西で、羽生警察署 須影駐在所の西側に愛宕神社がある。こんもりとした小山の上にある本当に小さな社だ。一見古墳と思われるような印象を持つが、ネット等で調べても古墳ではないようで、おそらくこの塚は人工に盛ったものと思われる。思うにあたり一面の砂丘を利用し、土を盛ったようだ。
            
                愛宕神社正面。この社は一面の砂丘が非常に印象的。
 『風土記稿』には「(須影)八幡社 村の鎮守なり、慶安2年8月24日社領19石5斗余と賜ふ、別当真言宗蓮華寺」とある。別当最期の住職潮元は、安政4年から慶応元年まで8年の歳月を費やして、今日の本殿と拝殿を造営している。
(中略)
明治4年に村社となり、同40年には村内の白山社、愛宕社を合祀する。ただし愛宕社は災厄を恐れる旧氏子の要請により返還されて今はない。

 と書かれている。この愛宕社は村内と記載されている所から見てもこの須影愛宕神社ではないか、と思うがどうだろうか。

 
 須影愛宕神社の鎮座する須影地区一帯には「会の川」という河川が流れていた。この会の川は延長約18Kmの中川水系の普通河川で、羽生市上川俣付近を起点とし、旧忍領と旧羽生領の境界に沿って南下し、羽生市砂山で流路を東へ変えてからは、羽生市と加須市の境界に沿って流れる。最後は加須市南篠崎と大利根町北大桑の境界で、葛西用水路の右岸へ合流する。
 この会の川流域には日本でも大変珍しい内陸の河畔砂丘が存在する。会の川の流路に沿って自然堤防が発達しているが、その上には赤城おろし(冬の季節風)によって運ばれた砂が堆積し、砂丘を形成している。その中でも最も大きいのが、幅最大300m、延長3kmの志多見砂丘で、一部が埼玉県の自然環境保全地域に指定されている。
             
 近世以前の会の川は利根川の派川だったので、かつては相当な川幅と水量があったと思われ、しかもかなり老朽化した河川だったようで、沿線には広範囲に氾濫跡の自然堤防と内陸砂丘(自然堤防の上に砂が堆積した河畔砂丘)が分布している。利根川の土砂運搬作用と堆積作用、それと季節風によって形成された地形である。それらは羽生市と加須市の境界を流れる付近で顕著であり、特に内陸砂丘は羽生市上岩瀬、砂山、加須市志多見にかけて広範囲に分布している。

 この羽生市上岩瀬、砂山、加須市志多見地区の河畔砂丘は何時形成されたのだろうか。資料等の見解によると鎌倉時代にできたといわれている。というのも春日部市の浜川戸砂丘の砂の下から平安時代終わりの土器が出土しているのに対し、砂丘の上からは弘安6年(1283)と記された板石塔婆が出土している。
 したがって平安時代末から鎌倉時代前半に限定される可能性が高いといえる。しかしなぜ限られた時期に河畔砂丘が形成されたのかは今現在、正直なところ不明のようだ。

 須影愛宕神社は社自体は非常に小さい規模であるが、河畔砂丘という全国でも珍しい地形の上に鎮座していることを考慮して、今回特別に掲載した次第だ。


 須影愛宕神社の東側には須影諏訪神社が鎮座している。須影愛宕神社と同じ小高い山の頂上に祠の本殿がある。
所在地    埼玉県羽生市須影
御祭神    建御名方命(たけみなかた)(推定)
社挌、例祭 不明
             
 須影諏訪神社は小高い丘の上に鎮座しているので一見古墳か?と思ったが、須影愛宕神社同様、おそらく人口に盛ったものと思われる。小さな祠が山頂付近にあるだけなので案内板もなく、故に由緒等は不明。

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小松三神社

 平 重盛(たいら の しげもり)は、平安時代末期の武将・公卿。平清盛の嫡男。 保元・ 平治の乱で若き武将として父・清盛を助けて相次いで戦功を上げ、父の立身に伴って 累進していき、最終的には左近衛大将、正二位内大臣にまで出世した。
 嫡男ではあったが継室の時子の子である宗盛や徳子とは母が異なり有力な外戚の庇護はなく、室が藤原成親の妹・経子であったため、成親失脚後は一門のなかでは孤立気味であった。ただ重盛は温厚・誠実な人柄で後白河院の信任も厚く、『平家物語』において平氏一門の良識派的な存在とされていることも、その人柄が後世に伝わっていたことによると思われる。
  清盛の後継者として期待されながらも、清盛と後白河法皇の対立では有効な対策を取ることができないまま、父に先立ち病没した。享年41歳。し、歴史のイフが許されるとして重盛が長生きしていたとしたら、平氏の歴史は違った形で存続していたのかも知れない。 重盛の死の2年後には父清盛が、さらに4年後には壇ノ浦にて平家は急転直下に滅亡することになる。
 ちなみに重盛は六波羅小松第に居を構えていたことから、小松殿ないし小松内大臣と称された。

 羽生市小松地区は元々平氏の荘園があったとされ、それ所以か小松三神社は承安年間(1171~1175)小松内大臣重盛が当社に熊野白山両権現を勧請したのが始まりという。

所在地   埼玉県羽生市小松280
御祭神   伊弉諾命,伊弉冉命,小松大明神(小松内府平重盛公)
社  挌   旧郷社
例  祭   7月15日夏季例祭・7月31日大祓祭(輪くぐり)・11月23日献穀祭

       
 
 小松三神社は国道125号行田バイパスを東に進み、国道122号と合流する前の小松交差点を左折し、約500m北上すると左側に赤い立派な鳥居が見えてくる。よく見ると東向きの鳥居から真っ直ぐ進む道があり、南側に松林があるところから、この鳥居の前の道は嘗ては社の参道だったのだろう。
 鳥居の脇に駐車場があり、そこに停めて参拝を行った。
         
鳥居の先、右側には「郷社 小松神社」の古い社号標があり(写真左)、神社の北側には弁財天が祀られている。(写真右)
           
                 鳥居の扁額には「小松三神社」と表記されている。
    
 案内板によると、小松神社は、熊野白山合社と小松大明神を合わせて、小松三神社と呼ばれていたそうだ。新編武蔵風土記稿では、「羽生領七十二ヶ村の鎮守となり」と書かれ、この地方では信仰を集めていたらしい。
           
           
                              拝   殿
           
                              本殿覆屋
           
          本殿覆屋の中の本殿は、白山神社(左側)、熊野神社(右側)が並んで鎮座

 今を遡り、景行天皇の代(55年)日本武尊が東征の途次小祠を建立し、伊弉諾命・伊弉冉命に二柱を祀ったと言われ、承安年間(1171〜75)の小松内府・平重盛が没し埋葬地の目印に銀杏が植えられ、脇に小松大明神として祀られ、この時代に社殿が創建されたと伝えられている。
 天文5年(1536年)に、羽生城主・木戸忠朝と館林城主・広田直繁が奉納した「三宝荒神」が鎮座している。
 慶安元年(1648年)羽生領72町ヶ村の総鎮守となり、家内安全、商売繁盛、交通安全祈願まで多くの氏子から崇められている。
 また「新編武蔵風土記稿」小松村の項には「熊野白山合社 羽生領七十二ヶ村の鎮守なり、社領二十石は慶安元年七月十一日賜へり、勧請の年代を伝へされど、古は大社にて、宝蓮坊・安養坊・善林坊・宝珠坊・不動坊・山本坊・明見坊等の供僧ありしと云伝へ 以下略 末社 小松明神 重盛をまつりし社と云う、と記述されている。
           
                      社殿の北側に鎮座する小松大明神
 本殿内にある白山神社、熊野神社、そして小松大明神の三社で小松三社と称した。小松三神社内にある小松大明神の由来として、重盛が治承3年(1179)に没し、重臣の筑後守貞能は出家し、追善の為に小松寺を造営、遺骨は重盛が日ごろから崇拝し、自らが勧請した熊野白山両権現のそばに埋葬され、目印として銀杏を植え、脇に小松大明神が建立された。なお、小松と称する所は、当地に限らず下総・加賀・出羽の国々にもあり、それぞれに小松寺が建立されているが、これは小松内府重盛の霊を慰めるために造営されたものといわれる。
                 
                   小松大明神の脇にある小松三神社の銀杏
 平凡社「埼玉県の地名」によると、天和2年(1682)に鋳造されたと伝える銅鐘の銘文の写しが神社に残っているらしい。それには次のようなことが記されているという。
 承安年間(1171~75)、小松内府平重盛(たいらのしげもり)が当地に熊野・白山両権現を勧請、本地仏として阿弥陀如来・十一面観音を安置した。重盛没後、重臣筑後守平貞能が出家して小松寺を建立。重盛の遺骨は両権現のそばに埋葬して、目印のためにイチョウを植えたという。真偽の程は定かでないが、幹の太さといい、かなりの年代物の巨木であることは確かだ。

 小松三神社は嘗て羽生領72町ヶ村の総鎮守だった故に上記の弁天社他、境内には浅間社、日枝社、
伊奈利社等、多数の境内社、合祀社が存在する。
 
 
 

 羽生市を含む埼玉県の東部は、関東平野のほぼ中央部に位置し、利根川や中川にそって上流から妻沼低地、加須低地、中川低地と続き、低地に囲まれるように大宮台地が大きな島状にある。このうち加須低地は、利根川中流域の低地のひとつとして南の大宮台地と北の館林台地の間に位置している。
 ところが加須低地の場合、ほかの低地とは少々違う点があり、 ひとつは自然堤防と思われる微高地の地表のすぐ下からしばしばローム層が発見されることだ。通常低地の浅い部分の地下にローム層が存在することは一般では考えられないことで、しかもなぜか微高地の下にローム層があり、後背湿地の下からは見つからない。ふつう自然堤防と後背湿地の構造的な違いは表層部付近だけであり、地下はともに厚い沖積層が続くものといわれている。
 もうひとつは後背湿地と思われる部分の一部では軟弱な泥炭質の層が著しく厚いことだ。代表的なのは羽生市三田ヶ谷付近(現在さいたま水族館がある付近)で、泥炭質の層が10mもある。水はけが悪くぬかるため、縦横に溝を掘った堀上田と呼ばれるこの地域独特な田んぼがかつてはあちこちで見られた。

 さらに、昭和54(1979)年、羽生市小松では地下3mから古墳の石室が発見され、古墳が沖積層の下に埋没していることが調査の結果判明した。また行田の埼玉古墳群や真名板高山古墳なども本来台地の上につくられたものが、2、3mの沖積層(古墳が築かれた後に堆積した土砂)で埋まっていることが明らかとなった。
  これらのことから、加須低地のすぐ下には台地が隠れている(俗に埋没台地という)ことが分かり、加須低地は沈んだ台地の上にできた特殊な低地だった。埋没台地の存在は加須低地を特長づけるもので、台地性微高地や谷地性低湿地は加須低地の特異な地形という。

 
 小松三神社周辺には嘗て小松古墳群が存在していたという。が、この利根川の乱流、氾濫による土砂の堆積と、関東造盆地運動と言われる沈降により現在は埋没古墳となり、地下2,3m掘らなければ発見できないという。実際にこの古墳の存在は、下水道工事で偶然発見されたのだ。小松埋没古墳は、完全に埋没しており、その形態が前方後円墳なのか円墳なのかもわかっていない。石室は地表から1.2mのところにあり、床面までは3mという深さだった。小松1号墳と命名、発掘調査が実施された。
 

  • 小松1号墳
    • 標高17.9m、地表下1.2mから主体部が発見された。主として角閃石安山岩を用いて構築され、奥壁まで胴張りがある複室構造の横穴式石室で、ほぼ南向きに開口している。石室の規模全長4.68m、高さ2m。床面には拳大の河原石が敷き詰められている。
    • 大刀2、鉄鏃2、瑪瑙製勾玉1、水晶製切子玉7、碧玉製管玉1、ガラス製丸玉6、滑石製臼玉1、ガラス製小玉121、耳環6が出土。このほか骨、歯、赤色顔料が確認されている。遺物は平成25年3月26日付けで羽生市有形文化財(考古資料)に指定された。

 石室の構造、副葬品の検討から7世紀前半の築造とみられる。

 古墳を埋めてしまう力が河川にはある。事実、真名板高山古墳は現状90.5mの中型古墳だが、築造当時は127mの埼玉地方でも二子山古墳に次ぐ大型古墳で、周囲には深さ2メートルもの二重堀が張り巡らされたのである。河川は大いなる災いを齎す破壊者でもあり、また平和時であれば人々に恵みをもたらす幸福の使者でもあった。

 それ故に河川を制する者は、土地をも制することが可能となる。埼玉古墳群の王者のように。



 


 

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本郷藤田神社

  藤田氏は武蔵七党の猪股党の出で、政行が同国榛沢郡藤田郷に拠って藤田を称した。行康は源平合戦の一の谷生田森の戦いで討ち死。その子能国・孫能兼は承久ので活躍した。このとき能国が院宣を読み上げ、文博士といわれた。一族は幕府の問注所寄人であった。
 南北朝期武蔵守護代であった大石氏と、藤田氏は姻戚関係があり、武蔵平一揆の乱で能員は勲功を挙げた。永亨のころ、宗員は藤田郷内の聖天堂を興隆している。その妻紀香は岩田氏の出身で、所領を鎌倉円覚寺に寄進。
 長亨の乱で山内・扇谷両上杉氏が同国須賀原・高見原で戦ったとき藤田三郎は長尾景春にくみして戦った。永正のころ、藤田虎寿丸が神奈川権現山合戦に山内上杉憲房に加わっている。その憲房と北武蔵に進出した北条氏綱が対陣したとき、藤田右衛門佐は憲房の使者をつとめた。
 天文初年藤田右金吾業繁は「郡主」を称し、藤田小三郎は「鉢形」にあった。同十五年、川越合戦で北条氏康に敗れた上杉憲政は、上野平井に逃れ、藤田右衛門佐は大石定久と氏康に降った。
 史料に拠れば右衛門佐は康邦とある。氏康の子氏邦はその女を妻とし、藤田氏を継ぎ、秩父郡天神山城から鉢形城に移り、鉢形領を支配した。後北条氏の上野進出では先鋒となり、沼田城代に猪股邦憲を置いた。家督を譲った康邦は用土村に移って藤田を用土に改姓したという。
 その用土地区北方で、旧岡部町本郷に藤田神社は鎮座している。

所在地   埼玉県深谷市本郷1525
御祭神   伊弉諾尊 伊弉冉尊
社  挌   不明
例  祭   10月14日(秋季大祭)

   (後述 「大里郡神社誌」によると社格は旧村社であったのでここに訂正する。)
        
 本郷藤田神社は埼玉県道75号熊谷児玉線を児玉方向に進み、針ヶ谷地区を越えた本郷駐在所前交差点を左折し、そのまま道なりに行くと2、3分で右側に鎮座する。この社は道沿いにあり、境内は広く奥行きもある。境内北側には社務所があり、そのすぐ隣には駐車スペースもありそこに車を停めて参拝を行った。
           
  道路沿いにある一の鳥居、その奥には二の鳥居がある。一の鳥居の左側には社号標が屹立している。
           
                       鳥居を越えると長い参道が続く。
 
          参道左側には神楽殿                                         右側には境内社、飯玉社か

 藤田神社の獅子舞は、例大祭に合わせ、7月第3土曜日及び、10月中旬に行われている。この獅子舞は法眼、男獅子、女獅子の3頭からなり、神社の夏祭りや秋祭りで奉納される。秩父の皆野­より江戸時代に伝授されたと伝わり、雨乞いや悪疫退散祈願を目的に奉納されてきたもの­である。またある説では慶長5年(1600)、地頭花井伊賀守が、疫病退散のため、左甚五郎作の獅子頭を藤田神社に奉納したことによるとも言われている。
 この藤田神社の獅子舞は、深谷市指定無形民俗文化財に昭和51年11月3日に認定を受けている。
           
                               拝   殿
           
                              本   殿
 延暦(782~806)の昔、坂上田村麿将軍の東夷征伐の途中、藤田社に詣でて武運を祈ったという。そのとき持っていた藤の鞭を地上に逆さまに挿し、「我が軍利あらば繁茂せよ」と誓うと、その藤の鞭に根や葉が生じ、やがて将軍に軍功をもたらしたという。逆藤の旧跡は、現在も伝わっている。
 用土は戦国時代に藤田重利が隠居の後に移り住んだ地でこの地に居城(用土城)し、鎮守の社として藤田神社を創立したともいい、康邦夫婦と祖先正行の三霊を祀ったとという説もある。藤田神社は現在深谷市本郷にあるが、古くは字藤の木にあったらしく、その後明治3年に字中村に遷祀、明治41年に飯玉大神社の境内だった現在地へ移転し、従来の飯玉大神社は境内神社とされた。

 藤田氏は戦国時代には関東管領上杉氏の重臣で鉢形城主だった。しかし、天文15年(1546)の川越夜戦に上杉方が敗北すると、多摩の豪族、大石氏と共に北条氏康に降伏し、氏康の三男氏邦を養子として家督を譲る。自らは鉢形城を出て当主の座を譲り、平野地で防御力の低い用土に館を構え、名も北条氏康の「康」、北条氏邦の「邦」の字を合わせ「康邦」と名乗った。(または名乗らせられた)
 その後康邦は用土城に入ると改名して用土新左衛門と名乗ったという。         

       
 社殿の右側にある合祀記念碑、社日、石祠群。石祠は右から外宮、内宮、天神社までは判別できるがその他は正面が削られて解らず。
          
                 社殿右側にある合祀社群、その奥にある境内社

 藤田神社の散策記を記していて、その途中から寄居町の地図を見ると、不思議に思うことがある。地図を見るとよくわかるが、この用土地区は、現在の寄居町行政区画でも寄居町の中心部から大きく北にかけ離れ、いわば「飛び地」のような形を形成しているのだ。
 上記の通り、藤田氏は武蔵七党の猪股党の出で、政行が同国榛沢郡藤田郷(現寄居町藤田)に拠って藤田を称したという。寄居町末野陸橋付近にあたる。歴史が下り、藤田氏はそれ以降後北條氏の関東進出まで着実に勢力を伸ばし、その勢力は現在の寄居町の天神山城を拠点として、最盛期には大里・榛沢・男衾・秩父・那珂・児玉・賀美に及ぶ広範囲であり、北武蔵国随一の豪族に成長する。その寄居町の英雄である戦国時代の藤田氏の因縁の地であり、また終焉の地が用土地区なのだ。
          
                      静かに鎮座する藤田神社境内
 藤田康邦は重連・信吉という二人の子を連れて用土城に引退し、名を用土新左衛門尉と改め、氏邦の命令を家臣に伝達する立場となったが、その地位も次第に低いものとなったであろう。北条氏側から見ても藤田氏は邪魔者でしかなかったようで、康邦は天文24年(1555年)に亡ったが、その長男であり、名目とはいえ藤田家直系当主でもあり、北条氏邦の義兄である沼田城代、用土重連は天正6年(1578年)氏邦によって毒殺されたといわれる。
 用土は藤田氏の起源からその終焉を語る上においても重要な地であり、この地を寄居町側は決して手放したくない、そんな思いがこの行政上の区画割にも伝わる。 


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